まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

オーストリア皇帝カール1世妃 ツィタ

2010-01-30 00:07:00 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
帝国最後の皇后
カール1世妃 ツィタ・マリア・フォン・ブルボン=パルマ


1892~1989/在位 1916~1918

ツィタ・マリアの母マリア・アントニアはポルトガル王女で、カールの義理の祖母の妹です。
どうでしょう!! この、何かを企んでいる感じの家系図。
どの王家も生き残りに必死という時代でした。

         

カールとツィタは幼い頃から見知っていましたが、カールが21歳、ツィタが17歳の時に
親族一同の計らいで再会し1911年に結婚しました。

皇帝フランツ・ヨーゼフは甥の皇太子フランツ・フェルディナントの妃ゾフィー・ホテクが
どーにもこーにも気に食わなかったのね。
なぜかって言うと、ゾフィーはベーメンの下級貴族の娘だったからです。
それでカールとツィタの結婚には大喜び!
結婚式にも列席してツィタにティアラを贈ったり記念撮影に収まったりと上機嫌でした。

               
               帝国最後の輝き。御成婚でのおふたり

もちろん、皇帝に冷たくされている皇太子妃ゾフィーがおもしろかろうはずはなく
また、名家ブルボンの血を誇るツィタも家柄の悪いゾフィーを見下すところがあって
ふたりが仲良くできるわけないわよねぇ…

1914年、第一次世界大戦の引金になるサラエボ事件がおこります。
皇太子フランツ・フェルディナントとゾフィーが暗殺され
カールが皇太子になりました。

しかし皇太子とは名ばかり… 皇帝は80歳を越えても元気ばりばりで仕事をして
カールには何も関与させてくれませんでした。
なんと!カールは第一次世界大戦の宣戦布告も知らされてなかったんだって。

戦争のさなか、とうとうフランツ・ヨーゼフが力尽き、カールは皇帝に即位します。
戦況はオーストリアにとって良くありませんでした。
ツィタは王家存続のために精力的に活動しますが
これが高慢ででしゃばりというイメージを与えてしまいます。

その上、イタリアが同盟を破棄して敵にまわったために憎まれるようになり
(注…ツィタはブルボン=パルマ家とはいってもイタリアに住んだことはないのよね)
兄ジクストゥスを通じて、カールにこっそりフランスと和平交渉をさせたことで
国民を激怒させてしまいます。

1918年、大戦は終結、オーストリアは負けました。
帝国のひとつハンガリーでは革命がおこってウィーンでも市民が声をあげはじめました。
カールは側近たちの説得を受け入れて退位を決意します。
根っからの王侯貴族ツィタは激しく反対しましたが、退位は避けられませんでした。

その後オーストリアに共和国政府が誕生し、スイスに亡命したカール一家でしたが
「ハンガリー王はまだ退位してないじゃん!」と言ってはハンガリーへ向かいます。
一度は温情で見逃してもらえたのですが、二度目には逮捕され
ポルトガルのマデイラ島に島流し… その後しばらくはおとなしく過ごしたようです。

1922年にカールが島で亡くなると、大陸に戻ることになったツィタは
スペインやベルギーでハプスブルク王家復活の活動を再開します。
第二次大戦中は、もとハプスブルク帝国だった国々の行く末を憂い
戦後はオーストリア復興のために援助を惜しみませんでした。

嫁の鏡よね。
実家ではなくて嫁ぎ先の家のために一生懸命になれるんですもの。

1962年からはスイスの聖ヨハネス修道院で暮らすようになりました。
1982年に一度だけ、娘の墓参りのためにウィーンを訪れています。

97歳で亡くなったツィタの命日は、なんとカール1世と同じ4月1日でした。
葬儀はシュテファン大聖堂でおこなわれ、カプツィーナ教会に埋葬されました。
ただし、心臓は彼女の望み通りカールの心臓とともにスイスのムリに葬られました。

              
              すごく私好みのおばあちゃまなんだけど…
              激動の人生だったわりにはおだやかなお顔をしていらっしゃる
               

王じゃなくなっても、働かなきゃ食べていけないってことはないと思うのよ。
使用人だってふんだんに雇えるでしょう、変わらず贅沢もできるでしょう。
(これはとんでもない偏見だったことが発覚! 皇女エリーザベトのページをご覧下さい)
でも称号と人々の尊敬を失うのは、王侯貴族にとって堪え難いことなんでしょうね。

ツィタがそんなにまでして取り戻したかったハプスブルク家の栄光は
甦ることはないのでしょうね…

ちなみに、カール1世&ツィタの息子オットーと孫カールはEUの議員ですってよ。
(98歳のオットー氏は引退したもよう)
欧州統合… 別の意味で帝国の復活とも言えるかも…(無責任コメント

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』『ハプスブルク家史話』
      Wikipedia英語版)

ハプスブルク家の女たち  講談社


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『ショコラ』お口の中から幸せが・・・

2010-01-28 22:39:46 | イギリス・アイルランドの作家
CHOCOLAT 
1999年 ジョアン・ハリス

いわずもがな!のお菓子作りのシーンの美味しそうさはともかく
読んでいるだけでこんなにカラフルな映像が浮かんでくるなら映画はどうなの?
そうなんです、観ていないんですよね

とにかく、いつの話かよく分からんが面白いぞ!!
村のたたずまいや教会に縛りつけられる習慣なんかを読んでいるうちに
すっかり100年も200年も前の物語のつもりになっちゃっていると
スタンガン、東芝のビデオデッキなんて言葉で現代に戻されます。

