まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

トスカーナ大公レオポルド2世妃 マリーア・アントニア

2010-07-06 23:05:58 | イタリア王・公妃
最後のトスカーナ大公妃
レオポルド2世妃 マリーア・アントニア
              ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ


1814~1898/在位 1833~1859

マリーア・アントニアは両シチリア王フランチェスコ1世の王女です。
18歳の時、17歳年上の従兄レオポルドと結婚することになりました。

        

レオポルド2世と前妃マリーア・アンナには女の子しかいなかったのですが
マリーアは待望の男の子を生みました。

しかし喜びも束の間です。
イタリアは当時独立及び統一運動まっただ中でした。
オーストリアに対してピエモンテが反旗を翻した時、レオポルドは中立を宣言して
すっかり市民から軽蔑され、軍隊も命令を聞かなくなりました。

1859年4月、怒り狂った暴徒と反乱軍が宮殿前に押し寄せてきました。
大公家はボローニャに避難し、レオポルドは大公の座を息子に渡すことになりました。

その後はよく分りませんけど、レオポルドは1870年にローマで亡くなり
マリーアは1898年にオーストリアのグムンデンで亡くなっています。

結局大公位を譲られたフェルディナンド4世は1年で廃位されてしまいました。

1856年にザクセン王ヨハンの王女アンナ・ディ・サッソニアと結婚しましたが
アンナはフェルディナンドが大公になる前に亡くなりました。

廃位後の1868年にパルマ候カルロ3世の公女アリーチェと再婚しました。
結局妻はふたりとも大公妃にはなっていません。

      
       アンナ・ディ・サッソニア       アリーチェ・ディ・ボルボーネ=パルマ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公フェルディナンド3世妃 マリーア・フェルディナンダ

2010-07-06 23:04:56 | イタリア王・公妃
付き添って行ったら…良くあるパターンか?
フェルディナンド3世妃 マリーア・フェルディナンダ・ディ・サッソニア


1796~1865/在位 1821~1824

前妃マリーア・ルイーザの死から20年もたって
フェルディナンド3世が再婚しようとした相手は
なんと、 息子の嫁の姉ちゃんだっていうじゃない!

マリーア・フェルディナンダはザクセン公子マクシミリアンの公女でした。
妹のマリーア・アンナとはたいそう仲が良かったそうです。

        

1817年、トスカーナ大公子レオポルドと結婚することになったマリーア・アンナは
「お姉様もついて来て~ 」とせがみました。
で、ついてったお姉様に目をとめたのが花婿さんの父フェルディナンド3世です。

しかしっす、マリーアは21歳、フェルディナンド48歳ですよ。
「好きだ!」と言われても困りますよね。
断って妹の舅を怒らせたくもないし…弱りますね。

フェルディナンドの言い訳としては、息子レオポルドが病弱なので
他にも後継ぎを生んでおかねば…ということらしい。

求婚は難航したのか、4年後にマリーアはフェルディナンドと結婚しました。
どうですよ? 妹が義理の娘ですよ…ややこしいですね。
でも結局子どもは生まれず、3年後にフェルディナンドが亡くなりました。

未亡人になった時には28歳だからまだまだチャンスはあったと思うが
41年間再婚せずにウィーンやドレスデンに兄弟姉妹を訪ねたりして過ごしました。
1865年に亡くなりました。

もともと結婚願望があまり無かった人なのかしらね?
再び旦那に苦労させられるよりは気楽な独り身を選ぶ気持ち…分らなくもない



             
根っからの箱入り娘
レオポルド2世妃 マリーア・アンナ・カロリーナ・ディ・サッソニア


1799~1832/在位 1824~1832

そんなわけで妹のマリーア・アンナです。

ものすごく神経質な少女で、見たこともない夫に会うのが恐ろしいと
「マリーア・フェルディナンダが一緒じゃなきゃ私も行かない!」とゴネまして
お姉様について来てもらうことになりました。

結婚後は趣味の人となって、古典絵画や詩を好み自らも書いています。
内向的なのかと思いきや、ものすごく高価な馬を購入したらしい…
もちろん乗るためでしょうね?

政治的なことは何もしなかったかというとそうでもなく、レオポルドとともに
フィレンツェ初の女子寄宿学校を設立しました。

1832年、療養先のピサで結核のため亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公フェルディナンド3世妃 マリーア・ルイーザ

2010-07-05 22:26:11 | イタリア王・公妃
三代目ハプスブルク家のトスカーナ大公妃
フェルディナンド3世妃 マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=ナポリ


1773~1802/在位 1790~1801

最後のメディチ家君主ジャン・ガストーネ亡き後は
大公の地位はパルマ公ドン・カルロスに与えられるるはずだったのですが
女帝マリア・テレジアと結婚し、ロートリンゲン公の座を明け渡した
フランツ・シュテファンが継ぐことになりました。

その後はレオポルト2世(大公妃はマリア・ルドヴィカ)が継ぎ
レオポルトが神聖ローマ皇帝に即位する際に息子フェルディナンドに引き継ぎました。

      

トスカーナ大公になったばかりのフェルディナンド3世と結婚したルイーザは
シチリア王フェルディナンド1世とオーストリア大公女マリア・カロリーナの王女で
フェルディナンド3世のいとこにあたります。

       

トスカーナは1801年にナポレオンに侵攻され王族は追放されました。
その後はブルボン家がエルトリア王国をつくって王についたり
ナポレオンの妹が大公になったりします。

追放中、フェルディナンド一家はウィーンで暮らしていましたが
兄レオポルト2世からザルツブルクを与えられ、大公として移り住みました。

ルイーザはその翌年、6人目の出産で亡くなっています。
夫婦仲のエピソードは無いんですけれど
その後20年フェルディナンドが再婚しなかったところをみると仲が良かったのかしら?

ルイーザの死から12年、フェルディナンドはウィーン会議によって称号を取り戻し
トスカーナへ帰りました。

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公ジャン・ガストーネ妃 アンナ・マリーア

2010-07-05 00:29:55 | イタリア王・公妃
筋金入りのフィレンツェ嫌い
ジャン・ガストーネ妃 アンナ・マリーア・フランチェスカ
               ディ・サッソニア・ローエンブルグ


1672~1741/在位 1723~1737

この方がここまで頑なじゃなければ、メディチ家はもう少し続いていたかもよ…
という女性でございます。

お父様はゼクセン=ローエンブルク公子ユリウス・フランツです。
18歳の時にフィリップ・ヴィルヘルム・フォン・プファルツと結婚しましたが
3年後に死別ました。

        

結婚の前の年、アンナ・マリーアの父は娘だけを遺して亡くなっていました。
すったもんだの末アンナがアスカン家を継いだのですが
この継承には各国がクレームをつけていました。

コジモ3世はアンナの富とザクセン公位が手に入るかもしれん!と
未亡人になっていたアンナと次男ジャン・ガストーネの縁談を考えます。
前夫の死から4年後、アンナはジャンと再婚しました。

コジモには長男フェルディナンドがいましたので
ジャンとアンナは結婚後ライヒシュタットに住んでいました。

アンナは「ビックリするほど、ものすごく、デブ」と言われていたらしいんですが
アルコール依存で男色家の夫を完全に尻に敷いていたそうです。

しばらくするとジャンはフィレンツェへ帰ろうと考えます。
しかしアンナは、メディチ家は妻を平気で殺すと信じていて
絶対に首を縦にふりませんでした。

ジャンは教皇クレメント11世を通じて妻の役目を果たすように説得してもらいましたが
アンナは「あの人は100%不能なんだから(夫じゃないわ)」と言ったそうな…

1708年、ジャンはアンナを連れずにフィレンツェへ戻りました。
しかしお気に入りの(男性)ジュリアーノ・ダーミは連れて帰りましたとさ。
結局その後ジャンとアンナは会っていません。

1713年、兄の死によってジャンが大公子になっても
1723年に大公になっても、アンナはボヘミアから離れませんでした。

でも、ジャンはアンナがいないおかげでけっこうエンジョイできたみたい、
逆にアンナはひとりで寂しい生活を送っていたようです。
意地をはらずにフィレンツェに行けば良かったものを…

てなわけで、ふたりの間にお子様は生まれませんで
メディチ家はジャンの姉アンナ・マリーアを残すのみになりました。

             
                こちらが最後の公女
                  アンナ・マリーア・デ・メディチ


当初はパルマ公ドン・カルロが継承することになっていたトスカーナ大公国は
いろいろあってハプスブルク家に継承されることになります…つづく

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公コジモ3世妃 マルゲリータ

2010-07-04 01:13:30 | イタリア王・公妃
もっと有名でいいんじゃない? 悪妻として・・・
コジモ3世妃 マルゲリータ・ルイーザ・ドルレアンス


1645~1721/在位 1670~1721

わたくし、この方は初めて知りましたが、けっこうすごいぞ!
何がすごいって、あのルイ14世までをもタジタジさせる My Way ぶり…
すべてを書くと長~くなるのでかいつまんでお伝えしますね。

マルゲリータはルイ14世の叔父にあたるオルレアン公ガストンの公女でした。
宮廷育ちを絵に描いたような、わがままで傲慢な少女だったみたいです。

最初にサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ2世との縁談が持ち上がりましたが破談になり
コジモとの結婚が決まりました。
しかし、結婚前は従兄弟のシャルル・ド・ロレーヌの恋人だったらしいです。

        
1661年にフィレンツェで挙げられたコジモとマルガリータの式は一大スペクタクルで
義父フェルディナンド2世は彼女に鳩のタマゴ大の真珠を贈ったそうです。

けれどもそんなお祝いムードはよそに、新婚のふたりはお互いに無関心、
プロシア王フリードリヒ1世妃ゾフィア・シャルロッテの母にあたる
プファルツ選帝候妃ゾフィアによれば、最初の1週間しか寝室を共にしなかったそうです。
コジモが寝室に入って来ると「頭をブチ割るよ!」とビンを振り上げたんだって!

コジモは信心深く内気な方だったようですが、女嫌いで、もしかして男性の方が?
という方でございました。
しかし子どもは3人生まれていますがね…

マルゲリータの夫への嫌悪は、恋しいシャルルへの想いと相まって憎しみに変わりました。
しかも、シャルルったらフィレンツェを訪れたりしちゃうもんだから…
想いは募るばかりでございます。

とうとうルイ14世に「フランスに帰りたい」と泣きつきました。
ルイは聞き入れませんでした。
すると彼女は、コジモに恥をかかせようと仕組んだり、神聖ローマ皇帝の前で
ダメな夫だとアピールしたりします。
「毒を入れられる」と言って自分専用のフランス人コックも雇いました。
「城を出る!」といって駄々もこね、一時軟禁されました。

