まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『マンスフィールド短篇集』勝手にアンコール

2011-08-31 22:19:44 | イギリス・アイルランドの作家

キャサリン・マンスフィールド

大好きなマンスフィールドの短編、岩波書店新潮社に続き筑摩書房もいってみよう!
見つければ買ってしまう彼女の作品の中から、今回は少し苦い恋のお話しを紹介します。

『幸福(Bliss)/1918年』
この上もなく幸福な毎日を送る若くて裕福な新妻バーサにはお気に入りの女性がいます。
しかし夫のハリーはその女性が大嫌いなようで、それがだけが気がかりです。
ホームパーティでもハリーは彼女に対して攻撃の手をゆるめようとしません。

マンスフィールドの皮肉屋な部分がおおいに発揮された作品です。
私はあまり好きなジャンルではないけれど…
やけに悪口をいう相手ほど怪しいっていうことか?

『見知らぬ人(The Stranger)』
目の前で座礁している妻が乗った客船を、不安を隠せない様子で見つめるハモンド氏。
やっと船が港に着き、待ちかねた妻が降りて来ます。
しかしホテルで二人になった時、妻は船で出会った男性の話しを始めました。
彼は妻の腕の中で亡くなったそうです。

これはジョイスの『死せる人々』を彷彿とさせます。
ちょっと状況は違うけど、死んだ人に怒っても仕方がないものね…
そんな風に他人への恋を打ち明けられたら「ずるい!」としか思えないですよねぇ。

『姫茴香 - デイル - 風味のピクルス(A Dill Pickle)』
6年ぶりに別れた恋人と顔を会わせたヴィアラは一緒に食事をすることにします。
テーブルに腰掛けると、ふたりは以前のように完全に理解しあえたようでした。
彼はずっとしゃべり続けます、自分のことばかり…

別れるからには理由があるわけで、再会すれば上手くいくってもんじゃないのね。
この作品を読んだ女性のうちの90%は、この男性が好きになれないかもしれません。
だってわざとそういう書き方をしているんだもの。
もしかしてマンスフィールドの実体験なのかしら?

マンスフィールドの皮肉たっぷりに描いた作品はかなり意地悪です。
この当時、正直に女性の隠れた本性を作品に書くことが
女流作家としてメリットだったのかデメリットだったのかはわかりませんが
友達は無くしそう… あの人実は意地悪よ、なんて言われちゃったりして…
今は正直すぎるほどに書かれていますけどね。

私としては、少女の戸惑いを描いた作品と疲れた女性の話しが好きです。
あんまりひねりがなくて、どちらかというと単純な話しね。
物語を創りだそう!という気負いが感じられない、ほどよい脱力感が
マンスフィールドの良さなんじゃないかしら、と思っております。
コメント (2)
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スウェーデン王フレデリク1世妃 ウルリーカ・エレオノーラ

2011-08-29 08:09:51 | スウェーデン王妃
夫の望みを叶えるため・・・女王の座を捨てて王妃に
フレデリク1世妃 ウルリーカ・エレオノーラ


1668~1741/在位 (女王)1718~1720 (王妃)1720~1741

ウルリーカ・エレオノーラは、カール11世と王妃ウルリーカの王女です。
幼い頃は、王太子の兄と美貌の姉の影でひっそり成長いたしました。

      
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世との縁談がありましたが実現せず…
良かったね… 王妃ゾフィアは可哀想でしたもの。

地味目に育ってきたウルリーカの人生が1708年に一変します。
姉のホルシュタイン=ゴットルプ公フリードリヒ4世妃ヘドヴィクが亡くなったのです。

若くして即位した兄カール12世は戦争でほとんどスウェーデンにいませんでした。
勇敢な戦士で、常に最前線で戦っていたカール12世は結婚を拒んでいました。
嫡子が生まれる見込みはないですよね…

議会と祖母ヘドヴィクから摂政にされたウルリーカですが
国内はカール12世亡き後の権力の座をめぐって入り乱れていました。
控えめに生きてきた20歳の女性に務まるのかしら? ま、実権は祖母が握ってたんだけど…

権力者だった祖母へドヴィクが1715年に亡くなると、ウルリーカは真の摂政になります。
その年にヘッセン=カッセル伯フリードリヒと結婚しました。

フリードリヒは従妹のプロイセン王フリードリヒ1世王女ロヴィーザと結婚していましたが
1705年に死別していました。

ウルリーカは愛ある結婚だと思っていましたが、フリードリヒは愛だけなわけなくて
女王になるであろうウルリーカを政治的に操り、上手くいけば王座も…と考えました。
結婚早々からアクティブに動き始め、ホルシュタイン=ゴットルプ家と激しくぶつかります。

1718年、1700年から一度も宮殿に帰らず戦っていたカール12世が
デンマークのフレデリクハルドで急死しました。
頭を撃たれたのですが、戦闘中ではありませんでした。

これは、ウルリーカを女王に、ひいてはフリードリヒを王にしたいという
ヘッセン家支持派がおこした暗殺だと言われたりしていますが解決していません。

フリードリヒはイングランドのウィリアム3世とメアリー2世のように
共同統治王になりたいと考えましたが、スウェーデンでは15世紀から共同統治が
禁止されていて議会に聞き入れてもらえませんでした。

そこでウルリーカは戴冠はしたものの退位を決意します。
夫のフリードリヒは晴れてフレデリク1世として即位しました。

このフレデリク1世、スウェーデンで初めて公妾を持った王様でございます。
妻のおかげで王になったくせに~
1730年にフレデリク1世がヘドヴィク・トーヴェを公妾にした時
ウルリーカは何も語らず宮廷から退いたそうです。

すごくおとなしい人だったんじゃないかしら?
王位だけじゃなくて、宮廷の主役の座を愛妾に渡すなんて…
と思いきや、王族としてのプライドは高くて、決して譲らない部分もあったそうです。
どんな部分なんでしょね? たいがい譲っちゃってると思うが…

フレデリク1世とウルリーカの時代は“ 自由の時代 ” と呼ばれています。
絶対王政が廃止され、議会が権限を大きくして君主が権威を失いました。
聞こえはいいけど、実は政治腐敗があり国内は混乱しました。
これが後にグスタフ(3世)のクーデターを成功に導きます。

ウルリーカが幼い頃から女王となるべく育てられていて王位を譲らなかったら
スウェーデンの状況も違っていたかもしれませんね。
夫に政治的な口出しをさせなかった女王もけっこういますからね。

お子様は生まれませんでした。
結局王位はホルシュタイン=ゴットルプ家にいっちゃうわけなのね…

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王カール11世妃 ウルリーカ

2011-08-26 09:20:53 | スウェーデン王妃
婚家に忠誠を尽くした王妃
カール11世妃 ウルリーカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク


1656~1693/在位 1680~1693

公正で行動派な熱い心の持ち主カール11世の妃ウルリーカは
デンマーク王フレデリク3世とアマーリエ・アフ・ブラウンシュヴァイクの王女です。

19歳でカールと婚約したものの、スコーネ戦争の時には婚約を破棄して
神聖ローマ皇帝レオポルト1世に嫁がせようかという案が浮上しました。

しかしウルリーカはこれを拒みます。
すでに未来の嫁ぎ先に忠義を尽くす覚悟のウルリーカは
スウェーデンの捕虜たちにも優しく接していました。

しかし、スウェーデンといえば、長々とデンマークと争っていて
お互い多数の死者を出す激しい戦闘をしている宿敵ですよ…
和平の一環とは言え、よく嫁ぐ気になったものですよね。
          
実はカール11世はその前に婚約者がいまして、スウェーデン宮廷で育てられていたのですが
いきなり(カールのではない)子供を産み落としちゃいまして破談になってました。

ウルリーカは美しくて優しい女性で、カールも彼女を愛したと思われます。
亡くなる時に母后ヘドヴィクに「王妃が亡くなってからはずっと不幸だった」と
打ち明けたと言われているし、浮気をした形跡がありません。

でもカールはよそよそしくて人見知りな性格で、上手く愛情表現ができなかったのね。
読み書きが満足にできなかったのでラブレターや詩を捧げるなんてこともできなかったかも…

それになんたって母后ヘドヴィクの支配下から抜け出せずにいました。
反デンマーク派を公言していたヘドヴィクは、相手が誰であれ
息子がデンマーク王女と結婚するということそのものが気に食わなかったわけですね。
ウルリーカが嫁いで来た後も、宮廷での権力は引き渡さず
貴族たちもヘドヴィクの顔色をうかがって、ヘドヴィクを王妃と呼び続けていました。

ですので、ウルリーカは宮廷ではあまりハッピーじゃなかったみたいですが
家庭の方はとても幸せだったようです。
カールベリ城というちょっと小ぶりな城で宮廷のことなんか忘れて過ごすのが楽しみでした。

ダンスや芝居が好きで、女性だけの素人芝居を主催していました。
劇団にはマリア・ケニヒスマルクなんかも参加していました。

政治的なことには口をはさみませんでしたが、一度だけカール11世に
政府に財産を没収された人たちを助けてほしいと頼みました。
しかしカールが聞く耳を持たなかったので口をつぐみ、自分の財産でこっそり援助しました。

他にも孤児院・貧民院・保養施設・未亡人のための施設・貧しい人のための労働施設や学校、
援助基金など多数の施設を設立しました。
それ以外にも自分の財産から、病気の兵士とその妻への援助も行っています。
宮廷では母后ヘドヴィクに牛耳られていたウルリーカは、庶民の間では偉大な王妃でした。

カールは1960年に「自分が亡くなった場合の幼王の摂政はウルリーカに」と宣言しています。
長年反抗できなかったヘドヴィクを差し置いて… Good Job! カール11世。

しかしウルリーカはその3年後、出産の時に亡くなってしまいました。
なんでも、こんな言い伝えが…
ウルリーカの遺体はカールベリ宮殿に安置されました。
そこへウルリーカが大好きなマリア・ステンボック伯夫人が訪ねてきました。
ところがステンボック伯夫人自身も重病で臥せっているはずでした。
カールベリの役人が不審に思って鍵穴からのぞくと…
なんと! 亡くなったはずの王妃と会話してるっていうじゃない
翌日、役人はステンボック夫人がストックホルムを離れていないことを聞くと
ショックのあまり亡くなってしまいました。
でも、恐ろしいけど友情が感じられる美しい話よね 。

カールはその4年後に亡くなりました。
またまたヘドヴィクが摂政を務めます…  つづく

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王カール10世妃 ヘドヴィク

2011-08-24 20:53:42 | スウェーデン王妃
“ 肩書き ” 大好き王妃
カール10世妃 ヘドヴィク・エレオノーラ
              アヴ・ホルステイン=ゴットルプ


1636~1715/在位 1654~1660

カール10世は、いとこのクリスティーナがいきなり退位しちゃいまして
王位を譲られたのですが、なかなか教養豊かで軍事経験もあり
相次ぐデンマーク、ロシアなどとの戦いに耐え抜いた君主でありました。

カール10世が即位した年に政略結婚したヘドヴィクは
ホルシュタイン=ゴットルプ公フリードリヒ3世の公女で
ほとんどスウェーデンにいないカール10世に代わって留守を守った王妃でした。
っていうと聞こえはいいんだけど、ちょっと違うみたい…

      
へドヴィクはとても意志が強く支配的な性格の女性でした。
ここまでは王に代わって政治を取り仕切る摂政にはもってこいですね。

でも実は政治はあまり好きでなかったみたいです。
ヘドヴィクは王妃という地位と国家のシンボルであるという状態が気に入っていたらしく
宮廷を統括して、議会のセンターに座れれば満足でした。

一方各国大使との謁見や政治的な話は退屈で仕方がなくて
飽きてくると返事もせず笑顔だけ浮かべていることもありました。

1660年にカール10世が病死すると、キャサリン・オブ・ブラガンザと結婚する前の
イングランド王チャールズ2世から求婚されました。

ヘドヴィクは(公式には)亡き夫への貞節を守るため、と断りました。
“ 王国の未亡人” という称号と国民の尊敬を得ることが快感で
自分の美徳が知れ渡るように振る舞うことも忘れませんでした。

でも、ヘドヴィクに、カール・ユレンシェーナという
(13歳も年下の)恋人がいることは周知のことでした。
彼はまずヘドヴィクの侍従になって、その後へドヴィクの領地の長官になって
戦時中は特使になって、とうとう伯爵に叙位されました。
その後城まで送られてます。 見事な成り上がり方ですね。

後継者カール11世はもともとママっ子で、即位後も母親の支配下にありました。
初めて議会に参上した時にはヘドヴィクが寄り添っていて、カールがこそこそっと囁くと
ヘドヴィクが大きな声で発表するという…つぶやき女将っていましたが逆ですね。

かようにヘドヴィクの力は絶大で、孫の代まで宮廷を支配しますが
晩年はスキャンダルに巻き込まれてしまいます。

ヘドヴィクには、アンナ・フォン・Barfeltというお気に入りの侍女がいたんですけど
彼女はヘドヴィクへの口利きの見返りに賄賂をとったり、毒の取引をしているとか
宮廷の物を盗み出しているなどという噂のある女性でした。

彼女は街で襲われいろいろな噂が明るみに出てしまうのですが
その時、ヘドヴィクの愛人ユレンシェーナ伯が犯罪に関わっていると告白したことから
ユレンシェーナ伯は「自分をとるか彼女をとるか」とヘドヴィクに迫るようになるし
宮廷は調査を始めようとしました。

貴婦人たちがユレンシェーナ伯と徒党を組んでBarfeltを追い出すよう迫ったため
とうとう彼女は追放されることになったのですが、ヘドヴィクは取り調べをさせず
彼女が持ち出す荷物を調べることも禁止しました。
いったい何を握られていたんでしょうね?

