まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『同じ一つのドア』アンチドラマティックな日常

2010-06-30 02:00:41 | アメリカの作家
THE SAME DOOR 
1959年 ジョン・アップダイク

アップダイクは、自分の経験を物語にするタイプの作家だったそうです。
この一冊には16篇の短篇が収められていますが、テーマとなっているのは
そこらへんで日常的に目にする出来事で
「珍しい体験をした」「驚くべきことがおこった」というものではありません。

それなのに読み物として完成しているのは凄いと思う。
だって本当にドラマティックな内容じゃないんだもの。
だけどちゃんと読ませてくれる…私はそういう短篇がけっこう好きです。

そんな物語からいくつか…

『黄色いばらを黄色にしたのは誰?(Who Made Yellow Roses Yellow?)』
パリから帰国したフレッドは早速クレイトンを食事に誘いました。
羽振りがよくなったと言うクレイトンから仕事を世話してもらおうと思ったからです。
しかし、クレイトンはとても忙しそうであまり時間が取れませんでした。

厳しい時代ですね…お友達に仕事の世話を頼む人もつらいでしょうが
頼まれた方も大変だと思うわ。相手をよく知っているだけに…
とにかく、儲かっている会社はどんどん人を採用してほしいと思います。

『最良のとき(His Finest Hour)』
チャンドラー夫妻は、隣のアーヴィ夫妻の部屋で争う声を耳にします。
アーヴィ夫人の声が次第に狂気じみてきたので、とうとう警察を呼ぶことにしました。
警察が着いた時、夫はいませんでしたが夫人は血だらけでした。

このお話、翌日には意外な展開を迎えます。
隣には干渉するなという都会の掟みたいなものを感じました。
彼らの行動は正しかったと思うけど、後々面倒くさいことになりそうだものね。
あ! 殺人とか、そういう恐ろしい話しではないです。

『市からの贈り物(A Gift from the City)』
リズが10ドルを与えた黒人が、どうしても夫のジェームズに礼を言うと言い張ります。
彼は翌日タクシーでやって来て料金を払えと言い、家に入れると苦労話を始めました。
ジェームズは20ドル渡し、さらに帰りのバス代まで与えました。

腰が低くて弱気、でも凄腕のたかり屋、なんですかね?
一度見せた優しさが面倒な状況を招くなんてやりきれないけど、ありがちな話しです。
こんな目に遭うと、優しさを見せるのはやめようなんて気になっちゃうわね。

ね、そんなにとりたてていう話しじゃないでしょう?
仕事を探してもらおうと思ったり、近所から激しいケンカの声が聞こえたり
施しを下さいと言われたりなんて、ありがちなことです。

日々起こる小さな出来事…その時あなたはどうするか? で
まったく人生に関わりのないことになるか、何かを感じる出来事になるか別れるわけですね。
平凡な毎日って結構エキサイティングなものです。

 日本は頑張ったってば!
正直パラグアイ相手に互角に戦えるとは思っていなかった私…南米は強いものね
今日勝てれば、次はスペインが相手でもポルトガルが相手でも勝てると信じてたわ!
これからは心おきなくハンサムな選手がいるチームを応援します。
まずはフェルナンド・トーレスがいるスペインを今から…
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トスカーナ大公フェルディナンド1世妃 クリスティーナ

2010-06-30 02:00:25 | イタリア王・公妃
フランスとも仲良くせねば・・・
フェルディナンド1世妃 クリスティーナ・ディ・ロレーナ


1565~1637/在位 1587~1609

フェルディナンド1世は、兄フランチェスコ1世の後を継いで大公になりました。
フランチェスコは妃ビアンカ・カペッロと別荘で急死したため
フェルディナンドが疑われることになりましたが、国にとっては良かったかも…

フェルディナンド1世は兄とは違って政治・経済・外交手腕に勝れた名君で
公国に最後の繁栄をもたらした人でした。

そんなフェルディナンド1世の妃は、ロレーヌ公シャルル3世と
カトリーヌ・ド・メディシスの娘クロード・ド・ヴァロアの公女でした。

      

フェルディナンドはスペインの影響下から政治的独立を勝ち取るために
有利にはたらく結婚相手を捜していました。

そこでフランスの王族であったクリスティーナが選ばれることになりました。
この縁談は難航したようですが、トスカーナがフランスの影響下に入ると考えた
カトリーヌ・ド・メディシスが影響力を遺憾なく発揮してまとめあげました。

ふたりの結婚式は、フィレンツェ史上空前のスケールで行われたそうです。
舞踏会や祝宴、音楽会が、宮廷のみならず街中で繰り広げられました。
街も絢爛に飾られました。
700万ドルぐらいかかったそうですよっ

フェルディナンドはフランスとの関係強化のため、姪のマリーア
フランス王アンリ4世の後妻として嫁がせました。

スペイン(ハプスブルク家)が黙っていなさそうよね…
そこでスペインのお怒りを和らげるため、長男コジモの妃はハプスブルク家から迎えました。

この方、エピソードはあまりないんですけど、夫フェルディナンドが亡くなると
後を継いだコジモ2世が病弱だったため国政に手腕をふるい始めました。
ところがコジモ妃マリア・マッダレーナも政治に口をはさむタイプで
姑 vs 嫁の争いは孫の代まで続くことになります。

国を巻き込む嫁姑戦争…国民にとっては不幸なことよ

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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『ホロー荘の殺人』ポアロ、殺人で迎えられる

