まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『愛は束縛』手段を選ばぬ愛の儚さ

2009-07-31 00:29:24 | フランスの作家
LA LAISSE 
1989年 フランソワーズ・サガン

どっきりしちゃう題名ですが原題は “ 犬のリード ” という意味があるそうで…
そちらの方が恐ろしい

男性の皆さん、ジゴロってどうでしょう? 憧れちゃう感じですか?
それもただのジゴロじゃない! すごく金持ちで美しい女性が相手です。

ヴァンサンという音楽家志望の青年がおりまして、ローランスという女性と結婚して以来
一文の収入もないのに、彼女の母親が遺した豪奢なアパルトマンで暮らし
彼女好みの仕立てのいいスーツに身を包み、結構な生活を送っておりました。
おお、羨ましい … でもまわりにはジゴロよばわりされていました。

物語はヴァンサンが映画の主題歌を作曲し、大ヒットしたところから始まります。
ヴァンサンはこれでやっと自分の収入で生活できるし、ローランスも喜んでくれると
思っていたのに、彼女はピアニストとして成功したわけではないと言って不機嫌です。

ヴァンサンは、もしや! と思いあたります。
これまで金銭的な苦労はない変わりに彼の自由は奪われていました。
食事は彼女と食べねばばらないし勝手に外出できないので残っている友人はただひとり
行きつけの店もパーティーもすべて彼女のテリトリーです。
ローランスはヴァンサンが収入だけでなく自由を得るのが気に入らないのです。

実はヴァンサンの成功はささやかなものではなくてけっこうすごいの。
それに対してローランスの打つ手というのがこれまた … 一枚上手なんです。

まず曲がヒットしてヴァンサンが騒がれだしマスコミがやって来そうになると
彼を連れて人里離れたイタリアの孤島へ行ってしまったんですね。

それから印税が100万ドル超えと分かると、知人をたきつけて寄付をさせようとしたり
銀行口座を連名にして勝手にお金をおろせないようにいたしました。

アカデミー賞にノミネートされることが分かると、新聞にこれまでのふたりのことを語り
ここで彼女を捨てたらヴァンサンは人でなし!という状況をつくりあげます。

ヴァンサンは本当に彼女を愛していて、そんな気はさらさら無かったんです。
自由が手に入って、いちいち外出先や誰に会うか言わなくていい生活がしたかっただけ。
けれどここに至って家を出て行くことを決心します。

どんでん返しがあって … な~んだ と思ったら、再度どんでん返し!
最後まで気が抜けない物語でした。

サガンの後期の作品ですが、いろいろと経験したせいか激しさがありました。
この物語に優しさや救いは … ない!!
本来別れるふたりにやさしさなんて無い方がいいのかもしれませんけどね。

ローランスがヴァンサンを心底愛しているのは分かりましたが度を過ぎると醜いね。
ただ塩梅が分からなくなってしまうものなんじゃないかしら? 本気の愛って。

私もけっこう「何処で飲んだ」「誰と飲んだ」ってうるさく聞くからなぁ …
でもこれは挨拶みたいなもので … 普通ですよね?
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イングランド王ヘンリー8世愛妾 メアリー

2009-07-31 00:29:11 | 王の寵姫・愛妾
妹に負けて…良かったのかも
メアリー・ブーリン


1499~1543/愛妾 1520~1525?

言わずと知れたヘンリー8世妃アン・ブーリン のお姉ちゃんでございます。
ふたりの母エリザべスもヘンリー8世の愛人だった時代があったようですが
姉メアリーも … どんな一家だい?

       

メアリーはヘンリー8世の妹メアリーがルイ12世に嫁ぐ直前に侍女になり
一緒にフランスへ渡りました。
ルイ12世が3ヶ月後に崩御し、秘密の結婚をした(王妃)メアリーは
イングランドに帰国しますが、メアリー(ブーリン)は父親が大使として
フランスにやって来ることになっていたのでそのまま残り
フランソワ1世の宮廷に出仕していました。

メアリーは美しく愛嬌があって…そして母親に似たのね。
フランスではいくつかの情事があったようで、フランソワ1世のお相手もしたらしいのね。
“ イングランドの牝馬 ” とか “ 誰とでもやってくれる偉大なる売春婦 ” なんて
言われていたみたいです … イングランドとフランスは仲悪かったから辛口ね

1520年侍従ウィリアム・キャリーと結婚するために帰国したメアリーは
たちまち式に列席したヘンリー8世の愛妾になってしまいました。
メアリーは愛妾として取沙汰されたくなかったのでこの関係は極秘にされました。

1522年、妹アンが帰国しヘンリー8世は興味を示します。
メアリーと別れようと考えたのはこの時で、姉妹両方と関係を持つと
神の怒りを受けるという恐れを覚えたかららしい…
1525年にはふたりの関係は終わりを告げていたようです。
アンは姉と違って思慮深く落ち着いていましたから愛妾はお断り!と拒否し続け
結婚の約束をとりつけてから身をまかせたということです。

1528年、夫のキャリーが亡くなるとアンはメアリーの長男ヘンリーの後見人になり
100ポンド(ぽっちり)の年金が与えられるようにヘンリーに仲介しました。

難行していたキャサリンとの離婚が成立しアンが晴れて王妃として戴冠した翌年の
1534年、メアリーはこっそり兵士のウィリアム・スタフォードと再婚しました。
なぜにこっそりかというと、王妃の姉妹が結婚するには身分が低すぎたからね。
案の定結婚がバレるとアンは怒り狂い、ブーリン家はメアリーを宮廷から閉め出しました。

メアリーが困窮した時にもブーリン家は誰も相談にのってくれませんでした。
アンはちょっと優しい気持ちをだしたらしく幾ばくかの金を与えましたが
宮廷を訪ねて来ることは許しませんでした。

