まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ポルトガル王ミゲル1世妃 アデライデ

2010-05-31 23:35:37 | ポルトガル王妃
婚活の時はそばにいてほしい・・・
ミゲル1世妃 アデライデ・デ
        ローウェンシュテイン=ウェルトハイム=ローゼンベルグ


1831~1909/在位せず

ちょっと順番が前後してしまいますけど…

ミゲルは王子の時に母后カルロッタ・ジョアキナとクーデターをおこして追放になり
その後マリア2世から王座を奪いました。

ミゲルは超保守派で、王座につくと憲法を廃止して絶対王政で統治しようとしました。
しかし、リベラルなペドロの帰国で自由主義戦争がおこってミゲルは敗戦、
全ての権利を剥奪されて再びウィーンへ追放の身になります。

その間ずっと独身だったようですけど、49歳の時20歳のアデライデと結婚しました。

アデライデはハプスブルク帝国のレーヴェンシュタイン公女です。

          
なんで年ごろの若い娘を追放中の、しかも若くもない男性に嫁がせるかね? と
不思議に思いません?

追放中とはいえ、ミゲルは絶対王政主義と保守派のシンボルみたいになってまして
保守派の王家はけっこう手厚くもてなしたみたいです。

結婚後、一家はアデライデの故郷に身を寄せていたみたいで
1666年にミゲルはバーデンで亡くなっています。
アデライデには6人の幼い子が残されました。

ここからアデライデの活躍が始まります。
生家の名とブラガンザ家の名を借りて、子供たちに立派な縁談を与えますよ!
ほぼ10年の月日を費やしています。

娘たちの嫁ぎ先は、ブルボン=スペイン家、ハプスブルク家、ヴィッテルスバハ家、
ナッソウ=ルクセンブルク大公家などそうそうたる家柄です。
息子ミゲルはトゥルン=ウント=タクシス家から妃を迎えています。
二人目の妻はアデレイドの姪マリア・テレジアです。

名家とはいえ追放された父を持つ子女としてはすごくいい縁談!
残っている王家でお相手の奪い合いという状況の中、すごく頑張ったと思います。
こんな方だったら仲人も安心して任せられるわね

なぜか分らないんですけど、イギリスのワイト島で亡くなっているのよね。
1909年でしょう? ドイツはまだ王国だし…亡命じゃないですよね?
子供たちの嫁ぎ先でもないし…病気療養とかかしら?

ちなみに、イギリスは自由主義戦争でペドロ側について
最終的にミゲルを敗退にいたらしめた国でございます。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル女王 マリア2世

2010-05-30 20:20:49 | ポルトガル王妃
国を治めた子だくさんママ
ポルトガル女王 マリア2世


1819~1853/在位 1826~1828、1834~1853

肖像画が可愛いでしょ? 少女時代のものだけど…
貫禄たっぷりになられた肖像画もあるんですけど、やめときます。

マリアはブラガンザ家がブラジルに亡命中に生まれました。
父はペドロ4世、母はマリア・レオポルディナ
ヨーロッパ生まれでない、唯一のヨーロッパ君主です。

1826年に祖父ジョアン6世が亡くなった時、父ペドロが即位の宣言をしましたが
ブラジルを離れず、娘であるマリアに王位を譲りました。

当時ペドロの弟にあたるミゲルは、母后カルロッタ・ジョアキナと反乱を起こして
オーストリアに追放中でしたが、国内には彼を王にしようという一派もありました。
そこでペドロはミゲルとマリア2世を結婚させて、成人に達するまでミゲルが摂政をする、
というアイディアを思いつきました。

          
ミゲルはペドロの案を承知したのに、1828年にポルトガルに帰って来ると態度が一変!
だってマリア2世は9歳だし、両親は不在という絶好のチャンスですもの。
さっさとマリアを廃位すると自分が王座につきました。
マリアは叔父ミゲルの治世中、ヨーロッパを点々として過ごしました。

1831年、ブラジル皇帝の座を退いたペドロは、ポルトガルに帰国すると
マリアの王座と自分のブラガンザ公位を奪還すべくミゲルと戦い
1834年にミゲルを退位に追い込みました。

晴れて女王に復位したマリア2世はミゲルとの結婚を無効にし
翌年、ナポレオン1世皇后ジョセフィーヌの孫で、継母アメリアの兄にあたる
ロイヒテンベルク公オーギュストと結婚しました。
しかし、24歳の夫はたった結婚から2ヶ月で亡くなってしまいました。

さらに翌年、サクス=コバーク=ゴータ家のフェルナンドと再婚して
フェルナンドも共治王になりました。
マリア2世の治世中も国家は決して安泰ではなく、暴動、政争は頻発し
コレラも流行りました。
マリア2世は3歳年上のフェルナンド2世に信頼を寄せていました。
難しい政局を乗り切れたのはフェルナンド2世の支えが大きかったようです。

そんな激動の中、マリア2世は1~2年おきに子供を生んでいました。
出産と妊娠を繰り返すマリアに医者は危険を警告しました。
マリアは「たとえ死んだとしても、それが私の役目なの」と言ったらしい…
自然に身に付いた母性からの発言ならいいですけど
そういい聞かせられて育ったとしたら、女性にとっては哀しい話しね。
他にも女性の役目はたくさんあるはず!

