まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ハンガリー王アンドラーシュ2世妃 ヨラン

2010-08-31 00:33:47 | ハンガリー王妃
            肖像画が無いので母親のヨハンナ・オブ・フランダースを…

聖教者の争いをまねく・・・
アンドラーシュ2世妃 ヨラン・クールトニー


1200~1233/在位 1215~1233

それもくだらない争いなの…  本人に罪はない(と思う)んですけどね。

アンドラーシュ2世との結婚は母方の伯父ハインリヒ1世がアレンジしました。

     

戴冠はエステルゴムの大司教ヤノーシュによって執り行われましたが
代々ハンガリー王妃の戴冠を行ってきたヴェスプレームが黙っちゃいません。

司教ロベルトが教皇インノケンティウス3世にクレームを送りまして
わざわざ特権を認めさせております。

まあ、こういう宗教の特権の所在に関しては度々起こっていた問題だと思いますが
ヨランにはこれしかエピソードが無いので書いときます。

お子さんはアラゴン王ハイメ1世妃になったヨランしかいませんでしたが
暗殺された前妃ゲルトルードが遺した5人のお子様たちとは仲良くやっていたようです。

33歳で亡くなりエグレシのシトー派修道院に葬られました。


疑惑の王子を生んだ妃
アンドラーシュ2世妃 ベアトリックス・エステイ


1215~1245/在位 1234~1235

ベアトリックスはエステ候アルブランディーノ1世の娘ですが
父親は生まれた年に亡くなったため、叔父のアッツォ7世に育てられました。

        

王妃ヨランを亡くしたばかりのアンドラーシュ2世、55歳、まだまだ男盛り!は
エステ家を訪れた時18歳のベアトリックスに恋してしまいました。

アッツォ7世は、持参金無し&ベアトリックスの父親の権利は放棄する、という
かなりの好条件でベアトリックスをアンドラーシュに嫁がせることができました。
( “ 持参金無し ” というのは、嫁に出した実家はシメシメ と思っていても
 出された娘は嫁ぎ先で肩身がせまい思いをしたそうですよ)

ところが、1234年に結婚したふたりの関係はすぐに悪化いたしました。
やっぱ年の差かしらねぇ?

結婚から1年ちょっとしか経っていない1235年にアンドラーシュ2世は亡くなり
最初の妃ゲルトルードの王子ベーラ4世が即位しました。

ベーラ4世は即位するやいなやベアトリックスを追放しようとします。
ベアトリックスも負けじと妊娠を発表しましたが
浮気でできた子どもだと決めつけられ逮捕されそうになりました。
ベアトリックスは神聖ローマ帝国に逃れて、そこで息子のステファンを生みました。

本来ならハンガリーで爵位を手にできるはずのステファンのために
ベアトリックスは奔走します。
まずは叔父アッツォ7世のもとに戻ろうとしましたが断られ
ヴェネチアにハンガリーとの戦争を援助してもらおうと試みますが失敗します。

よっぽど人望が無かったのか、それともちょうど時期が悪かったのか…

しかし後年ステファンはスラヴォニア公イシュトヴァーンになり
その子供がアンドラーシュ3世としてハンガリー王位につくことになります。

果たしてステファンは誰の子なんでしょうね?
本当にアンドラーシュ2世の子だったら、そりゃあ悔しかったろお…
アンドラーシュがせめてあと1年長生きしてくれていたら
ベアトリックスとステファンの人生はまったく違ったものになっていたでしょうね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王アンドラーシュ2世妃 ゲルトルード

2010-08-28 22:15:03 | ハンガリー王妃
出る杭は打たれる・・・
アンドラーシュ2世妃 ゲルトルード


1185~1213/在位 1204~1213

幼いラースロー3世から王位を奪って即位したアンドラーシュ2世ですが
彼を焚き付けていたと言われているのが、最初の妃ゲルトルードです。

ゲルトルードはメラニア公ベルトルド4世の公女でした。

メラニア公は公女たちを最大限に利用しようと考えていまして
長女へドヴィクをポーランド王家ピアスト家のシロンスク公ヘンリク1世に
美しいと評判だったアニェスをフランス王フィリプ2世妃に、それぞれ嫁がせています。

        

ゲルトルードは、アンドラーシュが王になる前には結婚していました。

彼女はアンドラーシュに対してものすごく影響力があり
実兄イムレとの争いを促していたようです。

抗争が失敗に終わってアンドラーシュが捕らえられた時には故郷に帰りましたが
和解が成立すると戻って来たみたい…
ラースロー3世からの王位奪取を煽ったのもゲルトルードじゃないのかなぁ…

しかし、アンドラーシュが妻の言うなりになって戦っている時に
ゲルトルードは自分の親戚にハンガリーの領地を与えていたらしいのね。
また王妃になってからは宮廷でも家族や親類を優遇していたので
ハンガリー貴族に妬まれました。

イムレがアンドラーシュと壮大な兄弟ゲンカを繰り広げていたせいで
ベーラ3世の時代に上り坂だった国力は衰えをみせます。

そんな中でもゲルトルードは独裁者ぶりを発揮していたようです。
たぶんすごいかかあ天下だったんじゃないかしら?

