まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ボヘミア王イジー妃 クンフタ

2018-05-23 20:44:03 | ボヘミア王妃
お若いのにしっかり者だったらしい
イジー妃 クンフタ・ゼ・シュテンベルカ


1425〜1449/在位せず

ラジスラフの後は「ハプスブルク家の王なんて許せるか!」ってなわけで
オーストリア軍を敗ったボヘミア貴族の中から王になったポジェブラト家のイジーです。
       
即位前に結婚したのが、ボヘミア貴族のスミル・シュテンベルクの娘クンフタでした。
結婚から3年後の1444年に、19歳にしてポジェブラティに病院を設立。
20世紀初頭までクンフタの名がついていいました。
若者の教育や学校建設、囚人の社会復帰などに尽力し、システムを確立したらしい。

ものすごく立派なお妃様にみえますが、エピソードが少ないですね。
どこかの王家の王女じゃないからでしょうか?

1449年、24歳の誕生日の翌日、双子の出産の後亡くなりました。
お子様は6人で、次女カテリーナはハンガリー王マーチャーシュの妃になりました。



              
いよいよ最終回
イジー妃 ヨハナ・ズ・ロジェミタール


1430〜1475/在位 1458〜1471

クンフタを亡くしたイジーは翌年、ヨハナと再婚しました。
       
20歳のヨハナは、イジーをものすごくサポートし、国事にも打ち込みました。
けれども子供が生まれてからは母親の役割を優先したようです。

1470年、義理の娘カテリーナの嫁ぎ先だったハンガリーのマーチャーシュが攻めてきました。
ヨハナはチェコ軍を率いたそうですよ!
たぶんイジーも戦いに明け暮れていたと思うので、夫が不在の時はわたくしが!と
奮闘していたのでしょうね。

1971年、イジーが死去しました。
ヨハナは、ボヘミア王の未亡人が代々隠遁してきたムニェルニークに移り
1475年に亡くなりました。

死後は、庶民の教会に葬ってほしい、あるいは、聖ヴィトゥス教会のイジーの隣がいい…と
希望していたそうですが、どこに埋葬されたんでしょうね?

ヨハナの葬儀の喪主は息子のザクセン公ヴィルヘルム3世ではなくて
次の王になるハンガリー王ウラースロー2世でした。
一応イジー支持派から選ばれて王になったようなのですが、他所者なので点数稼がねばね!

             
            Jarmily Haldovéさん作ヨハナ

この後ボヘミア王位はヤゲロン家、そしていよいよハプスブルク家へ…
続きはそちらからどうぞ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ボヘミア王ヴァーツラフ4世妃 ゾフィエ

2018-05-15 20:14:11 | ボヘミア王妃
未亡人になってからEnjoy?
ヴァーツラフ4世妃 ゾフィエ・ヴァボルスカー


1376〜1428/在位 1389〜1419

前妃ヨハナを飼い犬に殺されちゃった(らしい)ヴァーツラフ4世は
ヨハナの従妹にあたるゾフィエと再婚しました。
従姉にフランス王シャルル6世妃イザボー・ド・バヴィエールがいます。
        
ヨハナの死から2年後、育ての親バイエルン公フリードリヒ1世に連れられて
プラハに向かい、翌年結婚しました。

ゾフィエは狩猟が大好きで、夫婦共通の趣味があったせいか仲は良かったそうです。
ヴァーツラフ4世は愚王として名高かったそうなのですが
一方ゾフィエは経済方面で有能だったらしいです。
もしかしたら影で夫を操っていたかもしれませんね。

1419年、ヴァーツラフ4世が亡くなりました。
相変わらず継承者をねらう人が多数いる中、お子様がいなかったゾフィエは摂政をしながら
義弟ジグムントを支持することでボヘミアからの保護を得ることにしました。

ゾフィエも43歳、故国に返されてもねぇ…
それとも他にボヘミアに残りたい理由でもあったのでしょうか?

めでたく王になったジグムントとゾフィエは契約を交わしました。
ゾフィエは権力は手放しましたが、なぜかジグムントと二人で領地を仕切っていました。
二人はお付き合いしている… というもっぱらのうわさでした。
ジグムントは「ゾフィエはポーランド王ヴワディスワフ2世と再婚する予定だから!」と
言い訳していたようですが、再婚することなく1428年に亡くなりました。
    
旦那さんが亡くなってから、次の王様、例えば弟とか義理の息子なんかと
ウワサになる王妃って多いような気がする… すぐには思い出せないけど。

まぁ、未亡人といってもお若いですからね…

               
              Jarmily Haldovéさん作ゾフィエ

で、噂のお相手ジグムント妃はマリア・ウヘルスカバルボラ・チェリスカでした。       
               
              Jarmily Haldovéさん作バルボラ

その後はハプスブルク家のアルブレヒト、王妃はアルジェビェタ・ルクセンブルスカ
ラジスラフ(未婚)と続いていきます。

ボヘミア王妃編、もうすぐ最終回です。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ボヘミア王ヴァーツラフ4世妃 ヨハナ

2018-05-09 21:38:10 | ボヘミア王妃
死因はなんだって
ヴァーツラフ4世妃 ヨハナ・バヴォルスカー


1362〜1386/在位 1378〜1386

カレル1世の次男で後を継いだヴァーツラフ4世の妃は
下バイエルン公アルブレヒト1世の公女です。
母マルガレータはヴァーツラフ2世王女マルガリェタを祖母にもちます。
父方の祖父は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ6世です。
       
8歳の時、結婚のためにハーグからプラハに旅立ちました。
ヴァーツラフは9歳でした。

ルクセンブルクとバイエルンの繋がりを強くするための結婚でしたが
ヴァーツラフの最初のお妃候補は、ホーエンツォレルン家の
エリーザベト・ニュルンベルクでした。
しかし、エリーザベトがプファルツ家のルパートと結婚したので
ヨハナと結婚することに。

ちなみに、ドイツ王というのは神聖ローマ皇帝候補みたいなもので
ヴァーツラフもドイツ王になります。
この時代、各名家が陣取り表みたいなものを広げて縁談を考えてたとしか思えないですよね。

二人の結婚生活は16年に及びましたがお子様はいませんでした。
一説によるとヴァーツラフはアルコール依存症気味で、不能だったらしいです。

ヨハナは23〜24歳で亡くなるのですが、言い伝えによると…
ヴァーツラフの猟犬に攻撃されたってことです。

でもさ、独りでフラフラと犬舎っていうの? 猟犬がウロウロしてるところに行くわけないし
なんか臭いません? 猟犬放たれちゃったとかさ…

ヴァーツラフはジェブラーク城内で、それはそれは壮大な葬儀を行いました。
これは本当に悲しんでのことなのか隠蔽孝作か… 最近疑りぶかくなっちゃっていかんね。
葬儀後プラハ城に埋葬されました。
ヴァーツラフはその後、ヨハナの従姉妹のゾフィエと再婚します。

ヴァーツラフは、1400年にドイツ王を廃位されてプファルツ家のルパートにもってかれます。
お嫁さんも王位もとられちゃってね…

                
                Jarmily Haldovéさん作ヨハナ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ボヘミア王ヤン妃 ベアトリクス

2018-05-04 18:55:54 | ボヘミア王妃
国民に無視された王妃
ヤン妃 ベアトリクス・ブルボンスカー


1320〜1383/在位1334〜1346

1330年、ヤンの王妃エリシュカが結核で亡くなりました。
ヤンは、それはそれは悲しんだそうです、真偽はともかく。
自分はよそ者で亡くなったのはボヘミアの王女だから、まわりの目も気にしないとね。

ポーズだかどうだか、エリシュカの死後4年間再婚しなかったヤンですが
フランス王フィリプ6世が親交を深めようと再婚をおススメしてきました。
相手はブルボン公ルイ11世の末娘ベアトリクスです。

おススメはいいけど、ベアトリクスはすでに、ターラント公フィリッポと婚約してて
そちらは破棄されてしまいました。
       
16歳で結婚したベアトリクスは、年上の継子カレルの妃ブランカ
お世話してもらうことになりました。
出身が同じフランスだから心強いですね。 でもヴァロア家とブルボン家だけど…

ベアトリクスは、ブランカとやけに比べられちゃってつらかったみたいです。
ブランカ、エピソードがあまりないけど、できた人だったのでしょうか?

ベアトリクスはというと、冷たそうで傲慢で、チェコ語を嫌悪していたということで
国民には不人気でした。
ブランカはその逆だったのかしら?
たしかに、ボヘミア王女だった王妃の後妻というのは、キツい立場かもね。

それにしても肖像画、なんとかならなかったのでしょうか?
不人気でもしかたない雰囲気が充満していますね。
もう少し明るそうなお顔で描いてもらえばよかったものを…

1337年、王子ヴァーツラフが誕生し、その3ヶ月後豪華な戴冠式が行われましたが
市民たちに無視されたらしい…
そのせいか、ベアトリクスは息子を残してプラハを発ち
その後はめったにボヘミアにやって来ることはありませんでした。

1346年にヤンがクレシーの戦いで戦死しました。
ほとんど国にいなかった王妃でしたが、継子カレル1世はベアトリクスに年金を与えました。

ヤンの死後1年ぐらいしてグランシー卿ユーダス2世と再婚しました。
1383年、息子のヴァーツラフより15日長生きして亡くなりました。
パリのジャコバン派の修道院に葬られましたが、今は残っていません。
胸像がパリのサン=ドニ大聖堂にあるそうです。

                
               Jarmily Haldovéさん作ベアトリクス

ヤンの後は長男カレル1世で、後に神聖ローマ皇帝カール4世にもなります。
王妃は、ブランカ・ヴァロア、アンナ・フラツカー、アンナ・スヴィドニカ
エリシュカ・ポメランスカーの四人です。

    
Jarmily Haldovéさん作 左から、ブランカ・アンナ・アンナ・エリシュカ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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