まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イギリス王ジョージ5世王女 メアリー

2011-04-13 22:39:01 | イングランド王妃・王女
“ 王冠を賭けた恋 ” を応援した王女
ジョージ5世王女 メアリー
ヘアウッド伯ヘンリー夫人


1897~1965

大げさに書いちゃった…  でもね、応援はしなかったかもしれないが
少なくとも反対はしなかったんではないかと思います。

ジョージ5世と王妃メアリー・オブ・テックには6人のお子様がいましたが
女の子はメアリーひとりでした。
            
お勉強は兄弟たちに混じって家庭教師から受けていました。
男兄弟が多かったせいなのか乗馬が好きで、生涯の趣味になりました。

第一次世界大戦が始まった時はまだ十代前半でしたが、病院などを慰問して
ロイヤルファミリーの務めを果たしていました。
大戦末期の1918年には看護婦として病院勤務もしています。

24歳の時、39歳のヘアウッド伯子ヘンリー・ラッセルと結婚しました。
この時ブライド・メイドをつとめたのが『英国王のスピーチ』でお馴染み、
後のジョージ6世妃エリザベスです。

メアリーはこの結婚を渋ったらしいのですが、両親が押し切ったとも言われています。
ヘアウッド伯のどこに無理矢理結婚させたい要素があったのかしら?
そんなにいい家柄なのかしら?

兄のエドワード(8世)は「愛する人と結婚してほしい」とこの結婚に反対したそうです。
やはり後に世紀の恋をする人だけあって “ 愛至上主義 ” だったのね

そんなことがあったからか、メアリーはエドワードが大好きで
退位して王家と没交渉になってからもお付き合いを続けました。
エドワードが暮らしていたエンツェスフェルト城(ウィーン)にも夫と訪問しています。

1947年、姪にあたるエリザベス(2世)の結婚式がありましたが
メアリーは、エドワードが招待されていなかったことに抗議して参列を辞退しています。
公式には病気と発表されました。

その後のロイヤルウエディングでもシンプソン夫人が招待されていないからと
欠席したものがありました。
兄思いなのはわかりますけど、一応公式行事だからさ…

第二次世界大戦中は女性部隊ATSの統制官チーフになり
弟ケント公の死後はパップワース知事も務めました。
リーズ大学の総長にもなってます。
まさにロイヤルファミリーにうってつけのアクティブな女性ですね。

亡くなった年にスウェーデン王妃ルイーセの葬儀への参列ています。
これがメアリーの最後の公式行事参加になりました。
目の手術のためにロンドンに来ていたエドワードとシンプソン夫人も訪ねています。

息子のヘアウッド伯ジョージと散歩中、心臓発作をおこして亡くなりました。

エドワードはその7年後に亡くなるんですが
イギリス王室内の心強い理解者だった妹の死は悲しかったでしょうね。
退位後も皇室行事や式典に招待されることがありましたが
これもメアリーの力添えがあったからかもしれません。 

エドワード8世退位後後を継いだ弟のジョージ6世とエリザベス王妃の王女が
現在のエリザベス2世です。
エリザベス2世の妹マーガレット王女は2002年に亡くなっています。 

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版) 
コメント (7)
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イギリス王エドワード7世王女 ルイーズ

2011-04-12 01:15:55 | イングランド王妃・王女
わりと自由に育てられた王女
エドワード7世王女 ルイーズ
ファイフ公アレグザンダー夫人


1867~1931

ルイーズはエドワード7世とアレグザンドラ・オブ・デンマークの長女です。
ジョージ5世の妹にあたります。

祖母ヴィクトリア女王の厳格な教育に反して、エドワード7世夫妻の子育ては
けっこう自由でワイルドだったみたいです。
ルイーズは最低限の教育しか受けていません。
         
1889年に18歳年上のファイフ伯アレグザンダー・ダフと
バッキンガム宮殿内のチャペルで結婚しました。
ファイフ伯はウィリアム4世とドロシー・ジョーダンの庶子エリザベスの孫にあたります。
結婚の2日後にファイフ公に叙位されました。

1911年に一家でエジプトへ航海中、モロッコで船が難破しました。
アレグザンダーは肋膜炎にかかってアスワンで亡くなりました。

1914年から1921年まで、ドラグーン騎兵隊の名誉隊長になったっていうんすけど…
兵隊の方々を激励する役ということでしょうか?
王女だったら赤十字とか看護婦会の名誉職が与えられそうなものなのにね。

1931年にロンドンで亡くなりました。
ウィンザー城のセント・ジョージズ・チャペルに埋葬された後
夫が眠るアバディーンシャイアのプライベート墓地に移葬されました。

長男が亡くなったため、長女アレグザンドラがファイフ公を継承しています。



               
お嫁にいかしてもらえなかったお気に入り
エドワード7世王女 ヴィクトリア・オブ・ユナイテッドキングダム


1868~1935

ヴィクトリアはエドワード7世とアレグザンドラ妃の次女で
兄のジョージ(5世)とはとても仲の良い妹でした。

        

王女ですから求婚者はいたのですが、母アレグザンドラはヴィクトリアの結婚を
なんとか阻止しようと頑張ります。
ずっとそばにいてほしかったんですって…そんな親のエゴでねぇ…
結局ヴィクトリアは結婚せずに両親と過ごしました。

1910年にエドワード7世が亡くなり、1925年にアレグザンドラ妃が亡くなりました。
この時ヴィクトリア57歳、もう結婚する気なんかおきないでしょうね。
バッキンガムシャーのアイヴァーに引っ込み、いなか暮らしを満喫したそうです。

1935年に亡くなりましたが、この報せに兄ジョージ5世はショックをうけて
1ヶ月後に亡くなったということです。
もともと体調を崩して寝込んでいたそうなので、これが原因というわけではないと思うが…

三女モードはノルウェー王ホーコン7世妃になりました。
こちらはノルウェー王妃で書くつもりで資料作っちゃったので後日…

ところで、ヴィクトリア女王の王女たちに比べてエピソードが短くありません?
日記とか手紙が少なかったのかしら? 一人ぐらい残していてもよさそうなものを…
ヴィクトリア女王一家の筆まめさはすごいですね!