せっかくアンドラーシュのために戦った貴族にしてみたら我慢なりませんね。
そんなわけでゲルトルードは、1213年狩猟中に毒殺されてしまいました。

私は、最後まで地位や権力を守り抜いた悪女は、それはそれで偉い!と思うんだけど
彼女の場合強欲で傲慢なだけで詰めが甘い…と申しましょうか、
計算高さが足りないですねぇ、まだまだですね

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王イムレ妃 コンシュタンツィア

2010-08-27 22:56:49 | ハンガリー王妃
兄王に翻弄された人生
イムレ妃 コンシュタンツィア


1179~1222/在位 (ハンガリー王妃)1198~1204 (シチリア王妃)1215~1222
          (神聖ローマ皇后)1220~1222

イムレの妃コンシュタンツィアはアラゴン王アルフォンソ2世の王女です。
彼女が19歳の時、兄ペドロ2世がイムレとの結婚をまとめました。

      

イムレは8年間の短い在位期間を、常に実弟アンドラーシュ(2世)と争っていました。
コンシュタンツィアとの結婚から6年後に亡くなる時には、アンドラーシュと和解し
4歳の王子ラースローの保護と援助を頼みました。(お人好し~

イムレの死後、アンドラーシュはラースロー3世の摂政になりました、けど
今まで王位を狙っていた人が急におとなしくなると思いますぅ?

案の定すぐに王位を奪い、コンシュタンツィアとラースロー3世は捕らえられちゃう始末。
コンシュタンツィアは我が子を連れてウィーンへ逃亡を図り成功はしたものの
ラースローはすぐに亡くなってしまいました。

傷心のコンシュタンツィアはアラゴンに戻り、母サンチャ・デ・カスティーリャと
修道院で暮らすようになりましたが、5年後、再び兄王の命で再婚します。
相手はシチリア王フェデリーコ1世でした。

実は兄王ペドロ2世は王妃マリア・デ・モンペリエとの結婚を無効にしたくて
教皇に取り入ろうとしていました。
その教皇が出した条件がふたりの結婚だったのです。

ひどくない?
国政のためならいざしらず、自分の結婚の後始末のためになんてさぁ…

それでもコンシュタンツィアはお兄様の言うことを聞いてあげて
フェデリーコ1世と再婚しました。

1212年、フェデリーコは神聖ローマ皇帝オットー4世の対立王になります。
コンシュタンツィアは国をあけることが多くなった夫に変わってシチリアに残り
摂政を務めました。

シチリア王の摂政を務められたというのなら…ラースロー3世の母として摂政になり
息子の王座を守れなかったかしらね?
若かったせいもあるかもしれませんけど…

1220年にフェデリーコは晴れて神聖ローマ皇帝(フリードリヒ2世)になります。
コンシュタンツィアはその2年後に亡くなりました。

フリードリヒ2世はその後二人の妃を迎えていますが
有名なのは愛妾ビアンカ・ランチアとのロマンスです。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『葦と泥』男女六人…それぞれの執念

2010-08-25 01:06:00 | その他の国の作家
CANAS Y BARRO 
1902年 ブラスコ・イバニェス

スペインの作家といえばセルバンテスしか知らない私…
初めて読んだイバニェスはとても興味深いものでした。

文字どおり葦が生い茂る泥沼に囲まれた村落を舞台にした物語ですが
登場人物同様、風景や沼での暮らしぶりに結構なページを割いています。
ちょっとしつこい…と思えなくもないけど、情緒風情は満喫できます。

たくさんの人々が登場しますが、私が注目したのは男女ともに三人の人物。
だからといって男女六人が織りなす恋のお話というわけではありません。

まず男性陣の三人は
村一番の古株で、誇り高き漁師のパローマ爺さん、
その息子で、父親に反抗して土地持ち農民になろうとする真面目一徹のトーニ、
トーニの息子で、気まぐれで怠け者の色男トネット(クバーノ)

女性陣の三人は
子どもの頃パローマの家で暮らしていた居酒屋の若い女房ネレータ、
トーニの死んだ妻が養女にした働き者の薄幸な少女ビザンテータ(ボルダ)
ネレータの夫カニャメールの前妻の妹で財産を狙うサマルーカ。

とにかく、この六人に共通しているのは執念深さです。

物語はパローマ爺さん、トーニ、トネット一家の成り立ちに始まり
次第にトネットとネレータの道ならぬ恋の物語になっていきます。

パローマ爺さんの、家名と漁師という職業に対する無駄な誇りと執着、
自分の土地を造ろうと深い沼を何十年も埋め続けるトーニ、
この親子二人の生き様は、どちらか折れることはできんのか? と言いたくなります。

カニャメールの財産を手に入れようとするサマルーカのなりふりかまわなさ、
財産を守ろうと、恋人であるトネットまでが怖れを抱くネレータの行動。
やり方は違えども、どちらも金のために必死です。

そして、恐れおののきながらもネレータから離れられないトネットと
何も言わず、何年も何年もトネットを側から見つめるだけのボルダ。
私は “ 見守るだけの愛 ” というのに懐疑的なんだけど
ボルダには少し胸が熱くなりました。

