まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スウェーデン王オスカル1世妃 ヨゼフィナ

2011-09-28 22:39:16 | スウェーデン王妃
立派に仮面夫婦を演じた王妃
オスカル1世妃 ヨゼフィナ・アヴ・レウシュテンベリ


1807~1876/在位 (スウェーデン・ノルウェー王妃)1844~1859

“ 汎スカンジナヴィア主義 ” を擁護し、ナイチンゲールで有名なクリミア戦争や
シュレスヴィヒ戦争を戦ったオスカル1世の妃ヨゼフィナは
レウシュテンベルク公ウージェーヌ・ボーアルネの公女です。

父方の祖母はナポレオン皇后ジョゼフィーヌ
叔母はオランダ王ローデウェイク1世妃オルタンスです。
妹にブラジル皇帝ペドロ1世妃アメリアがいます。

       

ヨゼフィナは16歳の時、ナポレオンの敵として戦ったことがあるスウェーデンに
“ ナポレオーネ ” というミドルネームを取り去って嫁ぎました。
美しくて魅力的で気品がある妃で、人気も上々でした。

よく似た性格で共通の趣味も持っていたオスカルとヨゼフィナの新婚生活は幸福で
お子様も5人生まれました。

すぐにアドルフ・フレデリクとロヴィーサ・アヴ・プルッセンの王女で
クヴェトリンブルクの修道院長を務めたこともあるソフィアと親しくなり
いくつかの慈善事業に参加したり、宮殿の改装に熱中したり
芸術を奨励し、ガーデニングを楽しみ…と充実した毎日を送ったようです。

義父カール14世と夫のオスカルの見解の相違を調停するために政治にも関わっていました。
義母デジレ・クラリーはパリにいて何もしないんだしね…

ヨゼフィナは子供たちがルター派(プロテスタント)で教育することを容認しましたが
自分はとても敬虔なカトリック信者で、おかかえの聖職者を連れて来ていまして
ミサや告解にも必ず参加していました。
異教徒の妃が嫁いで来るともめることが多いものだけど
ヨゼフィナの場合はあまり問題視されなかったみたいですね。
ルター派の牧師たちはおおいに反抗したそうですけど…

しかし、幸せだったヨゼフィナの暮らしにも徐々に暗雲が…
オスカルはしばしば浮気をしていましたが、うまいこと隠していたようなのね。
けれどもとうとう有名な女優のエミリー・Hogquistとのお付き合いが発覚しまして
深く傷ついた28歳のヨゼフィナはオスカルとの別居に踏み切りました。

結局この別居は9年間続いたのですけれども公にはされず
公式な席には、いつも二人揃って姿を現していました。
えらーい ふつう「知るかいな!」ってことで欠席しそうなものですが
責任感が強いというか、ロイヤルに向いていたんですかね?

1844年に王に即位したオスカルは、心を入れ換えたのか誠実になりまして
夫婦の仲は修復されて別居も終わりを告げました。

政治面ではオスカル1世のよきアドバイザーで… 大きな影響力もあったようです。
ざっとあげると、宗教の自由に関する法律・男女同等の継承・監獄の改修
ギルドの廃止などは、ヨゼフィナがオスカルにけしかけたとされています。

また、ロシアに睨まれつつ汎スカンジナヴィア主義を突っ走りそうなオスカルを横目に
第一次シュレスヴィヒ戦争を妨ごうとしていたことなどですかね。

1857年、オスカル1世が病に罹りました。
けっこう重かったようで議会は王子カール(15世)を摂政にたてようとしましたが
ヨゼフィナは王の病気を隠そうとして断固反対!
どうやらカールは母親の政治的影響を嫌っていたようです。

オスカルは病気になってからもヨゼフィナと馬車で市中に現れたりしていますが
なんと! 横からヨゼフィナがオスカルの腕を持って振らせていたんですって…
オスカル1世は2年後の1859年に亡くなるのですが、連れ出されないで大人しく療養していたら
もう少し長生きできたかもしれなかったかも… しっかり者の嫁も善し悪しですな