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス女王ヴィクトリア王女 ベアトリス

2011-04-10 18:20:13 | イングランド王妃・王女
“ 不幸なマスオさん ” を生んだ母娘愛
ヴィクトリア王女 ベアトリス・オブ・ユナイテッドキングダム
バッテンベルク公子ハインリヒ夫人


1857~1944

ベアトリスはヴィクトリア女王の四男五女の末っ子で
幼年期をアルバート公が亡くなった後の沈んだ雰囲気の中で過ごしました。

子供はみーんなそばにおいておきたがった女王ですが、とりわけベアトリスは
手放したくなかったようで、いつまでも縁談にふれようとしませんでした。
         
でも王女ですもの、引く手数多です。
フランス皇帝ナポレオン3世と皇后ウージェニーの皇子ナポレオン・ウジェーヌとは
恋の噂があって、結婚秒読みとまで言われました。
しかしナポレオン皇子は1879年に戦死してしまいました。

王太子エドワード(7世)は次女アリスに先立たれたヘッセン大公に
嫁がせようとしたりします。
そこでベアトリスはダルムシュタットを訪問しますが、ヘッセン大公ではなくて
バッテンベルク公子ハインリヒと恋に落ちてしまいました。

帰国後、ハインリヒと結婚したいと言うベアトリスに対して女王は口をきいてくれず
母娘は7ヶ月間、筆談で会話したそうです。
やっぱりヴィクトリア女王って頑固者だ…

結局ハインリヒが故国を捨てて、イギリスの女王のそばで暮らすと言う条件を飲んで
やっと結婚が許されました。
ベアトリスも、結婚後も変わらず女王の秘書の役目を務めると約束しました。

ここからは婿に入ったハインリヒの悲哀を中心に書いてみたいと思います。
長くなるのではしょっていくわね。

二人はハネムーンに出かけたけど、それは女王の別邸オズボーンハウスの近所でした。
つまり、新婚旅行中も女王に会いに行ったと思われます。
その後二人が女王抜きで旅行に出たことは無いそうです。

ハインリヒは他の王侯貴族の三男、四男同様、軍隊でキャリアを積みたいと考えていましたが
女王が阻止しました。
ハインリヒが城を抜け出して兄のルートヴィヒとコルシカに向かった時には
戦艦を差し向けてハインリヒを連れ戻してます。

いくら入り婿(状態)だからって、好きな仕事をさせてあげればいいじゃないね!

実際、妻のベアトリスは結婚後もフルタイムで秘書として女王にべったりついてました。
王女の婿っていうだけで特にやることもない毎日にうんざりする気持ち、わかりますよね。

女王は、ヒマそうな婿に仕事でも…とハインリヒをワイト島の総督に任命しましたが
ワイト島は女王のお気に入りの別荘オズボーンハウスがあるところです。
子供の使いみたいな役職ですよね。

結局、どうしてもアシャンティ遠征に参加したい!というハインリヒの熱望に負けて
女王は軍隊への参加を許しましたが、女王一生の不覚…すごく悔やんだことでしょう。

遠征に向かってから1年後の1896年、ハインリヒはマラリアで亡くなり
報せを聞いてマデイラ島にかけつけたベアトリスのもとへ亡骸になって運ばれました。

ハインリヒったらかわいそう…
まさかこんなに母娘ベッタリだとは思っていなかったでしょうね。

ベアトリスは喪が明けると健気にも女王のもとへ戻り秘書役を続けました。
女王も彼女を信頼し、母娘の絆はますます深くなったようです。

でも、1901年に女王が亡くなるとベアトリスの境遇も変わります。
ここからは駆け足でいきますね。
もともと兄弟姉妹と仲が良くなかったと言われるベアトリスは
兄のエドワード7世とも疎遠でした。

エドワード7世は女王のお気に入りだったオズボーンハウスを売ろうと考えたり
女王とベアトリスの共通の趣味だった写真を人目に触れないよう処分しようとします。
ベアトリスは宮廷には顔を出していましたが、女王時代よりポジションは低くなりました。

エドワード7世は王太子時代、まったく政治に関わらせてもらえなかったそうなので
側で重要な役目を演じていたベアトリスのことが恨めしかったかもね…

晩年は13年がかりでヴィクトリア女王の日記の編纂をしたり
母方の曾祖母アウグスタの日記を翻訳して出版しました。

1944年に87歳で亡くなりました。

なお、甥ジョージ5世の時代に、イギリス王室はサクス=コバーク=ゴータというドイツ名から
ウィンザーというイギリス名に改名しています。
ベアトリスも家名をバッテンベルクからマウントバッテンに改めました。

子供は三男一女おりまして、娘のヴィクトリア・ユージェニー
スペイン王アルフォンソ8世妃になりました。
ですので、現イギリス女王エリザベス2世とスペイン王ファン・カルロス1世は
遠い親戚になりますね。
お互いの配偶者も親戚同士となっております。
         

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス女王ヴィクトリア王女 ルイーズ

2011-04-08 23:34:30 | イングランド王妃・王女
カナダでは不人気だったらしい・・・
ヴィクトリア王女 ルイーズ
アーガイル公ジョン夫人


1848~1939

ルイーズはヴィクトリア女王の四女です。
小さな頃から知性と芸術的才能あふれる王女でした。

         
父アルバート公が亡くなると、もちろんルイーズも喪に服しましたが
なにせ女王は長~く喪に服したもので、若いルイーズはだんだん飽きてきます。
いつまでも宮廷が暗い雰囲気なのもいやでした。
そこで自分の17歳の誕生日は舞踏会を開いてデビューをお披露目したいと
女王にせがんでみましたが、これはあえなく却下されてしまいました。

外国の宮廷を訪問するもの飽きたし、退屈しのぎに…というわけではないでしょうが
ルイーズは弟レオポルドの家庭教師ロビンソン・ダックワースと恋に落ちます。
しかしこれは女王にバレてダックワースは飛ばされました。

女王は早速結婚相手選びを始めます。

王太子妃アレグザンドラは兄のデンマーク王太子フレデリク(8世)を推し
長女ヴィクトリアはプロイセン公子アルブレヒトを推しますが
いずれも女王は強く反対します。
アルバート公はオラニェ公子ウィレムを推しましたが、愛人問題があってダメでした。
ちなみにアルブレヒトとウィレムは、次女アリスの時も候補にあがってます。

この間、ルイーズはどの候補にも興味を示しませんでした。
どうやらすでにローン侯ジョン・キャンベルと結婚したいと考えていたようです。

この結婚には王太子エドワード(7世)が政治的な理由で猛反対しました。
ローン候の父親は熱烈なグラッドストーン支持者でした。
王家は女王を筆頭にディズレイリ支持でして、家族間に論争がおこるのを嫌ったからです。
けれども “ 鶴の一声 ” と言いましょうか、女王が強く後押しして結婚が決まりました。

ルイーズとローン候は1871年に結婚し、母親の希望どおりご近所で過ごしていましたが
1878年、宰相ディズレイリはローン候をカナダの総督に指名します。
母親から離れたい本人たちの希望によるものか、反対派の息子の粛正かはわかんないけど
とにかく二人はカナダに向かって旅立ちました。

ところが、ロイヤルファミリーの一員がやって来たというのに
カナダは歓迎ムードではなかったみたい…
どうやらカナダでは、王家のために強いられる財政的な負担に怒っていたらしいです。

しかも着いて早々ローン候の秘書が記者たちに手荒なことをしてしまって
ルイーズたちとプレス関係者との関係は悪化しました。
良く書いてもらわなきゃいけない時にとんだ失敗ですね
(でもルイーズたちの指示ではないらしい)

大好きなドラマ『アヴォンリーへの道』を見ていたら
イギリスの貴族や王太子様がやって来るといえば大歓迎ムードだったんだけどな…

カナダで暮らしている間、ローン候は常にルイーズより上席に位置を占めて
会議などでもルイーズを一般参列者と同じ扱いにしていました。
たぶんイギリスではルイーズの方が位が上なので逆だったと思うのよね。
ローン候にとっては誇らしい時期だったのでは?

