まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王ルイ15世王女 マリー・アデライード

2012-05-31 22:41:36 | フランス王妃・王女
禁断の噂を持つ “ 未婚シスターズ ” のドン
ルイ15世王女 マリー・アデライード・ド・フランス


1732~1800

王妃マリー・レクザンスカがたて続けに3人の王女を生んだもんで
ルイ15世はちょっとふてくされていましたが
1729年に王太子ルイ、1730年に次男フィリプが生まれてご機嫌が直ったようです。

四女マリー・アデライードは、ルイーズ・エリザベートアンリエットとともに
ヴェルサイユで育ちました。
        
アデラードも十代に入ると結婚が取沙汰されました。
しかし「君主じゃない男と結婚するぐらいなら一生独身の方がまし!」と言うアデライードを
ルイ15世が「よしよし」てな感じで許し、結局縁談は決まりませんでした。

どうやらルイ15世は「女ばっかり!」とこぼしていたにもかかわらず
王女たちをお嫁に出すのがいやだったようです。 困ったもんだ
なにせこの後に続く王女たちも皆未婚です。

お気に入りだったアンリエットが亡くなり、ポンパドゥール夫人の健康が衰えはじめると
ルイ15世の愛情は俄然アデライードに向かうようになります。
あ、愛妾は別だからね

しかし、毎朝お茶を飲むためにアデライードの部屋に行ったり遠乗りに連れていったりと
一緒にいる時間が増えた父王と王女はあまりに仲が良く近親相姦の噂がたったほどで
愛妾フランソワーズ・ド・シャリュが生んだとされるルイ・ド・ナルボンヌは
実はアデライードが生んだルイ15世の子だとまで言われました。

アデライードは、ルイ15世の王女たちの中で唯一政治に興味があったと言われています。
まずは兄の王太子ルイ、続いて甥の王太子ルイ(16世)に
自分の考えを吹き込もうとしました。 失敗に終わったようですが…

そしてポンパドゥール夫人をかなり敵視して、父王を通わせないように頑張っていました。
もちろんルイ15世の子供たちは皆ポンパドゥール夫人を嫌ってましたが
アデライードは人一倍激しかったらしい…もし噂が本当だったとすればうなずけますね。

ポンパドゥール夫人が亡くなり、デュ・バリー夫人が登場すると
アデライードの出番もめっきり少なくなります。
アラフォーにさしかかると、アデライード、ヴィクトワール、ソフィーの未婚シスターズは
お互いの部屋に集まり、もっぱら編み物をしながら宮廷の噂話に耽っていました。
めったに正装することはなく、パニエの上にガウンを羽織っただけで過ごしました。
いかんいかん、おしゃれ心を忘れてはダメでないの!

そんなシスターズは王太子ルイの妃マリー・アントワネットの教育係に指名されます。
『ヴェルサイユの薔薇』で、マリー・アントワネットに
デュ・バリー夫人との徹底抗戦を吹き込んでいる三人組がいましたね?
それがこのシスターズだったのでした。

1789年7月、フランス革命勃発!
10月、パリの婦人たちがヴェルサイユ宮殿に向かって行進した日
アデライードは住み慣れた宮殿を後にしました。
ヴェルヴュ城に逃げ込んだ後、何度か拘束される目に遭いながら
1791年にイタリアへ向かいました。

イタリアには姪(兄の王太子ルイの王女)クロチルデや
マリー・アントワネットの姉マリア・カロリーナなどがいましたが
皆革命の余波を恐れていてアデライードはイタリア内を点々とするハメに…
最後に訪れたトリエステで1800年に亡くなりました。

遺体はルイ18世の時代に入ってフランスへ送られサン=ドニに埋葬されました。

各国の王家の権威と安泰に翳りが見え始めた時期とはいえ
「結婚したくない!」というわがままが通って、子分のような妹たちに囲まれ
好き勝手な人生が送れたとは幸せな王女であったといえますね。

晩年はかなり波瀾万丈で、イタリアでは屈辱を味わったかもしれないけど
下々の民の苦しみを踏み台に栄華を誇った58年の人生の後に味わう10年の苦労でしょー?
私はあんまり同情しないわ…

