まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

デンマーク王クリスチャン7世妃 カロリーネ・マチルデ

2010-03-30 23:34:34 | デンマーク王妃
肖像画って大切ね・・・
クリスチャン7世妃 カロリーネ・マチルデ・アフ・ストルブリタニエン


1751~1775/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1766~1772

狂王の妃といえばフランス王シャルル6世妃イザボー・ド・バヴィエールが有名ですが
クリスチャン7世妃カロリーネ・マチルデ(以下マチルデ)もしばしば耳にする王妃です。

マチルデは悲劇の王妃として語られる一方で
恋に溺れた軽薄な女性というレッテルを貼る説もあります。

マチルデの祖父は大英帝国王ジョージ2世で、父フレデリックは王太子でしたが
彼女が生まれる3ヶ月前に急死しました。
マチルデの母オーガスタ・オブ・サクス=コバーク=ゴータは
彼女を謀略うずまく宮廷から遠ざけて教育しました。
マチルデはアウトドア派で乗馬が大好きな、人なつこい無垢な少女に育ちました。

        

バラ色の頬をした愛らしい15歳のマチルデは、兄の大英帝国王ジョージ3世の意向で
即位したばかりの、17歳のクリスチャン7世と結婚することになりました。

クリスチャン7世は、見かけは魅力的でスマートな紳士でした。
しかし、すでにアル中で精神的に不安定で、放蕩に浸っていました。
彼の取り巻きも、おつむの弱い王を持ち上げて遊び回る輩ばかりでした。

婚礼の数日後から、クリスチャンは「愛妻家ほど恥ずかしいことはない」と公言して
マチルデをまったく顧みず、それまでどおり遊びまくっていました。

マチルデのチャーミングさは男性たちの目を惹きました。
しかし厳格な雰囲気のデンマーク宮廷は、溌剌とした気取らない王妃に冷たいものでした。
英国からの従者はすべて国に帰されてしまって話し相手もほとんどいない彼女は
次第に孤立感を強めていきます。

実は(長くなるので)かなりエピソードを省いているのですけど
それでもマチルデの孤独と不幸さは伺いしれます。

クリスチャンがヨーロッパ旅行に出かけ、帰国した時に連れていたのが
ドイツ人医師ストルエンゼでした。
彼は、最初は王夫妻の仲を円満なものにしようとしていましたが
相談にのるうちにマチルデの心を捉え…てなわけで
宮廷内に寝室を与えられ、1770年には確実に王妃の愛人になっていたようです。

クリスチャンの病状はすでに悪化して、政治的判断はとれなくなっていました。
今まで宮廷で無視されていたマチルデは、急に王妃シンパになった人たちに囲まれます。
マチルデはもう有頂天! 次々と新しい友人を役職に取り立てました。

一方のストルエンゼは、財産等の私利私欲には興味がなかったそうですが
政治的な野心は大きな人でした。
彼は1771年に自ら宮内大臣に就任して国の全てを握りました。

マチルデが賢明に振る舞っていれば、ふたりの破滅はなかったと言われています。
ストルエンゼによって国内の政治は改善されました。
税金を下げ、街を整備し、権力の濫用を禁止したため一般市民の人気は高かったし
クリスチャンは何も理解できず、三人でいることが幸せそうでした。

しかし貴族たちは自分の特権が脅かされていくようで見過ごすわけにはいきません。
王妃との不貞を暴いてなんとかストルエンゼを失脚させようとします。
この時の中心人物がフレデリク5世妃だったユリアーネです。

幸せ一杯のマチルデは、ナチュラルなだけに自分が抑えられなかったのね
男さながらの格好で人前に現れたり、人前でストルエンゼといちゃついたり
なんと、王を置き去りにして夏の別荘に行っちゃう始末。
その後生まれた王女ルイーセは、王の子とは認められたものの
あまりにも顔が似ているので “ プチ・ストルエンゼ ” と呼ばれました。

ここらへんが、恋愛問題を上手く切り抜けた女性権力者との違いなのでしょうね。

ところで肖像画ってけっこう重要ね。
上と下を見比べると…

              
                 こちらの肖像画だと
                  なんか同情できなくなったりして…


1772年1月、クリスチャンボー城での舞踏会の後ストルエンゼが逮捕され
マチルデはクロンボー城に送られました。

マチルデを待っていたのは裁判で、彼女には弁護人も認められませんでした。
ストルエンゼを守りたい一心で否定しますが
城内に秘密の通路があったんじゃ申し開きもできませんね。

ストルエンゼは処刑され、マチルデは離婚されます。
兄ジョージ3世は「イギリスに帰られても困るんだよね」ということで
実家の領土ツェレに送られました。

クリスチャン7世は自分が何(ふたりの逮捕状)に署名したかわかっておらず
宮殿中 “ お友達 ” のマチルデとストルエンゼを探し歩いたそうです。

マチルデは、近所の集いに顔を出したり庭仕事をしたりして
ツェレで穏やかに暮らしていました。
貧しい子供たちへの慈善や孤児を引き取ったことでも知られています。

しかしデンマーク国内でクリスチャン7世廃位論が高まると
息子フレデリクの摂政になろうかしら…などと考えてデンマークに帰ることを考え
兄ジョージ3世から愛想をつかされます。

結局デンマークへも祖国であるイギリスにも帰ることなく、1775年に猩紅熱で急死しました。
彼女はウエストミンスター寺院への埋葬を希望していましたがジョージ3世が許さず
ツェレの聖マリア教会に埋葬されました。
奇しくもこの教会には、ジョージ1世妃ゾフィア・ドロテアも埋葬されています。

ううぅむ… 女性から見ると、やはり悲劇の人に思えますね。
いくら前向きに!と言われたところで限度ってものがあります。

ちなみにですが『物語北欧の歴史』の武田龍夫先生によれば
デンマークの方々はクリスチャン7世とカロリーネの話題は好まれない、ということで
避けた方がよろしかろう…とおしゃっています。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』
      エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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デンマーク王フレデリク5世妃 ユリアーネ・マリー

2010-03-29 00:27:47 | デンマーク王妃
息子だけが頼り・・・の王妃
フレデリク5世妃 ユリアーネ・マリー・アフ
          ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル


1729~1796/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1752~1766

ユリアーネはヴォルフェンビュッテル公フェルディナント・アルベルトの娘です。

一刻も早くフレデリクを再婚させたかったモルトケが、この縁談を仕切りました。
フレデリクはしぶしぶ承知したそうです… なんかイヤな予感

        

前王妃ルイーセの死から7ヶ月後にフレデリク5世と結婚したわけなのですが…

ユリアーネ自身のせいではないんですけど、前王妃があまりにも人気者だったので
「再婚が早すぎる」と言われ、結果彼女は不人気な王妃に… 可哀想ですね。

ユリアーネは好かれようと頑張りました。
デンマーク語も覚え、へたくそながら一生懸命話しました。 でも不人気でした。

フレデリクには忠誠心を見せて一途に尽くしました。
でも同情ぐらいしか与えてもらえませんでした。

堅苦しく育ったユリアーネは、宮廷ではどうも浮いちゃったようです。
ルイーセが生んだ子供たちの教育もままならず厳しくしつけることができませんでした。

こうなったら彼女の望みはただひとつ、
王太子クリスチャン(継子)が即位したあかつきには、フレデリク(実子)を摂政に!
実は王にしたくてクリスチャン毒殺を謀った説もあるんですけど、真偽は分りません。

             
               息子の肖像画を掲げた肖像画
                  力の入れっぷりが滲み出ていますね


1766年にフレデリク5世が亡くなってクリスチャン7世が即位します。
クリスチャンも彼の取り巻きたちもユリアーネが嫌いで
彼女は王家の晩餐にもめったに呼ばれなくなりました。

しかし、いつまでも大人しくしてると思うなよぉ!と考えたのでしょうか?
この後彼女はアクションをおこします。
1768年、クリスチャン7世を操っていたと思われる愛妾アンナ追放に加担しました。
1770年、発狂した王に代わって王妃マチルデと愛人ストルエンゼが実権を握ると
反対派の中心になってふたりの不貞を暴き、政府を転覆させました。

晴れて返り咲いたクリスチャン7世の摂政となった息子フレデリクでしたが
実権はユリアーネが握っていました。
実はフレデリクも少し病んでいたりして、国を治められる人物ではなかったのです。
彼女はドイツのフリードリヒ大王から国の治め方のレクチャーを受けたそうです。

ユリアーネは極端な保守派で、貴族の特権を守ることに固執したので
貴族からは英雄扱いされ、改革派からは悪魔よばわりされました。
権力を握ったことで敵も増え、クリスチャン7世廃位の声も高まったほどです。
当時デンマークでおこった災難はすべて彼女のせいにされました。

クリスチャン7世はあんなに嫌っていたユリアーネに頼りきりで
王子フレデリク(後の6世)の教育も彼女に任せました。
けれどもフレデリクは、摂政のように振る舞い、妹と会わせてくれない彼女を嫌っていて
1748年に正式に王太子に任命されると、議会を招集し
摂政フレデリク(=ユリアーネ)の内閣に突然クビを宣言しました。

その後行われた舞踏会で、ユリアーネは何ごとも無かったのかのように
平然としていたということです。

余生は宮廷で静かに暮らし、1796年に亡くなりました。

女性が実権を握ると、なにかと弊害や落ち度が挙げられるけど
王様だって賢い人ばかりじゃないんだしねぇ…
ユリアーネは賢い政治家のひとりと言えるらしいですよ。

なにはさておき彼女の功績は、1775年にとある陶器工場の設立を助けたこと。
ロイヤル・コペンハーゲンは、彼女なしには生まれなかったかもしれません。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』
      エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王フレデリク5世妃 ルイーセ

2010-03-28 01:51:45 | デンマーク王妃
夫の人気を築き上げた王妃
フレデリク5世妃 ルイーセ・アフ・ストルブリタニエン


1724~1751/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1746~1751

ルイーセは大英帝国王ジョージ2世と
賢夫人の誉れ高いキャロライン・オブ・アーンズバックの王女です。

21歳の時、完全に政治的理由からフレデリクと結婚しました。

         

でも、この結婚はとてもうまくいっていたそうです。
フレデリクはルイーセと一緒だととても心地よかったらしい…なのに
浮気はしておりましたし、庶子も5人いました。
ルイーセは見て見ぬふりをしてあげたそうです。 それが秘訣なのかぁ…

1746年に王妃になったルイーセは非常に人気がありました。
美しい! というわけではありませんでしたが、会話が上手で高貴さがあったそうです。
また、音楽やダンス、芝居が好きで、王太后ソフィー時代には堅苦しかった宮廷を
気楽な雰囲気へと変えていきました。

フレデリク5世は、劇場や文学などの文化活動に力を入れた王と言われていますが
ルイーセの影響が大きかったのではないでしょうか。

それから、ルイーセは王太后ソフィーと違ってデンマーク語を学びました。
宮廷では相変わらずドイツ語が主流でしたが
子供たちにもデンマーク語を学ばせるルイーセの姿勢は賞賛を浴びました。

フレデリクは政治的には凡庸で、アルコールに走るタイプの方だったようです。
政治は外相ベルンストッフやモルトケなどのお気に入りに任せていました。
それがかえって良かったのか、対外関係では大きな争いはおこりませんでした。

もしかしたら、母キャロラインがそうしたように
優秀な政治家と結託して、上手に国と王をコントロールしていたかもしれませんよね。

1751年に流産して、その合併症で27歳の若い命を落とします。

人気を支えていたルイーセを失ったフレデリク5世はどうなる? …つづく

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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『復讐の女神』花園を巡りながら…

2010-03-27 13:09:30 | アガサ・クリスティ
NEMESIS 
1971年 アガサ・クリスティ

ある朝、ミス・マープルはラフィール氏の名を新聞の死亡欄で見つけます。
ラフィール氏とは、カリブ海に静養に行った際
ある事件(『カリブ海の秘密』)でミス・マープルに協力してくた大富豪です。

その1週間後、ラフィール氏の弁護士からミス・マープルに手紙が届きます。
カリブ海でおおいにミス・マープルを信頼したラフィール氏は
死を前にしてある依頼を弁護士に託していました。

依頼の内容は「名園を巡るバスツアーに参加すること」?
いったい何がラフィール氏の望みなのでしょうか?
訳が分からぬまま、ミス・マープルはバスに乗り込みます。
しかし、さすがのミス・マープルも弱りました
いくらなんでも情報がないんじゃ…

ミス・マープルはとりあえず乗客を観察することにします。
乗客はミス・マープルを除いて14人…この中に何か手がかりがあるのでしょうか?

バスがジョンスン・セント・メアリに立ち寄った時
近所の旧領主邸に住むブラッドベリースコット三姉妹から招待を受けます。
ラフィール氏の指示によるものらしいのですが
当の三姉妹は本当は迷惑している様子です。

旅行を続けるうち、ミス・マープルはラフィール氏に息子がいたことを知ります。
息子マイクルは札付きの青年で、恋人殺しの容疑で逮捕されていました。
殺された恋人というのが、三姉妹の長女クロチルドが後見人になっていた
ヴェリティ・ハント、彼女は顔をめちゃめちゃにされていました。

バスに乗っていたミス・テンプルは有名女子高の元校長で
ヴェリティを教えたことがありました。
さらに、途中でマイクルとヴェリティの結婚を許可した副司教ブラバゾンも
ミス・マープルを待っていました。
どうやら調査すべきは、マイクルがおこしたとされる
ヴェリティの殺人事件に関することのようですね。

ミス・マープルはこの事件の中に、マイクルとヴェリティの愛の他に
ある強い愛がひそんでいたことに気がつきます。
はたしてその愛とはなんでしょう? 誰の誰に対する愛だったんでしょう?

愛は、男と女の間だけに存在するものではないですからね…

バスで移動する先々でミス・マープルに与えられていくヒント。
ミス・マープルはしっかりラフィール氏の期待に応えます。
かなりのお年だろうに、バスに揺られ歩き回り、真実に近づいていきます。
その真実が、ラフィール氏の望むものであったか、そうでなかったかは…
ぜひ読んでみて下さい

ミス・マープルが英国庭園を巡って大活躍!
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



怒りの 余談です
昨日NHKでやっていた『復讐の女神』はなんですのっ!
ミス・マープルの名を借りたまったく別の物語じゃないかあ?
アガサ・クリスティーは作品が映像化されるのを嫌っていたということですが
そりゃそうだろうよ…面白くなるならまだしも、あんな別物になっちゃうんじゃね。
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『最後の瞬間のすごく大きな変化』豊かな表現力が生む混沌

2010-03-26 23:03:34 | アメリカの作家
ENORMOUS CHANGES AT THE LAST MINUTE 
1974年 グレイス・ペイリー

書きたいことをものすごく自由に表現している気がします。 素晴らしい!
だけどとても難解でございます

あの、今さらな気がしますが…上につけている ☆ は作品の善し悪しではなくて
私のまったく個人的な目安なんですよね。
で、☆ ひとつは「何度読んでも私には理解できんだろうから、もう読むまい」
というような意味です。
☆☆ 、☆☆☆ などの意味は追々…

何が好きかと言われてもよく分からないほどに
どの作品も暗中模索の中読み終えてしまった…という印象です。
うまくあらすじが書けるかどうか、まったく自信がありません
いつも簡単すぎて何が書いてあるか分んないじゃないか!ということはおいといて…

『道のり(Distance)』
息子のジョンが入り浸る2階下の女ジニーの部屋。
ジニーは亭主が他の女と駆け落ちしてからというもの、男と遊び歩いています。
ジョンに結婚を思いとどまらせたところまではよかったのですが
その後は郊外の妻子の家から通って来るようになりました。

『父親との会話(A Conversation with My Father)』
老いた父がモーパッサンやチェーホフが書いたような短篇をリクエストしました。
そこで向かいの家に住んでいる婦人をモデルにしました。
息子のためにジャンキーになって、まっとうになった息子に捨てられた母親…
しかし父はその話しが気に入らないみたいです。

『長距離ランナー(The Long-Distance Runner)』
フェイスは42歳、ダイエットのためにジョギングを始めました。
息子たちをおいて子供時代を過ごした家の近くを走っていたら黒人たちに取り巻かれ
会話を交わすうちに恐怖を感じて昔住んでいた家に逃げ込みます。
結局そこで3週間近く暮らすことになりました。

フェイスが主人公になっている作品はシリーズになっていて
本人がモデルになっているようです。

読んでいたら、まずはフラナリー・オコナーと同様の鋭さを感じました。
人の心を寄せつけない、突き放す、踏みにじる、という冷たさも漂っています。
でも、その後人と人の繋がりを求める欲求が感じられてきました。
ただしその繋がりは薄くて細いかんじ。

訳者村上春樹さんが “ 熱狂的な女性読者が多くいる作家 ” と書いておられますが
「泣けました」とかいう帯がついた本が好きな人には
たぶん向かないと思いますので、念のため…

