まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王フィリプ1世王女 セシル

2011-10-31 23:48:09 | フランス王妃・王女
夫に再婚相手を指名されるってどうよ?
フィリプ1世王女 セシル・ド・フランス
ガラリヤ公タンクレッド妃/ポンス・ド・トリポリ夫人


1097~1145

フィリプ1世とベルトラド・ド・モンフォールの王女セシルとタンクレッドの縁談は
タンクレッドの叔父にあたるアンティオキア公ボエモン1世が
フランス宮廷を訪問中に持ち上がりました。
たぶん異母姉コンスタンスの縁談と同時じゃないでしょうかね?

なんと! 9歳 でアンティオキアに嫁ぎました。
お相手のタンクレッドは20歳ぐらい年上です。
        
タンクレッドはアンティオキア公国建国に携わった人で
ボエモン1世が捕虜になったり、ビザンツの臣下になって
アプリア(イタリア)で暮らしていた間、摂政として実権を握っていた人でした。

タンクレッドはボエモン1世が亡くなった翌年の1112年に亡くなったのですが
その前に妻のセシルとトリポリ伯ポンスを婚約させて持参金に領地まで与えています。

若い(15歳!)未亡人を不憫に思ってのことでしょうか?
それともアンティオキアの安泰を願ってのことでしょうかね?
なんたってボエモン2世は4歳ですから、後ろ盾を増やしておきたかったのかもしれません。
アンティオキアやイェルサレム、ニカイアなどは
キリスト教国が十字軍遠征の際に建国した国です。
気を抜いてるとトルコとかビザンツ帝国に狙われてしまうのでね。

二人が暮らしていたトリポリ(リビア)も同じような境遇で
1133年には夫ポンスがイスラム教国軍に包囲されてしまいました。

この時セシルは異父兄イェルサレム王フルク5世に助けを求めました。
一時は包囲が解かれたものの、4年後に再び包囲されポンスは亡くなります。
        
セシルは1145年に亡くなり聖墳墓教会(イェルサレム)に葬られました。

国内旅行さえままならない時代に、文化も気候も風景も全く違う国へ、
しかも二度と帰って来れる見込みがなさそうな状況で、しかも9歳で嫁ぐって
想像しただけでものすごく可哀想…
王女の人生って、古い時代にいけばいくほど過酷なような気がしてます。



影は薄いが家系図は賑やか
ルイ6世王女 コンスタンス・ド・フランス
ブローニュ伯ウスタシュ4世夫人/トゥールーズ伯レーモン5世夫人


1124~1176

ルイ6世とアデル・ド・サヴォワには8人のお子様が生まれていますが
王女はコンスタンスひとりでだけです。

18歳でイングランド王スティーヴンの王子ブローニュ伯ウスタシュ4世と結婚しました。
      
ウスタシュは1153年に突然亡くなってしまいまして
翌年、トゥールーズ伯レーモン5世と再婚しました。
       
子供は4人生まれたんですが、1165年に血縁関係が近すぎるという理由で
教会から離婚を宣言されてしまいました。
近いったってさぁ~、結婚から12年もたって言われましても…って気がしない?
ちなみにレーモンはコンスタンスより10歳年下なんですよね。
愛妾がいたようで1192年に娘が生まれてます。

当時の教会の「血縁によるうんぬんかんぬん…」という離婚理由は
けっこういい加減なのよね、いとこ同士とかおじと姪の結婚なんか腐るほどあるし。
権力とか寄付金とかに、かなり左右されていたんじゃないかと… (ひとり言)

コンスタンスは1176年に亡くなりました。

(参考文献 ポール・ルメルル『ビザンツ帝国史』 Wikipedia英語版)
コメント (3)
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フランス王フィリプ1世王女 コンスタンス

2011-10-27 22:33:30 | フランス王妃・王女
離婚を勝ち取った王女
フィリプ1世王女 コンスタンス・ド・フランス
シャンパーニュ伯ユーグ夫人/アンティオキア公ボエモン1世妃


1078~1126

ロベール2世のあとを継いだアンリ1世とアンヌ・ド・キエヴには
エンマという王女が生まれましたが幼くして亡くなっています。

アンリ1世の王子フィリプ1世には二人王女がいますが、母親はバラバラです。

長女コンスタンスの母親は、フィリプ1世のいとこの娘にあたるベルタ・ド・ホランドです。
        
15歳~17歳の間にシャンパーニュ伯ユーグと結婚しました。

フィリプ1世はベルタと離婚し、アンジュー伯フルク4世の妻ベルトラドを奪うようにして
再婚したので、アンジュー伯から恨みを買ってました。
そこで対抗措置として、当時最も勢力があったブロワ家の力を得ようとしたわけです。
なんだかひどい話じゃなくて?

