肖像画って大切ね・・・
クリスチャン7世妃 カロリーネ・マチルデ・アフ・ストルブリタニエン
1751~1775/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1766~1772
狂王の妃といえばフランス王シャルル6世妃イザボー・ド・バヴィエールが有名ですが
クリスチャン7世妃カロリーネ・マチルデ(以下マチルデ)もしばしば耳にする王妃です。
マチルデは悲劇の王妃として語られる一方で
恋に溺れた軽薄な女性というレッテルを貼る説もあります。
マチルデの祖父は大英帝国王ジョージ2世で、父フレデリックは王太子でしたが
彼女が生まれる3ヶ月前に急死しました。
マチルデの母オーガスタ・オブ・サクス=コバーク=ゴータは
彼女を謀略うずまく宮廷から遠ざけて教育しました。
マチルデはアウトドア派で乗馬が大好きな、人なつこい無垢な少女に育ちました。
バラ色の頬をした愛らしい15歳のマチルデは、兄の大英帝国王ジョージ3世の意向で
即位したばかりの、17歳のクリスチャン7世と結婚することになりました。
クリスチャン7世は、見かけは魅力的でスマートな紳士でした。
しかし、すでにアル中で精神的に不安定で、放蕩に浸っていました。
彼の取り巻きも、おつむの弱い王を持ち上げて遊び回る輩ばかりでした。
婚礼の数日後から、クリスチャンは「愛妻家ほど恥ずかしいことはない」と公言して
マチルデをまったく顧みず、それまでどおり遊びまくっていました。
マチルデのチャーミングさは男性たちの目を惹きました。
しかし厳格な雰囲気のデンマーク宮廷は、溌剌とした気取らない王妃に冷たいものでした。
英国からの従者はすべて国に帰されてしまって話し相手もほとんどいない彼女は
次第に孤立感を強めていきます。
実は(長くなるので)かなりエピソードを省いているのですけど
それでもマチルデの孤独と不幸さは伺いしれます。
クリスチャンがヨーロッパ旅行に出かけ、帰国した時に連れていたのが
ドイツ人医師ストルエンゼでした。
彼は、最初は王夫妻の仲を円満なものにしようとしていましたが
相談にのるうちにマチルデの心を捉え…てなわけで
宮廷内に寝室を与えられ、1770年には確実に王妃の愛人になっていたようです。
クリスチャンの病状はすでに悪化して、政治的判断はとれなくなっていました。
今まで宮廷で無視されていたマチルデは、急に王妃シンパになった人たちに囲まれます。
マチルデはもう有頂天! 次々と新しい友人を役職に取り立てました。
一方のストルエンゼは、財産等の私利私欲には興味がなかったそうですが
政治的な野心は大きな人でした。
彼は1771年に自ら宮内大臣に就任して国の全てを握りました。
マチルデが賢明に振る舞っていれば、ふたりの破滅はなかったと言われています。
ストルエンゼによって国内の政治は改善されました。
税金を下げ、街を整備し、権力の濫用を禁止したため一般市民の人気は高かったし
クリスチャンは何も理解できず、三人でいることが幸せそうでした。
しかし貴族たちは自分の特権が脅かされていくようで見過ごすわけにはいきません。
王妃との不貞を暴いてなんとかストルエンゼを失脚させようとします。
この時の中心人物がフレデリク5世妃だったユリアーネです。
幸せ一杯のマチルデは、ナチュラルなだけに自分が抑えられなかったのね
男さながらの格好で人前に現れたり、人前でストルエンゼといちゃついたり
なんと、王を置き去りにして夏の別荘に行っちゃう始末。
その後生まれた王女ルイーセは、王の子とは認められたものの
あまりにも顔が似ているので “ プチ・ストルエンゼ ” と呼ばれました。
ここらへんが、恋愛問題を上手く切り抜けた女性権力者との違いなのでしょうね。
ところで肖像画ってけっこう重要ね。
上と下を見比べると…
こちらの肖像画だと
なんか同情できなくなったりして…
1772年1月、クリスチャンボー城での舞踏会の後ストルエンゼが逮捕され
マチルデはクロンボー城に送られました。
マチルデを待っていたのは裁判で、彼女には弁護人も認められませんでした。
ストルエンゼを守りたい一心で否定しますが
城内に秘密の通路があったんじゃ申し開きもできませんね。
ストルエンゼは処刑され、マチルデは離婚されます。
兄ジョージ3世は「イギリスに帰られても困るんだよね」ということで
実家の領土ツェレに送られました。
クリスチャン7世は自分が何(ふたりの逮捕状)に署名したかわかっておらず
宮殿中 “ お友達 ” のマチルデとストルエンゼを探し歩いたそうです。
マチルデは、近所の集いに顔を出したり庭仕事をしたりして
ツェレで穏やかに暮らしていました。
貧しい子供たちへの慈善や孤児を引き取ったことでも知られています。
しかしデンマーク国内でクリスチャン7世廃位論が高まると
息子フレデリクの摂政になろうかしら…などと考えてデンマークに帰ることを考え
兄ジョージ3世から愛想をつかされます。
結局デンマークへも祖国であるイギリスにも帰ることなく、1775年に猩紅熱で急死しました。
彼女はウエストミンスター寺院への埋葬を希望していましたがジョージ3世が許さず
ツェレの聖マリア教会に埋葬されました。
奇しくもこの教会には、ジョージ1世妃ゾフィア・ドロテアも埋葬されています。
ううぅむ… 女性から見ると、やはり悲劇の人に思えますね。
いくら前向きに!と言われたところで限度ってものがあります。
ちなみにですが『物語北欧の歴史』の武田龍夫先生によれば
デンマークの方々はクリスチャン7世とカロリーネの話題は好まれない、ということで
避けた方がよろしかろう…とおしゃっています。
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』
エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wikipedia英語版)
クリスチャン7世妃 カロリーネ・マチルデ・アフ・ストルブリタニエン
1751~1775/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1766~1772
狂王の妃といえばフランス王シャルル6世妃イザボー・ド・バヴィエールが有名ですが
クリスチャン7世妃カロリーネ・マチルデ(以下マチルデ)もしばしば耳にする王妃です。
マチルデは悲劇の王妃として語られる一方で
恋に溺れた軽薄な女性というレッテルを貼る説もあります。
マチルデの祖父は大英帝国王ジョージ2世で、父フレデリックは王太子でしたが
彼女が生まれる3ヶ月前に急死しました。
マチルデの母オーガスタ・オブ・サクス=コバーク=ゴータは
彼女を謀略うずまく宮廷から遠ざけて教育しました。
マチルデはアウトドア派で乗馬が大好きな、人なつこい無垢な少女に育ちました。
バラ色の頬をした愛らしい15歳のマチルデは、兄の大英帝国王ジョージ3世の意向で
即位したばかりの、17歳のクリスチャン7世と結婚することになりました。
クリスチャン7世は、見かけは魅力的でスマートな紳士でした。
しかし、すでにアル中で精神的に不安定で、放蕩に浸っていました。
彼の取り巻きも、おつむの弱い王を持ち上げて遊び回る輩ばかりでした。
婚礼の数日後から、クリスチャンは「愛妻家ほど恥ずかしいことはない」と公言して
マチルデをまったく顧みず、それまでどおり遊びまくっていました。
マチルデのチャーミングさは男性たちの目を惹きました。
しかし厳格な雰囲気のデンマーク宮廷は、溌剌とした気取らない王妃に冷たいものでした。
英国からの従者はすべて国に帰されてしまって話し相手もほとんどいない彼女は
次第に孤立感を強めていきます。
実は(長くなるので)かなりエピソードを省いているのですけど
それでもマチルデの孤独と不幸さは伺いしれます。
クリスチャンがヨーロッパ旅行に出かけ、帰国した時に連れていたのが