2010-06-27 20:56:18 | アガサ・クリスティ
THE HOLLOW 
1946年 アガサ・クリスティ

もちろん、ポアロのいくところ事件、特に殺人はつきものなんですが
いくらなんでもそれで出迎えられちゃーねー! というわけで、ポアロ怒ります。

最初は余興だと思った目の前の展開、実は正真正銘の殺人でした。
ポアロがホロー荘に足を踏み入れると、プールの前で男が倒れていて
側にピストルを持った女がたたずんでいました。

他の道からは別々に3人の人物がやってきていました。
主人のアンカテル卿とアンカテル夫人、彫刻家のヘンリエッタです。

射たれた男性は医者のジョン・クリストゥ、呆然とした女性は妻のガーダでした。

ポアロが止める間もなく、ガーダが持っていたピストルをヘンリエッタが取り上げ
しかも “ うっかり “ プールに落としてしまいました。
ガーダはポアロにピストルは拾ったと言います。

殺されたジョンという人はもてもてなんです。

ジョンとヘンリエッタは特別な関係でした。
不倫というのとは少し違います、でも離れられないふたりなのでした。

近所の別荘には女優のヴェロニカ・クレイが来ていましたが
彼女はジョンの昔の婚約者で、ジョンを取り戻そうとしていました。

内気なエドワード・アンカテルはヘンリエッタを愛していましたが
ジョンがいるためふられ続けていました。

アンカテル夫人は、ジョンがいなければヘンリエッタが一族のエドワードと結婚して
地所を継いでもらえるのに…と考えていました。

ガーダはというと、ジョンを怒らせないようにビクビクしていました。
少しぼんやりした人でヘンリエッタとのことには気づいていないようでした。

さて、犯人は誰でしょうね?

捜査を進めるうちに、グレンジ警部もポアロも
屋敷中の人が犯人を知っているように思われてきます。
そして皆で犯人を庇っているみたいでした。

ヒントはですね… 難しいなあ。
次々と出てくる突拍子も無い証拠と持ち去られた真実、とでもいいましょうか?
特にピストルについては右往左往させられてしまいます。

たぶんこの人だろうと思える人が犯人です。 その推理は正しい!
でもどうして犯人でない人たちが証拠隠滅に一生懸命になるかしらね?
そちらの方が謎めいてますよ。

殺人事件は1件、あるいは2件です。
事件がおこる前にかなりのページを割いて、ジョンとヘンリエッタとガーダ、
三人の心理的な葛藤を書いています。
恋愛小説として読んでもいいような気がします。

読者を惑わすストーリー
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トスカーナ大公フランチェスコ1世妃 ビアンカ

2010-06-26 21:00:57 | イタリア王・公妃
怪しい噂まみれの美女
フランチェスコ1世妃 ビアンカ・カペッロ


1548~1587/在位 1578~1587

ビアンカの生家カペッロ家は、ヴェネチアでも有数の裕福かつ高貴な家柄でした。

         
幼い頃から美しさが評判だったビアンカは、15歳の時にフィレンツェから来ていた
銀行官吏ピエトロ・ブオナヴェンチュリと恋に落ち、フィレンツェへ駆け落ちしました。

しかし、美しい娘は一家の武器ですからねぇ…
カペッロ家はあらゆる手段を使って彼女をヴェネチアに連れ戻そうとします。
ビアンカに救いを求められたコジモ1世の仲介でこの件はなんとかおさまりました。

ところが、ビアンカ大誤算
ピエトロの家は一般家庭、裕福に育ってきたビアンカは今までにやったことのない
卑しい仕事(家事とか給仕だと思われる)までやらなければなりませんでした。
身分違いの恋、素敵なようで恋が冷めればあとは不仲へまっしぐらです。

そんな時、ジョヴァンナ・ダウストリアと結婚したばかりのフランチェスコが
街でビアンカを見初めました。
フランチェスコはプレゼント攻撃をしかけ、夫にうんざりしていたビアンカを誘います。

フランチェスコはビアンカを手に入れた代償に、夫ピエトロに宮廷の仕事を与え
女性の世話までしてあげたわけですが、ピエトロはその後街中で殺害されました。
これは怪しい…と噂になったものの、女絡みの事件ということでかたづきました。

コジモ1世亡き後ビアンカのもとに入り浸っていたフランチェスコは
妃ジョヴァンナが亡くなると2ヶ月後にこっそり彼女と結婚しました。
ジョヴァンナの死(転落死)も怪しくない?ってことで
ふたりが関わっているのでは? と噂されました。

けれどもそんな噂ラブラブなふたりは気にしないさ!
結婚は年があけると正式に発表され、盛大な祝典がおこなわれました。

しかし、メディチ家はこの結婚に大反対、特にフェルディナンド(後の1世)は
ビアンカを徹底的に邪魔者扱いしました。

これじゃあ老後が不安…と考えたビアンカは、自分が生んだアントニオを
後継者に指名させようといろいろ手を打ってみたもののどれも成功しませんでした。

しかし老後の心配はいらなかったのね…
1587年、フランチェスコとビアンカはポッジョ・ア・カイアーノの別荘で
同じ日に亡くなりました。
マラリアってことでした…もちろん毒殺の噂はでましたとも!

              
                 お美しいので載せときます

ビアンカには他にも疑惑があります。
フランチェスコを繋ぎ止めるために他人の子どもを自分が生んだと言ったりしてます。
アントニオだって本当は誰の子だか…
しかしフランチェスコの愛は、疑惑を知っても終生変わらなかったんですと。

どんなふうに繋ぎ止めていたのか知りたいところですわね!

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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『白昼の悪魔』避暑地の恋の結末は?