根っから王妃に向いていたのかもしれないですね。
慈善活動に打ち込んでいたというけれど、王家のこととなると冷酷にもなれたのかも…

カトリック信者への戴冠がノルウェーで反対されたり…と宗教がらみの問題はありましたが
それでも宮廷からも民衆からもとても人気があった王妃だそうです。
さしあたって、前妃デジレ・クラリーよりはるかに人気者でした。

1875年にローマ教皇にお目にかかるためにローマを訪れています。
69歳で亡くなり、本人の希望でカトリックの葬儀が挙げられました。
最後の言葉は「今帰ります。とても幸福な気持です」だそうです。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王カール14世妃 デジデリア

2011-09-22 23:15:59 | スウェーデン王妃
玉の輿の哀しい真相
カール14世妃 デジデリア “ デジレ ” クラリー


1777~1860/在位 (スウェーデン・ノルウェー王妃)1818~1844

私は今までカール14世ヨハンをナポレオンの傀儡だと思っていましたが
どうやら思い違いだったみたいです。

たしかにジャン・バプティスト・ベルナドッテ(カール14世)はナポレオン軍の元帥で
フランス軍で功績をあげていましたが(かいつまんで言うと)王になるにあたっては
ナポレオンに北欧連合を組織しようとしているという誤解をうけないように派遣された
メルナー中尉が先走って、軍人受けのよかったジャンと会談しちゃったことが発端で
ナポレオンが無理に推したわけではないみたいです。

しかも王になるにあたってナポレオンからフランスに敵対しないように言われ
「スウェーデン王になったらスウェーデンの国益のために戦う」と答えています。
男気がある方ね!

そんなカール14世の妃は、絹商人フランソワ・クラリーの娘デジレです。
姉のジュリーはナポレオンの兄のスペイン王ホセ(ジョゼフ)妃です。
どっちかというと、カール14世妃としてより、ナポレオンの元カノとして有名ですよね。
        
長くなるのではしょるけど、デジレの兄が革命政府に逮捕された時
デジレがジョセフに頼んで釈放してもらったのね。
ジョセフがジュリーと結婚した後、デジレはナポレオンに紹介されて婚約したんだけど
ジョゼフィーヌの登場で破棄されちゃったと…
その3年後にフランスでジャン・バプティストと出会い結婚いたしました。

婚約は破棄されましたけど、デジレはナポレオン一家と良好な関係を結んでいて
自分のポジションを奪われたジョゼフィーヌとも仲良くしていたそうです。
ナポレオン一家の女性陣はジョゼフィーヌが嫌いでデジレを仲間に引き入れようとしましたが
デジレは中立でいたいと断りました。

こんなエピソードがあります。
ナポレオンの戴冠式の日、ナポレオンの姉妹がジョゼフィーヌのトレーンを持つ役で
引っ張って転ばせようとしたのですが、デジレはそれを防いで助けたそうです。
いい人ね、 私なら一緒になって転ばせると思うが…

さてさて結婚後、ナポレオン軍の元帥だったジャンは留守がちでした。
裕福とはいえ商人の娘だったデジレは、ジュリーのおかげでロイヤルになれて
舞い上がったみたいですね。
社交界や宮廷訪問なんかでセレブな毎日を満喫し、どうやら浮気もしてたみたいです。

だからきっとデジレは「パリこそ自分の居るべき場所」と思っちゃったんじゃないかしら?
その後のデジレの行動をざっくり書きますね。
ジャン・バプティストは1804年にハノーヴァー総督に就任しましたが
デジレはハンブルクへ移るやいなやパリが恋しくなってすぐ帰ってしまいました。

ジャンが1806年にポンテコルヴォ公になった時には「行きたくないなぁ…」と思っていたら
「来なくていい」と言われて胸をなでおろしました。

そして、ジャンが1810年にスウェーデンの王太子に選ばれた時には
さすがに行かねばね!ってわけで出向いたのですが、スウェーデン宮廷に馴染めず
それになにより寒いのがキライ、ということで冬になるとパリに帰ってしまいました。

デジレは別にスウェーデンの王妃になんてなりたくなかったし、家族の側にいたかったし…
ということでその後12年、夫と息子と離れてパリに居続けました。
ジャンもその方が好都合と考えてまして、無理に呼び寄せませんでした。