悲愴感あふれるエンディングを迎えるこの物語
短絡的ですが『葦と泥』というタイトルから想像させられる
暗い熱気を含んだ土地柄ならでは…という気がします。
映画になったら独特の雰囲気を醸しだせるかも…

 一緒に収められている『バレンシア物語』という短篇選がとても好きでした。
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ハンガリー王ベーラ3世妃 アンナ

2010-08-24 01:45:05 | ハンガリー王妃
                 こちらはアンナの姉マリア

人質の王子と結婚
ベーラ3世妃 アンナ・シャティヨン


1154~1184/在位 1173~1184

アンナはアンティオキア公レイナルドの公女です。
アンティオキア公国は、十字軍がシリアにつくった中継地でした。

父レイナルドはイスラム教徒に捕らえられ17年間投獄されてました。
敵地においてけぼりの国…平穏な生活を送るというわけにはいかなかったかもしれませんね。

       

1170年、アンナはビザンツ皇帝マヌエル1世妃となっていた姉マリアを
コンスタンティノープルに訪ねた時に、人質になっていたベーラと出会いました。
人質とはいえ、ベーラはものすごく優遇されていて、アレクシオスという名前を与えられ
ビザンツ皇帝の後継者にも指名されていました。
ちなみに、アンナはアグネスという名前でしたがコンスタンティノープルで改名しました。

マヌエル1世はベーラとアンナを結婚させることにします。

ここからは私の勝手な想像なんだけど…
マヌエル1世はイシュトヴァーン4世でのハンガリー支配は失敗に終わったものの
新たにベーラで…なんて考えたんじゃないでしょうか?

実は自分の娘マリアとベーラを婚約させていたわけなのね。
しかしマヌエル1世に皇子が誕生したので、ベーラは後継者ではなくなります。
じゃあ、ハンガリーに戻って王になる? と考えたんだと思いますが
また敗れちゃうかもしれない…それなら嫁の妹で…なんて考えたのでは?

結局、イシュトヴァーン3世が亡くなるとベーラが即位してハンガリーへ帰国しました。
マヌエル1世の目論みどおり、ハンガリーとビザンツは同盟を結んで
協力しあったようでございます。



             
浮気は濡れ衣か?
ベーラ3世妃 マルギット


1157~1197/在位 1186~1197

ベーラ3世はアンナ・シャティヨンの死から2年後の1186年
フランス王ルイ7世とコンスタンス・ド・カスティーヨの王女マルギットと再婚しました。

           

マルギットは最初、ルイ7世の最初の妃エリナー・オブ・アキテーヌ
イングランド王ヘンリー2世の王子ヘンリーと結婚しました。

ヘンリー5歳、マルギットは2歳!!
10年後ヘンリーは共治王になり戴冠しますが、マルギットは戴冠しなかったため
ルイ7世大激怒!! 急いで戴冠させるという一幕もありました。

マルギットは25歳の時、ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルとの浮気を告発され
翌年結婚を無効にされてしまいます。
しかしこれは言いがかりで、嫡子が生まれなかったせいだとも言われています。

フランスに帰されてから3年後にベーラ3世と再婚。
こちらも嫡子は生まれませんでした。

1196年にベーラ3世が亡くなります。
翌年夏、マルギットは聖地巡礼に向かいますが
イスラエルのアッコに到着した数日後に亡くなりました。

浮気が濡れ衣だったとして、故国に帰されちゃう奥様方はまだいいけど
相手の男性はどうなるの? 君主や国によっては処刑ものですよね?

ちなみにペンブルック伯は、一時は失脚したものの後に信頼を回復して
その後何人もの王様に仕えております。
あまり重い罰は受けなかったということね…なんだかあやしい

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王イシュトヴァーン4世妃 マリア

2010-08-22 22:09:54 | ハンガリー王妃
                 こちらはマヌエル1世一家

対立王の王妃ってどうなのかしら?
イシュトヴァーン4世妃 マリア・コムネーナ


1144頃~1190/在位(1163)

イシュトヴァーン4世は、甥のイシュトヴァーン3世の対立王ですが
貴族からは一度承認されているし、ハンガリー王と明記してある資料もあります。

先に兄のラースロー2世が対立王として即位しましたが、1年足らずで毒殺されました。
妃の名前はわかりません。

兄の死を受けて即位したイシュトヴァーン4世の妃は
ビザンツ宮廷の重鎮イサキオス・コムネノスの娘マリアです。
ビザンツ皇帝マヌエル1世の姪で、聖ラースロー1世王女ピロシュカの孫にあたります。

        

マリアは10歳前後で神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と婚約しましたが
これはすぐに破棄されました。

1156年、マリアはハンガリーで反乱に失敗してビザンツ宮廷で庇護を受けていた
イシュトヴァーンと結婚します。

1162年にゲーザ2世が亡くなると皇帝マヌエル1世は
イシュトヴァーン3世打倒軍をハンガリーに送ります。
まずは兄ラースロー2世が貴族の支持を受けて対立王として即位しますが毒殺されました。

続いてイシュトヴァーン4世の即位が宣誓されましたが
半年後にはイシュトヴァーン3世軍に敗れて、再びビザンツへ逃亡しました。

この間マリアが夫に付き従っていたかどうかはわからないんですが
自分の父親の持ち駒のひとつでしかなく、なんだかんだいって王とは認められない
不安定な夫の立場をどう思っていたんでしょうね?

