まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

神聖ローマ皇帝フェルディナント1世皇女 エレオノーレ

2011-04-30 20:36:48 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
奇跡をおこした親の愛
フェルディナント1世皇女 エレオノーレ・フォン・エスターライヒ
マントヴァ公グリエルモ妃


1534~1594

エレオノーレはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの六女です。

        
1561年に4歳年下のマントヴァ公グリエルモ1世に嫁いでいます。
27歳ですから決して早くはないですね。

ヨハンナ(十二女)の結婚でフランス王アンリ4世妃
マリー・ド・メディシスの伯母になりました。

お子様は3人おりまして長男のマントヴァ公ヴィンツェンツォ1世は
エレオノーレの姪にあたるエレオノーラ・ディ・メディチと結婚しました。
その公女エレオノーラがフェルディナント2世妃になりました。
次女アンナ・カテリーナは母方の伯父にあたる
前方オーストリア(ティロル)大公フェルディナント2世妃になりました。
その公女アンナは神聖ローマ皇帝マティアス妃になります。
        
アンナ・カテリーナは5歳の時思い病に罹り、命が危なくなったことがあります。
なんの病気かわかりませんが、高熱が続き四肢が膨張したそうです。
この状態が2年ほど続きました。

グリエルモ1世とエレオノーレはとうとう聖マリアに
「アンナ・カテリーナの命が助かったら、その後はマリア様の子として育てます」
という誓いをたてました。

するとどうでしょう! アンナ・カテリーナはみるみる回復いたしました。
その後アンナ・カテリーナはマリア様の子として言い聞かせられ教育をうけました。
アンナ・カテリーナの信心深さはこのようにして培われました。

幼い娘を救ったのは、親の愛か神の力か…いずれにしろ良くなってよかったですね。



                                
そして九女もイタリアへ
フェルディナント1世皇女 バルバラ・フォン・エスターライヒ
フェラーラ公アルフォンソ2世妃


1539~1572

エリーザベトはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの九女です。
七女マルガレーテはハーラー修道院(チロル)の修道女になり
八女ヨハンナは生後11ヶ月で亡くなりました。
バルバラの妹十女ウルスラは2歳で亡くなり、十一女ヘレナはハーラー修道院に入りました。
十二女ヨハンナはトスカーナ大公妃になっています。

バルバラは、マグダレーナ、マルガレーテ、ヘレナ、ヨハンナとともに
インスブルックで厳格な信仰生活を送りました。
そのうち3人は修道院に入っていますから、バルバラやヨハンナも縁談がなければ
同じ道を歩んでいたかもしれません。

バルバラはあまり美しくないという評判でしたが、ちょうどお年頃がよかったのか
いくつかの縁談がありました。

1565年にエステ家のフェラーラ公アルフォンソ2世に嫁ぎました。
アルフォンソ2世の父方の祖母は、あの、ルクレツィア・ボルジアです。

         

この頃ハプスブルク家からはかなりイタリア方面に嫁いでいますね。

当時イタリアではフランスとハプスブルク家が激しく領土争いをおこしていました。
人の国で何やってるんだか…

子だくさんと政略結婚で領土拡大をしてきたハプスブルク家は
イタリアにも同じ戦術を用いようとしていたようです。

1570年と1571年にイタリアでは大地震がおこったようです。
バルバラは両親を亡くした少女たちのために自分の収入を投げ出して
サンタバーバラ女学校( Conservatore delle orfane di Santa Barbara)を建てました。

バルバラはカトリックを信仰していて、イエズス会との親交を暖めていまいたが
プロテスタントの義母レナータ・ディ・フランシア
(ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュの王女)とも仲良く過ごしていました。
フランス王女でプロテスタントとは珍しい…

アルフォンソ2世とバルバラの仲は良かったようですが
バルバラは結婚の翌年から病気がちになり、お子様は生まれませんでした。
結核に罹り33歳で亡くなりました。

アルフォンソ2世は7年後、バルバラの姪にあたるマルゲリータと再々婚しました。

あまりエピソードはありませんが、寛容な方だったとお見受けします。
敬虔な教育を受けたおかげですかね?
信心深い人が皆こうだったら宗教戦争みたいなものはおこらなかっただろうに…

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神聖ローマ皇帝フェルディナント1世皇女 マリア

2011-04-29 12:16:03 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
えーっと…特にはないんですけど
フェルディナント1世皇女 マリア・フォン・エスターライヒ
ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム妃


1531~1581

マリアはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの三女です。

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルムと結婚しました。
ヴィルヘルムの姉アンはイングランド王ヘンリー8世の4人目の王妃です。
特にエピソードが無いので家系図だけ…
           
娘のシビレは、兄の前部オーストリア(チロル)大公フェルディナント2世と
フィリッピーネ・ヴェルザーの ” 語り継がれる愛の物語 ” 貴賤結婚で生まれた
ブルガウ辺境伯カールと結婚しました。



              
こんな結婚させちゃいけない! 第2弾
フェルディナント1世皇女 カタリーナ・フォン・エスターライヒ
マントヴァ公フランチェスコ3世妃/ポーランド王ジグムンド2世妃


1533~1572/在位 1553~1572

カタリーナはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの五女です。
(四女マグダレーナはチロルのハーラー修道院の修道女になりました)

        
1549年に同じ年のマントヴァ公フランチェスコ3世と結婚しましたが
4ヶ月後にフランチェスコが17歳で亡くなってしまいます。

4年後、姉エリーザベトの夫だったポーランド王ジグムント2世と再婚しました。

ジグムントはエリーザベトの死後、最愛の女性だったバルバラ・ラジヴィウヴナと
念願の結婚を果たしていましたが、バルバラは1551年に急死していました。
証拠はありませんが、王大后ボナ・スフォルツァが毒殺したという噂でした。

ジグムントはバルバラの死にうちひしがれていました。
そんな人の後妻になるのは気がすすみませんね…
しかもきっとボナ・スフォルツアの姉への仕打ちも知っていたでしょう。

案の定この結婚もハッピーな結果にはなりませんでした。

カタリーナは結婚の翌年妊娠しましたが流産してしまいました。
ジグムントはこの流産を姉エリーザベトの呪いだと、おバカなことを考えます。
そしてそんなおバカな考えのせいで結婚を無効にしようと試みました。