1670年、コジモが大公に即位しました。
すると今度は相談役になった母后ヴィットリアとの争いが勃発しました。
これは完全に母方についたコジモのせいで敗北します。

国事からも息子の教育からも外されたマルゲリータは、ルイ14世に手紙を書き
自分は癌だからフランスで治療したいと訴えました。
でもね、ルイが送り込んだお医者様は、彼女に熱いお湯を処方したそうです

マルゲリータはコックをベッドに誘ったり、別荘に行って2年間戻らなかったりと
コジモに「あんたなんか大嫌い!」の気持ちをアピールします。

ルイ14世はなんとかふたりの仲を修復しようとしましたが失敗、
1675年、マルゲリータは晴れてフランスに帰国することになりました。

              
                清楚に見えるんだけどね…

フランスに帰るとしばらくはチャリティーに精を出し、慈善団体に関わっていたのですが
すぐ飽きちゃったらしく放蕩生活に逆戻り…真っ赤なルージュとド派手なブロンドの鬘で
次から次へと相手の男性を変えていきました。

コジモは “ うちの妻が申し訳ない ” とルイ14世に釈明の手紙を出しています。
ルイ14世はおおいにコジモに同情したそうです。

その後もお金に困ってコジモや息子に泣きついたり
「修道院を焼き払ってやる」と言い放ったりして好き放題に生きていたマルゲリータですが
とうとうルイ14世の手にも余ったか、サン・マンデの修道院に入ることになりました。
ルイは心配だったのか従者を自ら選んで従わせています。

修道院でシュンとするかと思いきや、不摂生は相変わらずでした。
男性がいない寂しさをぶつけようと修道院のリフォームに着手、修道院長は蚊帳の外…

1712年、マルゲリータは卒中に襲われ健康が衰えるとパリへ帰ることが許されました。
その後は大人しくしてたのかしらね? 9年後に亡くなりました。

ひどい嫁に思えますが、コジモ3世も偏屈で狂信的であまり人気がない人だったみたい。
経済は悪化し市民には重い税金がかけられ、公国で初めて反ユダヤ政策がとられました。
うーむ、どちらにも味方できない困った夫婦ですな…

コジモ3世もパトロン・コレクターとして美術に熱を注いでいましたが
壮麗なものより繊細な方がお好みだったそうで

 
    カルロ・ドルチ 

などを好みました。

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公フェルディナンド2世妃 ヴィットリア

2010-07-02 23:23:10 | イタリア王・公妃
華麗なる女相続人
フェルディナンド2世妃 ヴィットリア・デッラ・ローヴェレ


1622~1694/在位 1633~1670

ヴィットリアの父はウルビーノ公子フェデリーコ、母はコジモ2世の姉クラウディアで
フェルディナンドとはいとこ同士になります。

フェデリーコはヴィットリアひとりを残して早世したため
彼女が後を継ぐことになるわけですが、公領は教皇ウルバヌス8世に没収されました。

       

ヴィットリアは1歳の時にフェルディナンドと婚約していて、12歳の時に結婚しました。
フェルディナンドは12歳年上です。

ヴィットリアはとても敬虔な教育を受けた女性でした。
そこで生まれた子どもには厳格なカトリック教育を受けさせたいと考えていました。
しかし、フェルディナンド2世はもっと現代的な教育を受けさせたいと思っていました。

フェルディナント2世は、人が良い物腰柔らかな人だったそうです。
偉そうで口うるさいとされるヴィットリアとは喧嘩が絶えなかったようですが
かなりの確立で言い負かされたんじゃないかとみるね!

それでなくても幼い頃に強気な母マリア・マッダレーナと祖母クリスティーナに挟まれ
政治を牛耳られてきたフェルディナンドは、強い女はコリゴリと思っていただろうに
妻まで強い女だったとは…

フェルディナンドは同性に安らぎを求めたのか美少年趣味があったようで
ヴィットリアはハンサムな騎士見習いと夫がベッドにいるところを見つけたりしてます。
女とベッド、美少年とベッド…もし目撃してしまったら、どっちがショックだろう?
そういえば肖像画がちょっとフレディ・マーキュリーに似てるのよねぇ…

喧嘩、仲直りを繰り返した挙げ句ふたりは別居生活に入りました。

1670年、フェルディナンド2世が亡くなり息子のコジモ3世が後を継ぎました。
ヴィットリアは息子に強い影響力を持っていて、コジモ妃マルゲリータ
激しく張り合いました…どこかで聞いたような話しね。

コジモ3世は断固母親の味方につき、相談役としてなにもかもお伺いをたてました。
嫁形無し…  姑にとってこれほど嬉しいことがあるでしょうか?

結局マルゲリータは出て行っちゃったので、孫たちの面倒も引き受けることになりました。
なぜ出て行ったかは次回のお楽しみで…

モンタルヴェの修道院とポッジョ宮殿を行ったり来たりする日々を過ごし
ピサで1694年に亡くなりました。

ヴィットリアは、父の領土は取り上げられてしまいましたが膨大な美術品が手元に残り
持参金としてメディチ家のコレクションに加えられました。

政治より美術に力を注いだと言われるフェルディナンド2世は
宮殿などの改装に

    
     フランチェスコ・フリーニ              オッタヴィオ・ヴァンニーニ

 
 ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ  ピエトロ・ダ・コルトーナ        チーロ・フェッリ

などの画家を起用しました。
ヴァンニーニが描いているのは、ロレンツォ・イル・マニフィコの偉業を讃える
ピッティ宮殿・アルジェントの間の壁画の一部です。

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公コジモ2世妃 マリア・マッダレーナ

2010-07-01 02:47:25 | イタリア王・公妃
姑と瓜二つの嫁…うまくいくのか
コジモ2世妃 マリア・マッダレーナ・ダウストリア


1589~1631/在位 1609~1621

マリア・マッダレーナの父は、神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の息子の
オーストリア大公カール2世です。

