まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スコットランド王アレグザンダー3世王女 マーガレット

2015-10-28 15:49:40 | スコットランド王妃・王女
         肖像画が無いのでお嬢様のマーガレット・メイド・オブ・ノルウェイを…

悲劇の女王の母
アレグザンダー3世王女マーガレット・オブ・スコットランド
ノルウェー王エーリック2世妃


1261~1283/在位 1281~1283

ウィリアム1世の後を継いだアレグザンダー2世には、庶子では一人、娘さんがいたようですが
王妃ジョアン・オブ・イングランドとマリー・ド・クーシーとの間には
王太子アレグザンダー(3世)以外に子供はいませんでした。

アレグザンダー3世は、スコットランドに一時的に復興をもたらした賢王です。
王妃マーガレット・オブ・イングランドには、王女マーガレットと
王太子アレグザンダーの一男一女が生まれています。
         
マーガレットは20歳の時に、13歳のノルウェー王エーリック2世に嫁ぎました。
これはアレグザンダー3世が、長年に渡るノルウェーとの抗争を終わらせて結んだ
平和条約の一環で、完全に政略結婚でした。

条件には、ノルウェー領だったヘブリディーズ諸島とマン島の、スコットランドへの譲渡
ノルウェーによる、シェトランド諸島及びオークニー諸島の支配の容認などがありましたが
エーリック2世とマーガレットの子供のスコットランド王位継承も含まれていました。

マーガレットは2年後に初めての出産で王女マーガレットを生みましたが
その後しばらくして亡くなりました。

その翌年に王太子アレグザンダーが嫡子の無いまま亡くなり
アレグザンダー3世も二人目の妃ヨランド・オブ・ドウリュウとの間に嫡子無しで
亡くなったため、マーガレットの娘マーガレットが、スコットランド女王として
即位することになりました。

マーガレットも22歳という若さで亡くなってしまいましたが
その娘マーガレットはさらに儚い人生でした。

本当に王様の娘として生まれることが幸せだったのでしょうか?
この母娘のエピソードだけ見ても、お姫様がハッピーな立場ではないような気がしてきます。
魔法をかけられるだけの白雪姫とか眠り姫が幸せ者に思えるよ…

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
昨日は楽しかったですよぉ。 ファンミならではしっとり系Boys Meet Uなんかも聞けちゃって幸せ!
でもって、今日はこれからさいたまスーパーアリーナに行ってまいります。 うふふ 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スコットランド王ウィリアム1世王女 マーガレット

2015-10-26 22:41:25 | スコットランド王妃・王女
            肖像画がないので、中世のスコットランド貴婦人の図を…

完全に戦利品として嫁がされた三姉妹
ウィリアム1世王女 マーガレット・オブ・スコットランド
ケント伯ヒューバート・ドゥ・バラ夫人


1193~1259

マルカム3世王女メアリーから、時代が飛びますよ。

マルカム3世の次に即位したドナルド3世は、母親はだれかわかりませんが
ベソックという王女がいたもようです。
次のダンカン2世とエセルリーダには王子しかいなかったもよう。
エドガーは未婚、アレグザンダー1世は嫡子無しです。
続くデイヴィッド1世には、セシリアとホディエルナ(?)という王女がいましたが未婚。
そしてマルカム4世は未婚。

ふぅぅ、やっとウィリアム1世までやってまいりました。

ウィリアム1世とアーマンガード・オブ・ボーモントには一男三女のお子様がいます。

長女マーガレットは、28歳でケント伯ヒューバート・ドゥ・バラと結婚します。
28歳、当時としては晩婚ですし、相手はすでに4回結婚していました。

      

ウィリアム1世は、まずイングランドのヘンリ-2世と、続いてジョン王と戦っていました。
しかし結局敗れまして、王妃と次女は人質にとられてしまいました。
そして、人質解放の際、ウィリアム1世の3人の王女は、すべてイングランド貴族と
結婚するように!という条件も入っていました。
相手もイングランドから指定されました。
きっと交渉中は結婚できなかったのだと思います。