いつも思うんだが、対立王ってかなり中途半端なポジションよね。
ネクストキャビネットの総理大臣、みたいな感じかしら? 勝手にやってろ的な…
それで王妃って呼ばれても嬉しくない気がするんですが…

結局マヌエル1世はハンガリー侵攻をあきらめました。
こうなったらイシュトヴァーン4世は不要ですね?

そんなわけで、イシュトヴァーン4世は他でもない味方によって毒殺されました。
マリアも5年後に亡くなっています。

イシュトヴァーン3世にはバックに神聖ローマ帝国がついていました。
ビザンツ(ビザンチン)帝国は、別名東ローマ帝国です。

大国同士が領土拡大、主導権争いのために一国の争乱を利用したといえるかもしれません。
中世から冷戦時代まで…世界ってあまり変わらないものなのね

(参考文献 Wikipedia英語版)
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韓流・・・私好みを分析

2010-08-22 00:11:39 | もろもろ
前回、お気に入りの韓流の方々について考察してみたのですが
5年間のブランクを取り戻そうと韓流ドラマに釘付けのわたくし、
新たに素敵な人たちを発見してしまいました。

一押しは『エア・シティ』のイ・ジョンジェ〈キム・ジソン役〉
最初は先代円楽師匠ばりの長い顔に戸惑ったものでしたが
一話目の途中から素敵にしか見えなくなってきました
仕事一筋の厳しい目つきと、チェ・ジウ〈ハン・ドギョン役〉を見る嬉しそうな眼差しの
ギャップにやられます。
(作中)ぜひ、モスクワから無事に帰国して『エア・シティ2』がありますように…無理かな
ついでに映画『イルマーレ』も見てみたら、映画もすごく良くって素敵度倍増です。

              
この写真はどうかと思うが…『総合病院2』のリュ・ジン〈ペク・ヒョヌ役〉
白衣からのぞく長~い足、キム・ジョンウン〈チョン・ハユン役〉に注ぐ優しげな瞳…
『京城スキャンダル』〈イ・スヒョン役〉の黒スーツも
『強敵たち』(友情出演)の黒スーツも素敵でした。
この方はこのまま黒髪、短髪でいっていただきたいかも…

        
『ラブ・トレジャー』のイ・ドンゴン〈キム・ボムサン役〉と
イ・ジュヒョン〈カン・シワン役〉
わたくし、イ・ドンゴンは『パリの恋人』の時、パク・シニャンのライバルだったのと
役柄、ヘアスタイル、お衣装全てが too much な気がして苦手だったんですよねぇ…
でも、このドラマではとても素敵に見えましたわ。

でも、やっぱりカン班長! のイ・ジュヒョン
真面目な警察官で、亡くなった前妻が忘れられずキム・ソナ〈ホ・チョヒ役〉の
恋心を拒んだものの、後半切なさいっぱいの眼差しに変わります…それがまた素敵なの!

ここでちょっと気になる主役じゃない方々

              
『エア・シティ』のチェ・サンウク〈アン・ガンヒョン役〉
空港内の警官を束ねる頼もしい役どころでしたね。
必ず片手にトランシーバーを持っていて頂きたい…
それからPOLICEの防弾チョッキを着てピストルを構える姿が素敵すぎました。

              
『総合病院2』のヨ・ホミン〈ミン・テヒョク役〉
この方はブレイクしたという『朱蒙』は見ていませんけど
『アイリス』『エア・シティ』『オン・エアー』では見ていました。
特に気にならなかったのよね…しかし白衣+眼鏡+短髪の3点セットにやられましたわ。

うーん…どうやら私は制服、白衣、ダークスーツ&ネクタイに弱いと見た…
その上黒髪の短髪で、専門用語を使う人にクラクラする傾向がありますね。
眼鏡があればさらに良し!

真面目でかたそうなタイプが好きなのね、きっと。
あと、ちょっと恋に不器用だけど一途な男性かしら?

結論から言うと、夫に無いものを求めている気がするんですけど…弱ったね
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『森の小道・二人の姉妹』今年最大の期待はずれ

2010-08-21 23:00:04 | その他の国の作家
DER WALDESTIG / ZWEI SCHWESTERN 
1844年・1845年 アーダルベルト・シュティフター

美しく、天使のようにやさしい文章に心が洗われます…
でも「面白いか?」と聞かれたら、答えは「いいえ」です。

作家のシュティフターは、自然豊かな土地で生まれたそうです。
風景画を好んで描いていました。(表紙の絵もシュティフターによるもの)

