まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ロシア皇帝アレクセイ妃 マリーヤ

2009-06-30 01:41:02 | ロシア皇妃
悲運の皇帝たちの母君
アレクセイ妃 マリーヤ・イリイチナ・ミラスロフスカヤ


1625~1669/在位 1648~1669

アレクセイは18歳になると100人ほどの貴族の娘たちから花嫁を選ぶことにしました。
以前のお妃オーディションに比べると小規模になってるようですが
そろそろ釣り合いの取れた家柄なんかを厳選し始めたのかもしれませんね。

           
                こちらお妃選考会の様子
                   どれがマリーヤかは分からんが…


このお妃選びはアレクセイの家庭教師だったボリス・モロゾフが主導で行い
マリーヤが選ばれました。
モロゾフはマリーヤの妹アンナと結婚していますので、何か狙いがあっての人選ですね。
結婚式もモロゾフとマリーヤの父イリヤ・ミラスロフスキーが取り仕切っています。
たぶんお互いの力を見せつけようと躍起になったことでしょう。

        

マリーヤは5男8女を生んでいますが、成長した男の子はフョードルとイヴァンだけです。
このふたりは後に皇帝になりますが幸福とは言いきれない人生を送りました。

マリーヤは44歳の時に13人目の子を出産した後亡くなりました。
皇后という輝かしい地位にいながら、しかも皇帝をふたりも生んでいながら
本人のエピソードはほとんど残っていないんですよね。
歴史に残るには絶世の美女か稀代の悪女か…選択肢はあまり多くなかったようです。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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『緋文字』背徳の代償の行方は…

2009-06-28 02:20:23 | アメリカの作家
THE SCARLET LETTER 
1850年 ナサニエル・ホーソーン

たとえば道ならぬ恋や一時の激情で、心ならずも新たな命を授かった場合ですが
女性だけじゃなくて男性にもなんらかの兆候が現れればいいのに…と思いません?
できたら「◯ヶ月だ」と分かるのがいいですね。お尻が膨れるとか耳が大きくなるとか。
女性は否応無しに体型が変化してしまうのですからね。

この物語は、私生児を生んでしまった女性ヘスタ・プリンが処刑台の上で
さらし者にされた挙げ句、一生胸に “ A ” の緋文字を縫い付けて
生きなければならないという罰を背負うことから始まります。

ヘスタは相手の名を明かそうとしないのですが、死んだと思われていた夫が現れて
相手の男を捜し出し追いつめて行くと宣言します。
夫が目を付けたのは将来を嘱望された若い牧師ディムズデイルでした。
彼は素性を隠しチリングワスという名の医者になってディムズデイルに近づきます。

物語はこの後7年の時を語っています。
父親はディムズデイル牧師に間違いなく、彼は日増しに精彩を失っていきます。
一方ヘスタは分をわきまえた行いと慈善で一目置かれるようになります。
死にそうなディムズデイルを助けようと考えたヘスタはチリングワスの正体を明かし
ヨーロッパへ渡って新たなスタートを親子3人で迎えようとするのですが…

牧師を目指すだけあって高潔なディムズデイルはそれなりに悩んだのでしょうが
後ろ指を指されながら子供を育てることに比べたら屁でもないと思うわ。

ヘスタはよく耐え相手を許していますが、果たしてこれでいいのでしょうか?
男の人にはとても好都合ですけど、生んで育てていく女性の人生はどうなるの?
とれるものなら責任はとってもらいたいじゃない?

ディムズデイルは、それでもまだ良心的だと思います。
良心の呵責ってやつでやつれていくわけですけど、あまりにもミエミエな弱りっぷりなので
目ざとい主婦なら気がつくはず。
なぜ誰も気がつかない?

舞台はボストンなのですが、そういえばアメリカには大量のピューリタンが
移民としてやって来たのでしたね? ボストンはピューリタンが多かったようです。
ヘスタの罪も本来なら死刑になるらしいですよ。
宗派によって差異があるのでしょうが、キリスト教ってけっこう狭量なのね

一生恥辱の刻印を胸に掲げて生きるという罰は、現代なら全然堪えないと思いますが
逆に罪を犯すとメディアで大々的に顔がでてしまいますものね。
日本のみならず海外にだって配信されてしまうわけで、小さな村で制裁を受けるのとは
スケールが違います。 心して行動したいものですね。

緋文字 新潮社


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ロシア皇帝ミハイル1世妃 マリーヤ

2009-06-27 10:36:50 | ロシア皇妃
              こちらはふたり目の妃エウドキアです
                   たしかに従順そうに見えますね