主人公ヴィアンヌ・ロシェは、自称魔女の母を持つ世界中を放浪した女性。
娘のアヌークを連れてフランスの小さな村にふらりと現れチョコレート屋を開きます。
ヴィアンヌは村の人々のチョコレートの好みばかりか気持ちまで分かってしまうの。

やはり魔女のような感性を持つ村の老女アルマンド・ヴォワザンは
ヴィアンヌを同類だと思ってすぐに打ち解けます。

すぐに何人かの常連もできて売上もまあまあで、良かったね、と言いたいところですが
店を開いた場所が悪かった!
村人から尊敬を集め、ある意味恐れられている神父レノーがいる教会の向かいです。

レノーは、教会に来ない、日曜日に店を開く、ましてや未婚で娘がいるヴィアンヌを
最初から目の敵にして、次第に憎悪を抱くようになります。
もう彼女の店 “ ラ・セレスト・プラリーヌ ” から目が離せません。

ヴィアンヌは自分にも悩みがありました。
母が恐れ逃れ続けていた “ 黒い男 ” の存在とタロットに現れる死の印…

もしかして “ 黒い男 ” って…

夫の暴力に耐え続けているジョセフィーヌが自由の身になる手助けをしたり
村ぐるみでジプシーを排斥しようという考えに反対し
その上ルーという男性と親しくなったことでレノー大激怒!
“バイブル親衛隊 ” の人たちも加わってラ・プラリーヌを窮地に追い込もうと考えます。

わくわくするでしょお?
最後はヴィアンヌと黒い男の魔術対決?
まさかまさかの急展開でレノーと恋に陥っちゃう?

ヴィアンヌと母の謎に満ちた過去と、レノーの忘れ去りたい忌まわしい記憶が
次第に明らかになっていくところも見どころのひとつです。

物語は一抹の哀しさと「ざまーみろ」な痛快さ、ちょっぴりのせつなさ、
それでこれからどうすんのよぉ?というもどかしさを含みつつラストを迎えます。
映画ではどうなったのでしょうか?
私はヴィアンヌに村にいてほしいなぁ…でも去った方がいいのかなぁ…
センセーショナルなことになりそうだし、と(勝手に)悩んでおります

余談です
小説を読んでいると、やっぱり通貨は「フラン」とか 「リラ」とかの方が風情があるよね。
ひと昔前のシリングとかエキュなんかの響きはさらにいい感じ。
ユーロじゃちょっとねぇ…

ショコラ  角川書店


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オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ妃 エリーザベト

2010-01-27 01:59:56 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
なぜかダントツの人気を誇る
フランツ・ヨーゼフ妃 “ シシィ ” エリーザベト・アマーリエ
                      フォン・バイエルン


1837~1898/在位 1854~1898

出ました! いにしえの王侯貴婦人を語る上ではずせないシシィ。
この人気はいったいなんなんだ?
確かにお美しい! でもそれ以外に彼女が残したものっていったい何があるのかしら?

さらさらと彼女の生涯をご紹介しますね。

母のルドヴィカはバイエルン王女で、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィーの妹です。
皇帝の母后として宮廷で絶大な力を誇っていたゾフィーは
姪のヘレーネと息子フランツの縁談をまとめ、お見合いをすることになりました。

ところが、フランツは一緒に来ていた妹のエリーザベトに恋をしてしまったわけ。
このように初めて母親に反抗するような形でフランツが結婚したので
ゾフィーはエリーザベトが大っっキライになったと言われていますけどね…

     

1854年に結婚してウィーンにやって来たシシィは
宮廷の堅苦しい儀式やしきたりにうんざりします。
しかも姑ゾフィーの目がギラギラ光っていて気が休まりません。
生まれた子供は「教育のために」とすぐにゾフィーに取り上げられてしまいました。

シシィは「もう役目は果たしたし!」てな感じで宮廷から遠ざかるようになり
ひとりで過ごす時間が増えていきました。
1872年には宿敵ゾフィーが亡くなって、自分の天下になるというのに
やはり宮廷を避けて、次第に儀式やパーティーにも姿を見せなくなります。

              
               こちら、有名な見返り美人の図

シシィと言えば旅する皇后。
ウィーンにいたくないばかりに、まずはヨーロッパ各地を巡り始めます。
そしてひとり残されたフランツが可哀想…と自ら紹介したのがカタリーナ・シュラット
変わってるよねぇ…愛人紹介しちゃうなんて。 

シシィも何人かの男性と噂がありまして
一番有名なのは、ウィンストン・チャーチルの妻クレメンティーンの父と言われる
ジョージ・ミドルトンです。

それからシシィと言えばウエスト50㎝ が有名ですね。
とにかくほとんどの時間を美容と体型維持に費やしたという女性でして
太らないために、果物と野菜ジュース以外は口にしませんでした。
また、ブラッシングの時に髪が抜けると侍女をはり倒す!というぐらい
髪が自慢で大事にしたらしいですよ。      

              
              実物も美しいのでのせておきしょう

1889年、息子の皇太子ルードルフがマイヤーリンクで心中したことは
シシィに大きなダメージを与えました。
その後は襟元の詰まったドレス、白いパラソル、黒いヴェールが定番になりましたが
これは顔のしわを見せたくなかったから…ってな説もあります。あくまで噂ね。