2010-06-24 22:51:46 | アガサ・クリスティ
EVIL UNDER THE SUN 
1940年 アガサ・クリスティー

映画『地中海殺人事件』の原作ですね。
ジェーン・バーキンが Before → After 的に派手になったラストに笑いました。
テレビドラマ版と見比べると、やはりドラマの方が原作に忠実でしたね。

舞台は映画と違ってデヴォンシャーのレザーコム湾に建つホテルです。
リゾートを楽しむ滞在客の中にはポアロがいました。

ポアロは心配です。
滞在客の中の、元女優で美貌の人妻アリーナ・マーシャルと
ハンサムな青年パトリック・レッドファンが、人目も憚らずいちゃつくからです。

アリーナの夫ケネスはまったく感情を表に出しません。
パトリックの控えめな妻クリスチンのじっと耐え忍ぶ姿が同情をひきます。

で、はしょるけど、アリーナが殺されてしまうわけですね。

一番怪しいのはクリスチン、でも彼女には完璧なアリバイがありました。
クリスチンのアリバイを証明したのはケネスの娘リンダです。
リンダはケネスの前妻の子で、継母アリーナが大嫌いでした。

夫ケネスにもアリバイがありました。
ケネスのアリバイを証明したのは、有名なドレスメーカーのロザモンド・ダーンリー。
彼女はケネスの幼なじみで、ケネスとアリーナの離婚を望んでいました。

狂信的な牧師で、人の心に宿る悪魔の存在が許せないスチーブン・レーンや
変な色の帆のヨットに乗っているホレス・ブラッドなども除外できません。

パトリックはアリーナの遺体発見者。
スポーツウーマンのエミリー・ブルースターは遺体発見をボートで見ていました。

アメリカ人のガードナー夫妻は、映画ではもっと怪しげに描かれていましたが
原作ではユーモアを添える役目にとどまっているように見えます。

アリーナがゆすられていたことが発覚したり、
またまた、アリーナが死んでいた浜辺の洞窟からはヘロインが見つかったりと
紆余曲折はありましたが、ポアロはいくつかの手がかりから犯人を絞っていきます。

大きな手がかりをあげると、昼前にシャワーを浴びた人がいたことと
誰かが窓からビンを投げ捨てたこと、です。

映画では過去の新聞が、ドラマでは滞在客のひとりが昔立ち会った審問会が
原作ではブラッドが無礼にも撮りまくったスナップ写真が動かぬ証拠となって
犯人を追いつめました。

実は何年か前に似たような事件があったからなんだけど
それを書くと判ってしまうので書かないでおきますね。

登場人物やストーリーなどはまったく別物ですが
『死人の鏡』という短篇集の中の『砂にかいた三角形』という話と似ています。
そちらも美しくて男性を惹きつける人妻が、人の夫にちょっかいを出して殺されます。
どちらも目に見える嫉妬心を巧みに利用した犯罪でした。
あ、これは大ヒント!

いずれも美貌ゆえの孤独が彼女たちを死に追いやったのかもしれません。
私にその悩みはわかりませんけれどもねっ

ポアロ、難しい事件を解決!
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トスカーナ大公フランチェスコ1世妃 ジョヴァンナ

2010-06-24 22:44:31 | イタリア王・公妃
お義父様がいてよかった…
フランチェスコ1世妃 ジョヴァンナ・ダウストリア


1547~1578/在位 1574~1578

父は神聖ローマ皇帝フェルディナント1世、母はアンナ・フォン・ハンガリーです。
父方の祖母がカスティーリャ女王ファナでございます。

      
ジョヴァンナは18歳の時にフランチェスコと結婚しました。

祝典は盛大なものでしたが、ジョヴァンナはフィレンツェに暖かみを感じられず
ホームシックにかかって、その後馴染むことができませんでした。

義父のコジモ1世はとても優しくジョヴァンナに接し
パラッツォ・ヴェッキオを特別に飾り、壁画に故郷の街並を描いてくれたりしましたが
夫フランチェスコは妻を顧みず、宮廷人たちは彼女のオーストリア気質を軽蔑しました。

フランチェスコは陰気で孤独癖があり、化学の実験に没頭して政治を投げ出すという
無責任君主でした。
ジョヴァンナも凡庸で教養に欠けていたと言われ、なんか暗そうな夫婦…

また、ジョヴァンナは次々と子どもを生んだものの女の子ばかりで
早く世継ぎがほしいフランチェスコと喧嘩が絶えませんでした。
娘のひとり、マリーアは後にフランス王アンリ4世妃になりました。

父コジモの再婚には「スキャンダルになる!」と反対しまくっていたフランチェスコは
愛妾ビアンカ・カペッロに夢中になり、自分こそスキャンダルになっていました。
ジョヴァンナは義父コジモ1世に訴えたり、神聖ローマ皇帝に直訴したりして
浮気を止めさせようとしましたが、フランチェスコの不貞はおさまりませんでした。

1574年にコジモ1世が亡くなると、フランチェスコはビアンカに別荘を与えて
公然と入り浸るようになります。
しかもビアンカは男の子を生んでフランチェスコ大喜び!