アンとブーリン一家がロンドン塔に囚われた後、メアリーが会いに行ったという
記録は残っていません。
メアリーと夫はすでにエセックスで静かに暮らしていたし
ブーリン家は電光石火で処刑されてしまったから時間もありませんでしたけど
やはり冷たくされたことへの恨みもあったかもね。

夫とはお金の面で苦労はあったようですけど愛し合っていたということです。
いろいろな恋愛遍歴を経て手に入れた幸福のもと44歳で亡くなりました。

キャリーとの間に生まれたふたりの子供はヘンリー8世の子供だったらしく
娘キャサリンはエリザベス1世の寝室係になり、その娘レティスは女王の寵臣である
ロバート・ダドリーと(訳ありですけど)結婚しました。
また息子ヘンリーも女王によってガーター・ナイトに叙されています。

私は弟しかいないから分からないのですけど、他人より姉妹に恋人を奪われる方が
憎たらしいものかしら?
そんな妹に援助を仰がなきゃいけないというのも悔しいことですね。
一瞬でも栄華を極めたアンと愛はあっても倹しい生活を強いられたメアリー、
どちらが幸福だったのか … 意見の分かれるところです。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  
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『見知らぬ場所』世界の何処にいても・・・

2009-07-30 00:08:02 | その他の国の作家
UNACCUSTOMED EARTH 
2008年 ジュンパ・ラヒリ

デビュー作『停電の夜に』 を読んだ時に絶対次回作を読もうと思ってました。
と言いつつ長篇『その名にちなんで』は未読なんですが
今回の短篇集、やはりなんとも言えない想いにとらわれ読み応えがありました。

前作同様アメリカやイギリスなどに暮らすインドの人々が描かれているのですが
今回はインドというよりベンガル人という部分が強調されているようでした。
不勉強でインドではなくベンガルとすることにどのような意味があるのか
皆目分かりません。
ただ独立運動やバングラデシュとの分割(by Wikipedia)など複雑な過去を持つだけに
日本人には理解できない深い思いがあるのかもしれません。

『見知らぬ場所(Unaccustomed Earth)』
母親が亡くなってから旅行好きになった父親が新居に滞在した1週間。
ルーマは無愛想だった父が黙々と庭を造ったり息子を遊ばせている姿を見て
一緒に暮らしてもいいのではないかという考えを持ち始めます。
しかし父の考えは違いました。 旅先で会いたい女性もいましたし…

『地獄 / 天国(Hell-Heaven)』
ベンガル人だということだけで家族同然の付き合いをするようになった青年
ブラナーフが家にやって来る日は、母の態度も料理もまったく違っていました。
けれど彼はアメリカ人のデボラと付き合い、母の予想に反して結婚の約束までします。
ウーシャは年頃になるにつれ万事ベンガル式の母に反抗しデボラに好意を持っていきます。

後半の3篇は独立した短篇ですが、ヘーマとカウシクのふたりの子供時代、青春時代
壮年期を描いたもので、ひとつの物語としても堪能できます。
最後にタイでおこった津波が書かれていて、現代に引き戻されたような気がしました。
その中の1篇を…

『年の暮れ(Year's End)』
カウシクが大学生の時、父がインドへ里帰りして再婚してきたと電話で知らされました。
クリスマスに帰省すると、亡くなった美しい母とは正反対の地味な女性チトラと
彼女のつれ子の幼いルーパとピウ姉妹がいました。
関わり合いになるのは避けたいカウシクでしたが姉妹とは次第に打ち解けていきます。
けれどある晩、怒りに燃えたカウシクは家を出て行くことになります。

8篇の物語の主人公のほとんどが、すっかり慣れ親しんだ海外の生活と
親から与えられるインドの考え方に戸惑いを感じているようです。
ただでさえ親と子の世代には異なった常識が存在しているというのに
全く文化の異なる国へ渡った親とその国で育った二世とのギャップは想像がつきません。
日系人でも同じことがあったんだろうなぁ…

今生活している場所が自分の国と言えるのか? この生き方でいいのか? という葛藤は
日本で生まれて日本で死んでいくであろう私には一生知ることはできない感情でしょう。
まあ、日本にいても「私の人生これでいいのか?」って思ったりするんですけどね

ちょっと話はそれますが…
全篇通して高学歴でエリートのインド(ベンガル)人ばかりが登場するのですが
考えてみたら2桁の九九ができてインド式計算があるという数学的能力に優れた国です。
IT大国だし30万円の車を開発している国です。
11億人を抱えるインドにはものすごいポテンシャルがあることを認識させられました。
日本はボヤボヤしていたらG8から滑り落ちることになるんじゃないかと不安になります。

見知らぬ場所 新潮社


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バヴァリア王ルートヴィヒ1世愛妾 ローラ

2009-07-29 00:28:02 | 王の寵姫・愛妾
ヘタに触るとヤケドするぜ!な情熱家
ランツフェルト伯爵 ローラ・モンテス


1821~1861/愛妾 1846~1848

本名はエライザ・ギルバートといって、アイルランドの陸軍大尉のお嬢さんです。
幼い時に東インドに渡りましたが父親が死亡、母親が亡夫の同僚と再婚し
その再婚相手の父にスコットランドで教育されました。

       
16歳の時、60歳の金持ちの爺さまと結婚させられそうになりましたが
彼女を東インドから迎えに来たトマス・ジェイムス大尉と駆落ちして結婚します。
結局5年でジェイムズ大尉が逃げ出しましたが、この時ちゃんと離婚していなかったことが
後々彼女を苦しめることになります。