フランス寄り政策をとっていたファルディナンド1世は
スペインの遺恨を緩和するために息子の妃をハプスブルク家から迎えることになりました。

          

マリアとコジモは、コジモが大公になる前年の1608年に結婚しました。
ふたりはこの結婚に満足していて仲は良かったようです。

コジモ2世は教養は高い人物でしたが病弱で、政治にはあまり関心がなく
もっぱら科学に興味を注いでいました。
コジモの援助を受けた中で最も有名なのはガリレオ・ガリレイ。
おかげで宇宙に関する多数の新事実が生まれることになりましたね。

しかしコジモは幸せ一杯でも、その影では嫁姑の争いが進行中でした
マリアと義母クリスティーナは共にカッとしやすい性格で相性最悪~
それにお互いが政治に口をはさんでましたので争いは日常茶飯事だったことでしょう。
温厚だったとされるコジモがその争いをおさめられたかどうかは謎です。

1621年にコジモが31歳の若さで亡くなってしまいました。
息子フェルディナンドが10歳で大公となったため、マリアは摂政に就きました。
ところが悔しいことに義母クリスティーナまで摂政に就いたではありませんか!!

ふたりの不仲のおかげで、フィレンツェ経済は停滞したと言われています。
コジモの親政とともに摂政の座を降り、夫の死から10年後に亡くなりました。
憎たらしいクリスティーナを残して逝くのは、さぞかし悔しいことだったでしょう…

コジモ2世は科学とともに芸術にも力を注いでいました。
礼拝堂や別荘の修復にはお気に入りの画家や土地の画家を起用しています。

   
        アゴスティーノ・タッシ           ルドヴィゴ・チーゴリ

また、海外からも画家を宮廷に招きました。

    
 フランドルのユストゥス・スステルマンス       フランスのジャック・カロ

スステルマンスの絵はガリレオ・ガリレイの肖像です。

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)


私を5年ぶりに、再び韓流の世界に連れ戻してくれたパク・ヨンハさんの
突然の死のニュースに驚いています。
秋のドラマも楽しみにしていたのですが…残念です。
ご冥福をお祈りします。
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トスカーナ大公フェルディナンド1世妃 クリスティーナ

2010-06-30 02:00:25 | イタリア王・公妃
フランスとも仲良くせねば・・・
フェルディナンド1世妃 クリスティーナ・ディ・ロレーナ


1565~1637/在位 1587~1609

フェルディナンド1世は、兄フランチェスコ1世の後を継いで大公になりました。
フランチェスコは妃ビアンカ・カペッロと別荘で急死したため
フェルディナンドが疑われることになりましたが、国にとっては良かったかも…

フェルディナンド1世は兄とは違って政治・経済・外交手腕に勝れた名君で
公国に最後の繁栄をもたらした人でした。

そんなフェルディナンド1世の妃は、ロレーヌ公シャルル3世と
カトリーヌ・ド・メディシスの娘クロード・ド・ヴァロアの公女でした。

      

フェルディナンドはスペインの影響下から政治的独立を勝ち取るために
有利にはたらく結婚相手を捜していました。

そこでフランスの王族であったクリスティーナが選ばれることになりました。
この縁談は難航したようですが、トスカーナがフランスの影響下に入ると考えた
カトリーヌ・ド・メディシスが影響力を遺憾なく発揮してまとめあげました。

ふたりの結婚式は、フィレンツェ史上空前のスケールで行われたそうです。
舞踏会や祝宴、音楽会が、宮廷のみならず街中で繰り広げられました。
街も絢爛に飾られました。
700万ドルぐらいかかったそうですよっ

フェルディナンドはフランスとの関係強化のため、姪のマリーア
フランス王アンリ4世の後妻として嫁がせました。

スペイン(ハプスブルク家)が黙っていなさそうよね…
そこでスペインのお怒りを和らげるため、長男コジモの妃はハプスブルク家から迎えました。

この方、エピソードはあまりないんですけど、夫フェルディナンドが亡くなると
後を継いだコジモ2世が病弱だったため国政に手腕をふるい始めました。
ところがコジモ妃マリア・マッダレーナも政治に口をはさむタイプで
姑 vs 嫁の争いは孫の代まで続くことになります。

国を巻き込む嫁姑戦争…国民にとっては不幸なことよ

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公フランチェスコ1世妃 ビアンカ

2010-06-26 21:00:57 | イタリア王・公妃
怪しい噂まみれの美女
フランチェスコ1世妃 ビアンカ・カペッロ


1548~1587/在位 1578~1587

ビアンカの生家カペッロ家は、ヴェネチアでも有数の裕福かつ高貴な家柄でした。

         
幼い頃から美しさが評判だったビアンカは、15歳の時にフィレンツェから来ていた
銀行官吏ピエトロ・ブオナヴェンチュリと恋に落ち、フィレンツェへ駆け落ちしました。

しかし、美しい娘は一家の武器ですからねぇ…
カペッロ家はあらゆる手段を使って彼女をヴェネチアに連れ戻そうとします。
ビアンカに救いを求められたコジモ1世の仲介でこの件はなんとかおさまりました。