ケント伯は、当時イングランド宮廷でかなりの権力者だったようですが
マーガレットがどれくらいエラそうに振る舞えたかどうかは不明。
1259年に亡くなりました。



人質だったけど、ジョン王はやさしかったらしい…
ウィリアム1世王女 イザベラ・オブ・スコットランド
ノーフォーク伯ロジャー・ル・バイゴッド夫人


1195~没年不詳

父王ウィリアム1世は、1209年に、王妃アーマンガードと次女イザベラを人質として
イングランドに来させるようにと命じられました。

二人はイングランドに到着すると、自分の領土の権利を主張していた
エリナー・オブ・ブリタニーと共にコルフェ城に投獄されました。

でもジョン王は3人の淑女を酷い目には合わせていなかったみたい…
ローブとか時計とか、スリッパなんかを送っていたらしいです。
また、護衛付きでしたが遠乗りなんかも許されていたそうです。
ジョン王はけっこう評判が悪かったりするのですが、これはかなりポイント高いですね。

釈放されると、イザベラは条件によって14歳年下のノーフォーク伯ロジャー・バイゴッドと
結婚しました。 この結婚は不幸なものだったみたいです。
ロジャーは、王侯貴族お得意の「血族関係だから」を理由にイザベラを拒んだりした様子。
14歳年下かぁ… 二人には子供はいませんでした。

ロジャーは一応結婚を継続していたみたいですが、それは形式的なものだったみたい。
イザベラは1263年にはグローチェスターで暮らしていたんではないかと思われています。
グローチェスターはノーフォークからは離れているのよね。
没年はわかりません。

なお、三女マージョリー(1200~1244)は、同じ条件によって
ペンブローク伯ギルバート・マーシャに、後妻として嫁いでいます。

弟のアレグザンダー2世は、ジョン王の王女ジョアンと結婚しています。

戦争に負けるって、下々の人たちも大変ですが、王侯貴族にとっても辛いことよね。
特に敵方に嫁がされちゃう女性陣にしてみたら、本当にいい迷惑。
やらなきゃいいのにね…

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
明日人生で2回目のファンミに行ってまいります
そんなわけで、『Sing Your Song』を猛勉強中
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スコットランド王マルカム3世王女 メアリー

2015-10-23 22:08:40 | スコットランド王妃・王女
          肖像画が無いので母のマーガレット・オブ・ウェセックス像

まわりマティルダばっかり…
マルカム3世王女 メアリー・オブ・スコットランド
ブーローニュ伯ユースタス3世妃


1082~1116

家系図シリーズは初心にもどって英国方面でいこう! と思います。 というのは少し嘘…
ポーランド王妃編が終了し、どこにしましょう? と迷っていましたが
なんの準備もしていなかったので、一番人数が少ないところを選んでしまいました。

こちらも王妃同様女性陣がなかなか登場しませんので
マルカム3世の王女からからスタートしようと思います。

ちなみに、その前に顔を出す王女は、ケニス3世王女ベレデ(マクベス妃グロッホの母)と
マルカム2世王女ベソックとドナウダです。
ベソックの結婚がダンケルド(アサル)家に王座をもたらします。
          

マルカム3世には六男二女のお子様がいましたが、王子のうち4人が王になってます。
すごく熾烈な王位継承争いがあったと予想されますね。
王女は二人とも、二人目の妃聖マーガレットとの間に生まれています。

長女マティルダ(スコットランド名エディス)は、イングランド王ヘンリー1世妃になります。
次女メアリーが今回の主役。

        

メアリーは4歳の時、信心深い両親によって、姉のエディスと共に
母方の伯母が修道院長をしているロムジーの修道院に入れられました。
11細の時に、教育の仕上げをするためウィルトン修道院に移ります。

エディスとメアリーはものすごく敬虔な少女時代を送っていたため
二人とも修道女になるつもりでした。

しかし、まず姉のエディスがヘンリー1世と結婚します。
エディスは結婚生活が幸せだったのか、メアリーが14歳で修道院を出ると
「あなたも結婚しなさいよぉ」と言ったかどうかは知らないですけど
妹も結婚するよう望みました。