ルイーズとローン候は、不評の中イメージアップしようかと考えたのか
パーティーや舞踏会を開催しましたが、これがまた不評を招きました。
酔った演奏家がカーテンを燃やしちゃったり
一般人の出入りも許したことで上流人たちからは大ブーイングがおこったりと完全に裏目…

ルイーズは橇で大けがをしたりと、カナダ時代はあまりいいことが無かったようですね。
1883年にカナダでの生活を終えてイギリスに帰国しました。

かなり長くなってきたので帰国後の生活はさらに端折っていきますよ。

まず、議員になった夫は兄の王太子エドワードと相変わらず仲が悪く
ルイーズとも政治的な意見が合わなくなって別居することになります。
また、事実はわかりませんが、妹ベアトリスの夫にちょっかいを出したことで
ベアトリスやヘレナとも仲違いをしました。

女王の個人秘書ビガ、彫刻家ボーエン、美学生ラッチェンス、名も無い音楽家などとの
恋の噂がありましたが、いくつかはベアトリスによって女王にチクられました。

1900年、ローン候はアーガイル公になりましたが、金銭的には困っていたようです。
女王が生きていた時には70人の使用人と74匹の犬がいたという領地インバラレイの屋敷は
エドワード7世の代になってから4人の使用人と2匹の犬しかいませんでした。
城や屋敷は建てるのも大仕事ですけど、その後の維持費が大変ですよね。

アーガイル公は1911年から老衰状態になり、ルイーズは献身的に看病して
ふたりは新婚当時のような睦まじい夫婦に戻ったといいます。

夫の死後はケンジントン宮殿に移りました。
いがみ合っていた妹ベアトリスの隣の部屋だったそうなんだけど…
わだかまりは解けていたかしら。

神経衰弱になったようですが、王家が参列する公の場にはちょこちょこ顔を出しました。
1937年(89歳)以降は人前に出なくなり、1939年に亡くなりました。

かなりかいつまんで書いたのに…長かった~
最後まで読んでいただきありがとうございました。

                
               おまけ…晩年のお年を召してからの肖像画
                     まさにロイヤルって感じですね


(参考文献 小林章夫氏『イギリス名宰相物語』 Wikipedia英語版)
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イギリス女王ヴィクトリア王女 ヘレナ

2011-04-07 22:14:14 | イングランド王妃・王女
王家を二分する結婚相手を選んだ
ヴィクトリア王女 ヘレナ・オブ・ユナイテッドキングダム
シュレスヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスチャン夫人


1846~1923

ヴィクトリア女王の三女ヘレナは父親似で、乗馬やボートが大好きな活発な少女でした。

ヘレナは、たぶん十代前半で父親の司書カール・ルーランドの恋人になったみたいです。
13歳の時にはルーランドを廷臣にとりたてるよう願い出たりしています。
おませさんね しかしこれは女王にバレてルーランドはドイツに飛ばされました。

       
「こりゃいかん」と思ったのか、女王はこの事件後ヘレナのお相手選びを始めます。
ヘレナの縁談は注目されましたが、三女ともなると外交的にはちょっと弱い駒でした。

女王はどうしてもヘレナに側で暮らしてほしいと考えて、シュレスヴィヒ=ホルシュタインの
クリスチャンを選びました。 三男だから領土を継承する可能性は低いものね。

しかしこの縁談は外交上非常に具合が悪いものでした。
当時シュレスヴィヒ=ホルシュタインはデンマークとプロシアが
激しい争奪戦を繰り広げていました。
王太子エドワード(7世)の妃はデンマーク王クリスティアン9世王女アレグザンドラです。

兄嫁と妹の夫の実家が戦争中なんて、中世じゃあるまいし…ってわけで
エドワードはもちろん反対、長女ヴィクトリアは賛成、
次女アリスは反対、と兄弟姉妹は二分されてしまいました。
どちらかというと反対が多かったようですが、女王は押し切ります。
結局1865年に婚約し結婚しました。

アレグザンドラ妃はぶーたれていましたが、二人の結婚生活は幸せなものでした。

何か肩書きがないとね…というわけでハイ・スチュワードの役職と万博の王家代表の役目を
与えられたクリスチャンでしたが、実は狩猟をしたり犬の世話をしたりという
アウトドア仕事の方が好きだったようで、しばしば委員会を欠席してました。

もともとからだが弱かったヘレナはだんだん薬に頼るようになっていきます。
1869年には駅で倒れて母親の別荘への訪問をキャンセル、翌年にはリューマチ発症
その翌年には肺にうっ血が見られるようになりました。
女王は夫の怠け癖のせいだとクリスチャンを責めました。

後年は他の王女たち同様、学校を建てたり医療問題に尽力したりと
慈善活動に力を注ぎました。
看護婦会の会長の座をめぐっては王妃アレグザンドラと争っています。
ヴィクトリア女王の死後だったので、やはり負けちゃいましたが…

無理矢理結婚したせいか、兄弟姉妹たちとの仲はあまり良くなかったようです。

1916年にクリスチャンと金婚式を迎えましたが、翌年夫は亡くなります。
最晩年には女王に贈られたカンバーランド・ロッジから
経費的な問題で追い出されそうになったりしてました。

亡くなったのはロンドンのションバーグ・ハウスです。

1901年にヴィクトリア女王が亡くなった後は少し肩身がせまかったんじゃないかしらね。
兄王エドワード7世は1910年に亡くなってますが、仇敵の王大后アレグザンドラは
ヘレナの死から2年後に亡くなってますのでね…その息子(ジョージ6世)が王だし…
そういえば1901年後のロイヤルファミリーとしてのエピソードはあまりないのよね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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イギリス女王ヴィクトリア王女 アリス

2011-04-05 01:46:31 | イングランド王妃・王女
子供ベッタリの母親との確執に悩んだ王女
ヴィクトリア王女 アリス・オブ・ユナイテッドキングダム
ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃


1843~1878/在位 1877~1878

ジョージ4世を継いだウィリアム4世は、長年の内縁の妻ドロシー・ジョーダンとの間に
10人の子を生したのですが、王妃アデレイド・オブ・サクス=マイニンゲンとの間に生まれた
2人の王女シャーロットとエリザベスはいずれもすぐに亡くなってしまいました。

そんなわけで後を継いだのがウィリアム4世の姪ヴィクトリア女王です。

筆まめ、手紙好きのヴィクトリア女王&王女たちにはエピソードがてんこ盛りで
全部書いたら大変なことになるので、各々をよく表すことだけに絞りますね。

ヴィクトリア女王はどうやら家族をみ~んな自分の側において(管理して)おきたいと
考えていたようですが、さすがに長女・次女あたりは外国に嫁がせても仕方がないかもね…
というわけで、長女ヴィクトリアはドイツ皇帝フリードリヒ3世に嫁ぎ
次女アリスの縁談には1860年にとりかかりました。

女王は常々「娘は愛する人に嫁がせたい」と公言していましたが、だからといって
誰でもいいわけじゃなく、 “ 各王侯家の ” 愛する人っていう意味でした。

姉ヴィクトリアは女王の要望でオランダ王子ウィレムとプロイセン公子アルブレヒトを
見繕いましたが、相手が二人とも渋ってうまくいきませんでした。

       
従兄弟のポルトガル王子ペドロ(5世)との縁談もありましたが
女王はものすごいアンチ・カトリックで相手にしませんでした。
           
再び姉ヴィクトリアの見繕いでヘッセン大公ルートヴィヒの甥のルートヴィヒが
ウィンザー城に招かれ、1861年に婚約が決まりました。

しかし、アリスの結婚式は惨憺たるものでした。
婚約した年の暮れに父のアルバート公が亡くなってしまったのね。
女王は結婚式は延期しなかったものの、悲しみに暮れてカーテンの後ろから出てこないし
アリスは式の時だけ白いドレスで後は喪服だったし、付き添いの姉妹は泣きじゃくり…で
まるでお葬式のようだったという記録もあります。
       
とりあえず新婚時代は幸せだったようで、アリスは招かれて女王に会った時
幸福さが隠しきれなかったため、まだ喪に服している女王の機嫌を損ねてしまいました。

この後アリスはさらに女王との仲が悪化していきます。
すごーくはしょりますけど、子供を母乳で育てようとして母乳反対派の女王が怒ります。
ドイツで家庭を築いたアリスの里帰りが少ないと言って女王むくれます。
アリスが妹たちの結婚で反対意見を言ったので、女王ますますムカつきます。

てなわけで、後に夫と政治的思想が食い違って別居したアリスがイギリスに帰った時
女王はあからさまに「邪魔なのよね」という態度を示しました。
根に持つ性格だったのかしらね…ヴィクトリア女王

別居中で懐が苦しかったのか、アリスは再びイギリスに行きたいと手紙を送りますが
女王はきっぱり断っております。

1873年、アリスのお気に入りの末っ子ルートヴィヒが転落死してしまい
このころから体調を崩し始めました。

1878年に女王の招待で一家揃ってイーストボーンに滞在したアリスは
ダルムシュタットに帰る前、女王に会いに行きましたが
これが母娘の最後の面会になりました。

その年の暮れ、ダルムシュタット宮廷ではジフテリアが流行りました。
アリスの子供たちも次々罹り、末娘マリアが亡くなります。
看護婦が直接触れてはいけないと忠告したにもかかわらず
10歳の公子エルンストを抱きしめてキスをしたアリスも罹病してしまいます。

アリスは「愛するパパ」という言葉を最後に昏睡状態に陥り亡くなったそうです。
アルバート公が生きていたら、アリスの人生はもう少し穏やかなものになったかも…
女王も子供一辺倒にならずにすんだかもしれないしね。

さすがの女王もアリスの死にはショックをうけたそうです。

アリスには7人のお子様がおりました。
主だったところをあげてみますと次女エリーザベトはロシア皇帝アレクサンドル2世皇子の
ロシア大公セルゲイ妃に、三女イレーネは姉ヴィクトリアの皇子ハインリヒに嫁ぎました。
そして四女アリックスがロシア皇帝ニコライ2世妃になり、非業の最期をとげます。

長生きして娘の悲報を聞かずにすんで、幸せだったかもしれないですね。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ4世王女 シャーロット

2011-04-04 00:58:34 | イングランド王妃・王女
親の不仲に翻弄された恋多き王女
ジョージ4世王女 シャーロット・オブ・ウェールズ
ベルギー王レオポルド1世妃


1796~1817/在位せず

この項、家系図いっぱいですみません…
とにかく、全部エピソードを書くとすご~く長くなるので、すごくかいつまんでいきますね。
よく知られている件は省いて、主に恋愛事情を中心に書こうと思ってます。

シャーロットは、愚王&愚王妃(真偽はともかく)として語り継がれるジョージ4世と
キャロライン・オブ・ブルンスウィックの唯ひとりの子供です。
       
たった3度のベットインでシャーロットが生まれた後は別居街道まっしぐらの
父ジョージと母キャロラインは、お互い娘を自分の方へ引き入れようとしながらも
自分の事に忙しく、娘のことは他人任せでした。
そのせいで奔放に育っちゃった、と見る向きもあります。
それでもまだキャロラインの方が、許される限り娘に会いに出向いていたようです。

1810年、シャーロットが大好きだった祖父ジョージ3世の狂気が一層深刻になり
多くの反対派が阻止を試みる中、父ジョージが摂政になりました。

はしゃいだジョージは15歳になったシャーロットを見せびらかそうと着飾らせ
連れ立ってオペラに出かけましたが、シャーロットは途中で席を立ってしまったという
エピソードがあります。 ブーイングがひどかったみたいですね。

摂政になって忙しくなったジョージは、シャーロットがキャロラインと頻繁に会わないように
ウィンザー城にいるオーガスタソフィアのもとへシャーロットを預けました。
シャーロットは、すぐに従兄弟のジョージ・フィッツクラランスにの夢中になりました。
ジョージは叔父クラランス公ウィリアム(後の4世)とドロシー・ジョーダンの庶子です。

その後は騎馬連隊中尉チャールズ・ヘッセに心を移しました。
チャールズは叔父ヨーク公フレデリックの庶子だと言われていた男性です。
         
嫡出子も婚外子も関係なく、いとこ同士がおばさんの家に終結してたってことかしら?
けっこうオープンな環境ですね。

シャーロットとチャールズは何度もこっそりデートをしていて
家庭教師のレディ・クリフォードはハラハラしていましたが
母キャロラインは恋する娘の情熱に感激して、自分の部屋を貸してあげたりしたそうな…
この恋はヘッセがスペイン遠征に出兵したことで終わりをむかえました。

シャーロットがそんなふうに青春を謳歌していた頃
ヨーロッパではナポレオン旋風が吹き荒れていました。
摂政ジョージも外交上シャーロットの結婚を考え始めました。

ジョージはヨーロッパ北西部でイギリスの影響力を強化するため
オランダ王ウィレム1世の王子ウィレム(後の2世)との縁談を考えました。
         
シャーロットは自分が将来イギリス女王になることを意識していて
外国の男性との結婚を渋ります。
どうやらグロスター公ウィリアムと結婚するつもりだったみたいですが
彼は叔母のメアリーと結婚しちゃいました。

