まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ポルトガル王カルルシュ1世妃 アメリア

2010-06-04 23:38:37 | ポルトガル王妃
(王政復古がない限り)ポルトガル最後の王妃
カルルシュ1世妃 アメリア・デ・オルレアンス


1865~1951/在位 1889~1908

アメリアの父はフランス王ルイ・フィリプの孫にあたるパリ伯フィリプ、
誇り高き(時代が読めない)ブルボン家の出身です。
           

スペイン王家かハプスブルク家との縁談が考えられていましたが
カルルシュに嫁ぐことになりました。

1886年に結婚し、1889年に王妃になりました。
ブルボン家出身だけどあまり格式張らず、温和な女性だったようです。

              
                地味目だけど美しい1枚

アメリアは義母マリア・ピア同様、浪費する傾向がありましたが
結核の予防や治療、慈善団体の設立、サナトリウムや薬局の配備などに積極的に関わって
人気を高めていきました。

ポルトガルでは不況、プロレタリアートの拡大で共和主義が台頭していました。
暴動が頻発し王制廃止の声も上がっていました。
アメリアの人気は、わずかながらポルトガルの王家を延命させたみたいです。

国が破産に直面し、産業不振で、社会主義者も民主主義者も王家を批判する中
カルルシュがとんでもないことをしでかし、非難が集中します
それは不倫… 愛妾当たり前の中世ならいざ知らず、時代を考えなきゃ!

とうとう1907年に共和国設立になりますが、カルルシュは議会を解散します。
翌年、王家揃ってヴィソザ城からリスボンへの帰路、アーセナル通りで銃が発射されました。
カルルシュはほぼ即死、王太子ルイスは20分後に亡くなりました。
アメリアは無事でしたが、もうひとりの王子マヌエルも怪我を負います。

翌日、王子マヌエルが即位しましたが、ポルトガルの明日は決まったようなものです。
1910年、革命によりポルトガルでは第一次共和制が始まりました。
王制は廃止され、王家は追放になりました。

アメリアは余生のほとんどをフランスで過ごしました。
第二次大戦中、士気を高めるためですかね? それともフランス対策?
ポルトガルから帰国を依頼されましたが辞退しています。
でも直後に訪れたみたいで、それが最後の訪問になりました。

どうでしょうねぇ? ポルトガルの王政復古はあるのでしょうか?
一応、1910年の革命の際に、永続的共和主義政府樹立の宣言をしてたりする…



              
王妃と呼ばれる日は訪れず…
マヌエル2世妃 アウグスタ・ヴィトリア
              デ・ホーエンゾレルン=ジグマリンゲン


1890~1966/在位せず

アウグスタの父はホーツォレルン=ジグマリンゲン候ヴィルヘルムで
母はシチリア王女マリア・テレジアです。
マリア2世の曾孫になります。
          
王家が追放中の1913年に廃位したマヌエルと結婚しました。
まだブラガンザ家は復位を諦めていなかったと見えますね。
もちろん、ホーエンツォレルン家もね。

1932年にイギリスのミドルセックスでマヌエルが亡くなると7年後に再婚しました。
アウグスタは49歳、お相手のランゲンシュタイン領主ロバート・ダグラスは53歳です。
いくつになっても素敵な方との出会いをあきらめちゃだめね!

その後はバーデンで暮らし、1966年に亡くなりました。

              
              こちらは実物。高貴そうでいらっしゃる

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)

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ポルトガル王ルイス1世妃 マリア・ピア

2010-06-03 22:21:26 | ポルトガル王妃
ふたつの顔を持つ王妃
ルイス1世妃 マリア・ピア・デ・サボイア


1847~1911/在位 1862~1889


マリア・ピアはイタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世と
王妃マリーア・アデライデの王女です。

        

15歳の時に9歳年上のルイス1世と結婚しました。

若くして外国に嫁にやられた娘には、気を紛らわすものが必要よね?
というわけで、マリア・ピアはパーティー、舞踏会、マスカレードに明け暮れます。
贅沢大好き!でオシャレにも目がありませんでした。
一晩の舞踏会で3回ドレスを替えたという記録が残っています。

たかが3回といっても、今とはお衣装の造りが違うものねぇ…
ティアラやアクセサリー、手袋から扇まで全て変えたはずよ。

ポルトガル議会は、王妃の過度な出費について審議したほどです。
しかし、マリア・ピアは「王妃にいてほしいんじゃないの? だったら当然の支出でしょ」
と答えたそうでございます。
言えたら気持ちがいいでしょうねぇ

他方、マリア・ピアはオシャレ同様チャリティーに夢中で
ほとんど政治には興味を示しませんでした。
お人好しで気前がよく、“ 慈善の天使 ” “ 貧しき者の母 ” とも呼ばれていました。
やっていることが両極端ですねぇ。

サルディーニャ公ジョアン・カルロと諍いを起こした時には
「私が王なら撃ち殺してやる!」と公式に言ったそうで、勇ましい方だったようですね。

1889年、ルイス1世が亡くなり未亡人となった後も、マリア・ピアはアクティブに活動。
社交界でも活躍し宮廷の中心人物でした。
王と王妃が不在の間に摂政も務めました。

しかしいくら気丈な女性といっても、やはり母親…
1908年に息子のカルルシュと孫のルイスが殺害されると急激に衰えを見せ
その後公の場には姿を現さなくなりました。

カルルシュの後を継いだマヌエル2世が革命で廃位されて第一共和制が始まると
生まれ故郷のイタリアへ帰り1911年に亡くなりました。

贅沢三昧とは裏腹なチャリティー精神…このタイプの王妃、王女は多いですよね。
本心から、義務感から、流行、名声欲しさと理由はいろいろありましょうけど
何もしないよりはまし…ですよね。