1577年、ジョヴァンナは待望の男の子フィリッポを生みます。
そして翌年にも妊娠しましたが、デュカル宮殿の階段から落ちてしまいました。
翌日男の子を生みましたがすぐに亡くなり、ジョヴァンナも亡くなりました。

当時メディチ家にはスキャンダラスな死がいくつかあったのですが
フランチェスコはジョヴァンナの死から2ヶ月後にビアンカと再婚したもんだから
当然ジョヴァンナの死も殺害の噂がたちました。

               
                タッチは変わっても寂しげですね

仲が悪いといいながらお子様もたくさん生まれていますのでね…
ビアンカがいなければ喧嘩しながらもなんとかやっていけた夫婦だったんじゃないかしら?
それで老後に「若い頃はこの人もしょうもない人で…」「お前には悪かったね」なんて
しみじみ回想しちゃったりして。

さて、フランチェスコとビアンカの今後は…つづく

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公コジモ1世妃 カミッラ

2010-06-23 02:11:24 | イタリア王・公妃
親子喧嘩の火種
コジモ1世妃 カミッラ・マルテッリ


1545~1634/在位せず

前妃エレオノーラを亡くした後、コジモはエレオノーラ・ディ・アルヴィッツィに溺れ
再婚しようとしますが、息子の大反対にあった末、息子の味方をした侍従アルメーニを
刺してしまって、この話しはなかったことになります。

その後コジモは26歳年下のカミッラに恋をします。
てことは、カミッラはその時19歳ということになります。

カミッラの実家マルテッリ家はフィレンツェ有数の貴族のひとつでした。

        

コジモ1世は、エレオノーラの死から2年後に、息子フランチェスコを摂政にして
ヴィッラ・ディ・カステッロに隠居します。
コジモはそこへカミッラも連れて行きました。

コジモはエレオノーラの死に打撃を受け、健康も衰えていました。
カミッラだって何も好き好んで…ねぇ
卒中で倒れて呂律もまわらず半身麻痺だったらしいし、看病しに行くようなものじゃない。
でも、彼女はわがまま放題で虚栄心が強かったらしく
若い娘の言うことを聞いちゃうじい様(とは言っても50歳前後)は恰好のターゲットですな。

カミッラは1568年にヴィルジニアという娘を生み、コジモは再婚を考えます。

もともとカミッラを嫌っていたコジモの子どもたちは大反対しますが
コジモは気にせず1570年に結婚しました。
しかし、この結婚は貴賤結婚と見なされ、カミッラは称号を授けられませんでした。

子どもたちの不平に答えてコジモは
「私の妻はれっきとしたフィレンツェの淑女だ」と書き送り
「隠居したんだからどんな家柄の女性を選んだっていいじゃないか」と言い放ちました。

1575年にコジモが亡くなると、カミッラはムラテ修道院に入れられ
続いてサンタ・モニカの修道院に移されました。
彼女が修道院を出たのは娘ヴィルジニアの結婚式の時だけです。

1609年、カミッラはフランチェスコの死後、新大公フェルディンナンドに
修道院から出してくれるよう願い出てやっと許可をもらいましたが
その後の再び修道院に入れられ、出て来ることなく1634年に亡くなりました。

どれだけ嫌われていたかは知らんが、30歳で修道院に入って89歳まで出れぬとは…
もしかしたらコジモに頼み込まれて結婚したのかもしれないのに
ひどい仕打ち~

コジモの生前、よっぽど横柄な態度をとっていたとしたらミステイクよね。
老いた権力者に愛された者は、栄華が長く続かないことを肝に銘じておかないと…

さて、コジモももちろんパトロンになっています。
公共の施設や教会の建設などに力を注ぎましたが、絵画では

  
   ジョルジョ・ヴァザーリ     アニョロ・ブロンズィーノ      ヤコポ・ダ・ポントルモ

などの画家がおりました。

コジモは様々な形で数多くの肖像を残しているそうですが、
ブロンズィーノはコジモ1世とエレオノーラ・ディ・トレドの肖像画も発注されております。

  美男美女ですな…

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公コジモ1世妃 エレオノーラ

2010-06-22 02:22:26 | イタリア王・公妃
この君主にこの妃あり
コジモ1世妃 エレオノーラ・ディ・トレド


1522~1562/在位 (フィレンツェ公妃)1539~1562 (トスカーナ大公妃)せず

暗殺されたフィレンツェ公アレッサンドロの後を継いだのは
英雄 “ 黒隊長 ” として人気が高かったジョヴァンニの息子コジモでした。

コジモは傾きかけたメディチ家を再興させた名君ですが、長くなるのでおいといて…

妻となったエレオノーラはカスティーリャ王家を先祖に持ち
ハプスブルク家とも繋がりを持つ政治的にも血統的にも申し分ない女性でした。
父親はスペインの大貴族、ナポリ副王ペドロ・デ・トレドで
スペインとも強力な関係を築くことができ、スペイン軍の撤退につながりました。

エレオノーラは、神聖ローマ皇帝カール5世の勧めで、17歳の時コジモと結婚しました。
コジモは20歳、理想的なカップルです。

        

当時メディチ家は後継ぎの問題で存亡の危機にあったのですが
エレオノーラは男の子5人を含む11人の子どもを生み、メディチ家に安泰をもたらしました。

最初は “ スペイン人 ” として人気が薄かったエレオノーラも、次第に影響力を持ちます。
コジモの彼女に寄せる信頼は大変なもので、摂政として完全に国を委任されました。
とうとう彼女を通してでないとコジモに申し立てができなくなったほどです。
コジモにも相当の影響力を持っていたと言われています。

普通こういう妃って、でしゃばりとか言われて反感を招くものですけど、そうでなかったのは
コジモの存在感と、エレオノーラの政治能力が有無を言わさぬものだったのでしょう。

エレオノーラは(スペイン出身ですから)敬虔で、いくつもの教会を設立しました。
農業と商業に興味があり、メディチ家の広大な領土を有効活用して収入を増やしました。

メディチ家に相応しく芸術にも理解があり、著名な画家たちのパトロンにもなっていました。

なんか、言うことない嫁ですな…

ただギャンブルが大好きだったらしい。
それから一つの所にじっとしておられず別荘から別荘へと渡り歩いていたらしい。
病気がちで虫歯も多かったそうです。

コジモはエレオノーラのからだを気遣って、パラッツォ・ピッティを購入し
宮殿を大拡張した上で拠点を移しています。
内装はエレオノーラの好みに合わせたんだって…贈り物のスケールが違うね、と思ったら
宮殿を買ったお金はエレオノーラの持参金なんですと!