そこで、「よしよし、まかせとけ」と言ったかどうかは知りませんが
ヘンリー1世がブーローニュ伯ユースタスとの結婚をアレンジしました。

どんな夫婦だったのかはわかりませんが、結婚生活は20年におよびました。
だけど、子供は娘のマティルダだけでした。
娘のマティルダはブロワ家のエティエンヌと結婚します。
彼が後にイングランド王スティーブンとして即位するのですが
その際マティルダは、神聖ローマ皇后妃マティルダと熾烈な争いを繰り広げます。

皇后マティルダは、メアリーの姉エディス(ヘンリ-1世妃マティルダ)の娘なので
メアリーの姪にあたります。
二人のマティルダは従姉妹同士で争ったことになりますね。

勝手な想像ですが、エディスとメアリーは一緒に親元を離れて修道院で育ったから
姉妹仲は良かったんじゃないかと思うのよね。
なのに娘たちが権力の座をめぐって、国を巻き込む大喧嘩をするとは…

ただ、エディスとメアリーはその大喧嘩の前に亡くなってますので
娘たちの諍いを見ずにすんでよかったですね。
天国で「困った娘たちだわねぇ、メアリー」「そうね、お姉様」なんて
語り合っていたかもしれないです。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
なんだかKポ界に続々日本人がデビューしてますけど、言葉とか習慣とかの違いも乗り越えて、キツい練習にも耐えて
えらいよねぇ、遊びたい年ごろだろうに… デビューしたからには末永く頑張ってほしいですね
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ボートの三人男』ダルッダルの川上り

2015-10-13 21:04:47 | イギリス・アイルランドの作家
THREE MEN IN A BOAT 
1889年 ジェローム・クラプカ・ジェローム

やーっとポーランド王妃シリーズが終わったので、久々に感想文です。

この『ボートの三人男』は、面白くないわけではないのですが
もしも私がイギリス人、もしくはイギリスで暮らしていたらもっと面白かっただろうし
19世紀に生きていたらさらに面白く読めたはず。

“ ぼく ” という語り手と、ジョージとハリスという友人が、どうも体調が優れないので
休息が必要だという結論に至ります。
そこでいろいろ検討した結果、テムズ川で2週間の休暇を過ごそうということになります。

物語の大筋は、行程や持ち物や食事の計画を立て準備をして、いざ出発。
ボートをこぎながらオクスフォードへ向かい、ロンドンへ戻って来るまで。
以上です。

川岸にある歴史的な土地の名前とエピソードが英国感を煽ります。
当時在位中のヴィクトリア女王のことから、遡ってエリザベス1世やチャールズ1世、
チャールズ2世、ジェイムズ2世のエピソードや、もっともっと遡ってウィリアム1世や
サクソン王にまつわる土地の話しなどもちりばめられていますし
町の名所や見どころも紹介されています。

しかし、これがボートでテムズ川を下ろう(上ろう)としている人々の
良いガイドブックになり得たかというと、そうでもなさそうです。

三人の男性が、皆自分が他の二人より勝っていると思っていることと
できるだけ他の二人より楽をしようとする姿勢が、この旅をおもしろ可笑しくしています。

それから、かなり多くちりばめられている、語り手、ジョージとハリス、その他知人の
失敗談やおもしろエピソードが、しばしば「川の話しだった」ってことを忘れさせます。

ただ、19世紀には、そこそこお金を持っている家庭の少年たちは
ボートを習うのが当たり前だったんだな… ということはわかりました。

それから、やはり都市は川の側から出来て、川の側で繁栄してきたんだなぁ… と
再認識しました。 思い出すわぁ… チグリス・ユーフラテス川

ロンドンから地方の都市へ列車で移動していると、テムズ川の支流というのが現れて
なんの変哲もないものから屋根がついた可愛らしいものまで、ボートが浮いていた光景を
思い出しました。 ただそれがどこだかは知らないのだが…
現代でもイギリスの方々にとって、テムズ川は特別な川なのでしょうね?