その死は謎・・・
ミハイル1世妃 マリーヤ・ウラジーミロヴナ・ドルゴルーコヴァ


1601~1625/在位 1624~1625

皇位が空位のままポーランドの支配下にあったモスクワは
市民たちの反抗で1612年に解放されて
全国会議でロマノフ家のミハイル1世が選ばれました。
これは彼が10代で弱々しい上、父親がまだポーランドに抑留されていたので
貴族が意のままに操れると思ったからだそうです。

なんでもミハイル1世は戴冠式の日に身につけた宝石の重さで転んじまったという
情けないエピソードを持っています。

1619年に父親フョードルが戻るとモスクワ総司教フィラレートになり
以後政治はフィラレートが行っていたと言っても過言ではありません。

フィラレートは早速ロマノフ家の世襲による王朝を確立するために
ミハイル1世を結婚させることにします。

1624年、ミハイル1世は前王朝リューリク家の流れをくむといわれる
マリーヤと結婚しました。
しかしマリーヤは4ヶ月後に死亡しました。
ミハイル1世は翌年初頭に再婚するんですけど、お相手は既に妊娠してたっていう…
      


お義母さま、鬱陶しすぎる…
ミハイル1世妃 エウドキア・ストレシニェヴァ


1608~1645/在位 1626~1645

エウドキアは多数のお妃候補から選ばれたことになってるんですけど
前記のように結婚式には妊娠してたらしいです。
        
そんなエウドキアがどんな性格かは分からないけど、かなり宮廷で苦労したみたい。
原因は “ お義母さま ” でございます

からだが弱い子の常として大事に大事に育てられたであろうミハイル1世は
なにもかも母親であるマルファ・イワノヴナに依存していたらしくて
マルファも息子夫婦の生活をガッチリ掌中におさめていました。
つまりマザコンなのよ~!!

マルファは夫婦をふたりきりにするのが嫌だったのか監視のためか
とにかくエウドキアから離れず、どこへ行くにも彼女を連れて歩いたそうよ
子供たちの家庭教師もマルファが選んだってことで妻形無し。

そういうのって高圧的にされたらもちろん嫌だけどさ、お人好しぶってやられても
かなりイラつきますよね、きっと。

結局エウドキアはまったくミハイル1世に影響を及ぼすことはありませんでした。
じゃあマルファの死後はその反動でパワフルな嫁に…ってことはなく
同じように付き従うだけだったみたいです。 おとなしい人だったんでしょうか?

エウドキアはミハイル1世の死後5週間で亡くなりました。 これからって時に…
でも夫の死後長生きしてたら幸せか? というと当時のロシアじゃ分かんないですけどね。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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ロシア皇帝ヴァシーリー4世妃 エレーナ

2009-06-27 10:36:18 | ロシア皇妃
             肖像画がないので…レプニン家の紋章です

マイナーな夫でいてほしかった?
ヴァシーリー4世妃 エレーナ・ミハイロヴナ・レプニナ


生没年不詳/在位 1606

権力のためならなんでもする!といわれたヴァシーリ-4世・シュイスキーは
300年ぐらい遡るとリューリク家(それも傍系)に繋がるってことで
皇位継承を主張したそうですが、そんなこと言いだしたらいったい何人いることやら…

偽ドミトリー1世は倒したものの2世やら3世が現れ
フョードル1世の息子ピョートルだと名乗る男まで登場して戦いに追われました。

ヴァシーリ-4世は即位すると、若い女と結婚するために妻エレーナを離婚します。
エレーナの歳は定かではありませんけどヴァシーリーは54歳です。
きっと一緒に苦労してきたんだろうにねぇ…
売れたら苦労時代をともにした妻と離婚して芸能人と結婚しちゃうミュージシャンが
後を絶ちませんが、そんなかんじでしょうか?