ヘドヴィクは絵画と建築に興味がありまして、現在もロイヤルファミリーが利用している
ドロットニングホルム宮殿は、ヘドヴィクが熱意を注いで建てた宮殿です。
結局、大きな権力を持っている人が散財して建てた物ほど美しい…ってことになりますね。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン女王 クリスティーナ

2011-08-22 01:18:26 | スウェーデン王妃
名君と言われつつ…謎が多い女王
スウェーデン女王 クリスティーナ


1626~1689/在位 1632~1654

たぶんスウェーデン王室の中で最も名高い女性の一人であるクリスティーナについては
たくさんの本が出ているし、研究者もたくさんいます。
なにもかも書いていたらとんでもないことになりますんで
謎とされているあたりをかいつまんで紹介します。 詳しくは伝記を読んで下さいな。

        
クリスティーナは、30年戦争の英雄グスタフ2世アドルフの唯一の子供です。
生まれた時は毛深くて、てっきり王子が生まれたと大喜びされました。
王女が生まれたと聞いた王妃マリア・エレオノーラは落胆しましたが
グスタフは「我々皆を騙したのだから賢い子になるだろう」と歓んだそうです。

なんでも赤ちゃんの時に目の前で大砲を打たれても泣かなかったとか
グスタフの最後の出兵の時、滅多に泣かないのに3日間泣き止まなかったとか
「さすが!」なエピソードが多数残ってますが割愛します。

グスタフは王妃マリアにうんざりしてまして、もう子供はつくる気が無かったみたい…
早々にクリスティーナを後継者に指名し、古典や神学に加え帝王学を学ばせて
騎馬・剣術・狩猟をさせるなど、まるで王子のように育てました。
また、王妃マリアがクリスティーナに悪影響を及ぼしては大変!と
なるべく遠ざけるようにしていました。

クリスティーナもきれいなドレスやおリボンなど女の子っぽいものに全く興味はなくて
誰かが止めるまで勉強に没頭したそうです。
洋服にインクがついていたりほつれていたりして注意されると
「そういうことは他にすることが無い人に言えばいい」と頓着しませんでした。

グスタフが戦死して、女王に即位した6歳のクリスティーナは
男装で堂々と議会に現れ、議員たちから喝采を浴びました。

5人の元老で構成された摂政たちが幼いクリスティーナを補佐することになります。
中でも有名なのは、グスタフから絶大な信頼を得ていたオクセンシェルナです。
オクセンシェルナはクリスティーナが18歳になるまで側でサポートしましたが
女王にも反抗期は訪れたようで、彼のことをうるさく思い始めました。

クリスティーナといえば30年戦争を終わらせた君主として有名ですが
実はオクセンシェルナが止めるのも聞かず、敵国にかなり譲歩して
有利に運んでいた戦争を打ち切ったようです。
国の財政や庶民たちの暮らしを思ってのことでしょうが
一部では戦争を続ける限り、軍事に長けたオクセンシェルナが自分より目立つので
それを嫌って無理矢理終わらせた、という意見もあります。

クリスティーナは、突然冷酷になったりする面はありましたが
知的で快活で話術に優れていて評価の高い女性でした。
スウェーデンを文化的に向上させようとフランスから芸術家や文学者を招いたり
学校制度を充実させました。
女王自身の生活は質素なものでしたが、宮廷作法にはフランス式を取り入れました。

大国の仲間入りを果たした重要拠点の女王とくれば縁談もいくつかありましたが
従兄弟にあたるカール・グスタフ以外の縁談には関心を示しませんでした。
エバ・スパーレという女性に熱を上げたというエピソードもありますけど
男性との噂もいくつかありました。

そんなクリスティーナは、即位から24年目の1650年に戴冠式を行ったのですが
翌年退位したいと言い出しました。
スウェーデン議会はびっくり  さらに驚いたことには
いつのまにかカトリック信者になっていました。

説得を重ね思いとどまらせていた女王の退位でしたが、1654年、
クリスティーナが27歳の時、とうとう退位することになりました。

理由は不明です。
前年に罹った病のせい、財政問題、宗教問題、倦怠感、ただの虚栄心などなど
いろいろな説はあるんですけど、どれも決定打ではないみたいです。

その後ローマに渡ったクリスティーナは、教会での態度が悪すぎて叱られたり
枢機卿と恋愛問題を起こしたりといろいろ問題を起こします。

しばらくはヨーロッパ各国になんだかんだと首をつっこんでいましたが
そのうち変わり者の元女王にどの国もうんざりして相手にしなくなりました。

1660年には急に女王に復位したいと言い出していますが無視されて
とうとう(やんわりと)国外退去させられてしまいました。
ローマに戻ったものの時の流れとともに忘れられ
お金も心許なくなってひっそり晩年を送ったみたいです。

62歳で亡くなり、サン=ピエトロ寺院に葬られました。

(当時の君主なら)多少性格に問題があっても、真面目に政治をしていたら
マリア・テレジアエカチェリーナ2世並に賢女王と言われたかもしれないですよね。
もちろん、賛否両論はありましょうが…

とにかく、謎が多くて興味深い… 新たな研究結果を待ちたいですね。

(参考文献 下村寅太郎氏『スウェーデン女王クリスチナ』 M.ニコラス『世界の悪女たち』
      武田龍夫氏『物語北欧の歴史』『物語スウェーデン史』
      三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王グスタフ2世アドルフ妃 マリア・エレオノーラ

2011-08-20 19:32:52 | スウェーデン王妃
狂おしいほど愛してる! な王妃
グスタフ2世アドルフ妃 マリア・エレオノーラ・アヴ・ブランデンブリ


1599~1655/在位 1620~1632

スウェーデンを大国の仲間入りさせ、30年戦争でプロテスタント国の先頭に立って戦った
“ 北方の獅子 ” グスタフ2世妃マリア・エレオノーラ(以下マリア)は
謎多き女王クリスティーナの母親でもあり、エピソードはてんこもりなので
愛が深すぎたあたりの話題を中心に、かなり端折って紹介していきます。

マリアはブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントの王女でした。
ヨーハンという方は大酒飲みで大食いの怠惰な男性でとっても太った人でした。
王様の風刺画にもってこいのタイプ。
母のプロシア公女アンナは高飛車で、両親の喧嘩は絶えませんでした。
         
22歳のグスタフは、母后クリスティーナの反対で愛するエバ・ブラーエを泣く泣く諦めて
マリアにアタックを開始します。

マリアの婿候補にはオレンジ公子ウィレム、ポーランド王太子ヴワディスワフ(4世)
イングランド王太子チャールズ(1世)などなど、錚々たる顔ぶれがいたのですが
マリアはあきらかにグスタフに夢中

結婚を決めた若い二人は、最初はマリアの母アンナの妨害をかいくぐり、
次にマリアの兄ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムの言いがかりなどの障害を
(考えを変えた母アンナのおかげで)乗り越え、1920年にめでたく結婚しました。