結婚から13年後、カタリーナはポーランドを後にしてその後はリンツで過ごし
そこで亡くなり、サンクトフロリアン修道院に葬られました。

亡くなるまで王妃でしたので離婚はしていないみたいですね。
もしかしたら流産後の12年間は別居状態だったのかもしれません。
21歳から33歳という女盛りを無駄にさせられて…
姉妹揃ってこんな目に遭わされるなんて、ジグムントったらヒドいやつだ!
でもバルバラサイドから見れば逆境の愛を成就させた一途な男性なのか…韓流っぽいぞ。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『チェーホフ集 結末のない話』西のモーム、東のチェーホフ

2011-04-26 22:29:22 | ロシアの作家

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

チェーホフのショートショートがつまった一冊です。
同じくちくま文庫から出ているせいか、モームの『コスモポリタンズ』を思い浮かべました。

私はモームもチェーホフも甲乙つけ難く好きですが
どっちが世知辛いかと聞かれれば、圧倒的にこちらが世知辛い!と答えますね。

これはたぶん、作家自身の性格ではなくて、どんなテーマで笑いを誘うか、という
選択がそうさせたんではないかと解釈してます。

どちらもちまちました人間の哀れな姿を笑いに変えていますが
モームはスノッブや身の程知らず、虚栄心などをおちょくっているように見えます。
一方チェーホフは、役人根性とか階級重視、結婚生活の哀れ、なんかが目につきました。

とは言え、50話以上あるのでバラエティーに富んでます。
夫婦生活(主に夫)の、哀れな話しから3篇ほど紹介します。

『モヒカン族最後の女』
友人のドクーキンの家でくつろいでいると、ドクーキンが大嫌いな姉と夫がやってきました。
姉のオリムピアーダは勝手にやって来たのに料理に文句をつけ、夫にどなりちらします。
オリムピアーダが昼寝に行くと、ドクーキンは義兄の不幸を嘆きます。

この夫婦は、ある意味完璧な夫婦と言えます。
本人が幸せならそれでいいんじゃないかしらね…

『奥さま族』
フョードル・ペトローヴィチ校長は、やむを得ず退職する教諭に仕事を約束します。
ところが家に帰ると妻がその職を、ポルズーヒンという若い男に与えろと言います。
校長は断りますが、翌日から彼のもとには、ポルズーヒンがらみの依頼が
さまざまな奥さまたちから舞い込みます。

校長は途中で「俺だけじゃないんだな…」と悟ります。
チェーホフは奥さまたちが言い出したら後には引かない…と
身にしみて知っていたんですかね?

『余計者たち』
週に一度だけ、妻子が暮らす別荘村に帰って来るザーイキンが
ある夜疲れて帰宅すると、家には幼い息子しかいないし食事もありません。
息子が、妻は女中を連れて芝居の稽古に行っていると言います。
しばらくすると妻が役者仲間の男性たちを連れて帰宅しました。

私のだーい好きなマンスフィールドに『新時代風の妻』という
ちょっとそっくりな、というより、もう少し嫌味な話しがあるんですけどね。
そちらは妻の罪の意識もちょっぴり描かれています。
妻だって1日中遊んでいるわけではないんだけどね… 旦那樣方にはいい身分に思えるのか…

夫婦のお話しではありますが、上2篇はやっぱり役人の階級がものを言う
当時のロシアのお国事情が盛り込まれています。

だいたい1880年代の作品が中心なんですが、人の苦労は変わらぬもの…
いいところに就職するのは大変だったみたいです。
ロシアだからなの? それとも時代なの?
学歴・家柄に加えコネと謝礼金がものを言ったらしいですよ。

それから結婚!
男性も女性も自分より裕福&ワンランク上を狙うから結婚できやしない。
現代に持参金制度が無くなって良かった!!と心から思うわ。

ショートショートの風刺やユーモアは、選んだ題材を面白おかしく強調しますから
大げさに書かれてるとはわかってますが、そもそもテーマに選ばれているわけですから
素地があったということですよね?

いろいろな国の、いろいろな作家のショートショートを読んでみたら
お国柄がよくわかるんじゃないかしら… なんて思っております。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神聖ローマ皇帝フェルディナント1世皇女 アンナ

2011-04-25 00:44:59 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
“ 三度目の正直 ” 結婚
フェルディナント1世皇女 アンナ・フォン・エスターライヒ
バイエルン公アルブレヒト5世妃


1528~1590

アンナはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの三番目の子で次女です。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妹になります。

           
幼い頃、バイエルン公子テオドールと婚約しましたが、相手が亡くなりました。
テオドールは1534年に8歳で亡くなっているので
アンナが6歳になるまでに婚約したみたいですね。

次にシャルル・ドルレアンと婚約しましたが、またまた相手が亡くなりました。
シャルルは1545年に23歳で亡くなっているので
アンナが17歳になるまでに婚約したと思われます。
シャルルは、アンナとカール5世の皇女マリアの、どちらと結婚してもいいという
ダブル婚約だったみたいです。
          
シャルルが亡くなった翌年、バイエルン公子アルブレヒト(5世)と結婚しました。
アルブレヒトは最初の婚約者テオドールの2歳下の弟でした。

アンナの伯父カール5世は、シュマルカルデン戦争でバイエルンの支援が欲しくて
この結婚を決めました。

アルブレヒトはドイツ国内のカトリック改革のリーダーで
政治よりもそっちに力を注いでいました。
とはいえ、当時のヨーロッパでは政治と宗教は密接に繋がっていたんだけどもね。
アンナもそんな夫共々精力的に活動したみたいです。

また、アルブレヒト5世とアンナは芸術面でミュンヘンの評判を高めていきました。
アルブレヒト5世には、ギリシャやエジプトの骨董品をはじめとする
美術品のコレクションがあり、芸術面のパトロンでもありました。
蔵書も多く、バイエルン州立図書館の前身になる宮廷図書館も建てています。
自分の名前を冠したギナジウム(中・高等学校)も建てています。
アンナも一緒に芸術をサポートしていました。

してみるとこの夫婦、ものすごく気が合っていたみたいですね。
アンナにもともと芸術方面の興味があったのか夫唱婦随なのかはわかりませんが
良いコンビだったように思えます。

仕事一辺倒の亭主よりは多趣味な亭主の方が一緒にいて楽しいものね。
趣味にもよるけど…

お子様は7人。
娘のマリア・アンナは、アンナの弟の内オーストリア大公カール2世と結婚しました。
この二人の長男が後に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世になります。
娘二人は相次いでポーランド王ジグムント3世妃になっています。
ポーランド…ハプスブルク家にとってどんだけ重要だったんだ…
すごく興味が湧いてきました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神聖ローマ皇帝フェルディナント1世皇女 エリーザベト

2011-04-23 21:11:59 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
こんな結婚させちゃいけない! 第1弾
フェルディナント1世皇女 エリーザベト・フォン・エスターライヒ
ポーランド王ジグムント2世妃


1526~1545/在位せず

エリーザベトはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの長女で
15人の兄弟姉妹の中で最年長の子供でした。
12人姉妹です!26歳年が離れている末の妹ヨハンナ
トスカーナ大公フランチェスコ1世妃になりました。

        
1歳の時にはすでにポーランド王子ジグムント(2世)と結婚することになってました。
エリーザベト本人も、もの心がついた時からポーランドに嫁ぐことを知っていました。
17歳の時に7歳年上のジグムントと結婚しました。

実はふたりの結婚の4年前に、ジグムントの姉イジャベラ
フェルディナント1世のハンガリー対立王ヤーノシュに嫁いでいました。
ヤーノシュはすぐに亡くなりましたが、イジャベラは王子を王に立て
摂政としてハプスブルク家に抵抗していました。

東欧・中欧は各国の覇権をめぐって、まだ右往左往していました。
ポーランドはハンガリー&ベーメンをハプスブルク家から奪いたいし
ハプスブルク家はポーランドを手に入れたいし…と虎視眈々状態。
長女として、エリーザベトには大きな期待と責務を背負って嫁いだに違いありません。

しかし、エリーザベトはそれどころじゃなかったのね
まずは嫁姑問題…義母ボナ・スフォルツァはハプスブルク家大嫌い!でして
もともと結婚に反対していました。
宮廷内でエリーザベトを嫌っていることを隠そうともしませんでした。

それから愛人問題…ジグムントには愛するバルバラ・ラジヴィウヴナがいて
彼女との結婚を熱望していたんだけどかないませんでした。
エリーザベトが嫁いできてからもバルバラ命!で、エリーザベトはほったらかし。

また、エリーザベトの世間知らずで引っ込み思案な性格や癲癇の発作などが
宮廷内での評判を下げてしまって、優しくしてくれたのは義父ジグムント1世のみ…
十代の少女には不幸すぎる環境ですよね。
(そういえば妹ヨハンナも、優しく接してくれたのは義父だけだったんじゃ…

結婚から2年後の1545年、エリーザベトは癲癇の発作が重なり健康が悪化しました。
ジグムントったら「生きてるうちに…」ということか、彼女を一人残して
持参金を手に入れるためクラクフに向かいました。

エリーザベトは寂しく病と闘った末18歳で亡くなりました。

ビリニュス大聖堂に葬られたわけなんですが
棺の位置も夫の叔父アレクサンデル2世の隣という、なんだかわけのわからない場所じゃない?
祖父ウラースロー2世の弟なので一応親族ではあるんですけどね。

17歳から18歳(19歳まで1ヶ月足らず)という、少女が輝き始める時に
こんな思いをさせちゃいけない!!
国を治めるための政略も大切でしょうが、バリバリ政治向きの野心家少女ならまだしも
こんなに気の弱い子を… 娘の特性を考えて嫁にだしましょうよ。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神聖ローマ皇帝カール5世皇女 ヨハンナ

2011-04-21 01:32:11 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
息子の成長を肖像画で見つめ続けた母
カール5世皇女 ヨハンナ・フォン・シュパニエン
ポルトガル王太子ジョアン・マヌエル妃


1535~1573

マクシミリアン1世が亡くなった時、王子フィリップ(カスティーリャ王フェリペ1世)は
すでに亡くなっていましたので、孫のカール5世が即位することになりました。

ヨハンナ(ジョヴァンナ)はカール5世とイザベラ・フォン・ポルトゥガルの三女です。
長女マリアは神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世皇后になりました。
次女は生まれてすぐ亡くなっています。
異母姉(庶子)のマルガレーテはフィレンツェ公アレッサンドロ妃になりました。

カール5世はスペイン王カルロス1世でもありましたので
ヨハンナはスペイン王女としてマドリッドで生まれました。
        
ヨハンナは17歳の時、2歳年下のポルトガル王子ジョアン・マヌエルと結婚しました。
ジョアンは、母の兄ポルトガル王ジョアン3世と、父の妹カタリーナの王子なので
ダブルで従弟ってことになりますね。

ところが結婚から2年後、ジョアンが16歳で亡くなりました。
糖尿病説があるんですけど…若いのにそんなことってありますか?
いいものを食べ過ぎたってことでしょうか?

ジョアンの死から2週間後にヨハンナは王子セバスティアーノを生みました。
摂政になる可能性も大きいのでポルトガルに残っていてもよかったんですが
兄のフェリペ2世からマドリッドに呼び戻されます。

フェリペ2世はイングランド女王メアリー1世と結婚したばかりで
将来手に入るかもしれないイングランドに向かう必要があり
留守をヨハンナに任せたかったものと思われます。
ヨハンナはしっかりその期待に応えたそうです。

ヨハンナはその後ポルトガルへ戻らず、残して来た息子セバスティアーノに
会うことはありませんでした。
そのかわり、成長してゆく息子の肖像画を送らせていたそうです。
会いたいからとホイホイ会いに行けない王族の家庭事情…
なに不自由なそさうで、けっこう融通が利かない不自由さがありそうです。

ヨハンナは肖像画ではきつそうな顔をしていらっしゃいますけれども
聖クレア修道会の修道女たちのために、王宮内に修道院を設立しました。
現在はラス・デスカルサス・レアレス修道院として知られています。

ヨハンナが信徒になったことで、貴族の娘たちの間で
修道女への憧れが高まった時期があったそうです。
だって王宮内にあるんだもの、なにかいいことがありそうな予感…
すみません、不謹慎でした

また、イエズス会(男性オンリー)の設立にも興味を示していたらしく
1555年にはマテオ・サンチェスという名でこっそり入会したとまで言われています。
でも集会に出たらばれちゃうわね
『イケメンですね!』とか『コーヒープリンス1号店』みたいに隠し通せたのかしら?

             
            男装してもイケるかも…しかも美男子ですわね

38歳で亡くなっています。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『世界のすべての七月』“ 最後のひと花 ” 適齢期はいくつだ?

2011-04-19 01:37:47 | アメリカの作家
JULY,JULY 
2002年 ティム・オブライエン

1960年代、ヴェトナム戦争など
幾分かのメッセージを含んだ小説かもしれない…ということはさておき
私はおおいに同窓会という設定に注目しちゃうわ!

この物語は、ダートン・ホール大学1969年度卒業生たちの、1泊2日にわたる
30年目(正確には31年目)の同窓会のパーティーシーンで始まります。
ということは来場者は50代前半から中盤にかけて、ということになります。

その後は卒業生11人のエピソードと同窓会の様子が交互に描かれています。

同窓会シーンには時間軸とプロットが存在します。
元恋人、元夫婦、友達、好きだった人、なんでもなかった人たちが
酔いがまわるにつれて、寄り添ったり言い寄ったり恨み言を言ったり、という
同窓会らしい展開を見せています。

誰かが誰かを見つめているのに、その誰かは他の誰かに見とれてるとか
昔の恨みをはらしてやる!と意気込む人にアタックする他の人とか
きっぱり言ってやらなきゃ!と思いつつ、他の女といるとムカつく人とか
もう、気分は青春まっただ中です。

その上スタートからエンディングまでに、寄り添い合うカップルの顔ぶれが
微妙に変化していきます。

この部分だけ読んでいると、青春おじさん&青春おばさんが繰り広げる
あまり中身の無い恋愛沙汰を描いた小説と勘違いしそうです。

11人のエピソードはこの物語をより繊細に仕上げるために挿入された
個々の物語と言ってもいいかもしれません。(と思ったら、もとは短篇だったらしいです)

エピソードをさらっと紹介すると…

ヴェトナムではデイヴィッドの目の前で連隊が壊滅し、自分も両足を撃たれました。
弁護士エイミーは、不運の末に結婚した相手と新婚旅行中に別れました。
ジャンは変態たちのヌードモデルをしていて元夫に出会いました。
永遠のコケット、スプークは二人の夫と上手くやっていたのに、また若い男性に恋しました。
ビリーは徴兵を避けてカナダに逃げる際、恋人ドロシーに裏切られました。
牧師ポーレットは、ある未亡人の家に侵入したところを見つかってしまいました。
エリーには1969年に大学を卒業した不倫相手がいましたが、目の前で溺死しました。
乳癌を切除したドロシーはトップレスで庭を横切り、よくできた夫の方へ突進しました。
いつも誰かを好きになり妄想していたカレンは、雇い入れた運転手に夢中になっていました。
ずっと肥満だったマーヴは、一度だけダイエットに成功した時、美しい秘書を誘惑しました。
マーラは帰還したデイヴィッドと結婚しましたが離婚することになりました。

このひとつひとつの物語はすごく好きでした。
わりと現実味がなさそうでいてリアルという、二面性が上手いことミックスされた
面白いエピソードでした。

50代なりの悩みを抱え、疲れも感じつつ集まってきた男女だち…
懐かしい顔ぶれに再会して少しハメを外してしまっても仕方がないのかもしれません。
端からみれば年を食った男女でも、本人たちの間ではお互いに20代そこそこの顔を見いだして
気持までぐっと若返ってしまうものなのかもね。

でも、なんていうか、「ここで最後のひと花を!」というリキみが感じられなくもない…
主に男女関係においてですけどね。

女性には、容貌が衰え始める前にここでひとつ…みたいな意気込みがあり
男性には、これを逃したらあとは今の生活を続けるだけか…という焦燥があって
「ふたりで逃げちゃうか」みたいな話しになっちゃうんですよね。
実行に移すのか我に返って家に帰るのかは、それぞれの事情で変わると思いますけど。

人生において、50代が “ 最後のひと花 ” のデッドラインということはないと思いますが
恋愛とか再婚のことを考えたらラストチャンスなのかしら?
うーん、どうなんだろう 難しいわぁ…
私も遠い未来のことではないのでいつかちゃんと考えてみましょう。

しかし、いくつが “ ひと花 ” 適齢期だとしても
泊まりがけなのよ、奥さん! 旦那を行かせる気にはならないですわねっ!

余談です
印は作品の善し悪しではなくて、私の好き度メモみたいなものなんですが
ミシュランみたいで誤解を与えちゃうかも…というご指摘があり
今回から別のマークにしようと思います。
ヒヨコにしてみました…試行錯誤中です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世皇女 マルガレーテ

2011-04-17 20:39:49 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
フランス大嫌い!
マクシミリアン1世皇女 マルガレーテ・フォン・エスターライヒ
アラゴン王太子ファン妃/サヴォイア公フィリベルト2世妃


1480~1530

フリードリヒ3世がハプスブルク家の家運を賭けて結婚させたマクシミリアン(1世)と
ブルグント(ブルゴーニュ)公マリア(マリー)の長女がマルガレーテです。
兄は後にカスティーリャ女王ファナ・ラ・ローカと結婚するフィリップ(フェリペ)です。

マクシミリアン1世はマリア妃の死後ビアンカ・スフォルツァと再婚しましたが
子供はできませんでした。
       
マルガレーテの名は、母マリアの継母にあたるイングランドの
マーガレット・オブ・ヨークから名付けられたものです。
マリアとマーガレットはものすごく仲が良かったんですって。

1483年、マクシミリアンはフランス王ルイ11世とアラス条約を結びました。
2歳のマルガレーテは王太子シャルル(8世)と婚約してフランスに向かいました。

フランス宮廷で未来のフランス王妃として教育され、義理の姉になるアンヌと暮らし
シャルルにも恋心を抱いていたマルガレーテだったのに、突然の裏切りが

11年後、シャルル8世は条約の破棄と、父マクシミリアン1世の婚約者(妃説あり)
アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を宣言しました。
するとどうでしょう! 今まで王妃扱いしていたフランス宮廷は
手のひら返しでマルガレーテをお客様扱いにします。
しかも人質のつもりか、マルガレーテをブルゴーニュに帰したのはその2年後でした。

傷心のマルガレーテは「この恨み、一生忘れない!」とフランスを後にいたしました。

しかし、マクシミリアン1世はぼやぼやしていませんよ。
今度の狙いはカスティーリャ&アラゴン(スペイン)です。
マルガレーテと王太子ファン、兄フィリップとファナのダブル婚が決まります。

1496年、スペインに向けて出発したマルガレーテでしたが、なんと!
結婚から6ヶ月後に(たぶん結核で)ファンが亡くなりました。
マルガレーテは妊娠していたんですが流産してしまいました。
16歳で婚約破棄を経験し、未亡人になるとは…
         
20歳の時に同じ年のサヴォイ公フィリベルト2世と再婚しました。
ところが、なんと!フィリベルト2世も3年後に亡くなりました。
水にあたったらしいです。 23歳で再び未亡人になるとは…山あり谷ありすぎる

マルガレーテは「二度と結婚しない!」と宣言しました。
さすがにマクシミリアン1世も無理強いはしなかったみたいですね。
「じゃあ仕事に生きるかい?」ということでしょうか?
マルガレーテをネーデルラント総督に指名しました。

マルガレーテはどうやら政治向きな女性だったみたいです。
イングランドとはフランドルの羊毛をめぐって有利な通商条約を結び
カンブレ同盟形成でも一役かいました。

甥のカール(5世)は彼女の影響力を恐れて一度解任していますが
敵にするよりは味方に…と、すぐに総督の座に戻しています。
その後は亡くなるまでネーデルラント総督の座に留まりました。

北部では宗教改革がおこり、グエルダー公などやっかいな相手もいましたが
概ねネーデルラントに平和と繁栄をもたらした時代でした。

1529年には甥カール5世のために、抗争中のフランス王フランソワ1世の母后
ルイーズ・ド・サヴォワ(フィリベルト2世の姉)と “ 貴婦人の和 ” を締結して
争い激化を避けました。

1530年、居城にしていたメヘレンで亡くなり、彼女の希望どおり
フィリベルト2世が眠るブール=ガン=ブレスの霊廟に葬られました。

夫亡き後、何をやっていたかよくわからない王侯貴族の妃が多い中
活躍の場を得て立派に果たした女性がいると嬉しくなりますね!
見習いたいものです。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
      菊地良生史『歴史読本WORLD 世界の女性史(ハプスブルク家の女たち)』
      Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世皇女 クニグンデ

2011-04-16 22:44:12 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
めずらしい…父の反対を押し切って結婚
フリードリヒ3世皇女 クニグンデ・フォン・エスターライヒ
バイエルン=ミュンヘン公アルブレヒト4世妃


1465~1520

プリンセスシリーズが楽しくなってきちゃったので続けてまいります。
以前リクエストがあったハプスブルク家でいきますね。
ハプスブルク家は幅広いので、今回は神聖ローマ皇帝の皇女に絞っていきます。

なんといっても “ 血族結婚と言えばハプスブルク家 ” ですものね!
グローバル化には背を向けて、身内で固めようとする内向き思考の政略結婚。
どんな家系図ができ上がるか楽しみです

クニグンデはフリードリヒ3世とエレオノーレ・フォン・ポルトゥガルの皇女です。
フリードリヒ3世と皇后の間には5人の子供が生まれましたが3人は幼くして亡くなり
兄マクシミリアン(1世)とクニグンデだけが成人に達しました。

母エレオノーレはからだが弱く、クニグンデを生んだ2年後に亡くなりました。

     

自分で畑も耕しちゃったというフリードリヒ3世ですから
宮廷作法にもあまりうるさくなくて、解放的な雰囲気の中で成長しました。

女の子が一般的に習う読み書き・レース編み・刺繍に加えて数学や天文学も学びました。
乗馬・狩猟などもこなしたらしいです。

降って湧いたようなハプスブルク家の神聖ローマ皇帝即位に
他の有力貴族たちがだまってるわけありません。
フリードリヒ3世の一人娘を妻にしようと各方面から縁談が舞い込みました。

ハンガリー王マーチャーシュからの求婚は、フリードリヒ3世が拒否しました。
これが後々とんでもないことに…

クニグンデが15歳の時、ウィーンを訪問中のバイエルン=ランツフート公ゲオルクに
公式に紹介されていましたが、この頃マーチャーシュがオーストリア支配に乗り出して
フリードリヒ3世はリンツへ追放、クニグンデも叔父ジギスムントがいるインスブルックへ
送られて、縁談は無くなったみたいです。

それから8年後、クニグンデが選んだ相手はゲオルクの親類にあたる
バイエルン=ミュンヘン公アルブレヒト4世でした。

この結婚にはフリードリヒ3世が反対したというのだけどなぜかしら?
ヴィッテルスバハ家に皇帝の座を奪われる怖れからでしょうか?
それとも他に結婚させたい相手が… ポーランド方面かな?

ハプスブルク家といえば、血族結婚と並んであからさまな政略結婚でも名を馳せてます。
よくこんなわがままが通りましたね
けっこう Going my way(わがまま) なプリンセスだったのかもしれません。

1508年、アルブレヒト4世が亡くなりました。
アルブレヒト4世は亡くなる前にバイエルンを統一していまして
15歳のヴィルヘルム4世がバイエルン公に即位しました。

摂政になったクニグンデは辞任された後、
自分にも継承権があると主張するお気に入りの次男ルートヴィヒを後押ししたりして
表舞台にとどまりました。
おかげでルートヴィヒも共同統治者になることができましたとさ。

アルブレヒト4世の死後はPuttrichにある修道院の信徒になりました。
彼女はそこが気に入って、城から移り住んじゃったらしい…
何が好くて移り住む? 女ばかりで気が楽だったのかしらね?

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家の女たち』
      Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イギリス王ジョージ5世王女 メアリー

2011-04-13 22:39:01 | イングランド王妃・王女
“ 王冠を賭けた恋 ” を応援した王女
ジョージ5世王女 メアリー
ヘアウッド伯ヘンリー夫人


1897~1965

大げさに書いちゃった…  でもね、応援はしなかったかもしれないが
少なくとも反対はしなかったんではないかと思います。

ジョージ5世と王妃メアリー・オブ・テックには6人のお子様がいましたが
女の子はメアリーひとりでした。
            
お勉強は兄弟たちに混じって家庭教師から受けていました。
男兄弟が多かったせいなのか乗馬が好きで、生涯の趣味になりました。

第一次世界大戦が始まった時はまだ十代前半でしたが、病院などを慰問して
ロイヤルファミリーの務めを果たしていました。
大戦末期の1918年には看護婦として病院勤務もしています。

24歳の時、39歳のヘアウッド伯子ヘンリー・ラッセルと結婚しました。
この時ブライド・メイドをつとめたのが『英国王のスピーチ』でお馴染み、
後のジョージ6世妃エリザベスです。

メアリーはこの結婚を渋ったらしいのですが、両親が押し切ったとも言われています。
ヘアウッド伯のどこに無理矢理結婚させたい要素があったのかしら?
そんなにいい家柄なのかしら?

兄のエドワード(8世)は「愛する人と結婚してほしい」とこの結婚に反対したそうです。
やはり後に世紀の恋をする人だけあって “ 愛至上主義 ” だったのね

そんなことがあったからか、メアリーはエドワードが大好きで
退位して王家と没交渉になってからもお付き合いを続けました。
エドワードが暮らしていたエンツェスフェルト城(ウィーン)にも夫と訪問しています。

1947年、姪にあたるエリザベス(2世)の結婚式がありましたが
メアリーは、エドワードが招待されていなかったことに抗議して参列を辞退しています。
公式には病気と発表されました。

その後のロイヤルウエディングでもシンプソン夫人が招待されていないからと
欠席したものがありました。
兄思いなのはわかりますけど、一応公式行事だからさ…

第二次世界大戦中は女性部隊ATSの統制官チーフになり
弟ケント公の死後はパップワース知事も務めました。
リーズ大学の総長にもなってます。
まさにロイヤルファミリーにうってつけのアクティブな女性ですね。

亡くなった年にスウェーデン王妃ルイーセの葬儀への参列ています。
これがメアリーの最後の公式行事参加になりました。
目の手術のためにロンドンに来ていたエドワードとシンプソン夫人も訪ねています。

息子のヘアウッド伯ジョージと散歩中、心臓発作をおこして亡くなりました。

エドワードはその7年後に亡くなるんですが
イギリス王室内の心強い理解者だった妹の死は悲しかったでしょうね。
退位後も皇室行事や式典に招待されることがありましたが
これもメアリーの力添えがあったからかもしれません。 

エドワード8世退位後後を継いだ弟のジョージ6世とエリザベス王妃の王女が
現在のエリザベス2世です。
エリザベス2世の妹マーガレット王女は2002年に亡くなっています。 

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版) 
コメント (7)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ブリギッタ・森の泉 他一篇』額縁に入れて飾りたいわ…

2011-04-13 02:31:37 | その他の国の作家
BRIGITTA / DER WALDBRUNNEN 
アーダルベルト・シュティフター

シュティフターは去年『森の小道・二人の姉妹』を読んで
心洗われる文章と心に響かない内容のギャップにがっかりしたものですが
ひとつの作品で作家を判断してはいかん!と思い手に取ってみました。

本当に絵のように美しい風景描写で、ぜひ額縁に入れて飾っときたいです。
でもやっぱり内容が…入りこめないんですよねぇ
こんなに清らかなお話しに感動できないとは…私が汚れた現代人だからかしら?

3篇収められています。

『荒野の村(Das Haidedorf)/1840年』
ロスベルクの荒野を愛し、知りつくしている少年フェリックスは
成長すると家を出て行き、数年後、好青年になって姿を現しました。
フェリックスはイェルサレムを訪ねて来たと言います。
その年は雨が降らず人々は困っていました。

なんの話かわかりません…奇跡のお話しなのかしら。
フェリックスはなぜに恋にやぶれたの? いったい何をしていたの?
謎が謎を呼ぶ善き話し…私には主旨が掴めませんでした。

『ブリギッタ(Brigitta)/1884年』
旅先で親しくなった少佐の東ハンガリーの領地を訪ねて、自然や農業に触れ
穏やかな日々を送るうちに、近隣の領主ブリギッタに出会いました。
少佐とブリギッタはお互いを想っているのに、決して一線を越えませんでした。
ある日、ブリギッタの息子グスターフが狼に取り囲まれている場面に遭遇します。

ブリギッタの子供時代を描いた部分は、珍しく人物がいきいきしている印象を受けました。
狼と戦う場面も少し躍動感があったかしら…
本筋とは別に、大地・農耕・労働を余すところ無く讃美している作品だと思います。

『森の泉(Der Waldbrunnen)/1866年』
以前見かけた美しい人を思い出してから、しばらくして耳にした話し。
ある年、一人の老人と孫息子、孫娘の一行が山あいの森に夏の静養に訪れました。
その森の学校には手におえないほど粗暴で不潔な少女がいました。
老人一家と少女一家の、何年にも渡る交流が始まりました。

家柄も身分も越えた、本当に美しいお話しですよ。
この老人がよっぽどの善人じゃないと、当時のオーストリアでこの結末はあり得ないと思う!
なんてことは考えずに浸った方がいいのでしょうね…

解説を読んでないんですけど、旅行ライターとか自然評論家としても活躍したのかしらね?
風景画も描いていたというシュティフターですが、(本人による)表紙の絵を見ると
まさに “ 絵はがきのように ” 美しい風景が好きだったのでしょうね。

文章でも絵でも好きなものを表現できるだけの才能があって
幸せな人生が送れたんじゃないかと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イギリス王エドワード7世王女 ルイーズ

2011-04-12 01:15:55 | イングランド王妃・王女
わりと自由に育てられた王女
エドワード7世王女 ルイーズ
ファイフ公アレグザンダー夫人


1867~1931

ルイーズはエドワード7世とアレグザンドラ・オブ・デンマークの長女です。
ジョージ5世の妹にあたります。

祖母ヴィクトリア女王の厳格な教育に反して、エドワード7世夫妻の子育ては
けっこう自由でワイルドだったみたいです。
ルイーズは最低限の教育しか受けていません。
         
1889年に18歳年上のファイフ伯アレグザンダー・ダフと
バッキンガム宮殿内のチャペルで結婚しました。
ファイフ伯はウィリアム4世とドロシー・ジョーダンの庶子エリザベスの孫にあたります。
結婚の2日後にファイフ公に叙位されました。

1911年に一家でエジプトへ航海中、モロッコで船が難破しました。
アレグザンダーは肋膜炎にかかってアスワンで亡くなりました。

1914年から1921年まで、ドラグーン騎兵隊の名誉隊長になったっていうんすけど…
兵隊の方々を激励する役ということでしょうか?
王女だったら赤十字とか看護婦会の名誉職が与えられそうなものなのにね。

1931年にロンドンで亡くなりました。
ウィンザー城のセント・ジョージズ・チャペルに埋葬された後
夫が眠るアバディーンシャイアのプライベート墓地に移葬されました。

長男が亡くなったため、長女アレグザンドラがファイフ公を継承しています。



               
お嫁にいかしてもらえなかったお気に入り
エドワード7世王女 ヴィクトリア・オブ・ユナイテッドキングダム


1868~1935

ヴィクトリアはエドワード7世とアレグザンドラ妃の次女で
兄のジョージ(5世)とはとても仲の良い妹でした。

        

王女ですから求婚者はいたのですが、母アレグザンドラはヴィクトリアの結婚を
なんとか阻止しようと頑張ります。
ずっとそばにいてほしかったんですって…そんな親のエゴでねぇ…
結局ヴィクトリアは結婚せずに両親と過ごしました。

1910年にエドワード7世が亡くなり、1925年にアレグザンドラ妃が亡くなりました。
この時ヴィクトリア57歳、もう結婚する気なんかおきないでしょうね。
バッキンガムシャーのアイヴァーに引っ込み、いなか暮らしを満喫したそうです。

1935年に亡くなりましたが、この報せに兄ジョージ5世はショックをうけて
1ヶ月後に亡くなったということです。
もともと体調を崩して寝込んでいたそうなので、これが原因というわけではないと思うが…

三女モードはノルウェー王ホーコン7世妃になりました。
こちらはノルウェー王妃で書くつもりで資料作っちゃったので後日…

ところで、ヴィクトリア女王の王女たちに比べてエピソードが短くありません?
日記とか手紙が少なかったのかしら? 一人ぐらい残していてもよさそうなものを…
ヴィクトリア女王一家の筆まめさはすごいですね!

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イギリス女王ヴィクトリア王女 ベアトリス

2011-04-10 18:20:13 | イングランド王妃・王女
“ 不幸なマスオさん ” を生んだ母娘愛
ヴィクトリア王女 ベアトリス・オブ・ユナイテッドキングダム
バッテンベルク公子ハインリヒ夫人


1857~1944

ベアトリスはヴィクトリア女王の四男五女の末っ子で
幼年期をアルバート公が亡くなった後の沈んだ雰囲気の中で過ごしました。

子供はみーんなそばにおいておきたがった女王ですが、とりわけベアトリスは
手放したくなかったようで、いつまでも縁談にふれようとしませんでした。
         
でも王女ですもの、引く手数多です。
フランス皇帝ナポレオン3世と皇后ウージェニーの皇子ナポレオン・ウジェーヌとは
恋の噂があって、結婚秒読みとまで言われました。
しかしナポレオン皇子は1879年に戦死してしまいました。

王太子エドワード(7世)は次女アリスに先立たれたヘッセン大公に
嫁がせようとしたりします。
そこでベアトリスはダルムシュタットを訪問しますが、ヘッセン大公ではなくて
バッテンベルク公子ハインリヒと恋に落ちてしまいました。

帰国後、ハインリヒと結婚したいと言うベアトリスに対して女王は口をきいてくれず
母娘は7ヶ月間、筆談で会話したそうです。
やっぱりヴィクトリア女王って頑固者だ…

結局ハインリヒが故国を捨てて、イギリスの女王のそばで暮らすと言う条件を飲んで
やっと結婚が許されました。
ベアトリスも、結婚後も変わらず女王の秘書の役目を務めると約束しました。

ここからは婿に入ったハインリヒの悲哀を中心に書いてみたいと思います。
長くなるのではしょっていくわね。

二人はハネムーンに出かけたけど、それは女王の別邸オズボーンハウスの近所でした。
つまり、新婚旅行中も女王に会いに行ったと思われます。
その後二人が女王抜きで旅行に出たことは無いそうです。

ハインリヒは他の王侯貴族の三男、四男同様、軍隊でキャリアを積みたいと考えていましたが
女王が阻止しました。
ハインリヒが城を抜け出して兄のルートヴィヒとコルシカに向かった時には
戦艦を差し向けてハインリヒを連れ戻してます。

いくら入り婿(状態)だからって、好きな仕事をさせてあげればいいじゃないね!

実際、妻のベアトリスは結婚後もフルタイムで秘書として女王にべったりついてました。
王女の婿っていうだけで特にやることもない毎日にうんざりする気持ち、わかりますよね。

女王は、ヒマそうな婿に仕事でも…とハインリヒをワイト島の総督に任命しましたが
ワイト島は女王のお気に入りの別荘オズボーンハウスがあるところです。
子供の使いみたいな役職ですよね。

結局、どうしてもアシャンティ遠征に参加したい!というハインリヒの熱望に負けて
女王は軍隊への参加を許しましたが、女王一生の不覚…すごく悔やんだことでしょう。

遠征に向かってから1年後の1896年、ハインリヒはマラリアで亡くなり
報せを聞いてマデイラ島にかけつけたベアトリスのもとへ亡骸になって運ばれました。

ハインリヒったらかわいそう…
まさかこんなに母娘ベッタリだとは思っていなかったでしょうね。

ベアトリスは喪が明けると健気にも女王のもとへ戻り秘書役を続けました。
女王も彼女を信頼し、母娘の絆はますます深くなったようです。

でも、1901年に女王が亡くなるとベアトリスの境遇も変わります。
ここからは駆け足でいきますね。
もともと兄弟姉妹と仲が良くなかったと言われるベアトリスは
兄のエドワード7世とも疎遠でした。

エドワード7世は女王のお気に入りだったオズボーンハウスを売ろうと考えたり
女王とベアトリスの共通の趣味だった写真を人目に触れないよう処分しようとします。
ベアトリスは宮廷には顔を出していましたが、女王時代よりポジションは低くなりました。

エドワード7世は王太子時代、まったく政治に関わらせてもらえなかったそうなので
側で重要な役目を演じていたベアトリスのことが恨めしかったかもね…

晩年は13年がかりでヴィクトリア女王の日記の編纂をしたり
母方の曾祖母アウグスタの日記を翻訳して出版しました。

1944年に87歳で亡くなりました。

なお、甥ジョージ5世の時代に、イギリス王室はサクス=コバーク=ゴータというドイツ名から
ウィンザーというイギリス名に改名しています。
ベアトリスも家名をバッテンベルクからマウントバッテンに改めました。

子供は三男一女おりまして、娘のヴィクトリア・ユージェニー
スペイン王アルフォンソ8世妃になりました。
ですので、現イギリス女王エリザベス2世とスペイン王ファン・カルロス1世は
遠い親戚になりますね。
お互いの配偶者も親戚同士となっております。
         

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の桜も去年と同じ・・・

2011-04-10 17:41:24 | もろもろ
今年も桜の季節になりました。

自粛ムードで大きな公園は花見ができないようですが
近所の公園ではちんまりとお花見が行われていましたので
うちも…と、お弁当を作って桜の下で食べて来ました。

公園は去年と変わらず…でしたが、いつのまにかお花見スポットになっていたのかしら?
ものすごい人出で場所が見当たらず、公園の外れで向いの幼稚園の桜を眺めていました。

お弁当のメニューも去年と同じ…なんてずさんな盛りつけでしょう

           

旦那さんが桜より桜花賞を見たいというので、そそくさと食べて帰って来ました。
1番人気を単勝で買って負けました  
まさか1番、2番人気が揃って来るとはねぇ… 波乱含みって言ってたじゃないの。
馬連にしときゃよかった…

とりあえず天気が良くて良かったです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『若者はみな悲しい』脂のってます!

2011-04-09 16:29:20 | アメリカの作家
ALL THE SAD YOUNG MEN 
1926年 スコット・フィッツジェラルド

良い短篇集かどうかは別として、ものすごく面白い一冊でした。

収められている9篇のうち『お坊ちゃん(金持ちの青年)』と『冬の夢』は
『雨の朝 パリに死す』で読んだことがありますが
あとの作品はたぶんお初だと思います。
フィッツジェラルドの短篇集も何冊か持っているので何を読んだか忘れちまって…

ドラマティックというのではなくて、ドラマ仕立て…というのかな?
寸劇の脚本みたいな作品が多かったような気がします。
いろいろあるけど座りのいいところに落ち着いた…的なラストね。
大団円とか予定調和で終わる小説はあまり好きではないのですが
ドラマを見た気分で読むととても楽しめました。

特に気に入ったものをご紹介します。

『子供パーティー』
ジョンは妻のイーディスから、娘のイードが隣のマーキー家の子供パーティーに行くので
会社の帰りに顔を出すように言われます。
しかし寄ってみるとイーディスとマーキー夫妻が口論していました。
カッとなったジョンもマーキー家の主ジョージと殴り合いを始めます。

子供パーティーって大変そう… よそ様の子が悪さをしたらどうやって叱ればいいんだろう?
ラストでは夫たちがけっこうフェアで、ホームドラマ的良い話しに仕上がってると思います。

『温血と冷血』
ジムは友人が困ったと言えば金も貸すし、疲れていても図々しい女に席を譲ります。
妻ジャクリーンはそんな夫にイラついていましたが、ある日、ジムが金を貸した男が
新車を自慢している場面に出くわして怒りをぶちまけました。
ジムはそれから人の好さを見せないように自分を変えました。

よく親に「友達にお金を貸す時は、あげたと思って貸しなさい」と言われました。
幸いそんな目にはあっていませんが、もし新車なんか買われちゃすごくムカつくわね!
さて、もともと優しい人がいつまでも冷酷でいられるものなのでしょうか?
ラストへの急展開に注目です。

『赦面』
北欧系の人々が多い町で司祭をしているシュワーツ神父は、人知れず涙を流しています。
そんな神父のもとに、11歳になる美少年ルドルフ・ミラーが訪ねて来ました。
ルドルフはとんでもない罪を犯したと言って3日前の懺悔について告白を始めます。

この一篇はドラマ性はほとんど無くて、信仰絡みの内容に終始しています。
宗教に興味は無いんだが、名文なのか名訳なのか…すごく文章に引き込まれていきました。
少年の父親の登場のしかたもTPOが絶妙で心憎いほどです。
これはかなり名作の域に入ると思うんですがどうでしょう?

この本に収められている短篇の創作は『グレート・ギャツビー』発売の翌年だそうです。
ノリにのってる時期と言えるんじゃないかしら。
読んでいて「書くことが楽しい!」という思いが伝わってくるようでした。

ただ、パリで書かれているらしいのよね。
ヘミングウェイの『移動祝祭日』によれば、パリでのフィッツジェラルドは
いつもヘロヘロで、ゼルダのせいでものが書けない的な印象がありました。
そんなことまったく無い!と言える仕上がりだと、私には思えますけど…
違うパリ時代の話しなのかしら?

数多くの脚本も手がけていたというフィッツジェラルドが
本領を発揮した短篇集かもしれないです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする