みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

終戦に思う―今、民主主義を鍛え直す/新たな「災後」の生と死

2011-08-15 08:30:56 | 花/美しいもの
福島原発事故から5か月を過ぎたけれど、
いまだ終息しているとはいえない状況。

事故直後とさほど状況は変わっていないと思うのだけど、
テレビニュースや報道もめっきり減って、
原発事故をないことのように暮らしているわたしたち。

政府の動きも遅くて、じれったい。
放射線の被ばく線量の上限も、生涯で100ミリシーベルト浴びても
だいじょうぶ、という基準のままだ。
これで国民が納得させられるとはおもわないけれど、
影響が出るのは数年後から数十年後だから、
その時になって、実は・・・というのだろうか。
それとも因果関係が分からない、と突っぱねるのだろうか。
多くの公害訴訟のように。

歴史は繰り返す、というが、
わたしたちは、過去からちっとも学んでいないような気がする。

つい数ヶ月前、メルトダウンを隠していた政府と東電の言うことなんて、
信じられない、のは、私だけ、なのだろうか。

  【社説】被曝の線量―政府全体で見取り図を

福島第一原発事故による放射線への対処について「がんが増えるなど健康への影響が出るのは、生涯で累積100ミリシーベルト以上被曝(ひばく)した場合」という基準案を、内閣府の食品安全委員会が示した。
 食品を通して体内に取り込まれる放射性物質による内部被曝と、外界からの外部被曝とをまとめて、この範囲に収めるべきだと提案するものだ。
 日本人が1年に浴びる、平均約1.5ミリシーベルトの大地などからの自然放射線、そして、エックス線撮影など平均約2.3ミリシーベルトの医療被曝は計算から除かれる。
 「生涯の累積」という言葉はずっしりと重い。どう測るのか戸惑う人も多いだろう。なぜ食品安全委からとも戸惑う。
 食品安全委に対する厚生労働省の諮問は、食品に含まれる放射性物質の健康への影響についてだった。原発事故後、野菜や水などの汚染が明らかになり、厚労省は3月、食品中の放射性物質のとりあえずの規制値を決めた。その評価を求めたのだ。
 ところが委員会の作業部会で検討したところ、食品による影響だけを論じた資料は少なく、内部と外部の被曝を分けて評価することはできない、という結論に達したという。
 100ミリシーベルトの放射線量とは、国際放射線防護委員会(ICRP)が、発がんのリスクが科学的な証拠で明らかだと定めたレベルだ。
 作業部会はまた、具体的な数値は示さなかったが、子どもや胎児は大人より影響を受けやすいので留意が必要とまとめた。
 この案は、パブリックコメントを求めたうえで、正式な決定になる運びだ。だが、この基準をもとにどうやって食品の規制値を決めるのか、厚労省も頭を抱えている。
 それも無理はない。
 実は、内部被曝と外部被曝をまとめて放射線の健康影響を考えている部門が政府内にないのだ。厚労省は食品からの内部被曝、文部科学省は学校の校庭などからの外部被曝と、まさに縦割りだ。
 本来なら、政府として、環境や食品からの被曝を全体でとらえて減らしていく方策を考え、それを受けて各省庁が具体策に取り組むべきだろう。
 ICRPは、緊急時の被曝について、社会生活などとのバランスでふだんよりは高い目安を決め、そこから減らしていくべきだという考えに立っている。
 食品安全委の問題提起を重く受け止め、政府として全体の見取り図を示す必要がある。


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ここ数日、テレビも新聞もみてなくて、
新着情報はもっぱらネットで仕入れている。

あんがい、テレビも新聞もなくても平気、かもしれない。

【社説】終戦に思う―今、民主主義を鍛え直す

2011年8月14日 朝日新聞

「進歩のないものは決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。……今目覚めずしていつ救われるか」。青年士官がつぶやく。
 戦艦大和(やまと)は昭和20年春、帰還のあてない特攻出撃を命じられた。青年士官とともに乗艦した吉田満(みつる)が一部始終を書いた「戦艦大和ノ最期」にある。
 青年士官は、無駄死にを強いたに等しい国でも、せめて、未来には希望を託したのだろう。
 しかし、私たちは、進歩し、目覚め、救われたのだろうか。明日、敗戦から66年。