グスタフとマリアは趣味も似ていて仲が良かったようです、っていうか
マリアはグスタフに身も心も捧げて、何もかも合わせていたわけね。

多少贅沢なところはありましたが、美しくて慈悲深く高貴なマリアは
ある時を境に変貌しました。

結婚から半年ぐらいして、グスタフは戦いのために城を発ちました。
マリアはその時妊娠していました。
しかしグスタフのいないスウェーデンは暗くて陰気にしか思えず
ひたすら夫のことばかり考える毎日…
ドイツから連れて来た侍女以外には会わなくなり、とうとう流産します。

マリアは病に陥った後、狂気の片鱗を見せ始めます。
神経質になり、凶暴で嫉妬深く、すぐに人を罵倒するようになりました。

マリアは戻って来たグスタフに、人目も憚らず愛情を振りまきましたが
グスタフは結婚を後悔し始めます。
エバ・ブラーエと再婚しちゃおっかな…と考えたりもしたみたいです。
でもマリアの目がギラギラ光っていたので押し隠しました。

グスタフは、自分がもし、今後生まれる幼い跡取りを残して死んだ時には
決してマリアに摂政をさせるまい! と心に決めました。

マリアはグスタフと離れようとしなかったせいで(軍艦に乗ったりして)その後2回流産し
1627年、とうとう王女を生みました。
ひとくち情報
実はマリアは、その時もヒステリーをおこして戦場までついて行ってたそうですが
産気づいたので、グスタフはしかたなくマリアを連れて戦場を離れ帰国したそうです… やれやれ


いかん… すでに長い…

王女誕生を聞かされたマリアは、王子でなかったことを嘆き
「こんな怪物見たくない!」と殺そうとしたそうです。

しかし、クリスティーナと名付けられた王女は賢く利発でグスタフのお気に入りになり
早々に後継者に指名されて、グスタフが選び抜いた家庭教師たちから
王子のような教育を受けました。

グスタフはマリアにうんざりして距離を置くようになり
クリスティーナにも近づかせないよう気を配りました。

マリアはというと、実家がグスタフの敵方に加わり
宮廷では完全に孤立状態になっていて、精神的な病が重くなる一方でした。
あえて娘にかまおうとはしなかったみたいです。

ところが! 転機が訪れます。

1632年、ドイツを進軍中のグスタフが戦死しました。
その時もマリアはドイツまで行っていて、別の場所に待機していました。
翌年グスタフの遺体と戻って来たマリアは、部屋の壁を真っ黒にして
ロウソクを立てて引き蘢ります。
グスタフの心臓を手元に置いて離そうとはしませんでした。

まぁ、彼女だけがそういう風に過ごすんだったら、ほっとけばよかったんだけど…
マリアは寂しくなったのかクリスティーナも側に置くようになりました。
見苦しい姿のままの新王を片時も離さないでずーっと泣いているマリアに
クリスティーナを託された宰相オクセンシェルナを始め、議会はほとほと弱ります。
引き離そうとするとマリアが絶叫するので簡単にはいきませんでした。

結局1636年に王妃の称号を剥奪されてグリプスホルム城に移されました。
マリアは何度も脱出を試み、デンマーク(敵軍)の船に乗り込むことに成功します。
しばらくはデンマークで過ごし、(引き取りを拒んでいた)兄の死後
故郷ブランデンブルクに帰りました。

その後はスウェーデンの年金で暮らしたそうです。
娘クリスティーナの戴冠式には大人しく参列したそうなので
精神疾患というより感情の起伏が激しすぎるという感じだったのかしらね?

グスタフ2世という偉大な王と、クリスティーナという話題性がある女王に囲まれ
マリア・エレオノーラのキャラクターが歪められてしまった可能性はおおいにあって
書き手によってはかなり同情的なものもあります。

(当たり前のことですけど)誰も生き証人がいないだけに
歴史上の人物の本当の姿を捉えるのは難しいですね。

(参考文献 下村寅太郎氏『スウェーデン女王クリスチナ』
      三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』
      M.ニコラス『世界の悪女たち』 Wikipedia英語版)
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『ふくろう女の美容室』静かに警告を発する一冊

2011-08-19 01:50:15 | アメリカの作家
AT THE OWL WOMAN SALON 
1997年 テス・ギャラガー

なんでしょう?
好きか嫌いかがはっきりしない本でした。

「その気持よくわかる」と入り込んでいってたら
唐突に突き放されたり、取り残されたりしたような感じになりました。

難解なわけではないです。
前衛的なところも実験的なところはありません。
舞台はごく一般の家庭で、日常を淡々と、極めて普通の言葉で書いてあります。

現代特有の問題をいろいろと孕んでいながらも、薄いベールで覆い隠した感じは
どことなく旦那さんのレイモンド・カーヴァーに似ているんですかね?

10篇の短篇と2篇のエッセイが収められています。
私が一番おいてけぼりにされた気がしたのは、実はエッセイの部分だったかもしれません。

好きだった物語をいくつかあげてみます。

『むかし、そんな奴がいた(I Got a Guy Once)』
ダニーから言いくるめられ、ずっとただ働きをさせられたせいで、母屋を人に貸し
自分は離れで暮らす始末です。
ある日ダニーが破産して賃金を払えないと言いました。
しかし、その3日後、ダニーが他の木こりを雇ったと人づてに聞きました。

ダニーという人は良い人ではないんです。 こんな上司も友達も嫌ですね。
でもなぜか、最後にダニーがすごく可哀想に思えます。 自業自得なのに…
“ 憎めない人 ” について考えさせられる、というと大げさですが心にひっかかります。

『石の箱(A Box of Rocks)』
子供ができないとわかった後、妻の妹が娘を預けたいと言ったので3年間育てました。
娘が5歳になった時、再婚した妹が一方的に引き取ると言って泣き叫ぶ娘を連れて行きました。
その後妹から娘の服を送れと言ってきます。 妻は石を詰めた箱を送ってやりました。

あまりにも一方的な妹が悪人のように思える前半と、夫が頑なすぎる妻を不安に思う後半、
どちらをどう思えばいいのかわからなくなってきます。
板挟みになった旦那さんの気苦労を考えると「仲直りしたら?」と言いたくなりますが…

『祈る女(The Woman Who Prayed)』
ずっと幸せな結婚生活を送ってきたドッティは
ある日ガレージでヒルダから夫に宛てたラブレターの束を見つけました。
ヒルダとは学生時代にも男の子をめぐって一悶着ありました。
ドッティはその夜ラブレターを燃やし、祈るようになりました。

主人公の女性は、祈っている間だけは夫と相手の女のことを忘れることができます。
不信心な私ですが、こんな時には神様がいてくれて良かった…と思うかもしれません。
彼女の祈りが通じればいいんですけどね。

どの物語も登場人物が少なくて寡黙です。
誰にでも言い分がありそうなのに誰も何も言わない、という感じでしょうか。

どの物語でも、語り手、あるいは主人公を不愉快にさせる相手が登場しますが
そこに悪意があるのかどうかは明瞭ではないんですよね。
他人から見ればあまり気持のよいものではない行動にも
なんらかのわけがあるのかもと、少しは理解できたような気がします。