小作人たちには寛大でしたが、家来にはけっこう尊大な人だったとも言われています。
スペイン好みで贅沢好きという説もあります。

なんでも常に10人ほどの縫子を引きつれて自分のドレスを縫わせていたそうです。
ドレスって1着に何日ぐらいかかるものなのかしらね?
ミシンもないし、刺繍したり宝石を縫い付けたりしたらすごくかかりそうですね。

1562年、19歳のジョヴァンニと16歳のガルツィアが相次いで亡くなりました。
言い伝えによれば、喧嘩の末ジョヴァンニがガルツィアを殺してしまい
コジモが「誤って自分で剣を刺してしまった」と公表したことになっております。

後々メディチ家は、ふたりはマラリアで亡くなったと主張しました。

エレオノーラは息子たちの死のあと取り乱し、結核を悪化させて
数週間後に亡くなりました。

コジモはかなり性格にムラがある人で、急に癇癪をおこしたり
いきなり気分が変わったりと扱いにくい君主だったようですが
エレオノーラだけには終生愛情を示していたそうで、彼女の死に大打撃を受けました。

いずれにしても、エレオノーラあってこそ、コジモはフィレンツェの再興を
なし得たのかもしれないと思われますよね。
女性の美しさばかりがエピソードになりがちな中世において
名君を支えるどころか左右した頼もしい女性がいたというのは喜ばしいことです。

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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『チャタレイ夫人の恋人』なぜか笑える問題作

2010-06-21 01:01:22 | イギリス・アイルランドの作家
LADY CHATTERLEY'S LOVER 
1928年 D.H.ロレンス

映画にもなったこの物語、階級社会へのアンチテーゼだとか
抑圧された性の解放とか、作者が訴えたいことはたくさんありましょうが
どうも他の部分に目がいってしまいがちです

検閲による削除、店頭からの回収、出版社と作者をめぐる裁判などを経て
1950年以降にやっと全文が読めることになったそうです。
文学として認められたということなんでしょうね?

進歩的な考え方の父のもと自由に育ったコンスタンスという新妻が
戦争によって下半身不随になった夫クリフォードと田舎の領地で暮らすことになります。

準男爵の夫は、領地の炭坑のことより作家として名を成したいという欲望があり
精神生活をネタに議論ばかりを繰り返す友人たちを招待する毎日を過ごしていました。

コンスタンスも最初はそれで良かったのですが、何年もたつとだんだん虚無感に襲われ
夫や友人たちがくだらなく思えてきました。
子どもがほしいという漠然とした望みをいだき、同時に体調も崩していきます。

そんなある日、鳥小屋でばったり会った森番のメラーズの前で涙を見せてしまった彼女は
そのまま彼の言うなりになりました。
最初はちょっとした満足感で関係を持っていたコンスタンスでしたが
絶頂を知り、彼の子を宿したことを感じ、次第に彼から離れられなくなっていきます。

『ボヴァリー夫人』『帰郷』と同じような内容ですかね?
生活が空虚に思えて仕方がないという女性のお話です。

コンスタンスは、何かしでかしてくれそうなタイプの女性に思えたのですが
結局行き着く先が浮気、というのがどうなんだろう?
それしか解決策はないというのかねぇ?
確かに相手は一風変わっていますけど、手近なところですませている気もするし…

どちらかというと、コンスタンスを夫クリフォードから離そうと奮闘する姉ヒルダや
クリフォードの看護婦で彼をうまいこと操るようになるボルトン夫人の方に
強いキャラクターを感じました。

ところで、性描写って過剰に書かれると笑えるのは私だけ?
映画『ナインハーフ』でも話題になりましたが、からだのあんなとこやこんなとこに
いろんなものを塗ったり置いたりってさぁ… どうなの? 素敵なの?
ノーマルなセックスをしっとり描写して頂いた方が、逆に刺激的な気がするんですけどね。

それにしても、途中経過とか達した時の表現って、100年前も変わらないものよのぉ…
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フィレンツェ公アレッサンドロ妃 マルゲリータ

2010-06-20 22:05:47 | イタリア王・公妃
ぜっっったいに気が合わなかったと思ふ・・・
マルゲリータ・ダウストリア


1522~1586/在位 1533~1537

アレッサンドロは、11歳という幼さでフィレンツェの支配者になりましたが
実際は(実の父といわれる)教皇クレメンス7世に牛耳られていました。

クレメンス7世が皇帝と対立してローマが滅茶苦茶にされてしまったことで
フィレンツェでメディチ家批判が高まり一時追放されましたが
皇帝とも和睦し、その皇帝によって共和制も倒され、1531年に帰国しました。
すべてはクレメンス7世のおかげでございます。

そんなアレッサンドロの妃となったマルゲリータは、神聖ローマ皇帝カール5世の庶子で
大おばのマルグリット、叔母のハンガリー王妃マリアに育てられました。
マルグリットとマリアはネーデルラント総督になった女性です。

        

マルゲリータは5歳でアレッサンドロと婚約し、11歳の時に父カール5世に認知されて
フィレンツェに嫁いで来ました。

アレッサンドロは専制君主になりたくて、厳しく市を統治していました。
当時フィレンツェではアレッサンドロを暴君として、カール5世に罷免を訴えていましたが
皇帝はこれを退けアレッサンドロを支持していました。
不人気な君主の方が好都合…と考えたのでしょうか?
カール5世は、パルマまでマルゲリータに同行して祝宴に加わりました。