ラストは、この三人ならではの終わり方、って感じです。
お気楽… たぶん、いいとこのお子さんだったんでしょうね。

なにげに英国の歴史と名所が学べる?一冊
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



ひとことラグビーコーナー
私はたいがいのメジャースポーツは(テレビで)観戦&応援した経験があるのですが、アメフトとラグビーは
無かったのねぇ… だけどさすがに今回のラグビーは応援したんだけど… ボーナスポイントってなんなのよぉ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポーランド王スタニスワフ1世妃 カタジーナ

2015-10-08 20:47:36 | ポーランド王妃
ルイ15世が娘婿で良かった?
スタニスワフ1世妃 カタジーナ・オペリニャシスカ


1680~1747/在位 1705~1708、1733~1736

アウグスト2世が廃位された間に一瞬王座につき
復位したアウグスト2世の死後再度一瞬王になったスタニスワフ1世の妃は
ポーランドの高官ヤン・カロル・オペリンスキの娘カタジーナです。
          
カタジーナが18歳の時に、21歳のスタニスワフと結婚しました。

結婚から6年後にスタニスワフがポーランド王になりますが
これはスウェーデン王カール12世のおかげでした。
カール12世は自分の思い通りに動く王を求めていたんだと思われます。

4年で退位させられた後は、ポーランドを逃れツヴァイブリュッケンで暮らしていましたが
1725年に次女のマリアがフランス王ルイ15世に嫁ぎます。
その後はフランスで王様の義父として暮らしていました。
このまま安穏と余生が送れればよかったのですが…

アウグスト2世が亡くなると、今度は娘婿ルイ15世の野望のせいでポーランド王になります。
しかしポーランドにはアウグスト2世の王子アウグスト(3世)を支持する貴族が多く
結局は3年でフランスへ逃げ帰ることになりました。

その後はルイ15世にロレーヌ公領を与えられ、そこで余生を送りました。

どうなんでしょうね?
他国の王様にいいように使われちゃってる夫を見ている心境というのは…

カタジーナのパーソナリティはさっぱりわからないのですが
王様たちと一緒になって「王になっちゃいなさいよ!」とけしかけていたのか
「もうおやめになったら…」と止めていたのか、知りたいところですね。
肖像画からは「おやめになって」の印象を受けますがいかがでしょう?

1747年にカタジーナが亡くなると、ルイ15世はノートルダムで盛大な追悼式典を催します。
この当時、ルイ15世はポンパドゥール夫人を愛妾にして2年目ぐらいで
王妃そっちのけ時代だったと思われます。
悪評を一掃するためだったのか、王妃への贖罪のつもりだったのか
カタジーナのことを “ 元ポーランド王妃 ” としてかなり持ち上げた式典だったようです。

前王妃クリスティーナのような寂しいお葬式よりはよいのかもしれないが… どうなんだろ?

ここで終わろうかと思ったのですが、ポーランド王妃シリーズはあと二人で終わるんで
サクサクと終わらせちゃうね。

次の王は、アウグスト2世の王子アウグスト3世です。
王妃はハプスブルク家のマリア・ヨーゼファです。


               
愛妾とよばれ続けた王妃
スタニスワフ2世妃 エルジェピタ・グラボヴスカ


1749~1810/在位せず

さー! 最後の王妃ですよ!! みなさん
長かった~…って、怠け者(私だ)がたまにしかアップしないからなんですけどね…

この方の素性はよくわかりません。
最初にヤン・イェルジー・グラボヴスキという貴族と結婚したらしいのですが
1789年に死別し、その後こっそりスタニスワフと再婚しました。
      
なんでもグラボブスキとの間に生まれていた4人の子供たちも
スタニスワフの子供だと宮廷中の噂になっていたらしいです。

スタニスワフの子供を生んでいる女性は他にもいましたが、結婚はしていません。

エルジェピタは王妃のタイトルはなく、愛妾としての扱いを受けていましたが
スタニスワフに対してすごく影響力があって、それも不人気の原因になっていました。

1796年、スタニスワフは廃位され、ポーランドは、ドイツ・オーストリア・ロシアに
三分割されてしまいます。

その後スタニスワフは、サンクトペテルブルクで年金をもらいながら暮らしたのですが
エルジェピタは夫について行き、最後まで連れ添ったそうです。
不倫 → 結婚パターンですが、政略結婚と違って本当に愛し合っていたのかもしれないね。