そんな時、シャーロットはロンドンのホテルで開かれたパーティーで
ロシア騎兵隊のレオポルドに出会い夢中になってしまいました。
レオポルドはサクス=コバーク=ザーフェルト家の出身で、後にベルギー王になります。

ここから細かいエピソードは省きますが、父ジョージはオランダ王子ウィレムを推し
母キャロラインはレオポルドを推して、諍いがおこります。

シャーロットは、ウィレムが母キャロラインをオランダに招いちゃダメ!と言ったとかで
勝手に婚約を破棄したりして反抗しました。
結局世論と摂政反対派の後押しでウィレムとの縁談は無くなりました。

1816年、ジョージはシャーロットにレオポルドとの結婚の許可を与えて
レオポルドをイギリスに招きましたが、オランダ王子への手前二人きりにはしないで
晩餐の席でだけ会うように限定しました。

その年に結婚したふたりはラブラブモードで、シャーロットはレオポルドのことを
完璧な恋人 と呼び、レオポルドは “ 狩猟の時以外はいつも一緒だ ” と書いてます。

前から思っていたんだが、ラブラブな王侯夫婦には不幸が訪れるものなのよね…

シャーロットは一人目の子供を流産した後、1817年に再び妊娠しました。
ものすごく気をつけたみたいで、ほとんど動かずモリモリ食べていたシャーロットに
医師団が食事制限をします。

予定日は10月19日なのに、子供はなかなか生まれませんでした。
シャーロットは食事制限のせいでかなり弱っていたようです。
そして、11月5日にものすごく大きな王子を死産しました。
ここで医師団の大ミステイク! 母胎は大丈夫ということで引き上げちゃったのですが
シャーロットは夜中すぎに苦しみだして亡くなりました。

レオポルドは長い間立ち直れず、イギリス中が喪に服したそうです。
裁判所や商店も2週間開かれず、貧しい地区の人々も喪章をつけました。
ふられたウィレムさえ涙を流し、ウィレムの妃アンナ・パウローナ
オランダ宮廷を喪に服させました。
父親の不人気ぶりからは考えられないですね。

長生きしてジョージ4世の後を継いでいたら、人気者の君主になったかもしれません。

妊娠中の食事制限から出産後のケアと、重大なミスを犯した医師団ですが
主治医クロフトは罪に問われず、摂政ジョージも責めませんでした、が
3ヶ月後にピストル自殺しました。
人気者を殺してしまったという罪の意識? 悪意ある風評に絶望したのでしょうか?

(参考文献 デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』
      森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ3世王女 アメリア

2011-03-30 23:32:39 | イングランド王妃・王女
弱り果てた父王にとどめを刺した王女
ジョージ3世王女 アメリア・オブ・ユナイテッドキングダム


1783~1810

アメリアはジョージ3世とシャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの六女です。
一番年が近い姉ソフィアとは6歳違い、長男ジョージ(4世)とは21歳離れていました。
父王ジョージ3世のお気に入りでエミリーと呼ばれていました。

アメリアは生まれた時から可愛いと賞讃され、間違いなく魅力的になると思われていました。
小さな時から自分の立場がわかっていて、大女優サラ・シドンズが
「可愛いベイビーにキスさせて」とせがむと、即座に小さな手を差し出した、
という逸話がございます。

               
                ほーら!可愛いでしょう!!

アメリアはたいてい姉のメアリーソフィアとすごしていました。
年少の3人は箱入りとはいえ年長の3人より少しだけ両親の手綱が緩んでいたようで
かなりのお転婆さんだったようです。

何度もジョージ3世一家のポートレートを描いていた画家ゾファニーは、
年少の3姉妹を書いた時かなり苦労をしたみたいで
その後彼女たちの絵を描くことはありませんでした。

アメリアが5歳の時ジョージ3世が初めて精神疾患からくる発作を起こしました。
兄達の素行は乱れていろいろな問題を起こし始めます。
王一家は、仲良く団らんを…というわけにもいかなくなっていきます。

そんな中でも人々の期待通りに美しく成長したアメリアですが
15歳の時に結核の兆しがでて、健康が衰え始めました。
でもアメリアだって年ごろの女性ですもの、20歳の時に恋をします。
相手は21歳年上のチャールズ・フィッツロイです。

         
チャールズは遡るとチャールズ2世とバーバラ・ヴィリアーズの庶子にたどりつきます。

母シャーロット王妃は使用人からこの件を聞かされましたが目をつぶり
ジョージ3世の耳に入らないように気を配りました。
アメリア自身は、チャールズとは結婚できないとあきらめていました。
(こっそり結婚していた、という説もあります)

25歳の時、はしかの後沈みがちになったアメリアは、
母シャーロット王妃とウィンザー城に籠っていることにも気が滅入ってしまいました。
そこでウェイマスの海岸に保養に出かけることにします。

ウェイマスで良くなったり悪くなったりを繰り返していましたが、1810年の10月には
とうとうベットから起き上がれなくなってしまいました。
アメリアは瀕死状態の中で、自分の髪の毛とクリスタルとダイヤモンドで
ジョージ3世のために指輪を作り、姉メアリーの到着を待って亡くなりました。

ジョージ3世は王子達の悪行のせいで度々狂気に陥っていましたが
アメリアの死はさらにダメージを与えることになって再起不能状態になりました。

ジョージ3世は評価も高く、品行方正で浮気をせず、よき家庭人でもあったのに、
また、シャーロット王妃も母性に溢れた優しい女性だったというのに、
なぜに子供たちがかなりの確立で上手く育たなかったのでしょうね?

裏を返せばジョージ3世の子供達は、壮大な夫婦喧嘩・人妻との同棲・歓楽街でのご乱交など
王家としては人には見せたくない部分を自ら暴露していたようなものですね。
ある意味開かれた王室に近づきつつあったと言えましょう。 言えるのか?

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ3世王女 ソフィア

2011-03-27 17:10:16 | イングランド王妃・王女
禁断の愛に生きた(かもしれない)王女
ジョージ3世王女 ソフィア・オブ・ユナイテッドキングダム


1777~1848

ソフィアはジョージ3世とシャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの五女です。

ソフィアも年長の4人の王女同様、母親の側を離れず箱入り状態で成長しました。
王女達は宮廷の外の人々と関わりを持つ事を許されずに育ちました。

幼い兄弟姉妹が仲睦まじく戯れる光景は見ていて微笑ましいでしょうが
あまりに閉鎖的だと、ちょっと問題有りですよねぇ…

家庭的で母性愛あふれる母親だったというシャーロット王妃ですが
まず、王子達は長じるにつれけっこう放蕩になっちゃってます。

長男ジョージ(4世)はエリザベス・カニンガムフィッツハーバート夫人など
数々の愛人がおりましたし、次男ヨーク公フレデリックは愛人を通じて贈収賄スキャンダル、
三男ウィリアム(4世)は女優ドロシア・ジョーダンとの20年の同棲、
四男ケント公エドワードはサン・ローラン夫人と27年の同棲、五男はおいといて…
六男サセックス公オーガスタスは親と議会の承認を得ずに二度の恋愛結婚、てな具合です。
七男のケンブリッジ公アドルファスについてはよくわかりませんが
44歳で初婚だからそれまでは独身貴族を謳歌していたんじゃないかしら…

ちなみに、王子達が一時期にバタバタと結婚したのは
ジョージ4世のたった一人の王女シャーロットが嫡子を遺さず亡くなったので
継承者をつくる必要性に駆られて…でございます。

王女たちも極度の人見知りになったり、婚期が遠のいちゃったりしてますよね。
     

そしてソフィアですが、彼女はさきほど王子のところで飛ばした五男の
カンバーランド公アーネスト(後のハノーヴァー王)との関係が取沙汰されました。
つまり近親相姦ということです。

1800年にソフィアが生んだトマス・ガースの父親は、英国議員ジョン・ガースと
されていますが、本当はアーネストだという噂もありました。
(元も子もないけどソフィアが生んだ子ではないという説もあります)

この噂は熱烈なトーリー(党)支持者だったアーネストを陥れようとするホイッグ(党)によって
バンバン世間に流されました。
アーネストは素行の悪さ、女性関係の問題で有名でしたので
すんなり信じた人も多かったかもしれません。 しかし証拠はありません。

晩年はケンジントン宮殿の姪ヴィクトリア(後の女王)の側で暮らし
1848年にケンジントンのヴィカレージ宮殿で亡くなりました。
彼女の死後、金銭の管理をしていたジョン・コンロイ卿がほとんどの金を
横領していたことが発覚しました。
事実上ソフィアには何ひとつ残っていなかったそうです。

ソフィアの希望でウィンザー城の墓所ではなく、ロンドンのケンサルグリーン共同墓地の
兄サセックス公オーガスタスの側に埋葬されました。
も、もしかして別の兄ともっ?… ということはないと思いますけど…

イギリス王家も次第に国民との関わりが増えていく過渡期にあったと思います。
あまりにも世間知らずに育てちゃった親の罪は大きいですね。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ3世王女 メアリー

2011-03-26 20:18:06 | イングランド王妃・王女
長女のせいで初恋かなわず・・・
ジョージ3世王女 メアリー
グロスター公ウィリアム・フレデリック夫人


1776~1857

メアリーはジョージ3世とシャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの四女です。
バッキンガム宮殿で生まれました。
子供の頃は概ね年長の王女3人と同じように教育されていたようです。

メアリーはジョージ3世の6人の王女たちの中で一番美しかったと言われています。

       
17歳で宮廷デビューしたメアリーは、20歳前後の時に恋に落ちました。
お相手はロンドンに亡命中だったオランダの公子フレデリクです。
メアリーの祖父とフレデリクの祖母は兄妹なのではとこ同士になります。

後のオランダ王ウィレム1世の弟ですし、結婚相手として申し分ないと思うんですけど
メアリーの恋はかないませんでした。
ジョージ3世は「娘は生まれた順に結婚させなきゃ!」と決めていたらしいのね…
この時、長女シャーロットをはじめ、次女オーガスタも三女エリザベスも未婚でした。

メアリーは「お姉様たち、早く結婚してくれないかしら 」などと思いながら
じりじり待っていたことでしょう。
しかしフレデリクは1799年、従軍中に感染症で亡くなりました。
メアリーは公式に喪に服すことを許されています。
ということは、やはり結婚は許可されていたのでしょうね?

メアリーは40歳の時、いとこにあたるグロスター公ウィリアムと結婚しました。
三女エリザベスより2年早く結婚していますけど…
この年になったら順番なんかどうでもよかったんでしょうか?

ウィリアムはメアリーと同じ年ですが初婚です。
彼は長女のシャーロットと結婚しようと思ってずっと独身でいたのですが
シャーロットがヴュルテンベルク公(王)フリードリヒ1世と結婚してっしまったので
メアリーと結婚することにしたそうです。
ひどいね…王女なら誰でも良かったってことですか?

実はウィリアムったらストックホルム滞在中にKoskull男爵の娘オーロラ・ウィルアミーアと
恋の噂があって、スウェーデン王妃ヘドウィグは「二人は結婚する」とまで言っていました。
しかし、ウィリアムは王妃に「あなたの娘だったら結婚しますけどね」と言ったそうです。
やっぱりターゲットは王女だったのか…
       
兄弟姉妹の中では王太子ジョージ(4世)と極めて仲がよくて、一緒になって
王太子妃キャロライン・オブ・ブルンスウィックをこき下ろしていました。
キャロラインがイタリアに旅立った時には “ これで二度と顔を見なくてすむ ” と言ったとか…
しかし、夫ウィリアムは王太子妃キャロラインの支持者でした。

この夫婦、実は仲が悪かったんですかね?
もともと愛のない結婚だったみたいだし…  お子様はいませんでした。

結婚から16年後、ウィリアムが亡くなると、メアリーはバグショットパークの邸宅から
リッチモンドパークのホワイトロッジに移り住みました。
姪のヴィクトリア(後の女王)のお気に入りの叔母だったそうです。

ジョージ3世の15人の子供達の中で最後まで生きていたのはメアリーです。
そして最も長生きでした。
81歳の時、ロンドンのグロスター・ハウスで亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ3世王女 エリザベス

2011-03-23 01:48:31 | イングランド王妃・王女
親元を出るために結婚…ていうパターン
ジョージ3世王女 エリザベス・オブ・ユナイテッドキングダム
ヘッセン=ホンブルク伯フリードリヒ6世夫人


1770~1840

エリザベスはジョージ3世とシャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの三女です。
バッキンガム宮殿で生まれました。

           
エリザベスも姉シャーロットオーガスタ同様、ものすごい箱入り状態で育ち
いつも家族と一緒でした。
年長の3人姉妹は出かける時、いつもお揃いのような色違いの服を着ていました。

シャーロット王妃は政治的なことには口をはさまず、家族に愛を注いだ人で
倹約家でもありました。
しかしいくら倹約したところで子供が15人、うち王女は6人、お金かかるったら…
だってドレスに合わせて靴でしょ、帽子・手袋・扇子・ポーチ…それを
年長の王女たち3人が一気に買ったら大変な出費ですよね。
てなわけで、王女たちのドレスはお出かけのときも普段着みたいなものでした。
家にいるときは着替えず、1日中ガウンで過ごすこともあったようです。

次女オーガスタはそんな生活が嫌いでなかったような気もしますが
エリザベスはいやだったみたい。

42歳の時、バークシャーの小修道院を自分の邸宅用に購入してます。
これは親元から離れようという試みですかね?