生活のためにローラ・モンテスと名を変えてスペインダンサーとしてデビューするも
彼女のダンスはヒドいもので どちらかというと美貌と荒い気性で有名になりました。
なんでも相手が気に入らないとすぐビンタしたり鞭で叩いたりしたそうですよ。
当時はそこそこ裕福な男性の愛人として生活していました。

その後ローラは作曲家フランツ・リストの恋人になります。
ふたりは真剣に愛し合っていたようですが、リストがローラの激しさについていけず
別れることになりました。

続いて文芸評論家のデュジャリエの恋人になりましたが、彼が決闘で死亡したため
気晴らしにバヴァリア(バイエルン)に公演に出かけることにし
そこでルートヴィヒ1世と出会います。
もともと「淫靡だ」ということで中止にされた公演の継続を直訴しに行ったローラですが
王の目の前でドレスをへそまで切り裂いたらしいよ! やっる~

てなわけでルートヴィヒ1世を虜にしたローラはバヴァリアで爵位も手に入れ
宮殿も年金も与えられてやりたい放題になります。
ところがわがままは私生活のみならず政治にも及んでいきました。
ローラは熱烈な共和制主義者で、専制君主制とは相容れないものでしたが
王が言いなりなのをいいことにジュスイット派を排除し組閣までやってしまいます。

ローラは保守派のみならず改革派の反感をかい、また彼女に好き放題やらせている
王への不満も高まってまずは学生から、そして市民へと暴動が拡大します。
1848年、ついにルートヴィヒ1世は退位しローラは国外追放になりました。

その後はロンドンで若い近衛兵と刀傷沙汰をおこしたり
パリでネパールの王子と付き合ったりした後、アメリカに渡って
新聞記者と1ヶ月弱の結婚生活を送ったりしましたが
この間ずっとルートヴィヒからの援助を受けていたらしいですよ。

オーストラリア巡業から恋人の劇場支配人とアメリカへ帰る船上
恋人ファレルが謎の転落死をしてからはローラの生活は一変しまた。
宗教に頼るようになり激しさは鳴りをひそめ、軽い卒中をおこしてからは
心霊術にものめりこんでいきました。

世話をしていた女性にルートヴィヒなどから贈られた宝石類をだまし取られて
生活は貧しくなっていったそうで、肺炎にかかった後はボロアパートに移りました。
母親のクレーギー夫人は(まだ55歳で)元気に生きてましたが娘の面倒をみるのを
断固拒否! ローラは牧師に看取られて39歳で亡くなりました。

ローラは恋人たちとはそれぞれ真剣に結婚を考えていたみたいですが
ジェイムズ大尉との離婚が成立していないから重婚罪になってしまうということで
結婚できなかったらしいのです。
ただ、どれも長続きしてないからどうでもいいといえばいいんだが…

1856年に72歳のルートヴィヒと極秘で貴賤結婚をしたという記録があるらしいけど
だとしたらアメリカで貧しいまま死ぬことはなかったんじゃないかしら?
ルートヴィヒは1868年まで生きていたわけだから… 真相はいかに?

             
           こちら実物…我が強そうな雰囲気はありますね
 
あまりにも情熱的な女性で付き合う方は大変だったでしょうが
大人しくなよなよした女性が淑女らしかった時代に生きたことで
誰もが知る “ 伝説の悪女 ” として後世に残ったわけですね。
それはそれで尊敬に値する…と思う。

(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』
      M・ニコラス『世界の悪女たち』 Wikipedia英語版)

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文庫ですが読み応えあり!
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『高慢と偏見』 婚活…今より100倍熾烈!

2009-07-28 01:24:41 | イギリス・アイルランドの作家
PRIDE AND PREJUDICE 
1813年 ジェーン・オースティン

婚活…たいした注目を浴びていますが、今に始まったことではない上に
過去の方がどれだけ熾烈であったやら…
財産や家柄を廻って本人や親のみならず親戚一同やらご近所までが
ふさわしいだの不釣り合いだの うるさい! って言いたいわ。

20世紀初頭までのそこそこ家柄の良い家にはなぜか未婚女性が多いのですが
こんなにうるさいこと言ってちゃあ嫁にいけないっすよ…
男性陣だって少しでも家柄が上で持参金が多い娘がいいわけですからね。

オースティンが21歳の時に書いたという物語… 結婚事情を見据えてますが夢もあります。

エリザベスは、たいした家柄はないがプライドはあるというベネット家の次女で
理知的で思慮深く機智に富んでいる(と思い込んでる)女性です。

ベネット家の5人の娘たちはとにかく結婚に関して不利なのね。
地所はあるけど男の子がいないので父親の死後は従兄弟に相続されちゃうし
父親が怠惰な理想主義者で財産もあまりないし、他家に誇れる親戚筋もないし
爵位もサーの称号もありゃしない。
その上母親が無知で下品でおしゃべりときちゃ上流階級とのおつき合いは難しい。

けれども長女ジェーンは美しさと善良な人柄で裕福なビングリーに見初められ
エリザベスはウィットに富んだ会話と聡明な快活さで良家の若き主人ダーシーに
愛を打ち明けられるまでになります。
もちろん意地悪な横やりや誤解など、紆余曲折はあるんですけど。

それなのに五女リディアが軽はずみにも駆落ち事件をおこします。
身内のスキャンダルでふたりの結婚はどうなるんでしょう? 台無し?