ドイツ人医師ストルエンゼでした。
彼は、最初は王夫妻の仲を円満なものにしようとしていましたが
相談にのるうちにマチルデの心を捉え…てなわけで
宮廷内に寝室を与えられ、1770年には確実に王妃の愛人になっていたようです。
クリスチャンの病状はすでに悪化して、政治的判断はとれなくなっていました。
今まで宮廷で無視されていたマチルデは、急に王妃シンパになった人たちに囲まれます。
マチルデはもう有頂天! 次々と新しい友人を役職に取り立てました。
一方のストルエンゼは、財産等の私利私欲には興味がなかったそうですが
政治的な野心は大きな人でした。
彼は1771年に自ら宮内大臣に就任して国の全てを握りました。
マチルデが賢明に振る舞っていれば、ふたりの破滅はなかったと言われています。
ストルエンゼによって国内の政治は改善されました。
税金を下げ、街を整備し、権力の濫用を禁止したため一般市民の人気は高かったし
クリスチャンは何も理解できず、三人でいることが幸せそうでした。
しかし貴族たちは自分の特権が脅かされていくようで見過ごすわけにはいきません。
王妃との不貞を暴いてなんとかストルエンゼを失脚させようとします。
この時の中心人物がフレデリク5世妃だったユリアーネです。
幸せ一杯のマチルデは、ナチュラルなだけに自分が抑えられなかったのね
男さながらの格好で人前に現れたり、人前でストルエンゼといちゃついたり
なんと、王を置き去りにして夏の別荘に行っちゃう始末。
その後生まれた王女ルイーセは、王の子とは認められたものの
あまりにも顔が似ているので “ プチ・ストルエンゼ ” と呼ばれました。
ここらへんが、恋愛問題を上手く切り抜けた女性権力者との違いなのでしょうね。
ところで肖像画ってけっこう重要ね。
上と下を見比べると…
こちらの肖像画だと
なんか同情できなくなったりして…
1772年1月、クリスチャンボー城での舞踏会の後ストルエンゼが逮捕され
マチルデはクロンボー城に送られました。
マチルデを待っていたのは裁判で、彼女には弁護人も認められませんでした。
ストルエンゼを守りたい一心で否定しますが
城内に秘密の通路があったんじゃ申し開きもできませんね。
ストルエンゼは処刑され、マチルデは離婚されます。
兄ジョージ3世は「イギリスに帰られても困るんだよね」ということで
実家の領土ツェレに送られました。
クリスチャン7世は自分が何(ふたりの逮捕状)に署名したかわかっておらず
宮殿中 “ お友達 ” のマチルデとストルエンゼを探し歩いたそうです。
マチルデは、近所の集いに顔を出したり庭仕事をしたりして
ツェレで穏やかに暮らしていました。
貧しい子供たちへの慈善や孤児を引き取ったことでも知られています。
しかしデンマーク国内でクリスチャン7世廃位論が高まると
息子フレデリクの摂政になろうかしら…などと考えてデンマークに帰ることを考え
兄ジョージ3世から愛想をつかされます。
結局デンマークへも祖国であるイギリスにも帰ることなく、1775年に猩紅熱で急死しました。
彼女はウエストミンスター寺院への埋葬を希望していましたがジョージ3世が許さず
ツェレの聖マリア教会に埋葬されました。
奇しくもこの教会には、ジョージ1世妃ゾフィア・ドロテアも埋葬されています。
ううぅむ… 女性から見ると、やはり悲劇の人に思えますね。
いくら前向きに!と言われたところで限度ってものがあります。
ちなみにですが『物語北欧の歴史』の武田龍夫先生によれば
デンマークの方々はクリスチャン7世とカロリーネの話題は好まれない、ということで
避けた方がよろしかろう…とおしゃっています。
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』
エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wikipedia英語版)