ご存知!女帝
フランツ1世妃 マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ
1717~1780/在位 (皇后)1745~1765
(ハンガリー女王・ベーメン女王)1740~1780
マリア・テレジアはよく “ 女帝 ” と言われますけれども
正式には女帝じゃないと思うんですよねぇ…
神聖ローマ皇帝になったのは夫のフランツ1世で、マリア・テレジアは皇后です。
ベーメンとハンガリーでは君主になりましたが女王です。
ハプスブルク帝国における支配者という意味でしょうけど
正式な国家の名称じゃないんじゃないかしら? いかがでしょう?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/23/1130c0bfff6e2872b09b76ad3c8521ce.jpg)
マリア・テレジアといえば、教育改革や軍部の強化など
偉大なる政治家としてみるべきことは多々ありますけれども、それはおいといて…
なんといっても、スペインのイサベル1世同様、恋愛結婚が有名です。
ハプスブルク家の跡取り娘ともなれば、しかも肖像画どおりの美しさなら
結婚の申し込みが殺到するのはあたりまえですよね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/c0/5fc74898af456759f0d6c0e4597c53bf.jpg)
ハプスブルク展にもきていたマリア・テレジア像
しかし彼女は、幼い時にフランツ・シュテファンに会ってから彼一筋
本当なら大国の王様クラスと結婚させられて当たり前だったのでしょうが
フランツがマリア・テレジアの父カール6世に気に入られたことで
恋を成就することができたみたいです。 よかったね![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp21.gif)
しかし、この結婚でフランツはロートリンゲンをフランスに渡すことになりました。
ちなみに、生涯の宿敵となるプロイセンのフリードリヒ(後の2世)も
お婿さん候補にあがっていました。
マリア・テレジアの父、皇帝カール6世には男の子がいなかったので
娘が王位が継げるように、多大な努力と犠牲を払って長子相続の制度をつくり
マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンへの皇位継承を図っていました。
ヨーロッパ各国も承認してくれたのに…
いざカール6世が亡くなると、各国の王がオーストリアの王位を要求しはじめます。
はしょるけど、プロイセンの大王フリードリヒ2世はシュレージェンに侵攻して領土を奪い
バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはベーメン王と神聖ローマ皇帝の座につきました。
上の家系図からもわかるとおり、ヨーゼフ1世皇女を嫁にしているのでね…
オーストリア継承戦争、七年戦争と続く、マリア・テレジアの長い戦いの始まりでした。
ベーメン王と神聖ローマ皇帝の座はとりもどせましたが
シュレージェンは戻りませんでした。
それでも大王と呼ばれるフリードリヒ2世を相手に戦い抜いたのはスゴいですよね!
そして驚きの16人出産
戦争しながらですよ!
さぞお忙しい毎日だったろうと、お察し申し上げます。
有名どころは言うまでもなく、ルイ16世妃マリー・アントワネットですね。
その他の公女は尼僧、パルマ公妃、ナポリ公妃、ハンガリー総督妃になっています。
フランツ1世は、メディチ家の断絶によってトスカーナ大公にもなっていたので
イタリア方面への勢力拡大をねらっていたのかしら?
あまり政治向きではなく、国家のことは妻に任せて
財政や農場経営、美術品奨励に力を発揮したという、模範的な “ 女帝の夫 ” フランツ1世は
1765年、劇場で倒れて急死します。
以後15年間、マリア・テレジアは喪服で通したそうでございます。
良妻賢母と国家君主、両方を立派にこなすのはかなり難しいと思われます。
本当だとしたらすごいですよね。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』『ハプスブルク家史話』)
フランツ1世妃 マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ
1717~1780/在位 (皇后)1745~1765
(ハンガリー女王・ベーメン女王)1740~1780
マリア・テレジアはよく “ 女帝 ” と言われますけれども
正式には女帝じゃないと思うんですよねぇ…
神聖ローマ皇帝になったのは夫のフランツ1世で、マリア・テレジアは皇后です。
ベーメンとハンガリーでは君主になりましたが女王です。
ハプスブルク帝国における支配者という意味でしょうけど
正式な国家の名称じゃないんじゃないかしら? いかがでしょう?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/23/1130c0bfff6e2872b09b76ad3c8521ce.jpg)
マリア・テレジアといえば、教育改革や軍部の強化など
偉大なる政治家としてみるべきことは多々ありますけれども、それはおいといて…
なんといっても、スペインのイサベル1世同様、恋愛結婚が有名です。
ハプスブルク家の跡取り娘ともなれば、しかも肖像画どおりの美しさなら
結婚の申し込みが殺到するのはあたりまえですよね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/c0/5fc74898af456759f0d6c0e4597c53bf.jpg)
ハプスブルク展にもきていたマリア・テレジア像
しかし彼女は、幼い時にフランツ・シュテファンに会ってから彼一筋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0137.gif)
本当なら大国の王様クラスと結婚させられて当たり前だったのでしょうが
フランツがマリア・テレジアの父カール6世に気に入られたことで
恋を成就することができたみたいです。 よかったね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp21.gif)
しかし、この結婚でフランツはロートリンゲンをフランスに渡すことになりました。
ちなみに、生涯の宿敵となるプロイセンのフリードリヒ(後の2世)も
お婿さん候補にあがっていました。
マリア・テレジアの父、皇帝カール6世には男の子がいなかったので
娘が王位が継げるように、多大な努力と犠牲を払って長子相続の制度をつくり
マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンへの皇位継承を図っていました。
ヨーロッパ各国も承認してくれたのに…
いざカール6世が亡くなると、各国の王がオーストリアの王位を要求しはじめます。
はしょるけど、プロイセンの大王フリードリヒ2世はシュレージェンに侵攻して領土を奪い
バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはベーメン王と神聖ローマ皇帝の座につきました。
上の家系図からもわかるとおり、ヨーゼフ1世皇女を嫁にしているのでね…
オーストリア継承戦争、七年戦争と続く、マリア・テレジアの長い戦いの始まりでした。
ベーメン王と神聖ローマ皇帝の座はとりもどせましたが
シュレージェンは戻りませんでした。
それでも大王と呼ばれるフリードリヒ2世を相手に戦い抜いたのはスゴいですよね!
そして驚きの16人出産
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp27.gif)
さぞお忙しい毎日だったろうと、お察し申し上げます。
有名どころは言うまでもなく、ルイ16世妃マリー・アントワネットですね。
その他の公女は尼僧、パルマ公妃、ナポリ公妃、ハンガリー総督妃になっています。
フランツ1世は、メディチ家の断絶によってトスカーナ大公にもなっていたので
イタリア方面への勢力拡大をねらっていたのかしら?
あまり政治向きではなく、国家のことは妻に任せて
財政や農場経営、美術品奨励に力を発揮したという、模範的な “ 女帝の夫 ” フランツ1世は
1765年、劇場で倒れて急死します。
以後15年間、マリア・テレジアは喪服で通したそうでございます。
良妻賢母と国家君主、両方を立派にこなすのはかなり難しいと思われます。
本当だとしたらすごいですよね。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』『ハプスブルク家史話』)