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ15世王女 アンリエット

2012-05-25 22:24:18 | フランス王妃・王女
初恋はかなわず
ルイ15世王女 アンリエット・ド・フランス


1727~1752

ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの最初の子供は
双子の王女ルイーズ・エリザベートとアンリエットでした。
       
まだ浮気に走っていなかったルイ15世は、初めての子供ということもあり
二人の王女をものすごく可愛がりました。

姉エリザベートの結婚の時、アンリエットはとても悲しみましたが
ルイ15世も娘が旅立つ直前まで付き添い、別れを惜しんだそうです。

エリザベートがいなくなると、ルイ15世の愛情はアンリエットに向けられました。
なるべくアンリエットと長い時間を過ごせるように秘書に指名して手伝わせたり
外出に誘ったりしました。

アンリエットはからだが弱かったのですが、父王の愛情を失うまいと
体調不良をおしてルイ15世に従いました。
喀血した時にも「お父様には知らせないように」と口止めしたそうです。

アンリエットは十代半ばでルイ・フィリップ・ドルレアンと愛し合うようになります。
二人は結婚を望みましたが、ルイ15世はこれを即却下しました。
オルレアン家の台頭阻止とか貴族のバランス・オブ・パワーとかの
政治的な考えもあったかもしれないけど
一番の理由は、お気に入りの娘を持ってかれるのが嫌だったんじゃないかしら?

ルイ15世は後にオルレアン家の格式やスペイン王家の継承の可能性などから考え直しますが
結局二人が結婚することはありませんでした。

ちなみに…
ルイ・フィリップはブルボン家の支流コンティ家のルイーズ・アンリエットと結婚しました。
もしかしてアンリエットとは宮廷で顔を合わせていたかもしれませんね。
年ごろも同じぐらいなので、一緒に遊んだり勉強した仲かもしれないのに恋敵に?
愛憎渦巻くヴェルサイユ…今度調べてみようっと!

姉のエリザベートとアンリエットは仲良しでしたが、エリザベートが初の里帰りをした時
二人の愛情にひびが入りました。
だってエリザベートが、家族の敵ポンパドゥール夫人を気に入っちゃうんですもの!
兄弟姉妹たちはポンパドゥール夫人のことを “ パパの売春婦 ” よばわりしていました。
それなのに、そんな女に憧れて親友になろうとするなんて~!!
てなわけで、その後エリザベートとアンリエットは疎遠になってしまいます。

ポンパドゥール夫人に負けまいと無理をしていたアンリエットは
24歳の時に天然痘で亡くなりました(腸チフス説あり)

ルイ15世の悲しみは大変なもので、アンリエットの死後2時間は呆然とし
数週間は愛妾たちにも目を向けないほどのうちひしがれようでした。

ルイ15世といえば次から次へと愛妾をつくっては愛欲に耽り
家族を蔑ろにしていたイメージがありますが、こういうエピソードを知ると
「親としての愛情はあったのね…」と、少しホッとしますね。

けれども、これから生まれてくる王女たちに対するルイ15世の態度は徐々に変化します。

三女ルイーズが生まれた時、ルイ15世は「また女?」とふてくされまして
王子だったら行うはずだった祝典は取り消されてしまいました。
ルイーズにはヴェルサイユ内のチャペルでミサが行われただけです。 ひどいわ
4歳で風邪に罹ったルイーズは、亡くなる前に慌てて洗礼を受けさせられたってことです。

さてさて、四女からはどんなことになっていくのでしょうね?

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ15世王女 ルイーズ・エリザベート

2012-05-16 23:23:08 | フランス王妃・王女
義母と離れてからは幸せだったような気がする・・・
ルイ15世王女 ルイーズ・エリザベート・ド・フランス
パルマ公フィリッポ妃


1727~1759

アンリ4世とルイ14世という艶話の多い王様に挟まれたルイ13世は浮いた噂も無く
地味な印象ではありますが、絶対王政の礎を築いた忘れてはならない君主です。
王妃アンヌ・ドートリッシュは何回かの流産の後
結婚後23年目に驚きの妊娠をしてルイ14世を含む王子が二人生まれましたが王女はいません。

ルイ14世と王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュには3人の王女が生まれましたが
長女アンヌ・エリザベートと次女マリー・アンヌは1歳で亡くなり
熱愛していた三女マリー・テレーズも5歳で亡くなりました。

多産な家柄が買われてルイ15世の妃に選ばれたマリー・レクザンスカ
評判どおりお子様をた~くさん生みましたが、なにせ二男八女と王女ばっかりで
ルイ15世はたいそうご立腹
年長の王女たちと年少の王女たちは完全に扱いが違ってます。

長女ルイーズと次女アンリエットは双子です。
この頃はルイ15世はまだ浮気をしていませんでした。
初の子供が生まれたってことで大喜び!の父王は二人を可愛がりました。
    
12歳の時にカトリック強国同士の繋がりを強固なものにするため
スペイン王フェリペ5世王子フィリッポとの婚約が決まりました。
しかしフィリッポは八男で(既に4人の兄は亡くなっていたものの)
王位を継ぐ可能性が低いということでフランス宮廷は少々意気消沈したようです。

なんだかんだでその年のうちに結婚したルイーズでしたが
19歳年上のフィリッポとの結婚はあまり幸せなものではなかったようです。

ルイーズが嫁いだ時、スペイン宮廷ではフェリペ5世の未亡人
イサベル・デ・ファルネシオが権勢をふるっていました。
作法はヴェルサイユより厳格だし、義母は意地悪だし…ってことで
なかなか馴染めなかったようです。

ルイーズは義母を避けて人形で遊ぶようになり
父王ルイ15世には「不幸です」と手紙を送りました。
12歳ですものね… 遊びたい盛りだと思うんですけど
世継ぎが必要な王家の結婚生活はそんなに甘いもんじゃありません。
14歳で長女マリーア・イザベラを生みました。
マリーア・イザベラは後に神聖ローマ皇太子ヨーゼフ(2世)に嫁ぎます。

1745年オーストリア継承戦争の終結でパルマがスペインに引き渡され
3年後フィリッポがパルマ公になりました。
ルイーズはスペイン(=義母)から離れることができました。
ここからけっこう好き勝手に生きるわよ

パルマに向かう途中でルイーズはヴェルサイユに立ち寄り数ヶ月滞在します。
その時ポンパドゥール夫人に会いすっかりファンになってしまいました。
他の姉妹たちは目の敵にしていたんですけどね…

この帰国の時、18歳のルイーズを目にしたヴェルサイユ宮廷の人々は
「なんてチャーミングなんでしょう」と驚きました。
また、洞察力と知性があり、若いのに母性溢れる女性だと言われたそうです。

ばっちりフランス式の作法を仕込んだルイーズはパルマに渡り
夫フィリッポとともに万事フレンチスタイルで過ごしました。

その3年後に双子の妹アンリエットが亡くなったので
ルイーズは再びフランスに帰国します。
本当は2~3週間の予定だったのですが、実家が楽しかったんですかね?
結局1年近くパルマに戻ろうとしませんでした。

さらに1757年にもフランスに戻り、個人的に連携していた女帝マリア・テレジア
皇子ヨーゼフと娘のマリーア・イザベラの縁談をまとめました。

その後パルマに戻ったのかどうだか定かでないんですけど
1759年にヴェルサイユで天然痘に罹って亡くなっています。
パルマにいたら長生きできたかもしれなかったのにね…

幼い頃に離れたヴェルサイユの楽しく美しい記憶が
彼女を引き止めていたのかもしれませんね。

ルイーズ・エリザベートの次女マリーア・ルイーザ
スペイン王カルロス4世妃です。
娘の不埒な新婚生活を知らずにすんで良かったのかしら?

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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フランス王アンリ4世王女 クリスティーヌ・マリー

2012-05-07 21:29:06 | フランス王妃・王女
父王の(浮気な)血をひく王女
アンリ4世王女 クリスティーヌ・マリー・ド・フランス
サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世妃


1606~1663

子供の影で王権を行使していたと言われるカトリーヌ・ド・メディシスですが
16歳で亡くなったフランソワ3世とメアリー・スチュアートにはお子様がいませんでした。
シャルル9世とエリザベート・ドートリッシュには
マリー・エリザベートという王女が生まれましたファが6歳で亡くなりました。
アンリ3世とルイーズ・ド・ロレーヌにもお子様がいませんでした。

結局王座は王女マルゴの婿アンリ4世の手に渡ります。

アンリ4世はガブリエル・デストレを筆頭に、たくさんの愛妾を持っていたことで有名ですが
行動力・人柄に優れ思慮深い人で、人気が高い王様でした。
一人目の妃マルゴとの間にはお子様ができませんで
二人目の妃マリー・ド・メディシスとの間に三男三女を授かりました。

長男は後のルイ13世です。
長女エリザベートはスペイン王フェリペ4世に、
三女アンリエッタ・マリーはイングランド王チャールズ1世に嫁ぎました。

       
次女クリスティーヌは13歳でサヴォイア公子ヴィットーリオ・アメデーオに嫁ぎました。
しかし彼女はこの結婚に満足できなかったようですね。
姉のエリザベートばかりか妹のアンリエッタまで王妃になるなんて!

クリスティーヌは妹に負けるもんか!とサヴォイア宮廷にフランス式を持ち込み
イングランド宮廷と張り合いました。
そのためには宮殿だって建て直すぜ!

しかし王妃ではなく、公国の妃という現実はどうにもなりませんね…
そこで夫にキプロスとイェルサレムの王様になってちょうだいよ! と
うるさくけしかけておりました。
男性の皆様、「課長になってよ! 次は部長になってよ!その次は専務になってよ!!」なんて
口うるさく言われるのはつらいですよね。

結局ヴィットーリオ・アメデーオ1世は王になることなく1637年に亡くなりまして
クリスティーヌは5歳の息子フランチェスコの摂政になりました。
翌年フランチェスコが亡くなり、続いて4歳のカルロ・エマヌエーレ2世の摂政になります。

クリスティーヌは移り気で軽薄な女性と言われています。
その上浮気性で多数の愛人を持っておりました。
摂政とは名ばかりで政治はそっちのけ… 評判は芳しくなかったようです。

そんな母親が幼王の摂政に就いた国… もちろんもめ事がおこりますってば。
ヴィットーリオ・アメデーオ1世の弟マウリッツォとトンマーゾはスペインの力を借りて、
クリスティーヌはフランスの力を借りて、継承戦争が4年ほど続きました。

この戦いはクリスティーヌの勝利に終わりました。
なんだかんだあっても息子のために領土を守り抜いたことは賞讃に値しますね。
しかもフランス王家の力が領土内で強まることも防いでいました。
やればできる子だったのですね… と思いたいが一方では…

カルロ・エマヌエーレ2世が成人に達するとクリスティーヌは摂政の座を退きましたが
実際は権力を手放しませんでした。
私生活はやりたい放題で、愛人たちが侍っておりました。
その中には継承戦争で敵だった義弟マウリッツォも含まれていた模様…
とにかくハンサムで逞しい男性がお好きだったようです。

息子カルロ・エマヌエーレ2世がクリスティーヌの弟オルレアン公ガストンの
公女フランソワーズと結婚した年に亡くなりました。
生きていたら嫁姑問題が起きかねなかったですよね?
ある意味潔い逝き方と言えましょう。
          
その後はフランス王家とこんな感じで繋がってまいります。
手を抜いてすみません… 見てもらった方が解り易いと思いまして…
         
美男子を侍らせてるあたりエカチェリーナ2世と同じなんですけどね。
エリザベス1世も何人か恋人がいましたよね。
政治をきっちりやるか、絶対的な権力を持って反対勢力を押さえ込んでいたら
悪評ばかりがたつこともなかったでしょうに… きっといいところもあったと思うよ。

いよいよブルボン家末期にさしかかってまいります。
長~い時間かかっていたフランス王女編も終わりが見えてきましたね! ふ~う

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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