スウェーデンでは前王妃へドヴィクをはじめとする貴族たちが、デジレのことを
俗物で軽薄だと見なして相手にしていませんでしたし
デジレの方も「スウェーデン貴族は氷みたいに冷たい」といって嫌っていました。

ナポレオン失脚後に姉ジュリーのもとへ身を寄せた以外はパリに留まっていたデジレでしたが
大好きなパリも変わってしまいました。
ルイ18世の宮廷では、デジレは成り上がり者とあざ笑われてしまいました。
デジレも「スウェーデンに行っちゃおっかな」と考えましたが
夫のジャンはナポレオン・ファミリーと思われているデジレを来させませんでした。
マリアナ・コスクルっていう愛妾もいたしね…

1818年にジャンがカール14世として即位してからもスウェーデンには来ませんで
パリでリシュリュー公と恋に落ちておりました。

すごく長くなったので、ここから突っ走りますね

1822年、リシュリュー公が亡くなります。
1823年、息子オスカル(1世)の結婚式のためスウェーデンに短期滞在、
1829年に戴冠式を行ってスウェーデンで暮らし始めました。
すぐに飽きてパリに帰ろうとしましたが、この時はカール14世が許しませんでした。
パーティーや舞踏会で女主人役の王妃が必要だったのね。
けれども、カールとデジレは食事の時間も別々で、公の場でしか顔を会わせませんでした。

結局デジレの人気は下がる一方になったのですが、その理由をあげると
スウェーデン語を覚えようとしないで、使用人はフランス人をとりそろえ、
寝るのも起きるのも遅く、ナイトガウンで宮廷内を歩くという不品行、などなど…
パリでは当たり前のことがスウェーデンでは受け入れられなかったんですね。

1844年にカールが亡くなった後もなぜか海を恐れてスウェーデンに留まったデジレですが
帰りたいけど帰れないストレスのせいでしょうか? 行動が軌道を逸していきます。
昼夜が逆転して夜中に食事をし、真っ暗な城内を徘徊するようになりました。
奇妙な行いは、真夜中に正装してバルコニーにたたずんだり
街の通りから子供を連れて帰ったりとだんだんエスカレートしていきました。

夜中に宮殿のまわりを馬車で何周もしたりという、なんだか哀れを誘う晩年を送り
1860年に83歳で亡くなりました。
最後の日も、オペラが終わってから劇場を訪れたりしています。

スウェーデンサイドから見れば、いつまでもパリ、パリって… と怒りたくもなりましょう。
でも、人気者の旦那様から完全に “ ダメな嫁 ” の役をおしつけられた感はありますね。
パーフェクトに近い夫と愚かな妻… カール14世は一身に世間の同情を受けたことでしょう。

愛も信頼もない人から利用される人生…
本来なら羨まれる王妃でありながら、本当に哀れに思えてなりません。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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『荒野の呼び声』“ワンちゃん”とか呼んでる場合じゃない

2011-09-17 18:33:33 | アメリカの作家
THE CALL OF THE WILD 
1903年 ジャック・ロンドン

完全に猫派で犬が苦手な私が感動した『白い牙』
野生の狼犬が人間と触れ合っていくうちに “ 飼われること ” とはなんぞや?
ということに目覚めていくお話しでした。

『白い牙』の読後、絶対読もうと思っていた『荒野の呼び声』は
飼い犬バックが、野生の中で生きていた遠い先祖の記憶を呼び覚まされるという物語です。

今回も本当に面白かったですよ!

バックはサンディエゴの大きなお屋敷で猟犬として飼われていた犬です。
セントバーナードとシェパードのあいの子で、屋敷内では敵無しでした。
しかしある日、困窮していた庭師助手にさらわれてしまいます。
カナダ~アラスカで金鉱が見つかって、橇を引く犬が大量に必要で高く売れたのです。

物語は、南国育ちのバックが北国の気候に驚き、今まで受けたことのない侮辱や体罰、
犬同士の闘争を乗り越えて橇犬として立派に成長する姿と
尊敬に値する人間とそうでない人間に対して抱く思いや、愛情と忠誠心が描かれています。

北の大地で暮らすうちに、バックは今まで見たこともないのになぜか懐かしい
野生犬視点の情景が脳裏に浮かび、野生犬の感性が育まれていきます。

特に装飾的な言葉はなく、逆にどちらかというと素朴で荒削りな言葉で書かれているのですが
橇犬として厳しい行程を進む犬たちの姿がありありと目に浮かび
ずんずん読み進むことができました。

ラストでバックが完全に野生に返ってしまうきっかけは
とてもとても悲しい出来事なんですけど、書かないでおきますね。
ぜひぜひ読んでいただきたい!