              
              ドレスのデザインが変わりましたね

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル王ペドロ5世妃 エステファニア

2010-06-03 22:20:33 | ポルトガル王妃
ワンポイント王 & 王妃
ペドロ5世妃 エステファニア・デ・ホーエンゾレルン=ジグマリンゲン


1837~1859/在位 1858~1859

エステファニアはホーエンツォレルン=ジグマリンゲン公カール・アントンの公女で
20歳の時に同じ年のペドロ5世と結婚しました。

        
ポルトガルは、相次ぐ戦争や革命ですでに疲弊していたはずなんだけど
エステファニアはかなりの贅沢品を与えられたらしくて
実家に “ ポルトガル人は贅沢のなんたるかを知ってるわ…気品は別にして ” てなことを
書き送っています。

結婚から1年半後、エステファニアはジフテリアで22年の生涯を終えました。

ポルトガルでは二大政党制が始まり、多くの公共事業が行われていました。
エステファニアも王妃に就いている短い間に病院を設立しています。
長生きしていたら、もっとたくさんの慈善を行っていた人かもしれません。

ペドロ5世も再婚しないまま、2年後にジフテリアで亡くなりました。

            
             書くことがあまりないのでお写真を…

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル王ミゲル1世妃 アデライデ

2010-05-31 23:35:37 | ポルトガル王妃
婚活の時はそばにいてほしい・・・
ミゲル1世妃 アデライデ・デ
        ローウェンシュテイン=ウェルトハイム=ローゼンベルグ


1831~1909/在位せず

ちょっと順番が前後してしまいますけど…

ミゲルは王子の時に母后カルロッタ・ジョアキナとクーデターをおこして追放になり
その後マリア2世から王座を奪いました。

ミゲルは超保守派で、王座につくと憲法を廃止して絶対王政で統治しようとしました。
しかし、リベラルなペドロの帰国で自由主義戦争がおこってミゲルは敗戦、
全ての権利を剥奪されて再びウィーンへ追放の身になります。

その間ずっと独身だったようですけど、49歳の時20歳のアデライデと結婚しました。

アデライデはハプスブルク帝国のレーヴェンシュタイン公女です。

          
なんで年ごろの若い娘を追放中の、しかも若くもない男性に嫁がせるかね? と
不思議に思いません?

追放中とはいえ、ミゲルは絶対王政主義と保守派のシンボルみたいになってまして
保守派の王家はけっこう手厚くもてなしたみたいです。

結婚後、一家はアデライデの故郷に身を寄せていたみたいで
1666年にミゲルはバーデンで亡くなっています。
アデライデには6人の幼い子が残されました。

ここからアデライデの活躍が始まります。
生家の名とブラガンザ家の名を借りて、子供たちに立派な縁談を与えますよ!
ほぼ10年の月日を費やしています。

娘たちの嫁ぎ先は、ブルボン=スペイン家、ハプスブルク家、ヴィッテルスバハ家、
ナッソウ=ルクセンブルク大公家などそうそうたる家柄です。
息子ミゲルはトゥルン=ウント=タクシス家から妃を迎えています。
二人目の妻はアデレイドの姪マリア・テレジアです。

名家とはいえ追放された父を持つ子女としてはすごくいい縁談!
残っている王家でお相手の奪い合いという状況の中、すごく頑張ったと思います。
こんな方だったら仲人も安心して任せられるわね

なぜか分らないんですけど、イギリスのワイト島で亡くなっているのよね。
1909年でしょう? ドイツはまだ王国だし…亡命じゃないですよね?
子供たちの嫁ぎ先でもないし…病気療養とかかしら?

ちなみに、イギリスは自由主義戦争でペドロ側について
最終的にミゲルを敗退にいたらしめた国でございます。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント (3)
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ポルトガル女王 マリア2世

2010-05-30 20:20:49 | ポルトガル王妃
国を治めた子だくさんママ
ポルトガル女王 マリア2世


1819~1853/在位 1826~1828、1834~1853

肖像画が可愛いでしょ? 少女時代のものだけど…
貫禄たっぷりになられた肖像画もあるんですけど、やめときます。

マリアはブラガンザ家がブラジルに亡命中に生まれました。
父はペドロ4世、母はマリア・レオポルディナ
ヨーロッパ生まれでない、唯一のヨーロッパ君主です。

1826年に祖父ジョアン6世が亡くなった時、父ペドロが即位の宣言をしましたが
ブラジルを離れず、娘であるマリアに王位を譲りました。

当時ペドロの弟にあたるミゲルは、母后カルロッタ・ジョアキナと反乱を起こして
オーストリアに追放中でしたが、国内には彼を王にしようという一派もありました。
そこでペドロはミゲルとマリア2世を結婚させて、成人に達するまでミゲルが摂政をする、
というアイディアを思いつきました。

          
ミゲルはペドロの案を承知したのに、1828年にポルトガルに帰って来ると態度が一変!
だってマリア2世は9歳だし、両親は不在という絶好のチャンスですもの。
さっさとマリアを廃位すると自分が王座につきました。
マリアは叔父ミゲルの治世中、ヨーロッパを点々として過ごしました。

1831年、ブラジル皇帝の座を退いたペドロは、ポルトガルに帰国すると
マリアの王座と自分のブラガンザ公位を奪還すべくミゲルと戦い
1834年にミゲルを退位に追い込みました。