小説でも風景画同様に、深い森、澄んだ湖、連なる山々、人里離れた牧草地などを
細かく描写して下さり、まるで目の前に風景が浮かぶようでございます。

なんだけど…登場人物の内面の描写となると、かなりぞんざいな気がするのよね…

『森の小道(DER WALDESTIG)/1844年』
莫大な遺産を手に入れたことで、病気を理由に引き蘢るようになった
ティブリウス・クナイクトは、変わり者の医者の勧めで温泉に出かけました。
温泉地で規則正しい毎日を送っていたある日、森の小道で迷ってしまったことから
ティブリウスの人生は大きく変わることになります。

『二人の姉妹(ZWEI SCHWESTERN)/1845年』
旅先で隣人になったフランツ・リカールに好感を持ち
数年後、イタリアへの旅の途中で彼を訪ねることにしました。
リカールは南チロルの山深い場所に、妻と二人の娘の四人で暮らしていました。
あまりにも幸せそうな家族に囲まれ、知らず知らず滞在が長くなってしまいました。

私は姉妹ものに目がないんですよね。
ベネットの『二人の女の物語』、オースティンの『分別と多感』
ロレンスの『恋する女たち』などなど
性格が違う姉妹の恋や人生なんかを比較して書かれた物語が大好きです。

『二人の姉妹』もそんな感じかしら、と期待して読んでみたのですが
なにこれ? って言いたくなりましたよ。

長女マリアと次女カミラという姉妹が登場してまして
文中 “ こんなに違う姉妹を見たことがない ” 的なことが書かれているんですけど
説明不十分であまりそうは感じられませんでした。

たしかに風貌は違うし、姉さんはアクティブ、妹は夢見がち…というのは分るが
他の人物やエピソードに関する記述がやけに多くて、この姉妹、さっぱり目立ちません。

姉妹揃って同じ男性に恋をするという、物語をいかようにも持って行けるテーマなのに
まったく盛り上がらずに終わってしまいます。
簡単に言うと片方があきらめるからなんどけど、その間もうひとりは何もせず
あっと言う間に三角関係の場面は終わりを迎えます。

別にドロドロしなくてもいいけどさぁ…
せめてその男性について二人に会話させてみない?

『森の小道』も主人公がある娘に出会って人生が変わるわけなんだけど
唐突なのよね…かすかに伏線はあったりしましたが。

2篇とも幸福で清らかな、(小学校低学年ぐらいの)夢見る少女ちっくな物語です。
きれいにまとまって良かったね…と言っておきます。
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ハンガリー王イシュトヴァーン3世妃 アーグネス

2010-08-17 20:31:33 | ハンガリー王妃
           どちらかわかりませんがアーグネスの母テオドーラです

お姫様の不幸が垣間見える
イシュトヴァーン3世妃 アーグネス


1154~1182/在位 1168~1172

イシュトヴァーン3世は20歳の時にハリチのヤロスラフ・オシュミスルの娘と結婚しますが
すぐに結婚は無効になり、お相手は故郷へ送り返されました。

翌年、オーストリア公ハインリヒ2世の公女アーグネスと結婚します。
母テオドーラは聖ラースロー1世の娘ピロシュカ(エレーネに改名)の孫にあたります。

        

ハインリヒ2世は、ハンガリーとビザンツ帝国を和解させようと考えていました。
当時ビザンツ帝国は、イシュトヴァーン3世の対立王である
叔父のラースローとイシュトヴァーンを保護していました。

ハインリヒ2世はイシュトヴァーン3世に自分の娘であるアーグネスの縁談を申し入れます。

しかし、イシュトヴァーンはその時すでにヤロスラフの娘との結婚が決まっていたのね。
そこで結婚はしたものの、すぐ無効にしちゃったと…ヒドい話しよね
婚約破棄も、結婚後に無効にされるのもどちらも傷つくけど
まだ結婚前の方が痛手が小さそうじゃありません?

1172年、イシュトヴァーン3世が巡礼の途中で急死します。
24歳の若さでした。
直前にアーグネスの父ハインリヒ2世と会っていたらしいんだけど…怪しいですね。

エステゴルムでの葬儀が終わると、アーグネスはすぐに父に連れられハンガリーを発ちます。
翌年にはケルンテン公ヘルマン2世と再婚しました。
この手際の良さ…やはり怪しい。

結婚から8年後にヘルマン2世は亡くなり、アーグネスも翌年亡くなりました。
夫とではなく、両親とともにウィーンに葬られました。

戦乱の中世初期のならいとはいえ、親にいいように嫁がされちゃって…
いつも思うが、お姫様って楽じゃないわね

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ベーラ2世妃 イローナ

2010-08-14 19:48:07 | ハンガリー王妃
夫の仇を大量虐殺?
ベーラ2世妃 イローナ


1109~1146/在位 1131~1141

ベーラ2世は父親のアールモシュがカールマーンに対して王位を主張し続けたために
父親とともに目をつぶされてしまいました。

しかし、カールマーンに嫡子が誕生しなかったことから継承者に指名され
宮廷で教育されてカールマーンの死後王に即位しました。

ラスカ公ウロス2世の公女イローナと結婚したのは即位前の1129年です。

      

