まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王シャルル6世王女 ジャンヌ

2012-02-27 22:49:19 | フランス王妃・王女
知られざる女傑
シャルル6世王女 ジャンヌ・ド・フランス
ブルターニュ公ジャン6世妃


1391~1433

悲劇の狂王シャルル6世と、悪妻の代名詞みたいな王妃イザボー・ド・バヴィエール
12人のお子様を授かりました。
ま、後半はシャルル6世の子だかどうだか怪しいんだけどね…

王女は6人です。
長女ジャンヌは2歳で亡くなっています。
次女イザベルは7歳でイングランド王リチャード2世妃になりましたが
20年の薄幸な生涯を送りました。

ジャンヌは三女です。
         
お姉様同様早く結婚させられました。
5歳ですと!!

ジャンヌが嫁いだ当時、ブルターニュは継承戦争のまっただ中でした。
この戦争は延々と続くんですけど、一応は1365年にジャン6世の勝利で決着したのね。

しかし、敵方のパンティエーブル伯は、ブルターニュの継承権と領地を
放棄しようとはしませんでした。
1420年にジャン6世をシャントソーの式典に招くと、やって来た彼を捕らえて
「ジャン6世は死亡した」という噂を流しました。

なんでもジャン6世は平和主義者だったみたい… ホイホイ行っちゃうからこんなことに…

ジャンヌはブルターニュの全ての貴族に招集をかけると徹底抗戦にでます。
最後にはパンティエーブル伯の未亡人マルグリートを捕らえるとジャンを自由の身にし
争いにも勝利を収めました。

夫の(偽の)死を報せられても勇猛果敢に敵に立ち向かうとは…立派ですね。
ブルターニュ領ではパンティエーブル伯家を支持する声が多かったというのに。

これもひとえに愛する息子をブルターニュ公にするためだったといいます。
母親の愛をあまり知らずに育ったのではないかと思われるジャンヌですが
強い母性愛を持っていたようですね。



母親の罪を償った王女
シャルル6世王女 マリー・ド・フランス


1393~1438

シャルル6世の四女マリーは1393年生まれで、父王発狂後に誕生しています。
ちょいと誰の子か怪しい感じですが…

母のイザボー・ド・バヴィエールは、シャルル6世の狂気は神の罰だと考えて
マリーを神に捧げることにします。

マリーは4歳になるとすぐにポワシーの修道院に送られまして修道女になりました。
ポワシーの修道女長は父方の祖母ジャンヌ・ド・ブルボンの妹マリーでした。
親戚がいると心強いですね。
              
修道院にはクリスティーヌ・ド・ピザンの娘マリーが一緒に入りました。
クリスティーヌ・ド・ピザンという人は良く知らないんだけど
宮廷詩人で、フランス初の女流作家とも言われてるらしいです。
王妃の気まぐれで娘を修道院に入れられちまって… 宮仕えもつらいものね。

やはり、というか、マリーはその後修道院長になったわけですけども
一生をその修道院で過ごし45歳で亡くなりました。

可哀想ね… と思いきや、イングランドのエドワード1世王女メアリーみたいな
生活を送ってたりしてね…詳細はわかりません。

いったいイザボー・ド・バヴィエールの罪の意識って、何に対してでしょうね?
浮気? 浪費? わがまま?
マリーが修道院に入った後も、なにひとつ改まったようには見えないんですけどねぇ…

娘を僧職に就かせればすむって話しじゃないんじゃない? って思うわ

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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『魅せられて四月』映画にぴったり!の夢物語

2012-02-19 19:10:14 | その他の国の作家
THE ENCHANTED APRIL 
1922年 エリザベス・フォン・アーニム

本棚を整理していたら見つけた一冊です。
たぶん映画化された時に買っていたんでしょうけど
作家は知らないし、内容はまったく覚えてないし… というわけで再読してみました。

で、前書きを読んで驚いた エリザベス・フォン・アーニムは
私の大好きな作家キャサリン・マンスフィールドの従姉妹だそうです。
期待が膨らみましたよ!