晴れて女王に復位したマリア2世はミゲルとの結婚を無効にし
翌年、ナポレオン1世皇后ジョセフィーヌの孫で、継母アメリアの兄にあたる
ロイヒテンベルク公オーギュストと結婚しました。
しかし、24歳の夫はたった結婚から2ヶ月で亡くなってしまいました。

さらに翌年、サクス=コバーク=ゴータ家のフェルナンドと再婚して
フェルナンドも共治王になりました。
マリア2世の治世中も国家は決して安泰ではなく、暴動、政争は頻発し
コレラも流行りました。
マリア2世は3歳年上のフェルナンド2世に信頼を寄せていました。
難しい政局を乗り切れたのはフェルナンド2世の支えが大きかったようです。

そんな激動の中、マリア2世は1~2年おきに子供を生んでいました。
出産と妊娠を繰り返すマリアに医者は危険を警告しました。
マリアは「たとえ死んだとしても、それが私の役目なの」と言ったらしい…
自然に身に付いた母性からの発言ならいいですけど
そういい聞かせられて育ったとしたら、女性にとっては哀しい話しね。
他にも女性の役目はたくさんあるはず!

医者の忠告を聞かないから
34歳の時、11人目の子を出産したマリアでしたが、母子ともに亡くなりました。

マリア2世は愛情深く、善き母親で、国のために良かれという信念で
行動した人だったそうです。
治世中はポルトガルの学力向上にも務めました。

なんだかマリア・テレジアに似ているような気がしますね。
後には “ 善徳の母 ” という名も与えられていて、人気が高かったことを伺わせます。

マリア2世が長命だったら、ポルトガル王家の行く末が違っていたかもしれないですね。

             
              可愛いのでもう1枚載せちゃうわ

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)

ポルトガルの歴史  創土社


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ポルトガル王ペドロ4世妃 アメリア

2010-05-30 01:01:46 | ポルトガル王妃
ジョセフィーヌゆずりの美しさ
ペドロ4世妃 アメリア・デ・レウシュテンベルグ


1812~1873/在位 (ポルトガル王妃)せず (ブラジル皇后)1829~1831

アメリアの父はナポレオン1世の継子ロイヒテンベルク公ウージェーヌ・ド・ボーアルネで
祖母はジョセフィーヌです。

         

マリア・レオポルディナを失って3年、ペドロは再婚相手を探し始めました。
しかし、我が物顔の愛妾ドミティラはいるし、絶大な人気を博していたマリアへの
酷い仕打ちが噂になっていたせいで、候補選びは難航しました。

相手に選ばれちゃったアメリアは、兄オーギュストとともにブラジルに到着します。
アメリアを一目見たペドロは、その美しさにボーッとしてしまい
彼女を讃えてバラ勲章なるものを作りました。

あ、愛妾ドミティラは、アメリア到着前におヒマを出されていました。
賢明な処置ですね、ペドロ、Good Job!

アメリアも慈悲深かったみたいですけど、控えめな人だったのかしら?
前妃ほど人気もなく、落ち目になった皇帝ペドロの人気は回復しませんでした。

1831年、大規模な反乱がおこり、ペドロは皇帝を退位して皇子ペドロが即位しました。
アメリアはペドロとともにポルトガルへ向かいます。
懐かしのヨーロッパを目に前にした時、何を思ったんでしょうね?

ペドロはポルトガル王座とブラガンザ公位を賭けて
娘マリア(2世)の名の下に、弟ミゲルとの戦いに明け暮れて
勝利した1834年の末に亡くなりました。

アメリアはたったひとりの娘マリア・アメリアの養育と慈善活動に専念し
政治的なことには関わらずに過ごしました。
未亡人になったのは22歳の時でしたが、その後再婚もしませんでした。

1873年、結核のためマデイラ諸島で亡くなりました。

なんでも前妃マリアの人気には、ハプスブルク家出身の王女がやってきた!という
ありがたみも大きく物を言っていたらしいんですよね。
ナポレオンがらみで出世した家の出の娘なんて太刀打ちできるもんじゃありません。
ご本人にはなんの罪も咎もなかろうに、お気の毒なことです。

               
                アメリア王女です。可愛いですね
                特にエピソードが無いので、ここで紹介しておきます


(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
      デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント (8)
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ポルトガル王ペドロ4世妃 マリア・レオポルディナ

2010-05-30 01:01:26 | ポルトガル王妃
どちらかっていうとブラジル皇后
ペドロ4世妃 マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア


1797~1826/在位 (ポルトガル王妃)1826 (ブラジル皇后)1822~1826

マリア・レオポルディナは、オーストリア皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの皇女で
姉にナポレオン皇后マリー・ルイーズがいます。

         

ジョアン6世は、ナポレオン失脚後もイギリスやスペインから牛耳られ
帰国が果たせずにいる状況を打破したいとハプスブルク家に縁談をもちかけます。
宰相メッテルニヒはメキシコに続く南米の統治で得られる富を考えて
ザクセン王と婚約していたマリア・レオポルディナを嫁がせることにしました。

マリアはずばぬけて美しくはなく、女性らしい優雅さに欠けていました。
一方、聡明で6カ国語を操り、自然科学を学ぶ高い教養を持った女性でした。
メッテルニヒはマリアのしっかりした性格に賭けることにしたのです。

ウィーンを発ちブラジルに渡ることになったマリアは
「涼しげな薄い花柄のドレスと、薄手のシルクのストールと…」なんてことは考えず
(考えたかもしれないけど)高名な自然学者や生物学者、地理学者たちを連れて行きました。
レオポルディナ探検隊…とでもいいましょうか