ところが、ビアンカ大誤算
ピエトロの家は一般家庭、裕福に育ってきたビアンカは今までにやったことのない
卑しい仕事(家事とか給仕だと思われる)までやらなければなりませんでした。
身分違いの恋、素敵なようで恋が冷めればあとは不仲へまっしぐらです。

そんな時、ジョヴァンナ・ダウストリアと結婚したばかりのフランチェスコが
街でビアンカを見初めました。
フランチェスコはプレゼント攻撃をしかけ、夫にうんざりしていたビアンカを誘います。

フランチェスコはビアンカを手に入れた代償に、夫ピエトロに宮廷の仕事を与え
女性の世話までしてあげたわけですが、ピエトロはその後街中で殺害されました。
これは怪しい…と噂になったものの、女絡みの事件ということでかたづきました。

コジモ1世亡き後ビアンカのもとに入り浸っていたフランチェスコは
妃ジョヴァンナが亡くなると2ヶ月後にこっそり彼女と結婚しました。
ジョヴァンナの死(転落死)も怪しくない?ってことで
ふたりが関わっているのでは? と噂されました。

けれどもそんな噂ラブラブなふたりは気にしないさ!
結婚は年があけると正式に発表され、盛大な祝典がおこなわれました。

しかし、メディチ家はこの結婚に大反対、特にフェルディナンド(後の1世)は
ビアンカを徹底的に邪魔者扱いしました。

これじゃあ老後が不安…と考えたビアンカは、自分が生んだアントニオを
後継者に指名させようといろいろ手を打ってみたもののどれも成功しませんでした。

しかし老後の心配はいらなかったのね…
1587年、フランチェスコとビアンカはポッジョ・ア・カイアーノの別荘で
同じ日に亡くなりました。
マラリアってことでした…もちろん毒殺の噂はでましたとも!

              
                 お美しいので載せときます

ビアンカには他にも疑惑があります。
フランチェスコを繋ぎ止めるために他人の子どもを自分が生んだと言ったりしてます。
アントニオだって本当は誰の子だか…
しかしフランチェスコの愛は、疑惑を知っても終生変わらなかったんですと。

どんなふうに繋ぎ止めていたのか知りたいところですわね!

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公フランチェスコ1世妃 ジョヴァンナ

2010-06-24 22:44:31 | イタリア王・公妃
お義父様がいてよかった…
フランチェスコ1世妃 ジョヴァンナ・ダウストリア


1547~1578/在位 1574~1578

父は神聖ローマ皇帝フェルディナント1世、母はアンナ・フォン・ハンガリーです。
父方の祖母がカスティーリャ女王ファナでございます。

      
ジョヴァンナは18歳の時にフランチェスコと結婚しました。

祝典は盛大なものでしたが、ジョヴァンナはフィレンツェに暖かみを感じられず
ホームシックにかかって、その後馴染むことができませんでした。

義父のコジモ1世はとても優しくジョヴァンナに接し
パラッツォ・ヴェッキオを特別に飾り、壁画に故郷の街並を描いてくれたりしましたが
夫フランチェスコは妻を顧みず、宮廷人たちは彼女のオーストリア気質を軽蔑しました。

フランチェスコは陰気で孤独癖があり、化学の実験に没頭して政治を投げ出すという
無責任君主でした。
ジョヴァンナも凡庸で教養に欠けていたと言われ、なんか暗そうな夫婦…

また、ジョヴァンナは次々と子どもを生んだものの女の子ばかりで
早く世継ぎがほしいフランチェスコと喧嘩が絶えませんでした。
娘のひとり、マリーアは後にフランス王アンリ4世妃になりました。

父コジモの再婚には「スキャンダルになる!」と反対しまくっていたフランチェスコは
愛妾ビアンカ・カペッロに夢中になり、自分こそスキャンダルになっていました。
ジョヴァンナは義父コジモ1世に訴えたり、神聖ローマ皇帝に直訴したりして
浮気を止めさせようとしましたが、フランチェスコの不貞はおさまりませんでした。

1574年にコジモ1世が亡くなると、フランチェスコはビアンカに別荘を与えて
公然と入り浸るようになります。
しかもビアンカは男の子を生んでフランチェスコ大喜び!

1577年、ジョヴァンナは待望の男の子フィリッポを生みます。
そして翌年にも妊娠しましたが、デュカル宮殿の階段から落ちてしまいました。
翌日男の子を生みましたがすぐに亡くなり、ジョヴァンナも亡くなりました。

当時メディチ家にはスキャンダラスな死がいくつかあったのですが
フランチェスコはジョヴァンナの死から2ヶ月後にビアンカと再婚したもんだから
当然ジョヴァンナの死も殺害の噂がたちました。

               
                タッチは変わっても寂しげですね

仲が悪いといいながらお子様もたくさん生まれていますのでね…
ビアンカがいなければ喧嘩しながらもなんとかやっていけた夫婦だったんじゃないかしら?
それで老後に「若い頃はこの人もしょうもない人で…」「お前には悪かったね」なんて
しみじみ回想しちゃったりして。

さて、フランチェスコとビアンカの今後は…つづく

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公コジモ1世妃 カミッラ

2010-06-23 02:11:24 | イタリア王・公妃
親子喧嘩の火種
コジモ1世妃 カミッラ・マルテッリ


1545~1634/在位せず

前妃エレオノーラを亡くした後、コジモはエレオノーラ・ディ・アルヴィッツィに溺れ
再婚しようとしますが、息子の大反対にあった末、息子の味方をした侍従アルメーニを
刺してしまって、この話しはなかったことになります。

その後コジモは26歳年下のカミッラに恋をします。
てことは、カミッラはその時19歳ということになります。

カミッラの実家マルテッリ家はフィレンツェ有数の貴族のひとつでした。

        

コジモ1世は、エレオノーラの死から2年後に、息子フランチェスコを摂政にして
ヴィッラ・ディ・カステッロに隠居します。
コジモはそこへカミッラも連れて行きました。

コジモはエレオノーラの死に打撃を受け、健康も衰えていました。
カミッラだって何も好き好んで…ねぇ
卒中で倒れて呂律もまわらず半身麻痺だったらしいし、看病しに行くようなものじゃない。
でも、彼女はわがまま放題で虚栄心が強かったらしく
若い娘の言うことを聞いちゃうじい様(とは言っても50歳前後)は恰好のターゲットですな。

カミッラは1568年にヴィルジニアという娘を生み、コジモは再婚を考えます。

もともとカミッラを嫌っていたコジモの子どもたちは大反対しますが
コジモは気にせず1570年に結婚しました。
しかし、この結婚は貴賤結婚と見なされ、カミッラは称号を授けられませんでした。

子どもたちの不平に答えてコジモは
「私の妻はれっきとしたフィレンツェの淑女だ」と書き送り
「隠居したんだからどんな家柄の女性を選んだっていいじゃないか」と言い放ちました。

1575年にコジモが亡くなると、カミッラはムラテ修道院に入れられ
続いてサンタ・モニカの修道院に移されました。
彼女が修道院を出たのは娘ヴィルジニアの結婚式の時だけです。

1609年、カミッラはフランチェスコの死後、新大公フェルディンナンドに
修道院から出してくれるよう願い出てやっと許可をもらいましたが
その後の再び修道院に入れられ、出て来ることなく1634年に亡くなりました。

どれだけ嫌われていたかは知らんが、30歳で修道院に入って89歳まで出れぬとは…
もしかしたらコジモに頼み込まれて結婚したのかもしれないのに
ひどい仕打ち~

コジモの生前、よっぽど横柄な態度をとっていたとしたらミステイクよね。
老いた権力者に愛された者は、栄華が長く続かないことを肝に銘じておかないと…

さて、コジモももちろんパトロンになっています。
公共の施設や教会の建設などに力を注ぎましたが、絵画では

  
   ジョルジョ・ヴァザーリ     アニョロ・ブロンズィーノ      ヤコポ・ダ・ポントルモ

などの画家がおりました。

コジモは様々な形で数多くの肖像を残しているそうですが、
ブロンズィーノはコジモ1世とエレオノーラ・ディ・トレドの肖像画も発注されております。

  美男美女ですな…

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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トスカーナ大公コジモ1世妃 エレオノーラ

2010-06-22 02:22:26 | イタリア王・公妃
この君主にこの妃あり
コジモ1世妃 エレオノーラ・ディ・トレド


1522~1562/在位 (フィレンツェ公妃)1539~1562 (トスカーナ大公妃)せず

暗殺されたフィレンツェ公アレッサンドロの後を継いだのは
英雄 “ 黒隊長 ” として人気が高かったジョヴァンニの息子コジモでした。

コジモは傾きかけたメディチ家を再興させた名君ですが、長くなるのでおいといて…

妻となったエレオノーラはカスティーリャ王家を先祖に持ち
ハプスブルク家とも繋がりを持つ政治的にも血統的にも申し分ない女性でした。
父親はスペインの大貴族、ナポリ副王ペドロ・デ・トレドで
スペインとも強力な関係を築くことができ、スペイン軍の撤退につながりました。

エレオノーラは、神聖ローマ皇帝カール5世の勧めで、17歳の時コジモと結婚しました。
コジモは20歳、理想的なカップルです。

        

当時メディチ家は後継ぎの問題で存亡の危機にあったのですが
エレオノーラは男の子5人を含む11人の子どもを生み、メディチ家に安泰をもたらしました。

最初は “ スペイン人 ” として人気が薄かったエレオノーラも、次第に影響力を持ちます。
コジモの彼女に寄せる信頼は大変なもので、摂政として完全に国を委任されました。
とうとう彼女を通してでないとコジモに申し立てができなくなったほどです。
コジモにも相当の影響力を持っていたと言われています。

普通こういう妃って、でしゃばりとか言われて反感を招くものですけど、そうでなかったのは
コジモの存在感と、エレオノーラの政治能力が有無を言わさぬものだったのでしょう。

エレオノーラは(スペイン出身ですから)敬虔で、いくつもの教会を設立しました。
農業と商業に興味があり、メディチ家の広大な領土を有効活用して収入を増やしました。

メディチ家に相応しく芸術にも理解があり、著名な画家たちのパトロンにもなっていました。

なんか、言うことない嫁ですな…

ただギャンブルが大好きだったらしい。
それから一つの所にじっとしておられず別荘から別荘へと渡り歩いていたらしい。
病気がちで虫歯も多かったそうです。

コジモはエレオノーラのからだを気遣って、パラッツォ・ピッティを購入し
宮殿を大拡張した上で拠点を移しています。
内装はエレオノーラの好みに合わせたんだって…贈り物のスケールが違うね、と思ったら
宮殿を買ったお金はエレオノーラの持参金なんですと!