そして、私も何度も年号を確認したのですが、間違いなく44歳の時に
ヘッセン=ホンブルク方伯子フリードリヒ(6世)と出会って48歳で結婚しました。

エリザベスは宮廷の舞踏会でオーストリア将校の制服に身を包んだフリードリヒを見た時
そのエレガントさに心奪われ「あの方が独身だったら結婚したい」と言ったとか…
フリードリヒは当時45歳、そして独身! 奇跡のような出会いですね。
そんなに素敵な人がその年まで未婚だなんて!! なにか理由があったりして…
ていうことはなく、軍務に明け暮れていて結婚が遅くなったみたいです。

しかし、まわりからは反対されます。
ヘッセン=ホンブルク家はヘッセン=ダルムシュタット家の傍系で
フリードリヒの母方(ヘッセン=ダルムシュタット家)の方が家柄がいいみたい。
そんなに悪い家柄ではないけれど、やはり王女とは釣り合わない?

1818年、そんな反対は押し切ってふたりはバッキンガム宮殿のチャペルで結婚しました。

エリザベスは家から出ることができたし、フリードリヒの出世には大きく貢献するし、
というわけで、この結婚はお互い満足できるものでした。
年も年ですし、ラブラブ、というわけではなかったようですけど…

結婚から2年後、フリードリヒがヘッセン=ホンブルク方伯になりました。
221平方kmの領地の君主になったということだけど、どれくらいの大きさなんでしょ?
と思いまして調べてみましたら…中国の重慶江北区と同じみたい。
わかりやすいところでいくと、大阪市がありました。
うぅぅむ…君主と言っても市長さんクラスってことね、小さかないけど…微妙。

しかしホンブルク宮廷に落ち着いたエリザベスは、英国の堅苦しい作法にはおさらばし
自分好みのスタイルに囲まれて楽しく過ごしたようです。

いくら母シャーロット王妃が倹約家だったとはいえ、ホンブルクの宮廷は
英国宮廷とはくらべものにならないほどこじんまりしていたと思いますが
エリザベスにはホンブルクの暮らしがマッチしていたみたいですね。

フリードリヒは結婚から9年後に亡くなりました。
子供はいなかったので英国に帰っても良かったのでしょうが、エリザベスは帰らず
1840年にフランクフルトで亡くなりました。

身分違いの結婚… ロマティックなようで、やってみるとけっこう大変だと思うよ。
エリザベスの結婚は上手くいって良かったですね。
あ! これも倹約的に育てられたおかげでしょうか?

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ3世王女 オーガスタ

2011-03-19 21:52:05 | イングランド王妃・王女
家族大好き! の箱入り娘
ジョージ3世王女 オーガスタ・ソフィア・オブ・ユナイテッドキングダム


1768~1840

オーガスタはジョージ3世とシャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの次女です。

       
生まれた時から「可愛い、可愛い」と賞讃され続けていたオーガスタは
お年頃になると姉シャーロットとともにキュー宮殿で教育を受けるようになりましたが
教育係のミス・プランタはオーカスタが大のお気に入りで
“ 容姿端麗姫(直訳 ) ” と呼んでいました。

これだけ美しいと言われて持ち上げられていたら傲慢になりそうだけど
オーガスタは痛々しいほどにシャイで、人前でうまく話すことができませんでした。
それでなくてもジョージ3世とシャーロット王妃は娘たちを箱入りで育てていたわけで
人付き合いも家族や使用人など限られていってしまいますよね。

そんなこともあってか、オーガスタは人間関係を築くのは上手くなかったようです。
お行儀よく静かにしていたかと思ったら急に癇癪をおこして使用人をぶったりするし
気分がコロコロ変わりました。

14歳で公式セレモニーにデビューした時は人々の多さに怖れをなし
15歳で姉シャーロットと妹エリザベスとロイヤル・アカデミーの展覧会に出かけた時には
前の年に亡くなった2人の弟オクタヴィウスとアルフレッドの肖像画を目にして
人目も憚らず泣いて取り乱したといいます。 激情型の人だったのかしらね?

オーガスタは十代に入ると人並みに劇場や宮廷などに顔を出すようになりますが
家族といる時が一番幸福だったらしく、弟たちや妹エリザベスとの時間を愛していました。
また、ハノーヴァーで軍の訓練を受けていた兄ウィリアム(4世)のことも大好きで
何通も手紙を書いては送り、返事をもらうと浮かれていました。
母シャーロット王妃は、彼女が他のことをないがしろにしていると心配して
ウィリアムに返事を出さないようお願いしたほどでした。

適齢期に入ると、美しいと言う評判のオーガスタは引く手数多だったはずです。
王女だけど長女じゃないから少し敷居も低いしね。

スウェーデン王子フレドリク・アドルフは、スウェーデン宮廷の承認も得ないで
個人的に求婚してきました。

しかしジョージ3世はオーガスタへのすべての求婚を断ります。
どんなにまわりがやいやい言っても断固拒みました。
なぜかっていうと… ジョージ3世は、娘は順番に結婚しなきゃ! というお考えだったのね。
姉のシャーロットはまだ未婚でしたので、オーガスタの番はまだ、ってことになります。

また、デンマーク王家とはこれまで姻戚を数多く結んできたのですが
ジョージ3世の妹キャロラインのこともあって、縁談に関する話しは打ち切りになりました。

そんなことをしている間にオーガスタも未婚のまま中年期にさしかかりまして
“ ノミのサーカス ” のパトロンなんかをしながら晩年を過ごし、72歳で亡くなりました。
ノミのサーカスって…トムとジェリーで見たあれですかね? 虫眼鏡で見る…

姉シャーロットが結婚した時オーガスタは29歳ぐらいだから
その気になれば相手はいたと思うんですけどね…

家族が大好きだし、いつまでも家にいたら迷惑かける… という庶民と違って
生まれ育った英国王室にどっぷり浸かっていた方が知らない宮廷に嫁ぐより
気が楽だったかもしれませんね。

お美しいのでスキャンダルチックなエピソードはないものかと探してみましたが
見当たりませんでした。
本当に引っ込み思案なお姫様だったのかもしれません。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ3世王女 シャーロット

2011-03-16 23:39:59 | イングランド王妃・王女
長女の晩婚、妹たちの結婚にひびく
ジョージ3世王女 シャーロット・オブ・グレートブリテン
ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世妃


1766~1828/在位 1806~1816

ジョージ3世は愛妾がいなかったという希有な王様で
王妃シャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの間には15人!の
お子さんが生まれました。
女の子は6人でシャーロットは3人の王子が続いた後に生まれた長女です。
初めての女の子でそりゃあすごい可愛がりようだったみたいです。

     
将来大陸の王族との結婚が当然視されたシャーロットの教育は最重要事項とされて
綿密なスケジュール、優秀な教師陣のもと行われました。

王の長女として、奉られ可愛がられたシャーロットなんですけど
彼女には一生ついてまわるコンプレックスがありました。
それは2歳年下の次女オーガスタ… とても美しい女性でした。