私はもう1冊『人生のちょっとした煩い』も持ってるんですよね。
ハードカバーで2冊… なんで買ったんだろう?
村上春樹さんの訳だったからか、ホッパーの表紙につられたんだとしか思えません。

最後の瞬間のすごく大きな変化 文藝春秋


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こちら文庫版です
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『シタフォードの秘密』雪がすべてを隠しても…

2010-03-25 23:46:43 | アガサ・クリスティ
THE SITTAFORD MYSTERY 
1931年 アガサ・クリスティ

学生の頃コックリさんって流行りましたねぇ。
懐疑的な私でしたが誘われるままに参加したことがあります。
「誰が動かすのかな?」などと思いながらやってましたけど。

冬になると雪で閉ざされてしまう数戸のコテージの住人が
退屈しのぎに始めたテーブル・ターニングで不気味なお告げがでます。
コテージの持ち主でふもとの町に住むトリヴィリアン大佐が殺されたというのです。
心配になった友人のバーナビ少佐は、皆が止めるのも聞かずふもとまで出かけて行き
変わり果てた大佐を発見しました。

さてさて怪しいのは…
この物語、怪しい人が目白押しで書ききれないんだけど簡単にあげてみると
まずコテージの住民たちがいるでしょ、ざっと6人、みな何か事情を抱えていそうです。
それから大佐の下男、一番チャンスがあった人。
そして大佐の親戚、遺産という動機があります。

結局犯人として逮捕されたのは、甥のジェイムズ・ピアソンでした。
大佐が殺される前に訪ねて来たことが判明したのです。
しかし彼は容疑を否定します。

ジェイムズの婚約者エミリーと、別件で村に来ていた新聞記者チャールズの二人が
真相を突きとめるべくコテージにやってきました。

話しを聞けば聞くほど誰もが怪しいというのはいつもの通りです。

ヒントは… コテージは冬になると雪に閉ざされる…
雪深い地方だということが最大のポイントなんです。

動機はたいしたものじゃありません。
すごく身勝手な理由なのですが、途中でチラッと見え隠れします。
目を皿のようにして読んで下さいね。

あとはねぇ、エミリーとチャールズのラブロマンスがちらりほらりと…
婚約者よりお似合いなんですもの。
ドラマならこちらの方がクローズアップされたりするのでしょうね。
さて、事件が解決した時ふたりは…?

推理と、二人の恋のゆくえも気になる一冊
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



余談です
NHKでミス・マープルシリーズやってましたけれども
『ゼロ時間へ』『無実はさいなむ』もミス・マープルは出てこないんだけどな…
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デンマーク王クリスチャン6世妃 ソフィー・マグダレーネ

2010-03-25 02:34:38 | デンマーク王妃
根っからドイツ人のデンマーク王妃
クリスチャン6世妃 ソフィー・マグダレーネ
              アフ・ブランデンブルク=クルムバハ


1700~1770/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1730~1746

ソフィーはブランデンブルク=クルムバハ家のクリスチャン・ハインリヒの娘で
家柄は良いような悪いような…
本家筋に当たるまたいとこのポーランド王妃クリスティアーネの侍女になり
そこでクリスチャンに出会って、プロポーズされて、1721年に結婚しました。
玉の輿とまでは言いませんけど、かなりハッピーな成り行きですね。

       
クリスチャンとソフィーは父王フレデリク4世の再婚に反対で
あまり関わりをもたないようにして暮らしていました。
クリスチャンが即位した後、アンナ・ソフィーを保護するという父との約束を翻したのは
ソフィーの考えが影響していたと考えられています。
アンナと同じ王冠を着けるのを拒んで、新しい王冠を作らせたほどですからね。

ふたりは仲の良い夫婦だったらしいのですが、人気はありませんでした。
クリスチャン6世は地味目な方だったようです。
ソフィーはというと、デンマーク語を覚えない、決まった人としか親しくしない、
横柄で傲慢、などなどキリがありません。

まさか王妃になれると思ってもいなかった女性が夢を叶えたからなのか
ソフィーは贅沢で華美なものが大好きでした。
宝石やドレスに大枚をはたき、壮麗な儀式に金をつぎ込みました。

それから、堅苦しい礼儀作法を持ち込み格式張った宮廷を作り上げました。
彼女はこうして王妃の威厳を示したかったようです。

宮廷ではそれまで以上にドイツ語やドイツの文化が幅をきかせて
ドイツからついて来た側近たちが重用されました。
ちなみにですけど、未亡人になったソフィーの妹ソフィー・カロリーネ
デンマークに住みついて、クリスチャンの愛妾疑惑もあったりします。

王妃たるもの公的な行いもしませんとね、というわけで
ソフィーが1732年に設立したのは、l'Union Parfaiteという
幸せな結婚生活を送っている女性に与えられる勲章です。
続いて1737年には未婚の貴族女性のためにヴァロー修道院を造りました。

貧しい人はどうでも良かったみたいですわね

自分のためにはヒルショホルム城を建て増ししましたよ。
夏のコテージを“ 北欧のヴェルサイユ ” といわれる美しい城にいたしました。

1746年にクリスチャン6世が亡くなり、フレデリク5世が即位しました。
我が子とはいえまったく性格の違うフレデリクとソフィーは気が合わず
彼女はヒルショホルム城で暮らすようになります。

息子との距離が広がる一方なので、孫のクリスチャンがやってくると
父親への反抗心をあおっていた、という説もあります。

晩年はほとんどベッドから起き上がれない状態ですごしていたソフィーは
1770年に亡くなりました。
鬱病とも言われていますが定かではありません。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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『アンジェラの祈り』二匹目の泥鰌もまた良し