小作人たちには寛大でしたが、家来にはけっこう尊大な人だったとも言われています。
スペイン好みで贅沢好きという説もあります。

なんでも常に10人ほどの縫子を引きつれて自分のドレスを縫わせていたそうです。
ドレスって1着に何日ぐらいかかるものなのかしらね?
ミシンもないし、刺繍したり宝石を縫い付けたりしたらすごくかかりそうですね。

1562年、19歳のジョヴァンニと16歳のガルツィアが相次いで亡くなりました。
言い伝えによれば、喧嘩の末ジョヴァンニがガルツィアを殺してしまい
コジモが「誤って自分で剣を刺してしまった」と公表したことになっております。

後々メディチ家は、ふたりはマラリアで亡くなったと主張しました。

エレオノーラは息子たちの死のあと取り乱し、結核を悪化させて
数週間後に亡くなりました。

コジモはかなり性格にムラがある人で、急に癇癪をおこしたり
いきなり気分が変わったりと扱いにくい君主だったようですが
エレオノーラだけには終生愛情を示していたそうで、彼女の死に大打撃を受けました。

いずれにしても、エレオノーラあってこそ、コジモはフィレンツェの再興を
なし得たのかもしれないと思われますよね。
女性の美しさばかりがエピソードになりがちな中世において
名君を支えるどころか左右した頼もしい女性がいたというのは喜ばしいことです。

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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フィレンツェ公アレッサンドロ妃 マルゲリータ

2010-06-20 22:05:47 | イタリア王・公妃
ぜっっったいに気が合わなかったと思ふ・・・
マルゲリータ・ダウストリア


1522~1586/在位 1533~1537

アレッサンドロは、11歳という幼さでフィレンツェの支配者になりましたが
実際は(実の父といわれる)教皇クレメンス7世に牛耳られていました。

クレメンス7世が皇帝と対立してローマが滅茶苦茶にされてしまったことで
フィレンツェでメディチ家批判が高まり一時追放されましたが
皇帝とも和睦し、その皇帝によって共和制も倒され、1531年に帰国しました。
すべてはクレメンス7世のおかげでございます。

そんなアレッサンドロの妃となったマルゲリータは、神聖ローマ皇帝カール5世の庶子で
大おばのマルグリット、叔母のハンガリー王妃マリアに育てられました。
マルグリットとマリアはネーデルラント総督になった女性です。

        

マルゲリータは5歳でアレッサンドロと婚約し、11歳の時に父カール5世に認知されて
フィレンツェに嫁いで来ました。

アレッサンドロは専制君主になりたくて、厳しく市を統治していました。
当時フィレンツェではアレッサンドロを暴君として、カール5世に罷免を訴えていましたが
皇帝はこれを退けアレッサンドロを支持していました。
不人気な君主の方が好都合…と考えたのでしょうか?
カール5世は、パルマまでマルゲリータに同行して祝宴に加わりました。

しかし、アレッサンドロはもともと放蕩者で女関係も派手でした。
結婚後も同族のロレンツィーノと毎夜のように遊び歩き、美しい人妻を紹介するという
彼の誘いにのって出かけて暗殺されてしまいました。 おバカ…
知的と思われるマルゲリータとはたぶん気が合わなかったんじゃないかなぁ。

マルゲリータは翌年、16歳でパルマ公オッタヴィオ・ファルネーゼと再婚しました。
これは、オッタヴィオの祖父教皇パウルス3世が、フィレンツェ公の未亡人との結婚で
ファルネーゼ家に公位をもたらそうと考えたためでした…ダメだったけど。
オッタヴィオは年下で、新婚生活はしっくりいかなかったみたいです。

おばたちの教育が良かったのか、マルゲリータの才覚の高さを認めたスペイン王フェリペ2世は
1559年、彼女をネーデルラント総督に任命しました。
しかし当時オランダではスペインの圧政に不満爆発で、ウィレム1世が自治を目指して奮闘中、
マルゲリータの任務はやさしいものではありませんでした。

1567年、マルゲリータは総督の座をアルバ公に引き継ぎイタリアに戻りました。
18年という長~い別居の後はオッタヴィオの良き妻として過ごしたもようです。

1578年には息子アレッサンドロがネーデルラント総督に就いて、彼女も嬉しがったそうです。
63歳で亡くなりました。

別居までして就いたネーデルラント総督の座はありがたいものだったのかしら?
マルゲリータの政治的失敗に関する記録もありますが
一番やっかいな時に総督になっちゃんたんじゃないでしょうか。
才覚を高く買われるのも善し悪しですな…

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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ヌムール公ジュリアーノ妃 フィリベルタ

2010-06-16 23:44:33 | イタリア王・公妃
           こちらはウルビーノ公ロレンツォ妃マッダレーナでございます

メディチ家、不遇時代の妃
ジュリアーノ妃 フィリベルタ・デ・サヴォイア


1498~1524/在位 1515~1516

ロレンツォを継いだのは、長男ピエロ・イル・ファトゥオ(愚か者)です。
ハンサムだったらしいのですが、まったく政治家に向かなかったらしく
ヴァロア家とハプスブルク家がイタリア争奪戦を繰り広げる激動の中で
1494年、フィレンツェから永久追放されてしまいました。

1498年に結婚した妻アルフォンシーナはオルシーニ家出身です。
それ以上はわからず… ロレンツォ妃クラリーチェとは親戚なんでしょうね?

その後共和制が続いたフィレンツェに1512年、次男ジョヴァンニ(後の教皇レオ10世)と
三男ジュリアーノが帰って来ました。

ジョヴァンニは教皇になってからもジュリアーノを通じてフィレンツェを支配します。
フランス王フランソワ1世の叔母フィリベルタとジュリアーノの縁談は
レオ10世がまとめたものです。
       
1515年に結婚して、ジュリアーノはヌムール公の称号を与えられたものの
翌年亡くなりました。

詳細はわかりませんがフィリベルタも1524年に26歳の若さで亡くなっています。



フランスを牛耳った王妃の母
ロレンツォ2世妃 マッダレーナ・デ・オーベルニュ


1501~1519/在位 1518~1519

心優しく繊細なジュリアーノが亡くなると、愚か者よばわりされたピエロの息子で
享楽好きの暴れん坊、ロレンツォがフィレンツェ支配者の座につきました。

1516年、メディチ公国を夢見る教皇レオ10世の命によりウルビーノ領を攻め落とし
ウルビーノ公の座につきました。

1515年、レオ10世とフランス王フランソワ1世の同盟強化のため
甥ロレンツォとフランソワ1世の血縁マッダレーナの縁談がまとまり
1518年に結婚しました。

ロレンツォは自ら彼女を迎えにフランスに出向いています。
式もとても盛大なものでした。
         
一年ほどして娘のカテリーナが生まれましたが、マッダレーナは亡くなり
その1週間後にロレンツォも(たぶん梅毒で)亡くなりました。

カテリーナは教皇クレメンス7世が後見人になり
後にフランス王アンリ2世の妃になります。

この方、娘カテリーナを生んだ他はほとんどエピソードが無いのよね。
若くして亡くなられてるから仕方がないかもしれないが…

さて、ピエロ&ウルビーノ公ロレンツォ親子は、芸術家肌でなかったらしく
パトロンとしてあまり目立った動きはありません。

逆に、ヌムール公ジュリアーノは、政治の場にいるよりサロンにいる方が好き!
という文芸肌の宮廷人でして、フィレンツェの芸術を支えた方でした。
中でも有名なのは、このおふたり。

  
      ラファエロ               ダ・ヴィンチ

“ モナ・リザ ” にはフィレンツェの有力者フランチェスコ・ジョコンドの夫人や
ミラノ公妃イザベラ・ダラゴーナという説がありますが
ジュリアーノの愛妾コンスタンツァ・ダヴァロスという説もあります。

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)

言い訳
ワールドカップと『天国の階段』鑑賞タイムのおかげで
ブログの草稿書きが滞っている今日この頃です。
次回、フィレンツェ公アレッサンドロ妃はちょいと先になるかも…
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フィレンツェ支配者ロレンツォ妃 クラリーチェ

2010-06-11 22:43:47 | イタリア王・公妃
敬虔さは美徳のはずだったのに・・・
ロレンツォ妃 クラリーチェ・オルシーニ


1453~1487/在位 1469~1487

ロレンツォはイル・マニフィコ(偉大なる)と呼ばれていました。
祖父コジモから受け継いだ政治的な手腕と才能に加えて社交性に富み
傾きかけたメディチ家を盛り返しました。

一方、快楽主義者で軽いイメージもあったそうで、お若い頃は遊び仲間を引きつれ
街中で騒ぎ、女性を侍らせて騒いでおりました。
典型的な社長のバカ息子ですけど、それは敵の目を欺く仮の姿だったのかしらね?

1969年、ロレンツォは母ルクレツィアがローマへの足がかりのために
自ら出向いてまとめた名門オルシーニ家のクラリーチェと結婚しました。

        
なんと! 祝宴は4日間も続きました。
招待客は400人、その上ご近所1500人にも酒やご馳走がふるまわれたそうです。
イタリア料理のご馳走… 食べたい、でも太るやも…

しかし、この結婚はあまり幸福なものではなかったみたいです。

まずはクラリーチェが意外にも不人気だったこと…
当時フィレンツェでは、フィレンツェ内の名家同士が結婚するのが主流で
いきなりローマから来ちゃった彼女はよそ者扱いされたのかしらね?

クラリーチェはとても信心深い女性でした。
他国の王妃なんかでは美徳に数え上げられるものなんですが
フィレンツェでは人文主義真っ盛りで、過度の敬虔さはそぐわないものでした。
しかも病気がちで気難しくてロレンツォとは気が合わず
頻繁に里帰りをしていたそうです。

ロレンツォには愛人ルクレツィア・ドナーティがおりまして
詩人でもある彼は、彼女に愛の詩なんかを捧げていたそうでございます。
嘘でもいいから妻にも捧げてあげればよいのに…

ロレンツォの時代には、パッツィ家陰謀事件やロレンツォ暗殺未遂など
きな臭い出来事がおこっているんですけれど、その中でクラリーチェが
どのように夫を支えていたかはよくわかりません。

お子様は、後の教皇レオ10世をはじめ9人生まれております。
ロレンツォはたいそう子煩悩で、一緒に遊びまわり、教育にも熱心だったようですが
クラリーチェが母親としてどうだったのかも伺い知ることができません。

1487年に結核で亡くなりました。
ロレンツォは5年後に痛風で亡くなっています。
やっぱり食事が豪勢だったのか…

さて、ロレンツォは文学や哲学の才もあったそうで
メディチ家の蔵書を倍増し、大学や学者たちにも手を差し伸べています。
画家では

 
     フィリッピーノ・リッピ           ドメニコ・ギルランダイオ


       ボッティチェリ

などと親しくしていたようです。

祖父コジモや父ピエロとは違い、大規模な壁画の発注はしていませんが
かなりたくさんの絵画を購入してあげたそうです。
大作発注と定期購入…画家にしたらどちらが嬉しいのかわかりませんけど
ボッティチェリとフィリッピーノ・リッピが特にお気に入りでした。

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
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