もちろん悪いようにはなりませんから…

オースティンが書いていることは、男女の出会い、気持ちの変化、愛を打ち明けて
障害があって、ハッピーエンドというきわめて思春期に夢見がちな恋物語で
別冊マーガレットとか少女フレンドにもってこいです。
少し登場人物の年が上かもしれませんけどね。

けれど、とにかく面白くて何度読んでも飽きないんですよね。
わたくし的には、オースティン文学の楽しみ方の本道からは外れているかもしれないですが
主人公たちの「何様?」な自惚れと凡ミスの数々やギャフンぶりが好きですね~
たまに自己反省とかするんですが、またそれが高飛車だったりして…笑うわ。

高邁な思想があったり斬新な手法がとられているわけではないと思うし
芸術的価値云々は高いんだか低いんだか分かりませんが
そうやって論じられる小説だけが名作ではないわけですよね。

とことん楽しませてくれるオースティン作品を私は今後何回も読んでしまうでしょう。
オースティンは2回目、3回目と回を重ねた方が面白い気がするんですもの。
それに作品があんまりないからね
もっとたくさん書いていてほしかったですね… 残念です。

高慢と偏見 河出書房新社


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こちら河出文庫、新装版だそうですよ。
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イングランド王ヘンリー2世愛妾 ロザモンド

2009-07-27 00:37:04 | 王の寵姫・愛妾
伝説を身に纏った美女
フェア・ロザモンド・クリフォード


1150?~1176/愛妾 1163?~1176

ロザモンドの生涯にはあまりにも伝説が多くあって真偽を見分けるのが
とても大変なのだそうですけど、実在していたことは間違いありません。

父親はウェールズの貴族で、ヘンリー2世がウェールズに従軍している時に
初めて会ったと言われています。
ロザモンドの美しさは評判になっていてヘンリーが侍女に召し上げたらしいです。
ヘンリー2世は賢王の誉れ高い方ですが、なにしろ好色でして…

       

今までの浮気はどうだったんだ? と問い詰めたくなるのですが
ヘンリー2世は王妃エリナー・オブ・アキテーヌにバレるのだけは避けたかったようで
ロザモンドを(当時は)人里離れたウッドストックの離宮にかくまって「狩猟だ」と
嘘をついて通っていました。

なかなか会いに行くこともままならず、訪れても王妃のスパイの目を気にして
15分以上の長居はできませんでした。
“ 史上最も放ったらかされた愛妾 ” と言う歴史家もいるそうです。

驚きなのは、まさかの時のためにウッドストック離宮の中を迷路のようにしておいて
赤い糸をたどってロザモンドの部屋まで行くというお話。
なんか … そんな思いまでして会わなくてもいいんじゃなくて?
伝説によると結局エリナーが赤い糸をたどって行っちゃったらしいです

ウッドストック離宮は今は無く、その後建ったブレナム宮殿の庭に
ロザモンドの井戸というものがあるらしい … 後付けっぽいですけどね。

上の絵も左側に鬼のような顔のエリナーが描かれていて赤い糸を握ってるんですけど
ロザモンドと恐ろしい形相のエリナーはワンセットで描かれることが多いみたいです。

         
           ほーら、見てまっせ … 怖いでしょお(右端に注目)

ロザモンドがヘンリー2世の子供を生んだかどうかについては意見が分かれています。
ヨーク大司教ジョアフリーとソールズベリー伯ウィリアム・ロンゲペーは母親が不明で
ヘンリーのお気に入りだったことから、ロザモンドの子では? と言われていました。
でも生年月日からみて彼等ではないということです。

ロザモンドが急死した件については、エリナーが毒と剣を差し出してどちらか選べと
せまったと言われていますけど、エリナーはこの時幽閉中でこれもありえないと…
だいたい幽閉できるなら浮気ぐらい平気で出来るでしょうにね。

ロザモンドはゴッドストゥ修道院に葬られましたが、ヘンリー2世の死後
リンカーンの司教が「売春婦の墓は外へ」と宣言し、墓所を移された後は不明です。

美しい女性には伝説がつきものですが、必ず悪役が必要になるわけで
白羽の矢をたてられちゃった人はお気の毒 … 後世まで憎まれ役として語り継がれちゃう。
またちょうどおあつらえ向きなタイプの人がそばにいたりするんだよね

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード3世愛妾 アリス

2009-07-27 00:17:24 | 王の寵姫・愛妾
やりて不動産ディーラー
アリス・ペラーズ


1340~1400/愛妾 1369?~1377

アリスはエドワード3世の王妃フィリッパ・オブ・エノー の侍女でした。
どうやら2回ほど結婚していてペラーズは最初の夫の姓だと言われています。
侍女になった時にはウェストモアランドの貴族ウィリアム・ウィンザーと
夫婦同然の関係だったのですが、ウィンザーはアイルランドに従軍中でした。

        

王妃フィリッパは羊毛業を発展させたり石炭の発掘を奨励したりと
先見の明がある才女として有名でしたが、しっかりものだっただけに
王は頭が上がらなかったようです。
アリスは王妃の生前から愛妾になっていましたがひた隠しにされました。

1369年にフィリッパが亡くなると、アリスは晴れて愛妾として脚光を浴びます。
エドワードは気前よくアリスが望む物を与え続けます。
宝石のみならず領地もどんどんプレゼント! 瞬く間に大変な資産家になりました。

強欲なアリスが老いた王をそそのかしているという非難がありましたが
どうやら彼女は賢く商才があって交渉上手だったらしく
もらった土地を投機などで拡大していってたらしいのよね。
なんでも一時期はロンドン近郊に56の荘園を持っていたのだが
王にもらったのはその中の15ぐらいであとは自分で手に入れたんですって。
スーパー営業ウーマンですね。

若い愛妾に溺れる父王に愛想をつかした子供たちは離れて行ってしまいます。
王太子ブラック・プリンスはアリスを追放しようとしていましたが急死して
あとはもうやりたい放題でした。

ブラック・プリンスの死の翌年、エドワード3世も病に倒れます。
枕元にいたのはアリスだけ … 献身的に看病をしてたのね? って違うのよ~
王が瀕死の状態に陥ると彼女はすかさず王が身につけていた宝石類を外し
宝石箱の中のお宝も全て手にしてさっさと宮殿を出て行ってしまったとさ
上の絵がその時の場面…ワルそうですね~

アリスはエドワード3世の死後セント・オールバーンズの大修道院長と婚約し
国中を論争に巻き込みました。
その後は議会に追放され土地も差し押さえにあってしまいました。
残りの日々を裁判に費やしいくらかは取り戻したようです。

その後大修道院長とどうなったのか、ちょっと分からないんです。
60歳で亡くなりました。

王妃フィリッパとは違ったタイプの才女ですよね。
もし王妃だとか摂政だとか、ちゃんとした立場に置かれたら名采配をふるいそう。
身分とか家柄で最初から愛妾にしかなりえないって、考えたら失礼なはなしです。

(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』
      森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

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フランス王シャルル7世愛妾 アニェス

2009-07-26 00:35:09 | 王の寵姫・愛妾
フランス初の “ 公式 ” 愛妾
アニェス・ソレル


1421~1450/愛妾 1441~1450

それまでのフランス王に愛人がいなかったなんて ありえない! わけですが
初代の “ 公式 ” 愛妾ということでただの愛妾とは違うのね~。

アニェス・ソレルは兵士の娘で、シャルル7世の義兄ナポリ王レナートの侍女でした。
並外れて美しく極めて高い知性の持ち主だったそうです。

      
20歳の時レナートに同行してトゥールーズへ行き初めてシャルル7世に会ったのですが
もともとレナートの愛人だったのかシャルル7世への貢ぎ物だったのか分かりません。
いずれにしてもシャルル7世はメロメロになりました。
アニェスを王妃の侍女にして引き止め猛アタックしてほどなく愛妾にしました。

シャルル7世はアニェスにロシュ城を与え入り浸っていたのですけれど
いつも、どんな時も王妃ではなく彼女と一緒にいたいという欲望を抑えられなくなって
考えだしたのが公式の愛妾というフランス王にはもってこい!の制度でした。
これで晴れて公式の場へアニェスを連れ歩くことができるわけです。

思えばシャルル7世はジャンヌ・ダルクの活躍と王妃マリー・ダンジュー の実家の
財政的な援助があって王になれたようなものでした。
王になったら浮気なんて… しょうがないねぇ

もともと温厚ですっかり現状に満足していたのですが、1449年、
再びイングランドのヘンリー6世が王位を主張して攻め込んできました。
この時、無気力なシャルル7世を奮い立たせたのがアニェスだと言われています。

公妾アニェスの、王妃より華美で派手な装いや尊大な態度は早くから反感をかっていて
女性で初めて(王から贈られた)ダイヤモンドを身に着けたり
アニェスの子供たちが正式な王子や王女を凌ぐ愛情を注がれるに至って
王太子ルイ(後の11世)の怒りは爆発! 刀で斬りつけたこともあったそうです

こんなことが響いたのか、後年王と王太子の対立は熾烈になり
シャルル7世は毒殺を恐れて餓死したとも言われています。

アニェスは4人目の子供を身ごもっていた時、ジュミエージュの王のもとを訪ねて行って
腹痛と出血を訴え急死しました。
赤痢と診断されましたが、現在は水銀による毒死だと判明しています。
治療で用いられたものかもしれませんが、当時は王太子ルイによる毒殺だと噂されました。

シャルル7世はアニェスの死後、彼女の従姉妹アントワネット・ド・マニェリをはじめ
数人の愛妾を持ちましたが公妾にはしませんでした。

ところでジャン・フーケのアニェスをモデルにした聖母像は片方のお乳を見せてますね。
これは絵画のためでなく、彼女がこういう服をデザインして着ていたかららしいですよ。
なぜお乳を…? 見せっぱなしってことですか?

             
                 こちらも見せてます

まわりは止めたけれどもシャルル7世は気に入ってて何も言わなかったんですって。
愛する人のお乳を他の男が見ても気にしないなんて…変なの

(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』
      川島ルミ子氏『国王を虜にした女たち』 Wikipedia英語版)

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『モーム短篇選』吸い寄せられて・・・

2009-07-25 00:45:26 | イギリス・アイルランドの作家

ウィリアム・サマセット・モーム

どうなの? また買っちまいましたよ。
書店の店先で平積みになっていたところへフラフラと吸い寄せられてしまいました。
ほとんどは既読でしたがそれでも読んでしまう好きな作家の短篇集。
マンスフィールドとモームの短篇集と『ダブリン市民』は手放せんです

初めて読んだものからお気に入りをいくつか…

『ジェーン(Jane)/1931年』
若々しいミセス・タワーは、野暮で老け込んだ義理の妹ジェーンが
27歳も年下のギルバートと再婚すると聞いて驚愕し、きっと長持ちしないと予言しました。
2年後、ジェーンは別人のようになり社交界の人気者になっていましたが
やはりギルバートとは離婚することになりました。 その理由は…

ミセス・タワーの気持ちは分かる気がする… 私も友達が若~い人と結婚すると知ったら
口には出さなくても同じように考えちゃうかもしれないねぇ…「まじ?」と…
愛は気持ちや心で通じあうことが大事だと信じてますけどね、一応。

『サナトリウム(Sanatorium)/1947年』
マクラウドとキャンベルはいがみあいながら17年も入院しているサナトリウムの古株。
ある晩トランプでキャンベルに快勝したマクラウドが急死したことで
余命があまりないと思われているテンプルトンが一大決心をします。
初めて本気で愛したアイヴィにプロポーズをするというのです。