       

おまけ
ヴァシーリー4世妃 エカチェリーナ・ロストフスカヤ


生没年不詳/在位 1606~1610

ヴァシーリー4世はロマノフ家のクーデターで廃位された後
ポーランドへ使節に派遣されている途中で捕虜になってワルシャワで亡くなりました。
新妻エカチェリーナはアンナとアナスターシヤという女の子を生んでますけど
それ以外は分かりません。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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『アンをめぐる人々』アン、完全に脇役

2009-06-27 00:59:03 | カナダの作家
FURTHER CHRONICLES OF AVONLEA 
ルーシィ・モゥド・モンゴメリ

シリーズ10作目で、4作目の『アンの友達』 同様プリンス・エドワード島に暮らす人々が
主人公になっている短篇集なのですが…もはやアンは関係ないじゃん

ベストセラー作家ならではの悩みでしょうけど
世間の要望と自分の欲求に折り合いをつけなければいけなかったんでしょうね。
アガサ・クリスティも恋愛小説をペンネームで書いていますが同じような事情かしら?
クリスティが書いたと聞いたら読者は「今度はどんな事件?」て期待しちゃいますから。

『アンの友達』のように夢見心地な恋物語もありますが
今回は成就しなかったラブ・ストーリーをいくつかあげてみます。

『茶色の手帳』
アンがダイアナと滞在した家で出会った老婦人ミス・ラヴェンダーは一生独身でした。
彼女の死後なぜかアンにトランクが届けられ、中には古びた本が入っていました。
中に書かれた日記のようなものから、若き日のミス・ラヴェンダーが
ひとりの画家と出会って悲しい別れを体験したことがうかがい知れました。

『没我の精神』
絶対的な権力者だった母ナオミの死に際に弟クリストファーを託されたユーニスは
やくざ者になっていくクリストファーに献身的に尽くし婚期も逃しました。
しかし年頃になったクリストファーは結婚するので出ていってほしいと言いました。
ユーニスが親戚の家に落ち着いて数年後、クリストファーが天然痘に罹ります。
外出していたクリストファーの妻は彼が治るまで帰って来ないということです。

『平原の美女タニス』
なぜエリナーがこれまで結婚しなかったのか? 兄が語ります。
25年前に兄を訪ねて行った時、エリナーはジェロームに出会い恋に落ちました。
ジェロームを恋人だと思っていた混血の美少女タニスはエリナーのことを知ると
静かな復讐心を抱くようになりました。
ある晩ジェロームは銃で撃たれます。 エリナーを迎えに来たのはタニスでした。

慈愛に満ちたハッピーエンドが多い中、上の3作は(大袈裟にいえば)異色です。
それでもモンゴメリの人柄によるものか悪意に満ちたまま終わるということはないので
穏やかに読み終えることができます。

それにしても昔の恋は実らせるまでが一苦労みたいですね。
まずふたりきりになることが難しいじゃないですか?
ふたりで散歩をしただけですぐ噂になってしまうし。
やっと心が通じ合っても、どういう分類によるものか分かりませんが
身分違いとか家柄とか言いだす人がいるのよね。
やけに未婚女性がいるのも分かる気がする…

『アンの友達』と『アンをめぐる人々』を読んで思ったのですけど
アンシリーズって大人が読むもののような気がします。
今まで子供の読むものだと侮っていたことを、深く反省します。
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ロシア皇帝ボリス・ゴドノフ妃 マリーヤ

2009-06-26 00:56:37 | ロシア皇妃
              こちらは偽ドミトリー妃マリーナです

夫の運命に左右された人生
ボリス・ゴドノフ妃 マリーヤ・グレゴリエヴナ・スクラトヴァ


?~1605/在位 1598~1608

ボリス・ゴドノフは政治手腕で台頭して議会で推挙され皇帝になりました。
結婚は皇帝になる前の1570年頃でした。

1605年にボリスが急死すると息子のフョードル2世が即位したのですが
2ヶ月後に偽ドミトリーに殺害されました。

ボリスの治世後半は、貴族を優遇し農奴制を進めたために農民の不満がたかまり
飢饉や伝染病も流行ったことで、不当に皇位を奪った呪いだと囁かれていました。
そこへ現れたのが偽ドミトリーで、優遇されていたはずの貴族まで手のひら返しで
彼の側についてしまったのです。

マリーヤも息子とともに殺害されてしまいました。
      


野心のためならなんでもこい!
偽ドミトリー1世妃 マリーナ・ムニーシェフヴナ


1588~1614/在位 1606

名前の前に堂々と “ 偽 ” とついているのがすごいんですけど…
どうやらポーランド貴族の息子らしいです。
彼の主張は「ボリス・ゴドノフが刺客を差し向けた時誤って遊び友達を殺した。
自分は逃げのびた」というものでした。

偽ドミトリーはフョードル2世の姉クセニヤを無理矢理愛妾にしましたが
5ヶ月ほどで捨てて、かねてから恋心を寄せていたマリーナと結婚しました。

マリーナは偽ドミトリーの参謀だったポーランド貴族の娘です。
彼女はカトリックでしたがロシア正教に改宗することなく
結婚してモスクワに乗り込んで来る時もポーランド様式の花嫁衣装に身を包んでいたため
ロシア国民たちの反感をかってしまいます。