そして期待はずれでしたよ~ん

出だしは嫌いじゃなかったんですけどね…

夫や夫の家族に見下され、毎日の家事に疲れた主婦ロッティは
ある日買い物に向かう途中でイタリアの古城を貸し出すという広告を見かけます。
「夢みたいな話」とは思ったものの、やはりその広告に目を留めていた
初対面のローズという女性を、衝動的に誘ってしまいました。

ローズは夫の職業(有名な愛妾の伝記作家)を恥じていて
宗教活動に身を投じています。
かなり迷ったのですが、ロッティの熱気に圧されてその気になりました。

二人は賃貸料をまかなおうと、同行者を募りました。
応募してきたのは二人、過去の栄光に浸っている気難しいフィッシャー夫人と
孤独を求めている美しい貴婦人のキャロライン・デスターです。

年齢も境遇も趣向もまったく違う4人の女性はイタリアへと旅立ちます。

サン・サルヴァトーレの古城は素晴らしい眺めの心地よい所でした。
しかし、4人の旅人は気が合わず、話もかみあわず、ぎくしゃくした日々を送ります。

という感じでスタートする物語なんですけどね。

その後、ロッティを従順な家政婦みたいに思っていたご主人メラーシュと
教会のことにかかりきりのローズをまったく省みなかったご主人のフレデリックが登場。

メラーシュは妻の勝手にブリブリ怒りながらも、弁護士の自分に有利な相手がいるかも、と
期待してやって来ました。
フレデリックは以前からキャロラインに魅せられていて
まさか妻がいるとは思わずに現れてビックリ! です。

さらに古城の持ち主ブリッグスも古城に顔を出しました。
彼はロンドンで一度自分を訪ねて来たローズのことが印象に残っていました。

歪み合うというよりいつまでも理解し合えない女性たちのもとに
何だか不埒な思惑を抱えた男性が集まって… さぁ、物語はどうなる?
もう、ものすごーく良い感じに展開していきますよ

なんというか… 屈託とか憂いとがほとんど感じられない話なのよね。

風光明媚で雰囲気満点な異国へ行きゃあ、誰もがハッピー!
閉ざしていた心を開けばみんなが笑顔!!
妻が美しく見え、夫が頼もしく思えて、冷めていた夫婦愛も甦るってどうよ?

確かに旅行に出かける人は出かけない人より寿命が長いといいますが
このストーリーのご陽気さはどうかと思うよ。

でも、景色もキレイそうだし、(フィッシャー夫人以外は)美しいみたいだから
映像で見るにはもってこいかもしれないですね。
映画はハッピーエンドの方が、見終わって気が重くならず楽しめますもんね。

女性が輝きを取り戻し、前向きに生きていくきっかけを掴むお話しです。
いいですね! 決して貶すつもりはございません。
マンスフィールドの従姉妹だという一点に期待を寄せた私が悪うございました。
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フランス王シャルル5世王女 カトリーヌ

2012-02-17 01:41:46 | フランス王妃・王女
             肖像画が無いのでお母様のジャンヌ・ド・ブルボン

悲劇の誕生と生涯
シャルル5世王女 カトリーヌ・ド・フランス
モンパンシエ伯ジャン夫人


1378~1388

王妃ジャンヌ・ド・ブルボンが忌まわしい血筋を受け継いでいたせいか
はたまた、本人が子供の頃に患った病のせいか、シャルル5世のお子様たちは
シャルル6世とオルレアン公ルイ1世を除いて7人が幼年で亡くなっています。

王女は5人生まれましたが、長女ジャンヌは3歳、次女ボンヌは生後すぐ
三女マリーは7歳、四女イザベルは3歳で亡くなりました。

ジャンヌ・ド・ブルボンの精神はイザベルを生むあたりから悪化したと言われています。

五女カトリーヌの出産の時、ジャンヌ・ド・ブルボンは医師の指示に背いて入浴し
出産後に亡くなりました。

          

シャルル5世はかなりのショックを受け、再婚もしませんでしたし
亡くなるまでダメージから立ち直れなかったと言われています。

カトリーヌはわずか8歳で、15歳年上のモンパンシエ伯ジャンと結婚しました。
しかし、姉たちのように10歳で亡くなってしまいました。

カトリーヌが生まれた時には、すでに姉たちは亡くなっていました。
唯一の王女だし、8歳まで成長したのだから、手元においておきたいというのが
親心じゃないの? と思ったのですが、もしかして…

愛する王妃が命を落とす原因となった娘を見るのが嫌だったのかしら?
早く嫁にやって見ないようにしようなんて考えちゃったのかしら?
そういう物語ってよくありますよね?
小説の読み過ぎ? ドラマの見過ぎ?

でも実際はシャルル5世は亡くなっていましたんで
兄のシャルル6世、あるいは摂政あたりのお考えだと思います。

シャルル5世が生きていたら状況は違ったかもね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王ジャン2世王女 ジャンヌ

2012-02-14 22:06:19 | フランス王妃・王女
ジャン2世の王女たち、全員まとめていってみよー!
ジャン2世王女 ジャンヌ・ド・フランス
ナヴァラ王カルロス2世妃


1343~1373/在位 1352~1373

“ 善良王 ” ジャン2世は2回結婚しています。
最初の妃ボンヌ・ド・リュクサンブールにはシャルル5世を含む
4人の王子がたて続けに生まれました。
長年フランス王家を悩ませていた後継ぎ問題はほぼ解決かしら? 良かったね

5人目に生まれたのが長女ジャンヌで、その後は王女が4人続きました。
           
ジャンヌはブラバント公ジャンと婚約したのですが実現しませんでした。
9歳で11歳年上のカルロス2世と結婚しました。

子供は後のカルロス3世を含む7人が生まれました。
次女ファナはイングランド王ヘンリー4世妃になります。

ジャン2世の次女はマリー・ド・フランス(1344~1404)です。
バー伯ロベール1世と20歳の時に結婚しました。
こちらも11人と子だくさんです。
         
次女ヨランダが、フィリプ6世王女ジャンヌの婚約者だった
アラゴン王子ファン(1世)の妃になりました。

ジャン2世の三女アニェスと四女マルグリートはともに4歳で亡くなりました。

五女がイザベル・ド・フランス(1348~1372)です。
12歳の時、サヴォア伯アメデーオ6世の仕切りで
後に初代ミラノ公となるジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと結婚しました。
三女ヴァレンティナがオルレアン公ルイ1世妃になります。
6人目の子供に当たるガリオの出産で、24歳の時に亡くなりました。
         
ボンヌ・ド・リュクサンブールは1349年に亡くなり
ジャン2世は翌年ジャンヌ・ドーベルニュと再婚しまして、一男二女が生まれています。

六女ブランシュ、七女カトリーヌともに生まれてすぐ亡くなりました。

ジャン2世には1338年から1353年にわたって12人のお子様が生まれてるんですが
3人を除いて年子なのよ

育てるのは乳母とか養育係とか侍女、小間使いなどなどがいるからいいとしても
生む方の身になってほしい!! って気がしません?
て、私は生んだことがないんだけどね… そう思っちゃった。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王フィリプ5世王女 イザベル

2012-02-09 22:31:30 | フランス王妃・王女
             こちらはフィリプ6世王女ジャンヌ・ド・フランス

ここから3人の王女は、ほぼ家系図のみです…
フィリプ5世王女 イザベル・ド・フランス
アルボン伯ギーグ8世夫人/フォシニー領主ジャン3世夫人


1312~1348

イザベルはフィリプ5世とジャンヌ・ド・ブルゴーニュの三女です。
      
4歳の時に3歳年上のアルボン伯子ギーグと婚約し、11歳で結婚しました。
1333年、ギーグはペリエール城に籠城中殺害されてしまいました。

で、ギーグの家系では嫡子を “ ヴィエノワのドーファン ” と呼んでいたらしいのだが
領地をフィリプ6世に渡した際に、フランスの王太子の称号になったそうです。
ちなみにドーファンてイルカのことね …

経緯は違えど、イギリスの “ プリンス・オブ・ウェールズ ” みたいな感じですかね?

21歳で未亡人になってしまったイザベルは2年後に再婚しました。
フォシニーの領主って、たいした相手じゃなかったんでしょうか?
記録がありませんで、亡くなった年も36歳か37歳と曖昧です。

フィリプ5世の四女ブランシユはロンシャンで修道女になりました。
六女は死産、あるいは誕生後すぐ亡くなっています。



カペー家、あがく
シャルル4世王女 ブランシュ・ド・フランス
オルレアン公フィリプ妃


1328~1382

シャルル4世は3回結婚しています。

最初の妃ブランシュ・ド・ブルゴーニュとの間には
長男フィリプと長女ジャンヌがおりましたが、二人とも幼年で亡くなりました。

二人目の妃マリー・ド・リュクサンブールは妊娠中に馬車に乗って揺られ
出産後に亡くなり、次女ルイーズも数日後に亡くなりました。

三人目の妃ジャンヌ・デヴルーが生んだ三女ジャンヌは1歳で夭逝。
シャルル4世のお子様たちの中で唯一成人に達したのが四女ブランシュです。
        
16歳か17歳でオルレアン公フィリプと結婚しました。

カペー家本流には嫡子が無く、王権はヴァロワ家に移っちゃう、ってわけで
娘を嫁がせてみたのでしょうか?

しかしお子様は生まれず… シャルル4世の血はここで終わっちゃいます。

1382年に亡くなって、両親も眠るサン=ドニ大聖堂に葬られました。



幸薄そうなイメージしかないんだけど…
フィリプ6世王女 ジャンヌ・ド・フランス


1351~1371

ヴァロワ家の初代王フィリプ6世は2回結婚しました。
最初の妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュには八男二女が生まれたものの
次男ジャン(後の2世)と七男(後のオルレアン公)フィリプ以外は
幼くして亡くなっています。
長女マリーは7歳でブラバント公ジャンと結婚しましたがすぐに亡くなりました。
次女ジャンヌは死産、あるいはすぐに亡くなっています。

三女ジャンヌ、は二人目の妃ジャンヌ・ド・ナヴァラが
フィリプ6世の死後生んだ王女でした。
        
19歳の時にアラゴン王子ファン(後の1世)と婚約してフランスを発ちましたが
アラゴンの地を見ることはできませんでした。
ファンとも会うことなく、ベジエで亡くなりサン=ドニ大聖堂に葬られました。

結婚するために旅立って到着前に亡くなる王女って多くない?
そんなにハードな行程だったのでしょうか?
もともと病弱? だったら長旅させちゃだめじゃないの !!
まだまだお母さんが恋しい年ごろで嫁に行くだけでも不安なんですから
万全を期してほしかったものですねっ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王フィリプ5世王女 マルグリート

2012-02-03 22:23:32 | フランス王妃・王女
たいしたタンカをきったもんだ
フィリプ5世王女 マルグリート1世・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ伯=フランドル伯ルイ1世妃


1310~1382

フィリプ5世とジャンヌ・ド・ブルゴーニュ次女マルグリートの
幼い頃のことはよくわかりませんが、10歳ぐらいで
6歳年上のルイ(ルートヴィヒ)と結婚しています。
この結婚のおかげで、マルグリートの叔父にあたるフィリプ6世の後押しを受け
ルイはフランドル伯になることができました。
          
当時フランドルは経済的にイングランドに依存していたのですが
ルイは一貫してフランス支持派でした。
フランスとイングランドは百年戦争の真っ最中、てなわけで
イングランドはフランドルとの羊毛貿易を取り止めました。

そんなこんなで、ルイは一時フランドルから追放されたりしてます。
フィリプ6世のおかげでまた戻れたんですけどね。

結婚から26年目にルイが有名なクレシーの戦いで戦死しました。

息子のルイ2世はフランドル伯になりましたが
15歳だったので、マルグリートはしばし摂政に就きました。

あのね…
マルグリートが持っているブルゴーニュ伯位、
ルイ2世の妻ジャンヌが持っているブラバント公位、
孫のマルグリート3世の夫が持っているブローニュとオーヴェルニュ伯位をめぐって
ゴタゴタがあるんだけど省いていいですかね… 中世にはありがちな継承争いってことで…
いろんな家系が複雑にからみあってるので大変よね
誰が把握してたんでしょう? 一家に一人、家系の専門家が雇われていたんでしょうか?

1361年、(孫の)マルグリートの夫ブルゴーニュ公フィリプ1世が亡くなります。
こちらのフィリプはカペー=ブルゴーニュ家ね。

1369年、マルグリートの後押しで(孫の)マルグリートは
ブルゴーニュ公フィリプ2世と再婚。
こちらはヴァロワ=ブルゴーニュ家です。

       

この時、息子のルイ2世は娘をイングランドに嫁がせるつもりでした。
マルグリートは息子の前でドレスを引き裂くと
「母の願いを果たさない息子なんて!
 お前に吸わせたこの胸を切り取って犬にでもくれてやりたい!!」と言ったそうな…

子供を人質にとった敵の前でドレスをまくり上げて
「子供なんかここからいくらでも産んでやらぁ!」とタンカをきった
カテリーナ・スフォルツァという女傑がおりますが、マルグリートも負けていませんね。
ルイはすごすごと引き下がったようです。

1382年にマルグリートは自分の領土で反乱にあいました。
こちらは息子ルイと孫の夫ブルゴーニュ公に鎮圧してもらったのですが
すぐにルイが追放されてしまいます。

親不孝ものよばわりしてしかりつけていても可愛い息子、
いくつになっても心配尽きない唯一の子、というわけで
心労のせいでしょうか、その年にマルグリートは亡くなりました。

派手なエピソードがありませんが、かなり政治的な人だったんじゃないでしょうか?
フランドル伯ルイ2世はその2年後に亡くなっています。
ずーっと厳しいお母様の監視下にあったんでしょうか?
けっこうキツい人生だったかもね…

(参考文献 永井路子氏『歴史をさわがせた女たち=外国篇=』 Wikipedia英語版)
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