みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

チェルノブイリ:因果関係調査なし放射線障害孫の代まで/「住民の苦しみは長い年月に及ぶ」

2011-04-26 19:41:44 | 地震・原発・災害
パソコンの調子が悪く、なかなか順調に動いてくれない。
日ごろ酷使しているので、そろそろ寿命か。

わたしのパソコンは数年使っているだけだけど、
原発も40年も動けばガタがくるのは当然と思うのだけど・・・。

きょう4月26日は、チェルノブイリ原発から25年。
福島原発の事故が収拾する見込みが立たない今、
「チェルノブイリから学ぼう」という声が上がっている。

わたしも1996年に、10年目のチェルノブイリをおとづれて、
写真をたくさん撮ってきたので、いちど整理してアップしようと思っています。

新聞各紙の記事を紹介します。

  チェルノブイリ:因果関係調査なし 放射線障害孫の代まで

 旧ソ連・ウクライナで86年に起きたチェルノブイリ原発事故は、発生から25年となる今も深い傷痕を残している。特に当時の周辺住民は今なお健康被害に苦しみ、原発事故との関連が認められず切り捨てられる例も多い。被ばくとの因果関係がきちんと解明されていないためだ。大気中に放出された放射性物質のレベルは大きく違うとはいえ、福島第1原発事故でも今後、周辺住民への長期にわたる健康調査と配慮が求められる。【キエフで田中洋之】

 「(当時のソ連)政府は深刻な問題は起きないといっていた。それなのに……」
 ウクライナの首都キエフ北東部のデスニャンスキー地区にある自宅アパートで、ナジェージュダさん(56)は孫のイリヤ君(3)を抱きしめた。次女オリガさん(32)の三男イリヤ君は、心臓弁膜症とダウン症に苦しむ。オリガさんは「こちらの話すことは理解しているのですが、言葉が出ないのです」と顔を曇らせた。
 25年前。ナジェージュダさんは、原発職員だった夫と娘2人と一緒に原発から約3キロ離れたプリピャチに住んでいた。原発労働者の町として建設され、当時の人口は約5万人。当時としては最先端の設備がそろい、自然も豊かで住みやすかったという。住民の平均年齢は26歳と若く、活気にあふれていた。
 事故は4月26日午前1時20分ごろ起きた。「深刻な事故とは知らされず、屋内退避の指示もなかった。その日は土曜日で暖かく、子供たちは日中、外で遊んでいた」。住民に避難命令が出たのは翌27日。「(健康被害を抑える)ヨウ素剤も支給されなかった」とナジェージュダさんは振り返る。
 半年後に今のアパートに入ったが、しばらくして家族に健康被害が認められるようになった。別のアパートに暮らす長女レーシャさん(35)は6年前、甲状腺に異常が見つかり、手術で甲状腺を全摘出した。レーシャさんの3人の子供も病気がち。ナジェージュダさんとオリガさんも頭痛などの体調不良に悩まされてきた。
 オリガさんの長男(14)は妊娠6カ月の早産で、次男(10)もぜんそくを患う。三男のイリヤ君は病気のため幼稚園から入園を拒否された。オリガさんは「小学校にはちゃんと通えるといいのですが」と話す。
 イリヤ君は病気と原発事故の関連が認定され、月に166フリブナ(約1700円)の手当を国から支給される。だが、ほかの5人の孫たちは事故と健康障害の関連が認定されず、プリピャチ出身者の子供向けの手当、月16フリブナ(約160円)しか受け取れない。被災者の医療支援を行っているウクライナの民間組織「チェルノブイリの医師たち」のニャーグ代表は「放射線と病気の因果関係の解明につながる統計や調査は、費用がかかることもあり行われていない」とウクライナ政府の対応を批判する。
 ナジェージュダさんが住む地区には約2万人のプリピャチ出身者がまとまって暮らす。元住民でつくる自助組織「ゼムリャキ(同郷人たち)」は互いのきずなをつなぎとめる文化活動を続ける一方、先天的な障害をもって生まれる子供たちを救済するプログラムをつくった。だが事故から25年が経過し、スポンサー探しは難しくなっているという。ゼムリャキ代表のクラシツカヤさん(55)は「次世代の子供たちに健康被害は広がっている。チェルノブイリの悲劇は決して終わっていないのです」と話した。
毎日新聞 2011年4月25日 