けれどもフィリプ1世の思惑通りにはいきせんでした。
ユーグの兄エチエンヌがブロワ家の領地のほとんどを持っていましたし
ウィリアム1世王女アディラと結婚していまして
ほいほいとフィリプの言うことを聞いてくれるわけではなかったんですね。

当時のフランスでは、カペー家が王になっているとはいえ、ノルマン公とか
アキテーヌ公とかブロワ伯とか、王に引けを取らない力を持つ家柄がありました。
ノルマン家は隣国の王になっちゃうし、アキテーヌ公なんて王より広い領土を持ってるし…
王=王侯貴族の班長、みたいなものでしょうか? 国を治めてるってかんじじゃないですね。

結婚から10年後、コンスタンスはいきなりシャンパーニュ伯との離婚を申し立てます。
理由ははっきりしていません。
この離婚、父王フィリプ1世はまったく手を貸そうとしませんでしたが
弟のルイ(後の6世)と、義姉のブロワ伯夫人アディラが全面的にバックアップしました。

離婚申し立ての理由はなんだったんでしょうね? 気になるわ…
その後ユーグはブルゴーニュ伯エチエンヌ1世の娘イザベルと再婚してますが
後にイザベルと息子ウードと縁を切っています。

コンスタンスは1104年に離婚を勝ち取りました。
ちょうどその頃アンティオキア公ボエモン1世がヨーロッパに戻っていました。
ボエモン1世は十字軍の援護とともに妻を必要としていました。

コンスタンスの離婚はグッドタイミング!
フランス王女との結婚で格は上がるし、援軍だって出してもらえるかもしれません。
        
ボエモン1世は結婚後に34,000人の援軍を得てビザンツ(東ローマ)帝国を攻撃しました。
しかしヴェネチアの援護を得たアレクシオス1世は強かった!
ボエモン1世は和平を受け入れたばかりか
アレクシオス1世から報酬をもらう、所謂 “ 臣下 ” になってしまったとさ
コンスタンスはボエモンのいるアプリア(イタリアのプーリア)に移ります。
この間アンティオキアはボエモンの甥タンクレッドが摂政として治めていました。
ちなみにタンクレッドはコンスタンスの異母妹セシルと結婚しました。

ボエモン1世が1111年に亡くなり、1112年に摂政タンクレッドが亡くなると
コンスタンスは5歳の息子ボエモン2世の摂政になりました。
しかしその後バーリ伯グリマルドに投獄されてしまいます。
1120年に摂政を降りる条件で釈放され、1126年に亡くなりました。

成人した子供はボエモン1世との間に生まれた唯一の嫡子ボエモン2世だけです。
孫娘コンスタンチェの娘にビザンツ皇帝マヌエル1世妃マリアと
ハンガリー王ベーラ3世妃アンナがいます。

コンスタンスというよりボエモン1世のエピソードばかりですね。
古い時代にいけばいくほど、女性の記録はあまり残ってないのですね。
余程の偉業が無い限り、美しい(という言い伝え)かものすごい悪女か…
そういう人しか残されてないみたいです。

(参考文献 ポール・ルメルル『ビザンツ帝国史』 Wikipedia英語版)
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フランス王ロベール2世王女 アデール

2011-10-26 21:31:38 | フランス王妃・王女
フランス草創期、大活躍した王女
ロベール2世王女 アデール・ド・フランス
ノルマン公リシャール3世妃/フランドル伯ボードゥアン5世夫人


1009~1079

今回はフランスの王女編…
プリンセスといえば頭に浮かぶのは、フランス風キラキラビカビカな
ヴェルサイユ時代のフランスの宮廷女性たちですよね。
本当のフランス王女たちの人生はどんなものだったのでしょうね?