モーム自身サナトリウムに入院していたので様々な悲喜こもごもを見たのでしょうね。
余命を知った時どう行動するか? どう余生を生きるか? はどう生きてきたかに
おおいに関わるものかもしれないですね。
淡々と書かれていますが、なかなか考えさせられる物語でした。

『大佐の奥方(The Colonel's Lady)/1947年』
ペリグリン大佐は妻のイーヴァが詩集を出版したと聞いても気に留めませんでしたが
詩集は巷で絶賛され、しかも皆が自分の噂をしているような気がします。
詩集を読んでみると中年の主婦と若い男性の愛の物語でした。
大佐はイーヴァが自分の体験を書いたものだと直感しました。

しかしこんな形で妻の不実を知った夫も困りますね? どう対処すればいいのやら…
書かずにはいられないほど迸る情熱を抱えられるというのは羨ましい人生です。
私はその情熱が家系図にいっちゃっているのだろうか?… さびすぃ

未読のものはどうやら後期の作品が多かったみたいです。
でも若い頃から様々な人生劇場を描きだしてきたモームですから
年齢的な隔たりはそんなに感じられませんでした… あいかわらずちょっと意地悪
いずれにしても後期の短篇集を探さなきゃ。
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ロシア皇帝ニコライ2世妃 アレクサンドラ

2009-07-24 00:26:54 | ロシア皇妃
さようなら、ロシア皇室
ニコライ2世妃 アレクサンドラ(アリックス)・フョードロヴナ


1872~1918/在位 1894~1917

改名前の名はヴィクトリア・アリックスで、ドイツのヘッセン大公の公女ですが
母親が大英帝国女王ヴィクトリアの王女アリスで、イギリスで教育を受けていました。
    
ニコライの叔父セルゲイとアリックスの姉エリザベスが結婚することになり
ふたりは初めて顔を合わせます。
16歳のニコライと12歳のアリックスはお互いを憎からず思い
その5年後にモスクワで再会してから愛し合うようになったと言われています。

けれどもアリックスを気に入っていたヴィクトリア女王は、彼女と、同じく孫の
(切り裂きジャック説がある)クラランス公アルバートと結婚させたがっていました。
ロシアでもアンチ・ドイツのアレクサンドル3世夫妻がアリックスとの結婚には反対で
次々に他の王女との縁談を考えますが、いずれも改宗がネックになって上手く運ばず
また、ニコライも女優などと遊びまわり同棲までするようになります。

その後アレクサンドル3世は目に見えて衰え、根負けしてアリックスとの結婚を認めました。
婚約した年にアレクサンドル3世が崩御しましたが式は延期されませんでした。
ふたりはかなり嬉しかったらしく大はしゃぎでした。
が、ヴィクトリア女王はロシアの先行きにかなり不安を覚えていたご様子で
「何事もなければ良いが…」と書き残していらっしゃいます。 さすが

ロシア宮廷はアリックスに対してかなり冷ややかでした。
アリックスは地味だし、無口だし、なによりも横柄そうに見えました。
また、不幸なことには姑マリーヤがめちゃくちゃ人気者で何かと比べられてしまうし…
マリーヤの絶大な影響力には宮廷もニコライ2世も言いなりでした。

アリックスもロシア宮廷をふしだらで軽薄だと見なして、なるべく公の場には出ず
お気に入り以外とは付き合うのを避けようとします。
けれどこんな頑な姿勢がさらに不人気に拍車をかけていきます。

後年は待望の皇太子アレクセイが血友病だとわかり
治療を頼んだラスプーチンに心酔してしまうことになりました。
ラスプーチンは皇帝夫妻に多大な影響力を持ち政治にも口を出し始めます。

ところでニコライ2世は大の日本嫌いって知ってました?
(この説には異論もあります。たぶんそちらが正しいみたい)
独身時代に大津事件があったからなんですけれど
その影響でアリックスも日本大嫌い! だったそうでございます。

思えばロシアは君主国になってからも権力闘争と反乱に明け暮れて
ニコライ2世だから革命がおきたというわけじゃないと思うのですが
満州をめぐる日露戦争の敗戦があり、第一次世界大戦へも参加したもので
国内の疲弊は並大抵なものではありませんでした。
また飢饉などもあったので、今まで燻っていたものが大爆発してしまったようです。

2月革命の後、退位したニコライと一家はツァールスコエ・セローへ送られ
臨時政府は従兄弟にあたる大英帝国王ジョージ5世に引き取りを要請しますが
ジョージ5世は自国内の労働運動の激化を怖れて拒否したそうです…ひっど~い
(ニコライ2世の方が復位を楽観視していて断ったという説もあります)

そうこうしているうちに革命政府が樹立され、ニコライ一家の扱いはひどくなり
とうとうエカチェリンブルクの農家の地下室で殺害されることになりました。

アナスタシア皇女については生存説も根強くありましたが、真相は謎のままです。

       
              ニコライ2世一家です
                 右端がアナスタシア皇女です


ニコライ2世は内気で気が優しく家族思いでした。
アリックスの教育は庶民的で部屋の掃除は自分たちでやらせたり
目上の人への挨拶にうるさかったという普通の良きお母さんでした。
贅沢はできなくても一家仲良く我慢できたと思うんだけど…
せめてイギリスに渡っていたらなぁ… 一般人の甘い考えでしょうか?

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』
      三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』 Wikipedia英語版)
コメント (13)
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ロシア皇帝アレクサンドル3世妃 マリーヤ

2009-07-23 00:44:38 | ロシア皇妃
たおやかに見える肝っ玉母さん
アレクサンドル3世妃 マリーヤ・フョードロヴナ


1847~1928/在位 1881~1894

アレクサンドル2世の皇太子ニコライは1864年にデンマーク王女マリイと婚約しました。
ところが改名したマリーヤもモスクワに入りいざ結婚という時にニコライが亡くなります。
ニコライはマリーヤに弟のアレクサンドルと結婚してほしいと言い遺して逝きましたが
彼女は一度故国に帰りました。

1666年、傷心のマリーヤのもとをアレクサンドルが自ら訪れ婚約となりましたが…
兄の言いつけに忠実だったのかしら? それとも兄の許嫁に恋していたんでしょうか?