医者の忠告を聞かないから
34歳の時、11人目の子を出産したマリアでしたが、母子ともに亡くなりました。

マリア2世は愛情深く、善き母親で、国のために良かれという信念で
行動した人だったそうです。
治世中はポルトガルの学力向上にも務めました。

なんだかマリア・テレジアに似ているような気がしますね。
後には “ 善徳の母 ” という名も与えられていて、人気が高かったことを伺わせます。

マリア2世が長命だったら、ポルトガル王家の行く末が違っていたかもしれないですね。

             
              可愛いのでもう1枚載せちゃうわ

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)

ポルトガルの歴史  創土社


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『にんじん』この家族に愛は見える…?

2010-05-30 20:13:19 | フランスの作家
POIL DE CAROTTE 
1894年 ジュウル・ルナアル

『にんじん』を『赤毛のアン』の男の子バージョンだと
思っている人がいるかもしれませんけど(わたしだ… )大きな間違いでございます。

小さな頃に少年少女名作集みたいなもので読んだような気がするのですが
こんなに殺伐としていたかしら? 編集されてた?

“ にんじん ” と呼ばれる少年と、父のルピック氏、母ルピック夫人
兄フェリックス、姉エルネスチイヌの5人が主な登場人物です。
フランスの田舎か郊外が舞台で、一家はわりと裕福なようです。

60篇弱の短いエピソードから成る1冊で
物語というほど長くはないのでひとつひとつは揚げませんけど
夫婦仲の悪さのとばっちりをモロに受けている少年が、キレがちな子供に育ってる…
という印象が強く残っています。

たしかに、お子供は正直なだけに残酷なところがあることも
計算高さをうまく隠す…という一面があることも
虫なんか平気で殺す、という好奇心旺盛さもわかってますけど
この本は、にんじんという少年をダシに、親の(特に母親の)非道さを
存分に吐露している気がしてなりません。

例えばね…
食事中、家族は一切口をきかず、たまにルピック夫人が犬に話しかけます。
で、初めてルピック夫人が「パンをとって」というとルピック氏が投げつけるという…
にんじんがルピック氏と散歩に行こうとおめかししていると、夫人が行くなと言うし
ちょっと冗談をいったぐらいで出張のおみやげをしまい込まれて一生もらえません。

おねしょをしたらスープに混ぜられて、飲んだら大笑いする、
にんじんの額にツルハシがささって血が出ているのに、気絶した兄の方を看病する、
にんじんだけメロンがもらえず、ウサギの餌からあさって食べる、って
どうみたって、ひとりだけ虐待されてんじゃないの?

ルピック夫人はたまに優しさをみせますが、それが隠された愛情だとはぜったい思えない、
気まぐれで頭をなでる飼い主みたいな感じ…

そして、にんじんは口答えもしなければ、怒りも泣きもしないのです。
そのかわり癇癪もちで、嘘つき、たまに凶暴です。
このままほっといったら大変なことになるんじゃないの? と心配になったところで
(ほんの)少し明るい未来が垣間見えるラストが訪れます。

兄、姉、にんじんを同じように気にかけてくれて、一緒に転げるほど笑ってくれて
たまにお小言をくれるルピック氏の存在がなかったら、にんじんはどうなったことやら…
皮肉なことに、不仲な両親のバランスが上手くとれていた、ということでしょうか?

解説には “ 児童教育の貴重な参考書 ” “ 年少の読者に類い稀な一冊 ” となってるけど
年端のいかない子に読ませても、きっと意味が分らないと思いますよ。
モグラとか猫の頭が飛び散るところは面白がるかもしれないけど…

にんじん 角川書店


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ポルトガル王ペドロ4世妃 アメリア

2010-05-30 01:01:46 | ポルトガル王妃
ジョセフィーヌゆずりの美しさ
ペドロ4世妃 アメリア・デ・レウシュテンベルグ


1812~1873/在位 (ポルトガル王妃)せず (ブラジル皇后)1829~1831

アメリアの父はナポレオン1世の継子ロイヒテンベルク公ウージェーヌ・ド・ボーアルネで
祖母はジョセフィーヌです。

         

マリア・レオポルディナを失って3年、ペドロは再婚相手を探し始めました。
しかし、我が物顔の愛妾ドミティラはいるし、絶大な人気を博していたマリアへの
酷い仕打ちが噂になっていたせいで、候補選びは難航しました。

相手に選ばれちゃったアメリアは、兄オーギュストとともにブラジルに到着します。
アメリアを一目見たペドロは、その美しさにボーッとしてしまい
彼女を讃えてバラ勲章なるものを作りました。

あ、愛妾ドミティラは、アメリア到着前におヒマを出されていました。
賢明な処置ですね、ペドロ、Good Job!

アメリアも慈悲深かったみたいですけど、控えめな人だったのかしら?
前妃ほど人気もなく、落ち目になった皇帝ペドロの人気は回復しませんでした。

1831年、大規模な反乱がおこり、ペドロは皇帝を退位して皇子ペドロが即位しました。
アメリアはペドロとともにポルトガルへ向かいます。
懐かしのヨーロッパを目に前にした時、何を思ったんでしょうね?

