まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『ロレンス短篇集』どうにもこうにも落ち着かない短篇集

2011-05-31 20:22:13 | イギリス・アイルランドの作家
SHORT STORIES OF D.H.LAWRENCE 
D.H.ロレンス

なんだかんだ言ってロレンスの短編は好きで、福武書店版新潮文庫版岩波文庫版など
何冊か読んでますけど、この一冊が一番まとまっていない気がします。

作品の幅広さを見せたかったのかしら?
だとしても、どうも不発に終わってるんじゃないかしら?
既読の短篇集で読んだ時には気にならなかった物語が浮いて見えてしまったんです。
生意気言ってすみませぬ…

でも単品で考えれば好きな物語が多かったので、いくつかご紹介します。

『ストライキ手当(Strike-Pay)/1912年』
ストライキ手当をもらってノッティンガムにくり出した男たちの中に
新婚のイフレイムもいました。
手当を落としてしまったイフレイムは仲間からカンパしてもらい、少し飲んで帰ります。
家では新妻の母親が待ち構えていました。

内容は好きですよ、好きですけどそれはさておき、どうして方言を訳すと
関西弁や、「~だべ」「んだんだ」みたいな言葉になっちゃうんだろう?
言葉によって話しの雰囲気が大きく左右されちゃうのがイヤなんだし、
何もしないでいてくれた方が読み易いんだけどな…と思いませんか?

『薔薇園の影(The Shadow in the Rose Garden)/1914年』
ある夫婦が休暇で海辺の町を訪れています。
そこは妻が以前暮らしたことがある場所でした。
妻はひとりで薔薇園を訪れ、ある男性に会ってしまいました。
それはとても残酷な再会でした。

後半、妻に対する夫の質問が延々と続きます。
最初は遠回しに、そしてだんだん細部まで、そして嫌味たらたら… 予測通りの展開。
ジョイスの『ダブリン市民』の『死せる人々』もこんな感じでしたよね。
もう!ムカつくなら過去なんか聞かなきゃいいじゃない! と言いたくなっちゃう。

『英国、わが英国 -1915年版-(England,My England-1915 Version-)』
イーヴリンはまったく生活力のない男性でした。
働かないでも入ってくる収入の他は、妻ウィニフレッドの父親まかせです。
お互いの気持が離れつつあった時戦争が始まり、イーヴリンは兵士に志願します。
ウィニフレッドも義理の父親も大賛成でした。

愛国的なお話しなのかと思いきや、とても自分本位でエゴイズム溢れた物語に思えました。
でも庭仕事しかしなかった人がいきなり入隊するというのは、やはり愛国心ですかね?
モデルがいるらしいんですけど、書かれた方はたまらないんじゃないかしら? なんて
心配になったりして…

『薔薇園の影』や『英国~(別バージョン)』は既読でしたが訳はこちらの方が好きでした。

ロレンスっぽい、はっきりしないこの気持をどうしたら…という雰囲気は
そこはかとなく漂ってましたよ。

まったく個人的な好みですが、ロレンスの短篇は女性が主人公の方が好きです。
男性が主人公のお話しが多かったのが馴染めなかった原因でしょうか?
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・カロリーナ

2011-05-30 00:48:59 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
嫁ぎ先で張り切りすぎた皇女
フランツ1世皇女 マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ
ナポリ=シチリア王フェルディナンド4世妃


1752~1814/在位 (ナポリ王妃)1768~1806 (シチリア王妃)1768~1812

マリア・カロリーナは、フランツ1世とマリア・テレジアの十女です。
妹のマリー・アントワネットと一番仲が良くて
どちらかが病気になるともう一方が寝込む…というほどでした。
しかし、二人揃ってお行儀が悪かったみたい…

         
1767年、ナポリ王フェルディナンド4世と婚約していた姉のマリア・ヨーゼファ
天然痘で急死しました。
フェルディナンドの父スペイン王カルロス3世は、同盟維持のため代わりを要求してきます。
マリア・アマーリアはフェルディナンドより年上だったので
マリア・カロリーナが選ばれました。

マリア・カロリーナはナポリへ嫁ぐのを泣いて嫌がりました。
しかしマリア・テレジアが聞くかいな!  1768年、お嫁に出されてしまいます。

初めてフェルディナンドに会ったマリア・カロリーナは「醜い…」と思ったとか。
手紙にも “ 絶対彼を愛せないと思う ” と書いています。
一方フェルディナンドもマリア・カロリーナのことは気に入らなかったようです。
でもさすがに皇帝の娘と王の息子だけあって、世継ぎづくりは怠りませんでした。

嫌々嫁がされてきたものの姉のマリア・アマーリアとは違い
マリア・カロリーナは母マリア・テレジアの指示を聞いていたみたいです。
まずは、夫フェルディナンドの興味を狩猟に向けさせ、国政を掌握しようとしました。
王子が生まれてからはさらに権力を強くしようとしました。

この後、マリア・カロリーナの座を脅かす政治家ベルナルド・タヌッチの起用をめぐって
義父カルロス3世と一悶着をおこしたりするんですが省きますね。
姉マリア・アマーリアと同じようなことしますね…
カルロス3世は「あの姉妹、やめときゃよかった 」と思ったことでしょう。

結局タヌッチがいなくなった宮廷は、マリア・カロリーナと寵臣アクトン男爵が
二人で仕切っていたようなものでした。
またスペイン貴族が退去させられ、新オーストリア派の貴族に一新されました。
兄ヨーゼフ2世のアドバイスでナポリ海軍の強化にも乗り出しました。

アメリカと同盟を結んでイギリスに宣戦布告したスペインのカルロス3世とは
アクトン男爵(イギリス人)の処遇をめぐって、またまた悶着をおこしましたが
これも釈明の手紙などで切り抜けました。

マリア・カロリーナとアクトン男爵は恋人同士だと噂されていて
夫のフェルディナンド4世の耳にも入っていました。
フェルディナンドは二人を不意打ちしてやろうと狙っていてスパイもつけました。
「殺してやる~!」と脅したりもしたそうです。

夫婦の和解が成って、カステッランマーレに移ったアクトン男爵でしたが
週3回はマリア・カロリーナと会うためにナポリを訪れていたらしい…ミエミエね。

マリア・カロリーナの政治的な動きについては長~くなるからはしょってきますが
まずは悪化していたローマ教皇との関係改善をすすめたこと、
子供たちの結婚については、夫を無視して母親ゆずりの政略結婚をすすめたこと、
フランス革命後、啓蒙君主主義を捨て反動(保守)の道を選んだこと…などなどです。

また、ナポリを12の地域に分割して長官たちに取り締まらせることにしました。
これは地域への分権ではなくて監視の強化のためで、秘密警察とスパイが増加しました。

スパイたちから自分の不人気ぶりを知ったマリア・カロリーナは革命などを恐れて
イギリスと軍事同盟を結ぼうと考えました。
ジョージ3世王妃シャーロット・オブ・メクレンブルクに面会を願い出て
断られたマリア・カロリーナは、身を落として大使夫人エマ・ハミルトンに会っています。
(この女性もけっこうスキャンダラスな人なんですけど、それはまた別の機会に…)

いいこともしてますよ。
ナポリの食糧危機の際には姉マリア・アンナとともに私財を投じて穀物を買い入れました。

細かいことははしょりますが、マリー・アントワネットの投獄後
マリア・カロリーナは怒り心頭でフランスとの関係を一切絶とうとし
フランス語を「野蛮人の言葉だ」と言って一切しゃべろうとしませんでした。

その後スペインによる領土譲渡があったり、対フランス戦への参戦などがありましたが
結局1806年に夫フェルディナンドは廃位されて、ナポリ王の座は
ナポレオンの兄ジョゼフ(ジョゼッぺ)にもっていかれてしまいました。

シチリア王座は1812年に廃位され、息子のフランチェスコが摂政に就きました。
これはフェルディナンドというより、マリア・カロリーナの力を削ぐためでした。

マリア・カロリーナはオーストリア追放の翌年、1814年に亡くなりました。

フェルディナンドはなんと! マリア・カロリーナの死から2ヶ月後に
ルチア・ミリアッチョという女性と再婚しています。
1816年、フェルディナンドは、シチリアとナポリを併合し両シチリア王に即位しましたが
ルチアとの結婚は貴賤結婚とされたため、ルチアには王妃の称号はありません。

とにかく政治への関心が高くて精力的な女性だったようですね。
こんな激動の時代ではなくて、100年ぐらい早く生まれていたら名君と言われていたかも…
マリー・アントワネットと足して2で割ればいい感じだったんじゃないでしょうか。

(参考文献 テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』 Wkipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・ヨーゼファ

2011-05-28 12:39:20 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
お嫁入り直前の悲劇
フランツ1世皇女 マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ


1751~1767

マリア・ヨーゼファは、フランツ1世とマリア・テレジアの九女です。
七女マリア・カロリーナは生まれてすぐに亡くなり
八女マリア・ヨハンナは12歳の時に天然痘で亡くなりました。

実はマリア・テレジアは予防接種の支持者で、子供たちの全員に
天然痘の予防接種を受けさせて効果を実証しようとしたのですが
マリア・ヨハンナには裏目にでちゃったみたいです。

         
いくら大ハプスブルク帝国の公女とはいえ九女ともなると、あまり日の目を見ない立場ですが
姉たちが亡くなったり嫁いだりして、さらにヨーゼフ(2世)妃マリア・イザベラが亡くなると
マリア・ヨーゼファは姪(ヨーゼフの王女)のマリア・テレジア、
姉のマリア・アマーリアに続くVIPになりました。

マリア・ヨーゼファは、本当に可愛らしい少女でした。
従順な性格で、陰気で神経質な兄ヨーゼフのお気に入りでした。

女帝は最初にマリア・アマーリアをナポリ=シチリア王フェルディナンド1世に
嫁がせようと考えましたが、フェルディナンドの父スペイン王カルロス3世が反対しました。
年上だったからですかね?

そこでフェルディナンドと同じ年のマリア・ヨーゼファが候補に挙がりました。
縁談話は進み、まさに婚礼のためにウィーンを発とうとした時
マリア・ヨーゼファに天然痘の兆候が現れます。

女帝は(ヨーゼフ妃)マリア・イザベラの棺に祈りを捧げた時に罹病したと主張しました。
たしかにマリア・ヨーゼファは、発病の二日前にマリア・イザベラの墓所を訪れていました。
しかし、天然痘の発疹が出るのはだいたい一週間後です。
さては、姉同様予防接種のせいなのか…

いずれにしてもマリア・ヨーゼファは回復せず亡くなってしまいました。

マリア・テレジアの一家には天然痘による死亡者が多いですよね。
治療や隔離が困難だったのでしょうか?

マリア・ヨーゼファの代わりとして、妹のマリア・カロリーナがナポリへ嫁ぎます。
これがナポリにとって良かったのか悪かったのかは…つづく

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・アマーリア

2011-05-27 12:01:44 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
お母様のせいで恋がかなわず・・・
フランツ1世皇女 マリア・アマーリア・フォン・エスターライヒ
パルマ公フェルディナンド妃


1746~1804

マリア・アマーリアは、フランツ1世とマリア・テレジアの六女です。
美人ぞろいの皇女たちの中でもひときわ美しくて社交界の人気者でした。
宮廷で詩などを朗読すると、うっとりする声で人々を魅了したそうです。

女帝マリア・テレジアは良妻賢母と言われていますけれども
けっこう子供たちに対して分け隔てがあったみたいなんですよね。
溺愛されていたのは、将来帝国を継ぐことになるヨーゼフ(2世)と四女ミミです。

マリア・アマーリアは女帝から横柄でうるさい娘だと思われていて
始終姉たちと較べられていました。
        
マリア・アマーリアは22歳の時、ウィーン宮廷を頻繁に訪れていた
ハンサムで知的なツヴァイブリュッケン公カールと恋に落ちました。
カールは傍系とはいえヴィッテルスバハ=プファルツ家で、ツヴァイブリュッケンの君主、
うまくいけば将来バイエルンとプファルツの継承もできるかもしれませんでした。

しかし女帝と宰相カウニッツは二人の結婚に難色を示しました。
実はオーストリアは、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが亡くなったら
バイエルンを獲得しようと考えていました。
(マクシミリアン3世の母はヨーゼフ1世皇女マリア・アマーリア
 妃は同じくヨーゼフ1世皇女マリア・ヨーゼファの娘マリア・アンナです)
バイエルンの継承が可能なカールとの結婚は政治上好ましくないと考えたようです。

それに、イタリアでの力を強化するため、マリア・アマーリアを
ブルボン家のナポリ王かパルマ公に嫁がせたいと考えていました。

マリア・アマーリアはミミを引き合いに出して必死で反抗しましたが
パルマ公フェルディナンドの姉マリア・イザベラを妃に迎えていた兄ヨーゼフ(2世)が
強力に後押しして、結婚が決まってしまいました。

ツヴァイブリュッケン公は怒ってウィーンを後にし、二度と足を踏み入れなかったそうです。

1769年、マリア・アマーリアは泣く泣くフェルディナンドと結婚しパルマに渡りました。
長~くなりそうなので結婚後についてははしょっていきますね。

当時パルマは、イタリアを手中に収めたいと狙っていたフランスとスペインから
財政援助を受けていました。
ハプスブルク家もくい込もうとして、女帝はローゼンベルク伯という顧問を
マリア・アマーリアに同行させて、ウィーンから逐一指示を送りました。

パルマ公フェルディナンドは政治に興味がなく遊興に耽っていて
マリア・アマーリアはすぐに政治の実権を握ることができたのですが
女帝の指示はほぼ無視! ローゼンベルク伯は追っ払われてしまいました。
怒った女帝はマリア・アマーリアの手紙を開封せず送り返したりしたそうです。
母と娘の溝はかなり深かったみたいで生涯和解できませんでした。

ところで、母娘の溝を作った元凶ともいえるミミなんですけど
おせっかいなことにパルマを訪問しています。
ミミが女帝にチクったところによれば、マリア・アマーリアはめっきり太った上老けて
華やかさも失ったということでしたが、ミミは兄弟姉妹の悪口を言うのが好きですからね。

マリア・アマーリアは風変わりだけど気は好くて勇敢な女性と言われていました。
嫌々嫁いだわりに、夫との仲もそんなに悪くなかったみたいです。

女帝やミミとは不仲のマリア・アマーリアでしたがマリー・アントワネット
ナポリ王妃になった妹マリア・カロリーナとは仲が良くて
手紙やドレス、贈り物のやりとりを続けていました。
マリー・アントワネットが監獄で書いた最後の手紙は密かに届けられました。
妹の処刑を知ったマリア・アマーリアはフランスを嫌悪するようになりました。

ナポレオンの侵攻が始まり、イタリアの各国も次々に侵略されていきます。
息子ルイージはトスカーナに建国されたフランスの傀儡国エトルリアの王に即位しました。

1802年にフェルディナンドが亡くなるとマリア・アマーリアは摂政に任命されましたが
数日でフランス共和政から職が解かれ追放されました。
息子は傀儡王になっているのに、なぜでしょうね?
厄介者と見られたのでしょうか? 反フランス!を見せすぎましたかね?

マリア・アマーリアはプラハ城で暮らし、2年後に亡くなりました。

無理矢理な政略結婚だったのに、結局うまくいかなかったとは…誰に怒りをぶつけますかね?
マリア・テレジアの娘たちは、結局ミミ以外は不幸だったような気がします。
筆まめでお小言を書き送ったというだけで賢母というのもどうだろう…と
ふと考えたりして…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
      テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』 Wikipedia英語版)
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『シェリの最後』使い道のない美貌を持つと…

2011-05-25 15:11:30 | フランスの作家
LA FIN DE CHERI 
1926年 コレット

25歳近く年下の十代の美少年の心を釘付けにした女性レアに大絶賛を送りたくなった
『シェリ』の続編、と言っていいのかしら? 数年後を描いた物語です。
登場人物はほぼ同じですが、クローズアップされている人物が違います。

シェリは、19歳の美少年から、戦争帰りの30歳目前の美しい男性になっています。
人の顔色ばかり伺っていた友人のデズモンは事業をおこして成功し人柄も変わりました。
母のマダム・プルーは娼婦仲間が集う優雅な生活におさらばし、金儲けに飛び回っています。

ものすごく変化を見せているのが、シェリの妻エドメです。
シェリを崇めるように愛して、おどおどしているだけだったようなエドメは
傷痍軍人のための病院を営業して、毎日を忙しく、優雅に過ごしています。

忙しい母や妻と違って、シェリは手持ち無沙汰です。
誰もがシェリに「何もしないでじっとしていればいい」と言います。
昼食や夜食には毎日のように来客があって所在がありません。
シェリは次第に家を空け、パリの街をぶらぶらするようになります。

息子を心配したマダム・プルーの取りなしもあって
シェリは以前愛し合ったレアと5年ぶりの再会をすることにしました。

40代後半でも充分美しかったレアは、今や60歳になろうとしています。
どんな風に変わっているのでしょうね? まだ美しいままでしょうか?
シェリは期待と恐ろしさ半々、という状態でレアのアパルトマンを訪れるんだけれども…
再び会って、シェリとレアはどうなっちゃうんでしょう?
正直言って、レアには  違う展開を期待していたんだけどなぁ…

エドメが見せる美しさに愕然としながらも受け入れられず
アルノー博士とエドメの関係を想像して嫉妬しながら冷淡にしか振る舞えないシェリ。
日々疲れを覚え、やつれていくシェリに、レアと再会したことが重荷として加わります。

同じ頃シェリは、落ちぶれた高級娼婦でレアの友人ラ・コピーヌにバッタリ会うんだけど
彼女との再会が無ければ、彼の行く末も少しは変わっていたのかも…

だんだん追いつめられていくシェリにとって必要になっていくラ・コピーヌですが
彼女との交流が無ければ、あるいはシェリは再起できたかもしれない…という気がします。

シェリが最後にどうなってしまうかはお楽しみ…というか
読んだ私からして、70%ぐらいしか確信が持てないラストでした。

美貌の人が、その美しさ故に悲劇になってしまう物語は多いですよね?
不本意な相手との結婚とか、老いていくことの怖れとか、犯罪に巻き込まれるとか…
シェリの場合はなにがいけなかったんでしょう?

もちろん、戦争から帰って来たらすっかり居場所がなかったことへの焦りとか
燃尽き症状群って言うんですか? 目標を失って途方に暮れたとか、いろいろあると思うけど
私が思うに、早熟だったことがシェリの悲劇だったんじゃないかなぁ…

シェリは幼い頃から美しい顔立ちを意識して生きてきたわけですが
大人になった今、俳優や歌手などのように仕事に容姿が関わるわけでもなし
女性にもてたいわけでもなし…宝の持ち腐れ?
今でも女がほっとかない美貌であることを自覚しているシェリにとって
もはや愛し合うことができないという事実は存在意義の否定に思えたのではないでしょうか?

それよりなにより、まわりの女たちがシェリに至れり尽くせりで、その上おしゃべりすぎる。
読んでいる私でさえうざったくて「少しほっといてあげれば?」と言いたくなっちゃったわ。

「あ~、綺麗に生まれたかった!」って、生まれてこのかたずっと思ってますけど
峠を過ぎた後の苦しみを考えると…羨ましい人生なんだかどうだか…
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・エリーザベト

2011-05-24 23:00:14 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
災い転じて・・・かもしれない
フランツ1世皇女 マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ


1743~1808

マリア・エリーザベトは、フランツ1世とマリア・テレジアの五女です。
(亡くなった長女と同じ名前なのですが、当時先に亡くなった子と同じ名を
 後に生まれた子供につけることはよくありました。
 ただ、親族の誰の名を継いでいるかで区別していたようです)
皇帝の娘たちの中で一番美しいと評判でした。
宮廷ではリースルと呼ばれていました。

             
王妃マリー・レクザンスカを1768年に亡くしたフランス王ルイ15世は
リースルと再婚したいと考えていました。
ルイ15世、その時58歳、お元気なことですな。

しかし、リースルのフランス王妃への夢は突然に断たれます。
天然痘に罹ってしまったんですね。
幸い命は助かったものの、顔には痘痕が残ってしまいました。

でも、もしルイ15世と結婚していても、すぐにデュ・バリー夫人が登場しますからね。
しなくて良かったかもしれない…

リースルは、病に罹る前は姉マリア・クリスティーナ(ミミ)
激しい争いを巻き起こしていました。
どちらが美しいか、どちらが人々の注目を集めるか…そりゃあ熾烈だったそうです。
悪口の言い合いもハンパじゃなかったらしい…

しかし、天然痘に罹った後は結婚そのものをあきらめたようです。

1780年にマリア・テレジアが亡くなると
兄のヨーゼフ2世からインスブルックの修道院長に任命されて
ナポレオンに同調したバイエルン王国にチロル地方が奪われる1806年まで
修道院長を務めました。

ウィーンへ戻った後リンツへ移り、1808年に亡くなりました。

同じ年にクラーゲンフルトに赴いた姉マリア・アンナとは
しばしば仲良くやりとりしていたそうですが、弟レオポルト(2世)によれば
それは共通の敵ミミに相対する時だけで、それ以外の時にはけっこう悪口三昧だった様子…

美しいまま年をとり、フランスへ嫁いでいたらどうだったでしょうね?
気も強そうだし、デュ・バリー夫人の好敵手になり得たかもしれない…

(参考文献 テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・クリスティーナ

2011-05-24 22:59:59 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
お母様のお気に入りは姉妹たちに嫌われる…てパターン
フランツ1世皇女 マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ
テッシェン公アルブレヒト妃


1742~1798

マリア・クリスティーナは、フランツ1世とマリア・テレジアの四女です。
三女マリア・カロリーナは1歳で亡くなりました。

マリア・クリスティーナは母マリア・テレジアと同じ誕生日ってこともあってか
とにかく女帝のお気に入りで、ミミと呼ばれていました。

           
ミミは美しいだけでなくて芸術的才能も持ち合せていたということですが
そんなことはおいといて…とにかく女帝の依怙贔屓ぶりは大変なものでした。
また、ミミも母親を上手く操る術を身につけていました。

ミミは、従兄弟にあたるサヴォイア家のベルナドット・マリアの妃に予定されていましたが
彼女には意中の人がおりました。
相手はザクセン選帝侯子アルブレヒトです。
女帝の従姉妹マリア・ヨーゼファの息子で、家柄は悪くはないんだけど
なにせ六男で継承の見込はなく、普通なら聖職につくか軍隊に入るってところです。

もちろんフランツ1世は大反対してました。

1765年にフランツ1世が亡くなると、ミミはおセンチになっている女帝を説得し
愛する人と結婚してもいいという許しを得ました。
女帝の皇女の中で恋愛結婚を許されたのはミミだけです。

さらに女帝はミミに莫大な持参金を与え
結婚後はアルブレヒトをハンガリー総督に任命しています。

他の兄弟姉妹がミミにすごい嫉妬を感じるのもしょうがないですよね。

特にミミの妹マリア・アマーリアは恋愛中の相手がいたのに
無理矢理パルマ公に嫁がされて激怒し、ミミどころか女帝とも不仲になります。

兄のヨーゼフ(2世)も長男を差し置いて母の愛を独り占めしているミミが気に入らず
弟のレオポルト(2世)も口やかましくなんにでも首をつっこむミミが嫌いでした。

ミミは兄弟姉妹についてすぐに女帝に告げ口し、しかも巧みなもんだから
女帝と子供たちの間に度々トラブルをおこしていました。
兄ヨーゼフの妃マリア・イザベラには弱々しく取り入って親友になり
皇太子妃を支配下に置こうなんて考えます…なんか、すごく狡猾な人ね。

マリー・アントワネットは姉たちに手紙を書く時
フランス製のドレスや肖像画なども送っていますが、ミミには送りませんでした。
ミミがフランスを訪問した時もヴェルサイユで一般客のように接しました。
プチ・トリアノンでプライヴェートに会いたいという申し出も断っています。
久しぶりに会う姉妹だっただろうに…そんなに嫌われ者?

そのかわりミミには、女帝から山のような贈り物が届いていたというから
「別にあんたたちの贈り物なんかいらないよーだ」と思っていたかもしれません。

マリー・アントワネットが処刑された時ミミは
「再婚相手を探す必要がなくなって良かったじゃない」と言ってのけたそうですよ。
実の妹よ、ヒドくない?

1780年にネーデルラント総督に任命されたアルブレヒトとミミは12年間その座にいました。
ラーケン宮殿を建てて、莫大な美術品をコレクションしました。
これもすべてお母様の愛のお力よね。

夫婦の仲はとても良かったそうで、幸福な結婚生活だったということですが
子供は女の子が一人生まれただけで、しかも生まれた翌日に亡くなりました。

兄弟姉妹との仲は悪くても、強力なバックがついていたから気にならなかったでしょうね?
他の兄弟姉妹と違って好きな時に女帝に会うことができて、シェーンブルン宮殿にいる時は
女帝よりいい部屋を使っていたっていうんだから…
概ね幸せな人生だったんじゃないかとお察しします。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 
      テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・アンナ

2011-05-24 22:59:44 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
華やかな一家の陰で生きた皇女
フランツ1世皇女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ


1738~1789

フランツ1世とマリア・テレジアに16人のお子さんが生まれたのは有名なお話し。
皇女は11人で、有名なのはなんと言っても十一女のフランス王ルイ16世妃
マリア・アントニア(マリー・アントワネット)ですよね。
さて、他の皇女の皆さんはどんな人生を送られたんでしょうか?

長女のマリア・エリーザベトは3歳で亡くなっています。
マリア・アンナは次女で、宮廷ではマリアンネと呼ばれていました。

          
マリアンネはとても知的な女性でした。
でも、詳しいことは不明なんですけど(脊椎カリエス説あり)
身体的にちょっと悪いところがありました。
最初の縁談が破談になってからはお妃候補にあげられることがありませんでした。

皇子誕生を待ち望む中生まれてきた二人目の皇女で、すぐに皇子ヨーゼフ(2世)が生まれ
病弱だったマリア・アンナは、最初から女帝の目をひきませんでした。

加えてマリア・クリスティーナという女帝のお気に入りと
マリア・エリーザベトという各王室で評判になるほどの美しい娘が生まれて
もはやウィーン宮廷にマリアンネの居場所はないようなものでした。

マリアンネの唯一の理解者と思えた父フランツ1世が亡くなると
女帝はプラハに設立した貴族の娘たちのための帝国立修道院の院長に
マリアンネを指名しました。
この地位はマリアンネに80,000フローリンの年収をもたらすことになりました。

しかし荷が重かったか、マリアンネは健康を理由にプラハを訪れることなく
珍しく女帝と大喧嘩をしてまでクラーゲンフルトのエリーザベト修道院の行きを希望します。
エリーザベト修道院は貧しい人々のための修道院で、格も収入も落ちます。
しかし、修道院長クーエンベルク伯夫人はマリアンヌの数少ない親交の相手でした。

女帝はマリアンネが死にかけた時に一度だけ、娘を愛していると言う声明文を出しただけで
マリアンネに必要以上の愛情をかけてはいなかったようでした。
しかし女帝が肺炎になり死を迎えようとしていた時、ずっと看病したのはマリアンネです。

女帝が亡くなると、マリアンネは弟のヨーゼフ2世から修道院行き急き立てられ
クラーゲンフルトへ向かいました。
この時、女帝は遺言でマリアンネへの報酬を一切減らさないように明記しています。
これがなければヨーゼフは年俸を減らしていたはずです。

家具、リネン、ワインなどをヨーゼフからさんざん削られた上で出発したマリアンネは
自ら州知事に質素な出迎えを要請しています。

マリアンネのクラーゲンフルト行きは町に誇りと活気をもたらします。
病院や修道院も改装されました。
また、名を秘して貧しい人や病人に寄付していたそうです。

修道院に入った後も、家族との関係を絶ったわけではなく
特にマリア・エリーザベトとはしばしば仲良くしていたようです。

マリー・アントワネットはヴェルサイユへ向かう途中でこの修道院に立寄り一泊しています。
姉妹で名残惜しい夜を過ごしたことでしょうね。

1789年のナポリの食糧危機では、妹のナポリ王妃マリア・カロリーナとともに
自前で代金を払って穀物を送り出しました。

マリアンネを忌み嫌っていたヨーゼフ2世も、病院の改装などにあたっては
(しぶしぶですが)資金を出しています。

マリアンネは死の直前までクラーゲンフルトがあるケンテルンの人々に謝意を表し
51歳で亡くなりました。
埋葬は質素なものでしたが、かつてないほど人々が嘆いたそうです。

小さな頃から疎まれたり蔑まれたりしているとひねくれてしまうことも多々ありますが
マリアンネの場合は人の痛みがわかる指導者としての性格形成に役立ったようですね。

クラーゲンフルトに移ってからは、奉仕や芸術・学問について語り合える友人ができ
新たに学び始めた考古学についてもアクティブに活動できたりして
宮廷ですごすより、きっと幸せでしたよね?

(参考文献 テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』)
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『ヘミングウェイ短篇集』はずまない会話がいい感じ…

2011-05-19 02:07:21 | アメリカの作家

アーネスト・ヘミングウェイ

ヘミングウェイはずっと読まず嫌いで、前回『キリマンジャロの雪 他12編』という
短編集にチャレンジしましたが、まだ長編を読む勇気が出ません。
再び短編集に挑戦です。

ちょっと慣れてきたみたいです。
訳のせいなのか、この一冊は前回よりさらにぶっきらぼうな印象を受けました。
でも、それがかえっていい感じ…

とにかく、登場人物のほとんどが、自分の言いたいことを繰り返し
相手の言うことを聞きやしないという強情な人ばかりで、会話が一方通行&堂々巡り。
日本人には無い(と言われる)強い自己主張ぶりに、小気味よささえ感じられました。

一番好きなのは『キリマンジャロ~』で紹介した『清潔で明るい場所』です。
それ以外に気になった物語をいくつかあげてみます。

『贈り物のカナリア(A Canary for One)』
パリへ向かう列車のコンパートメントで同室になったアメリカの婦人は
娘への贈り物のカナリアを連れていました。
彼女はしきりに夫にするならアメリカ人が一番だと力説します。
娘はスイス人と恋愛したので引き離したとも言っていました。

アメリカ婦人の相手をしているのはアメリカ人夫妻なのね。
とにかくこの婦人の会話は、夫はアメリカ人じゃなきゃ! の一点張りです。
最後の最後に “ ガクッ ” て感じになります。ヘミングウェイの体験談なんでしょうか?

『密告(The Denunciation)』
マドリードの名店チコーテの店の常連は、ほとんどがフランコ側につきました。
ある夜爆撃を避けて飲んでいるとウェイターがやってきて耳打ちしました。
なんと、やはり常連で、古い友人のルイス・デルガドが店にいます。
彼は反フランコ派の兵士になっていました。

この物語では主人公の男性とウェイターが、密告をめぐって同じ言葉を繰り返します。
お互いフェアでありアンフェア…あなたが決めてほしいっていう会話です。
でもラストで主人公は、ルイスの気持を大事にしてあげるんですけどね。

『雨の中の猫(Cat in the Rain)』
ホテルに二人しかいないアメリカ人夫婦の夫が窓から外を見ていて
テーブルの下で雨宿りをしている子猫を見つけました。
妻が子猫を連れにいきますが、行ってみるといなくなっていました。
部屋に戻った妻は「子猫が飼えないなら髪を伸ばしたい」と言い出します。

妻はさらにいろんなことを言い出しますけど、中には無理難題もあります。
猫の話しからどうしてそうなるの? っていう旦那の呆れぶりがひと言に滲み出てます。
女性が爆発した時の「何言ってるんだ」感が上品に表されているような気がします。

“ 弱く寂しい男たち、冷静で寛大な女たちを登場させて~ ” と裏表紙に書いてありますが
私は、それはあまり感じなかったですねぇ。
むしろ男性は、小さなことにこだわらずぶっきらぼうで憂いがあって…という男臭さがあり
女性は、静かに男の話しを聞いて相づちをうってるのに掴みどころが無い…という
神秘的&キュートさが目につきました。

(読んだことないけど)ハードボイドにおける理想の男女像、って感じですか?
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神聖ローマ皇帝カール6世皇女 マリア・アンナ

2011-05-18 23:05:54 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
お姉様と一緒に恋を実らせたちゃっかり者
カール6世皇女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ
ロートリンゲン公子カール・アレグサンドル夫人


1718~1744

マリア・アンナは、カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの次女で
姉は、あの、マリア・テレジアです。
他に兄レオポルトと妹マリア・アマーリアがいましたが幼くして亡くなりました。

         

マリア・アンナには、7歳の時に最初の縁談が持ち込まれました。
相手は5歳の、パルマ公フィリッポ(後のスペイン王フェリペ5世)公子フィリッポでした。

兄のヨーゼフ1世が存命中、カール6世はスペイン王位を狙って戦っていました。
戦況は優勢で、もう少しでスペイン王、というところでヨーゼフ1世が急逝し
神聖ローマ皇帝に即位しました。
この上スペイン王にまでなられたら…とイギリス・オランダが大反対!
結局スペインはブルボン家のものになります。

そんなわけで、ハプスブルク家とブルボン家の関係修復にもってこいと思われたこの縁談は
すぐに署名されました。
条件の中にはハプスブルク家がスペインの権利を一切放棄することと
スペインのジブラルタル海峡進撃にオーストリアが派兵することも含まれていました。

しかし、パルマ公妃エリザベッタが戦争をやめようと考え
セビーリャ条約を結んじゃったもんだから、ハプスブルク家の援護は不必要になり
マリア・アンナとの結婚は棚上げになりました。

だいたい、縁談もエリザベッタが持ち込んで来たのよね。
かかあ天下で政治も仕切っていたというエリザベッタ…身勝手ね。
継子や嫁に対しても冷たかったみたいだし、嫁に行かなくてよかったよ

さて、ここから恋のお話しですが…
マリア・テレジアの夫フランツ(1世)は子供時代からウィーンで教育を受けていました。
弟のカール・アレクサンダーも一緒に来ていて
マリア・アンナと恋に落ちちゃいました。

誰もが驚いたマリア・テレジアとフランツの結婚を許したカール6世でしたが
マリア・アンナには政治的にもっと強力な婿がいいなぁ、と考え反対していました。

でも頑張ったみたいですね。
マリア・アンナは、1740年にカール6世が亡くなった時、22歳でしたが未婚です。
たぶんいくつか縁談はあったと思います。
だってハプスブルク家の後継者になるかもしれないんだもん。
その度に父上と大げんかをする姿が目に浮かぶわ。

母のエリーザベト・クリスティーネがやっと結婚を許して
1744年、晴れて結婚致しました。

結婚後すぐ、二人は伯母マリア・エリーザベトの後任として
ネーデルラント総督に任命されました。
政治的に穏健で人気がある総督だったようです。

結婚から2ヶ月後、カールはオーストリア継承戦争でプロイセンと戦うために出兵しました。
マリア・アンナは妊娠していたのでブリュッセルに留まったのですが
これが二人のお別れになってしまいました。
やっと結婚できたのに、なんて可哀想なことかしら…たった2ヶ月とは…

1744年12月、マリア・アンナは子供を産みましたが死産でした。
ものすごい難産で、彼女自身も回復しないまま亡くなってしまいました。

夫のカール・アレクサンダーはその後も、1780年に亡くなるまで
ネーデルラント総督の座についていましたが、再婚はしませんでした。
32歳だから再婚相手には困らないと思うんだけど…
もしかして、すっごいセンチメンタリスト?
現実の結婚生活でうんざりするより、美しい思い出と共に生きたる道を選んだか?

ロマンチック気分にすごく水を差しちゃうけど
ハプスブルク家の婿としてネーデルラント総督の座にとどまっていたかったのかも…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世皇女 マリア・アマーリア

2011-05-17 10:25:12 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
一瞬だけど…神聖ローマ皇帝の座を実家から奪った
ヨーゼフ1世皇女 マリア・アマーリア・フォン・エスターライヒ
神聖ローマ皇帝カール7世妃


1701~1756/在位 1742~1745

マリア・アマーリアは、ヨーゼフ1世と皇后ヴィルヘルミーネ・アマーリエの次女です。
兄で唯一の皇子レオポルト・ヨーゼフの死の1週間後に生まれました。

母のヴェルヘルミーネ・アマーリエはその後身ごもることができませんでした。
あくまでも噂ですけど、ヨーゼフ1世が愛妾の一人から梅毒をうつされて
それが皇后にもうつっちゃったらしいです。

    

マリア・アマーリアも、姉のマリア・ヨーゼファ同様、継承権を奪われて
放棄を認めるまで結婚の許可がおりませんでした。

サヴォイア公子ヴィットーリオ・アメデーオ妃の候補にあがりましたが
ヴィットーリオの父サルディーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世が乗り気でなく
うだうだしている間にヴィットーリオ(息子の方)が亡くなってしまいました。
でも、この話しも継承権問題があるうちは進まなかったかもしれませんね。

その後、マリア・アマーリアは継承権を放棄し
1722年にバイエルン選帝侯マクシミリアン2世の王子カールと結婚しました。

そして1740年、叔父カール6世が亡くなりました。
マリア・アマーリアの夫バイエルン公も早速妻の権利を主張して
ハプスブルク家に戦いを挑みます。

オーストリア=バイエルン戦争で勝利し、1742年にカール7世として
神聖ローマ皇帝に即位しましたが、結局マリア・テレジアの反撃を受けて
領土まで奪われてしまいました。

そんな戦争まっただ中の1745年に、カール7世が亡くなります。
マリア・アマーリアは息子のマクシミリアン3世がバイエルン選帝侯を継承すると
ただちにマリア・テレジアと和平を結ぶように説得して講和を結ばせました。

すでにバイエルンが占領されて負けが見えていたこともありますが
やはり姉や従姉妹と争うのは、本意ではなかったのかもしれませんね。

マリア・テレジアの夫フランツ1世が神聖ローマ皇帝に即位して
皇帝位は再びハプスブルク家の手に戻りました。

1756年にミュンヘンで亡くなっていますから、オーストリアへは帰らず
子供たちの側で暮らしていたようです。

7人のお子様がおりましたが、長女マリア・アントニアと次男マクシミリアン3世が
それぞれ姉マリア・ヨーゼファの息子プファルツ選帝侯フリードリヒ・クリスティアンと
マリア・アンナ・ゾフィーと結婚しています。
四女マリア・ヨーゼファはマリア・テレジアの息ヨーゼフ(2世)の妃になりました。

いとこ・またいとこ同士で3組も! これは戦争している場合ではありませんね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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『ろまん燈籠』謎が深まる太宰治像

2011-05-16 00:45:51 | 日本の作家

太宰 治

むかーし凝ったんだけどすっかり忘れてしまった太宰治を読み返し始めて
『ヴィヨンの妻』『グッド・バイ』『女生徒』に続く4冊目です。

私は作家像を深追いしない読者だからあまり気にはならないんですけど
太宰治ってよく分かんない人だわ…と改めて思いました。

呑気な厭世家なのかと思ったら、そこそこ愛国心溢れる人みたいにも思えるし
人嫌いかと思えばなんだか面倒見が良くて慕う人は多いみたいだし
人生の些事に頓着してないかと思いきや、心配性だし… 多くの顔を持つ人ですね。

でも、太宰治論は方々で出尽くしているのであえて私が考えるまでもないし
考えてたら単純にお話しを楽しめないので気にしない!

これは短篇集というより随筆集なんですかね?
16篇収められているのですが、第一人称で書いてあるものが多く
ほぼご自分のことを語っていらっしゃるみたいです。
『服装について』とか『小さいアルバム』などはかなりの自虐ネタです。

好きだったお話しをあげてみます。

『ろまん燈籠(1940年)』
洋画家入江新之助一家の三男二女はロマンス好きの読書家です。
五人は退屈すると連作で物語など書いたりします。
ある正月、末っ子の三男から物語を書き始めて連作を開始しました。
題材は『塔の上のラプンツェル』からの拝借です。

アニメ映画『塔の上のラプンツェル』は現在公開中みたいですが
五人が書いた物語は、だんだん五里霧中状態に陥っていって愉快です。
性格が全く違う人が連作を書くのって大変ですね。

『禁酒の心(1943年)』
配給酒の瓶に目盛りをつけて飲んだりウィスキィを薄めたり、他人に飲ませないために
居留守を使ったり…酒飲みは度し難いので禁酒をしようと思います。
戦時下になってから酒の店に行くと主人におべっかを使って無視されたり
酒を一杯多く飲むために、いらないつまみまで頼む始末。

ものすごく自嘲的な中にも哀しさが滲み出た一篇です。
「わかっちゃいるのに…」ってとこですよね。
太宰治がこのように公言しておいて禁酒したかどうかは不明です。

『佳日(1944年)』
友人に代わって北京で暮らす大隅君の結婚を世話することになってしまいました。
五年ぶりに帰って来た大隅君は、偉そうに日本で暮らす我々を呑気だと叱責します。
彼の話しから相手宅で大変な粗相をしてしまったことに気づき怒りが込み上げました。
大隅君を一人で相手宅に行かせ、恩師瀬川先生のお宅へ愚痴を言いにに行きます。

なんだかこの一篇を読んでいるだけで、太宰治へのイメージが大幅に変わるのよ。
すごいお人好しだし奥ゆかしい…恩師への尊敬も忘れず仁義にもかたい…ナイスガイです。
『人間失格』の内容と作者がリンクするエピソードが、大々的に世に出たことが
かなりマイナス(プラスなのか?)に作用している気がします。

若くして太宰治を読んでおきながら、な~んにも憂うことがなかった私…
もっと「人生とはなんぞや?」なんて考えてたら違う人生があったかもしれないのに。
ま、いいけど…

まだ何冊か太宰治を持ってるんですよ。
さらに読み続けて勝手に作家像を想像しようと思ってます。
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神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世皇女 マリア・ヨーゼファ

2011-05-15 13:26:41 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
女帝はマリア・テレジアじゃなかったかも…
ヨーゼフ1世皇女 マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ
ポーランド王アウグスト3世妃


1699~1757/在位 1734~1757

ヨーゼフ1世と皇后ヴィルヘルミーネ・アマーリエには3人のお子様が生まれました。
たったひとりの皇子レオポルト・ヨーゼフがわずか1歳で亡くなったことが
マリア・テレジアという有名な女帝誕生の第一歩となりました。

マリア・ヨーゼファはヨーゼフ1世の長女でした。

     
祖父レオポルト1世が存命中に、父ヨーゼフ(1世)と叔父カール(6世)は
もし二人に皇子ができなかった場合、ヨーゼフの長女にハプスブルク家の統治権を
全て継承するという布告に署名をしていました。
つまり、マリア・ヨーゼファが継承権を持つわけですね。

しかし、ヨーゼフ1世が6年ほどの短い在位で、天然痘で急逝すると…
後を継いだカール6世がそんな言いつけを守りますかいな!

カール6世は1713年に相続順位法を発布して
自分の娘マリア・テレジアへの継承を独断で決めました。

実はマリア・ヨーゼファには5歳の時、ポーランド王アウグスト2世から王子の妃に…
という話しがありました。
二人の間には宗教上の問題があってなかなか発展しませんでした。
1712年には王子アウグストがカトリックに改宗して問題はなくなったのですけれども
この縁談はまだまだ実現しませんでした。

カール6世が、マリア・ヨーゼファと妹のマリア・アマーリア
継承権を放棄するまで結婚を許さなかったからなんですね。
二人の夫が妻の名目で継承権を主張し始めたら困るからです。

カール6世は晩年、娘への継承を確固たるものにするために権力と時間を費やしたわけですが
近しい身内に対してでさえこんな疑心暗鬼ぶりじゃ
他人なんてとことん信用できなかったでしょうね。

マリア・ヨーゼファは継承権を放棄して、1719年にアウグスト(3世)と結婚しました。
敬虔な人だったので、ポーランド国内のカトリック化に力を注ぎ
教会や修道院を設立したそうです。

1740年、カール6世が亡くなると、マリア・ヨーゼファはいきなり継承権を主張します。
これは自分のためではなくて夫のためだったようです。

カール6世があんなに苦心したにもかかわらず、神聖ローマ皇帝位をはじめ
ハンガリー王位、ベーメン王位などなど、各国の王から横槍が入りました。
ハプスブルク家は、オーストリア継承戦争・七年戦争を戦うことになりました。

マリア・ヨーゼファは、2年後の1742年に前言を撤回してオーストリアと同盟を結びますが
この年、妹マリア・アマーリアの夫がカール7世として神聖ローマ皇帝に即位しました。
たった二人の姉妹間で争いか… つらい時代ですね。

七年戦争中、マリア・ヨーゼファはドレスデンで遠征に発った夫の留守を守っていましたが
都市はプロイセンに占領されてしまいました。
マリア・ヨーゼファは占領下の1757年、卒中で亡くなりました。

ちなみに、アウグスト3世の父は、マリア・アウローラアンナ・コンスタンシアなど
多数の愛妾を持ち、300人以上の庶子がいたというアウグスト2世です。
アウグスト3世に浮気癖があったかどうだか、今のところわからないのですが
二人の間には15人のお子様が生まれていますので、仲は悪くなかったんじゃないかな…と
勝手に思ってます。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』『ハプスブルク家史話』
      Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝レオポルト1世皇女 マリア・エリーザベト

2011-05-15 00:11:16 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
女性誌の取材に向いてそうな皇女
レオポルト1世皇女 マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ


1689~1743

レオポルト1世と二人目の妃クラウディア・フェリチータスの間には
三女、四女にあたる皇女が生まれていますが、二人ともすぐに亡くなりました。

レオポルト1世と三人目の妃エレオノーレ・マグダレーネには三男七女が生まれています。
五女クリスティーナは生まれて数ヶ月で亡くなりました。
マリア・エリーザベトは六女になります。

             

マリア・エリーザベトは、皇女たちの中でお母様の血を一番引き継いでいたのか
ラテン語・ドイツ語・フランス語・イタリア語をこなす、知的な女性だったそうです。

ハプスブルク家の皇女でありながら未婚です。
これが頭脳明晰なマリア・エリーザベト自身の判断なのか
レオポルト1世の政略結婚を含めた政治力の無さなのかはっきりしませんけど
たぶん縁談はたくさん持ち込まれたと思うのよね…

45歳の時に弟の神聖ローマ皇帝カール6世からネーデルラント総督に任命されました。

パワフルで牽引力があるマリア・エリーザベトは
ネーデルラントでは人気があったようです。
でも、実家ハプスブルク家よりもネーデルラントのことを考えて行う
独立思考の政治はウィーンでは評価されませんでした。
親会社の言いなりにならず業績を上げる子会社っていう感じかしら? 男らしいですね!

大金を投じて芸術と音楽が溢れる最高の宮殿づくりに精を出し
作曲家のパトロンにもなりました。

当時のプリンセスとしては珍しい “ 自分の道を進んだ女性 ” という感じですね。
自己啓発型の女性誌があったら、ぜったい取材を受けてそうなタイプです。

1741年に突然モランヴェル(ベルギー)で亡くなりました。
ブリュッセルに葬られましたが、8年後ウィーンのカプツィーナ皇帝廟に移されました。



              
失恋の痛手から立ち直れなかった皇女
レオポルト1世皇女 マリア・マグダレーナ・フォン・エスターライヒ


1689~1743

レオポルト1世の七女マリア・アンナはポルトガル王ジョアン5世妃になりました。
八女マリア・テレジアは9歳、九女マリア・ヨーゼファは16歳で亡くなりました。
マリア・マグダレーナは十女になります。
十一女マリア・マルガレーテも1歳で亡くなっています。

         

1708年にマリア・アンナがジョアン5世と結婚した時、両王家はさらに関係を強くしようと
マリア・マグダレーナとジョアン5世の弟ベージャ公フランシスコの結婚交渉に入りました。
けれども交渉は早々に決裂して二人の結婚話はなくなりました。

マリア・マグダレーナは縁談がなくなった後、引きこもり生活に入ってしまいました。
親しくしたのは姪のマリア・テレジアと姉のマリア・アンナぐらいで
世間とは没交渉の日々を送りました。

54歳の時、急性肺炎で亡くなりました。

こんな時、女帝マリア・テレジアなら打ちひしがれている娘だって
有無を言わさず嫁に行かせて、逆療法になったりしたかもしれませんけど
レオポルト1世は引き蘢らしたままだったみたいね

ちなみに、ベージャ公は生涯未婚で51歳の時に亡くなってますが
マリアナ・シルヴァイラという女性の間に二人の庶子がいたようです。
この女性のことはわからないんですが、もしかして、この人と結婚したかったのかしら?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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韓流&K-POP満喫 新大久保めぐり

2011-05-14 23:18:54 | もろもろ
行って来ちゃった! 新大久保。

実は5年ほど前にも訪れたことがあるんですけど、すごく変わっててビックリ!
韓流グッズのお店が増えてるし、客層が若返ってますね~!

グッズも以前はほぼ韓流ドラマスター一色だったんですが
いまやK-POPのアーティストの方が多いんですね。
5年前には韓国で放送されたドラマをダビングしたビデオ屋さんなどがあったんですが
今回は発見できませんでした。

上の写真はテレビなどでもよく紹介されている “ コーヒープリンス2、3号店 ”
まるで登竜門のように、新大久保駅前にでーんとたたずんでいました。
混んでそうだったので入りませんでしたけど…

それで私たちが入ったお店はというと、名前忘れちゃったけど
なんの変哲もない普通の喫茶店…かと思いきや 壁一面チャン・グンソク!!

               

私はどちらかというと『イケメンですね』ではシヌさん(ジョン・ヨンファ)派で
決してファンではないのだが、こうたくさんのチャン・グンソクに囲まれていると
なんだか照れくさくなってきちゃいましたわ
アイス柚子茶は美味しかったです。

    
お昼は蔘鷄湯。 どのお店にもあって、とてもリーズナブルでした。
夜はサムギョプサル、実は初めて食べました。
旦那が豚バラ嫌いなので、二人で外食しても絶対食べてくれないのよね。
そーです! 昼前から晩まで、1日中新大久保にいたんですね、これが!!

最後はカラオケまで行っちゃって、練習中のドラマ主題歌を披露…しかし不発。
ひどい歌を聴かせてごめんね、modanちゃん…

お買い物はというと、ソウル市場で柚子茶を購入。
それから、街中で売っていたエッセンスマスク。
1枚50円でした。(60円、70円、80円のお店もあるので50円の店を探しました)
15種類以上あったと思います。 納豆と何かをやめて14枚買いました。

それから、オーガニック化粧品に詳しいmodanちゃんのおすすめでシンビの石けん。
お店のお姉さんが「朝はこっちの方がいい」というのでコラーゲン石けんも購入しました。

      

スターのグッズは文房具からマグカップ、抱き枕などなど多岐にわたってありました。
「こんな人のグッズも?」というものもあって爆笑 & 和みました。
目の保養だけさせていただいて買いませんでしたけど…

次回はよもぎ蒸し(?)と足ツボエステに行こうってことになりました。
楽しみでございます。
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