南米という未知の世界へ嫁ぐマリアに申し訳なく感じたメッテルニヒは
珍しくイタリアのリヴォルノまで見送ったそうです。

90日!の船旅の末到着したマリアをペドロが出迎えました。
ふたりはすぐにお互いを気に入り、幸せな結婚生活をスタートさせました。
マリアは慈善活動にも精をだし、人気は上がる一方でした。

でもね…ペドロはもともと荒くれ者で粗野な人でした。
激動の中で野生児みたいに育ったペドロは怒りっぽく、暴力に訴えるタイプ、
しかも浮気癖もあって、結婚生活は次第に不幸になっていきました。

ブラジルでは、当時すでに独立の気運が高まり、独立運動がおこっていました。
1821年に晴れて帰国することになったブラガンザ家でしたが
ジョアン6世はペドロを摂政として残していきました。

王家が帰国した後、ペドロはブラジルを植民地ではなく国家にしたいという思いを抱きます。
マリアもその考えに賛成で助力を惜しみませんでした。

ペドロがサン・パウロへ出向いて不在の時に、代理でポルトガル議員団に面会したマリアは
一方的な命令文を目にして、ペドロに宛てて手紙を書きます。
“ 果物は熟れています。まさに今が食べ時です ” てな暗号でね。
手紙を受け取ったペドロは独立を宣言し、皇帝ペドロ1世として即位しました。

この独立については、ジョアン6世の意向だったという説と
ジョアン6世はスペインやイギリスの手前反対していた、という説があります。

              
              よき母ぶりがうかがえる1枚ですね

ペドロは、1826年にジョアン6世が亡くなると、ポルトガル王ペドロ4世を宣言しました。
しかしポルトガル国内から反対の声があがり、2ヶ月後に退位して
王位を娘のマリア(2世)に渡しました。

その7ヶ月後、マリアは29歳で急死します。
毎年の出産で健康が衰え、7人目の子を流産したためでしたが
一説ではペドロの暴力による…と言われています。

異国に嫁ぐことが当たり前と言えば当たり前だった王侯貴族の娘たちにしたところで
90日も船に乗っていく所とあっては怖くて不安だったでしょうね。
おいそれと実家には帰れないし、一生家族と会えないかもしれない…
船乗りたちから聞かされた恐ろしい風習や不便な生活も気にかかる…

そんな思いで嫁いできた女性を悲しい目にあわせるなんて、君主なんて言えないわね!
妻ひとり幸せにできないで、国民を幸せにできるもんか

人気の高かったマリアを失ったペドロと偉そうな愛妾ドミティラは国民から嫌われ
後の退位を招くことになりました。 …つづく

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
      デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル王ジョアン6世妃 カルロッタ

2010-05-28 02:04:19 | ポルトガル王妃
時代を読み違えた保守思想の信奉者
ジョアン6世妃 カルロッタ・ジョアキナ・デ・ボルボン


1775~1830/在位 1816~1826

カルロッタは、スペイン王カルロス4世とマリア・ルイサ・デ・パルマの王女です。
母親も強烈だったけど、娘もやるときゃやる子でした。

          

王太子ジョアンとカルロッタの縁談は、祖母にあたるマリアナ・ヴィトリア
スペインに里帰りしている時、ふたりが幼いうちにまとめられました。

10歳でジョアンと結婚したマリアナは、お人好しでブヨブヨで
頑なに宗教の教えを守ろうとする夫が大嫌いでした。
とはいえ、カルロッタも人のことが言えるほど美しくはなかったらしい…

子供は9人生まれているんですけど、なんでも王子はみんな見目麗しく
特に末息子ミゲルはハンサムで、父親が違うんじゃ…と噂になりました。

末娘のアナが誕生した1806年以降、ジョアンはマフラ宮殿、カルロッタはケルス宮殿で
各々暮らすようになり、完全な別居状態に入りました。
ケルス宮殿はカルロッタのご乱交のためにある…と言われていたそうです。

1807年、ブラガンザ家はフランスの占領前にブラジルに移ります。
まだ女王マリア1世は生きていたんだけれども、カルロッタは “ カルロティズム ” といわれる
スペイン支配による政府を南米に築こうとしました。

故国スペインはといえば、ナポレオンの支配下にあり、父王カルロス4世も
弟の王太子フェルナンド(後の7世)もフランスに連れ去られていました。
カルロッタはブエノス・アイレスやアルゼンチン北部のスペイン占領軍に
ラ・プラタ女王として指示を与えていました。
でも、スペイン=ポルトガル軍が支配できたのはシスプラチナ河流域だけだったけど…
この流域が後にウルグアイになります。

1821年、ブラガンザ家は晴れてポルトガルに帰国することができました。

しかし、リスボンは大きく様変わりしていました。
ナポレオン占領下で変革の気運が高まっていた市民たちは
それに続くイギリス軍支配に反対して革命がおこっていました。
立憲君主議会は新憲法を制定していて、ジョアン6世は従うことを宣言します。

ところが、カルロッタは旧体制、すなわち絶対王政での復古を望んでいて猛反発!
同じく保守派の王子ミゲルと手を組んで軍を動かし
ジョアン6世を投獄同然で城に閉じ込めました。 家庭内クーデターってことですか?

ジョアン6世はイギリスの援助を受けて権力を取り戻すと、ミゲルは国外退去、
カルロッタはケルス宮殿に隠遁をさせられました。

隠遁後はというと、カルロッタはおとなしくはしていたんだけど
明らかに子供っぽい格好や振る舞いをするようになります。
ちょっと壊れてしまったんでしょうかね?