しかし、アレッサンドロはもともと放蕩者で女関係も派手でした。
結婚後も同族のロレンツィーノと毎夜のように遊び歩き、美しい人妻を紹介するという
彼の誘いにのって出かけて暗殺されてしまいました。 おバカ…
知的と思われるマルゲリータとはたぶん気が合わなかったんじゃないかなぁ。

マルゲリータは翌年、16歳でパルマ公オッタヴィオ・ファルネーゼと再婚しました。
これは、オッタヴィオの祖父教皇パウルス3世が、フィレンツェ公の未亡人との結婚で
ファルネーゼ家に公位をもたらそうと考えたためでした…ダメだったけど。
オッタヴィオは年下で、新婚生活はしっくりいかなかったみたいです。

おばたちの教育が良かったのか、マルゲリータの才覚の高さを認めたスペイン王フェリペ2世は
1559年、彼女をネーデルラント総督に任命しました。
しかし当時オランダではスペインの圧政に不満爆発で、ウィレム1世が自治を目指して奮闘中、
マルゲリータの任務はやさしいものではありませんでした。

1567年、マルゲリータは総督の座をアルバ公に引き継ぎイタリアに戻りました。
18年という長~い別居の後はオッタヴィオの良き妻として過ごしたもようです。

1578年には息子アレッサンドロがネーデルラント総督に就いて、彼女も嬉しがったそうです。
63歳で亡くなりました。

別居までして就いたネーデルラント総督の座はありがたいものだったのかしら?
マルゲリータの政治的失敗に関する記録もありますが
一番やっかいな時に総督になっちゃんたんじゃないでしょうか。
才覚を高く買われるのも善し悪しですな…

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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『メイプル夫妻の物語』寄せては返す…倦怠期のさざ波

2010-06-19 01:47:22 | アメリカの作家
TOO FAR TO GO - THE MAPLES STORIES 
1979年 ジョン・アップダイク

アメリカの離婚事情はよく知りませんけどね
こんなにスタイリッシュな離婚劇があってよいのでしょうか?

メイプル夫妻の、結婚2年目から24年目の離婚までを綴った一冊です。
22年間をずーっと書いているわけではなく、2年目、7年目など
離婚へ至るポイントになった出来事を断片的に集めた短篇集です。

どのエピソードも1日から2日間の出来事が書かれています。
その他の日は安泰に暮らしていると思われる節もある…
読んでいると「別れちゃいな!」とも「別れなくても…」ともいえる
微妙な夫婦関係に思えますけど、一度でも倦怠期を経験した夫婦なら
その感じ、理解できるんじゃないかなぁ…

興味深かったものをいくつか…

『妻を待つ』
11時に帰るはずのジョウンが帰ってこないのでリチャードは不安にかられます。
やっと帰って来たジョウンは落ち着き払っていて
「メイソン夫妻はつらそうで、怒ることもできなかった」と言いました。
ジョウンは、リチャードの不倫相手とその夫のもとへ呼ばれて行っていたのです。

ちょいとちょいと、不倫の後始末に妻が行くってですか?
結婚15年目ぐらいの出来事みたいです。
妻が行ってあげるあたり、まだ愛が残っていると思えなくもない…
でも落ち着き払っているところはどうなのか? もう見切っているということかしら。

『薫製鰊の理論』
メイプル夫妻の新居で開かれたパーティーの後、リチャードがひとりの女性とばかり
踊っていたことを、ジョウンが「カモフラージュの “ 薫製の鰊 ” 」だと言います。
その後二人はお互いの薫製の鰊と本命の魚を探り合います。

実はこの物語の前にジョウンが浮気相手を告白する話しがあって、しかもひとりじゃないの。
夫婦でお互いの本命を探り合うってどうなんですの?
つき合う前に、お互いの気持ちを探るために冗談で言い合うというのはあるけど
この夫婦は本気で言ってるのだろうか? 謎です。

『ジェスチャー』
別居して一夏が過ぎましたが、リチャードは毎晩家族と夕食を食べていました。
しかしジョウンに促されて町を出ることになりました。
リチャードが借りたアパートには、不倫相手のルースも来ればジョウンも来ます。
ある日食事に出たメイプル夫妻はお互い自分の恋人のことを話したがります。

ジョウンも恋人ができたし、よかったね!って、ルースは友人の妻なんだけど…
お互いの気を惹きたくてわざとやってると思えなくもないけど
本気で不倫をしているような気もします、少なくとも夫の方は。

アップダイクは、自分の経験を短篇にしていることが多いそうですし
離婚もしていますので、もしかして実話? と思ったりしています。
でも、もし実話でも、あくまでもアップダイクサイドからの見方で書いているわけで
妻がどう思っていたかは想像の部分でしかありえませんよね。

離婚に至るまでの男性と女性を比べたら、たぶん女性の方がしたたかに気持ちを隠す…
ふふふ…
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ヌムール公ジュリアーノ妃 フィリベルタ

2010-06-16 23:44:33 | イタリア王・公妃
           こちらはウルビーノ公ロレンツォ妃マッダレーナでございます

メディチ家、不遇時代の妃
ジュリアーノ妃 フィリベルタ・デ・サヴォイア


1498~1524/在位 1515~1516

ロレンツォを継いだのは、長男ピエロ・イル・ファトゥオ(愚か者)です。
ハンサムだったらしいのですが、まったく政治家に向かなかったらしく
ヴァロア家とハプスブルク家がイタリア争奪戦を繰り広げる激動の中で
1494年、フィレンツェから永久追放されてしまいました。

1498年に結婚した妻アルフォンシーナはオルシーニ家出身です。
それ以上はわからず… ロレンツォ妃クラリーチェとは親戚なんでしょうね?

その後共和制が続いたフィレンツェに1512年、次男ジョヴァンニ(後の教皇レオ10世)と
三男ジュリアーノが帰って来ました。

ジョヴァンニは教皇になってからもジュリアーノを通じてフィレンツェを支配します。
フランス王フランソワ1世の叔母フィリベルタとジュリアーノの縁談は
レオ10世がまとめたものです。
       
1515年に結婚して、ジュリアーノはヌムール公の称号を与えられたものの
翌年亡くなりました。

詳細はわかりませんがフィリベルタも1524年に26歳の若さで亡くなっています。



フランスを牛耳った王妃の母
ロレンツォ2世妃 マッダレーナ・デ・オーベルニュ


1501~1519/在位 1518~1519

心優しく繊細なジュリアーノが亡くなると、愚か者よばわりされたピエロの息子で
享楽好きの暴れん坊、ロレンツォがフィレンツェ支配者の座につきました。

1516年、メディチ公国を夢見る教皇レオ10世の命によりウルビーノ領を攻め落とし
ウルビーノ公の座につきました。

1515年、レオ10世とフランス王フランソワ1世の同盟強化のため
甥ロレンツォとフランソワ1世の血縁マッダレーナの縁談がまとまり
1518年に結婚しました。

ロレンツォは自ら彼女を迎えにフランスに出向いています。
式もとても盛大なものでした。
         
一年ほどして娘のカテリーナが生まれましたが、マッダレーナは亡くなり
その1週間後にロレンツォも(たぶん梅毒で)亡くなりました。

カテリーナは教皇クレメンス7世が後見人になり
後にフランス王アンリ2世の妃になります。

この方、娘カテリーナを生んだ他はほとんどエピソードが無いのよね。
若くして亡くなられてるから仕方がないかもしれないが…

さて、ピエロ&ウルビーノ公ロレンツォ親子は、芸術家肌でなかったらしく
パトロンとしてあまり目立った動きはありません。

逆に、ヌムール公ジュリアーノは、政治の場にいるよりサロンにいる方が好き!
という文芸肌の宮廷人でして、フィレンツェの芸術を支えた方でした。
中でも有名なのは、このおふたり。

  
      ラファエロ               ダ・ヴィンチ

“ モナ・リザ ” にはフィレンツェの有力者フランチェスコ・ジョコンドの夫人や
ミラノ公妃イザベラ・ダラゴーナという説がありますが
ジュリアーノの愛妾コンスタンツァ・ダヴァロスという説もあります。

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)

言い訳
ワールドカップと『天国の階段』鑑賞タイムのおかげで
ブログの草稿書きが滞っている今日この頃です。
次回、フィレンツェ公アレッサンドロ妃はちょいと先になるかも…
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『サンディトン』ファンには嬉しくても・・・

2010-06-14 00:15:15 | イギリス・アイルランドの作家
SANDITON 
1787~1793年 ジェイン・オースティン

オースティンにまだ作品があったとは!と喜びいさんで買ってしまったこの一冊、
目次を見ると5篇入っているわけなんだが、2篇目から全部途中で終わっているぅ
(ひとつは完全に構想メモですし…)
なんでもオースティンの作品ノートから抜粋したものだそうです。

『イヴリン』は、唯一完成している(と思われる)物語ですが
ちょっとオースティンらしくない気がします。
イヴリンという素敵な村を舞台にしていますが、内容もなにもものすごくペラペラした感じ。
これから肉付けしていくつもりだったのかもしれません。

『ある小説の構想』というのは田舎を舞台にした牧師と娘の物語の構想をメモったもので
書き上がっていたら “ いかにもオースティン ” というお話が展開されたんじゃないかしら。
メモのままで終わってしまって残念ですね。

『キャサリン あるいは東屋』
キティは厳しい叔母のミセス・パーシヴァルと暮らしていました。
親友だったセシリアとメアリーの姉妹は村を離れてしまい、キティは退屈しておりました。
ある年、裕福な遠い親戚の夫妻と娘がミセス・パーシヴァルの家へ滞在することになります。
そして後から叔母が警戒していた夫妻の息子もやって来ました。

『ワトソン家の人々』
エマ・ワトソンは育ての親である叔母が分別ない再婚をしたために
家族が期待していた遺産ももらえず、12年ぶりに実家に戻って来ました。
3人の姉は独身で相手選びに夢中、裕福な娘と結婚した兄は尊大になっていました。
エマは初めての舞踏会で会ったつまらない貴族に気に入られてしまったようです。

『サンディトン』
ヘイウッド一家は、旅の途中で怪我をしたパーカー氏を手厚く看護しました。
そこで長女シャーロットが、パーカー氏が力を注ぎ有名保養地にしようとしている
サンディトンに招かれました。
シャーロットはサンディトンの社交界の人々やパーカー氏の兄弟姉妹に紹介され…呆れます。

『キャサリン』『ワトソン家』『サンディトン』はオースティンならではの
小さな社交家を舞台にした人間関係や、結婚問題、家族間の軋轢などを描いています。
登場人物も、知的な主人公、アッパラパーな若い女性、おせっかいな人たち、噂好き
ハンサムな一見好男子、寡黙で思慮深い男性などお馴染みの面々です。

物語は途中までですが、とても楽しくてほくそ笑みながら読めました。
完成していればさぞかし面白いものになったでしょう。

しかしなぁ… 作品が少ないだけに未読の物語が発売されるというのは
ファンにとってはありがたいことではあるのですけれど、作者自身はどう思うかしら?