ペドロはポルトガル王座とブラガンザ公位を賭けて
娘マリア(2世)の名の下に、弟ミゲルとの戦いに明け暮れて
勝利した1834年の末に亡くなりました。

アメリアはたったひとりの娘マリア・アメリアの養育と慈善活動に専念し
政治的なことには関わらずに過ごしました。
未亡人になったのは22歳の時でしたが、その後再婚もしませんでした。

1873年、結核のためマデイラ諸島で亡くなりました。

なんでも前妃マリアの人気には、ハプスブルク家出身の王女がやってきた!という
ありがたみも大きく物を言っていたらしいんですよね。
ナポレオンがらみで出世した家の出の娘なんて太刀打ちできるもんじゃありません。
ご本人にはなんの罪も咎もなかろうに、お気の毒なことです。

               
                アメリア王女です。可愛いですね
                特にエピソードが無いので、ここで紹介しておきます


(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
      デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント (8)
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ポルトガル王ペドロ4世妃 マリア・レオポルディナ

2010-05-30 01:01:26 | ポルトガル王妃
どちらかっていうとブラジル皇后
ペドロ4世妃 マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア


1797~1826/在位 (ポルトガル王妃)1826 (ブラジル皇后)1822~1826

マリア・レオポルディナは、オーストリア皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの皇女で
姉にナポレオン皇后マリー・ルイーズがいます。

         

ジョアン6世は、ナポレオン失脚後もイギリスやスペインから牛耳られ
帰国が果たせずにいる状況を打破したいとハプスブルク家に縁談をもちかけます。
宰相メッテルニヒはメキシコに続く南米の統治で得られる富を考えて
ザクセン王と婚約していたマリア・レオポルディナを嫁がせることにしました。

マリアはずばぬけて美しくはなく、女性らしい優雅さに欠けていました。
一方、聡明で6カ国語を操り、自然科学を学ぶ高い教養を持った女性でした。
メッテルニヒはマリアのしっかりした性格に賭けることにしたのです。

ウィーンを発ちブラジルに渡ることになったマリアは
「涼しげな薄い花柄のドレスと、薄手のシルクのストールと…」なんてことは考えず
(考えたかもしれないけど)高名な自然学者や生物学者、地理学者たちを連れて行きました。
レオポルディナ探検隊…とでもいいましょうか

南米という未知の世界へ嫁ぐマリアに申し訳なく感じたメッテルニヒは
珍しくイタリアのリヴォルノまで見送ったそうです。

90日!の船旅の末到着したマリアをペドロが出迎えました。
ふたりはすぐにお互いを気に入り、幸せな結婚生活をスタートさせました。
マリアは慈善活動にも精をだし、人気は上がる一方でした。

でもね…ペドロはもともと荒くれ者で粗野な人でした。
激動の中で野生児みたいに育ったペドロは怒りっぽく、暴力に訴えるタイプ、
しかも浮気癖もあって、結婚生活は次第に不幸になっていきました。

ブラジルでは、当時すでに独立の気運が高まり、独立運動がおこっていました。
1821年に晴れて帰国することになったブラガンザ家でしたが
ジョアン6世はペドロを摂政として残していきました。

王家が帰国した後、ペドロはブラジルを植民地ではなく国家にしたいという思いを抱きます。
マリアもその考えに賛成で助力を惜しみませんでした。

ペドロがサン・パウロへ出向いて不在の時に、代理でポルトガル議員団に面会したマリアは
一方的な命令文を目にして、ペドロに宛てて手紙を書きます。
“ 果物は熟れています。まさに今が食べ時です ” てな暗号でね。
手紙を受け取ったペドロは独立を宣言し、皇帝ペドロ1世として即位しました。

この独立については、ジョアン6世の意向だったという説と
ジョアン6世はスペインやイギリスの手前反対していた、という説があります。

              
              よき母ぶりがうかがえる1枚ですね

ペドロは、1826年にジョアン6世が亡くなると、ポルトガル王ペドロ4世を宣言しました。
しかしポルトガル国内から反対の声があがり、2ヶ月後に退位して
王位を娘のマリア(2世)に渡しました。

その7ヶ月後、マリアは29歳で急死します。
毎年の出産で健康が衰え、7人目の子を流産したためでしたが
一説ではペドロの暴力による…と言われています。

異国に嫁ぐことが当たり前と言えば当たり前だった王侯貴族の娘たちにしたところで
90日も船に乗っていく所とあっては怖くて不安だったでしょうね。
おいそれと実家には帰れないし、一生家族と会えないかもしれない…
船乗りたちから聞かされた恐ろしい風習や不便な生活も気にかかる…

そんな思いで嫁いできた女性を悲しい目にあわせるなんて、君主なんて言えないわね!
妻ひとり幸せにできないで、国民を幸せにできるもんか

人気の高かったマリアを失ったペドロと偉そうな愛妾ドミティラは国民から嫌われ
後の退位を招くことになりました。 …つづく

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
      デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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『ポアロ登場』初期の短篇を今頃・・・

2010-05-30 01:00:16 | アガサ・クリスティ
POIROT INVESTIGATES 
1923年 アガサ・クリスティ

今にして思えば発刊順にアップすれば良かったな、などと思うのですが
時すでに遅し… 以前はポアロが最後に選んだ12の事件を扱った
『ヘラクレスの冒険』を紹介したのですけれど、今日は初めての短篇集を…
本当に考えなしで呆れちゃいますね。

『〈西部の星〉盗難事件(The Adventure of “ The Western Star ” )』
対になっているというアメリカの女優ミス・マーヴェル所有の〈西部の星〉と
ヤードリー夫人所有の〈東洋の星〉におこった宝石盗難事件。
依頼を受けたポアロでしたが、ふたつともまんまと盗まれてしまいました。

『安アパート事件(The Adventure of the Cheap Flat)』
ヘイスティングズの知人ロビンソン夫妻が破格の家賃で借りたという高級アパート。
ポアロはその話しを聞くと、頼まれてもいないのにいきなり行動を開始します。
いったいなぜ? ポイントは夫妻の平凡な風貌と名字にありました。

『ダヴンハイム失踪事件(The Disappearance of Mr.Davenheim)』
ポアロとジャップ警部は、失踪中のダヴンハイム氏を巡って賭けをします。
ジャップからの報告を聞くだけで事件を解くと断言したポアロは
ダヴンハイム氏と妻が同じ部屋で寝ていたかと質問して、ジャップを呆れさせます。

小さな事件を侮るなかれ!
後ろには大きな事件が隠れているかもしれません。

ポアロはなんてことないおしゃべりや、ちょっとした疑問から
瞬時にそういうことが判っちゃうのよね!