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チェルノブイリからフクシマへ「同じ道たどらないで」 
2011年4月25日 朝日新聞

 事故発生から満25年を26日に迎える旧ソ連・ウクライナのチェルノブイリ原発。廃炉のために運転を全面停止するスイッチを操作した職員は、「チェルノブイリは長いこと忘れられていた。フクシマは絶対に同じような道をたどって欲しくない」と訴える。
 セルゲイ・バシトーボイさん(40)。現在は広報担当者として、チェルノブイリ原発でなお働く。くしくも、チェルノブイリの1号炉を始動させたのが、やはり原発職員だった父のアレクセイさん(67)だ。
 息子のバシトーボイさんは原発の町プリピャチで育った。事故当日は、インフルエンザで学校を休み、自室で寝ていて、窓越しに原発の上空に煙が上がるのを見た。父は当時、4号炉で燃料棒の交換作業などの担当だったが、この日は休み。別の同僚が被曝(ひばく)して亡くなった。
 父の影響で原発で働くことを決心したバシトーボイさんは、ロシアの大学で物理学を学んだ。ふるさとへの思いは強く、ほかの就職先を蹴ってチェルノブイリ原発を選んだ。
 2000年12月15日。事故後も唯一稼働していた3号炉の制御室で、多くの同僚職員が見守る中、バシトーボイさんが停止スイッチをひねった。同原発で「最後の火」が消えた。始動させた父と、停止させた息子。親子とも、たまたま当番が回ってきて果たした役割だった。
 現場の人間として、老朽化した原発がどれほど危険かは理解していた。でも、自分を含めた5千人以上の職員の雇用が失われていくことがつらかった。「勤務は交代制。同じ顔ぶれと長い時間働いていて、みんな家族のようだった」
 バシトーボイさんは、福島第一原発について、こう気遣う。「一番大変なのは、今、事故の拡大を食い止めようと現場でもがいている末端の作業員たち。彼らは本当に英雄だ。フクシマでは絶対に、チェルノブイリのような人命や健康、精神的な苦痛などの犠牲を出して欲しくない」(キエフ=関根和弘) 


「住民の苦しみは長い年月に及ぶ」、来日したチェルノブイリ被災者が語る 
2011年04月26日 16:17 発信地:東京

【4月26日 AFP】1986年に起きた旧ソ連のチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所事故からちょうど25年になるのを機に来日したチェルノブイリ事故の被災者が、東京電力(TEPCO)福島第1原発事故の放射能汚染にさらされた人びとは、一生にわたって、がんや深刻な病という「いつ爆発するかわからない爆弾」におびえながら暮らすことになるだろうと語った。

 史上最悪の原子力災害となったチェルノブイリ原発事故から26日でちょうど25年。一方、ことし3月11日の大地震と津波で冷却システムを喪失した福島第1原発では、いまもなお放射性物質の流出を食い止める取り組みが続けられている。
 日本の反原発団体の招待で、チェルノブイリ原発事故25年のデモ行進に参加するために来日したチェルノブイリ事故の生存者、ロシア人のパーベル・ブドビチェンコ(Pavel Vdovichenko)さん(59)はAFPの取材に通訳を介して、「福島の事故はチェルノブイリの双子の兄弟のようなものだ。どちらも、人びとは長くつらい日々に苦しむことになる」と語った。「事故後、チェルノブイリの人びとはがんで苦しんだ。福島でも同じことが起きるかもしれない」
 福島第1原発周辺に暮らす人びとは、これから何か月も、あるいは何年も、健康障害が起きないかどうかを気にして生活することになる。それは、「爆発のときを待つ爆弾」と一緒に暮らすようなものだとブドビチェンコさんは言う。