2010-03-25 02:19:04 | イギリス・アイルランドの作家
'TIS : A MEMOIR 
1999年 フランク・マコート

『アンジェラの灰』のインパクトには及びませんでしたが
2作目のプレッシャーを感じさせない、読み応えある物語になっていました。

子供時代の貧困による不幸は人の涙を誘うけど
大人になってからの貧乏は、自己責任ぽくてあまり同情されないものです。
貧乏自慢までする人がいるんだもの。

物語は、著者が19歳で誕生の地ニューヨークに渡ったところから始まります。

そりゃあ、アイルランドから船に乗ってきたわけだから
同郷の人々が出てくるのはしかたないにしても、まわりアイルランド人だらけ。
というわけで、各々が抱える故国アイルランドへの複雑な思いが交錯し
人種による格差が骨身に凍みるエピソードが繰り広げられています。

ホテルの雑用から始まって、軍隊に入りドイツに駐留、
戻ってきたらガールフレンドにふられ、港や冷凍倉庫で働きながら大学へ。
職業訓練高校の教師の口を得たものの、やる気のない生徒ばかり。
しかもかなりの薄給で、休日はやはり倉庫でバイト…この先どうなるという
不安が常につきまとっています。

フランクは父親から(一部)受け継いだ酒癖によって女性を傷つけたり
自分を嘆いたりするんですが、かなり意志の強固な方だとお見受けします。
だって、夜も休日も働きながら大学に通い、卒業するんだもの。
大方の移民の方々は楽な道を選んでいるというのに…

最終的には(父親を除く)一家がそろってニューヨークにやって来て
母アンジェラも人並みな生活の中で永遠の眠りにつくのですけど
果たしてそれで幸せだったのか? という問いかけが残されているようです。

この本を読んでいたらモームの『人間の絆』が頭に浮かびました。
小さな頃から現在に至るまでのひとりの人物を描いた物語とはいえ
主人公以外の登場人物たちにキャラクターがあり、ドラマがあり、
それが物語に大きな彩りを与えているような気がします。

自分のことを正直に書くのはかなり壮絶な作業だと思いますが
よく続編を書く気になって下さいました。
たとえ1作目の当たりに気を良くした2匹目のドジョウ狙いだとしてもこの本なら許す!

ところで、著者の弟マラキ・J・マコートも自伝を書いたそうです
こちらは和訳されてるのかしら? 聞きませんね。
甥のコナー・マコートも『アンジェラの灰』の舞台をネタにしたDVDを発売したそう…
一族に有名人が出るということは、人を浮き足立たせてしまうものかもしれないですね。
『ホームレス大学生』…
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デンマーク王フレデリク4世妃 アンナ・ソフィー

2010-03-22 09:39:58 | デンマーク王妃
祝福されなかった結婚
フレデリク4世妃 アンナ・ソフィー・レヴェントロウ


1693~1743/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1721~1730

アンナの父レヴェントロウ伯コンラッドはフレデリク4世の内閣で
幾度か大臣を務めたことがある人物でした。

アンナが初めてフレデリク4世に会ったのは1711年の舞踏会で
18歳のアンナはすぐに王の気を惹きました。
最初は「愛妾に…」と申し込まれたのですが、母親が断固拒否、というわけで
1712年にスカネルボー城で結婚式を挙げました。

       

この時王妃ルイーセは存命中です。
中世初期ならまだしも、キリスト教も行き渡ったこの時代に王が重婚?
この時教会の重鎮たちは、聖書のヘブライ家長の重婚をもとにして反対しなかったそうです。
何ごとも解釈次第と言うことでね…

1721年にルイーセが亡くなると、ふたりは即正式な結婚式を挙げました。
フレデリクはこの式でアンナとは貴賤結婚でないことを示したかったのです。
だからって、家臣や海外の貴族は納得するわけないんですけど
アンナは戴冠もされて、晴れて正式な王妃になります。

アンナは3人の子供を生んでいますが、不幸なことにいずれも1歳まで育ちませんでした。
人々は “ 不当な結婚に罰がくだった ” と噂したそうです。

アンナ自身が政治に力を及ぼしていたかどうかは定かではないのですが
彼女の親戚たちは影響力を発揮して、高官の地位をどんどん手に入れていき
“ レヴェントロウ・ギャング ” と呼ばれていました。
とりわけ妹のクリスティーネは “ マダム大臣 ” なんて言われるほどで
夫のウルリヒ・ホルシュタインとブイブイ言わせていたみたいです。
(夫のホルシュタイン家はどこから繋がってきているのか探せませんでした)

アンナはというと、未亡人や貧しい人への寄付を施して
“ 貧民階級の保護者 ” と言われましたが、人気のほどは不明です。

母ルイーセと非常に仲が良かった王太子クリスチャンは彼女をひどく嫌ったし
シャルロッテ王女を除くルイーセの子供たちも抗議のために宮殿を出て行きました。

こんな仕打ちは予想していたことかもしれないけど… 今後が心配ですね。
王も若くはないし、子供がいなきゃ老後が…
フレデリクも心配になったのか、自分の死後アンナの身分が保証されるように
子供たちから署名を得ようと骨を折りました。

でもやっぱりねぇ… 1730年にフレデリクが亡くなって、クリスチャン6世が即位すると
アンナはコペンハーゲンから追放されました。
とりあえずユトランドの実家に帰りましたが、その生活は軟禁同然で
クリスチャン6世の許可なく家を出ることはできず、厳しい監視下におかれていました。

アンナはフレデリクが亡くなった時は37歳でした。
その後の13年間の人生を、家に籠ったまま、どんな思いで過ごしたのでしょうね?
宮廷時代の美しい日々を穏やかに思い返していたのか
「くっそ~、クリスチャンめ」と恨みつらみを並べていたのか…
ちょっと気になります。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedai英語版)
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デンマーク王フレデリク4世妃 ルイーセ