王妃同様カペー王家からまいります。

初代王ユーグ・カペーと王妃アデライードの間には何人か王女がいたらしいのですが
わかっているのはヘドヴィヒ(970頃~1013)という王女がモンス伯ルノーに嫁いだことと
ジゼル(968頃~1002)という王女がポンチュー伯ユーグ1世に嫁いだことだけです。

ヘドヴィヒとジゼルの兄弟にあたるロベール2世と
3人目の妃コンスタンス・ダルルの次女がアデールです。
長女アリックスはヌヴェール伯ルノー1世に嫁いでいます。

1027年にノルマン公リシャール3世と結婚しましたが、その年のうちに未亡人になりました。
翌年フランドル伯ボードゥアン5世と再婚しました。

        

アデールは実家の権威でフランドル伯家に大きな力をもたらしました。

兄のアンリ1世が亡くなると、夫共々甥である8歳のフィリプ1世の後見人になります。

フィリプ1世の摂政には母親のアンヌ・ド・キエヴが就いていたのですが
フランス語が堪能でないってことで反対意見がおこっていました。
アデールあたりが急先鋒だったんじゃないかしら? なんて… 憶測ですからね。
アンヌ失脚後は義理の兄としてボードゥアン5世が摂政に就きました(ほらね

しかし、大きな力を持つとその権力欲しさに家庭内がドロドロになるのが中世の常…

1071年、アデールの孫にあたるアルヌルフ3世が治めていたフランドルに
アデールの三男ロベールが攻め入りました。
この時アデールはフィリプ1世に頼んで、息子ではなく孫に加勢したんですけど
最終的にはロベールが勝利しフランドル伯になりました。
       
この戦いの1年後、フィリプ1世は、ロベールの継子ベルタと結婚しました。
仲直りのしるしですかね?

アデールは夫ボードゥアン5世の宗教政策、特に教会再建に影響力を持っていたらしく
アイル、リール、ハーレルベーケの教会系大学や
メセン、エナメの修道院などの設立に携わりました。

1067年にボードゥアン5世が亡くなるとローマを訪れ、教皇アレクサンデル2世から
修道女用のヴェールを授けられています。
これが最後の晴れ舞台で、その後はメセンに引退し、そこで亡くなりました。

ローマン・カトリック系教会では、アデールが亡くなった9月8日が記念日になっていて
これは聖人の日並みの扱いだそうです。
いっそのこと聖人にすればいいのにね? (無責任発言です
なにか奇跡がおきなかったのかしら?

お子様は5人で、長女マティルダがイングランド王ウィリアム1世に嫁ぎました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (4)
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スウェーデン王グスタフ6世妃 マルガレーテ

2011-10-19 22:49:24 | スウェーデン王妃
旅先の恋が実を結ぶ
グスタフ6世妃 マルガレーテ・アヴ・コンノート


1882~1920/在位せず

グスタフ5世が92歳という高齢で亡くなったため、即位した時には67歳だったという
長~い王太子時代を送ったグスタフ5世は2回結婚しておられます。

一人目の妃はヴィクトリア女王の三男コンノート公アーサーの王女
マーガレット(マルガレーテ)です。
         
お年頃になったマルガレーテは、妹のパトリシアと並んで、ヨーロッパで最も美しく
プリンセスに相応しい女性だと言われていました。

伯父にあたるイギリス王エドワード7世は、二人を王太子=ゆくゆくは王クラスの
男性と結婚させたがっていました。

マルガレーテ23歳、パトリシア18歳の時、コンノート公一家はポルトガルを訪問しました。
この時、ポルトガル王太子マヌエル(後の2世)は姉妹のどちらかと結婚したがっていました。

スペインではアルフォンソ13世とパトリシアの結婚話がおおいに盛り上がりましたが
結局アルフォンソはヴィクトリア・デ・バッテンブルクと結婚しました。
どうも上手くまとまりませんな…

その後も旅は続き、エジプトのカイロでグスタフと出会いました。
二人はお互いにひと目ぼれしたそうでして、グスタフはイギリス領事館の晩餐の席で
マルガレーテに求婚、半年後には結婚しました。
中世の戦利品的な結婚は別として、けっこう異例の早さですよね。

マルガレーテが王太子妃になってから7年後の1914年、第一次世界大戦が開戦しました。
スウェーデンは中立を謳っておりましたが、やはり余波はありますよね。

マルガレーテは赤十字をサポートするために裁縫サークルを開催したり
パラフィン不足の折りにはコレクションのキャンドルを差し出しています。
現在ではお目にかかれないような綺麗なキャンドルもあったでしょうに…

他にも訓練を受けた少女たちに仕事を与える計画を発案したり
囚人たちの社会復帰にも尽力しました。
さすがヴィクトリア女王の孫… 堅実なプリンセスですね。

1920年、マルガレーテは6人目の子供を身ごもっていて、妊娠8ヶ月でしたが
胸の手術を受けました。
その後感染症にかかり、すぐに亡くなってしまいました。

長女イングリッドはデンマーク王フレデリク6世妃で
現女王マルグレーテ2世の母君にあたります。



              
偽名を使った王妃
グスタフ6世妃 ルイーゼ・アヴ・マウントバッテン


1889~1965/在位 1950~1965

で、しっかり者と思われる前妃マルガレーテを亡くしたグスタフ6世が
3年後に再婚したのが、変わり者と言われているルイーゼです。

マウントバッテンの名でおわかりの通り、イギリスのプリンセスです。
母ヴィクトリアはヴィクトリア女王の次女アリスの長女です。

前妃マルガレーテとも親戚にあたります。
       

常々「ぜっっったいに王とか男やもめとは結婚しない!」と主張していたそうですが
34歳の時に、王で男やもめのグスタフと結婚しました。

子供っぽく激し易い性格だったみたいです。
ポメラニアンを何匹か飼っていて、いつも連れ歩いていました。
旅行にはグリップスホルム伯夫人とかオルセン夫人という偽名を使っていました。
歓迎の式典とか挨拶なんかが煩わしかったのかしらね?

ロンドンでバスにぶつかった時には “ 私はスウェーデン王妃 ” というカードを
携帯していたと言われています。
何年頃の話かわかりませんが、スケールのでかい徘徊でもしていたんでしょうか?

1964年のノーベル賞授賞式以降公の場に出ることがないまま
翌年大病の手術の後亡くなりました。

現在なら違った意味で人気者になるかもね…
ブリちゃんとかパリスと並んでお騒がせセレブのコーナーの常連になるかもしれませんな。

スウェーデン王妃は今回が最終回です。
このところあまりブログができず、草稿のストックが無いので焦ってます
一応予定はあるんですけどね… 次回シリーズまで今しばらくお待ち下さい。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedai英語版)
コメント (2)
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『ヴァージニア・ウルフ短篇集』幸か不幸か…堪能できない

2011-10-18 00:42:14 | イギリス・アイルランドの作家

ヴァージニア・ウルフ

『20世紀イギリス短篇選』で『キュー植物園』だけ読んだことがあったのですが
きっと苦手な作家だろうと思ってました… そして当たってました

天才と絶賛された女流作家である反面、狂気を孕んでいたヴァージニア・ウルフですが
この独特の作品が狂気故なのか、まったく別の脳による産物なのかはわかりません。
とりあえず “ 難解 ” ということで…

そんな中でも比較的楽しめた作品をいくつか…

『ラピンとラピノヴァ(Lappin and Lapinova)/1939年』
ロザリンドは新婚旅行の時、夫アーネストがウサギに似ていることに気づき
お互いにラピンとラピノヴァと呼び合って自分たちだけの世界を作ります。
ある晩、ロザリンドはウサギが死んでしまう夢を見ました。

新婚時代から倦怠期に移りゆく夫婦の姿を、極端に抽象的に書いた物語だと思うんですが
私から見てもロザリンドに付き合うのは大変な気がします。
アーネストに同情しちゃう… 私は現実的で凡庸なタイプなのでね。

『乳母ラグトンのカーテン(Nurse Lugton's Curatin)』
ラグトンが居眠りをしている間、膝に広げられた縫いかけのカーテンの中で
動物や人々が動き出しました。
カーテンの中の人々は、ラグトンが自分たちを変えてしまった魔女だと信じています。

一見お伽噺のような印象で始まりますが、だんだん陰鬱な話になっていってる気が…
カーテンの中で動く動物とか夜中に動くおもちゃって、子供向けの話にありそうですが
この話しは聞かせちゃならん気がします。

『キュー植物園(Kew Gardens)』
蝸牛が、キュー植物園に集う人間の間を縫って、ゆっくりゆっくり進みます。
たくさんの二人組が現れては霞んで緑の中へ消えて行きます。

これはヴァージニア・ウルフ的文学の手法を表した代表作だそうですよ。
でも “ 意識の流れ ” の手法と言われましても…
とりあえず、蝸牛の目から見た人間模様がどんなに複雑でも単純でも
蝸牛のリズムで読み進むうちに「どうでもいいや」の境地に達することができる 気がします。

17篇収められていますが、読み終わって浮かぶのは、ひと言で言うと “ 固執 ” かな?
ある絵の中の、ひとつの対象について延々と語っている印象、
描かれている他のたくさんの物はどうでもいい、という感じでしょうか?

この短篇集を読んで「あぁ、さすがウルフは天才だな」と心から感動できる人は幸せですね。
私にゃ無理です。
革新的であり、独特であり、美しい… というのはなんとなく理解できます。
でも「名作ですよ」と言われて「ええ、そうですね」とは答えられないです。
これは完全に私の落ち度であって、ウルフの作品はやっぱり名作なのでしょう。

天才の良さがわからないなんて… 不幸だわ、というのは建前で
本音は、いくら単純明快でも、大衆目線と蔑まれてても、やっぱり面白い物語が好きです。
それでいいじゃないか! 小説は娯楽のためにあるんだもん。
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“ うどん県 ” に夢中

2011-10-17 22:37:55 | もろもろ
もはやテレビで韓国語しか聞いてないんじゃ? と言っても過言ではないわたくしですが
彼が出ていたら気になって仕方がないという俳優がいます。
それは、かなめじゅん!

好き とか、素敵! という気は一切無いのですが
なんていうか、目が離せないんですよね。

そんなわけで『パーフェクト・リポート』も観ちゃったし
終戦記念の『最後の絆・沖縄』も観ちゃいました。
気がつくと『タイムスクープハンター』も観てます。
たぶん『僕とスターの99日』も観ちゃうかもしれないっす

いったい要潤がドラマに出ていないクールがあるでしょうか?
どんな役でも臆すること無く引き受けてますよね! えらい!!
仮面ライダー出身組ではオダギリジョーと並んで出世組だと思うのですが
なんか扱いが軽いですよね… 悲すぃ…

そんな私が今日の出勤中、東急東横線のTOQビジョンに釘付けになりました。
要潤出演の “ うどん県 ” のCF!
断らないのが要潤のいいところ。

私は電車の中ではずーっと本を読んでいて、普段はまわりを見ていないんですが
今日は行き帰りともTOQビジョンが気になっちゃって、あまり本が読めませんでした。

そばよりうどん派で讃岐うどんも大好きな私、さらに好きになりそうです。
香川県に食べに行きたいな… 香川県には幼い頃に法事で行ったきりです。
それ以来、こんなに香川県のことを考えたことがあったでしょうか?

写真は“うどん県”の公式サイトから拝借です。
コメント (7)
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『檸檬』昭和初期ブログ型小説

2011-10-14 23:01:53 | 日本の作家

梶井基次郎

教科書で『檸檬』の書き出しに感動して買ったような気がする梶井基次郎の短篇集、
小説の形はとっているものの、梶井基次郎の心情を綴った日記のような気がします。

ほとんどの小説の主人公が、著者同様病に罹っていて健康を案じる身で
文学を学ぶ学生、あるいは文筆を生業にしている男性です。

どちらかといえば活動的ではない主人公たちが、窓から外を眺めているか
あてもなく町を散歩する… という内容が多かった印象があります。

だから、あらすじ…というのとはちょっと違う気がするのですが
何篇かさらっと内容をご紹介します。

『檸檬/1924年』
気分が優れない日が続き、見窄らしくも美しいものに惹かれています。
気に入っていた果物屋の店先で檸檬を見つけひとつだけ買いました。
檸檬を握っているとその冷たさに少し気が晴れ誇らしい気さえします。
足が遠のいていた丸善に入り画集を眺めることにしました。

『城のある町にて/1924年』
峻が妹を亡くし、近所にお城跡がある姉夫婦の家で過ごした一夏の記憶。
ちょうど義兄の妹信子も帰省していました。
花火や手品を姉夫婦一家と見に出かけたりと、他愛無い日々が過ぎて行きます。
峻より一足先に、信子が学校の寄宿舎に戻る日がやってきます。

『冬の蠅/1928年』
渓の温泉宿で、日光浴の時に冬の部屋の日だまりで暖をとろうとする蠅を見るのが
日課のようになっていました。
しかし、ある日郵便局に出かけた帰りに宿へ戻りたくなくなり、数日帰らずにいたら
蠅たちは人気の無い部屋の寒さで死んでしまっていました。

起承転結がある話はほとんどなくて、気に入った風景、ふと目についた花、
散歩の途中で見かけた少女、空の色…などなどからおこった感情を書き留めています。
でも、そこは作家ですから、とても綺麗に詩的に書かれていますけどね。

数篇猫のことを書いてある短い話があり、そこにはちょっとしたユーモアが感じられます。

私は完全に間違ったブログの使い方をしていますが
本来ブログとは日記みたいに日々のことを書くものですよね?

もしもこの短篇集の作品に写真やスケッチなどが添えられていたら
ずばり “ 文学的ブログ ” と言えますでしょう。

ただ、著者が抱く感情というのが、能天気な私には合わなかったみたいです。

窓の外の花の香りで季節を感じたり、気持のいい道を見つけてご満悦になったりして
感動しているうちは良いのだが、そこからあれよあれよという間に暗くなっていくのよね

そして行きつく先は “ 死 ” です。
なんでも、いろいろなかたちで、とにかく死に結びついちゃう…
けれども、登場人物=著者が、果たして死を恐れているのか、死に憧れているのか、
読みの浅い私にはよくわかりませんでした。

梶井基次郎という方は、頽廃と暴力が同居していたような方らしく
けっこう乱暴と放蕩をされていたようです。
寡黙そうで人生に疲れたような作風はポーズなのか? 心の叫びなのか? も
いま一つわかりません。

何度か読み直してみなければ理解できないと思います。
しかし、そこまでするほどの思い入れは無い… というのが正直な感想です。
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スウェーデン王グスタフ5世妃 ヴィクトリア

2011-10-12 23:31:03 | スウェーデン王妃
寒さに弱い北国の王妃
グスタフ5世妃 ヴィクトリア・アヴ・バーデン


1862~1930/在位 1907~1930

日本にもいらっしゃったことがあるというグスタフ5世は
各国で王公家廃止論の嵐が吹き荒れる中、とても国民に人気がある王でした。
果たしてヴィクトリアはその国王に相応しい王妃だったのでしょうか?

ヴィクトリアはバーデン大公フリードリヒ1世の公女です。
グスタフ4世とフレデリカ・アヴ・バーデンの曾孫にあたります。

         
小さな頃から結婚の約束ができていたのか、グスタフと一緒に育てられました。
だけど、1881年に結婚した二人の仲はあまり上手くいかなかったようです。

ヴィクトリアは健康状態がとても悪かったんですね。
気管支炎か結核を患っていたと言われていますが
虐待や子供時代にドイツで受けた厳しすぎる教育の後遺症、などの説もあります。

それで度々療養の旅に出ていたのですが
1892年に主治医になったアクセル・ムンセがとんでもないことを~!
ムンセはヴィクトリアに「冬の間イタリアで過ごしなさい」と薦めました。

そこで1901年、ヴィクトリアはカプリへ出かけます。
大歓迎とスウェーデンにはない暖かな気候が気に入ってしまったヴィクトリアは
(第一次世界大戦中を除いて)毎年数ヶ月をカプリで過ごすようになりました。
しまいにゃあ城まで購入する始末…
眺望良好な田舎風の城で、Casa Caprile といいまして、今ではホテルになっております。

で、カプリにはもちろん主治医のムンセも同行してました。
ヴィクトリアは毎朝ムンセの宿泊先を訪れて島を散歩したり
二人でミニコンサートを開いたりしておりました。
また、二人して動物大好き!というわけで、ムンセが鳥の楽園バルバロッサ山を
購入する時には、積極的にサポートしてあげました。

スウェーデンではグスタフ5世が、請願デモを行った農民の前で演説したり
王権復活を阻む政府のデモに対抗して学生デモを支援したり
第一次大戦を前に、ノルウェーやデンマークと中立を貫こうとネゴってみたり
第二次大戦を前にヒトラーに手紙を書いて評判を落としたり…と
なんだか大変な毎日を送っているというのに… のんきですな
二人が恋人だったかどうかは、今のところ謎でございます。

ヴィクトリアは夫グスタフが中立を堅持しようと奮闘する中
第一次大戦中も親ドイツの姿勢をとっていまして、人気を落としていました。

1930年、例によってカプリにいたヴィクトリアは、健康状態が悪化しました。
ムンセはスウェーデンに帰国することを薦めましたが
ローマの別宅に移り、そこで亡くなりました。
1928年にグスタフ5世の70歳のバースデーに出たきり、スウェーデンには帰っておりません。
寒いからって、王妃が南国へ逃げ出してどうする? 王家存続も危うい時に…

なんだか悪いことばっかり書いちゃったけど、ものすご~く女性らしい人で
そこは賞讃されていたらしいです。

それから、芸術面に関しては、歴代のスウェーデン王妃の中で
最も才能があったのではないかと言われています。
写真家、画家としての評価は高く、ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は
楽譜無しで、完璧にピアノで弾けたらしいです。

ヴェルサイユ時代のフランスや、ハプスブルク帝国全盛期みたいな王家に嫁いでいたら
きっともてはやされて、宮廷で人気者の王妃になったことでしょう。
登場するのが200年ぐらい遅かったかもね…

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王オスカル2世妃 ソフィア

2011-10-07 23:13:56 | スウェーデン王妃
新しいスウェーデン王妃像へ一歩踏み出した王妃
オスカル2世妃 ソフィア・アヴ・ナッソウ


1836~1913/在位 (スウェーデン王妃)1872~1907 (ノルウェー王妃)1836~1905

(すったもんだの末)ノーベル賞を発足した君主として名を遺すオスカル2世は
プロイセン好きで国内外から批判され、ノルウェーにも悲願の独立を果たされて
良いところ無し… のようですが、スウェーデン国民には人気があったようです。
オスカル2世がどうのというより、社会の構図が目まぐるしく変化していた時代ですものね。

そんなオスカル2世の妃はナッソウ公ヴィルヘルム公女ソフィアです。
義兄カール15世妃の妃ロヴィーナは遠い親戚にあたるのかしらね?

      
オスカルとソフィアはお互い自ら相手のとの結婚を承諾して結婚したそうです。
当時の王家の結婚にしては、親や議会任せでないところが珍しいですね。

1857年に結婚した時、王太子だったカールと王太子妃ロヴィーナには
まだ嫡子が生まれていなくて、オスカル夫婦に期待がかかりました。

二人の結婚生活はとても幸せなものだったと考えられています。
ソフィアは義兄カールの浮ついた雰囲気とフランス趣味とカトリックの風潮が嫌いでした。
教養があって思慮深く、高貴で穏やか、と王妃になるにはもってこいの性格に思えますが
宮廷の中心になる王妃になるには退屈な女性と考えられていました。
オスカル夫妻は、王太子になるまではArvfurstens宮殿で静かに暮らしていました。

オスカル2世も兄カール15世同様ちょこちょこ浮気をしたみたいですが
ソフィアは浮気をかぎつけると田舎の領地にこもって抗議したそうです。
オスカルは謝りに行ったんでしょうね… 可愛いね

王妃になってからはリベラルで民主主義的な考えを持つようになりまして
対照的な考えを持つ息子グスタフ(5世)の妃ヴィクトリアとは全く気が合いませんでした。

ソフィアは王子たちをパブリックスクールに入れています。
これには夫のオスカルもビックリ!
また、次男オスカルが長男グスタフの妃ヴィクトリアの侍女エヴァ・ムンクと
結婚したいと言った時も、四男ユーハンがパリで芸術を学びたがった時も後押ししました。

ソフィアは表立って政治に参加をしていませんが
そこはかとなくオスカル2世に影響力を持っていたようです。
王太子グスタフ(5世)は、ノルウェーに無条件独立をさせるよう
ずっと父王を説得していましたが、ソフィアの後ろ盾があったのかもね。

信心深く慈善心に富んでいたソフィアは、ヘルスケアと薬に興味を持ち
ナイチンゲールの影響を受けて、スウェーデン初の看護学校も設立しました。

ソフィアは、薬などの高い知識を持つ看護婦を育て
看護の仕事が ” 聖なる勤め ” と見なされて、医者からも尊敬されるようになり
上流家庭からも看護婦を目指す女性が出てくることを望んでいました。
ソフィアの頑張りの甲斐あって、看護学校には貴族出身の娘さんもいたそうです。
なんでも庶民の娘さんと同じく床磨きまでやらされたそうで… 卒業までもったんでしょうか?

1887年頃から健康が衰えたソフィアは、卵巣の手術をして一応成功したのですが
歩行が困難になって車いすを使うようになり、頻繁に温泉療養に出かけました。
それでも積極的に重要な事業には参加し、乗馬も!こなしていました。

1913年に77歳で亡くなりました。
孫の一人が “ 古い時代はおばあさまとともに葬られた ” と記しています。

でも、けっこう時代を見据えた王妃様だったんじゃないかしら?
ソフィア自身はヴィクトリア女王的な生活を営んでいましたが
新しい流れも掴んでいたようです、というか
世の移り変りを冷静に受け止めていたんじゃないですかね?
なかなか受け容れようとしなかった(主にブルボン家あたり)の王侯妃が多かった時代
たとえ歩幅は小さくても、新しい一歩を踏み出した勇敢な王妃だったと思います。

               
               晩年のソフィア妃、信頼できそうな方ですね

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王カール15世妃 ロヴィーナ

2011-10-01 20:58:11 | スウェーデン王妃
夫に振り向いてもらいたいのに・・・
カール15世妃 ロヴィーナ・アヴ・ネーデルナ


1828~1871/在位 (スウェーデン・ノルウェー王妃)1859~1871

カール15世は国民には人気があった王でした。
しかし、汎スカンジナヴィア主義は立ち行かず、議会は王に反対するようになり
王権の力が徐々に衰退するのを止めることはできませんでした。

ヨゼフィナは “ ナポレオーネ ” というミドルネームを取り去って嫁いだというほど
ナポレオン嫌いがスウェーデン宮廷に蔓延していたというのに
なぜかナポレオンが好きだったらしくポーズを真似ていたというカール15世の妃は
オランダ王ウィレム1世王子フレデリックの王女ロヴィーナです。
           
ロヴィーナはベルナドッテ家に継承者と莫大な持参金をもたらすために選ばれた相手でしたが
実際はたいした持参金無く、22歳の時にスウェーデンに嫁ぎました。

だから…というわけでもないでしょうが、カールはロヴィーナに興味を示さず
すぐに浮気にはしりました。
反対にロヴィーナがすぐにカールを好きになってしまったことは悲劇ですよね。

カールが父王オスカル1世の病に伴い摂政に就くと
ロヴィーザは “ 才能溢れ、心地よさをもたらし、カールによい影響を与える女性 ” と
賞讃されました。
でもカールにはロヴィーナの良さがわからなかったみたい…

カールはロヴィーナの侍女だったヨゼフィナ・シュパラーを愛妾にします。
ヨゼフィナは横柄な女性だったようで、宮廷内でもカールにべったりはりつき
まるでカールの妃みたいに振る舞いました。
内気なロヴィーナは何もできず、王太子妃と侍女が逆転したみたいになっていたそうです。
カールは浮気性だったみたいで、他にも女優やジャーナリストなどと浮気を繰り返します。

1859年に夫がカール15世として即位します。
前王妃ヨゼフィナが宗教上できなかったノルウェーでも戴冠したロヴィーナは
一瞬人気者になりましたが、なにしろ引っ込み思案で大人しくて無口…
カール15世とは正反対の性格で、どうにもこうにも華がなかったのね。

ロヴィーナはなんとか夫に気に入られようとしていました。
義母ヨゼフィナの発言力をカールが嫌っていると知って寡黙な女性に徹したようですが
カールは振り向いてくれませんでした。

ロヴィーナは結婚後1年目に王女で後のデンマーク王フレデリク8世妃ルイーセを生み
翌年に王子カール・オスカルを生んだのですが、この出産で不妊になってしまっていました。
ロヴィーナは離婚を考えたみたいですが、カールは離婚しませんでした。
カールはこの件をいつまでも恩に着せていたみたいです。

放ったらかしにされたロヴィーナは寂しさのあまり体調を崩しました。
さらに追い打ちをかけるようにカール・オスカルが2歳で亡くなってしまいます。

ある日、ピクニックに出かけたロヴィーナはひきつけをおこしました。
癲癇らしいのですが「夫に無視されてヒステリーをおこしたのだ」と言われました。
ひきつけはしばしばおこるようになります。

その後は病気を理由に式典を欠席しがちになりましたが
独りで式典に出るのが嫌いなカールは、時々無理矢理ロヴィーナを連れて行きました。
あまりの顔色の悪さに出席者がビックリしたこともあったそうです。
妻として扱っていないくせに、自分に必要な時だけ妻の役目を果たさせようなんて…
勝手ですよね! 普段から妻として敬い、優しくしろっつーの!

ロヴィーナは宮廷に出ず静かな暮らしを好んで送っていましたが
ファッションには凝っていて、ものすごく優美なドレスを身につけていました。
誰も見ていないところでオシャレ… 想像するとなんか哀しい

1870年から病に罹っていたカールを看病していたロヴィーナは
1871年の3月、散歩中に肺炎にかかり亡くなりました。
夫カールも生存中だった義母ヨゼフィナも病気で葬儀には参列しませんでした。
這ってでも出ないかっ! カール!! って言いたいわ

ちなみに、カール15世は翌年の9月に亡くなりました。
妻のお葬式ぐらい、無理すれば出られたんじゃないかしらね… なんて勘ぐってみました。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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