イローナは盲目のベーラ2世を助け…というか王に代わって
政治力をもたらしました。

イリーナは王子ふたりを含む味方を説得し
夫が盲目にされた時に助けなかった68人の貴族をアラドに集め虐殺しようとしました。
虐殺しちゃったという説もあります。

1141年にベーラ2世が亡くなると幼い息子ゲーザ2世に代わり
王が青年に達するまでハンガリーを統治しました。



末っ子びいきが争いを招く
ゲーザ2世妃 エウフロジーナ


1130~1193/在位 1146~1162

そんなイローナの息子ゲーザ2世は青年に達するとすぐに
キエフ大公ムスチスラフ1世の公女エウフロジーナと結婚しました。
エウフロジーナは16歳でした。

        

1162年、ゲーザ2世が亡くなります。

それまで国政には口をはさまなかったエウフロジーナでしたが
長男イシュトヴァーン3世が即位すると影響力を持つようになります。

ゲーザ2世に対抗し、叔父のラースローやイシュトヴァーンが対立王になって
王位を争っていましたが、エウフロジーナは息子のために先頭に立って戦いました。

エウフロジーナは、三男ゲーザがお気に入りだったみたいです。

イシュトヴァーン3世が嫡子無しで亡くなると、次男ベーラ(3世)を差し置いて
ゲーザを王位に就けようと考えました。

人質としてビザンツ皇帝マヌエル1世の宮廷で暮らしていたベーラは
ハンガリーに帰国すると即位し、ゲーザを逮捕しました。

しかしエウフロジーナは愛する三男ゲーザを密かに逃がします。
でもまた逮捕されちゃったけど…

なんとかゲーザを釈放させようとベーラ3世を説得したエウフロジーナでしたが
失敗におわり、逆に捕らえられてしまいました。

コンスタンティノープルへ行かされたエウフロジーナは
イェルサレムを訪れて修道女になり、慈善病院で亡くなりました。

それでなくても男同士がプライド(虚栄心?)をかけて王位を争っている時に
さらにかきまぜなくてもいいものを…
それとも、王位の争いって、女性が男性を煽っていたのかしらね?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ゲーザ1世妃 ゾフラ

2010-08-14 19:47:50 | ハンガリー王妃
            こちらは聖ラースロー1世とアデルハイドの王女ピロシュカ

ここから6人、駆け足でまいります
ゲーザ1世妃 ゾフラ


王が目まぐるしく入れ替わった時代、王妃に関するエピソードがないので
家系図のみでやりすごしてみます。

ベーラ1世の長男で、シャロモンを倒して王に就いたゲーザ1世の最初の妃は
リンブルク伯の娘ゾフラ(~1075)です。
後の王カールマーンの母后です。

ゲーザ1世のふたりめの妃はビザンツ皇帝ニケフォロス3世の姪にあたる
シュザナデーネ(1058~1082)

ゲーザ1世の後を継いだ弟聖ラースロー1世は神聖ローマ皇帝への反抗心から
ドイツ対立王シュヴァーベン伯ルドルフ1世の娘アデルハイドと結婚。
王女ピロシュカはビザンツ皇帝ヨハネス2世妃になりました。
ピロシュカの子、皇帝マヌエル1世は、この後ハンガリーにやけにちょっかいをだしてきます。

      

聖ラースローを継いだのはゲーザ1世の王子カールマーンでしたが、少し障害があり
実弟スラヴォニア公アールモシュのクレームと戦う日々が続きました。

最初の妃ブジラ(1078~1102)はシチリア伯ルッジェーロ1世の娘です。
カールマーンは使節を送り求婚しましたが、シチリア伯は使節の身分が低いとして拒否、
次にゴヤールの司教が送られましたがこれも拒否されました。

       
とうとう弟のアールモシュが送られ、結婚はやっと承諾されました。
アールモシュもいざとなったら助けてくれたのね…
でもアールモシュはいつまでも王位を主張したので、後に目をつぶされちゃいます。

ブジラはイシュトヴァーン2世の母后ですが、息子が即位する前に亡くなりました。

ふたりめの妃はキエフ大公ウラディミール2世公女エウフェミア(1099~1139)

         
カールマーンは知的ではありましたが障害があったため、エウファミアは浮気にはしり
すぐにキエフに送り返されました。
故郷でボリスという男の子を生みましたが、カールマーンは認知しませんでした。
しかし彼は後々ハンガリー王位を主張します、もちろん。

エウフェミアは故郷近くの修道院で余生を送りました。

家系図が前後しますが、カールマーンを15歳で継いだイシュトヴァーン2世の妃は
カプア公ロベルト1世の公女クリスティナですが、詳しいことはわかりません。
子どもは生まれなかったようです。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王シャロモン妃 ユディト

2010-08-13 01:05:55 | ハンガリー王妃
復縁を断固拒否!
シャロモン妃 ユディト


1054~1105以降/在位 1063~1074

ユディトは神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の皇女です。

生まれるとすぐにフランス王アンリ1世の王太子フィリプと婚約しましたが
1058年、兄である皇帝ハインリヒ4世がアンドラーシュと和平条約を締結した時に
婚約は破棄されて、アンドラーシュの王子シャロモンと婚約しました。

       