人の分別なんて、時と場合によっては立場が完全に入れ替わってしまうかもしれません。
そんな警告を発しているようね…と、読み終わってしばらくしてから思いました。
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スウェーデン王カール9世妃 マリア

2011-08-17 08:34:17 | スウェーデン王妃
癇癪王の鎮静剤
カール9世妃 マリア・アヴ・プファルツ


1561~1589/在位せず

カトリックのジギスムントに対抗する形で担ぎ出され
戦いに勝利したカール9世は、即位した時54歳でした。
最初の妃マリアは即位に先立つこと15年前に亡くなっております。

マリアはプファルツ選帝侯ルートヴィヒ6世の王女で、たいそう美しかったそうです。
カールは直々にハイデルベルクまで出向いて求婚しました。
           
カール9世は “ リンチョピングの血浴 ” を行った人で気性が荒い人だったみたいですが
マリアはとても穏やかで、君主には慈悲の心が必要なことを絶えず夫に忠告していました。

ひとくち情報  “ リンチョピングの血浴 ” とは、簡単に言いますと
1600年、カールがジギスムント側についた貴族たち(カトリック)を一方的な裁判で多数処刑した事件です。
情報おわり…


子供は6人生まれていますが5人は幼くして亡くなりました。
マリアは病がちだったらしいのですが、最後は出産で亡くなったみたいです。
28歳でした。

ヴェストラ・イェータランドのマリエスタードとエスロヴのマリエホルムは
マリア妃にちなんでつけられた都市名ですって。



              
前妃とは正反対…でも癇癪王の良き伴侶
カール9世妃 クリスティーナ・アヴ・ホルステイン=ゴットルプ


1573~1625/在位 1604~1611

マリア妃を亡くしてから3年後にカールが再婚したクリスティーナは
ホルシュタイン=ゴットルプ公アドルフの公女で
実は13歳の時に前王ジギスムントのお妃候補になっていましたが実現せず
6年後、19歳でカールと結婚致しました。
        
クリスティーナは前妃マリアとは正反対の妃でした。
意志が強く経済観念に優れ、会う人びとに畏敬の念を与える女性でした。
王妃にはもってこい! って気もしますが、言い方を変えると
支配的で高圧的、そしてとってもしみったれでした。
宮廷のお針子に糸を計って渡していたという話もあります。

「お許し下せ~、おとっつぁんの薬代が 」という下々の民からかき集めてきた国の金を
湯水のように使う浪費家であっぱらぱーの王妃よりはいいのかしら?
でも、えてして浪費家王妃の方が後世に語り継がれていますよね。 華やかだものね…

性格はカール9世にそっくりで、気性は荒い方でした。
うまくいくのかしら… と思いきや、夫婦の仲はとてもよかったそうです。

カールはクリスティーナと喧嘩をしようとしませんでした。
そのかわり政治には口をはさませませんでした。

デンマークとの戦争中はクリスティーナがしばしばデンマーク寄りのことを言って
口論になったそうですが、王妃としては一目置いていたようで
スウェーデンを留守にする間は摂政も任せています。

1611年にカール9世が亡くなりました。
スウェーデン王位は17歳の長男グスタフ・アドルフが、
セーデルマンランド公位は10歳の次男カール・フィリップが継承しました。

クリスティーナはカール・フィリップの摂政になりましたが
1年ほど裏でグスタフ・アドルフも操っていたという噂です。

10年ほどしてニュチェピング城に引退しましたが、その年に次男カールが亡くなり
なんと! こっそり侍女と結婚して隠し子がいたことが発覚します。
クリスティーナは長男グフタフとエバ・ブラーエの結婚に強く反対してましたので
カールは言い出せなかったのかもしれませんね。

クリスティーナは怒り心頭だったとは思いますが
孫にあたるカールの娘エリベットの後見人になってあげています。

厳しい人だったかもしれないけど、けっこうフェアな人だったんじゃないかな…
すごく人付き合いがいいかと思ったら、いきなり冷たくあしらわれちゃう、みたいな
気分屋の王妃じゃ、つきあっててグッタリしちゃうものね。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王ジギスムント妃 アンナ

2011-08-13 08:08:19 | スウェーデン王妃
大反対の声吹き荒れる中の結婚
ジギスムント妃 アンナ・アヴ・オストリケ


1573~1598/在位 (ポーランド王妃)1592~1598 (スウェーデン王妃)1592~1598

ジギスムントは母親カタリーナ・ヤゲロニカの意向で
幼い頃に(カトリックの)ポーランドに移されていまして
女王アンナ(カタリーナの姉)の後を継いで、1587年にポーランド王に即位しました。

1592年、父ヨハン3世を継いでスウェーデン王にも即位しますが
その半年ぐらい前にオーストリア大公カール2世公女アンナと結婚していました。
           
この結婚はポーランド=リトアニア連邦の貴族たちの大多数が反対していました。
ハンガリーとかベーメン(ボヘミア)みたいに
ハプスブルク連合国になってしまうのがいやだったのね。
もちろん、ハプスブルク家は狙っていたと思います。

議会が兵士を出して入国を阻止しようとしたので
アンナはわざわざ遠回りしてクラクフに入りました。
王妃になろうとする女性が歓声で迎えられないなんてねぇ… 寂しかったでしょうね。

1594年、ジギスムントはスウェーデンに向かい、アンナも同行しました。
その際、ポーランド側の要請で王女(長女アンナと思われる)を残してきていました。
アンナはスウェーデンで子供を生んだら、今度ポーランドに行く時に
同じことを言われるのでは…と恐れていました。
たくさんの国の王様になるのも大変よね。
不在の間国を任せるにしたって、摂政が母親や妻じゃなきゃ信用できないでしょうし。

アンナはけっこう政治向きの女性だったらしいのですが、スウェーデンでは口をはさまず
もっぱら前王の未亡人グニラとの諍いに明け暮れていました。
グニラはプロテスタントでアンナはカトリック… やれやれ
ジギスムントの実母カタリーナとだったら、とても気が合ったことでしょう。

当時スウェーデンでは、ジギスムントが王になったことで旧教国になってしまう…と
恐れる人びとが、前王の弟カール(9世)を王にしようと画策していました。

そんな中、スウェーデン語が話せず異教徒よばわりされているアンナを連れ歩くことは
とっても危険なことで、ジギスムントは極力避けていたそうです。

ただ、ジギスムントとアンナはとっても愛し合っていたそうです。
ポーランドでもスウェーデンでも嫌われ者だったアンナにとっては
唯一の慰めだったでしょうね。

気苦労がひびいたのか、5人目のお子さんの出産の時に
24歳という若さで亡くなってしまいました。

ジギスムントは結局アンナの死後カールとの戦いに負けてポーランドに逃亡し
スウェーデン王を廃位されました。

息子ヴワディスワフ4世は、兄フェルディナント2世皇女ツェツィーリアと結婚します。



              
姉に続いて・・・
ジギスムント妃 コンスタニータ・アヴ・スタイアーマルク


1588~1631/在位 (ポーランド王妃)1605~1631 (スウェーデン王妃)せず

完全にポーランド狙いにいっていたのか、カール2世はアンナの妹コンスタニータを
後妻に送り込みました。(とは言っても7年後ですけどね… )