その後も夫婦揃って万事ポーランド式で暮らしていたそうで
ロシア国民は「やっぱり本物のドミトリーじゃないんじゃないの?」と騒ぎだし
マリーナがモスクワにやって来てからわずか2週間後にはシェイスキー主導の反乱軍に
攻め込まれて退位させられてしまいました。

偽ドミトリーは処刑され、マリーナはポーランドに逃げ帰ったのですが
ロシア皇帝の義父の座に未練がある彼女の父イェジー・ムニーシェフの差し金で
偽ドミトリー2世なる人物と再婚したりしています。
(偽ドミトリー1世と2世は同一人物だという、わけ分かんない説もあったりする…
 マリーナが「皇帝は救済された」と承認したそうです)

1610年にイヴァン・ザルツキーというコサック隊長と再婚したようです。
ザルツキーは1611年に生まれたマリーナの子イヴァンをドミトリーの息子だと言って
皇帝の座につけようとしましたが、これはうまくいきませんでした。

3人が身を寄せていたアストラハンでは、偽物を逮捕しようとする動きが高まって
頼みのコサックにも見放され、1614年に政府に引き渡されてしまいます。
ザルツキーと3歳の息子イヴァンは処刑され、マリーナはその後獄中で亡くなりました。
       
野心満々だったと言われ魔女よばわりされている女性ですけど
まわりの男性たちがいいように利用したんじゃないかという気がします。
確かに空気は読めていなかったようだが…
この時期のロシアは激動しているので誰がどう悪い…とは一概に言えないんですけどね。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)

ロシア皇帝歴代誌 創元社


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『桜の園・三人姉妹』戯曲再考

2009-06-24 01:08:13 | ロシアの作家
ВИШНЁВЫЙ САД・ТРИ СЕСТРЫ 
アントン・チェーホフ

チェーホフは好きだが戯曲が嫌い…というジレンマを解消すべく
この1冊に手を伸ばしてみました。

貴族階級の世紀末的哀愁という内容はすごく好き!!
とても良かったんだけど、やっぱり小説仕立てにしていただいた方が…
でも脚本だからこその良さなのかしら? ト書きが苦手なんですよね

『桜の園(ВИШНЁВЫЙ САД)/1903年』
没落していきつつある領主のガーエフとその妹ラネーフスカヤは
慣れ親しんだ桜の園が競売にかけられるというのに、出入りの商人ロパーヒンの
「別荘地にして貸し出しては?」 という助言を聞き入れようとしませんでした。
とうとう競売の日、桜の園を買ったのはロパーヒンその人でした。

たぶん舞台上ではロパーヒンが薄情者に見えるんじゃないかと思うのですけど
額に汗してきた人が、客間でお茶ばかり飲んでいた人に取って代わるって
正しいことじゃないでしょうか?
当時どの国でも抱えていた旧態を守ろうとする層と新興層の攻防ですが
ロシアは特にお金で称号が買いやすかったみたいだから入れ替わりが激しかったかも…
どちらの立場からこの物語を見るかで意見が分かれたんじゃないかしら?

『三人姉妹(ТРИ СЕСТРЫ)/1900年』
1年前に父親を亡くした姉妹の長女オーリガと三女イリーナは
長男アンドレイと生地モスクワへ向かうことが望みでした。
けれどアンドレイが結婚して子供ができ、教師をしていたオーリガは校長になり
イリーナもモスクワ行きを諦めて除隊したトゥーゼンバフ男爵に嫁ぐ決心をします。

仕事をやめて海外に語学研修に行っちゃうっていうのは圧倒的に女性が多いですよね?
現状を変えたいと思ったら女性の方が思い切りがいいような気がしますけど
誰もが即実行できるわけではなく、どんどん時はたってしまって後悔だけが残るという…
イリーナがすぐ口にする「モスクワへ…」がかなり心に響きます…涙がでそうです。

脚本は苦手だけど、小説よりキャスティングを妄想しやすいですね?
モリエールを読んだ時はそうでもなかったんですが、舞台ってやっぱり
キャラの立つ脇役が重要なんじゃないかと、あらためて思いました。