その後はモロッコやエジプトへも足を伸ばして、相変わらず旅三昧の日々を送り
ウィーンにもどると、フランツと茶飲み友達のような穏やかな時間を過ごしました。

1898年、スイスのジュネーブを訪れ、付き添いの夫人と船着き場まで向かっていた時
要人暗殺を謀っていたイタリア人ルケーニィにいきなり刺されてしまいました。
彼は他の人物を狙っていたんだけど、表れなかったので変わりにシシィを刺したのです。

シシィは一度倒れたのですが立ち上がり、まわりの人々にお礼を言って
船まで歩いて行きました。
道々友人と言葉まで交わしています。
しかし船上で崩れ落ち、ホテルへ運ばれましたが息を引き取りました。

シシィの望みは海に葬ってほしいということでしたが
もちろん叶わずカプツィーナ教会に葬られました。

でもね、ウィーン市民はあんまり悲しまなかったんだって。
だってほとんどいなかったし、教会とか病院とか学校を建てたりとか
何か市民のためにしてくれたっていうわけじゃないからね。

それが今では他を圧倒する人気者。
きっとオーストリアの観光産業やみやげ物業界の一翼も担っているのでしょうから
それはそれで国のためになった皇后様と言えますね。

(参考文献 ブリギッテ・ハーマン『エリーザベト』
      江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)

エリザベート (上) 美しき皇妃の伝説 朝日新聞社


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オーストリア皇帝フェルディナント1世妃 マリア・アンナ

2010-01-25 01:40:18 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
愚かな皇帝の幸福な妃
フェルディナント1世妃 マリア・アンナ・フォン・サヴォイエン


1803~1884/在位 1835~1848

弱々しかったフランツ1世の後を継いだのは
さらに弱々しい、というか虚弱で意志薄弱なフェルディナント1世でした。
オーストリアは引き続きメッテルニヒの思い通りの国政を行うことになります。

フェルディナントは即位の4年前に、また従妹にあたるマリア・アンナと結婚しました。

       

ところが廷臣の誰もが見放したという無能のフェルディナントを
マリアはぞっこん愛したらしいのね
そしてフェルディナントもマリアに夢中だったらしいよ。
ふたりはべったりだったそうでございます。
でもお子はできませんでした。

そうこうしているうちにメッテルニヒがすすめていた保守的な政治に
帝国内の不満は高まり、ついに1848年に3月革命がおこります。
メッテルニヒは失脚してロンドンへ亡命し
お飾りにしかすぎなかったフェルディナントは退位することになります。

フェルディナントの後は甥のフランツ・ヨーゼフが継ぐことになりました。
もと皇帝夫妻は宮廷からは退きましたが、皇帝と同様の高位と待遇は与えられていたので
冬はプラハ、夏はライヒシュタットと、第二の人生をエンジョイ!(したと思う)
だって、何も考えなくていいんですもの。
子供のように無邪気なふたりには楽しかったと思うよ。

フェルディナントは1875年に亡くなり、マリア・アンナは9年後に亡くなりました。
先にカプツィーナで眠っていた夫の側に葬られたということです。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝フランツ1世妃 カロリーネ

2010-01-23 11:44:20 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
なぜにフランツ1世を選んだか?
フランツ1世妃 カロリーネ・アウグステ・フォン・バイエルン


1792~1873/在位 1816~1835

フランツ1世ったら、3人目の妃マリア・ルドヴィカが亡くなってから
なんと7ヶ月で4人目の妃をもらっちゃいました。
24歳年下の美しいカロリーネ・アウグステです。

カロリーネは、フランツの弟トスカーナ大公フェルディナント3世にも
プロポーズされたのですが、フランツを選びました。

なぜにかしら?
Wikipediaでフェルディナントを見てみると精悍そうなお顔立ちよ。
弱々しくてメッテルニヒの言いなりのフランツよりいいんじゃないの?
やはり皇帝の肩書きが強かったのかしら?

カロリーネも2度目の結婚でした。
最初の相手はヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世で
フランツ1世の最初の妃エリーザベト・ヴェルヘルミーネの甥っ子でございます。

    
カロリーネとヴィルヘルム1世はナポレオンに命じられて1808年に結婚しましたが
ふたりは最初から「自分たちは政治の犠牲者だ」って思いに取り憑かれて宮廷内で別居し
1814年にナポレオンが失墜するやいなや離婚しました。

この時代、政治に利用されない結婚をする王侯貴族の方が珍しいとは思うのですけれども
ナポレオンに仕組まれたってところが癪にさわったのかしらね。

オーストリア皇帝と言っても当時国は財政難で結婚式は簡素なものでした。
フランツも4回めだからさぁ… どうでもよかったでしょうね、式なんて。

カロリーネは “ エレガントで敬虔で知的だが、何はさておき美しい ” と言われて
たいした人気者になったそうです。
病院や貧民宿泊所を建てたりと、慈善活動に熱心だったのも人気の理由かもしれません。

1835年にフランツ1世が亡くなるとザルツブルクへと移り
38年後に亡くなりました。

これから登場する人気者シシィは、義理の母ゾフィーとの確執が伝えられていますが
カロリーネはどちらとも親友としてつき合っていたそうなので
時にはふたりの仲を取持ってあげたかもしれませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『長距離走者の孤独』斜陽の英国模様

2010-01-20 01:52:34 | イギリス・アイルランドの作家
THE LONELINESS OF THE LONG-DISTANCE RUNNER 
1959年 アラン・シリトー

私の(かなり昔の)青春時代、イギリスはまさに日本とは正反対の不景気でした。
ロック雑誌でもファッション誌でも、人物の背景はグレーで、薄汚れて(というイメージで)
それが近代的でない街の風景と溶け合い、顔色の悪い(失礼 )アングロサクソンな人々に
とても似合っていて、独特の印象を醸し出してましたね… お懐かしい。

パンクスのファッションはもちろんのこと
私が大好きなハードロッカーのキチャナクて(本当は金持ちでも)貧乏たらしいお衣装や
QUEENみたいな安っぽいけばけばしさの一風変わったおしゃれ感覚も
崩壊、抵抗、退廃の美学が感じられて、なぜか国全体のチープさに惹かれたものでした。

一緒にするのはどうかと思うが、アラン・シリトーのこの短篇集は
まさに日が沈まんとする英国の一介の人々を描いた物語が収められていて
当時のイギリスに対する変な憧れみたいなものを甦らせてくれます。

徹頭徹尾ブルーカラーが主人公で、ホワイトカラーは軽蔑すべきものとして描かれています。
ロシアや日本のプロレタリア文学とは違って、社会に何かを訴えようという気はなく
極めて個人的で無気力な人の怠惰で欺瞞に溢れた内容が印象的です。

『長距離走者の孤独(The Loneliness of The Long-Distance Runner)』
パン屋で盗みを働き、感化院に入れられて長距離のランナーに選ばれました。
毎朝早朝の道を走るのは心地よく、感化院対抗の大会で勝てるのは分かっていましたが
自信満々の院長の前で負けることを決心しました。

この主人公は(その母親さえも)盗みを働いたことをまったく悪いと思っていません。
しつこく自分のところへやってきた刑事のことも恨んでいません。
主人公は「きみを信頼したい」と言った院長こそ馬鹿野郎だと思っています。

『アーネストおじさん(Uncle Ernest)』
戦争中砲弾ショックを受けてからひとりで暮らしてきた職人アーネストは
通い続けている食堂で、ひもじそうな幼い姉妹と出会って毎日ごちそうするようになります。
彼は幸せでした、でも周囲はそうは思っていないようです。

ずっと孤独で、ビールだけが楽しみの老人が他の幸せを見つけたというのに
またパブに通う毎日に戻してしまう現実がつらい一篇です。
ただ周囲のおせっかいも分からないでもない…媚びてくる娘たちを見てるとね。

『漁船の絵(The Fishing-boat Picture)』
28年前に結婚して6年後にペンキ屋と駆け落ちした妻のキャスィーが
10年もたってから、どことなくうらぶれた様子でひょっこりやって来ます。
結婚祝いの漁船の絵が欲しいというのであげると、数日後には質屋に並んでいました。

夫を捨てて出て行き、今では他の男と暮らしている妻が
夫を訪ねようと思うまでに追いつめられた心情を思うと不憫ですね。
「身勝手な!」と思うのは簡単ですが、やむにやまれぬ理由は誰にでもあるし…

アラン・シリトーは14歳から学校に行かずに働いて、19歳で軍に入っています。
サナトリウムで本を読みあさったことが作家への道を開いたそうですが
本を読めば作家になれるわけじゃなし…何か天性のものがあったのでしょうね?

あるいは彼が書くテーマが、当時の上流・中流出身の作家たちには
表現できないものだったのかもしれません。

この短篇集を私が好きなのは、アウトローや犯罪者、社会的弱者を描いていながら
物語によって社会を変えたいとか世間に現実を知らしめたい、というような
奢りや鼻息の荒さが感じられないことです。
そこにある現実を作者のやり方で見せているだけなのですが、それが心に滲みるのよ
ああ、アーネストおじさん… 負けないでね。

ただ、世の中がこうなんだから仕方ないんだよね、という諦めが蔓延している雰囲気は
近頃の日本にもしのび寄っているような気がしないでもない…

長距離走者の孤独  集英社


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集英社版もユニオンジャックがきいてます
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オーストリア皇帝フランツ1世妃 マリア・ルドヴィカ

2010-01-19 02:05:41 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
打倒ナポレオン!に燃えた皇后
フランツ1世妃 マリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステ


1787~1816/在位 1808~1816

政治的にはぼやぼやしているフランツ1世ですが、次の嫁を決めるのは早いぜ!ってわけで
前妃マリア・テレジアの死から9ヶ月後の1808年1月に
従妹にあたるマリア・ルドヴィカと再婚いたしました。

         

マリアは1796年にナポレオン軍の侵攻により、モデナからウィーンに亡命して来ました。
その時にフランツはマリアに恋しちゃったんですって!
マリアは9歳、まったくもって子供じゃないかね?
フランツは28歳、しかも妻子持ちだったりする。

恋心を抱いて12年、マリア・テレジアの死を望んでいたわけではないでしょうが
待ってましたとばかりに結婚しちゃったわけですね。

故国を奪われたマリアはナポレオンへの敵意をむき出しにしていました。
フランスは、反ナポレオン戦争を指示するマリアとフランツの結婚を
認めようとはしませんでした。

また、マリアはフランツの信頼篤い宰相メッテルニヒともぶつかるようになります。
メッテルニヒはナポレオンとフランツ1世皇女マリア・ルイーゼとの縁談をすすめていました。

各国の王室がナポレオンを忌み嫌っていたであろうこの次期
王族の筆頭ともいえるハプスブルク家の皇女が嫁ぐなんて~!!
と驚いた王家も多かったはず。
ロシア皇帝アレクサンドル1世はナポレオンからの妹アンナへの求婚を断りましたが
フランツ1世は、断って戦争を仕掛けられてもなぁ…と弱気になり
この縁談を受けてしまいました。
側で見ていたマリア・ルドヴィカは絶対に止めたはず!

結局マリア・ルイーゼは嫁いでしまい
1812年にはナポレオンを賞賛するドイツ貴族の集いにもいやいや出席させられて…
弱虫の夫に愛想をつかすことはなかったのかしらね?

1815年、そんなマリアに喜ばしい瞬間が訪れます。
ナポレオンが倒れた後のヨーロッパのあり方を決めるウィーン会議で
マリアは女主人をつとめることになりました。
彼女にしてみたら、大国が集う一大イベントのホステスの晴れがましさよりも
ナポレオンに勝ったということの方が嬉しかったんじゃないかしら?

その後マリアは、ナポレオン軍が撤退した後の故郷を見るためにイタリアを旅します。
しかし結婚した当時から患っていたと言われる結核が悪化して
1816年に亡くなりました。

短い間ではあったけど、ナポレオンへの恨みも晴れて、懐かしい故郷も目にして
幸せな最期だったのではないでしょうか?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『アップダイク自選短編集』離婚について考えてみた

2010-01-18 01:00:47 | アメリカの作家
SELF-SELECTED STORIES OF JOHN UPDIKE 
1959年~ ジョン・アップダイク

作者自身が日本向けに14篇を選んだという短篇集だけあって
日本を舞台にした物語も収められています。

日本向けの一篇は『本州のキリスト(Jesus on Honshu)』という物語で
キリストは実はエルサレムで亡くなってはいなくて、日本の本州まで逃げのび
富山県、続いて青森県で106歳まで生きたと言うおはなし…
真偽のほどはともかく、なんだかわくわくするエピソードですよね。

さて、年代順に収められているというこの1冊、
最初の方の信仰や死をテーマにした物語は話しがややこしくなりそうなので
後半の離婚をテーマにしたものをいくつかご紹介します。

『孤児になったプール(The Orphaned Swimming Pool)』
ターナー夫妻が離婚することが決まった夏、留守になって打ち捨てられた庭のプールに
近所の人たちが集まり始め、いつしか町の社交場になってしまいました。
ある日夫が離婚の原因となった女性と帰ってきたのですが…

勝手に入り込むあたり、アメリカらしいオープンさが…違うでしょ!
いくら留守とはいえ人の庭、日本なら大事だと思うんですけどね。
家主がいなくなった家が急激に寂しさを醸し出すあたりが絶妙です。

『ネヴァダ(Nevada)』
妻のセアラが離婚を待ちかねたように新しい恋人とハネムーンに行くというので
カルプはふたりの娘を引き取りに行きましたが、すでに妻は出発した後でした。
道中、妹のポリーはスロットに夢中で姉のローラは母の悪口三昧、
カルプはカジノにいた両替係の女性の熱い視線に応えようと考えます。

こんなに自分の気持ちに正直な両親に育てられた娘たちの行く末が心配です。
目の前でけんかばかりされるよりはいいのかしら?

『アメリカの家庭生活(Domestic Life in America)』
いつものように別れた妻のジーンと子供たちのもとを訪問したフレイザーは
その後恋人のグレタの家を訪れました。
しかしグレタは別れた夫への怒りを口にし、子供たちはなついてくれません。
翌日フレイザーは再びジーンたちを訪ねて行きます。

別れた後も前の伴侶と定期的に会わなきゃいけないなんて、変なお約束。
たった二日間のお話なんだけど、どうみたって再婚がうまくいくとは思えませんがね。

以上、離婚調停中、離婚直後、離婚からしばらくたって…の物語でございました。

現在の離婚は、手続きや世間の風潮からみれば簡単になったかもしれないけど
昔よりめんどくさくなっているのかもしれない… カードとかパスワードの変更とか。
子供がいたら離婚後の取り決めなんかもすごそうよね!
考えただけで疲れてしまいますわ。

そんなこんなを考えた上で「別れたい!」と奥さんが言い出したら
もう取り返しがつかないと覚悟した方がいいかもよ

この作者は、なんというか、どうしたら読者が喜んで、ちょっとハッとして、
物議は醸さない… そういうことがちゃんと分かっていて書いている感じがします。
ひとつひとつの短篇の中でも硬軟のエピソードを取り混ぜていますし
知的欲求を満たしてくれる上にホッと息を抜く場も用意している、そのバランスが絶妙。

どう言ったらいいか迷いますが “ 職業意識が高い作家 ” とでも言いましょうか?
さすがピュリッツァ賞受賞の腕前。
でも…口あたりが良い文章だけに口どけも早いっていうか…
分かっていただけます? この感じ

アップダイク自選短編集 
新潮社


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オーストリア皇帝フランツ1世妃 マリア・テレジア

2010-01-17 01:21:23 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
遊び好きでも良き伴侶かも…
フランツ1世妃 マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジィツィーリエン


1772~1807/在位 (神聖ローマ皇后)1792~1806
          (オーストリア皇后)1806~1807

マリア・テレジアの母マリア・カロリーネは皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの皇女で
しかも、フランツの父レオポルト2世妃マリア・ルイーゼの姪なので
ダブルでいとこにあたります。
名前もおばあちゃまからとったものでしょうね。

          
前妃エリーザベトの死から7ヶ月後、フランツとマリアは結婚しました。
マリアは官能的な容姿をしていたと言われています。
グラマラスだったってことかしら? 肖像画だとちょっと分からないのですが
ともあれ、12人のお子さんが生まれました。

マリアはかなり怠惰な性格で、仮面舞踏会やお祭り大好きな女性でした。
なんでも舞踏会には妊娠中にも欠かさず参加したってことで…
当時はぶぁかもん!な振る舞いに見えたかもしれないけど、適度な運動は大切よね ?

それから音楽界にとっては絶大なパトロンで、公私にわたって援助を惜しみませんでした。
ハイドンは彼女のリクエストで聖歌を書いています。

しかし遊んでばかりいたわけじゃあありません。
政治にも興味があって、ナポレオン批判を繰り返し夫に聞かせていました。

お気づきですか?
タイトルが前回から、神聖ローマ皇帝ではなくてオーストリア皇帝になっているんです。
神聖ローマ皇帝フランツ2世として即位したはずなんですけどね…

フランツという方は、ちょっと政治には不向きな方だったみたいで
戦いが嫌いな、良く言えば平和的、悪く言っちゃえば弱々しい考えの人でした。
だから、ナポレオんがフランス皇帝を名のって、“ 神聖ローマ皇帝 ” なんて生意気な!と
戦いを挑んで来た時「じゃ、撲は降りるんでね」と、さっさと退位しちゃったのね。

そんなフランツに「あーた、フランスと戦争しなさいよ!」とけしかけていたのが
マリアだったわけですが、果たしてどちらの判断が正しかったのかは
今となってはわかりませんね。

遊び好きでかかあ天下みたいにも見えるマリアですが
皇帝との仲はよろしかったみたいです。
優柔不断な夫には、ビシっと言ってくれる妻がいなきゃね!
どっかの首相夫婦みた~い

夫の退位に気落ちしたのかどうかは分かりませんが、オーストリア皇后になった翌年
35歳の若さで亡くなりました。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝フランツ1世妃 エリーザベト

2010-01-14 02:14:24 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
本当にいたんだ、 気絶する淑女
フランツ1世妃 エリーザベト・ヴィルヘルミーネ
                フォン・ヴュルテンブルク


1767~1790/在位せず

エリーザベトはヴュルテンベルク公フリードリヒ・オイゲンの娘で
姉にロシア皇帝パーヴェル妃マリーヤ・フョードロブナがいます。
そういう繋がりもあってか、ドイツの名家に手を伸ばしつつあったロマノフ家は
ハプスブルク家との婚姻が可能になったのかもしれないですね。

       
エリーザベトは15歳の時神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世にウィーンに呼ばれ
カトリック教徒に改宗させられました。
これは、ヨーゼフ2世が、彼女を甥のフランツと結婚させようと思っていたからです。
エリーザベトはこの時にモーツァルトから音楽の教育も受けています。

1788年にフランツと結婚しました。
エリーザベトは若々しく華やかで、気難しい義理の伯父ヨーゼフ2世も
彼女がお気に入りだったようです。
けれども、そのヨーゼフ2世がエリーザベトの命取りに?

1790年2月、体調が悪化したヨーゼフ2世は死に先立って終油の儀式を行いました。
妊娠中のエリーザベトも立ち会っていたのですが、その荘厳な雰囲気に圧倒されて気絶し
そのまま危険な状態に陥ります。
そしてヨーゼフ2世が亡くなる3日前に女の子を生むと、翌日亡くなりました。

私は毎年初詣に行く川崎大師のエキサイティングな護摩焚きを見ていて
軽いトランス状態になったことはあるんだけど、気絶するとは…
やはり小説や映画で描かれている通り、昔の淑女は気絶しやすかったのかしらね?

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝レオポルト2世妃 マリア・ルドヴィカ

2010-01-13 01:41:44 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
顔じゃないのよ、皇后は
レオポルト2世妃 マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパニエン


1745~1792/在位 1790~1792

マリア・ルドヴィカが生まれた時、父のスペイン王カルロス3世は即位前でしたが
ナポリ・シチリア王だったのでイタリアのポルティチで生まれました。

         
レオポルトとマリアの縁談は女帝マリア・テレジアによって着々と進められました。
兄のヨーゼフ2世とは違って、陽気で女性にも大人気のレオポルトは
その当時はハンガリー貴族の娘エルデディと恋愛中でしたが
そんなわがままは女帝に通用しませんぜ。
というわけで、レオポルトとマリアは1765年に結婚しました。

メディチ家の断絶によってトスカーナ大公になったレオポルトとマリアは
結婚後フィレンツェで暮らすことになります。

なんでもマリアは見栄えがあまり良くなかったそうです。
兄ヨーゼフ2世の美貌の妻マリア・イザベラと比べられて
レオポルトは周囲の人に気の毒がられたんですって。
失礼しちゃうわね! 人を顔で判断するんじゃない

私もできるだけ美しく見える肖像画を探したつもりではあるのですが…
なんていうの? どれもこれも顔が長いのね…
でも、実物は愛嬌があるチャーミングな人だったそうですよ。

けれどマリアは大当たりなお嫁さんでございました。
なんといっても子だくさん! 16人生まれています。
「戦争は他にまかせておけ。オーストリアよ、汝は結婚せよ」を実現するには
たくさんのお子さんが必要ですものね。

ヨーゼフ2世に跡継ぎができず悩んでいた女帝は
レオポルトに皇子が生まれた時よっぽど嬉しかったらしくて
宮殿の隣のブルク劇場に駆け込み「ポルドルに男の子が生まれたのよ!」と
叫んだそうです…悲劇上演中だったそうですけどね さすが女帝

1790年、兄ヨーゼフ2世が後継ぎ無しに亡くなったため
レオポルト一家は皇帝に即位してフィレンツェからウィーンに移ることになりました。

当時レオポルトにはリヴィア・ライモンディという愛人がいて
彼女との間に子供もいました。
なんと! レオポルトはリヴィアたちもウィーンに連れて行きます。
ブルボン家ならいざ知らず、ハプスブルク家にとってはセンセーション。

レオポルトはもともと女性に人気があった人ですから
多少は女性問題もあったと思いますが、マリアはじっと耐えていたようです。
あまり浮気をされても困るけど、全然モテないのも情けないし…
なんたって皇帝だもの、少しぐらいは仕方ないか?

それでもふたりの結婚生活はとても円満だったと言われています。
名君の素質があったと言われているレオポルト2世は、良き夫でもあったのでしょうね。

皇帝になって2年後の1792年、レオポルトが45歳の若さで亡くなります。
マリアも3ヶ月後に後を追うように亡くなりました。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世妃 マリア・ヨーゼファ

2010-01-11 23:19:47 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
女性として可哀想すぎる
ヨーゼフ2世妃 マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン


1739~1767/在位 1765~1767

愛妻マリア・イザベラを亡くしたヨーゼフは「人生は終わった」と言って
再婚したがらなかったのですが、母君マリア・テレジアが許すわけないじゃんか!
てなわけで、亡き妻の妹マリア・ルイサにしつこく求婚しました。
でも彼女はすでにスペイン王太子カルロスとの結婚が決まっていてNG。
ハプスブルク家には、かえって良かったんじゃないですかね

そこでまたいとこにあたるマリア・ヨーゼファと結婚することになりました。
マリアの父カール・アルブレヒトは、女帝の夫フランツ1世が皇帝になる前に
一瞬ハプスブルク家から皇帝位をもぎとってカール7世として即位した人です。
ヴィッテルスバハ家は、夢再び!と考えていたかもしれませんね。

めぼしい花嫁候補は、みんな結婚したり婚約してた…という説もありますが。

結婚するとすぐにフランツ1世が亡くなり、ヨーゼフは神聖ローマ皇帝に即位します。
実権は女帝が握っていたわけですけれど。

        
この結婚、お察しのとおり大変不幸なものでした。

ヨーゼフはまったくマリアに興味を示さないばかりか
「ちびだし、でぶだし、歯並び悪いし…」と、なんと本人に書き送ったらしいですよ
口で言われるならまだしも、手紙だよ!! 書き記して届ける… 根性悪い。

マリアは女帝から「早く世継ぎを!」とプレッシャーをかけられていましたが
ヨーゼフがマリアと同じ部屋で寝るのを断っていたものですから
さっぱりその兆しはありませんでした。

さらに、ヨーゼフはマリアに会うのも拒んでいて
お互いの部屋が繋がっているバルコニーを分けてしまおうとしたほど…
シェーンブルン宮殿ですよ! バルコニーぶった切るってどうよ?

結婚から2年後、マリア・ヨーゼファも前妻マリア・イザベラ同様天然痘で亡くなります。
ヨーゼフは一度も見舞いに行かなかったし、葬儀にも参列しませんでした。

ヨーゼフはその後再婚していません。
しなくていいさ! 相手が可哀想だからね。

1778年、ヨーゼフはバイエルン選帝侯マクシミリアン3世が子供を遺さなかったことから
バイエルン領に対して権利を主張します。
理由は、妃マリア・ヨーゼファがマクシミリアン3世の妹でバイエルン公女だから。
生きている時には妻として見なかったくせに、なにさ !

いかんね、書けば書くほど怒ってきちゃいますね。

結局ヨーゼフの申し立てはバイエルン継承戦争に発展しましたが
ハプスブルク家はイン川流域をちょっぴり手に入れただけでした。

マリア・ヨーゼファはヨーゼフより(2歳だけど)年上で
女性らしさやさしさに欠けていたとも言いますが
こんな仕打ちを受けたらやさしい気持ちなんか持てないですよね?

よしんば性格があまり良くなかったとしたって、酷い扱いだと思いません?
女性にやさしくしてほしかったら、同じようにやさしくしなさいよって思っちゃうわ!

趣味とか仕事とか、他に打ち込めるものがあったら
もう少し状況も違っていただろうに…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家  講談社


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神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世妃 マリア・イザベラ

2010-01-10 01:44:23 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
ハプスブルク家に愛された皇太子妃
ヨーゼフ2世妃 マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ


1741~1763/在位せず

マリア・イザベラは、スペインのマドリッドで生まれて
祖父のスペイン王フェリペ5世の宮殿で育ちました。

1748年に父フェリーペがパルマ公フィリッポになりまして家族とともに移り住みましたが
イタリアでもスペイン王女然とした風格と気品を保って過ごしたそうです。

ちなみにパルマ公位はもともとファルネーゼ家のものでしたが
なんだかハプスブルク家とブルボン家に取ったり取られたりしてしまっていたのね。
マリアの祖母イサベル・マリアもファルネーゼ家出身です。

母のルイサ・イザベラはフランスのルイ15世王女でした。
彼女はなぜか、二人目の公女が生まれると姉のマリアに冷淡になっていきます。
ちなみに妹とは、あの悪名高いスペイン王カルロス4世妃マリア・ルイサでございます。

        

そんなあまり良くない関係の母娘でしたが、ルイサが1759年に亡くなると
マリアは沈みがちになって、自分の早世も予感していたと言われています。
でも、思春期には死を美化する傾向があるからね…誰でも一度は通る道かもね。
マリアは哲学者や理論家の本を好んで読んでいたというから、尚更かもしれませんね。

母ルイサは女帝マリア・テレジアと親交があって、オランダの王位を約束されました。
この話しは具体化しませんでしたが、そんな中で持ち上がった皇太子ヨーゼフと
マリアの縁談は、ヨーゼフの熱望で実現しました。

ヨーゼフには他にも候補者がいたのですが、自らマリアを選びました。
これはハプスブルク家ではかなり異例なことでした。

だもんで、1760年に結婚するとふたりはちょーラブラブ
仲睦まじく、美男美女のふたりには誰もが目を細めたそうですよ。

           
            こんな絵が残っちゃうほど仲睦まじかったおふたり

美しくて知的で、誰もがうっとりしてしまうマリアはすぐに宮廷の人気者になり
皇帝フランツ1世をはじめ、ヨーゼフの家族にも気にいられました。
義妹マリア・クリスティーナとは毎日会ったり文通するほどの大親友でした。
(…って同じ宮殿に住んでいたのじゃないのかね?)
1762年には初めての子供(皇女)が生まれて、もう万々歳!

でも、幸せって長く続かないものなのね…
1763年、妊娠したマリアは天然痘にかかり、子供を死産した後亡くなってしまいます。
もう、ヨーゼフの嘆きは大変!
もともと冷笑的で皮肉屋のヨーゼフは、人生が終わってしまったと言って
さらにネガティブに…

愛していたことはよぉく分かる、でもね…
今までにもこの、熱愛した妃の早世 → 2番目の妃が可哀想な目に遭う、というパターンは
数々ありましたが、次の奥さん、ハンパなく可哀想なんですけど…

ところで、ヨーゼフの妹マリア・アマーリエは、後にマリアの弟フェルディナンドと
結婚しましたが、こちらはあまり幸福ではなかった模様…詳しくは別の機会に。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家の女たち』
      Wikipedia英語版)
コメント (6)
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『カンタベリー物語』14世紀の“すべらない話”

2010-01-05 23:19:24 | イギリス・アイルランドの作家
THE CANTERBURY TALES 
14世紀 ジェフリー・チョーサー

カンタベリーへお参りに行く人たちのお話とくれば、ありがたーい物語なのかしら?
などと思いつつ読み始めてみましたら、けっこうバチあたりな本なんですのね

カンタベリーに向かった 作者(?)が、途中の宿で出会った人たちと
一緒にお参りに行くことになり、道々ひとりふたつづつ話しを披露して
一番おもしろい人を選ぶ、というものです。

この本には8人しか登場しませんが、本当は29人いたそうで
お話は58になるってことですかね?
そういえば岩波文庫は上中下の3冊になっていましたね。

面白い話しといえば、現代は自虐ネタが主流のような気がしますが
誇り高き中世の方々が自分を笑い者にするなんて… というわけで
主な内容は(たまたまそんな8篇が選ばれていたのかもしれませんけれども)
人の悪口か艶話でございました。

好きな話しは特に…
全部書き出してみましょうか。

粉屋の物語は、大工がもらった若い妻と下宿している学生の浮気の笑い話。
家扶の物語は、悪党と呼ばれる粉屋の女房と娘がふたりの学生に… という笑い話。
船乗りの物語は、商人の浪費家の妻と要領のいいハンサムな修道僧の話し。
バースの女房の物語は、騎士が処刑を逃れるために女性が一番望むことを探して歩くお話。
托鉢僧の物語は、あくどい送達吏が悪魔とグルになるという悪口。
送達吏の物語は、いんちき托鉢僧が病人にしてやられたというお話。
商人の物語は、ある金持ちが60歳を過ぎてから娶った若くて美人の嫁と従者の浮気のお話。

ね? なんだか信心深い人たちが集ってするような話しじゃないでしょう?
人を笑わせるためなら力づくで下世話にしちゃうぞっていう感じは
今で言ったら “ すべらない話 ” ってことになるんですかね?

唯一 “ 深イイ話 ” と言えるのが郷士の物語で
身分違いの騎士と結婚した淑女が貞節を守るお話です。

職業やら地名などに歴史が垣間見えるものの
今も昔も、人間ってちょっと意地悪なお話とか下ネタが好きね
信仰が行き渡っていたはずの中世で、このような作品が生まれていたとは…

前置きに聖書からの引用とか聖者のエピソードが盛り込まれておりますが
小咄集なんですよね?

はっ
もしかして、笑い話に見せかけた教訓なんだろうか?
ありがたさに気付かないバチあたりは私なのかしら?

とはいえ、この1冊に登場した8人だけで十分なので
岩波文庫の3冊を読んで確かめようとは思いませんです。

カンタベリー物語(全訳) 英宝社


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