スタニスワフの死後はポーランドに戻って、活人画というパフォーマンスみたいな芸術の
パトロンなどしながら過ごし、スタニスワフの死から4年後の1810年に亡くなりました。

ちなみに、スタニスワフにはエカチェリーナ2世の愛人説があります。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと予告コーナー
やっとポーランドが終わりました~! 次はどこにしようかなと考え中です
候補は三つあるのですが、どれもぜんぜん準備してない状態… 次にお目にかかるのはいつになるんでしょうか
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポーランド王アウグスト2世妃 クリスティーナ

2015-10-06 21:52:48 | ポーランド王妃
Exile バンザイ!な王妃
アウグスト2世妃 クリスティーナ・エベランディーナ・ホーエンツォレヴナ


1671~1727/在位 1697~1706、1709~1727

ヤン3世ソビエスキが推した王子ヤクブ・ルドヴィクと、王妃マリア・カジミュラが推した
娘婿バイエルン選帝侯マクシミリアン2世を破って王になったアウグスト2世。

私はこの人がなぜ選ばれたかとか政治的な功績はどうでもよくて、女好きに注目!
なにしろ庶子が350人以上いたっていうんだから、いったい何人の愛妾がいたんだろうか?

以前有名どころのマリア・アウローラファティマウルスラ・カタリーナ
アンナ・コンスタンシアは取り上げてみましたが
一夜限りから深いお付き合いまで、ウジャウジャいたはず…

そんな王様の妃はいったいどんな方なんでしょうね?

アウグスト2世の妃クリスティーナは
ブランデンブルク-バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストの娘さんです。
母親はゾフィー・ルイーゼ・ビュルテンブルク、どちらも名家ですね。
        
そんな名家出身の両親は、ものすごく贅沢に暮らしていたそうです。
おかげで領地の財政はアップアップ状態でした。

クリスティーナは、22歳の時にザクセン公フリードリヒ・アウグストと結婚しました。
嫁ぎ先もヴェッティン家で、良いお家柄だと思うのですが
贅沢な実家が忘れ難かったのか、頻繁に里帰りしています。
ドイツ国内ですからね、 外国に嫁いだ妃よりは里帰りがしやすかったと思いますが…

もともと政略結婚で愛が無いのはわかりますが、さらにアウグストの浮気三昧で
この結婚はものすごく不幸なものでした。

結婚から4年後、アウグストがポーランド王に選出されます。
この時アウグストはカトリックに改宗しましたが、クリスティーナは拒否したので
王妃としての戴冠はしていません。
アウグストはプロテスタントでもいいからさ、とクリスティーナをポーランドに呼びますが
クリスティーナはなかなか聞き入れませんでした。

アウグストの女好きは、夫婦の不仲の大きな原因かもしれませんが
クリスティーナもけっこう頑な性格だったみたいですね。

アウグストがポーランド王になってからは完全に別居状態になります。
王になったアウグストはポーランドとザクセンを行ったり来たり。
一方クリスティーナは、冬はのトルガウ、夏はプレッチェの自分のお城で暮らしてました。
どちらもザクセンですが、アウグストがポーランドからザクセンに帰ってきて
公的な場に出る時、たま~に顔を出すぐらいで、夫とはほとんど顔を合わせませんでした。

夫どころか、クリスティーナは宮廷にも社交的な行事にもほとんど顔を出さず
ドレスデンのお祭りでだけ姿を見ることができたそうです。

どうやら “ 宮廷からの追放生活 ” というのを楽しんでいたみたい。
隠居状態というか、自ら軟禁生活を送っているような感じでした。
そうは言っても、芸術が大好きで、身寄りのない子供たちの援助をするなど
王妃らしい一面もありました。

結婚から3年後に息子のフリードリヒ・アウグストが生まれますが、息子を育てたのは
義母にあたるアンナ・ゾフィア・オルデンブルク(デンマーク王フレデリク3世王女)でした。
これは、よくある義母が意地悪で子供を取り上げるというのとは違ったみたいです。
アンナ・ゾフィーとクリスティーナは仲良くやっていたみたいで
クリスティーナはちょくちょく息子の元へ訪れたそうです。 同居ではないのね…