2篇とも爺さまが登場するんですけど日本でやるなら長門裕之しかいないんじゃなくて?
『三人姉妹』のナターシャはねぇ…松たか子の姉ちゃんかオセロの松嶋ってどう?
なんて考えていたら観劇に行ってみたくなってしまいました。

桜の園・三人姉妹 新潮社


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ロシア皇帝フョードル1世妃 イリーナ

2009-06-23 02:18:35 | ロシア皇妃
夫の愛と刺繍が寄す処
フョードル1世妃 イリーナ・ゴドーノヴナ


1557~1603/在位 1584~1598

こういっちゃなんだけど顔がゴ…
だけど彼女はものすごく過酷な結婚生活を余儀なくされた
同じ女性として同情せずにはいられない人なんです

1580年前後に、イヴァン4世に選ばれて皇太子フョードルの妃になりました。
そしてこの日からイリーナには絶え間ないプレッシャーの毎日がやってきます。

       
イリーナは23歳ぐらいで結婚したのですが当時の婚期は十代半ばなので
彼女がモスクワにやってくると「年寄りじゃなくて?」と早速陰口を
たたかれてしまったって…良かったわ~、現代に生まれて。

イリーナを悩ませたもの、それは “ 皇太子 ” という名の息子です。
フョードルは父親のイヴァン4世と違って気は優しい人だったらしいのですけど
身も心も虚弱で一刻も早い嫡子誕生が望まれていました。

夫妻は巡礼に出たり祈祷をしたりと神頼みするもののいっこうにその気配はなく
結婚から5年後、フョードルが皇帝に即位すると
大司教ディオニュオスは離婚をもちかけました。
ロシア正教は不妊が理由の離婚は認めていなかったのでかなり異例なことです。

フョードル1世はイリーナと離婚しませんでした。
宮廷の冷たい視線に耐えつつ暮らしていたイリーナですけど
自分を庇って一緒に巡礼に行ってくれる皇帝が側にいてくれるというのは
100人のとりまきにちやほやされるより嬉しいことだったんじゃないかしら

1592年にやっと生まれたのは女の子、しかも2歳で亡くなりました。
ふたりの焦燥が募るにつれてフョードル1世の健康状態は悪化し
1598年に嫡子を遺さないまま亡くなってしまいました。

イリーナはアレクサンドラという名で北部の修道院に隠遁し
5年ほど過ごしてそこで亡くなりました。

それだけが女性の存在価値じゃないでしょ!って言いたいですよ。
「生む道具」発言をした無神経な大バカ大臣に取り囲まれたような毎日を
耐えて生きるのは並大抵のつらさじゃなかったと思うわ。

寂しく苦しい日々を手仕事で紛らわしていたのか
イリーナの刺繍は出来映えが素晴らしいようで、何点かロシア美術館が所蔵しています。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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ロシア皇帝イヴァン4世妃 マリーヤ

2009-06-22 00:24:34 | ロシア皇妃
見知らぬ男を息子と宣言した
イヴァン4世妃 マリーヤ・ナガヤ


?~1608/在位 1581~1584

マリーヤの生い立ちもよく分からんのですが、1581年にイヴァン4世と結婚して
その年に皇子を生んでるんで…できちゃった結婚なのかもしれません。
    
1584年にイヴァン4世が亡くなると、ボリス・ゴドノフによって
皇子ドミトリィやナガヤ家の兄弟とともに追放されました。
ゴドノフは皇太子フョードルの妃イリーナの兄ですので、みえみえのお家騒動ですね。

1951年には皇子ドミトリィが変死しました。
のどを切られていたらしいのですが、調査の結果はひげ剃り中の事故死…
マリーヤは修道院に入れられてしまいました。
(前々から思っていたのだが、修道院て懲罰で入るところじゃないよね? )

ところが1605年、マリーヤに転機が訪れます。
以前から「自分は逃亡していたドミトリィだ」と主張していた男性が皇帝になったのです。
マリーヤや投獄中のナガヤ兄弟はモスクワに引き戻されて
彼が本当にドミトリィか承認を求められます。
マリーヤは彼を息子だと認めました。 認めざるをえなかったのでしょうね。

マリーヤはそのまま母后としてモスクワにとどまりましたが、結局1年後に
ドミトリィ1世が反乱軍に殺されると「彼は息子ではなかった」と告白しました。
(ところが1608年に再び「自分はドミトリィだ」と名乗る人物が現れると
 これも承認しちゃてるんですよね~。 うぅぅぅむ…
いずれも生き延びるために、反乱軍に言わされたのかもしれません。