短めのお話ばかりですが、いろいろな悪事のパターンがぎゅうっと凝縮されていて
読後は悪事のひとつやふたつ、上手くいくんじゃないかとさえ思えてきます
もちろん、今と昔では状況が違うから無理だと思いますが…

ヘイスティングズは最初からヘマをしているし
ジャップも「ポアロも耄碌しちゃって」なんて思いながら負けちゃうしで
この後のポアロとヘイスティングズ、ポアロとジャップの関係性が伺い知れる一冊です。

今後のポアロの活躍に期待がふくらみます
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

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ポルトガル王ジョアン6世妃 カルロッタ

2010-05-28 02:04:19 | ポルトガル王妃
時代を読み違えた保守思想の信奉者
ジョアン6世妃 カルロッタ・ジョアキナ・デ・ボルボン


1775~1830/在位 1816~1826

カルロッタは、スペイン王カルロス4世とマリア・ルイサ・デ・パルマの王女です。
母親も強烈だったけど、娘もやるときゃやる子でした。

          

王太子ジョアンとカルロッタの縁談は、祖母にあたるマリアナ・ヴィトリア
スペインに里帰りしている時、ふたりが幼いうちにまとめられました。

10歳でジョアンと結婚したマリアナは、お人好しでブヨブヨで
頑なに宗教の教えを守ろうとする夫が大嫌いでした。
とはいえ、カルロッタも人のことが言えるほど美しくはなかったらしい…

子供は9人生まれているんですけど、なんでも王子はみんな見目麗しく
特に末息子ミゲルはハンサムで、父親が違うんじゃ…と噂になりました。

末娘のアナが誕生した1806年以降、ジョアンはマフラ宮殿、カルロッタはケルス宮殿で
各々暮らすようになり、完全な別居状態に入りました。
ケルス宮殿はカルロッタのご乱交のためにある…と言われていたそうです。

1807年、ブラガンザ家はフランスの占領前にブラジルに移ります。
まだ女王マリア1世は生きていたんだけれども、カルロッタは “ カルロティズム ” といわれる
スペイン支配による政府を南米に築こうとしました。

故国スペインはといえば、ナポレオンの支配下にあり、父王カルロス4世も
弟の王太子フェルナンド(後の7世)もフランスに連れ去られていました。
カルロッタはブエノス・アイレスやアルゼンチン北部のスペイン占領軍に
ラ・プラタ女王として指示を与えていました。
でも、スペイン=ポルトガル軍が支配できたのはシスプラチナ河流域だけだったけど…
この流域が後にウルグアイになります。

1821年、ブラガンザ家は晴れてポルトガルに帰国することができました。

しかし、リスボンは大きく様変わりしていました。
ナポレオン占領下で変革の気運が高まっていた市民たちは
それに続くイギリス軍支配に反対して革命がおこっていました。
立憲君主議会は新憲法を制定していて、ジョアン6世は従うことを宣言します。

ところが、カルロッタは旧体制、すなわち絶対王政での復古を望んでいて猛反発!
同じく保守派の王子ミゲルと手を組んで軍を動かし
ジョアン6世を投獄同然で城に閉じ込めました。 家庭内クーデターってことですか?

ジョアン6世はイギリスの援助を受けて権力を取り戻すと、ミゲルは国外退去、
カルロッタはケルス宮殿に隠遁をさせられました。

隠遁後はというと、カルロッタはおとなしくはしていたんだけど
明らかに子供っぽい格好や振る舞いをするようになります。
ちょっと壊れてしまったんでしょうかね?

1826年、ジョアン6世が急死しました。
ジョアン6世は、摂政として王妃カルロッタでなく王女イサベル・マリアを指名しました。
再デビューを果たせなかったカルロッタは、4年後にケルスで亡くなりました。

でも、ジョアン6世の死から2年後に、最愛の王子ミゲルが帰国して王になってるから
もしかしたら晩年は好き放題にやっていたかもしれないですね。

今までにいくつかの国の終焉や、立憲君主制に変わる様を書いてますが
ブルボン家出身の姫様はけっこう保守派のイメージなのよね。
時代の空気が読めないっていうか…
でも、そうやって育ってきたからしかたないのかもしれませんね。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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『緑色の裸婦』人それぞれの難題

2010-05-28 01:59:53 | アメリカの作家

アーウィン・ショー

以前『夏服を着た女たち』を読んだ時には、舞台が都会ばかりだったのと
男女のお話が多かったので、お洒落路線の作家なのかしらね…と思っていましたが
この短篇ではまったく別の一面を見せていただいた気がします。

人々が抱える問題…まったく個人的なようで、実は社会の問題とリンクしています。
でも、やはり抱えた時点でひとりひとり重みが違うものです。

『寡婦たちの再会/1946年』
エミリーと娘のペギーは、霧のせいで着陸できない飛行機に乗っている
もうひとりの娘アイリーンを待っています。
アイリーンは若い頃、ペギーが恋していたドイツ人を奪って結婚し
第二次大戦を終えてアメリカに帰って来るのです。

お互いの息子を戦争で失った姉妹の再会です。
アイリーンはヒトラーを崇拝していたのですが、戦後困窮に陥りました。
やりきれない相手でも家族は家族…いい話しですね、では終わらない物語。
母娘3人の暮らしがこれからどうなるのか、とても心配です。

『緑色の裸婦』
バラノフは革命軍除隊後画家になり、美味しそうな野菜や果物の絵で成功しました。
社会で活躍する女傑アンナと結婚してしばらくすると画風が変わっていったバラノフは
怨念と怒りと絶望が宿る、一枚の凄まじい裸婦を書き上げました。
しかしそのためにソ連を後にすることになります。

バラノフはドイツでも、そして自由の国であるアメリカでも同じ目に遭います。
そんなに恐ろしい絵って何? 恐ろしいのは絵なのか社会なのか?
それとも裸婦にそっくりな妻の顔?
でもそんなことより、バラノフが妻のことを思って口にした言葉が涙を誘います。

『忘却の川の麗らかな岸辺』
働きざかりのヒューは決して物忘れをしませんでした。
しかし結婚記念日を忘れ、それからは物忘れが止まりません。
昔の偉人、いつも買っていた新聞、愛人と待ち合わせしたバーの場所、
金を無心してきた息子の名、夫の借金を返してくれと言っていた娘の顔…

そんな日がやってくるのかと思うと恐ろしくていてもたってもいられません。
でもね、どちらかというと何もかもヒューに甘えていた家族に「ざまーみろ」と
言ってやりたくもなります。
だけど急にこんなことがおこるなんて、誰も、本人でさえ、想像できないものね。

戦争、国家の思想、進行する病…巻き込まれたが最後、誰もが逃れられません。
しかし決して皆が同じ不幸を感じるわけではありませんよね。

収められている7篇全て、登場人物は3人ぐらいです。
極めて小さな環から発せられる社会的不幸…死刑や赤狩りの話しもあります。
批判はありません、哀しさを描いているだけです。

しんみり考えさせられます。

緑色の裸婦  集英社


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ポルトガル女王 マリア1世

2010-05-27 02:25:13 | ポルトガル王妃
遠きブラジルで逝った女王
ポルトガル女王 マリア1世


1734~1816/在位 1777~1816

ジョゼ1世とマリアナ・デ・ボルボンの女王マリアは、1750年に父王が即位すると
早々に継承権が与えられベアトリズのような混乱も無く即位した女王でした。

マリアが26歳の時に結婚していた叔父ペドロは
1777年に共治王としてマリアとともに即位しました。

           

即位するやいなや、マリアは父王の時代に篤い信頼を得ていたポンバル候を解任し
政府を一新します。

マリア1世が統治していた頃のポルトガルでは、ワイン貿易が再興し、不況が終わり
聖職者、貴族、地主たちが再び富を謳歌していました。
マリア1世は財政の近代化や体制の強化、市街地の整備や秩序回復に力を注ぎ
ケルス宮殿を建設するなどの新古典文化をもたらしました。

しかし、相変わらず重税をとりたてられ困窮にあえいでいた庶民たちの怒りは
改革を嫌う政府のもとで沸々とわき上がりつつありました。

マリアは “ 敬虔王 ” とよばれるくらいで、ものすごく信心深い女性でしたが
一方、情緒不安定なところがありました。

そのマリアに追い打ちをかける悲しい出来事が次々とおこります。
1781年によき相談相手であった母后マリアナ・ヴィトリアが亡くなります。
1786年に夫君ペドロ3世が亡くなると鬱状態に陥ります。
ひた隠しにされていた彼女の病状は、公の場で精神錯乱をおこして明るみでました。
宮廷内は宗教儀式を除いてすべての娯楽が禁止されます。

1791年に27歳の王太子ジョゼとお気に入りの司祭が相次いで亡くなると
病は悪化の一途をたどり、翌年には発狂しました。

議会は大英帝国王ジョージ3世を診た精神科医ウィリスに診断を依頼しましたが
マリア1世を英国行かせることには同意できず立ち消えになりました。

1795年、アジュダ宮殿が焼失したため、王一家はケルスに移りました。
61歳のマリア1世はもはや1日中をベッドの中で過ごすようになっていて
宮廷内には恐ろしい叫び声が響き渡り、来客たちを不安に陥れていました。
統治は王子ジョアン(後の6世)が女王の名で行っていました。

そしてヨーロッパを吹き荒れた嵐、ナポレオンがポルトガルにせまります。
1801年にはスペイン王カルロス4世妃マリア・ルイサの愛人マヌエル・デ・ゴドイが
ナポレオンの後ろ盾で乗り込んで来ましたが、国民の猛反発に合い撤退しました。

1807年に大陸封鎖に従わなかったポルトガルにフランス=スペイン軍が侵攻して来ます。
リスボンはフランスの統治下に入り、イギリス派遣軍の到着を待つことになります。

マリア1世をはじめ王家、貴族や豪商の多くはナポレオンの侵攻前に
イギリス海軍の助けを借りてブラジルへ避難していました。
政府はリオ・デ・ジャネイロに亡命政府を設けました。

1809年にはイギリス軍がリスボンを奪還して、1815年にはナポレオんが駆逐されたのに
なんだかポルトガル政府はブラジルに取り残されたままでした。

マリア1世はポルトガルがブラジルに王国を築いた翌年の1816年に
リオ・デ・ジャネイロで亡くなりました。

もしかしたら、どこにいるのかはっきり理解できない状況だったかもしれないけど
君主たるもの、自分が治める土地で最後を迎えたかったでしょうね…

動乱と狂気の中を生きた81年、お疲れさまでしたと言ってあげたいですね。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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『アメリカ』嗚呼、つけこまれる者の哀しさよ…

2010-05-27 02:23:20 | その他の国の作家
AMERIKA 
1927年 フランツ・カフカ

America、の間違いではないので念のため…

授業でカミュとともに教わったせいか、私の頭の中では “ カフカ=不条理 ” となっていて
今まで避けてきたわけですが、以前読んだ『カフカ短篇集』
『火夫』という物語が面白かったんですよ。
この物語の第一章だと知ったので読んでみることにしました。

“ 不幸は不幸を呼ぶ ” という概念を実証的に構築しようと思ったのですかね?
主人公カール・ロスマンを襲う数々の「あちゃ~ 」は
悲劇の域を超えて喜劇に思えてきます。
大仕掛けの “ ドッキリ!” を見てるみたい…

まずは、中年の家政婦に愛されすぎて子供ができちゃったことが発端です。

トランクはもらえても、預け先も住む場所も決めずにアメリカに送り出され
船を降りようとしたら迷って、不当就労を嘆く火夫につかまるカール。

裕福な伯父と会うことができて、伯父の言うなりに暮らしていたのに
知人を訪ねただけで路上に投げ出されてしまったカール。

仲間にさせられたフランス人とアイルランド人にはダシにされ
人一倍真面目に働いていたホテルでは一方的に解雇され
逃げ込んだ家では大人3人に監禁されて、奴隷のようになれと迫られる…

16歳になるやならずの少年には、あまりにも手痛い仕打ちのオンパレードです。

だけど、カールも隙があるのよね…
16歳にしちゃ思慮深く、しっかりした物言いをするね! と思っていても
いざという時につけこまれる甘さが随所に垣間見えます。
というか、お人好しなのよ
「No」と言えないドイツ人、なんだか共感してしまいました。

最終章では、そんなカールの前にも一筋の光が差し込みます。
もしかしたらものすごいビッグチャンスを掴んだのかもしれません。
ただ、その会社もかなり怪しいのよねぇ…

とはいえ、現代から見れば、就業規則もなにもあったもんじゃない職場で酷使され
雇用者の気分次第で反論も無しにその場で解雇される、
そんな状況がまかり通っていた時代そのものが不条理なのかもしれませんね。

アメリカ  角川書店


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ポルトガル王ジョゼ1世妃 マリアナ・ヴィクトリア

2010-05-26 00:18:06 | ポルトガル王妃
フランス王妃になり損ねてラッキーだったかも・・・
ジョゼ1世妃 マリアナ・ヴィクトリア・デ・ボルボン


1718~1781/在位 1750~1777

かなりはしょりますけど、長くなるので覚悟して下さいね

マリアナはスペイン王フェリペ5世とイサベル・デ・ファルネシオの王女です。
3歳の時に8歳年上の従兄弟、フランス王ルイ15世と婚約してフランスに渡りました。
同時にスペイン王子ルイス(後の1世)とルイーズ・ドルレアンなど
3組同時進行という壮大な縁談でした。
裏を返せば、どんだけ信用が無いんだか…

        

マリアナはパリでルイ14世とルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールの王女
コンティ公妃マリー・アンヌに養育されました。

マリアナはお茶目で可愛らしく宮廷での人気は上々だったのですけど
肝心のルイ15世本人はこまっしゃくれた彼女を嫌って避けていました。

マリアナが5歳の時宰相になったブルボン公ルイ・アンリは
王に嫡子がないまま何かあった時のことを恐れて、年上の相手を模索します。
結局マリアナは7歳の時に国へ帰され、ルイ15世はマリー・レクザンスカと結婚しました。

ここまでで『マリアナの人生~フランス編』は終了です。

スペイン王家では「娘を帰してきやがった!」と怒りが沸き上がりまして
フランスと敵対するオーストリアと同盟を結びました。

一方マリアナの婚約破棄を聞きつけたポルトガルは、すぐさま縁談をもちかけます。
スペインもフランスと戦う以上、後方は安全策をとっておきたいですよね。
縁談は決まり、マリアナが11歳の時に15歳のジョゼと結婚し
その翌日、マリアナの異母兄にフェルナンド(後の6世)とジョゼの姉バルバラ
式を挙げました。
           
1750年、ジョゼが王に即位します。
その5年後でした、約6万人の死者を出したというリスボン大地震がおこります。
都市は壊滅的被害を受け、大金を失った富裕層はパニックに陥りました。

こんな時こそ王と王妃の腕の見せどころ…だっていうのにっ

ジョゼ1世は地震の恐怖から閉所恐怖症になり、アジュダの丘の上に避難します。
壁が崩れてきたら恐ろしいとうことで、しばらくテントを張って野外生活をしたらしいよ。
石造りだから、確かに怖いかもしれないけど…

リスボンでは留守を預かっていたポンバル候が権力を握り君主のようになっていました。
マリアナは、ジョゼ1世のポンバル候に対する信頼ぶりが気に入らなかったそうです。

しかし、この時難民対策と都市計画を指揮したジョゼ1世をおおいに助けたのは
ポンバル候だと思うんだけどな…もう少し温かい目で見てあげても…

マリアナはとても生真面目で意志の強い人だったそうです。
ジョゼ1世が時々浮気をして、人々が目の前で噂をしていても堂々としていたらしい…
音楽と狩猟が好きで、スペインの家族と親交を続けていました。

1774年から病のジョゼ1世の摂政を務め、娘のマリア1世即位後も影響力を持っていました。
マリア1世は何ごとにつけマリアナに相談したそうで、おかげでポンバル候は失脚しました。

晩年は兄のカルロス3世のもとを訪れて1年ほど滞在し、
その間に孫や甥、姪の縁談を張り切ってまとめました。
孫ジョアン(後の6世)とカルロス4世王女カルロッタ・ホアキナの縁談もまとめてます。

マリアナが62歳で亡くなった時、マリア1世は伯父のカルロス3世に宛てて
「最大の理解者を失いました」と書き送りました。

幼くしてフランスから追い返された時には、悔しくて悲しかったと思うけど
その方がよかったんじゃないかしら?
ルイ15世の浮気はハンパじゃないし、フランスの宮廷夫人って
愛妾に力が及ばない王妃にはすごく冷たいと思うんですよ。
気の強い方には、とても耐えられる環境じゃなかったと思うわ…

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル王ペドロ2世妃 マリア・ソフィア

2010-05-24 23:44:36 | ポルトガル王妃
王に尊敬の念を抱かせた若き王妃
ペドロ2世妃 マリア・ソフィア・デ・ネウブルゴ


1666~1699/在位 1687~1699

マリア・ソフィアの父親はプファルツ選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム、
23人のお子を持つパワフルな両親のもとに生まれました。
すごいよね! 子供手当、満額なら59万8千円? 働かなくていいんじゃなくて?

エレオノーレは神聖ローマ皇帝レオポルト1世に、
マリアナはスペイン王カルロス2世に嫁いでいます。

       

21歳で39歳のペドロ2世と結婚したマリアは
上記の姉妹たちに似ず(?)とても優しく慈愛に満ちた人だったそうです。
前妃マリア・フランシスカの忘れ形見イサベル王女とも良好な関係を築きました。

慈善に熱心で、孤児や貧しい人たちには宮廷で診察の機会を与えていました。
フランシスコ派の学校の設立にも寄付を惜しみませんでした。

かなり年上のペドロでしたが、マリアには尊敬の念を持って接していたそうです。

しかし、そんな人格者にもついてまわる小姑問題
イングランド王チャールズ2世の死後帰国していたカタリナとは
しきたり等の面で気が合わず度々ぶつかったご様子です。

丹毒と思われる熱のため、33歳の若さで亡くなりました。
誕生日のわずか3日前でした。
ペドロ2世は、その後再婚していません。



              
家系はすごい
ジョアン5世妃 マリア・アナ・デ・アウストリア


1683~1754/在位 1708~1750

父は神聖ローマ皇帝レオポルト1世で母はエレオノール、ということは
義母マリア・ソフィアは叔母で、ジョアン5世は従兄弟です。

弟に神聖ローマ皇帝カール6世がいまして、女帝マリア・テレジアの伯母にあたります。

            

ジョアン5世時代のポルトガルは、ブラジルで発見された金鉱の富をバックに
大層な贅沢を謳歌した時代でした。
ジョアン5世は絶対王政でポルトガルを統治して、他の欧州諸国に負けじと
壮麗な宮殿や記念碑などを建てられました。

一方、1701年から始まったスペイン継承戦争で、ポルトガルはハプスブルク家につきましたが
1714年にブルボン家の勝利に終わりました。

敵だった国が隣国を治めるとなったらうかうかしていられないですね。
そんなわけで、長女バルバラはスペイン王フェルナンド6世に嫁ぎました。

1742年、ジョアン5世が病のために統治ができなくなるとマリアは摂政になります。
息子ジョゼ1世の即位にともない表舞台から身を引いて、4年後に亡くなりました。
心臓はウィーンに運ばれハプスブルク家の霊廟に葬られました。

              
               同じ人とは思えないので載せてみた

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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『志賀直哉』大御所の貫禄

2010-05-24 23:42:20 | 日本の作家

1908~ 志賀 直哉

学生時代に国語の授業で習った作家のものはだいたい持っています。
志賀直哉はたしか『小僧の神様』だったかしら?
新潮社版を持っているのですが、ちくま日本文学の本が1冊欲しくなって買いました。

ほぼ年代順にならんでいるようで、後半にいくにつれて大御所感が漂います。
谷崎(潤一郎)君、芥川(龍之介)君、とかね…

短篇で27篇、長い年月のせいかテーマも幅広いですよ。
思い出、歴史もの、ハムレットを下敷きにしたものや中国を舞台にしたもの
ミステリーにお伽噺などなど、飽きることなく読めました。

“ 評論家は枯渇したように書いてるけど、年寄って見えない裏側が書けるようになり
作品に潤いがでてきた…云々 ” と、ご本人が作品の中でと書いてますが
私も後半の作品の方が好きですね。
すっかり落ちついちまってドキドキ感はないけれど、深みが感じられます。

そんな3篇を…

『老人/1911年』
54歳で長年連れ添った妻を亡くし、娘より年下の妻をもらいました。
その妻にも69歳の時に先立たれて、72歳の時、3年の約束で若い遊女を囲うことにします。
しかし3年たっても別れられず過ごす中で、女は他の男の子を生みます。

これ、28歳で書いてるんだけど、願望ですか?
元気なじい様の不埒な話のように思えるでしょ? ところが実はいい話し!(だと思う…)
いろいろとわきまえている人々が多い時代だったのだな…と思いましたとさ。

『自転車/1951年』
少年の頃自転車に熱中し、高価なデイトンで遠出や曲乗りをしていました。
さんざん乗り回したのでクリーヴランドという自転車を買うことにします。
結局ランブラーにしましたが、ちょっとした誤解から自転車屋に「ペテン」と言われます。

純粋な少年の悩みが垣間見える “ ちょっとイイ話 ” なんですが、それよりなにより
志賀少年が結構お金持ちで、祖母が粋な人だというのがわかります。
この祖母は『或る朝』というお話でいい味出してます。

『盲亀浮木/1963年』
“ つまらない海水浴場で拾った沢山の軽石の中に、もとは一つだったものがあった ”
“ 興味があったモラエスの夢を見た朝、モラエスの研究家がふいに訪ねて来た ”
“ 犬のクマが東京へ越して来てからいなくなり、1週間後にバスの窓から見つかった ”

上の三つのエピソードから “ 盲亀浮木 ” という寓話を導きだしています。
わたくしはかなりポジティブな寓話だと思うんだがどうでしょう?
何ごとにも教訓が潜む…のほほんと毎日を生きていてはいけないわね。

長篇を読んでいないのでなんとも言えないのですけど
この一冊に限っていえば、モラリストっぽいお話が中心です。
読んでいてギョッとさせられる、ハッとするという刺激はありません。
でも一語一語噛み締めながら読むと、ゆるゆると浸っていくことができますよ。

考えている内にさっさと前に進んでしまう映画やドラマと違って
自分のペースで進められて、立ち止まることができるのが読書の良さですから
こんな一冊もたまにはいいかしらね…と思っております。

小僧の神様・城の崎にて 新潮社


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ど根性シリーズ 第3弾

2010-05-24 23:35:02 | 鉢植え
以前うちの庭のど根性ノースポールとわすれな草をご紹介したのですが
今年も元気に咲きました。 雑草の間をぬって…
しかも、確実に咲くスペースが増えている… お花の力強さを感じます。

で、今年はナデシコまで咲きました。            

            

それからね、私は鉢植えの土も再利用してるいるのですけど…
枯れたお花を取り出して、土をカピカピに乾かして、腐葉土や肥料、
新しい土とタマゴの殻なんかを混ぜたものに新しい種を植えているのに
なぜかいろいろな鉢からノースポールが芽を出すぜ…

残っていた根でしょうか?
それとも種が落ちて土に混ざっていたのですかね?

いずれにしても強いのは雑草だけじゃないわけですね。

そういえば何百年(何千年?)も前の種から芽が出たというニュースがありましたね?
あったっけ…

冒険しちゃおうと思いまして、余っていた種を全て庭に撒いてみました。
果たして咲きますでしょうか? 乞うご期待。
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ポルトガル王アフォンソ6世妃 マリア・フランシスカ

2010-05-22 00:15:45 | ポルトガル王妃
禁断の愛を叶えた
アフォンソ6世妃 および ペドロ2世妃
            マリア・フランシスカ・デ・サボイア


1646~1683/在位 (アフォンソ6世妃)1666~1668 (ペドロ2世妃)1683

マリア・フランシスカはヌムール公シャルル・アミーディの公女です。

フランスのルイ14世は、お互いの敵スペインに対する互助が必要だとして
アフォンソ6世とマリアとの縁談をまとめました。

       

当時ポルトガルでは、メリョール伯等親仏派が、アフォンソ6世を抱え込んで
執政官政治を行っていました。
メリョール伯は、王弟ペドロを中心とする親英派を排除するため縁談を承認します。

ラ・ロシェルを発ちリスボンに到着した20歳のマリアは不幸のどん底でした。
アフォンソ6世は精神疾患があり、粗野な男性でした。
「ルイのおじさまったら!」と怒り心頭だったことでしょう。

普通ならよよよ…と泣き崩れてしまうところですがマリアは違いました。
彼女はアフォンソ6世を操るメリョール伯打倒のクーデターに一役かいます。

妻の鏡! と思いきや…
実はこれは王弟ペドロが兄王を倒したクーデターだったのですね
マリアは不能でブヨブヨのアフォンソが大嫌い!でペドロに恋しちゃったらしい…

アフォンソはアゾレス諸島に追放され、ペドロが摂政として統治することになりました。

マリアの願いは叶い、結婚から16ヶ月後にアフォンソとの結婚無効が宣言されて
晴れてペドロとゴールインします。
翌年には王女イサベルが生まれていますが、子供はひとりだけでした。

ブラガンザ家は嫡子が生まれないと断絶、という瀬戸際にありました。
君主によってはくたびれた妻を離婚して若い女性を娶る、という方もおりますけど
ペドロはそうはしなかったみたいです。

1683年、アフォンソ6世が亡くなり、ペドロが王に即位しました。
マリアは再び王妃の座についたもののその年の暮れに亡くなりました。
これはなにか怪しげですねぇ…

フランセシーニャスの修道院に葬られましたが、20世紀初頭にブラガンザ家の霊廟である
サン・ヴィンセンテ・デ・フォーラに移されました。

うまくやらなきゃスキャンダルになりかねない再婚劇です。
かなりの根回し上手だったか、策謀家じゃないと…
やり手の義母ルイサ・デ・グスマンが生きていたらどうなっていたかしら?

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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