■今目覚めずしていつ
 敗戦間際の8月、学徒出陣で見習士官になった若者が鹿児島県薩摩半島にいた。中隊を率い米軍との決戦に備えていた。
 守る場所を「イチコロ陣地」と呼んだ。配備された4門の大砲に砲弾はわずか72発。撃ち続ければ数分ももたない。「これでどうやって戦うのか」と問うと、上官の少佐は、その場しのぎに「いざという時にはうなるほどの砲弾が来る」と言った。
 若者は戦後、旧大蔵省に入りエリートと呼ばれる身となる。磯辺律男元国税庁長官(89)は戦時中のエリート、職業軍人らをこう見る。「自分の階級を上げることしか関心がなく、国のため、国民のために自らがどうあるべきかを考えなかった」
 既に日中戦争の泥沼にはまっていたのに新たな敵を求めた。石油など資源の供給元だった米国相手の太平洋戦争への突入はあり得べからざることだった。
 それを自存自衛と都合よく言い換え、追い立てたのは軍人たちだった。国民も当初の勝利に浮かれ、軍人をもり立てた。
 なぜ、自滅への戦争を選んだのか。今年12月、映画「山本五十六(いそろく)」が公開される。山本連合艦隊司令長官を演じての思いを役所広司さんに尋ねた。
 「この国にはエリートが自分たちに都合よく回しておけばいい、という歴史があり、今も続いている。一方で国民はビジネスや金もうけは真剣だが大事なことを忘れていく」と答えた。

■負の構図再び
 戦後も繰り返された。
 バブル経済は、金余りを放置した官僚たちと、それに乗じて土地や株を買いあさり、本来の価値以上につり上げた国民の責任だ。揚げ句、暴落し多額の不良債権が発生したが、官僚は実態の公開を渋り解決が遅れた。
 「国破れて道路あり」。公共事業に大盤振る舞い。農道空港や豪華な箱もの施設など無駄な投資が積み重ねられた。宴(うたげ)の後に膨大な財政赤字が残った。
 そして福島第一原発の事故。原子力村の自己過信が招いた物語でなかったか。
 世界有数の地震国。大津波も襲う大地に54基もの原発を造った。さらに2030年までに14基以上増やし、総電力中の原子力を5割以上にする計画を立てていた。原発依存の過剰さが放置、容認されてきた。
 経済産業省や電力会社は、地震国の真実に目を塞いだ。都合のいい情報は伝えるが不利なデータは隠す。さらにやらせ質問で世論を誘導。ウソを重ねた軍部の「大本営発表」顔負けだ。
 でも原子力村だけの責任か。
 朝日新聞が設けた「ニッポン前へ委員会」の神里(かみさと)達博委員(東大特任准教授)は原発事故の真因として「原子力について民主的な熟議を怠ってきた」とし、「閉鎖的な専門家システム」と「大半の国民の無関心」という共犯関係によって生じたと指摘している。
 国を守る力もエネルギーも必要な機能だ。しかし国民が自らの生命や財産まで官僚や専門家集団に委ね、ある時は傍観、ある時は狂奔した。この人任せと無責任が、度重なる失敗の根底にあるのではないか。

■自らの意思で守る
 生命や財産は、国民一人一人が守り抜くという意思を持ち、その意思を実現できる人物を政治家に選び、働かせる。国民と政治家が問題の価値やリスクをチェックできる仕組みを作り上げる、すなわち民主主義を真っ当なものに鍛え直すしかない。
 死活的に重要なのは情報だ。東洋文化研究者アレックス・カーさんは「情報が官僚や一部の専門家に握られ、決断も彼らがしてきた。本来、政治家や国民が果たすべき役割がなおざりにされてきた」と指摘する。
 彼は2002年の著書「犬と鬼・知られざる日本の肖像」で、既に利権政治と官僚主導に加え原子力村の情報操作を日本の暗部として書いていた。「この構造は戦争から福島まで変わらない。変えるには情報独占を打ち崩すしかない」と話す。
 健全で利害から独立したジャーナリズムが果たすべき責任と役割は重い。情報を官僚らに独占、操作させず、生命や資産が脅かされる可能性のある人全員が共有する。失敗の歴史を忘却せず使命を果たしてゆきたい。
 そうしてこそ大和の青年士官に答えられる。「私たちもようやく、目覚め救われるように、一歩前に出ます」と。