その後どうしたのかは不明で1608年に亡くなっています。

ひとりの男の子を生んだというだけで自分の意思など顧みられず
命は危険に晒されてしまう、女性として母親としてのささやかな幸せも望めないなんて
何が玉の輿なのかよく分かんなくなっちゃいますね。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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『アンの友達』アンの名を借りて・・・

2009-06-21 00:55:23 | カナダの作家
CHRONICLES OF AVONLEA 
ルーシィ・モゥド・モンゴメリ

『赤毛のアン』 シリーズ大人買い宣言をしたものの少し思いとどまりまして
番外編みたいな作品を2冊購入してみました。

『アンの友達』はシリーズ4冊目ですが、プリンスエドワード島が舞台だっていうだけで
アンはほとんど登場しません。
アンを知っている…という人たちが主人公になっています。

たぶん出版社の担当者から「アンの次回作よろしく!」と言われたんだけど
たまには他の話も書いてみたいなぁ、と思ったモンゴメリィの苦肉の策ではないかと…

夢見る乙女おばさんの恋愛物語が多いかなぁ…やはり女性のゴールは結婚なのか?
特にそんな感じのお話をいくつか紹介します。

『奮いたったルドビック』
ルドビックはかれこれ15年もの間テオドラのもとへ通い続けていて
村中の人がふたりの結婚を疑わないのですが、肝心のプロポーズをしません。
たまたま村に滞在していたアンはテオドラの気持ちを聞いて一計を案じます。
ある日教会の帰りに他の男性がテオドラを誘い、村中がびっくりします。

『ルシンダついに語る』
ペンハロー一族のルシンダとロムニーは15年間口をきいていません。
けんかが原因なのですが、ふたりはまだお互いを愛しているようです。
一族の婚礼の晩、手違いから取り残されたルシンダは夜道をひとりで帰る途中
ロムニーに会って一緒に帰ることになりました。

『オリビア叔母さんの求婚者』
オールド・ミスの典型といえるきれい好きのオリビア叔母さんが結婚すると言います。
相手は結婚を反対されて20年前に西部へ行ったマクファーソンです。
しかし帰って来たマクファーソンはしみひとつないオリヴィアの家に足跡はつけるわ
テーブルは倒すわ… オリヴィアは結婚できないと断ることにしました。

15年経っても20年経っても自分を想っていてくれる人がいるって素敵じゃない?
なかなか無いことだとは思うけどね
だけどとてもロマンティックで希望が持てる話だと思います。

『赤毛のアン』の作者というエクスキューズがなくても充分読み応えがあります。
ちょっとハッピーエンドっぽい “ 善い人すぎる ” 話しが多くて興醒めもしますが
モンゴメリに『赤毛のアン』の作者という制約がなかったら内容は違っていたかもね。

自分の殻を破れなかったのか破らなかったのか…そこには大きな隔たりがありますが
いずれにしても筆達者な作家だと思います。
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ロシア皇帝イヴァン4世妃 ヴァシリーサ

2009-06-21 00:54:25 | ロシア皇妃
でました! 中世的見せしめ
イヴァン4世妃 ヴァシリーサ・メレンティエヴナ


生没年不詳/在位 1577 or 1579

リヴォニア戦争で戦った国の王子の未亡人らしいのですが詳細不明です。
イヴァン4世はヴァシリーサの女性らしさに敬服していたといいます。

結婚から数ヶ月後に、ヴァシリーサの浮気の現場を見てしまったイヴァン4世は
相手男性を串刺しの刑に処し ヴァシリーサを生きたまま
修道院の回廊に埋め込んじゃったっていう…
(修道院に入れちゃったという説もあるんですけど中世的な方を選びました)

     



もはや結婚といえないんじゃないのか?
イヴァン4世妃 マリーヤ・ドロゴルスカヤ


?~1580/在位 1580

何代か遡ればキエフ大公ユーリ・ドルゴルキにたどりつくらしいのですが
調べてみたけど私はたどり着けませんでした。

結婚後すぐに亡くなっています。 死因は不明です。

これは結婚したって言えるのですかね? 完全に使い捨てじゃないの。
いずれにしても教会の承認は得ていないので
正式な結婚とは見なされていないのですけれどもね。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)

ロシアとソ連邦 講談社


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ロシア皇帝イヴァン4世妃 マルファ

2009-06-21 00:48:52 | ロシア皇妃
                肖像画がないのでこちらを…
                  “次から次へ”という意味を込めてみました


母親のおせっかいが命取り
イヴァン4世妃 マルファ・ソバキナ


?~1571/在位 1571

例によって多数集められたお妃候補のファイナリストの中から選ばれたらしいのですけど…
ファイナリストって…アメリカンアイドルですか?