ちなみにジギスムントの母カタリーナの兄ジグムンド2世の妃には
神聖ローマ皇帝フェルディナント1世皇女エリーザベトカタリーナの姉妹が嫁いでいます。
            
コンスタニータはとっても戦略家だったようで
自分の子飼いを重要な貴族たちと結婚させて党派を拡大していきました。

1623年にジビェツという都市を購入したのですが、これは王室では禁止されていたことで
議会から追求されることになりました。

ジグムンドには姉のアンナとの間に王太子ヴワディスワフ(4世)がいましたが
コンスタニータは自分が生んだ王子に継承させたいと願っていました。
実の甥だから手は下さなかったみたいだが…

ヴワディスワフには跡取りが生まれなかったので、コンスタニータの願い通り
その後を息子のヤン2世カジミェシュが継ぎました。
でもコンスタニータはその即位に先立つこと17年、42歳で亡くなっておりました。
息子の晴れ姿を見たかったでしょうね。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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ワシントンナショナルギャラリー展 → 渋谷古本市

2011-08-12 20:21:52 | もろもろ
暑いですね!

川崎だ、溝の口だ、ついでに新大久保、と近場をウロウロしている間に
(うちの)夏休みが終わろうとしています
しかしアレですね、新大久保は韓流に興味が無い人と行っても盛り上がりませんね…

で、ワシントンナショナルギャラリー展に行って来ました。
「どうしよっかな」と迷っていたんですけど
“ これを見ずに印象派は語れない ” って言われちゃね…
平日だったせいか、始まってからかなり日が経っていたせいか
とてもすいていて見易かったです。

国立新美術館は上野の国立西洋美術館より若干小ぶりなんですかね?
上野は見ていて「まだあんの?」とグッタリしちゃうことが多いのですけど
「あれ、もう終わり?」 という程よい余韻を残しつつ、グッズ売り場に突入できます。
しかし、今回はちょっと物足りなかったですかね?
今回も大好きなシスレーは(油絵が)1点で寂しかった…

“ 語れない ” と言ってるわりにはグッとくる作品が少なかった気がします。
版画とかポスト印象派でかなりお茶を濁された感じ…
ま、あくまで無知な絵画好きの私の感想ですのでね。
これでもか!っていうぐらい見られると思っていたのでございます。

次回は9月28日から “ モダン・アート, アメリカン ” だそうですよ。
目玉はホッパーとオキーフみたいです。
他にホイッスラー、ポロック、スローンあたりがくるらしいです。
どうしよう?
ホッパーは見たいが、あまりアヴァンギャルドなものはちょいと苦手なんですよね。

そして、東急百貨店の渋谷古本市に行ってまいりました。 待ちかねてたぜ!
会場は大盛り上がりで、古本の棚を見つめる皆さんの視線が熱かったですよ。
私も旦那ほったらかしで会場をかけずりまわること1時間、こんな本を購入しました。

         

本屋さんで探していたんだけど見つからなかったゴーリキーがあったので
『母』と『追憶』を購入、『女生徒』という太宰治とおんなじ名前の短篇集があったので
フラピエという作家は知らないんだけど買ってみました。
あと、ドストエフスキーに『妻への手紙』という書簡集があることは知っていたのですが
チェーホフのがあったのでホイホイ買ってしまいました。

なんといっても嬉しかったのは、アラン・ドゥコー著『フランス女性の歴史』3巻が
ものすご~くお安く手に入ったことでしょうか?

レジでカードを出しているところを旦那に見つかりドッキリしたけど
やはり古本漁りは止められないんですよねぇ
コメント (5)
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スウェーデン王ヨハン3世妃 グニラ

2011-08-11 09:43:11 | スウェーデン王妃
玉の輿がなんだってんだ! 散々な目にあった王妃
ヨハン3世妃 グニラ・ヨハンスドッテル


1568~1597/在位 1585~1592

前妃カタリーナを亡くしたヨハン3世が再婚相手に選んだのは
カタリーナの侍女だったグニラでした。

グニラの父エステルイェートランド総督ヨハン・ビイェルケは
ヨハン3世の従兄弟にあたります。
グニラは10歳の時からヨハン3世とカタリーナの王女アンナの遊び相手として
宮廷で暮らしていました。

その後カタリーナの侍女になっていたわけですね。
ヨハンが前々から目をつけていたっていうわけではないと思いますが…

      
ヨハンが再婚を決意した時、グニラには婚約者がいたので求婚を拒みました。
グニラは十代半ば、ヨハンは50歳前、そりゃあ断るよね…

するとヨハン3世、怒ってグニラの頬を革手袋ではたいたらしいですよ!
権力に物を言わせて好き勝手に相手を選ぶだけでも男らしくないのに
フラれたら暴力に訴えるなんて、ひっどーい

しかし昔はそんなこと言ってられなかったんですね。
グニラの家族はヨハンと結婚するよう説得に説得を重ね、婚約も破棄させました。

どうやらヨハンは政治的な理由でグニラを妻にしたわけではなさそうで
性的なことと老いをくい止めたいという願望で選んだみたいです。
政府から、どこかの国の王女にすれば良かったのにと言われた時
「だって美しい妻が欲しかったから…」と答えたらしい

1585年、とうとうグニラはヨハンと結婚したんですけど
この結婚、ヨハンは良くても王一家は大激怒しました。
ヨハンの姉妹たちは身分違いだと言ってグニラを軽蔑し、式にも出ませんでした。

一応莫大な手当が与えられて、ものすごく裕福にはなりましたが
イヤイヤ嫁がされた夫の家族から蔑まれるって悔しいですよね。

グニラは前妃カタリーナとは反対にプロテスタント擁護派でした。
ヨハンはコロッと意見を変えまして、プロテスタント支持にまわりました。

思惑とは違って、この結婚でヨハンはめっきり老け込みました。
若い奥さんに振り回されちゃいましたかね?

そんなわけで結婚から7年後、ヨハンは亡くなってしまいます。

グニラは継承にそなえて3歳の王子ヨハンと王宮に留まりましたが
ヨハンの弟カール(後の9世)から「いつまでいる気だ!」と責められます。

また、新王ジグムント3世妃のアンナ・アヴ・エステリーケからも
到着する前に城を空けておくようにと強く言い渡されました。

でもそんな仕打ちに負けるもんか!
王子ヨハンの身分が保証されないうちは立ち退かないと頑張りまして
いくばくかの権利を手に入れブロボリ城に退きました。

4年後に29歳という若さで亡くなります。
最初の婚約者と結婚していたら、普通の上流家庭の主婦として
もう少し気楽でのびのびした人生が送れたかもしれませんよね。
抜きん出て美しいというのも弱りもの…

ちなみに王子ヨハンはグニラの死後カール(9世)に引き取られまして
後にエステルイェートランド公になりました。
ママの頑張りが利いたのかもしれません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王ヨハン3世妃 カタリーナ

2011-08-10 19:18:12 | スウェーデン王妃
夫を差し置いて時代に逆行
ヨハン3世妃 カタリーナ・ヤゲロニカ


1526~1583/在位 1568~1583

カタリーナはポーランド王ジグムント1世とボナ・スフォルツァの王女で
求婚者も多々ありました。
中にはロシア皇帝イヴァン4世などもおりました。
年代からいってアナスタシアが亡くなった頃ですかね?

      
1562年、カタリーナはフィンランド公だったヨハンと結婚しましたが
ヨハンと兄エリク14世の間はすでに緊張が高まっていて
結婚の許可を受けていませんでした。

ヨハンが勝手に結婚してリヴォニアを取引に使ったことで「独立しようとしている!」と
勘ぐったエリク14世はフィンランドに侵攻し、二人をスウェーデンに連れて来ると
グリプスホルム城に投獄してしまいました。

イヴァン4世、まだあきらめてなかったみたいです。
エリク14世にヨハンとカタリーナを離婚させて、カタリーナをロシアに来させるよう
要請したって言うんだからね
イヴァン4世はすでにマリーヤ・テムリュコヴナと再婚してたはずなんだけど…

どうやらエリク14世ははこの申し入れを受け入れちゃったみたいで
カタリーナは恐怖におののきました。
しかしこの一件がエリクの狂気に不安を抱く人たちを一層煽り立てたみたいです。

釈放されたヨハンに弟のカール(9世)が加担して反乱をおこしエリク14世は廃位され
カタリーナはロシアへ送られることはありませんでした。

カタリーナは王に即位したヨハン3世に、かなり影響力があったようです。
特に宗教問題については強硬で、カトリックの保護と反プロテスタントの姿勢を貫きました。

スウェーデンはすでにプロテスタントに移行しつつあったのですが
カタリーナがカトリック教国死守のためにホシウス司教と話し合った結果
前王エリクとカリン・マンスドッテルの王子グスタフがポーランドへ送られました。
ヨハンの二人の王子はカトリックの教育を受けるため
ブラウンシュヴァイクに送り出されました。
ノルウェーからフランシスコ派の神父が招かれ、宮廷内にカトリックの学校を設立…
完全に浮いてますな

板挟みのヨハン3世は、カトリックとプロテスタントを融合させたような教会を生み出し
儀式の多くにカトリックの習慣を復活させました。
恐妻家もつらいよね… でも君主なんだから奥さんの言いなりも困るね…

精力的だったカタリーナは後年痛風に悩まされ57歳で亡くなりました。

次の奥さんグニラはものすごいプロテスタント支持派です。
さてヨハン3世はどうするのか? つづく…

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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『十二本の毒矢』事実は小説より…と言うけれど

2011-08-10 07:10:25 | イギリス・アイルランドの作家
A QUIVER FULL OF ARROWS 
1980年 ジェフリー・アーチャー

ジェフリー・アーチャーはスパイ小説とか書いていらっしゃるのですか?
ハードボイルドですか? ずっとそんな気でいました。
とりあえず長編は読んだことないのですが
本棚に短編が2冊ありましたので読んでみることにしました。

12篇収められていますが、11篇が実話だとわざわざ書いてありました。
モームの『ランチ』を下敷きにしたという『昼食』が作り話しかしら?

国がらみの壮大な話から、日常の小咄的なものまでバリエーションに富んでますが
本当に実話かいな?
世の中には、そんなに話のタネになりそうなことってないと思うけど…

好きだったお話しをいくつかご紹介します。

『クーデター(The Coup)』
ブラジルの財閥プレンティの総帥シルヴァイラは、大きな契約を取るため寸暇を割いて
アルジェリアに降り立ちましたが、クーデターが起き足止めを食ってしまいます。
しかも同じホテルにライバル財閥のロドリゲスもいて、毎日顔を合わせることに…

天敵ともいえる二人の男性にある変化がおこり始めます。
途中から筋が読めちゃって、どんでん返しがほしいところ…どうなったと思います?
結末はどうあれ、後味すっきりで読み終えることができる物語でした。

『破られた習慣(Broken Routine)』
保険会社の副部長補佐セプティマスは、習慣が破られることが何よりも嫌いです。
しかしある日、副部長のせいで残業になり、帰りの電車も車輛も変わってしまいました。
習慣通り座席で煙草を吸おうとしたら、隣の若者が無礼なことをしてきました。

これはね~、どっかで聞いた話って気がすると思います。
松本人志の◯◯な話とかで誰かが話してそう… Mr.ビーンあたりがやったかもしれない。
とにかく、初めて読んだ気がしませんでした。

『ある愛の歴史(Old Love)』
奨学金で入学した中で特に優秀なウィリアムとフィリッパはライバル心を燃やし
ことごとくいがみあいながら3年を過ごしました。
しかしフィリッパの父の死をきっかけに、二人に愛が芽生え結婚することになりました。
結婚後も二人はお互いをバカにし合いながら輝かしい経歴を積み上げていきます。

これはもう、韓流のシナリオかと思っちゃったわ!
最初はお互いすごく嫌ってるのに、意識しているうちに好きになっちゃうって…
でも二人の結婚生活はちょっと変わってますけどね…最後が衝撃的です。

もっとどんでん返しや意地の悪い終わり方が目白押しかと思ったらそうでもありません。
ではつまらないかというと、そんなことはないです。

変にオチをつけようとしないで素直に書いているような気がして好感が持てました。
それに意表をつかなくても充分楽しめる物語になっています。
だんだん「もしかして、本当に実話なのかしら… 」なんて思えてきますよ。

ま、このさい実話でも作り話でもどっちでもいいです、面白かったから。
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スウェーデン王エリク14世妃 カリン

2011-08-08 23:52:41 | スウェーデン王妃
王を廃位に追い込んだ結婚
エリク14世妃 カリン・マンスドッテル


1550~1612/在位せず

ま、彼女のことだけがエリク14世の廃位の原因じゃないのですけどね…

グスタフ1世には4人の成人した王子がいました。
エリク(14世)だけが一人目の妃カタリーナ・アヴ・サッシェンとの王子で
あとは二人目の妃マルガレータとの王子です。 モメそうな感じですよね…

カリンは最初はエリクの愛妾でした。

父親はウップランドの監守マンスで、母親は市場の野菜売りのイングリッド。
10歳ぐらいで両親を亡くして居酒屋で働いた後、14歳ぐらいで
エリク14世の妹エリザベットの女中として宮廷で働くようになりました。
貴族でも裕福な商人の娘でもないのに…いったいどんなツテがあったんでしょうね?

言い伝えによればカリンにはすでに婚約者がいて、ある晩その男性が宮廷に忍び込み
下男に見つかって殺されてしまったとか…
       
翌年にはエリクの愛妾におさまり、16歳で娘エリザベットを生んでいます。

エリクはもともとハレムみたいなものがあって、複数の愛妾を持っていました。
でもカリンを愛妾にすると、他の女性は全て退けました。
そのせいでカリンは魔力や媚薬を使っていると噂されたそうです。

しかし実際のカリンは、もの静かで控えめな飾り気の無い女性でした。
とても美しい少女で無垢な瞳の持ち主でした。
読み書きを覚えるのも早く、すぐにエリクの良き相談相手になりました。

エリクは精神疾患があって性格が不安定でした。
王に多くの影響力を及ぼしていたのは相談役のヨラン・ペルッセンでしたが
カリンも彼に匹敵するほどの影響力を持っていたと言われています。

           
               エリク14世 & カリン & ペルッセン

しかし、神経衰弱がひどくなった時にはカリンの力も及ばなかった様子…
エリクが血迷ってステューレ一家を投獄してしまった時
マルガレータの妹でスヴェント・ステューレ伯夫人のマルタはカリンに助けを求めました。

カリンは「まかせて」と請け負いました。
エリク14世はすぐにスヴェントを訪ねると、身を投げ出して固い友情を乞うたそうです。
でもその日のうちに彼の処刑を執行してしまいました… うぅぅむ、血迷ってますね。

1567年、エリク14世とカリンは結婚し、翌年公式に結婚を宣言しました。
これは貴賤結婚とされました。

この結婚は大きなスキャンダルを招き、エリク廃位論に拍車をかけます。
弟のヨハン(3世)とカール(9世)は手ぐすね引いてます。

エリクは国内にこの結婚を認めさせようと、かなり盛大な式を挙げました。
現代の庶民なら不思議ではありませんが、当時の王侯家では前代未聞なことに
結婚前に生まれていた子供たちも大々的に紹介されました。
続いて強行されたカリンの戴冠式の最中、法王が王冠を落としたのを合図に
エリク14世一家は王弟たちに捕らえられ投獄されてしまいました。

カリンは前王妃カタリーナ・ステンボックにエリク14世を許してくれるよう
絶叫して懇願したそうですが、その願いは届きませんでした。

一家はフィンランドのトゥルク城、マリエフレード(スウェーデン)のグリプスホルム城、
ヴェステロース城などを転々とした後、1573年にエリクだけひき離されてしまいます。
翌々年には息子グスタフがポーランドのジュスイット派の修道院に入れられてしまいました。
カリンはその後2回しかグスタフに会っていませんが、息子の見窄らしさに涙したようです。

1577年には夫エリクが亡くなったと聞かされました。
砒素で殺されたって言われてますが事実は不明です。

カリンと娘のシグリドはフィンランドのカングラに屋敷を与えられましたが
1587年にはシグリドもヨハン3世の王女アンナの侍女になって家を出ました。

カリンは宮廷ではその性格から敵はいなかったと言われています。
しかし尊敬を得ることはできませんでした。
でもカングラでは付近の住民たちに好意をもって迎えられ尊敬されて一生を終えました。

ウプサラではなくトゥルクの聖堂に葬られました。

10歳から健気に働いてきた性格の良い少女なら、物語だったら幸せになれるんだけどね…
事実はそうはいかないというのがつらいとこですね。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王グスタフ1世妃 カタリーナ

2011-08-06 22:55:54 | スウェーデン王妃
婚約者と別れさせられ…Part.2
グスタフ1世妃 カタリーナ・ステンボック


1535~1621/在位 1552~1560

前妃マルガレータをこよなく愛していたと思われるグスタフ1世は
マルガレータが亡くなると深く悲しみましたが、1年後に再婚しました。

グスタフにはすでに3人の王子がいたので、再婚する必要もないように思えますが…
(しかもこの3人は後々激しい相続争いをおこします)

三人目の妃に選ばれたカタリーナの母ブリタは前妃マルガレータの姉にあたります。
    
グスタフが再婚を決めた時、カタリーナには婚約者がいました。
なんでもグスタフが求婚のために館を訪れた時には
逃げ出して草むらの中に身を潜めたということです。
16歳の娘さんですものね… 40歳も年上の人の嫁になれっていきなり言われても…

そんな新妻の気を察してか、結婚式は盛大に挙げられ
戴冠式の後のパーティーは3日間におよびました。

でもグスタフ自身が認めているように、結婚生活は幸せではありませんでした。
カタリーナは婚約者だったグスタフ・ロソルが忘れられなかったのね…
寝言で(元婚約者)グスタフの名を呼んだり
「王は優しくしてくれるけど、あなたを忘れないわ」なんてことを言ったりします。

結婚の翌年ぐらいからグスタフの健康は衰えを見せ始めて
残りの結婚生活は奥さんとしてより看護婦さんとして過ごしました。
カタリーナが妊娠したという説もありますが、子供は生まれていません。

結婚から8年、グスタフ1世が亡くなりました。
カタリーナは25歳、大好きだった元婚約者と再婚してもよい年ごろですが
再婚はしませんでした。

夫を亡くして嫡子がいない後妻は後ろ盾を無くしたようなもので
辛い立場に立たされることが多いのですが、カタリーナは違いました。
(義理の)末っ子カール(9世)とは土地をめぐってゴタゴタがありましたが
ヨハン3世とはとても良好な関係を築いていました。

領土から多くの利益を得ていたカタリーナは、義理の息子にあたるエリク14世や
ヨハン3世などにお金を融通してあげたりしたようです。
宮廷のファーストレディを務めた時期もありました。
スウェーデンで初の “ 国王の未亡人 ” の称号も得ています。

1568年に(義理の)息子のエリク14世が退位させられた時に城から救出してくれた
娘婿ザクセン=ローエンブルク公マグヌス2世の弟フランツと結婚したいと
考えた時があったようですが、マグヌス2世が阻止しました。
フランツは12歳ぐらい年下なんですけど…いきなりどうしちゃいましたかね?

ちなみにですけど、エリク14世の愛妾から妃になるカリン・マンスドッテル
ヨハン3世の愛妾カリン・ハンスドッテル、グスタフ2世の恋人エヴァ・ブラーエは
それぞれカタリーナの侍女を務めていたことがありました。

王様のお妃や母后の侍女にはけっこう愛妾の座をゲットする人が多いですよね。
ファーストレディですから、見栄えのいい侍女を選びたくなるものなのでしょうけど
あとで痛い目に遭うかも… あまり美しい人を選ばない方がいいのかもしれませんね。

未亡人になってからのカタリーナは慈善活動に打ち込んでいまして
86歳で亡くなった時には “ 貧しき者は友を、親のいない子は母親を失った ” と
国民がたいそう悲しんだそうです。

けっして本人が望んだ結婚ではなかったかもしれませんが
王妃に向いている人だったのかもしれませんね。

そんなカタリーナですが、葬られているウプサラ大聖堂に彼女自身の墓銘碑はないんだって。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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