たぶん父親は争いと女性に明け暮れて家におらず、母親も引きこもり…ってことで
祖母が「こりゃいかん!」と引き受けたんでしょうね。

半分ぐらいは自業自得とはいえ、寂しい人生を送ったクリスティーナは
55歳で亡くなります。
夫のアウグスト2世ばかりか、一人息子のフリードリヒ・アウグストも
葬儀に参列しませんでした。

ヨハン・セバスチャン・バッハが、クリスティーナの死を受けて
カンタータ Lab, Furstin, lab noch einen Strahl, BWV 198, を作曲したということで
ちょっとした救いになりますね。

自分の世界の中だけで生きていくのって、幸福な人生のように思えなくもないが
敵はつくるかもしれないし、世間に忘れられるかもしれないし、いざという時頼れないし
なかなか勇気のいる生き方かもしれないですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
2PMのテギョンと少女時代のサニーとヒョヨンが一緒に訪れた小さい居酒屋ってどこなんでしょーねー?
飲んでてひょっこりKポスターが入って来たらあたふたしてお皿とかグラスとか割っちゃいそう…  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポーランド王ヤン3世ソビエスキ妃 マリア

2015-10-02 20:52:35 | ポーランド王妃
なにはさておきラヴ・レター
ヤン3世ソビエスキ妃 マリア・カジミュラ・ドラクィエン


1641~1716/在位 1676~1696

ヤン2世が退位すると、選挙でミハウ・コリブトが王に就きます。
ミハウの妃は神聖ローマ皇帝フェルディナント3世皇女エレオノーレです。

ミハウの後はまたまた選挙でヤン3世ソビエスキが選ばれました。

ソビエスキ家?… と思い出していたら、イングランド王ジェイムズ2世と
メアリー・オブ・モデナの王子、ジェイムズ・フランシスと結婚したのが
ソビエスキ家の娘さんじゃなかったかしら?
やっぱりそうでしたね…家系図が寂しいのでそちらも足しときました。

それはおいといて…
ヤン3世はの妃マリアは、フランスのダルキアン侯爵の公女です

     

5歳の時にルドヴィカ・マリア・ゴンザーガの侍女としてポーランドにやってきました。
侍女といっても5歳ですからね… 仕事をさせるわけではなく
将来貴婦人になるための教育をしてあげましょうってことだったと思います。

ヤンとマリアは、1656年に宮廷で出会いました。
マリアは15歳、ヤンは27歳、恋が芽生えたのかしら? と思ったら
マリアは1658年に別のヤン、ヤン・ザモイスキと結婚しちゃいました。

ソビエスキ家は大富豪だったらしいのだけど、貴族としてはザモイスキ家の方が
高位だったみたいです。

7年後にヤン(ザモイスキ)が亡くなると、マリアはその年のうちに
ヤン(ソビエスキ)と再婚しました。
やっぱり恋してたでしょぉぉぉ

結婚後マリアは、夫の王選出や、ポーランドとフランスの同盟をサポートしたり
実家に特権を与えてもらうためにルイ14世にかけあったりと
政治的にアクティブなところを見せましたが、そんなことはどうでもいいんですの。

ヤン3世とマリアについて断然有名のは、二人で交わしたラブレターなんですって!
二人は1665年から1683年の長きにわたって手紙のやりとりをしていたそうです。

とにかく、他国から狙われがちなポーランド王として戦ってばかりいたみたいな
ヤン3世は留守がちですし、マリアもフランスに里帰りしたりします。
お互いが不在の時に交わした手紙は、もちろん政治的なことも書かれていたでしょうが
二人が確実に愛し合っていたことを表しているんですって~!
どんな内容か気になりますね?

ヤン3世の死から20年後に亡くなりました。

ポーランドでは後年本になって発行されたそうです。
知りたいと書いたものの、他人に手紙を読まれちゃう二人のことを考えると
そっとしてあげておいてほしかったりもする…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
少女時代で誰が好きかと問われれば、私はスヨンが好きなのだけど、テヨンの予告ビジュアルは可愛いねぇ
どんな曲なんでしょう? ソロへの期待が高まりますね 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする