まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イングランド王ヘンリー2世王女 エリナー

2011-01-31 01:22:34 | イングランド王妃・王女
強い女性のはずが夫の死に大打撃を受ける
ヘンリー2世王女 エリナー・オブ・イングランド
カスティーリャ王アルフォンソ8世妃


1162~1214/在位 1177~1214

エリナーはヘンリー2世とエリナー・オブ・アキテーヌの次女で
リチャード1世の妹、ジョン王の姉でした。

         

名付け親のロバート・オブ・トリニーは歴史家で、エリナーのことを
出来る限り書き残したっていうんだけれども、あまりエピソードが見当たらない…

ヘンリー2世は王妃エリナーの分と併せるとものすごい領土を持っていました。
北はスコットランドとの境まで、南はスペインとの国境まで
とにかくフランス王領の10倍ぐらいあるんじゃないでしょうか?
フランス王に臣従している貴族の公領を併せても、ヘンリー2世&エリナーの領土の
2分の1か、3分の1しかありませんでした。

だから、王女たちは引く手数多ですよね。
王子も多かったのでまさか王位はまわってこないでしょうが
少しぐらい王女が領土を譲られるかもしれないし、持参金としてもらえるかも…
エリナーもやっぱり持参金にガスコーニュが要求されています。

エリナーはカスティーリャ王アルフォンソ8世と14歳の時に結婚しています。
この結婚はピレネー山脈に国境を定めるためのものでした。

母エリナー・オブ・アキテーヌには、フランス王ルイ7世との間に二人、
ヘンリー2世との間に三人の王女を生んでいますが、エリナーが一番母親似だったそうです。
つまりパワフル! 夫と二人三脚で政治を行いました。

お子様も11人生まれています(4人は夭逝)
王子たちには恵まれず、末子エンリケ(1世)以外は父王より先に亡くなっています。
エンリケも王になってから3年、13歳で亡くなっています。

長女ベレンガリアはレオン王アルフォンソ9世妃になり、その後カスティーリャ女王に、
三女ウラッカはポルトガル王アフォンソ2世妃に、
四女ブランカはフランス王ルイ8世妃に、
六女レオノーラはアラゴン王ハイメ1世妃になりました。

アルフォンソ8世が亡くなった時には、10歳の息子を助ける意気込みだったらしいのですが
悲しみのあまり葬儀を取り仕切ることもできず、仕方なく長女のベレンがリアが
喪主の役目を果たしました。
「あの王妃が!?」ってことでまわりは困惑したそうです。

悲しみのせいか病に陥ったエリナーは、夫の死からわずか28日後に亡くなりました。
鉄の女のように見えて夫恋しさで亡くなるなんて…なにやらぐっとくる最後ですね。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ヘンリー2世王女 マティルダ

2011-01-29 02:30:02 | イングランド王妃・王女
波瀾万丈の夫を支えた…のかしら?
ヘンリー2世王女 マティルダ・オブ・イングランド
ザクセン公ハインリヒ3世妃


1156~1189

マティルダはヘンリー2世とエリナー・オブ・アキテーヌの長女です。
兄の共統王ヘンリー妃マーガレットは後にハンガリー王ベーラ3世と再婚しました。
弟にリチャード1世とジョン王がいます。
        
1165年、ケルンの大司教がルーアンにあるヘンリー2世の宮廷を訪れて
9歳のマティルダとドイツ諸候を結婚させたいと持ちかけました。

しかし大法官で対立教皇派のレスター伯ロバートは大司教に会おうともせず
自ら神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の皇子とマティルダの縁談を進めました。
この縁談は上手くいかなかったのだけれども、代わりにフリードリヒ1世の盟友
ザクセン公ハインリヒ獅子公との縁談がまとまりました。
1167年にイングランドを発ち、翌年1月に結婚したマティルダは11歳、
ハインリヒは再婚で38歳でございました… いつもながら年の差は考慮されないのね。

神聖ローマ帝国の力を確立したいフリードリヒ1世と共に戦うハインリヒは留守がちで
マティルダが代わって領地を治めていました(とはいってもブレーンがいたでしょうが…)

ところが、ハインリヒとフリードリヒの間に亀裂が入ります。
ドイツ王、ひいては神聖ローマ皇帝の座を狙っていたハインリヒの心を知ってか知らずか
フリードリヒ1世が4歳の我が子をドイツ共治王にしてしまったからです。
イタリアで苦戦するフリードリヒの援護も拒み、味方の諸候を引きつれ離反しました。

フリードリヒ1世は大敗してイタリアから帰って来たのだけれども
反ハインリヒ派を集めて、ハインリヒに大敗の責任を負わされてることに成功します。

そんなわけで、1182年、ハインリヒ一家は追放になってしまい
ノルマンディへ渡ってヘンリー2世の世話になります。
嫁の実家に居候…今だと肩身が狭いけど、当時はよくあったことですし
城がいくつもあるのでね…敵に睨まれなければ快く貸してくれたんじゃないでしょうか?

マティルダはアルジャンタンの宮廷で叙情詩人ベルトラン・ド・ボルンと知り合いました。
彼は詩の中にマティルダをエレナとかラナという名で登場させたそうです。
なにかあったかどうかは知りませんけどね…

1185年、ハインリヒとマティルダはやっとザクセンに帰ることを許されました。
ところが、1189年にいいがかりみたいな理由で再び追放を言い渡されます。
1190年に、フリードリヒ1世は十字軍に参加しているのね。
自分がいない間に好き勝手をやられては困ると考えたのではないでしょうか?

マティルダはハインリヒの利益を守るべくブラウンシュヴァイクに残りましたが
ハインリヒが発ってから3ヶ月後に亡くなりました。

あまり活躍したエピソードが無いんだけど、父王の宮廷ではいじけないように励まし
5人の子供(3人は夭逝)を育て、夢を諦めない夫を支えたんでしょうね(あくまで想像)

ハインリヒ獅子公はフリードリヒ1世の皇子を敗りましたが、その後和解して
マティルダの死から6年後にブラウンシュヴァイクで亡くなりました
ふたりともブラウンシュヴァイク大聖堂に葬られています。

               
              すっとぼけた顔が憎めないのでもう1枚

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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『女嫌いのための小品集』悪意の泥沼に片足つっこむ

2011-01-28 01:39:26 | アメリカの作家
LITTLE TALES OF MISOGYNY 
1975年 パトリシア・ハイスミス

例によって大掃除中にパトリシア・ハイスミスの本を何冊か見つけました。
読んだ覚えが有るような無いような…いったいどうして買ったのかよく分かんないのですが
とりあえず短篇から手をつけてみました。

何ひとつ優しさや愛が感じられない17篇の短篇がつまった
マグロを保管する冷凍倉庫のように冷たい一冊です。

とにかく、登場人物がバタバタ死にます。
そこに憐れみや酌量はありません、スパッと死にます。
さらになんのエクスキューズも説明もありません、当たり前のように死にます。

女嫌いのための、とわざわざ書かれています。
確かに主人公は皆一癖も二癖もある扱いにくそうな女性ばかり…
でも、男性から見た嫌な女なのか、女性から見た嫌な女なのか、決めかねています。

いくつかご紹介しますね。

『寝たきりの女(The Invalid,or,The Bed-Ridden)』
クリスティーンは狙った男フィリープを繋ぎ止めるため、事故を装って寝たきりになります。
けれども休暇でカンヌに行くときだけは元気になりました。
「ぼくのせいで…」と言い続けていたフィリープも疑問を抱きます。

よく似たお話しに、モームの『ルイーズ』というのがあるんですけれどもね。
騎士道精神で、か弱い女性を守らなければいけないと考えている男性の心理を
逆手に取った上手い作戦…現代では通用しそうにないですね。

『芸術家(The Artist)』
熱烈な芸術愛好家ジェーンは、まず絵画、次にダンス・声楽・彫刻と
対象を次々に変えては没頭していきます。
夫のボブは彼女が通う芸術学院を憎悪するようになり「爆発すればいいのに」と考えます。

これは人ごとじゃないのよね…私も凝り性なもんで。
けっこう旦那さんをほったらかしにしていたりするんですけど
こんなこと考えてないでしょうね?

『動く寝室用品(The Mobile Bed-Object)』
男に買われたり下取りに出されたりしながら食事と住処をまかなってきたミルドレッドも
23歳になり、将来に不安を覚え始めました。
そんな時現れたサム・ザップは天からの授かり物のような男性でした。

女性であることを武器にして生きていけるのはいくつまでだろう…
王の愛妾・寵姫シリーズを書く時にいつも思うんですが
男性に愛されるようになるより、その愛を長く続かせる方が大変そうです。

他にも、男性から言い寄られて困っているコケットや、女流作家、ダンサー、
平凡な主婦、次から次へと子供が生まれる母親、娘夫婦に遠慮する母、などなど
いろいろな女性がターゲットになっています。
どの話しも主人公(あるいは相手の男)がバッサリやられてます。

一篇はとても短く、さら~っと現象だけを書いているようでいて
実はものすごい悪意を漂わせている気がするわ。

好きじゃないかな…
だけど、一度は面と向かって誰かに言ってみたい
「あんたみたいな女はロクなもんじゃない!」というシチュエーションが揃っていて
溜飲を下げる効果は(ちょっと)ありそうです。

ヌルヌルの中に足を入れたらなんだか気持ちいい…そんな感じの一冊でした。
おすすめはしません
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イングランド王ウィリアム1世王女 コンスタンス

2011-01-26 02:01:45 | イングランド王妃・王女
お母様のお気に入り
ウィリアム1世王女 コンスタンス・オブ・ノルマンディ
ブルターニュ公アラン4世妃


生年不詳~1090

コンスタンスはウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの四女か五女です。
才気煥発な娘で、王妃マティルダの一番のお気に入りでした。
           
1086年以降にブルターニュ公アラン4世と結婚しましたが
1090年に(たぶん毒殺で)亡くなりました。
ルドン(ブルターニュ)のサン・メランに葬られました。
1672年に棺が発見されています。
(フランスでは、フランス革命の時に王家に縁のある教会や修道院が破壊されて
 お墓が見つかっていない王侯貴族がけっこういます)

アラン4世は後にエルメンガルド・ダンジューと再婚しまして
その息子コナン3世は継承戦争でスティーヴン派になったそうです。

ウィリアム1世の後を継いだウィリアム2世は未婚でした。
ヘンリー1世の王子は即位前に亡くなり、ひとり娘のマティルダと王位を争って勝利したのが
アディラ・オブ・ノルマンディの息子、ブロワ家のスティーヴンでした。


女王になってたかもしれないけど…
スティーヴン王王女 ブローニュ伯マリー1世
ブローニュ伯マチュー夫人


1136~1182/在位 1159~1170

マリーはスティーヴン王とマティルダ・オブ・ブローニュの王女です。

幼い頃に修道院に入りましたが、長男ウスタシュ(ユースタス)が父王より先に亡くなり
次男ギョームに嫡子が生まれなかったことからブローニュ伯領を継ぐことになって
1159年に修道院から出てまいりました。
       
翌年マチュー・ダルザスと結婚しました。
マチューはこの結婚でブローニュ伯領の共同統治者になりました。

でも、そんなに年も離れていない二人の結婚生活はあまり上手くいかなくて
10年ほどで結婚を解消しました。

結婚解消後、どういうわけだかマチューがブーローニュ伯にそのまま在位して
マリーはモントルイユのSt. Austrebertで修道女になってます。
そこで1182年に亡くなり、そのまま葬られました。

マチューは先立つこと9年前に亡くなっていて、伯領は長女イーダが継承していました。

やはり20年あまりの人生を聖なる場所で過ごしてきた人には
俗世は煩わしいものなのかしらね?

もし父王スティーヴンが徹底的にヘンリー1世王女マティルダを敗っていたら
あるいは女王になった人だったかもしれませんけど、そんな野心はなさそうですね。

(参考文献 森護氏『英国王妃物語』『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ウィリアム1世王女 アディラ

2011-01-25 01:28:32 | イングランド王妃・王女
イングランドに継承戦争を招いた結婚
ウィリアム1世王女 アディラ・オブ・ノルマンディ
ブロワ伯エチエンヌ2世夫人


1062以降~1137

アディラはウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの王女で
実は五女かもしれないんですが、文字量の問題で先に持ってきました
四女かもしれないコンスタンスは生年不詳なのでね…

アディラは元気一杯の教養高い女性で
碩学王と言われたヘンリー1世のお気に入りの姉でした。
         
1080~84年の間にブロワ伯エチエンヌ2世と結婚しました。
ブロワ伯は当時フランスで最も裕福な部類に入る貴族で
ヘンリーとともに十字軍にも参加していました。

エチエンヌ2世は1100年にお宝を携えて帰国したのですが
教皇への義理立てのために、翌年またアンティオキアに向かいました。
1102年、ラムラの戦いで亡くなりました。

エチエンヌ2世は臆病者で、戦火の中逃げ出した的な噂が多々あるそうですが
これは後年の歴史家がねつ造したものだそうです。

アディラは領主になった子供たちの摂政を務め、ブロワ伯領と自分の領地を治めて
フランス王家を凌ぐほどの富める領地にしました。
立派だね! 夫の死後会社を盛り立てた女社長って感じでしょうか?

しかし、そんなアディラにも頭痛の種が…
長男のウィリアム(ギョーム)は、退化した人間じゃなかろうか?と言われるほど
知性に欠けた人だったらしく(精神的な病説あり)、アディラとは不和でした。

そこで一度は譲ったブロワ伯領とシャルトル伯領を、1107年に
次男ディボー(テオバルド)に指名し直しています。
ここで継承争いなどが起きなくて良かったですね。 強い母のおかげでしょうか?

そして三男エチエンヌ(スティーヴン)は、1111年
弟ヘンリー1世のイングランド宮廷へ送りつけました。
アディラの読みはあたり、スティーヴンはヘンリー1世のお気に入りになります。

ヘンリー1世はマティルダ・オブ・スコットランドとの間に
ウィリアムという王子がいましたが1120年に嫡子が無いまま亡くなります。

そこでヘンリー1世はスティーヴンに王位を譲ることを約束しました。
これが口約束だったので、後々ややこしいことに…

1125年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世を亡くした王女マティルダが帰国しました。

ヘンリー1世の頭に「マティルダを女王にしちゃおっかな」という考えが
むくむくわき上がり、前言を撤回したりするもんで、ヘンリー1世の死後
スティーヴンが即位したものの、各家を巻き込んでの継承戦争に突入しました。
どちらかというとスティーヴン有利だったんですけどね…

姪マティルダ(皇后)と嫁マティルダ・オブ・ブーローニュ
激しく争っている間のアディラの動向はよくわかりませんが
1120年にはマルティニーの修道院に隠遁していたらしいのよね。
たぶん影ながら息子を応援していたことでしょう。

1129年に末っ子ヘンリーがウィンチェスターの司教に就任したことが
なにより誇りだったみたいです。

1135年にはスティーヴンがイングランド王になったし、もう思い残すことは無かったのか
1137年にポワトゥのマルシリーで亡くなりました。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント (3)
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『子どもたち・曠野』なにやら雄弁なチェーホフ

2011-01-23 01:22:34 | ロシアの作家

アントン・チェーホフ

チェーホフ大好き! な私ではありますが、実はこの一冊はあまり入り込めませんでした。
初期のお話しを中心に集められた短篇集なのだそうです。
語りかけたいことがたくさんあったみたいです。

いつになく宗教や神様に対する言及が多い気がして、宗教観の薄い私のような者には
読んでいて弛んできてしまう物語が多い気がしました。

11話の短篇と1話の(長めの)中篇が収められています。
気になった物語をいくつかご紹介します。

『聖夜/1886年』
復活祭の夜、信心深い見習い修道士イエロニームの渡し舟で礼拝式に向かいました。
イエロニームは修道補祭の死を悲しみ、彼の讃美歌をこよなく愛していたと言います。
礼拝式で説教や讃美歌をありがたがる様子もない祭り気分の修道士を見て
黙々と舟を渡しているイエロニームの姿を思い浮かべました。

宗教に疎い私でも、イエロニームの敬虔さには心打たれます。
昔から宗教指導者の中には私利私欲に走る人がいないわけじゃないですけどね…
彼のような人に指導者となってほしいものですね。

『ワーニカ/1886年』
靴屋の奉公に出された9歳のワーニカは、クリスマスの前夜
皆が出かけてひとりぼっちになった部屋でおじいちゃんに手紙を書きました。
どんな手伝いでもするから迎えにきてほしいという手紙です。

おじいちゃんにも止むに止まれぬ事情はありましょうが9歳ですよ、本当に可哀想。
この手の物語でいつも思うのは、奉公先の人が酷いことなの。
特におかみさん、子どもに対してどうしてそうかな? 嫌いなら預からなきゃいいのに…

『ロスチャイルドのヴァイオリン/1894年』
金のことばかり考えている棺桶屋兼ヴァイオリン弾きのヤーコフの妻マールファが
病にかかりあっという間に亡くなってしまいました。
ヤーコフは結婚から52年、マールファを一度もいたわったことが無かったと考えます。
しばらくすると自分もマールファと同じ病にかかりました。

死んだ後で後悔したって遅いのよ! といつも思うの。
私たちの両親世代は今より亭主関白だったり横暴なお父さんが幅をきかせていたのでね。
たぶん愛はあるのでしょうが、ちゃんと態度で表していただきたい、と思うのは
女のわがままでしょうか?

表題の『曠野』は、9歳のエゴルーシカが学校に通うために母と別れて
商人の伯父と神父に連れられ曠野を旅する道中を描いた素朴なお話しです。
なんですけど、どうも書きたいことが多かったみたいで
子どもがだらだらと日記を書いたみたいな有様になっちゃってます。

でも、そのとりとめのなさが子どもの不安を表しているみたいに思えるし
旅のエピソードもパラエティに富んでいてけっこう面白く読めました。
短篇集に入ってるにしちゃあ長いので少し中だるみは感じましたが
チェーホフらしさが随所にあって、最後にしんみりできるいいお話しでした。

チェーホフもモーパッサン的に書いている小説の内容が幅広いですよね。
岩波文庫はテイスト別にまとめて下さっていたような気がするんですが
この本はけっこうなんでもありな気がします。

チェーホフの短篇集を最初に読むなら、私としては新潮文庫
岩波文庫の『カシタンカ・ねむい』がおすすめかなぁ…
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イングランド王ウィリアム1世王女 セシリア

2011-01-22 23:28:45 | イングランド王妃・王女
なにか問題でもあったの? 気になるわ…
ウィリアム1世王女 セシリア・オブ・ノルマンディ


生年不詳~1126

ふぅぅ…やっと神聖ローマ皇后シリーズが終了しました。
今回は、ちょいと目先を変えてプリンセスたちにいこうかしら…と思います。
王の娘に生まれた、端から見ればたいそう羨ましい女性たちの人生って
どんなものだったのでしょうね?

私の家系図書きはイングランドから始まったので今回もイングランドの王女たちから。
王妃シリーズ同様、ノルマン家が王様になったところから初めます。
(ややこしいので庶子は省きますね

まずはウィリアム1世の長女だと考えられているセシリア、実は生没年不詳です。
母親はマティルダ・オブ・フランダース
兄にウィリアム2世ルーファス、弟にヘンリー1世ボークラークがいます。

セシリアは幼い頃にカーン(ノルマンディ)の修道院に入れられて
その後は一生を修道院で過ごしたようです。

1112年にHoly Trinity(?)の修道院長になっていまして
1126年にそこで亡くなりそのまま葬られました。
棺は見つかっていないそうです。

最初の子供で可愛いはずなのに、どうしちゃったんでしょうね?


三女とか他の人とごちゃまぜかも・・・
ウィリアム1世王女 アデライザ


1055~1066

次女と言われるアデライザについてはほとんど何も知られていないらしく
生没年も一説によるもので本当は不詳です。
彼女だけ “ オブ・ノルマンディ ” がついてないんだし…

『ノルマンディ公の功業(直訳)』という本によると
アディリシスというウィリアム1世の王女が、サクソン系最後の王ハロルド2世と
婚約したということになってるらしいのですけど
三女アガサも婚約しているのでね…(別説あり)

ちなみに、ハロルド2世はウィリアムの娘との婚約は無視して、1063年に
ウェールズの支配者グリフィズの未亡人エディス(オールジス)と結婚してます。
アデライザもエディスも没年が1066年頃と言われているのよね…
いろいろ混同されている気がします。


神に届いた清き祈り
ウィリアム1世王女 アガサ・オブ・ノルマンディ


1064頃~1079

三女アガサの婚約者はハロルド2世、または同名の庶子かもしれないそうです。
もし1064年頃の生まれだとすると、ハロルド2世は1066年に亡くなっているので
息子の可能性が大きいですよね。

1078年頃カスティーリャ王アルフォンソ6世から結婚の要求があり
代理人まで送られちゃったらしいです。
アルフォンソ6世という方は、アガサより25歳ぐらい年上で4~6回結婚してます。

アガサは「スペインに連れて行かれませんように 」と神に祈り続けますが
結局船に乗せられてしまいました。

しかし祈りは届いたらしく、嫁入り前に船上で亡くなりました。
良かったんだか悪かったんだか…
アガサは無垢のまま引き返し、バイユー(ノルマンディ)に葬られました。

家系図は3人まとめてしまいました。

      

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝カール4世妃 エリーザベト

2011-01-20 22:32:40 | ドイツ系王妃
お若いのにしっかりしていらっしゃる
カール4世妃 エリーザベト・フォン・ポンメルン


1347~1393/在位 (神聖ローマ皇后)1363~1378 (ボヘミア王妃)1363~1378

二人目、三人目の妃を若くして亡くしたカール4世は、またまた若い妃を迎えました。

お相手はポメラニア公ボギスワフ5世の公女エリーザベトです。
母親はポーランド王カジミェシュ3世の王女エルジェーベトです。

         

前妃アンナの死から10ヶ月後にクラクフで式を挙げました。
けっこう素早い再婚でしたね。
三度の結婚で皇子が一人しか残っていないということに焦っていたと思われます。

エリーザベトは16歳、カールは47歳でした。
カール4世はただの若い娘好き…というわけではないんですよ(と思ふ)
この結婚は、オーストリア公ルドルフ4世・ハンガリー王ラヨシュ1世と
カジミェシュ3世による反チェコ連合に亀裂を与えるための政略結婚でした。
ちなみにルドルフ4世は次女カトリーヌのお婿さんですけどね…

祖父の敵陣に乗り込んで来たエリーザベトは、年は若かったですけれども
精力的で自信に充ち満ちた女性だったようです。

夫婦の仲は睦まじかったということで、カール4世が重い病にかかった時には
大聖堂まで徒歩で赴き、供え物をしたり祈りを捧げたりしたそうです。

エリーザベトはカール4世に四男二女を授けました(皇子二人は1歳で夭逝)
でもカール4世は前妃たちが生んだ子供たちの方を好んでいたみたいで
つらい思いをしたようです。

1378年、カール4世が亡くなりました。
エリーザベトは12歳を筆頭にまだまだ幼い4人の子の育児に専念します。
特に長男ジギスムントがハンガリー王になれるように心血を注ぎました。
ジギスムントはハンガリー女王マリアと結婚してハンガリー王になり
兄ヴェンツェルの後を継いでボヘミア王になり、ついに神聖ローマ皇帝になります。

エリーザベトは1393年に亡くなり、ヴィート大聖堂のカール4世の隣に葬られました。
前も書いたけど、ここには4人の妃がカール4世と眠っているのよね。
どうやって並び順が決まったのか気にかかるんだわ。

ジギスムントのボヘミア王、神聖ローマ皇帝即位には立ち会えませんでしたが
ハンガリー王即位だけでも目にすることができてよかったですね。

しかし、せっかくふたつの王座と皇帝の座まで手に入れたジギスムントだったのに
子供が王女エリーザベトしか生まれず(皇子は死産)紆余曲折の末
娘婿アルブレヒトの実家ハプスブルク家に何もかも持っていかれることになります。

ハンガリーの続きはこちらから
神聖ローマ帝国の続きはこちらから見てみて下さいな

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝カール4世妃 アンナ

2011-01-20 01:33:44 | ドイツ系王妃
またまた若くして亡くなる
カール4世妃 アンナ・フォン・シュヴァイトニッツ


1339年~1362年/在位 (神聖ローマ皇后)1355~1362 (ボヘミア王妃)1353~1362

カールの3人目の妃は、ピアスト家のシフィドニツァ公ヘンリク2世の公女アンナです。
ヘンリク2世はアンナが4歳の時に亡くなってしまいました。

アンナの母カタリンはハンガリー王カーロイ1世とマリア・ピアスト
エルジェーベト・ピアスト、どっちかの王女でした。
王女なのに誰の子かはっきりしないってどうよ?
そんなわけで、アンナも母の故郷ハンガリーで育ちました。
     

アンナは最初、カール4世と二人目の妃アンナ・ダー・フォン・プファルツ
王子ヴェンツェルと婚約していました。
ヴェンツェルは生まれたばかりの0歳で、アンナは11歳でした。
しかし、ヴェンツェルは1歳で亡くなってしまいました。

その2年後にアンナ(プファルツ)が亡くなると、カールはアンナ(シュヴァイトニッツ)を
自分のお妃にしようと考えます。

若い子好きってわけじゃないの。
ボヘミア近隣で郡を成す、ピアスト家の公国、シュレージェン(シロンスク)地方を
コントロールするための政略結婚なんですよ!

で、この結婚にはローマ教皇インノケンティウス6世の特免状が出されたっていうんだけれども
なんで? そんなに濃ゆ~く血がつながっているようには見えないんだが…
          
         
どうこれ? 繋がってないよね?
それとも他で濃い~い繋がりがあるんでしょうか? たどりきれませんでした

たぶん、アンナが14歳になるのを待って1353年に結婚、カールは37歳でした。

王女エリーザベトに続き、待望の皇子ヴェンツェルが生まれました。
(前妃アンナとの間に生まれて1歳で亡くなった皇子もヴェンツェルでしたけど…
 よっぽどこの名前がつけたかったと思える)
アンナは、結婚から10年目、第三子出産の際に亡くなりました。
またまた23歳という若さでした。
          
カール4世、お祓いかなにかすればよかったんじゃないのぉ?
あ、神聖ローマ皇帝だから教会で何かやっていたかもしれませんね

アンナはヴィート大聖堂に葬られました。
ここにはカール4世の前妃二人ブランカとアンナがすでに眠っていました。
後にカール4世も、四人目の妃エリーザベトも葬られています。
どういう順番で並んでいるのでしょうね?

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝カール4世妃 ブランカ

2011-01-19 22:17:58 | ドイツ系王妃
最初の王妃
カール4世妃 ブランカ・マルガレーテ・フォン・ヴァロア


1316年頃~1348/在位 (神聖ローマ皇后)せず (ボヘミア王妃)1346~1348

カールの父ボヘミア王ヨハンは、ドイツ王になれず、神聖ローマ皇帝の座は
ヴィッテルスバハ家のルートヴィヒ4世に奪われていました。

1346年、ヨハンの画策でルートヴィヒ4世の対立王に選ばれたカールは
翌年ルートヴィヒの事故死によって単独王になり、1355年に晴れて皇帝に即位しました。

そんなカール4世の妃ブランカはフランス王フィリプ3世とイザベル・ダラゴンの王子
ヴァロワ伯シャルルの娘でした。

姉のイザベラはブルボン公ピエール1世に嫁ぎ、その娘、つまりブランカの姪が
シャルル5世妃ジャンヌです。

けっこう華々しい家系なんですけど、ブランカ自身のエピソードはあまり無し…
ブランカが十代前半だと思われる1328年に
12歳のボヘミア王子カレル(カール)と結婚しました。

1346年にカレルがボヘミア王に即位し、ブランカも王妃になりました。

        
カールは単独のドイツ王にはなったといっても、聖職選帝侯の支援を受け
教皇の言いなりのように思われていて貴族たちの嘲笑の的でした。

ブランカはカールが皇帝に即位する前に亡くなっていますので
後に金印勅書を定めたりして力を発揮する姿は見ておらず
夫のみじめな姿だけを見ていたことになりますね。
もしかしたら、妻の前では力強く未来の構想を語っていたかもしれないですね。

王女がふたり生まれまして、姉マルガレータはハンガリー王ラヨシュ1世妃になりましたが
14歳で亡くなっています。

次女カタリーナは最初ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世に嫁ぎました。
この人は後に舅のカールに歯向かいます。
死別して翌年バイエルン公オットー5世と再婚しています。



                 
ふたりめの王妃
カール4世妃 アンナ・ダー・フォン・プファルツ


1329~1352/在位 (神聖ローマ皇后)せず (ボヘミア王妃)1349~1353

前妃ブランカの死から9ヶ月後、ボヘミア王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)は
新しい妃アンナを迎えました。

アンナはバイエルン公ルドルフ2世の公女でした。
          
1350年、待望の王子ヴェンツェルが生まれますが1年で夭逝します。
アンナはその後子供ができませんで、23歳の若さで亡くなりました。

カール4世はお妃運があまり良くないのよね。
皆若くして亡くなっちゃって…次の王妃もそうなんですよ。 つづく

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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『奇跡も語る者がいなければ』まさに名も無き人々の物語

2011-01-17 01:42:03 | イギリス・アイルランドの作家
IF NOBODY SPEAKS OF REMARKABLE THINGS 
2002年 ジョン・マグレガー

まずこの本、(原作がどうなのかはわかりませんが)文章の切れ目が少ない、
一文の中に何度も主語が出てくるし、台詞も「」無しで
私にとっては吉田健一氏の訳した本並みに読みづらい本でした。

30人ほどの登場人物もほとんどに名前がついておらず、各章で好き勝手に登場し、
二つの話しが交互に進行するので、なかなかに読みにくい内容でした。

でも途中で投げ出したくなることはなく、むしろ中盤から早く次のページに
いきたくなったという、不思議に面白い物語でした。

あらすじを説明するのは難しいし、あまり種明かししたくないので
かなりおおざっぱに内容を紹介しますね。

進行していくふたつの物語のうちのひとつはこんな内容…
イギリスのとある町のとある通りである出来事が起こった8月31日に
その通りの11番地から27番地で暮らしていた人たちの
朝からその瞬間までが描かれています。

各章一人(あるいは一家族)という書き方ではなく、ある時間帯における
選ばれた登場人物の数分間を、しばしばその心情も交えて濃密に書いています。
何度も登場する人もいれば、あまり顔を出さない人もいます。

もうひとつの物語は…
その出来事から3年後、その出来事があった通りから引っ越した女性が直面した問題と
過去からの使者のような男性マイケルとの交流、というか恋愛が
不透明な過去と未来をまとわりつかせたまま進んでいきます。

女性が一番助けを求めたかった両親の、掴みどころのない反応や過去も
読みどころのひとつです。

もうちょっと暴露しちゃうと、私が気になった住民はこんな人々。

16番地の父親と幼い娘、特に両手に大火傷のあとがある父親の過去は気になります。

18番地のドライアイの若い男、実はマイケルの双子の兄です。
(これはすぐにわかることなので書いちゃうね)
実は語り手に淡い恋心を抱いていましたが、失恋に終わっていました。

20番地2階の老夫婦、このふたりだけで一冊物語を書いていただきたいぐらい
長年連れ添った男女の愛の深さと哀しさが滲み出てます。

22番地には3年後に問題に直面することになる眼鏡の女の子と友人のセアラがいます。

最終的には物語の中でもっと重要な役割を演じることになる人物もいるのですが
それを書くと読み進む楽しみ半減なので書かないでおきますね。

読み易い文章大好きな私は、ホント、最初はイライラしちゃって
「あー、手を出すんじゃなかったわ!」と思ってましたが
物語そのものの面白さが充分に補ってくれました。

文章の上手さと、構想の面白さ、どちらが名作と言われる作品の比重を占めるのか
一介の読者には謎ですけれど、文章偏重傾向にあった自分を少し反省いたしました。
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神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世妃 マルガレーテ2世

2011-01-16 02:21:52 | ドイツ系王妃
領主も楽じゃない・・・
ルートヴィヒ4世妃 ホラント伯マルガレーテ1世


1311~1356/在位 1328~1347

マルガレーテはエノー伯ギョーム1世の娘で
ルートヴィヒが前妃ベアトリクスを亡くした2年後の1324年に嫁ぎました。

       
1328年、長年対立してきたハプスブルク家のフリードリヒ1世に打ち勝ったルートヴィヒは
いよいよローマ皇帝に即位しようとしますが、フランスの支配下にあった
ローマ教皇ヨハネス22世は戴冠を拒否します。

ルートヴィヒはローマへ乗り込み、ローマ市民の推挙という形をとって戴冠を受けます。
また、ヨハネス22世の対立教皇にニコラウス5世を選びました。

これでルートヴィヒは一時ドイツ諸候から拍手喝采を受けます。
しかし、これが後々ルートヴィヒに痛い目をもたらすことに…

マルガレーテは、1345年、兄ギョーム2世が嫡子無しで亡くなったので
エノーを含むホラント・ゼーラント・フリースラントなどの領地を継承しました。
エノー伯としてはマルガレーテ2世になります。

この時、イングランド王エドワード3世妃フィリッパをはじめ
ユーリッヒ公ヴィルヘルム5世妃ヨハンナ、ナミュール伯子ロバート妃エリザベスなど
妹たちも生きていたんですけど、マルガレーテが独り占めして
騒ぎはおきなかったんでしょうかね?
さしあたってエドワード3世がクレームを出さなくて良かったですよね。

1346年、ルートヴィヒ4世はヨハネス22世を継いだ教皇クレメンス6世から
破門&廃位を言い渡されルクセンブルク家のカールを対立王に立てられてしまいました。
カールは神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の孫にあたります。
(対立王とか対立教皇とかわかりずらいですよね
 ここではあまりスペースがないので…詳しくはなにか専門書を読んで下され

またまた国内大混乱か? という時に、ルートヴィヒ4世が狩猟中の事故で亡くなりました。

長男ルートヴィヒが父のバイエルン公領やブランデングルク辺境伯領を継ぎました。
1350年、マルガレーテは自分の主権を次男ヴィルヘルムに譲って引退することにします。

ところがヴィルヘルムが手当を払わないもんで争うことになってしまいます。
ヴィルヘルム支持のコッド派と、マルガレーテ支持のフック派が結成され
両者が母子を擁立したりして、戦いは数年に及びます。

ここでは妹フィリッパの夫であるエドワード3世がマルガレーテを救いにやってきて
フック派の勝利に終わったのですが、あらら、エドワード3世が寝返ったもので
母子は和解することにいたしました。
ホラントとゼーラントはヴィルヘルムが、エノーはマルガレーテが手に入れました。

2年後の1356年、マルガレーテは亡くなり、ヴィルヘルムがエノー伯領を継ぎます。

どうせ後々継ぐんだから、年老いた母親と争わなくたっていいと思わない?
「母さんの言いなりじゃないやい!」というところが見せたかったのかしら?
それとも単なる強欲息子なんでしょうか?
中世の親子兄弟入り乱れての争いはなかなか奥深いところがありますのでね…

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipeida英語版)
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神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世妃 ベアトリクス

2011-01-16 02:20:10 | ドイツ系王妃
ふたり王時代の王妃
ルートヴィヒ4世妃 ベアトリクス・フォン・シュレージエン=グローガウ


1290~1322/在位 (神聖ローマ皇后)せず (ドイツ王妃)1314~1322

ルートヴィヒ4世はヴィッテルスバハ家出身の神聖ローマ皇帝です。
なにかと皇帝にからんできたヴィッテルスバハ家にやっと皇帝の座が!
しかし平坦な道のりではなかったんですけれどもね…

そんなルートヴィヒが上バイエルン公時代に結婚したのが
ポーランドの王室ピアスト家に属するルヴヴェク公およびヤヴォル=シフィドニツァ公
ボルコ1世の公女ベアトリクスでした。

しかし実父は早くに亡くなり、母のベアトリクス・フォン・ブランデンブルクは
ビトム公ヴワディスワフと再婚しています。 こちらもピアスト家。
        
ベアトリクスの結婚は、バイエルンと確かな同盟を結びたかった
弟のヤヴォル=シフィドニツァ公ベルナルトにアレンジされました。
1308年に結婚しています。

ルートヴィヒは1314年にドイツ王に選出されましたが、なんと!
実はその前日に別派がハプスブルク家のオーストリア公フリードリヒ1世を選出していました。
立候補した本人たちのみならず各家の利権が絡み合い、教皇まで口をはさむこの戦いは
(どちらかというとルートヴィヒ優勢でしたが)長々と決着がつきませんでした。

結局ベアトリクスの生存中、ルートヴィヒは神聖ローマ皇帝に即位しませんでした。
ベアトリクスは1322年に亡くなっています。
夫の晴れ姿を見たかったでしょうね。

ちなみに、ルートヴィヒとハプスブルク家のフリードリヒは従兄弟同士です。
家系図のしとくね。
      
フリードリヒ1世の妃はエリーザベト・フォン・アラゴンで
こちらは1330年に亡くなっています。
その前にルートヴィヒの神聖ローマ皇帝即位(1328年)を見ているはずですね。
悔しかったろぉ…

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世妃 マルガレーテ

2011-01-16 02:19:46 | ドイツ系王妃
久々にいい夫婦の話し
ハインリヒ7世妃 マルガレーテ・フォン・ブラバント


1276~1311/在位 (神聖ローマ皇后)せず (ドイツ王妃)1308~1311
  
ハインリヒ7世は、フリードリヒ2世の死後続いていた “ 大空位時代 ” 中
不気味に力をつけてきたハプスブルク家の台頭を押さえようとした貴族諸候たちから
選挙で選ばれたドイツ王です。
ハインリヒ自身も反ハプスブルクの急先鋒でありました。

ブラバント公ヨハン1世の公女マルガレーテとは、ルクセンブルク伯時代の
1292年に結婚しています。

ふたりの結婚は長年に渡って両家に諍いををもたらしていた
リンブルクの領土の問題を解決するためのものでした。
      

完全に政略結婚のおふたりですが、仲はとてもよかったそうです。

ハインリヒは、1310年、教皇をフランスの支配下から奪回してローマで戴冠するために
イタリア遠征に向かいます。
この遠征にはマルガレーテも同行しました。

ところがマルガレータはブレシアの包囲中に病気になり
半年もしないうちにジェノヴァで亡くなってしまいました。
結局、当地のサンフランチェスコ教会に葬られました。

ハインリヒは、戴冠を果たした翌年の1313年に、高名な彫刻家ピサーノに命じて
彼女のためのモニュメントを制作しています。

政略結婚で哀しい目にあう王妃が多い中
夫婦が仲睦まじかったという話しを聞くとホッとしますね。
特に時代が古くなればなるほど、横暴な王様は多かったようだし…

マルガレーテのお子様のうち、王子ヨハンはボヘミア王になり
その息子が神聖ローマ皇帝カール4世に即位します。
ふたりの王女のうち姉のマリーはフランス王シャルル4世妃になり
妹のベアトリクスはハンガリー王カーロイ1世妃になりました。
ふたりともあまり幸せな結婚ではないようでしたが…

ところで、あまり関係ないかもしれませんがブラバント公家がとてもアクティブに
イングランドにもフランスにも絡んでいっているのがすごいので
家系図のせときます。
      

(参考文献 池田良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世妃 イザベラ

2011-01-16 02:17:03 | ドイツ系王妃
ハーレムに入っちゃうってどういうこと?
フリードリヒ2世妃 イザベラ・フォン・エンゲランド


1214~1241/在位 1235~1241

二人目の妃を亡くしたフリードリヒ2世が次のお妃に選んだのは
イングランド王ジョンとイザベラ・オブ・アングレームの王女イザベラでした。


        

フランスの領土を失ったフリードリヒは、反撃の時にイングランドの援助が欲しくて
教皇グレゴリウス9世が持ってきた縁談に飛びつきます。
よくよく考えたらフリードリヒにはすでにビアンカ・ランチアという
最愛の女性がいたんですもの、政治的にOKなら相手は誰でもよかったのかもね…

でもイザベラは美しい女性だったそうですよ。
結婚のためにケルンへ向かう道すがら、イザベラはヴェールを上げ
ドイツの皆さんにお顔を見せてあげてたいそう喜ばれたそうです。
イザベラは21歳、フリードリヒは40歳でした。

結婚するとイザベラは、フリードリヒにモンテサンタンジェロ城を贈られました。
ふつう「ここにお住まいなさい」ということだと思いますよね?

ところがです
イザベラは人々からは隔離されたハーレムでの生活をしなければなりませんでした。

ハーレムと書いてあるけど、イタリアですからねぇ…
オスマン帝国みたいなのでなくて、男子禁制という意味ですかね?
なんでもイザベラの兄コーンウォール伯リチャードが十字軍の帰りに彼女を訪ねた時
兄妹だっていうんで特別に会うことが許されたみたいですよ。

いずれにしても、イザベラがイングランドから連れて来た従者たちは
二人の女性を除いて皆帰国させられてしまいました。
異国で頼りになる同胞がいないとは…心細かったでしょうね

イザベラはノヴェンタに引っ込んで暮らし
フリードリヒが定期的に訪れるという生活だったようです。
定期的というのがどれぐらいのスパンかわかりませんけどね…

皇后だというのにすごく地味な生活じゃない?
そんな生活の末、4人目の王女を出産する時に27歳という若さで亡くなりました。
アンドリア大聖堂の、前妃イザベラ2世の隣に葬られました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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