ふたりの皇妃が毒殺と疑われている皇帝に嫁がせることを上流社会の親が躊躇したのか
たまたまだかは分かりませんが、マルファはノヴゴロドの商人の娘でした。

自分の娘が皇妃になるってんで親も舞い上がったにちがいない…マルファは式の数日前
母親に与えられた毒薬によって命を落とすことになりました。
もちろん母親は娘を殺す気はなく、多産の薬(媚薬? 精力剤?)のつもりで渡したのね。
そうしたらそれが毒だったってことなんだが、普通の家に毒が常備されてたってこと?

マルファはみるみる衰えて立っているのがやっとという状態になったのですが
根性で結婚式に出席して半月後に亡くなりました。
イヴァン4世は気の毒にも精神状態がボロボロになってしまったそうです。
そりゃあ3人立て続けに毒で死なれてしまったらねぇ…

子を思うお母様のお気持ちも分かりますが、あまり子供の世話をやきすぎると
取り返しがつかないことが起こりうる…という教訓にいたしましょう。

       



掟を破った結婚
イヴァン4世妃 アンナ・コルトフスカヤ


?~1626/在位 1572~1574

アンナは高級娼婦の娘だそうで、家柄はどうでもよかったみたいですね。

ロシア正教では “ 1度めは合法、2度目は特例、3度目は姦通、4度目からは畜生の所業 ”
ということで、結婚を認めませんでした。
イヴァン4世はマルファ・ソバキナとの結婚は不成立だとして(気持ちは分かる)
アンナとの結婚を強行します。

イヴァン4世は教会で感動的なスピーチをして条件付きながら承認をもらったのですが
2年もすると退屈なアンナに飽きたらしく、離婚して修道院に入れてしまいましたとさ。



とりあえず書いとく…
イヴァン4世妃 アンナ・ヴァシリチコバ


?~1577/在位 1575~1577

…なんにも詳細が分からないのです。
畏れ多くも一国の皇帝に嫁いだ人の素性が分からないってすごいですよね?
しかも16世紀だというのに。

こっそり結婚して2年ほどで亡くなっています。
原因は不明ですが暴力によるものだと言われています。

皇帝が飽きたら修道院か死か…って、選択肢がなさすぎます。
別れた後なんか好きにさせればいいじゃないか!

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)
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ロシア皇帝イヴァン4世妃 マリーア

2009-06-19 01:11:40 | ロシア皇妃
               こちらはマリーヤではありません
                 肖像画がないのでイスラム教の高貴な女性を…


亡き妻の誓いをやぶらせた皇妃
イヴァン4世妃 マリーヤ・テムリュコヴナ

 
1544~1569/在位 1561~1569

マリーヤはムスリムの貴族の娘なのでイスラム教徒でした。
アナスタシアの死の翌年、イヴァン4世に差し出されました。(貢ぎ物か?)

        

言い伝えによればアナスタシアは亡くなる時に「異教徒の妃はもらってはいけません」
と警告したそうです。 ロシア正教の女性にしなさいってことですね。
嗚呼それなのに…男の人って美貌の前では無力ね!
イヴァン4世はマリーヤに魅せられて、即結婚を決意したんだってさ

案の定イヴァン4世はすぐに後悔しました。
マリーヤは無学なばかりかロシアの習慣や言葉をなかなか覚えることができませんでした。
また、執念深くてずる賢い女性で魔女よばわりされたそうです。

イヴァン4世はKGBのような秘密警察オプリーニチナを組織して怖れられたのですが
これはマリーヤのアドバイスによるものだと言われています。

25歳で亡くなったのですが、これもイヴァン4世による毒殺と噂されました。
もちろんイヴァン4世は否定して、またもや拷問の嵐が吹き荒れたんですって
もっと丈夫な嫁さんをもらって下さらないと、まわりの方々も毎度とんだ迷惑ですよね!