それよりさぁ… ハスキー犬て、やっぱり狼の子孫なのよね!
北国の大地で君臨するハスキー犬たちの群れの気性や戦い方は獰猛です。
狙った相手を追い込む姿勢と布陣は狼そのものです。
倒した相手を生かしておくなんてことはありえません。

今でさえシベリアンハスキーとかシェパードが散歩をしてると避けて通る私なのに
今度見たら泣いちゃうかもしれん リードがついてるからまだいいようなものの…

(まさかいないとは思うけど)ハスキーに可愛い服なんか着せてる場合じゃないですよ。
彼らは雪の中で平気で寝れるんですよ。
野生の教えるまま雪の中に穴を掘り、風を読んで温かさを確保するんですよ。
服は不要です。

もはや “ ちゃん ” づけで呼んじゃいかん気がする… ラブリーな名前もダメでしょう。
勇敢で誇り高い名前にしてあげましょう。
ちなみに、橇犬には雌もいますけど、彼女らもたくましく自然や雄犬と戦います。
雌だからって女々しい名前はやめて、戦いの女神とか女傑の名前…
アテナとかメドゥーサなんてどうでしょう?

ジャック・ロンドンが若い頃の経験をもとに書いたという物語です。
他にもあったらぜひ読んでみようと思っています。
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スウェーデン王カール13世妃 ヘドヴィク

2011-09-14 22:55:35 | スウェーデン王妃
感情優先で継承者問題に首をつっこんだ王妃
カール13世妃 ヘドヴィク・エリザベット・アヴ・オルデンブール


1759~1818/在位 (スウェーデン王妃)1809~1818 (ノルウェー王妃)1814~1818

戦争と外交の失敗でロシア公使から瀕死よばわりされたスウェーデンを引き継いだのは
グスタフ3世の弟でグスタフ4世の叔父にあたるカール13世です。
即位した時には61歳… 野心はあったんだろうが遅すぎませんかね?

そんなカール13世の妃は、オルデンブルク公フリードリヒ・アウグストの公女へドヴィクで
グスタフ3世が王妃ソフィアとの嫡子を諦めた時に縁談をアレンジしました。

15歳の時に嫁いで来たヘドヴィクの美しさはおおいに賞讃されました。
ウエストは48㎝!!と記録されています… 折れそう…

    
しかし、アウグスタ・フォン・フェルセンという愛妾がいたカールは
結婚1年ぐらいでヘドヴィクの容姿に飽きちゃったみたいであまり興味を示さなくなります。

一方、王妃のソフィアとは正反対の朗らかなヘドヴィクはすぐに宮廷の人気者になりまして
男性関係も華やかだった様子…
噂になった男性の中にはマリー・アントワネットの恋人として有名な
ハンス・アクセル・フォン・フェルセンがいます。
フェルセンはカール13世の愛妾アウグスタのいとこにあたります。
また、フェルセンの妹でバイセクシャルだったらしいソフィーとも親密でした。

甥のグスタフ4世の摂政を務めたカールは、グスタフ4世の失脚にともない即位しました。
即位したまではよかったが、カールとヘドヴィクには成人した嫡子がいませんでした。
スウェーデンには再び継承問題がおこります。

ヘドヴィクは前王妃フレデリカ・アヴ・バーデンに同情たっぷりで
彼女の息子グスタフを次の王にしたいと考えて積極的に動き回りました。
スウェーデン王候補は他に数人おりましたが、その中の一人だった
アウグステンブルク家のカール・アウグストがスウェーデン到着後亡くなると
反対派はヘドヴィクに殺されたと噂したそうです。
この件でフェルセンは王位を狙う者としてリンチにあい亡くなります。
ヘドヴィクはフェルセンの葬儀を取り仕切ったりしています… 火に油じゃないの?

(端折るけど)なんだかんだあって、オットー・メルナー中尉という人の先走りで
フランスでナポレオンの配下だったジャン・ベルナドッテが継承者に選ばれてしまいました。

ヘドヴィクはロイヤルじゃないベルナドッテが継承者に選ばれたと聞いて失望しましたが
初めて会った時にすっかり魅了されちゃいまして、その後は支持派にまわりました。
ベルナドッテも(作戦なのか)ヘドヴィクに助言を仰いだりしちゃって
気分が良くなったのか、ヘドヴィクはベルナドッテを摂政にするよう議会に働きかける始末。

一国の行く末がかかっているというのに、かなり感情に左右されてますね。
グスタフだって政治的にというより同情心から支持してきたみたいだし…
これだから「女は…」なんて言われちゃうんじゃなくて?

一方ベルナドッテの妻デジレ・クラリーとは一悶着あったようです。
「良い性格かもしれないけど… 愚か者ね」と見なしていました。
デジレが徹頭徹尾フランス式から抜け出せなかったことが原因だと言われていますが
やきもちかもしれないね。

カール13世の死から4ヶ月後、カール14世となったベルナドッテとの晩餐中
胃痛とめまいで部屋に引き下がったヘドヴィクはその夜のうちに亡くなってしまいました。

カール13世の死後二人の間になにか争いごとが持ち上がったといわれてるんですけど…
くさいわね ←あくまで私のかんぐりです。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王グスタフ4世アドルフ妃 フレデリカ

2011-09-12 22:04:11 | スウェーデン王妃
美人好きの王が選んだ王妃
グスタフ4世アドルフ妃 フレデリカ・アヴ・バーデン


1781~1826/在位 1797~1809

父王グスタフ3世の暗殺により急遽14歳で即位したグスタフ4世アドルフは
ロシアと同盟を結びたくて、自ら縁談をアレンジしていました。
パーヴェル1世公女アレクサンドラに求婚しましたが断られ
アレクサンドル1世妃エリザヴェータを姉に持つフレデリカと
19歳の時に結婚しました。
       
グスタフは気が弱く暗い少年でしたが、なぜかお妃選びには積極的。
なんでも美しい奥さんがほしかったんですって。
17歳の時にメクレンブルク=シュヴェリーン公女ルイーゼと縁談があって断られてますが
彼女は美しくなかったということで、ほっと胸をなでおろしたのではないでしょうか?

フレデリカは公子の公女で、王妃になるなんて考えていなかったのかも…
最低限の教育しか受けていません。

スウェーデンでは義母ソフィアに愛情深く接してもらうことができましたが
厳しい宮廷作法にも、侍女たちとの付き合い方にも馴染めませんでした。

グスタフ4世とフレデリカの仲は良くも悪くもなかったようですが…
なんて言うの…
グスタフは母親に似て内向的でよそよそしいタイプだったんだけれども
性的には積極的だったのね…
むっつりスケベですか? 妻が好きというより妻とのセックスが好き、という人で
朝になっても王妃の寝室係が入室できないことがしばしばありました。
議会(!)が妃の健康を考えるように止めようとしたこともありましたし
フレデリカも「疲れるわ~」とこぼしていました。

しかし疲れる一方でフレデリカはスウェーデンの自由なセックス事情に興味津々で
宮廷で見聞きしたあんなこと、こんなことを家族に書き送っていました。
送られた親はなんて返事を書いていたんでしょうね? そっちの方が興味あるわ。

さて、スウェーデンもこの後ナポレオン旋風に巻き込まれます。
ロシアからの脅威がせまりつつあったスウェーデンは、ロシアと手を組むか
フランスと手を組んでロシアと対抗するかの二者択一をせまられます。
ナポレオン大嫌い! なグスタフはロシアと協力関係を結ぶ方を選びました、が
いろいろあって、結局ロシアがフランスと密約を結んで和解してしまって
スウェーデンにもフランスと和平を結ぶように強制してきました。

この時フレデリカは姉の皇后エリザヴェータに言われてグスタフを説得しましたが
これによって夫婦仲が悪化しました。
グスタフはブルボン家の復活を願っていて、ナポレオンを皇帝と認めていなかったのね。

その後フランスにポンメルンを奪われ、ロシアにフィンランドを奪われと
次々に外交で失敗したグスタフは、1809年に廃位されました。
グスタフはグリプスホルム城に、フレデリカと子供たちはハーガ宮殿にと軟禁されました。

新王カール13世妃ヘドヴィクはものすごくフレデリカに同情して
カールの後の王はフレデリカの王子にして、フレデリカを摂政にしようと尽力しました。
けれどもフレデリカは一家揃って追放されることを望みました。

釈放後、グスタフ一家はフレデリカの故郷バーデンに落ち着きました。
でも妻の実家で居心地がわるかったのかしら? グスタフは出て行きたがりました。
フレデリカは「追放の身なんだから!」と子供をつくらないためにセックスを拒みまして
二人は翌年別居、その2年後に離婚しました。
ま、それだけが理由ではないと思うが…

離婚当時31歳のフレデリカは、妹のマリアと死別していた
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フリードリヒ・ヴィルヘルムや
王妃ルイーゼと死別していたプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に求婚されましたが
断って子供たちとバーデンで一生を送りました。

ちなみに、娘ソフィアの孫ヴィクトリアはベルナドッテ家のグスタフ5世妃になります。
          
義母ソフィアやカール13世妃ヘドヴィクとは生涯文通をしていたそうです。
渦巻く権力闘争の犠牲になりがちな女性同士で友情が芽生えるなんて素敵なことですね。

もう少し覇気があって「ついてこい!」というタイプの夫とだったら上手くいったかしら?
あるいはグスタフ4世に父王のような政治一筋で仕事に没頭する一面があればね…
セックスだけが夫婦円満の秘訣ではないってことで… とまとめてみました。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王グスタフ3世妃 ソフィア

2011-09-09 23:08:30 | スウェーデン王妃
宮廷に多くのゴシップをもたらした王妃
グスタフ3世妃 ソフィア・マグダレーナ・アヴ・ダンマルク


1746~1813/在位 1771~1792

グスタフ3世といえば、王に即位してから自分でクーデターをおこして
王権を取り戻し “ グスタフ3世時代 ” という一時代を築いた王ですが
結婚生活は失敗に終わってしまったようです。

ソフィアはデンマーク王フレデリク5世とイギリス王女ルイーセの王女です。
      
5歳の時にグスタフと婚約し、未来のスウェーデン王妃として教育されました。
この結婚はスウェーデンの王家ではなく議会が決めたもので
グスタフの母ロヴィーザはずっと抵抗していました。

だ、か、ら… 1766年に結婚した後も、王グスタフ・アドルフには親切にされましたが
ロヴィーザには冷たい扱いをうけてしまいます。
パーティーの席でも、有益な話を聞こうと美しく若い女性そっちのけで
年配の女性と会話したという政治大好き!なグスタフはソフィアを完全に無視しました。
母后ロヴィーザはさらに二人の仲が悪化するよう助長していました。

美しくて、持参金もたっぷりあって、王妃に相応しい女性に育てあげられていたのに
なぜかスウェーデンでは不人気でした。 ロヴィーザの呪いか…

ソフィアも「とにかく将来は王妃」ってな感じで育てられていたので尊大さがあって
宮廷の人たちとは打ち解けなかったようです。
真面目でよそよそしい性格はグスタフとは正反対で歩み寄れなかったし
グスタフの取り巻きとも気が合いませんでした。

グスタフはソフィアが式典要員になってくれればそれでよかったのですが
ソフィアは賑やかで華々しい席が嫌いときています。
カール(13世)の妃ヘドヴィクによれば、ソフィアが公務をこなしている時は
嫌々人に会っているのがまる見えスケスケだったそうです。

ソフィアは極力自分の邸宅であるウルリクスダール宮殿に籠って
2週間に1度サロンを開き、たまに大好きな劇を観に行く以外は孤独を愛していました。
フランス式のドレスはこれ見よがしだから嫌いということで、英国式ドレスを好みました。

大人しく優雅で礼儀正しかったということですが、一方堅苦しく横柄で
グスタフは “ 氷みたいに冷たい ” と言っていたとか…

この夫婦、噂によると、結婚から9年後の1775年まで夫婦関係が無かったとかで
ヨーロッパ中の宮廷で物笑いの種になっていたそうです。
1774年にグスタフの弟カール(13世)が結婚したんですよね。
早速カールの嫡子が期待されましたが、グスタフも自分の嫡子を! と目覚めたようです。

噂って尾ひれがつくじゃない? この噂にも様々なおまけがついてまわりました。
グスタフが不能、グスタフがホモ、二人とも欠陥がある… といった具合です。

1778年にソフィアは待望の王子グスタフ(4世)を生みました。
1782年にはカール・グスタフが生まれましたが1年で亡くなりました。

でも、だからって安泰ではありませんの… もうおわかりですよね?
グスタフの父はグスタフ3世ではないっていう噂が大々的に広がりました。
父親はフルキラ伯アドルフ・フレデリクと言われています。

でも事実はちょっと違うようで… そっちもちょっと可笑しいのですけどね…
フルキラ伯はグスタフの教育係だった人で、なんと! 童貞と処女の二人に
正しいセックスの仕方を指南したということでございます。

グスタフも未経験~? かなり魅力的な人だったということですが?
それに若い頃から各国の宮廷に出入りしてますよ。
マリー・アントワネットには夜会まで開いてもらってますよ…
それなのに29歳まで何もなかったというのかい?
政治一筋ね、ある意味尊敬しちゃう。

なんでも呼び出されてどうやったらいいか実演して見せたらしいです。
これも噂としてかけめぐったのですが、人々はそっちを想像してまた大笑い!
どっちにしても、せっかくの王子誕生がいいようには受け取られなかったわけですね。

グスタフの母后ロヴィーザは「待ってました!」とばかりに
王子は庶子だと宣言し、二度とソフィアと口をきかないと決意して実行したそうです。
この件でグスタフ3世は、ロヴィーザに公式な宴会の場で謝罪させました。
これでさらに親子の絆が壊れることに…

ソフィアは変な噂にもロヴィーザの態度にも大きなショックを受けましたが
グスタフが庇ってくれたし、夫婦の中はしばし改善して幸せな時期を過ごしたようです。

1792年、グスタフ3世は仮面舞踏会の会場で暗殺されてしまいました。
貴族の権力を奪ったグスタフ3世には敵も多く、不満も膨らんでいました。
ポケットには暗殺予告の手紙が入っていたそうです。

ソフィアは隠遁して慈善活動に精を出し始めますが、なぜか喪服を着るのを拒み
これがまたまたスキャンダルになります。

14歳の息子グスタフ4世の摂政は義弟カール(13世)に任せて政治には関わりませんでしたが
グスタフはソフィアの要求はなんでも聞き入れました。

1809年にグスタフ4世はカール(13世)に追放されてしまうのですが
ソフィアはずっとスウェーデンにとどまり、その後ナポレオン時代にとってかわってからも
スウェーデンの自分の領地で暮らしました。
カール14世妃デジレ・クラリーに親切にした数少ない人々のうちの一人でした。
きっと異国で冷たくされることの悲しみがわかっていたからでしょうね。

ソフィアはスウェーデン王室史上最も悲劇的で孤独な人物と言われております。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王アドルフ・フレデリク妃 ロヴィーザ

2011-09-08 21:16:17 | スウェーデン王妃
野心満々で “ 大王 ” の兄から心配された王妃
アドルフ・フレデリク妃 ロヴィーザ・ウルリーカ・アヴ・プルッセン


1720~1782/在位 1751~1771

前王フレデリク1世とウルリーカ・エレオノーラに嫡子がいなかったため
すったもんだの末(詳細ははしょるけど)ロシア女帝エリザヴェータに推されて
王になったのがホルシュタイン=ゴットルプ家のアドルフ・フレデリクです。
         
妃のロヴィーザは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と
王妃ゾフィア・ドロテアの王女で、これまたエリザヴェータのご推薦でした。
兄に “ 大王 ” と呼ばれたフリードリヒ2世がいます。

         
兄のフリードリヒ2世はこの結婚に難色を示しました。
フリードリヒは妹のことを “ 傲慢で気まぐれで陰謀家 ” と思っていて
敵が多く王権が弱いスウェーデン王家を支える王妃になるには
あまりにも野心がありすぎると考えたようです。
かわりに「妹のアンナ・アマーリエはどうかしら?」と言ってみましたが
スウェーデン側はロヴィーザを希望しまして1744年に結婚しました。

ロヴィーザは美しくて教養溢れる女性で、嫁いだ当初は人気者でした。
中でもテッシン伯などは “ 天使の心を持つ女性 ” として崇めていたようで
若い夫婦のために仮面舞踏会だ、ピクニックだ、芝居だと余興を用意しました。

テッシン伯は式部長官に任命され、彼の妻も女官長になりました。
ロヴィーザとの恋愛も囁かれましたが、これは噂にすぎないようです。
ちなみにテッシン伯は1754年に王子グスタフ(3世)とデンマーク王女の結婚を
王と王妃に説得したことで失脚してしまったんですけどね…

ロヴィーザはかなりアカデミックな女性で、プレゼントされたドロットニングホルム宮殿に
科学者や芸術家を集めたりギャラリーを造り、学者に講義をさせたりしました。

善良で凡庸なアドルフの方はといいますと散歩や大工仕事なんかに勤しんでいまして
ロヴィーザから馬鹿にされていました。

そんなわけでロヴィーザは徐々に実権を握り始めます。
ロヴィーザは弱まってしまって議会に牛耳られる王権に我慢がなりませんでした。
本当はアドルフに啓蒙君主になってほしかったのですが「無理ね… 」と気づき
自分で王権を強化しようと保守革命を企てました。

1756年、このクーデターは処刑者をだして失敗し
王と王妃が直々に議会から警告を受けるという恥ずかしい結果に終わりました。

長くなったからちょいとはしょってまいります…

ロヴィーザは政治的な力を失っていき、夫のグスタフにも廃位の影が近づきつつあって
1766年からは王子グスタフに希望をかけるわけですが、息子との間にも亀裂が…

ロヴィーザはお気に入りの姪(姉ゾフィア・ドロテアの娘)フィリッピーネを
グスタフの妃に…と考えていたのですが、グスタフは意に反してスウェーデン議会が推す
デンマーク王女ソフィアとの縁談に同意しました。

ロヴィーザはこの決定に大激怒し、軽蔑を隠そうとしませんでした。
やってきた代表団の馬車を門の前で1時間待たせ、部屋に入るととても低い椅子に座らせて
文字通り上から目線で謁見したそうです。

ちなみにロヴィーザはグスタフがダメなら…と、弟のカール(13世)とフィリッピーネを
結婚させようとしましたが、これもダメだったみたいです。

1771年にグスタフが亡くなった時、王子グスタフは金策のためフランスにいましたが
すっかり不人気なロヴィーザのことを案じて
「すぐに母を保護してほしい」とスウェーデンに使いを出したそうです。

グスタフ3世の即位後、ロヴィーザは王の母后として権力を振るう気満々でしたが
すでに母親の干渉にうんざりしていたグスタフは口を出させませんでした。
他の宮殿に移るよう強いられてドロットニングホルム宮殿も手放すことになりました。

フィリッピーネとの縁談を拒んだ息子たちの嫁とは絶対付き合おうとせず
グスタフの妃ソフィアを “ 小心者 ” 、カールの妃を “ 浮気者 ” と呼んでいました。
王妃に関する母子喧嘩は生涯続いたということです。

でもロヴィーザだってスウェーデンのためになることをしているのよ… たとえば
スウェーデンは七年戦争でプロイセンと争っていましたが負けがこんでいました。
そこで政府はロヴィーザを頼ります。
ロヴィーザは兄のフリードリヒ2世に和議を申し入れて領土移譲無しで戦争を終わらせました。
これは当時としてはかなりのお手柄ですよね! 領土が奪われなかったなんて!!
しかも相手は戦争で領土を拡大するのが大好きというフリードリヒなのに… さすが妹。

確かにフリードリヒ2世が危惧したとおり、王権がしっかりしている強国に嫁いでいたら
貫禄充分で高貴な名王妃なんて呼ばれていたかもしれません。

君主の嫁の評判て、本人の性格より状況で大きく変わるものですね。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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