マリーヤの姉アレグザンドラは大英帝国の皇太子エドワード(後の7世)妃になるし
兄はギリシャ王になりますので、ロシアはようやくヨーロッパ各王室と
深い繋がりを持つようになったのですが…時すでに遅し、かも。

       
あのアンデルセンにも見送られてコペンハーゲンを発ったマリーヤは
モスクワでもとても温かく迎えられました。
美しいマリーヤは人気者でしたが、でしゃばらず政治にも口を出さず
ロシア語の習得と慈善や社交など、皇室のサポートに専念していました。

1881年にアレクサンドル2世が暗殺されアレクサンドル3世が即位しますが
首都での革命運動は激しくなる一方で皇帝一家は厳しい警護下におかれていました。
一家は難を逃れるために郊外の宮殿を利用していたそうです。

皇帝は首都より田園の方がお好みだったようでのびのびと暮らしていましたが
マリーヤはかなり厳しい母親で、子供たちはのびのびできなかったようです。

            
                こちらお写真です
                 優しそうな方とお見受けしますが…


1888年、皇帝一家が列車で移動中、老朽化した列車の屋根が落ちて
アレクサンドル3世が肩で屋根を支えて家族を守るという事故がおきます。
皇帝が乗る列車だというのに…信じられない
幸い皆無事ででしたがアレクサンドル3世は腰を痛め、その上酒好きがたたって
肝臓の具合も悪くなる一方で体調を崩していきます。

1894年アレクサンドル3世は肝臓疾患で亡くなりました。
マリーヤはもちろん悲しみましたが「皇帝の安らかな顔を見ていたら勇気が湧いてきた」
ということで、今まで以上に家族を厳しく見守り
遺されたロマノフ一家に多大な影響をもたらすようになりました。

革命がおこった時マリーヤは赤十字の仕事でキエフにいました。
身の危険を感じてクリミアに向かっている最中ニコライ2世一家殺害の報せが入りますが
その後エカテリンブルクに収容されているという使いを受けました。
このことから彼女は死ぬまで、息子の一家はどこかで生きていると
知人に言い聞かせていたそうです。

あまり重要視されていなかったのか、マリーヤは革命政府から
デンマークへの帰国を許されました。
彼女のもとへは皇妃と慕うロシアの亡命貴族たちが集まるようになりました。
後継者指名の要請もありましたが、政治的な動きに関わりたくなかったようで
「誰もニキが殺されたところを見ていないでしょう」と辞退したそうです。
これには誰も面と向かって反論しなかったらしい…

異国人でありながらロシア貴族たちの拠り所となっていたマリーヤは
80歳でコペンハーゲンで亡くなりました。

もし彼女が人望や人脈を総動員して貴族たちを集結させていたら
今日のロシアはどうなっていたかしら?

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)
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『すみだ川・二人妻』巴里的東京男女風景

2009-07-23 00:43:49 | 日本の作家

永井 荷風

日本で “ お妾さん ” の文化が根付いていたのかどうかよく知らないんですけれども
永井荷風を読んでいるとなんだか当たり前のことみたいに思えてきます。
仕事する → そこそこ成功する → 小金ができる → 妾つくる、って
そんなにポピュラーなことだったのでしょうか?

妻でもなく、外で働かず、日がな一日旦那のお越しを待つだけでお手当をもらって
生計をたてている女性って、今でも存在しているんでしょうか?
確かに現代の愛人とは違って、お妾さんには別宅の妻という風情がありますが
それでも金銭づくの関係であることに変わりはないんですよねぇ…
どちらかというと現代よりもシビアな関係のような気がするぐらいです。

表題2篇の他に6篇収められていますが、どれもお妾さんや芸者などが登場していて
荷風がこのタイプの女性に魅入られていたのではないかと想像できます。

『すみだ川/1909年』
母ひとり子ひとりで期待をかけられ学校へ通わされる長吉は
幼馴染みの恋しいお糸が芸妓になってどんどん垢抜けていく姿を見て不安になります。
少しでもお糸に近づきたいと退学して役者になろうと思いますが、話が分かる伯父の
俳諧師羅月に説教されて思いとどまり、ついには重病にかかってしまいました。

『二人妻/1922年』
夫俊蔵の行状が信用ならない千代子でしたが、女学校時代の友人玉子の夫川橋には
妾どころか隠し子もいると聞いて親近感がわき、気心を許した友達になります。
ところがある日、嬉しそうな玉子から川橋が妾と手を切ったと聞かされると
喜ぶどころか妬ましくなりました。
ところで手を切った妾亀子はというと俊蔵といい仲になっていました。

『かし間の女/1927年』
永島の妾だった菊子は学生との浮気を責められて新しい旦那探しを始めます。
上京してきた田舎の富豪の相手をすることになり、その仲介者だった犬塚の妾に。
しかし昔関係があった歯科医との一夜がバレてしまいます。
その後仲介屋が紹介してくれた割のいい仕事はかなり怪しいものでした。

妾という日陰の存在を題材にしていながらけっこうアッケラカンとした感じです。
時には年齢や将来のことが気になるが…ま、いっか、という
悲壮感のないその日暮らしを送っている女主人公たちはたくましい!
読み手としては、結局男性の道具にされているのに…と悲哀を重ねたくなりますが
余計なお世話に思えてきます。