2010-03-22 09:39:00 | デンマーク王妃
重婚王に耐え忍んだ王妃
フレデリク4世妃 ルイーセ・アフ・メクレンブルク=ギュストロフ


1667~1721/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1699~1721

ルイーセはギュストロフ公グスタフ・アドルフの娘で
1695年にフレデリクと結婚しました。
28歳というのは、当時としてはかなり晩婚に思えます。
フレデリクは4歳年下でした。

        

大人しい性格だったようで、宮廷でもひっそりと暮らしていました。

フレデリク4世もなんとかスウェーデンに一矢報いようとしていましたが敗戦が続き
デンマークはもはやスウェーデンに太刀打ちできなくなっていました。
国力も衰えを見せはじめました。

でも、それはそれとして…
フレデリク4世は人気があり、女性関係も華やかな王でした。
なんと重婚しています。 しかも2回!
1703年と1712年で、ルイーセの存命中でした。
いくらなんでも、宮廷だってざわつきますよね。
しかしルイーセは相変わらずひっそりと暮らし続けました。

ルイーセは1708年から2年間、王の不在中の摂政を務めていますが
それ以外は、子供たちへの義務を怠り無くこなしたり
宗教書を読んだりして時を過ごしていたようです。
長男クリスチャンとは友達のように仲が良かったと言われています。

フレデリク4世の2度目の重婚から9年後の1721年にコペンハーデンで亡くなりました。
フレデリクー! せめて臨終の場には立ち会ったんでしょうね?
独りで逝かしたなんて言ったら許さないよっ

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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『アンジェラの灰』実名で書く勇気に感服

2010-03-22 09:38:05 | イギリス・アイルランドの作家
ANGELA'S ASHES 
1996年 フランク・マコート

物語のつもりで読んでいたらノンフィクションだそうです。
関係者のほとんどが故人になっているからできるのでしょうけど
こんなに赤裸々に書いてしまって大丈夫なのかいな?

ニューヨークで生まれ、アイルランドのリムリックで育った著者の
物心がついてから19歳までを綴ったものです。

酒飲みの父親が臨時雇いの仕事の賃金も失業手当も飲んでしまって家族は極貧、
食べるものはなく、着るものボロボロ、という少年時代。
このての題材を扱った自叙伝はけっこう好まれがちですが、貧しさがハンパじゃないし
その貧しさを乗り切るために盗みをやったり、施しを受けるために演出をしてみたり
人の捨てた物をなめたり吸ったり…という書きづらいことも書いてあります。

それどころか、父マラキが子供の葬式の日にまで酒を飲むエピソードや
母アンジェラが行き場を失って身を寄せたいとこと関係を重ねる話しなど
いくら小説のためとはいえ、いいんですか? 書いちゃって…と言いたくなります。

でもそういうエピソードで、確かに物語はぐっと面白味を増しています。
きれいごとばかりの自叙伝なんて、読んでて鼻白むものね。

さらに著者の人生を一層興味深いものにするのは、強いカトリック信仰です。
ジョイスの『若い芸術家の肖像』の時にも思ったんだけど
(ここからはカトリックを知らない者のひとりごとと思ってほしい
思春期特有の甘酸っぱい思いさえ「罰が下る」とか「地獄に堕ちる」と苦悩するなんて
果たして信仰してて幸福なのかしら?
罪の意識に苛まれながらの恋愛、初体験、夢想… なんだか暗澹たる青春時代みたい。

それから、国の事情によるある意味頑迷な国民性。
日本人もよく “島国根性 ” なんて言われますが、登場人物たちの強い帰属意識の前には
私たちのナショナリズムなんてかなり曖昧なものに思えてきます。

こういった “昔貧乏だった小説 ” では、家族愛や隣人の親切によって心温まる…という
一連の流れがつきものですが、そこはあまり期待しないで下さい。
たしかに心優しい隣人は登場するし、いわゆる “ いい話し ” もあります。
でも、どちらかというとそうでないエピソードの方が心に深く残ります。

この自伝を書き上げることは、世間の風は冷たいことを幼い頃から叩き込まれた著者の
ペンによる復讐だったのかもしれません。
すでに許し胸にしまっていた過去を掘り出して、世間の目に晒すことで
小さな満足が得られたんじゃないでしょうか?

だってひどい人は本当にひとでなしに思えるんだもの。
手加減なし… 実名だったら(そして生きていたら)今後の人生がきついものになりそうよ。

悲惨なことが盛りだくさんな内容の割に満ち足りた気分で読めて
ハッピーだとさえ感じられたのは
ひとえに著者の前向きさとユーモア精神がきいた文章の成せる技だと思います。

いくら希有な体験だったとしても、貧しい少年時代をだらだら書いただけの本だったら
こんなにときめく本にはならない! さすがピュリッツァー賞!!

ニューヨークに渡ってからのお話は『アンジェラの祈り』につづく…

アンジェラの灰 (上) 新潮社


このアイテムの詳細を見る

こちら文庫版。上下になっているみたいです。
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『二重人格』壊れゆく人の足掻きなの?

2010-03-18 23:05:01 | ロシアの作家
Ф.М.ДОТОЕВСКИЙ 
1846年 ドストエフスキー

やっぱり苦手なんですよ…ドストエフスキー。
読んでいるとイライラしてしまうからなのです。
しかも「あんた、わざとやってるね!」って気がして一層苛つきます。

主人公はヤーコフ・ゴリャートキンという小役人です。
本当にイラ っとする人です。

小心者でうじうじ考えるタイプ、拠り所は正直者で策謀家じゃない自分。
まわりの人たちが悪巧みばかり考えていると蔑みながらも
その人たちの顔色をうかがわずには動けない中年男性です。

ある日恩人の家で大失敗をやらかしてしまいうちひしがれて帰宅する途中
自分とソックリな男性に出会いました。

そして翌日役所に行くとまたしてもその男が…
聞けば名前も、出身地も一緒だというではありませんか。

その日からゴリャートキンは新ゴリャートキンに出し抜かれ
焦れば焦るほど窮地に追い込まれていきます。

要領が良くて、一物ありそうな新ゴリャートキンにはムカつきます。
でも旧ゴリャートキンには同情できない卑屈さがあります。
だからふたりの絡みの部分ではイライラ&ムカムカ

あんまり気分が悪いから急いで読んじゃおうと思って夜更かししましたよ。
ところが、気分が悪い割にけっこう面白かったりするんですよね。

生死に関わるならともかく、たいしたこととは思えないことで足掻く人って
本人には申し訳ないけど、他人には少し滑稽に映りません?

ゴリャートキンの足掻きはすごいぞ!
どうして明日まで待てないか? 何故に後先を考えないか? という
浅はかなアクションを連発します。

そして、すでに壊れかけていたゴリャートキンは
瓜二つの男のせいで完全に崩壊します。

で、新ゴリャートキンは何者か? ということですよね。
私にははっきり分らないんですけど…やっぱり幻覚ってことなのでしょうか?
“ 二重人格 ” というのとは、ちょっと違う気がしております。

二重人格  岩波書店


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デンマーク王クリスチャン5世妃 シャルロッテ・アマリエ

2010-03-18 22:57:56 | デンマーク王妃
アナーキーな王妃
クリスチャン5世妃 シャルロッテ・アマリエ・アフ・ヘッセン=カッセル


1650~1714/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1670~1699

父はヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世で、とりたてていうことはありません。
母のヘドヴィヒ・ゾフィー・フォン・ブランデンブルクは志高い(宗教)改革派で
大選帝侯と呼ばれた兄フリードリヒ・ヴィルヘルムが治めるブランデンブルクに
追随するべきだと考えていました。

フランス語、イタリア語、地理、哲学など、とても高い教育を受けた上に
母親の影響が強く及んだシャルロッテは、やはり強い改革の意志を持っていました。

         
シャルロッテとクリスチャンの縁談をまとめたのはソフィー・アマリエ
影響力が落ちてきた彼女は、嫁を支配下において息子をコントロールするつもりでした。
でも、その考えはものすごくアマかった

ふたりは1665年にお見合いしましたが、宗教的な問題で結婚は延び延びになります。
交渉開始から2年後に結婚することになったものの、改宗は受け入れませんでした。
彼女は改革の信念を変えることなく、当時不法だった改革派にも面会しました。

クリスチャン5世は善良な人柄で、国民の支持が高い王だったそうですけど
強烈な個性が見当たらないのよね。
こんなにパワフルな王妃を相手にして、イニシアチブがとれていたのでしょうか?
クリスチャンは妻に、母のようにでしゃばってほしくありませんでした。

幸運にもシャルロッテの興味は、宗教と義母ソフィーとの争いに向いていたようです。

まず教会方面では
彼女および宮廷はルター派教会からの指図は受けないという権利を勝ち取りました。
改革派教会の建設も認めさせて、大金を融通しました。
もちろんルター派は黙っちゃいなかったのですけどね。

義母との抗争は
シャルロッテは絶対にソフィーと暮らそうとしませんでした。
礼儀作法の面でも常に言い争っていましたし
ソフィーが嫌って逮捕・投獄したレオノーラの解放も訴え続けました。
子飼いにしようと思ってたのに… ソフィーのアテは大きく外れたわけです。

シャルロッテは、そんなに美しいとは言えませんが
チャーミングで非常に如才がない女性だったそうです。
スパイ(!)のために送り込まれた侍女ユスティーヌは、いつしか影響を受けてしまい
時にはシャルロッテの手先として働いたこともありました。

長くなるからはしょるけど、シャルロッテは1700年にスウェーデンが攻めて来た時
コペンハーゲンを防衛してヒロイン並の人気を手に入れています。
彼女はこの人気を利用して、教会に一般市民への門戸開放を訴えました。

シャルロッテは国内にかなりの領地を持っていました。
どの領地も非常に効率よく運営すされていたそうです。
彼女に政治的野望があったら、クリスチャンはひとたまりもなかったかもしれませんね。

クリスチャンは度々浮気をして、愛ある夫婦生活というわけにはいきませんでした。
でも子供たちにはとてもよい母親で、和気あいあいとしていたそうです。

コンサバな宮廷ではそんなに人気者ではなくて、むしろ無視されたりもしましたが
そんなことは気にせず、宮廷生活そのものを楽しんでいました。
今で言うなら “ まわりに左右されない自分のスタイルを持った女性 ” ですね。

クリスチャンが亡くなると、前もって購入しておいたシャルロッテンボー宮殿に引退し
15年後にそこで亡くなりました。

シャルロッテンボー宮殿は、現在デンマーク王立芸術アカデミーになっています。

物事を内部から変えようとすることは、外から圧力をかけて変えさせるより
パワーが必要かもしれませんね。
外部には勝手にブーブー言わせときゃいいんだけど
内部だと毎日顔をあわせなきゃなりませんからね。

だから政治家に都合の悪い法案てなかなか決まらないんだと思うわ。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王フレデリク3世妃 ソフィー・アマリエ

2010-03-16 00:55:33 | デンマーク王妃
これぞ王妃!の贅沢三昧
フレデリク3世妃 ソフィー・アマリエ
            アフ・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク


1628~1685/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1648~1670

ソフィーはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ゲオルクの娘で
デンマーク王クリスチャン3世の曾々孫にあたります。
甥は大英帝国王ジョージ1世、息子はイギリス女王アンの婿、
娘はスウェーデン王カール11世妃…華やかな家系図ですね。

        
1640年ソフィーと結婚した時、四男のフレデリクは王太子ではありませんでした。
当時フレデリクはブレーメン主教で、ふたりは慎ましやかな生活を送っていました。

ところが、フレデリクの兄の三男クリスチャン(長男と次男は夭逝)が亡くなり
フレデリクが王太子になって、さらに翌1648年に王に即位すると
ソフィーの生活は一変します。

クリスチャン4世が築いたデンマークの繁栄は、相次ぐスウェーデンへの敗北で
下降線をたどり、国の財政も厳しくなっていました。

でもそれは男の世界のことよね!ということか、ソフィーは宮廷ライフを満喫します。

まずは豪華な家具調度、別注の限定品もバンバン購入。
それから連日連夜の舞踏会や芝居などを催して、ドレスも次から次へと手に入れます。

1649年には、宮廷をフランスやドイツのようにお洒落にしようと改装に手を付け
ものすごい量の注文品が運び込まれるは、新しい使用人がやって来るはのやりたい放題。
ドイツの聖職者やフランスの四重奏者、バレリーナなども雇い入れました。
イベントの無い日は無く、自分や子供たちも劇に出演したりしています。

フレデリクは内向的な人だったので宮廷はソフィーの独壇場でした。
それに家臣に追従されたり、お気に入りに褒美を与えたりするのが大好き…
前王クリスチャン4世時代に、自分を差し置いてファーストレディの役目を果たしていた
フレデリクの義妹が許せず、王妃になってからは絶対に一緒に過ごそうとしませんでした。
なんだか裸の王様タイプの女性じゃありません?

政治でも主導権がとりたかったらしく、夫や息子が即位した時には
かなり影響力を及ぼしたみたいです。

フレデリク3世は、デンマークに絶対王政を確立した王ですが
これもソフィーの入れ知恵らしいし、スウェーデンとの開戦も彼女の差し金らしい…
負けちゃうんだけどね。

これだけわがまま放題のエピソードばかりで
マリー・アントワネットみたいに糾弾されない、というのが不思議ですね?
それどころか、ソフィーは一時、大の人気者になったんですよ!

スウェーデンの包囲がコペンハーゲンにまで迫った時
ソフィーは人道的援助を行い、市民の士気も高まってなんとか首都を死守しました。

ソフィーは最高潮の人気を利用して、 すかさず気に入らない貴族から屋敷を没収します。
また、ファーストレディの役目を奪われていたレオノーラを夫とともに逮捕して
死ぬまで解放しませんでした。

1670年、フレデリク3世が亡くなり、未成年の息子が即位しました。
しかし、こんなに Going my way な人に政治を任せるのは危険極まりないですよね?
というわけで摂政にはなれませんでした。
それでもしばらくは息子の政治にがんがん口を出していたようですけど
そのうち何も知らされなくなり、表舞台からは退きました。

でも家族の中では… 息子の嫁の作法が気に入らずぶつかってばかり、と
相変わらずパワフルな姑ぶりを発揮します。

ソフィーは、フレデリク3世が亡くなる前の年からアマリエンボー宮殿の建築にとりかかり
すごい勢いで1673年までに建てさせました。
「夫の力が及ぶうちに…」ってことですか?
未亡人になってからはほとんどの時間をそこで過ごしました。
息子や嫁は「城、建てといて良かったね」と思ったかもしいれませんね

              
                 慎ましい頃(?)の肖像画
                 ほっそりしているのに…贅沢しすぎちゃったかしら?


(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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『園芸家12ヶ月』冬の園芸ライフを反省 (´□`。)°゜

2010-03-16 00:55:17 | その他の国の作家
ZAHRDNIKUV ROK 
1929年 カレル・チャペック

私は、この方の小説は読んだことがないんです。
『人造人間』とかってSF? アクションもの?
この本は古本市で買って置き去りになっていました。

日曜日に春蒔きの種を植えまして、いよいよ園芸シーズンが到来です。
イメージトレーニングを…なんて思って読んだら
ああ! 私は冬の間いったい何を考えていたんでしょう

秋蒔きの種があまり上手くいかなかったのでボーとして過ごしていましたけど
1月には室温で種の発芽、2月には土作りetc. やることはたくさんあったんだ…

プラハの庭を舞台に、天候と土とアブラ虫とうどんこ病と戦う園芸家の1年が
月毎に記されている面白くも身につまされる一冊です。

3月からは種蒔きに始まって、移植・定植・雑草抜きなどをしているうちに
花のシーズンがやってきます。

しかし、アブラ虫! やったことのない方には分らないと思うのですが
これは死闘なんですよ。
何をかけても撒いても次の日にはまたビッシリこびりついてますからね

夏は土がカラカラにならないように気を配り、枯れた花はマメに花ガラ摘み。
9月、10月は再び種蒔きシーズンです。
で、私は種を植えて定植すれば園芸シーズンも終わったつもりでいましたら
冬に向けて防寒対策をしたり、剪定だの新たに土作りだの休む閑なし!です。

私は鉢植えですので、著者のように庭計画をたててカタログから苗を選び出し
注文する作業はありませんが、それでも花図鑑を見ながら
こんな花を咲かせたいな… などと夢見ています。

こんな私でも、種蒔きの時は雨が降れば細かい種のポットを軒下に入れたり
花が咲けば太陽に合わせて “ 日当り良好 ” 印の花の鉢をとっかえひっかえ置き直したりと
本に書いてある園芸家の端くれみたいな行動をしていまして
随所で笑ってしまいました。

テキストのような堅苦しさはまったくなく、聞き慣れない花の名もたくさんあって
楽しみながらやるべきことを教えていただいた… そんな感じです。

最後に、内容とはまったく関係ないのですが…
表紙や中面のほのぼのする挿絵は、お兄様のヨゼフ・チャペックのもので
お兄様はナチスの強制収容所で亡くなったそうです。
本の内容の長閑さと、その後東欧が置かれた境遇の厳しさのギャップに戸惑いました。
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