4歳だから分らなかったかもしれないけど「え~っ 」って思ったかもね。
フランス王妃になるつもりだったのに、ハンガリーってなによぉ、ってね。
とりあえずフランス王室はフランク帝国の名残がありましたから…

1060年、ベーラ1世に王座を奪われたシャロモンはドイツに避難して来ました。
シャロモンの母后アナシュタシアは、ハインリヒ4世に援助を頼み
おかげさまでシャロモンは1063年に王位につくことができました。

ユディトはシャロモンの即位後すぐに結婚したのですが、この結婚はうまくいかず
ふたりはお互いに浮気を繰り返していました。

1070年になると、シャロモンと従兄弟たちとの王位をめぐる争いが始まります。
1074年にシャロモンが敗れると、ユディトは夫を残してドイツに逃れました。

ハンガリーで投獄されていたシャロモンは、1083年に釈放されると
ユディトが暮らすレーゲンスブルクを訪ねやり直そうと訴えましたが
彼女は会うことさえ拒み、シャロモンを追い返しました。
「王じゃないあんたなんか!」ということだろうか…

シャロモンはその後再起をかけてモルダヴィアのペチェネグ族と手を結び
族長の娘と結婚しました。

ユディトはポーランド公子ヴワディスワフと1089年に再婚し、ソフィアに改名しました。

でも実はユディトは、ポーランドの真の統治者と言われたプファルツ伯Sieciechの
愛人だったみたいです。
ポーランド公(後の王)ボレスワフ2世のたったひとりの王子ミェシュコが
不思議な死に方をしたのは、プファルツ伯とユディトの企みだとみられています。
結局ポーランド公にはユディトの夫ヴワディスワフが就きました。

ヴワディスワフには先妻が生んだ公子がいたのですが、ユディトはプファルツ伯の力を借りて
非合法の長男ズビグニェフではなく、次男ボレスワフを継承者にしようとします。
ちなみに、ユディトが生んだ3人は皆公女でした。

しかしこの企みが露見すると兄妹ふたりは手を組んで統治をはじめ
プファルツ伯は追放されました。
1102年にヴワディスワフが亡くなった後は肩身がせまかったでしょうね?

ユディトは1105年にボレスワフ3世と協定を結びましたが亡くなった年ははっきりしません。
1110~1118年の間に娘のアデライデが結婚していて
その後じゃないか?と言われています。

どちらの国でもやりたい放題ですね?
性格についてのエピソードがないのですが、訪ねて来た夫を追い返すあたり
きっぱりした方だったようにお見受けします。

オーストリアのアドモント修道院に葬られました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王アンドラーシュ1世妃 アナシュタシア

2010-08-11 00:04:16 | ハンガリー王妃
キエフ四姉妹のひとり
アンドラーシュ1世妃 アナシュタシア


1023頃~1096/在位 1046~1060

まだまだ争乱が続くハンガリーで傍系の中から王になったアンドラーシュの妃は
キエフ大公ヤロスラフ1世とスウェーデン王女インゲゲルドの公女アナシュタシアでした。

        

当時キエフにどれだけの力があったかは知らんが
大公の4人の公女たちは錚々たるお相手に嫁いでいます。

姉エリザヴェータはノルウェー王ハーラル3世妃、妹アンナはフランス王アンリ1世妃になり
アガサはイングランド王になるはずだったエドワード・アジリングの妃だと言われています。

        
                 こちらキエフ四姉妹
              右からアガサ、アナスタシア、エリザヴェータ、アンナ


アンドラーシュとアナシュタシアは、1039年頃に結婚しました。
父ヴァシュルが聖イシュトヴァーン暗殺計画に加わっていたため
アンドラーシュはキエフに亡命中でした。

1046年、アンドラーシュはハンガリーに帰国し王位を奪還しました。

1053年、ふたりの間に王子シャロモンが誕生しますが
このことが、アンドラーシュと王位を狙っていた弟ベーラとの間に争いを引き起こします。

ベーラは1060年に革命を起こし、アンドラーシュは王妃と子どもたちを
オーストリアに避難させました。
その後アンドラーシュは亡くなり、ベーラが即位しました。

アナシュタシアは、シャロモンの婚約者ユディトの兄である神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に
援助を求め、ハンガリーに侵攻しました。
シャロモンは母の期待にきっちり応え、ベーラ1世を倒し王になりました。

ベーラ1世には3人の王子がいて、皆ポーランドに避難したんだけど
シャロモンはお人好しだったのかしら?
なぜかポーランドからベーラ1世の王子たちを呼び戻し一緒に統治してました。
案の定、3人は反旗を翻しますよ、父の仇だもの。

1074年、シャロモンはハンガリー西部に逃げ延びます。
母であるアナシュタシアも同行しました。

王位奪還をあきらめないシャロモンは、その後もアクティブに動き回るんですが
アナシュタシアは疲れちゃったのかしらね? 
オーストリアのアドモント修道院に入り、修道女として余生を送りました。


名前もはっきりしない・・・
ベーラ1世妃 リチェザ


1018頃~1059頃/在位せず

父親はポーランド王ミェシュコ2世です。
お母さんのリキサはエピソード満載なんだけど、王女なのに何もわかりません。

名前さえもリチェザかアデライデかはっきりしません。

          

