立派に仮面夫婦を演じた王妃
オスカル1世妃 ヨゼフィナ・アヴ・レウシュテンベリ
1807~1876/在位 (スウェーデン・ノルウェー王妃)1844~1859
“ 汎スカンジナヴィア主義 ” を擁護し、ナイチンゲールで有名なクリミア戦争や
シュレスヴィヒ戦争を戦ったオスカル1世の妃ヨゼフィナは
レウシュテンベルク公ウージェーヌ・ボーアルネの公女です。
父方の祖母はナポレオン皇后ジョゼフィーヌで
叔母はオランダ王ローデウェイク1世妃オルタンスです。
妹にブラジル皇帝ペドロ1世妃アメリアがいます。
ヨゼフィナは16歳の時、ナポレオンの敵として戦ったことがあるスウェーデンに
“ ナポレオーネ ” というミドルネームを取り去って嫁ぎました。
美しくて魅力的で気品がある妃で、人気も上々でした。
よく似た性格で共通の趣味も持っていたオスカルとヨゼフィナの新婚生活は幸福で
お子様も5人生まれました。
すぐにアドルフ・フレデリクとロヴィーサ・アヴ・プルッセンの王女で
クヴェトリンブルクの修道院長を務めたこともあるソフィアと親しくなり
いくつかの慈善事業に参加したり、宮殿の改装に熱中したり
芸術を奨励し、ガーデニングを楽しみ…と充実した毎日を送ったようです。
義父カール14世と夫のオスカルの見解の相違を調停するために政治にも関わっていました。
義母デジレ・クラリーはパリにいて何もしないんだしね…
ヨゼフィナは子供たちがルター派(プロテスタント)で教育することを容認しましたが
自分はとても敬虔なカトリック信者で、おかかえの聖職者を連れて来ていまして
ミサや告解にも必ず参加していました。
異教徒の妃が嫁いで来るともめることが多いものだけど
ヨゼフィナの場合はあまり問題視されなかったみたいですね。
ルター派の牧師たちはおおいに反抗したそうですけど…
しかし、幸せだったヨゼフィナの暮らしにも徐々に暗雲が…
オスカルはしばしば浮気をしていましたが、うまいこと隠していたようなのね。
けれどもとうとう有名な女優のエミリー・Hogquistとのお付き合いが発覚しまして
深く傷ついた28歳のヨゼフィナはオスカルとの別居に踏み切りました。
結局この別居は9年間続いたのですけれども公にはされず
公式な席には、いつも二人揃って姿を現していました。
えらーい ふつう「知るかいな!」ってことで欠席しそうなものですが
責任感が強いというか、ロイヤルに向いていたんですかね?
1844年に王に即位したオスカルは、心を入れ換えたのか誠実になりまして
夫婦の仲は修復されて別居も終わりを告げました。
政治面ではオスカル1世のよきアドバイザーで… 大きな影響力もあったようです。
ざっとあげると、宗教の自由に関する法律・男女同等の継承・監獄の改修
ギルドの廃止などは、ヨゼフィナがオスカルにけしかけたとされています。
また、ロシアに睨まれつつ汎スカンジナヴィア主義を突っ走りそうなオスカルを横目に
第一次シュレスヴィヒ戦争を妨ごうとしていたことなどですかね。
1857年、オスカル1世が病に罹りました。
けっこう重かったようで議会は王子カール(15世)を摂政にたてようとしましたが
ヨゼフィナは王の病気を隠そうとして断固反対!
どうやらカールは母親の政治的影響を嫌っていたようです。
オスカルは病気になってからもヨゼフィナと馬車で市中に現れたりしていますが
なんと! 横からヨゼフィナがオスカルの腕を持って振らせていたんですって…
オスカル1世は2年後の1859年に亡くなるのですが、連れ出されないで大人しく療養していたら
もう少し長生きできたかもしれなかったかも… しっかり者の嫁も善し悪しですな
根っから王妃に向いていたのかもしれないですね。
慈善活動に打ち込んでいたというけれど、王家のこととなると冷酷にもなれたのかも…
カトリック信者への戴冠がノルウェーで反対されたり…と宗教がらみの問題はありましたが
それでも宮廷からも民衆からもとても人気があった王妃だそうです。
さしあたって、前妃デジレ・クラリーよりはるかに人気者でした。
1875年にローマ教皇にお目にかかるためにローマを訪れています。
69歳で亡くなり、本人の希望でカトリックの葬儀が挙げられました。
最後の言葉は「今帰ります。とても幸福な気持です」だそうです。
(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
オスカル1世妃 ヨゼフィナ・アヴ・レウシュテンベリ
1807~1876/在位 (スウェーデン・ノルウェー王妃)1844~1859
“ 汎スカンジナヴィア主義 ” を擁護し、ナイチンゲールで有名なクリミア戦争や
シュレスヴィヒ戦争を戦ったオスカル1世の妃ヨゼフィナは
レウシュテンベルク公ウージェーヌ・ボーアルネの公女です。
父方の祖母はナポレオン皇后ジョゼフィーヌで
叔母はオランダ王ローデウェイク1世妃オルタンスです。
妹にブラジル皇帝ペドロ1世妃アメリアがいます。
ヨゼフィナは16歳の時、ナポレオンの敵として戦ったことがあるスウェーデンに
“ ナポレオーネ ” というミドルネームを取り去って嫁ぎました。
美しくて魅力的で気品がある妃で、人気も上々でした。
よく似た性格で共通の趣味も持っていたオスカルとヨゼフィナの新婚生活は幸福で
お子様も5人生まれました。
すぐにアドルフ・フレデリクとロヴィーサ・アヴ・プルッセンの王女で
クヴェトリンブルクの修道院長を務めたこともあるソフィアと親しくなり
いくつかの慈善事業に参加したり、宮殿の改装に熱中したり
芸術を奨励し、ガーデニングを楽しみ…と充実した毎日を送ったようです。
義父カール14世と夫のオスカルの見解の相違を調停するために政治にも関わっていました。
義母デジレ・クラリーはパリにいて何もしないんだしね…
ヨゼフィナは子供たちがルター派(プロテスタント)で教育することを容認しましたが
自分はとても敬虔なカトリック信者で、おかかえの聖職者を連れて来ていまして
ミサや告解にも必ず参加していました。
異教徒の妃が嫁いで来るともめることが多いものだけど
ヨゼフィナの場合はあまり問題視されなかったみたいですね。
ルター派の牧師たちはおおいに反抗したそうですけど…
しかし、幸せだったヨゼフィナの暮らしにも徐々に暗雲が…
オスカルはしばしば浮気をしていましたが、うまいこと隠していたようなのね。
けれどもとうとう有名な女優のエミリー・Hogquistとのお付き合いが発覚しまして
深く傷ついた28歳のヨゼフィナはオスカルとの別居に踏み切りました。
結局この別居は9年間続いたのですけれども公にはされず
公式な席には、いつも二人揃って姿を現していました。
えらーい ふつう「知るかいな!」ってことで欠席しそうなものですが
責任感が強いというか、ロイヤルに向いていたんですかね?
1844年に王に即位したオスカルは、心を入れ換えたのか誠実になりまして
夫婦の仲は修復されて別居も終わりを告げました。
政治面ではオスカル1世のよきアドバイザーで… 大きな影響力もあったようです。
ざっとあげると、宗教の自由に関する法律・男女同等の継承・監獄の改修
ギルドの廃止などは、ヨゼフィナがオスカルにけしかけたとされています。
また、ロシアに睨まれつつ汎スカンジナヴィア主義を突っ走りそうなオスカルを横目に
第一次シュレスヴィヒ戦争を妨ごうとしていたことなどですかね。
1857年、オスカル1世が病に罹りました。
けっこう重かったようで議会は王子カール(15世)を摂政にたてようとしましたが
ヨゼフィナは王の病気を隠そうとして断固反対!
どうやらカールは母親の政治的影響を嫌っていたようです。
オスカルは病気になってからもヨゼフィナと馬車で市中に現れたりしていますが
なんと! 横からヨゼフィナがオスカルの腕を持って振らせていたんですって…
オスカル1世は2年後の1859年に亡くなるのですが、連れ出されないで大人しく療養していたら
もう少し長生きできたかもしれなかったかも… しっかり者の嫁も善し悪しですな
根っから王妃に向いていたのかもしれないですね。
慈善活動に打ち込んでいたというけれど、王家のこととなると冷酷にもなれたのかも…
カトリック信者への戴冠がノルウェーで反対されたり…と宗教がらみの問題はありましたが
それでも宮廷からも民衆からもとても人気があった王妃だそうです。
さしあたって、前妃デジレ・クラリーよりはるかに人気者でした。
1875年にローマ教皇にお目にかかるためにローマを訪れています。
69歳で亡くなり、本人の希望でカトリックの葬儀が挙げられました。
最後の言葉は「今帰ります。とても幸福な気持です」だそうです。
(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)