たしかにオースティン独特の小気味良さがあって面白かったです。
本当に続きが読みたい!
でも「ちょっとちょっと、それはぜんぜん気に入らなくて途中でやめたのよ」とか
「あ~、それは2章と3章を入れ換えるつもりだったのにっ!」なんて
オースティンが頭をかかえているやもしれないですよね。

続きが読みたい!というファンの希望にお応えして、だかどうだか
『ワトソン家の人々』と『サンディトン』は、後年別の作家の方が完成させたそうです。

読んでみたいようなみたくないような…
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いきなりの韓流リバイバル!

2010-06-13 18:37:13 | もろもろ
わたくし、4、5年ほど前に韓流にどっぷりはまりまして
“ オーガニックなココロ ” でお馴染みのmodanちゃんと
新大久保めぐりや韓流フェスティバル、ソウル近郊ロケ地巡りの旅もしたのですが
なぜか帰って来てからめっきり熱が冷めちゃいまして
パタリとドラマも見なくなってしまいました。

なんだけど、このあいだBSをさまよっていたら『オンエアー』というのをやっていて
「あら、パク・ヨンハがかっこよくなっている!」と思って見るようになり
その後ちょこちょこ他のドラマも見るようになったのね。

そんな中、先週からわたくし最大の韓流ピーク『天国の階段』の再放送が
(何度目か知らんが)始まったでしょ!
わたくし、録画しまして毎晩2回、あるいは3回見てます。
1回目は普通に、2回目はクォン・サンウのアップを中心に…
久々に見たらやっぱり素敵だったわ

お酒を飲みながらあの表情を見ていたら、私までドキドキしちゃうわけですよ。
あの瞳によろめかない女がいるだろうかっ!

テファ兄ちゃんもいい人だ、しかし
ソンジュのマグマのように熱い一途な恋心にときめかないわけないですよねぇ。
しかもハンサム、しかもリッチ

あ~あ、あんな人、現れませんかね?
まぁ、私はもの心ついてからの記憶がしっかりあるわけなんだがね…

しかしなんですね、5年ほどボーッとしている間に知らない俳優がたくさんいますね。
『アイリス』も先週から見始めてみましたが、イ・ビョンホンとキム・テヒ以外に
キム・スンウがいてホッとしたぜ。

本気韓流ファンの方、すみません。
これからついていけるよう頑張ります。

とりあえず、これから韓国で買って来たクォン・サンウ・グッズを引っ張り出す予定。
どこにしまっちゃったかしら…
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フィレンツェ支配者ロレンツォ妃 クラリーチェ

2010-06-11 22:43:47 | イタリア王・公妃
敬虔さは美徳のはずだったのに・・・
ロレンツォ妃 クラリーチェ・オルシーニ


1453~1487/在位 1469~1487

ロレンツォはイル・マニフィコ(偉大なる)と呼ばれていました。
祖父コジモから受け継いだ政治的な手腕と才能に加えて社交性に富み
傾きかけたメディチ家を盛り返しました。

一方、快楽主義者で軽いイメージもあったそうで、お若い頃は遊び仲間を引きつれ
街中で騒ぎ、女性を侍らせて騒いでおりました。
典型的な社長のバカ息子ですけど、それは敵の目を欺く仮の姿だったのかしらね?

1969年、ロレンツォは母ルクレツィアがローマへの足がかりのために
自ら出向いてまとめた名門オルシーニ家のクラリーチェと結婚しました。

        
なんと! 祝宴は4日間も続きました。
招待客は400人、その上ご近所1500人にも酒やご馳走がふるまわれたそうです。
イタリア料理のご馳走… 食べたい、でも太るやも…

しかし、この結婚はあまり幸福なものではなかったみたいです。

まずはクラリーチェが意外にも不人気だったこと…
当時フィレンツェでは、フィレンツェ内の名家同士が結婚するのが主流で
いきなりローマから来ちゃった彼女はよそ者扱いされたのかしらね?

クラリーチェはとても信心深い女性でした。
他国の王妃なんかでは美徳に数え上げられるものなんですが
フィレンツェでは人文主義真っ盛りで、過度の敬虔さはそぐわないものでした。
しかも病気がちで気難しくてロレンツォとは気が合わず
頻繁に里帰りをしていたそうです。

ロレンツォには愛人ルクレツィア・ドナーティがおりまして
詩人でもある彼は、彼女に愛の詩なんかを捧げていたそうでございます。
嘘でもいいから妻にも捧げてあげればよいのに…

ロレンツォの時代には、パッツィ家陰謀事件やロレンツォ暗殺未遂など
きな臭い出来事がおこっているんですけれど、その中でクラリーチェが
どのように夫を支えていたかはよくわかりません。

お子様は、後の教皇レオ10世をはじめ9人生まれております。
ロレンツォはたいそう子煩悩で、一緒に遊びまわり、教育にも熱心だったようですが
クラリーチェが母親としてどうだったのかも伺い知ることができません。

1487年に結核で亡くなりました。
ロレンツォは5年後に痛風で亡くなっています。
やっぱり食事が豪勢だったのか…

さて、ロレンツォは文学や哲学の才もあったそうで
メディチ家の蔵書を倍増し、大学や学者たちにも手を差し伸べています。
画家では

 
     フィリッピーノ・リッピ           ドメニコ・ギルランダイオ


       ボッティチェリ

などと親しくしていたようです。

祖父コジモや父ピエロとは違い、大規模な壁画の発注はしていませんが
かなりたくさんの絵画を購入してあげたそうです。
大作発注と定期購入…画家にしたらどちらが嬉しいのかわかりませんけど
ボッティチェリとフィリッピーノ・リッピが特にお気に入りでした。

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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