シャーロットは “ 感受性は豊かだが可愛いとは言い難い ” と言われていましたが
片やオーガスタは生まれた時から美しさで賞讃を受けていました。
シャーロットは妹たちから見れば、いつも長女風を吹かして少し横柄だったようですけど
美しい妹たちに見せる精一杯の虚勢だったのかもしれません。

容姿が問題だったのかどうかはさておき、シャーロットは(当時としては)晩婚で
31歳の時にヴュルテンベルク公フリードリヒ3世(後の王・1世)と
結婚することになりました。
フリードリヒは再婚で、最初の妻はシャーロットの従姉にあたるアウグステでした。

結婚から3年後、ナポレオン率いるフランス軍がヴュルテンベルクを占領します。
ウィーンに逃れたフリードリヒはフランスに兵士を送る代わりに
ヴュルテンベルクを王国にするという密約を結んで初代王になりました。
神聖ローマ帝国からも離脱してナポレオン傘下に入り
義父ジョージ3世とは敵同士になります。

この時シャーロットがどういう態度を示していたのかはよくわかりません。
しかしジョージ3世は婿のみならず娘のシャーロットにも激怒したようです。

ナポレオン失脚前の1813年、フリードリヒは寝返りまして
義兄ジョージ(4世)軍に参加しました。
おかげでウィーン会議にも参加できて、王座も追認してもらえました。
世渡り上手というか、節操のない人ですね…

フリードリヒ1世はウィーン会議から2年後の1816年に亡くなり
未亡人になったシャーロットはシュトゥットガルトのルートウィヒスブルク宮殿で
余生を送りました。
子供がいないのでイングランドに帰ってもよかったんじゃないかと思うんだけどね。
亡くなる1年前に水腫の手術で一度英国に帰っていますが、またドイツに戻っています。

シャーロットが晩婚だったこと & 父ジョージ3世の頑固さのせいで
後に控える5人の王女たちがとばっちりをうけています。
そのとばっちりとは… つづく

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)


地震について

昨夜やっと仙台にいる友人と連絡がとれてほっとしました。
ご家族・友人・知人とまだ連絡がとれていない方々が
一刻も早くご連絡がとれますようお祈り申し上げます。

我が身を顧みず原発の修復作業をされている方々、くれぐれもお気をつけ下さい。
余震が続く他国で活動して下さっている海外の支援部隊の方々
本当にありがとうございます。

そしてなにより被災された皆様、心よりお見舞い申し上げます。
私などができることはわずかですが、無事に生活を送れている国民の一人として
少しでもお力になれればと思います。
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イギリス王ジョージ2世王女 メアリー

2011-03-16 02:24:22 | イングランド王妃・王女
夫いらずのやり手ママ
ジョージ2世王女 メアリー・オブ・グレートブリテン
ヘッセン=カッセル伯フリードリヒ2世夫人


1723~1772

メアリーはジョージ2世とキャロライン・オブ・アーンズバックの五女(四女は死産)で
ロンドン生まれです。

結婚するまでのエピソードがないんですけどね…
1740年にヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒ(2世)と結婚しました。

           
しかしこの結婚は不幸なものでした。
フリードリヒはもともとこの結婚に乗り気でなくて、愛人にかまけていたようです。
愛人大好き!のジョージ2世ではありましたが、見かねて娘に離婚をすすめています。
ジョージ2世は愛人も好きだが妻にも愛情をもって接していましたからね。

メアリーは子供のために、と離婚はしませんでしたが
1747年から別々に暮らすようになり、1755年には公式に別居しました。
フリードリヒがプロテスタントからカトリックに改宗してるんですけど
それも原因のひとつでしょうか?

翌年メアリーはデンマークへ渡り、亡くなった妹デンマーク王フレデリク5世妃ルイーズ
子供たちを世話することにしました。
フレデリク5世はユリアーネ・マリーと再婚していましたが、彼女は宮廷で浮いていたそうで
子供の教育も上手くいっていなかったみたい…

メアリーは子供たちも一緒に連れて行っています。
デンマーク王室の子供たちと一緒の教育が受けさせられるますからね。
うまくいけば王族との縁談も…と考えたかどうかはわかりませんけれども
子供のうちの2人がデンマーク王女と結婚しています。

ヘッセン=カッセル家は当時の西欧きってのお金持ちだったので
デンマーク王室にとってもよい縁談だったかもしれません。
さてはそのつもりでメアリーを呼び寄せたとか…

1760年、夫フリードリヒが伯爵になってメアリーも伯爵夫人になりました。
ただし別居は続いていました。

その後ドイツに帰ったようで、1772年にハーナウで亡くなりました。
ヘッセンに帰ったということは復縁したんですかね?
ちょいと詳しいことがわかりません。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ2世王女 キャロライン 

2011-03-11 00:07:35 | イングランド王妃・王女
一途な愛で身を滅ぼす
ジョージ2世王女 キャロライン・オブ・グレートブリテン


1713~1757

キャロラインは、ジョージ2世とキャロライン・オブ・アーンズバックの三女です。
祖父ジョージ1世の即位に伴い、1歳の時に英国に渡って来ました。

           
とっても正直者だったようで、子供たちの間で問題が起こった時
母のキャロライン(アーンズバック)はキャロラインをよんだそうです。
なんでも真実を話してくれちゃうから。
兄弟姉妹に「だってキャロラインはすぐチクるんだもん 」なんて
仲間外れにされていなければよいが…

キャロラインは性格がよくて優しくて、教養もある女性だったようですが
愛した人が悪かった…

廷臣の中にジョン・ハーヴェイ男爵という男性がおりました。
彼は既婚者でしたが火遊びの噂も絶えませんでした。
その上バイセクシャルで、たぶんキャロラインの兄フレデリックとも関係があったみたい。

どうしてそんな人を愛してしまったんでしょう?
女性にも男性にももてたということは、ものすごく素敵な人だったのでしょうか?
それとも、危険な男性に魅せられてしまったのかしら…

1743年にハーヴェイ男爵が亡くなると、キャロラインは悲しみのあまり
「死にたい」などと考えてセントジェームス宮殿に引きこもってしまい
未婚のまま14年後に44歳で亡くなってしまいました。

宰相ウォルポールの四男で、筆まめで有名なオーフォード伯ホレイスによれば
キャロラインは何年もずっと危うい状態にあったといいます。精神的にということ?
彼は王女キャロラインについては、その寛大さと公平さを大絶賛しています。
悲しみを糧に慈善などに打ち込んだりしたら、彼女の慈善心と献身ぶりを表す
違ったエピソードが残っていたかもしれませんね。

ちなみにオーフォード伯ホレイスは、キャロラインが愛してやまなかった
ハーヴェイ男爵の子供では…? と噂された人物です。
宰相ウォルポールは王妃キャロライン(アーンズバック)とタッグを組んで
政治的には多少アッパラパーなジョージ2世の治世を乗り切った人物ですが
妻がちょっぴりスキャンダラスな人だったみたい…

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 小林章夫氏『イギリス名宰相物語』
      Wikipedia英語版)
コメント (6)
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