1826年、ジョアン6世が急死しました。
ジョアン6世は、摂政として王妃カルロッタでなく王女イサベル・マリアを指名しました。
再デビューを果たせなかったカルロッタは、4年後にケルスで亡くなりました。

でも、ジョアン6世の死から2年後に、最愛の王子ミゲルが帰国して王になってるから
もしかしたら晩年は好き放題にやっていたかもしれないですね。

今までにいくつかの国の終焉や、立憲君主制に変わる様を書いてますが
ブルボン家出身の姫様はけっこう保守派のイメージなのよね。
時代の空気が読めないっていうか…
でも、そうやって育ってきたからしかたないのかもしれませんね。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル女王 マリア1世

2010-05-27 02:25:13 | ポルトガル王妃
遠きブラジルで逝った女王
ポルトガル女王 マリア1世


1734~1816/在位 1777~1816

ジョゼ1世とマリアナ・デ・ボルボンの女王マリアは、1750年に父王が即位すると
早々に継承権が与えられベアトリズのような混乱も無く即位した女王でした。

マリアが26歳の時に結婚していた叔父ペドロは
1777年に共治王としてマリアとともに即位しました。

           

即位するやいなや、マリアは父王の時代に篤い信頼を得ていたポンバル候を解任し
政府を一新します。

マリア1世が統治していた頃のポルトガルでは、ワイン貿易が再興し、不況が終わり
聖職者、貴族、地主たちが再び富を謳歌していました。
マリア1世は財政の近代化や体制の強化、市街地の整備や秩序回復に力を注ぎ
ケルス宮殿を建設するなどの新古典文化をもたらしました。

しかし、相変わらず重税をとりたてられ困窮にあえいでいた庶民たちの怒りは
改革を嫌う政府のもとで沸々とわき上がりつつありました。

マリアは “ 敬虔王 ” とよばれるくらいで、ものすごく信心深い女性でしたが
一方、情緒不安定なところがありました。

そのマリアに追い打ちをかける悲しい出来事が次々とおこります。
1781年によき相談相手であった母后マリアナ・ヴィトリアが亡くなります。
1786年に夫君ペドロ3世が亡くなると鬱状態に陥ります。
ひた隠しにされていた彼女の病状は、公の場で精神錯乱をおこして明るみでました。
宮廷内は宗教儀式を除いてすべての娯楽が禁止されます。

1791年に27歳の王太子ジョゼとお気に入りの司祭が相次いで亡くなると
病は悪化の一途をたどり、翌年には発狂しました。

議会は大英帝国王ジョージ3世を診た精神科医ウィリスに診断を依頼しましたが
マリア1世を英国行かせることには同意できず立ち消えになりました。

1795年、アジュダ宮殿が焼失したため、王一家はケルスに移りました。
61歳のマリア1世はもはや1日中をベッドの中で過ごすようになっていて
宮廷内には恐ろしい叫び声が響き渡り、来客たちを不安に陥れていました。
統治は王子ジョアン(後の6世)が女王の名で行っていました。

そしてヨーロッパを吹き荒れた嵐、ナポレオンがポルトガルにせまります。
1801年にはスペイン王カルロス4世妃マリア・ルイサの愛人マヌエル・デ・ゴドイが
ナポレオンの後ろ盾で乗り込んで来ましたが、国民の猛反発に合い撤退しました。

1807年に大陸封鎖に従わなかったポルトガルにフランス=スペイン軍が侵攻して来ます。
リスボンはフランスの統治下に入り、イギリス派遣軍の到着を待つことになります。

マリア1世をはじめ王家、貴族や豪商の多くはナポレオンの侵攻前に
イギリス海軍の助けを借りてブラジルへ避難していました。
政府はリオ・デ・ジャネイロに亡命政府を設けました。

1809年にはイギリス軍がリスボンを奪還して、1815年にはナポレオんが駆逐されたのに
なんだかポルトガル政府はブラジルに取り残されたままでした。

マリア1世はポルトガルがブラジルに王国を築いた翌年の1816年に
リオ・デ・ジャネイロで亡くなりました。

もしかしたら、どこにいるのかはっきり理解できない状況だったかもしれないけど
君主たるもの、自分が治める土地で最後を迎えたかったでしょうね…

動乱と狂気の中を生きた81年、お疲れさまでしたと言ってあげたいですね。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル王ジョゼ1世妃 マリアナ・ヴィクトリア

2010-05-26 00:18:06 | ポルトガル王妃
フランス王妃になり損ねてラッキーだったかも・・・
ジョゼ1世妃 マリアナ・ヴィクトリア・デ・ボルボン


1718~1781/在位 1750~1777

かなりはしょりますけど、長くなるので覚悟して下さいね

マリアナはスペイン王フェリペ5世とイサベル・デ・ファルネシオの王女です。
3歳の時に8歳年上の従兄弟、フランス王ルイ15世と婚約してフランスに渡りました。
同時にスペイン王子ルイス(後の1世)とルイーズ・ドルレアンなど
3組同時進行という壮大な縁談でした。
裏を返せば、どんだけ信用が無いんだか…

        

マリアナはパリでルイ14世とルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールの王女
コンティ公妃マリー・アンヌに養育されました。

マリアナはお茶目で可愛らしく宮廷での人気は上々だったのですけど
肝心のルイ15世本人はこまっしゃくれた彼女を嫌って避けていました。

マリアナが5歳の時宰相になったブルボン公ルイ・アンリは
王に嫡子がないまま何かあった時のことを恐れて、年上の相手を模索します。
結局マリアナは7歳の時に国へ帰され、ルイ15世はマリー・レクザンスカと結婚しました。