■「住民の苦しみは長い年月に及ぶ」
 ブドビチェンコさんは事故発生時、チェルノブイリ原発から180キロの距離にあるブリャンスク(Bryansk)州で暮らしていた。チェルノブイリ事故の被害が最も深刻だった場所の1つだ。
 いまも同州に暮らしているブドビチェンコさんは、事故が地元住民に及ぼした長期的な被害を直接、目の当たりにしてきた。
「住民は経済の崩壊に苦しんだ」と、ブドビチェンコさんは語る。「企業は倒産し、農業は崩壊し、雇用がなくなった。森の木の実や動物、川や湖の魚を食べるしかなかった。でも、全てが汚染されていた」
 歴史の教師だったブドビチェンコさんは、事故の影響を最も受ける子どもたちを支援するため、支援団体「ラディミチ チェルノブイリの子どもたちのために(Radimichi for the Children of Chernobyl)」を設立して、活動を続けている。
 被災地域から移住しなかったことについて「もちろん恐怖はある」と、ブドビチェンコさんは語る。「わたしは甲状腺に問題がある。でも私の故郷だからね。自分の健康についてはあまり考えないようにしている」
 チェルノブイリ事故の後、原発周辺から避難した住民は移住先で、放射能が伝染すると思いこんだ人びとから差別されたという。「人びとは汚染区域から避難してきた住民に近づくのを嫌がった」と、ブドビチェンコさんは語る。ある避難学生は、他の学生たちと席を離して授業を受けるよう言われた。

■「第3の原発事故を起こしてはならない」
 福島第1原発で災害の封じ込めが行われ、チェルノブイリ原発では新たなシェルターの建造が取り組まれている中、ブドビチェンコさんは、ただちに事故から教訓を得なければ新たな原発事故が起きると指摘する。「チェルノブイリの事故はもう終わったと言う人がいる。でもそれは間違っている。福島事故は、チェルノブイリ事故の対応に失敗したあとで起きた。この2つの事故を解決できなければ、第3の事故が起きる」
「チェルノブイリと福島の被災者たちは力を合わせなければならない。このような原子力災害が二度と起きないよう取り組まなければならない」と、ブドビチェンコさんは、語った。
(c)AFP/Shingo Ito 


チェルノブイリの経験を生かして悲劇を回避せよ――松本市長/医師・菅谷昭《上》(1)
 
信州大学での外科医としての職をなげうち、チェルノブイリ原子力発電所事故後のベラルーシに滞在。5年半もの間、原発事故で放出された放射能による甲状腺がんで苦しむ多くの子どもたちを治療し続けた菅谷昭・松本市長。その献身ぶりは「奇跡のメス」として、ベラルーシ国民から高く評価されている。放射能がもたらす悲劇について、日本で誰よりも詳しい菅谷市長は、今回の原発事故をどう見ているのか。

──かつてチェルノブイリ原発で起きたのと同じ原発事故が、日本で起きてしまいました。
 原発の安全性について、日本政府に驕りがあったと言いたい。チェルノブイリでの教訓を生かしていない。危機管理の欠如も甚だしい。世界でも有数の原発大国なのに、事故発生後の対応は後手後手だ。

──東京電力福島第一原発では、放射性物質の放出が止まりません。
 ベラルーシでは、住み慣れた土地から強制的に避難させられた、あるいは汚染地区に住まざるをえない住民の切なさや悲しみを見てきた。その経験からいえば、核の災害は自然災害とはまったく違うことをわかってほしい。当初から最悪の事態を想定して、先手、先手と対策を打つべきだった。やりすぎるということはない。結果的にそこまで悪くならなかったとしても、「ごめんなさい、でもよかった」と言えるものだ。やらないで悪い事態になるのとは全然違う。
 自然災害は、復興すればそこに住める。だが、核災害では住めない。チェルノブイリでも原発から30キロメートル以内は強制移住の対象になった。福島でも、そうなる可能性は十分ある。私は最初から、30キロメートル以内の住民は退避させたほうがよいと言ってきた。チェルノブイリの規模であれば、50キロメートル範囲でも危ないからだ。
・・・・・・・・・・(以下略)・・・・・・・・・・・
2011.4.26 東洋経済オンライン


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