解説で秋庭太郎氏が “ 荷風のゾラやモーパッサンへの傾倒が尋常じゃない ” らしきことを
書いていらっしゃいましたが、確かにそうかもね、と納得できます。
愛欲賛美、快楽のすすめ、道徳の軽視などなど、随所に退廃の美学が感じられまして
さてはフランス人になりたかったんじゃないかね? この人は。

ところで巻頭に『深川の唄』という、荷風があてもなく東京を散策している様子が
書かれている作品があるのですが、路面電車や煉瓦造りの店先や手描きの看板などが
浮かんできて、東京はこんなに近代化される必要があったのだろうか?と
考えさせられます。 丸の内郵便局…
確かに不便だったら文句言ってると思うんだけどね… 勝手なもんで。
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ロシア皇帝アレクサンドル2世妃 エカチェリーナ

2009-07-22 00:47:17 | ロシア皇妃
ロマノフ家を怯えさせたリベラリスト
アレクサンドル2世妃 エカチェリーナ(カーチャ)・ドルゴルスカヤ


1847~1922/在位せず

前皇妃マリーヤの生前から別宅で夫婦同然の暮らしをしていたアレクサンドル2世と
エカチェリーナ(以下カーチャ)は、マリーヤが亡くなると数ヶ月後に結婚しました。

貴賤結婚で皇妃の称号は与えられなかったようですが
皇帝にはかなり影響力があったようだし、自由思想の持ち主だったらしいので
称号なんてあってもなくても関係なかったんじゃないかしら?

カーチャは没落貴族の娘で、小さな頃一度アレクサンドルに会っています。
父親の死後は宮廷の援助で良家のための女学校に通いました。
     
カーチャが16歳の時、アレクサンドル2世が女学校に視察にやって来て
早速彼女を気に入りました、 とは言っても、皇帝は彼女と語り合うのが好きで
その後も度々女学校を訪れては自由主義などについて議論したということです。
でも、そう見せかけて実は下心があったのかもしれませんね

女学校の卒業後は皇妃マリーヤの侍女にして呼び寄せているし
彼女が19歳になった時にちゃっかり愛妾にしちゃってますから。
ちなみにアレクサンドルが48歳の時でした。

カーチャは宮殿のすぐ近くに館を与えられました。
アレクサンドルは週3~4回ほど通い子供も3人生まれてまさに二重生活です。
カーチャの影響力は次第に大きくなり看過しておけなくなります。
皇妃マリーヤとの間に生まれた皇子たちとアレクサンドル2世の間には
深~い溝ができてしまったらしいよ…

アレクサンドル2世は農奴解放令などを発したり、資本主義化に着手したりと
自由主義的な傾向がありましたが、これはカーチャに出会う前からでした。
もしかするとカーチャの影響でさらに専制君主制を脅かす行動に
出ようとしていたのかしら?

いずれにしてもアレクサンドル2世の自由化は貴族や領主の利権を守りつつ行われたので
中途半端なものになり、不満を抱えた急進派たちから命を狙われることになります。

1880年に結婚したアレクサンドル2世とカーチャでしたが
ロマノフ家はもちろんこれを認めませんでした。
結婚の翌年アレクサンドル2世が暗殺されると、カーチャはロシアから出ていくことを条件に
400万リーブルの年金を手に入れてフランスへ渡りました。

パリやリヴィエラでは粋な女主人という評判を得ていたらしいのですが
ロマノフ家は彼女のことを警戒していました。
外国から革命を指揮するとでも思ったのでしょうか? スパイまでつけていたそうですよ。

1917年にロシア革命がおこりロマノフ家と専制君主体制が崩壊します。
カーチャは追放されていて、かえってラッキーだったかもしれませんが
頼みの年金が止まり次第に困窮するようになります。
財産を使い果たした後、1922年に亡くなりました。

本当の改革派だったら革命中に活躍の場はあったと思うのですけれど…
没落したとはいえやはり貴族、貧困とはほど遠い生活を送ってきていますので
真の革命家にはなれなかったんでしょうかね?

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)
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ミニチュア…さらに果物

2009-07-19 19:13:03 | クラフト
昨日フルーツも撮ったのでついでに…
りんご2種、箱に富士と書いていますが品種はテキトーです

        
         オレンジは皮の凸凹感を出すのに苦労しました

        
           バナナは朝食用ってことで小分けに

         
    イチゴです。ブツブツはまち針で穴を開けるのですが…メンドくさかった

        
     サクランボ2種。茎にはヘップを使ったのですが太かったようです

        
    ぶどう2種です。粘土を1個1個丸めましたがビーズを使う場合もあります


おまけ…modan1ちゃんのリクエストにお答えしてプチトマト。
直径2~3ミリくらいでごさいます。
ヘタがすっごーくめんどうくさかったよ~
         

夢工房ドールハウス (No.10) ブティック社


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フルーツ、野菜の作り方満載!
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またまた…ミニチュアお野菜編

2009-07-18 18:15:56 | クラフト
引き続きお野菜…材料はほとんど粘土です。

上のニンジンは掘り出したばかりのように土をつけようと思っています。
土はコーヒーの出がらしをすりつぶして作ります。

        
        ブロッコリーとカリフラワー。茶こしが大活躍しました

         
           マッシュルームは軽い粘土を使っています

        
           メイクイーンです。男爵イモも作りました

野菜が入っているカゴは購入したもの、木箱と段ボールは作ったものです。
使い古した感じにするためにヤスリをかけたり鉛筆で汚したりしています。

100円玉は照り返しがあるので10円玉を使えば良かったですね…

ドールハウスのミニチュア小物200 日本ヴォーグ社


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初心者むけですがヒントがいっぱいです
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