ここまでで『マリアナの人生~フランス編』は終了です。

スペイン王家では「娘を帰してきやがった!」と怒りが沸き上がりまして
フランスと敵対するオーストリアと同盟を結びました。

一方マリアナの婚約破棄を聞きつけたポルトガルは、すぐさま縁談をもちかけます。
スペインもフランスと戦う以上、後方は安全策をとっておきたいですよね。
縁談は決まり、マリアナが11歳の時に15歳のジョゼと結婚し
その翌日、マリアナの異母兄にフェルナンド(後の6世)とジョゼの姉バルバラ
式を挙げました。
           
1750年、ジョゼが王に即位します。
その5年後でした、約6万人の死者を出したというリスボン大地震がおこります。
都市は壊滅的被害を受け、大金を失った富裕層はパニックに陥りました。

こんな時こそ王と王妃の腕の見せどころ…だっていうのにっ

ジョゼ1世は地震の恐怖から閉所恐怖症になり、アジュダの丘の上に避難します。
壁が崩れてきたら恐ろしいとうことで、しばらくテントを張って野外生活をしたらしいよ。
石造りだから、確かに怖いかもしれないけど…

リスボンでは留守を預かっていたポンバル候が権力を握り君主のようになっていました。
マリアナは、ジョゼ1世のポンバル候に対する信頼ぶりが気に入らなかったそうです。

しかし、この時難民対策と都市計画を指揮したジョゼ1世をおおいに助けたのは
ポンバル候だと思うんだけどな…もう少し温かい目で見てあげても…

マリアナはとても生真面目で意志の強い人だったそうです。
ジョゼ1世が時々浮気をして、人々が目の前で噂をしていても堂々としていたらしい…
音楽と狩猟が好きで、スペインの家族と親交を続けていました。

1774年から病のジョゼ1世の摂政を務め、娘のマリア1世即位後も影響力を持っていました。
マリア1世は何ごとにつけマリアナに相談したそうで、おかげでポンバル候は失脚しました。

晩年は兄のカルロス3世のもとを訪れて1年ほど滞在し、
その間に孫や甥、姪の縁談を張り切ってまとめました。
孫ジョアン(後の6世)とカルロス4世王女カルロッタ・ホアキナの縁談もまとめてます。

マリアナが62歳で亡くなった時、マリア1世は伯父のカルロス3世に宛てて
「最大の理解者を失いました」と書き送りました。

幼くしてフランスから追い返された時には、悔しくて悲しかったと思うけど
その方がよかったんじゃないかしら?
ルイ15世の浮気はハンパじゃないし、フランスの宮廷夫人って
愛妾に力が及ばない王妃にはすごく冷たいと思うんですよ。
気の強い方には、とても耐えられる環境じゃなかったと思うわ…

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル王ペドロ2世妃 マリア・ソフィア

2010-05-24 23:44:36 | ポルトガル王妃
王に尊敬の念を抱かせた若き王妃
ペドロ2世妃 マリア・ソフィア・デ・ネウブルゴ


1666~1699/在位 1687~1699

マリア・ソフィアの父親はプファルツ選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム、
23人のお子を持つパワフルな両親のもとに生まれました。
すごいよね! 子供手当、満額なら59万8千円? 働かなくていいんじゃなくて?

エレオノーレは神聖ローマ皇帝レオポルト1世に、
マリアナはスペイン王カルロス2世に嫁いでいます。

       

21歳で39歳のペドロ2世と結婚したマリアは
上記の姉妹たちに似ず(?)とても優しく慈愛に満ちた人だったそうです。
前妃マリア・フランシスカの忘れ形見イサベル王女とも良好な関係を築きました。

慈善に熱心で、孤児や貧しい人たちには宮廷で診察の機会を与えていました。
フランシスコ派の学校の設立にも寄付を惜しみませんでした。

かなり年上のペドロでしたが、マリアには尊敬の念を持って接していたそうです。

しかし、そんな人格者にもついてまわる小姑問題
イングランド王チャールズ2世の死後帰国していたカタリナとは
しきたり等の面で気が合わず度々ぶつかったご様子です。

丹毒と思われる熱のため、33歳の若さで亡くなりました。
誕生日のわずか3日前でした。
ペドロ2世は、その後再婚していません。



              
家系はすごい
ジョアン5世妃 マリア・アナ・デ・アウストリア


1683~1754/在位 1708~1750

父は神聖ローマ皇帝レオポルト1世で母はエレオノール、ということは
義母マリア・ソフィアは叔母で、ジョアン5世は従兄弟です。

弟に神聖ローマ皇帝カール6世がいまして、女帝マリア・テレジアの伯母にあたります。

            

ジョアン5世時代のポルトガルは、ブラジルで発見された金鉱の富をバックに
大層な贅沢を謳歌した時代でした。
ジョアン5世は絶対王政でポルトガルを統治して、他の欧州諸国に負けじと
壮麗な宮殿や記念碑などを建てられました。

一方、1701年から始まったスペイン継承戦争で、ポルトガルはハプスブルク家につきましたが
1714年にブルボン家の勝利に終わりました。

敵だった国が隣国を治めるとなったらうかうかしていられないですね。
そんなわけで、長女バルバラはスペイン王フェルナンド6世に嫁ぎました。

1742年、ジョアン5世が病のために統治ができなくなるとマリアは摂政になります。
息子ジョゼ1世の即位にともない表舞台から身を引いて、4年後に亡くなりました。
心臓はウィーンに運ばれハプスブルク家の霊廟に葬られました。

              
               同じ人とは思えないので載せてみた

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル王アフォンソ6世妃 マリア・フランシスカ

2010-05-22 00:15:45 | ポルトガル王妃
禁断の愛を叶えた
アフォンソ6世妃 および ペドロ2世妃
            マリア・フランシスカ・デ・サボイア


1646~1683/在位 (アフォンソ6世妃)1666~1668 (ペドロ2世妃)1683

マリア・フランシスカはヌムール公シャルル・アミーディの公女です。

フランスのルイ14世は、お互いの敵スペインに対する互助が必要だとして
アフォンソ6世とマリアとの縁談をまとめました。

       

当時ポルトガルでは、メリョール伯等親仏派が、アフォンソ6世を抱え込んで
執政官政治を行っていました。
メリョール伯は、王弟ペドロを中心とする親英派を排除するため縁談を承認します。

ラ・ロシェルを発ちリスボンに到着した20歳のマリアは不幸のどん底でした。
アフォンソ6世は精神疾患があり、粗野な男性でした。
「ルイのおじさまったら!」と怒り心頭だったことでしょう。

普通ならよよよ…と泣き崩れてしまうところですがマリアは違いました。
彼女はアフォンソ6世を操るメリョール伯打倒のクーデターに一役かいます。

妻の鏡! と思いきや…
実はこれは王弟ペドロが兄王を倒したクーデターだったのですね
マリアは不能でブヨブヨのアフォンソが大嫌い!でペドロに恋しちゃったらしい…

アフォンソはアゾレス諸島に追放され、ペドロが摂政として統治することになりました。

マリアの願いは叶い、結婚から16ヶ月後にアフォンソとの結婚無効が宣言されて
晴れてペドロとゴールインします。
翌年には王女イサベルが生まれていますが、子供はひとりだけでした。

ブラガンザ家は嫡子が生まれないと断絶、という瀬戸際にありました。
君主によってはくたびれた妻を離婚して若い女性を娶る、という方もおりますけど
ペドロはそうはしなかったみたいです。

1683年、アフォンソ6世が亡くなり、ペドロが王に即位しました。
マリアは再び王妃の座についたもののその年の暮れに亡くなりました。
これはなにか怪しげですねぇ…

フランセシーニャスの修道院に葬られましたが、20世紀初頭にブラガンザ家の霊廟である
サン・ヴィンセンテ・デ・フォーラに移されました。

うまくやらなきゃスキャンダルになりかねない再婚劇です。
かなりの根回し上手だったか、策謀家じゃないと…
やり手の義母ルイサ・デ・グスマンが生きていたらどうなっていたかしら?

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル王ジョアン4世妃 ルイサ

2010-05-19 23:52:34 | ポルトガル王妃
故国に抵抗したスペインの淑女
ジョアン4世妃 ルイサ・デ・グスマン


1613~1666/在位 1640~1656

アヴィシュ家のアントニオが敗れた後は
スペイン王フェリペ2世がポルトガル王フェリペ1世となります。
フェリペ1世には4人の妃がいましたが、ポルトガル王妃になったのは
4人目の妃アナ・デ・アウストリアだけです。

続いてスペイン王フェリペ3世がフェリペ2世として
(王妃はマルガリータ・デ・アウストリア
フェリペ4世がフェリペ3世として
(王妃はイサベル・デ・ボルボーンだけ)即位しました。

1640年、カタロニアで反乱がおこり、スペインはポルトガル国民を徴兵しようとします。
これにポルトガルの大地主たちが反発し、ブラガンザ公ジョアンを推して
スペインから独立しようと革命をおこしました。
ジョアンの血筋はこんな感じ…
           

この時、スペインに抵抗するようにジョアンを導いて、革命がポルトガル優勢になると
王座を受け入れるよう一番強く主張したのが妃のルイサでした。

ルイサはメディナ=シドニア公ファン・マヌエルの公女でれっきとしたスペイン貴族、
母親のファナは、フェリペ3世の寵臣ラーマ公フランシスコ・ゴメスの娘です。
20歳の時に、ジョアンと結婚しました。
           
ジョアンはこの時一公爵にすぎず、王女クラスとは結婚できなかったのかもしれません。
スペインも王女を嫁がせておけばね…
ちなみにフェリペ4世(3世)の王女はマリア・テレサがフランス王ルイ14世に
マルガリータ・テレサが神聖ローマ皇帝レオポルト1世に嫁ぎました。
プライオリティからいくとしょうがないか…

スペインを敵に回して王妃になるというのは、かなりデンジャラスだったのですが
忠告を受けたルイサは「公爵夫人で一生を送るより、1日でも王妃でいることを選ぶ!」と
答えています。( ”1時間 ” 説もあり)かっこいいね!

ジョアンは王として宣言しましたが、国内にはスペインから利権を得た貴族も多数いて
まだまだ安心できる状況ではありません。
1641年にはジョアン4世暗殺計画もありました。
これを阻止したのがルイサで、王妃を議会に加えるべきだという声が高まりました。

1656年にジョアン4世が亡くなると、13歳のアフォンソ6世の摂政に就きました。
アフォンソ6世は精神的に弱かったので、事実上の統治者はルイサでした。
ルイサはポルトガルの独立と自由を守ろうとし、無気力な息子を引っ張って
政府をコントロールしていました。

当時ポルトガルは、大西洋をめぐってオランダとの覇権争いがありました。
ルイサは王女カタリナをイングランド王チャールズ2世に嫁がせて
新たな同盟を結ぶという成果を手に入れます。
しかし、これは莫大な持参金と、イングランドがプロテスタントだったことで支持が得られず
メリョール伯による親仏派の執政官政治にとって変わられることになります。

でも、イングランドの後押しでブラジルを我がものにしているので
やっぱりこの結婚は、政治的には成功だったんじゃないかと…

1668年、王弟ペドロによりメリョールは失脚し、王政復古戦争を終結させて
スペインからの完全な独立を勝ち取ることができました。
この勝利には、ルイサが組織した軍隊が貢献していました。

もう少し立派な肖像画があってもよさそうなものじゃない?
絵に描きづらい方だったのか、ご本人が「そんなに閑じゃないのよ!」と拒んだのか?
後者の方ができる女っぽいですな。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル王ジョアン3世妃 カタリーナ

2010-05-19 02:13:16 | ポルトガル王妃
籠の鳥から王妃へ
ジョアン3世妃 カタリーナ・デ・アウストリア


1507~1578/在位 1525~1557

ジョアン3世の時代に、ポルトガルは日本にやって来ました。
先王マヌエル1世時代に、もともとイタリアが行っていたインド航路が復活し
イングランドの海賊も登場、交易は下降線を描いていました。
そこでジョアン3世はアジアに活路を見いだすことにします。
布教活動もその一環で、フランシスコ・ザビエルが派遣されました。

カタリーナは、カスティーリャ女王ファナの王女で
叔母のイングランド王ヘンリー8世妃キャサリンの名をもらいました。

      

女王ファナがカスティーリャから出してもらえぬ間、他の兄弟たちは
オーストリアでマルグレーテ・フォン・ハプスブルクの保護下におかれましたが
ファナはカタリーナだけは手放しませんでした。

ファナはすでに狂気に陥り、父王フェルナンド2世によってトルデリシャスの城に
幽閉されていましたから、カタリーナも一緒に閉じ込められることになりますね。

ファナはボーっとしてるだけなんだし、たぶん陰気な雰囲気だったと思うの。
カタリーナは窓の外を見て過ごす他は何もやることがなかったそうです。

18歳の時、カタリーナは従兄のジョアン3世と結婚しました。
しかし、この時まだファナは生きていました。
どうやって引き離したんだろうか? ファナは大丈夫だったのかしら?

カタリーナは9人の子供を生みましたが成長したのは2人だけでした。
王女マリアは、スペイン王フェリペ2世に嫁ぎ
王太子ジョアン・マヌエルはスペイン王女ジョアナと結婚しました。
もうっ! ハプスブルク家の思うつぼ…

1557年、ジョアン3世は心臓麻痺で亡くなりました。
ジョアン・マヌエルがジョアン3世より早く亡くなっていたため
孫のセバスチャンが3歳で王位を継ぎました。

この時、カタリーナは嫁のジョアナと摂政の座を巡ってもめたのですが
カール5世がとりなしてカタリーナを摂政に選びました。
5年間摂政を務め、エンリケ(後の1世)にその座を譲りました。

で、ここからハプスブルク家に王位が移るまでを駆け足で…

セバスチャンはとても好戦的な王で、自ら兵を率いてモロッコに遠征して
1578年に行方不明になりました。
フランスのマルゴ、神聖ローマ皇女エリザベート、スペイン王女イサベル・クララなど
いくつか縁談はありましたが、未婚で嫡子はいませんでした。

次に摂政をしていたマヌエル1世の王子エンリケが聖職から舞い戻って継ぎました。
結婚を急いだものの、ハプスブルク家が教皇に指図して結婚を認めさせず
未婚のまま2年後に亡くなりました。

そして庶子筋のアントニオ。
国民が推した国王ですが、ハプスブルク家との争いに敗れて33日間で廃位され
フランスへ亡命して一生を終えました。

ここで王冠はハプスブルク=スペイン家に移ります。
一度は王座から遠ざけられたブラガンザ家の復活を期待しましょう。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル王マヌエル1世妃 マリア

2010-05-18 01:52:06 | ポルトガル王妃
姉のあとを継ぐ
マヌエル1世妃 マリア・デ・アラゴン・イ・カステーラ


1482~1517/在位 1500~1517

マリアは姉イサベルが亡くなって2年後、王子ミゲルが亡くなったことで
イベリア半島連合王国構想の希望を失いかけたマヌエル1世に嫁ぎました。

          
父のフェルナンド2世と母イサベル1世
マリアをスコットランド王ジェームズ4世に嫁がせるつもりでした。
でも、アフリカに続いてインドまで航路を伸ばし(by.ヴァスコ・ダ・ガマ)
莫大な富を握っているポルトガルを捨て置くわけにはいきませんね!

とりあえずイングランドにカタリナを嫁がせる話も進行していたので
敵対するスコットランドの方はペンディングし、マリアをマヌエル1世に嫁がせました。

ふたりには6人のお子様が生まれています。
よかった、後継ぎも安泰だね、と思いきや…王女イサベルの結婚が
後に、ハプスブルク家に付け入る隙を与えることに

マリアは最後に王子を生んだ1年後に34歳で亡くなりました。


姪もあとを継ぐ
マヌエル1世妃 レオノール・デ・アウストリア


1498~1558/在位 (ポルトガル王妃)1518~1521 (フランス王妃)1530~1547

そんなわけで、マリアの死後は姪のレオノールが嫁いでまいりました。
マヌエル1世の死後、フランス王妃になりました。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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