1039~1043年の間にベーラ1世と結婚しています。
ベーラはポーランドで異教徒討伐軍に加わっていました。

リチェザは聖イシュトヴァーンの王子聖イムレと結婚していたという説もあります。

ベーラがハンガリーに帰国する時には同行していましたが
王に即位した時には亡くなっていたということです。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『ジェイン・オースティンの手紙』手紙…良き文化なり

2010-08-09 00:56:53 | イギリス・アイルランドの作家
JANE AUSTEN'S LETTERS 
ジェイン・オースティン

オースティンが主に姉キャサンドラに宛てた手紙を年代順に収めた書簡集です。

こんな手紙を1週間か10日に1回もらったら嬉しいでしょう!とは思いますが
まとまってるとけっこうキツい…途中でくじけそうになりましたよ

私は本は併読しないで1冊づつ読み切るタイプなんですけど
今回は他の本の合間に読んでやっと読み終わった、という感じです。

内容の多くは近況報告や噂話で、そこそこ面白いんだけど
「誰じゃ?それは」という人の名前が多すぎるんだってば!
親類に知人、近所の人々から噂の見知らぬ人まで、山のように登場しまして
誰が誰だか分らなくなってきます。
知らない人の話しを延々と読まされてもねぇ…

オースティンらしい皮肉が効いた文章は健在で、時折クスリ とさせられます。
ただ、キャサンドラが「活字になったらマズい」と判断した部分が削除されていまして
たぶん、削除されてる箇所の方が面白かったんじゃないかしら?

オースティンは、時の王太子ジョージ(4世)の妃キャロライン・オブ・ブルンスウィック
支持したと聞いていましたが、姉への手紙に確かに書いてました。

後年、作家として名を上げてから、作家志望の姪へのアドバイスも書いています。
さすがジェイン・オースティン! というご指摘です。

それから、やけに細かく生地やレースの値段を書いてます。
作ろうと思っているドレスや帽子のデザインについても相談していて
当時の流行が伺い知れます。

読んでいる小説について感想も書かれています。
彼女が面白いと書いてあるものをぜひ読んでみたい気がしますが見たことない…
岩波文庫に期待しましょう!!

しかし、こんなにマメな手紙を、こんなに数多い親戚や知人に書いていたら
何時間あっても足りませんね。
しかも小説の合間に書くって…よっぽど活字好き?

なぜか離ればなれに親類の家などを忙しく訪問しているジェインとキャサンドラですが
姉妹は人一倍仲が良くて信頼し合っていたみたいです。

これだけ詳しく日々のことや心の内を書き送っていたら
一緒にいるよりお互いのことが分り合えそうですね。

最後に、キャサンドラから姪ファニーへの
ジェインが亡くなったことを知らせる手紙が収められています。
キャサンドラにとってジェインがかけがえのない人だったことがよくわかります。
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ハンガリー王ペーテル妃 ユディト

2010-08-08 01:08:50 | ハンガリー王妃
結婚してないかもしれない…
ペーテル妃 ユディト・シュワインフルチ


1003以前~1058/在位 不明

聖イシュトバーン1世は王子聖イムレを亡くしてましたので
内乱の末、妹の息子ペーテルが王になりました。
しかし王座をめぐる争いはまだまだ続きます。

ユディトはペーテル妃としてより
最初の夫ベーメン公ヴラティスラフ1世妃としてのエピソードが有名みたいです。

ユディトはノールガウ辺境伯ハインリヒの娘で、バーベンベルク家と
プシェミスル家の関係を強めるために、ヴラティスラフとの縁談が持ち上がりました。

       

ところが、バーベンベルクからすりゃプシェミスルは格下に見られていたらしいのね。
しかもヴラティスラフは婚外子で縁談は難航します。

業を煮やしたヴラティスラフは、女子修道院にかくまわれていたユディトを誘拐!
彼女と結婚することに成功しました。
けれどもヴラティスラフの襲撃は、ユディトの家族も彼女自身も予期していたことでした。
じらす作戦だったのでしょうか?
(上の画はその時のもよう…確かに仲睦まじく見えたりする)

1055年にヴラティスラフ1世が亡くなると、ハンガリーに行かされて
一説によればペーテルの二人めの妃になったとされています。(一人めは不明)

ペーテルは1046年に二度目の廃位をされた時に亡くなっているという説があり、
そうすると1055年以降にユディトと再婚したっていう話しはおかしいっすね?

一方、1046年に追放され、1059年に亡くなったという説もあり…
こちらが本当ならユディトより1年長生きです。

ユディトはプラハのヴィート大聖堂に葬られました。


家系図だけ・・・
アバ・シャームエル妃 ギゼラ


ペーテルから3年間王座を奪ったアバ・シャームエルの妃ギゼラは
初代ハンガリー王聖イシュトヴァーンの姉です。

           

アバ・シャームエルはすぐに貴族の支持を失いまして失脚し、殺害されたらしいです。
ギゼラの生涯はさっぱりわかりません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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