まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
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スウェーデン王エリク14世妃 カリン

2011-08-08 23:52:41 | スウェーデン王妃
王を廃位に追い込んだ結婚
エリク14世妃 カリン・マンスドッテル


1550~1612/在位せず

ま、彼女のことだけがエリク14世の廃位の原因じゃないのですけどね…

グスタフ1世には4人の成人した王子がいました。
エリク(14世)だけが一人目の妃カタリーナ・アヴ・サッシェンとの王子で
あとは二人目の妃マルガレータとの王子です。 モメそうな感じですよね…

カリンは最初はエリクの愛妾でした。

父親はウップランドの監守マンスで、母親は市場の野菜売りのイングリッド。
10歳ぐらいで両親を亡くして居酒屋で働いた後、14歳ぐらいで
エリク14世の妹エリザベットの女中として宮廷で働くようになりました。
貴族でも裕福な商人の娘でもないのに…いったいどんなツテがあったんでしょうね?

言い伝えによればカリンにはすでに婚約者がいて、ある晩その男性が宮廷に忍び込み
下男に見つかって殺されてしまったとか…
       
翌年にはエリクの愛妾におさまり、16歳で娘エリザベットを生んでいます。

エリクはもともとハレムみたいなものがあって、複数の愛妾を持っていました。
でもカリンを愛妾にすると、他の女性は全て退けました。
そのせいでカリンは魔力や媚薬を使っていると噂されたそうです。

しかし実際のカリンは、もの静かで控えめな飾り気の無い女性でした。
とても美しい少女で無垢な瞳の持ち主でした。
読み書きを覚えるのも早く、すぐにエリクの良き相談相手になりました。

エリクは精神疾患があって性格が不安定でした。
王に多くの影響力を及ぼしていたのは相談役のヨラン・ペルッセンでしたが
カリンも彼に匹敵するほどの影響力を持っていたと言われています。

           
               エリク14世 & カリン & ペルッセン

しかし、神経衰弱がひどくなった時にはカリンの力も及ばなかった様子…
エリクが血迷ってステューレ一家を投獄してしまった時
マルガレータの妹でスヴェント・ステューレ伯夫人のマルタはカリンに助けを求めました。

カリンは「まかせて」と請け負いました。
エリク14世はすぐにスヴェントを訪ねると、身を投げ出して固い友情を乞うたそうです。
でもその日のうちに彼の処刑を執行してしまいました… うぅぅむ、血迷ってますね。

1567年、エリク14世とカリンは結婚し、翌年公式に結婚を宣言しました。
これは貴賤結婚とされました。

この結婚は大きなスキャンダルを招き、エリク廃位論に拍車をかけます。
弟のヨハン(3世)とカール(9世)は手ぐすね引いてます。

エリクは国内にこの結婚を認めさせようと、かなり盛大な式を挙げました。
現代の庶民なら不思議ではありませんが、当時の王侯家では前代未聞なことに
結婚前に生まれていた子供たちも大々的に紹介されました。
続いて強行されたカリンの戴冠式の最中、法王が王冠を落としたのを合図に
エリク14世一家は王弟たちに捕らえられ投獄されてしまいました。

カリンは前王妃カタリーナ・ステンボックにエリク14世を許してくれるよう
絶叫して懇願したそうですが、その願いは届きませんでした。

一家はフィンランドのトゥルク城、マリエフレード(スウェーデン)のグリプスホルム城、
ヴェステロース城などを転々とした後、1573年にエリクだけひき離されてしまいます。
翌々年には息子グスタフがポーランドのジュスイット派の修道院に入れられてしまいました。
カリンはその後2回しかグスタフに会っていませんが、息子の見窄らしさに涙したようです。

1577年には夫エリクが亡くなったと聞かされました。
砒素で殺されたって言われてますが事実は不明です。

カリンと娘のシグリドはフィンランドのカングラに屋敷を与えられましたが
1587年にはシグリドもヨハン3世の王女アンナの侍女になって家を出ました。

カリンは宮廷ではその性格から敵はいなかったと言われています。
しかし尊敬を得ることはできませんでした。
でもカングラでは付近の住民たちに好意をもって迎えられ尊敬されて一生を終えました。

ウプサラではなくトゥルクの聖堂に葬られました。

10歳から健気に働いてきた性格の良い少女なら、物語だったら幸せになれるんだけどね…
事実はそうはいかないというのがつらいとこですね。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント (3)
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