 【社説】新たな「災後」の生と死 終戦の日に臨み考える

長大な堤防が防ぐはずだった大津波。安全と信じた原発の事故。日本は戦災に続く新たな「災後」を迎えました。死生観も再び揺さぶられています。

 「敗色が濃くなるなかで戦争に駆り出された若者たちは、どうやって精神の均衡を保ったのか」
 九十歳を過ぎた父に尋ねたことがあります。父は答えました。
 「国のために死ぬことが当たり前だった。特攻隊で米国の軍艦に突っ込む若者たちは特別な存在ではなかった。ただ、残り少ない日々を大切にしようとは考えた」

 社会おおう重苦しさ
 敗戦は覚悟していた死から国民を解放しました。敗北感より喜びが勝っていたことは米進駐軍を「解放軍」として歓迎する動きがあったことから、うかがえます。
 突然の震災に何の心の準備もなく、自身や近しい人々の命、古里を奪われた悲劇は戦災にも匹敵します。ただ、被災の規模は全国の主要都市が焼け野原になった先の大戦に比ぶべくもありません。
 それでも戦後の解放感と違い震災後も社会をおおう重苦しさは放射性物質を排出し続ける福島第一原発があるからです。日本は広島、長崎の原爆を体験しましたが、地域が限定され占領下で情報が制限されたこともあり、多くの人々は被爆者の痛みをわがこととして感じることはできませんでした。
 しかし、「広島原爆二十個分」(児玉龍彦東京大アイソトープ総合センター長)とも推計される福島第一原発による放射性物質の広がりは、大気や水を通じた拡散にとどまりません。農産物や食肉、魚介類に対する汚染によって不安を日本全体に広げています。低レベル放射線の人体への影響は科学的な追跡調査のデータが乏しくはっきりしたことがわかりません。これが政府発表の「ただちに人体への影響はない」「暫定規制値」といったあいまいな表現の原因です。

 見えない敵との闘い

 専門家の中でも楽観的と悲観的に見方は分かれていますが、子どもはもちろん、大人もできるだけ被ばくを避け、がんなどのリスクを最小限にすべきだという点では意見が一致しています。
 目に見えない放射能との闘いは原発事故が長引くにつれ社会に疲労感を広げています。東日本大震災の影響で、東海、東南海など他の大地震が起きる可能性が高まったともいわれることもあって、一種の無常感さえ漂ってきました。
 しかし、戦争では、それまで培ってきた産業基盤や技術だけでなく多くの人的資源を失い、占領下に置かれても、人々は立ち上がり日本の復興を成し遂げました。
 それに比べ、大震災で打撃を受けた東北の製造業が短期間で回復したように日本の産業基盤は健在です。放射性物質との闘いで武器になる食品の汚染測定も日本は世界一の技術を誇っています。
 放射性物質を除染し、子どもたちの命を守ることを、あきらめることはありません。長期にわたる放射線による影響調査やがん予防は、先進国の中で立ち遅れている日本のがんへの取り組みを一段と強化する機会になるはずです。
 がんは現代医学の進歩で既に死に至る病ではなくなりました。早期発見による生存率は飛躍的に高まり、完治も夢ではありません。抗がん治療も、生活に影響を与えない方法が開発されています。
 もちろん、再発や転移の恐れが付きまとう手ごわさに変わりはありませんが、がんによる死は突然、襲うものではありません。
 多くの末期がん患者が雄々しく病に立ち向かい、残された時間の中でも立派な生き方をのこした例を私たちは数多く知っています。大津波では多くの人々が心の準備もなく突然、命を奪われました。がんは、それを直視すれば、闘い迎え撃つことができるのです。
 誤解のないように付け加えますが放射能汚染や、がんを甘受せよと言っているのではありません。あらゆる手段で放射能と闘い、がん予防に尽力すれば恐れおののくことはないと言いたいのです。
 震災と放射性物質の拡散は、ふだん人々が忘れている死を身近なものに感じさせました。しかし、無力感や虚無感にとらわれることこそ、今は排すべきです。
 一生の四季を豊かに
 幕末の思想家、吉田松陰は二十九歳の若さで処刑されました。処刑の前日、人間の寿命には長短があるが、「それにふさわしい四季がある」と述べ、明日死ぬわが身にも「四季はすでに備わっており、花を咲かせ実をつけているはずだ」(「留魂録」講談社学術文庫)と書きのこしました。
 生ある限り、自らの四季を豊かにする努力を惜しまない。それこそが新たな「災後」に、まず心の復興を成し遂げる一歩となるのではないでしょうか。/td>


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