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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ロシア皇帝イヴァン4世妃 アナスタシア

2009-06-18 01:30:24 | ロシア皇妃
ロマノフ王朝への道を開いた
イヴァン4世妃 アナスタシア・ロマノヴナ


1523~1560/在位 1547~1560

イヴァン4世は3歳で即位したものの、まずは母であるエレーナ・グリンスカヤが、
その後は次々と実権を握る高官たちにによって政治を牛耳られていました。
1547年のモスクワ大火で、母方の一族であるグリンスキー家が“ 呪いのせいだ ” と
民衆の怒りにさらされて失脚してから、やっと主導権を握ることができました。

同じ年イヴァン4世は大貴族ロマン・ユーリエヴィッチの娘アナスタシアと結婚しました。

      

例によってクレムリンに集められた(アバウトですけど)500~1500人の
お妃候補の中から選ばれたアナスタシアは穏やかな性格だったそうで
激しやすく凶暴な面を持つイヴァン4世を落ち着かせることができる女性でした。
なにしろイヴァン4世は “ 雷帝 ” と呼ばれた人ですからね! 手がつけられなさそうです。

結婚から14年目の1560年、アナスタスアは突然病にかかりました。
日に日に衰弱していくアナスタシアを見守っていた雷帝は、毒を盛られたのでは?と
疑いを持ち始め、高官たちを次々拷問や処刑にかけていきました。
(上の画は死に瀕したアナスタシアで、隣には心配そうな雷帝が描かれています
 ブーツの刺繍がかわいいっす!)
ただ、雷帝は高官たちを嫌っていたのでアナスタシアの病気を口実に
粛正をおこなったとも考えられますね。

雷帝は生涯で8度 結婚していますが、アナスタシアを一番愛していたみたいです。
彼女が生きていたら雷帝の今後の人生も違うものだったかもしれないですね。

アナスタシアの兄ニキータがロマノフ家の始祖になりまして、アナスタシアの子
フョードル1世のいとこの子にあたるミハイルがロマノフ王朝最初の皇帝になります。
もちろん、ロマノフ王朝になるまでにはいろいろあるわけですけどね…

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)

ロシア皇帝歴代誌 創元社


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辞典みたいに厚いですけどね…
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モスクワ大公ヴァシーリー3世妃 エレーナ

2009-06-17 00:31:30 | ロシア皇妃
初代ロシア女帝といってもいいかもね…
ヴァシーリー3世妃 エレーナ・グリンスカヤ


1503?~1538/在位 1526~1533

ヴァシーリー3世はソロモニアと離婚した後
セルビア王女アンとタタールの血を引く貴族ワシーリー・グリンスキーの娘
エレーナと再婚しました。
46歳のヴァシーリーは23歳のエレーナに夢中で、ロシア正教の決まり事を破って
髭をそり落としちゃったそうな! エレーナは髭嫌いだったんでしょうかね?

        

教会の反対を押し切った(エルサレムの総主教は呪いまでかけたらしい)この結婚は
吉と出てイヴァン(後の4世)とユーリという公子が生まれました。
安心したのかヴァシーリ-は敗血症に罹り、3歳のイヴァンを遺して亡くなりました。
その際、息子が一人前になるまでの間大公の全権をエレーナに移譲したのです。
ヴァシーリー3世が亡くなってからエレーナが亡くなるまでの5年間は
“ エレーナ時代 ” と呼ばれるほど権勢をふるったみたいです。

権力を手にしたエレーナのみならず、グリンスキー一族も力を持ちました。
ヴァシーリー3世の兄弟たちと争い、イヴァン4世そっちのけで政治を行いました。
また、エレーナはハンサムな高官イヴァン・オボレンスキーと大司教ダニエルの
ふたりと政治を動かして敵をつくっていきます。
イヴァン・オボレンスキーは愛人だったという説もあります。

イヴァン4世は幼年時代に高官たちにないがしろにされたトラウマから
後年彼らへの拷問や処刑を濫用したとも言われています。

              
                  こちら胸像です
                  お美しいですね。貫禄もありそうです


しかしエレーナはただ権力をふりかざしたわけではなくて
通貨統一に繋がる通貨の改正を行っているし、戦争を続けていたリトアニアと
休戦協定を結ぶことに成功するなど、成果もあげています。

王母の摂政ってさじ加減がものすごく難しいですよね。
成果をだせばでしゃばっているように見えるし、何もしなきゃつけこまれるでしょ?
役に立つブレーンを頼りにすれば浮気よばわりされるわ、バカの言うこと聞きゃ
国が傾くわ…しかもたいていの母親摂政は若いわけよね。
円形脱毛症になった母親摂政がいましたが、むべなるかな…

エレーナは1538年に亡くなりました。
彼女の死後実権を握ったシェイスキーに毒殺されたと言われていますが
犯人が誰かはともかく、調査の結果は毒殺の可能性が高いらしいです。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)
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