まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『幸福な家族』お幸せそうでなにより・・・

2012-09-28 21:19:54 | 日本の作家

武者小路 実篤

この本はなんだか本棚にあったから読んでみたものです。
だから武者小路実篤の他の小説は読んだことがないので偉そうなことは言えないのですが
いったい読者に何がを伝えたくて書いたんでしょうね?

私は『幸福な家族』という題名を見た時、ものすごく皮肉が込められたネーミングだと
思い込んでいたんですよ。
そりゃあんたの勝手でしょ! と言われればそれまでなんだが
まさかその通りの内容だとは思わないでしょ?

あらすじを書きますね。

佐田正之助は53歳。
ドイツ語教師をしていましたが「おもしろくないので」リタイアし
画家を目指そうかって勢いで毎日絵ばかり描いています。
東京の一軒家で妻敏子、息子の正蔵、娘の綾子と暮らしています。

正蔵は表には出しませんが父を尊敬する勉強家の好青年です。
綾子は20歳ですが、まだまだ無邪気で善良な娘です。

ちょっと不愉快なことがあって以来女中をおかなくなってからは敏子が家事を切り盛りし
油絵に没頭する正之助をにこにこ見守っています。

目下の悩みと言えば、からだが弱くて戦争に行かなかった正蔵が
女性と出歩いているらしいという人づての話ぐらいです。

スピードアップしていくけど…

その女性について正蔵は何も語ろうとしませんでしたが
ある日、正之助に、ある女性をモデルに使ってほしいと頼んできました。
そしてその女性にモデル料を払ってあげてほしいと言います。

正蔵と友人の川上は、出征している親友田方の婚約者秀子を気にかけていました。
モデルにしてほしい女性とは秀子の知人で千津子といい、何か事情がありそうです。

正之助はひと目で千津子が気に入りモデルにして絵を描き始めます。
敏子も綾子も通って来る千津子のことが好きになりました。
そして正蔵が千津子に好意を抱いていることに気がつきます。

ところが、娘が絵のモデルをしていると知った千津子の父と継母は怒り
千津子に縁談を薦めます。

一方、綾子もたびたびやって来る川上が気になっています。
けれども川上は頑固で、食事を薦めても帰ると言い張るし
綾子を喜ばすようなことは言いつつ、あまり気にかけているようにも見えません。

さぁ! 普通ならここから盛り上がりますよね。
継母と上手くいっていない様子の千津子、親の反対と無理矢理の縁談、
やきもきしながらも心を伝えられない正蔵、親友に弄ばれているかもしれない妹…
もうワクワクですよ! ドラマ的要素満載!!

でも、盛り上がらないの

なんていうのか、昭和の人々は純粋だったというか単純だったというか
すぐに誤解が解けてまぁぁるくおさまっちゃうのよ。
姑息な人や底意地の悪い人なんかいやしない。
バブルが人々を変えたのか? なんちゃって

とにかく、どこにも悪意の無い物語。
皆が笑顔で終われるって、いい話かもしれないよ。
でも面白くないよ。

小波乱があるだけでチャンチャンって終わられても… 本を読む楽しみは何処に?
この小説をもとに映画だかドラマが作られたそうなんですけど
私はぜったい見ないと思います。

せめてカツオ君クラスのやんちゃ者やサザエさんクラスのうっかり者でも
いればよかったのだが… しっかり者で行いの良い人ばかりでした。
だから皆が幸せに暮らすことができましたとさ。
どう? 読んでみたいですか?
コメント (2)
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ポーランド公ミェシュコ1世妃 ドゥブワヴァ

2012-09-24 00:28:00 | ポーランド王妃
ポーランドにキリスト教をもたらした王妃
ミェシュコ1世妃 ドゥブワヴァ・プレゼミシュレデカ


940~977/在位 965~977

フランス王女編終了後、他の国を予定していたのですが
Wikipediaの訳が遅々として進まず焦っておりましたところ
以前訳しておいたものを見つけまして急遽ポーランド王妃編スタートです。

ただ、ハンガリーや北欧同様、名前や土地名の読み方がまったくわかりません
一応ポーランド語のアルファベットの読み方を参考にしていますが
間違いが多いと思いますので、見つけた方は是非コメントを… 随時修正いたします。

ポーランド王室って日本ではあまりポピュラーではありませんけど
中世創成期はかなり重要な位置にあったらしく、古くから幅広く婚姻を結んでおります。
そのかわり、各国の侵入、支配も多く受けています。 主にドイツあたりね。

とりあえず初代ポーランド王とされるミェシュコ1世から始めますが
正しくはポーランド公です。

このあとの君主も王だったり大公だったり公だったりしますが
ややこしいので家系図には王ってことで記しています。

さて、初代君主ミェシュコ1世の妃ドゥブワヴァ。
父親であるボヘミア公ボレスラフ1世とミェシュコ1世の間に同盟が成立した際に
結婚が決められました。
    
結婚当初ミェシュコ1世は異教徒でした。
ドゥブワヴァは離婚まで持ち出してミェシュコを説得し、ミェシュコの改宗に成功。
(結婚の条件がミェシュコの改宗だったとか、諸説あるんですけれどもね…)

そして、グニェズノに教会や修道院、ポズナンに聖母マリア教会を建てるなどして
ポーランド全土のキリスト教化を達成しました。

ドゥブワヴァは977年に亡くなりました。
生年は “ ミェシュコに嫁いだボヘミアのプリンセスは若くなかった ” という記述から
逆算されているもので不確かです。
さらに、これは結婚した時に19~25歳だったとされるミェシュコの再婚相手オダと
混同されているふしがあり、もしかしてもっと後で生まれているかもしれません。
しかし、19~25歳で若くないって、あんた…

結婚で強固になっていたポーランドとボヘミアの同盟はドゥブワヴァの死後弱まりをみせ
980年中盤に解消されました。

ドゥブワヴァには他にも不確かなことがいろいろありまして…
ミェシュコとの結婚前にメルゼブルク領主ギュンターって人と結婚してたって説。
これはギュンターの息子ギュンゼリン(?)がボレスワフ1世と異父兄弟だと
記されていたことがベースになっているそうですが、どうやらボレスワフ1世と
ギュンゼリンは義理の兄弟か従兄弟だというのが濃厚らしいです。

それから娘のスヴェトスワヴァがデンマーク王スヴェン1世妃シグリドだっていう説。
どうなんでしょうねぇ? 一応スウェーデンの貴族の娘ってことになってますけど…

ミェシュコを改宗させたというのも、教会のコマーシャルではないかと…
まあ、当時宗教を変えるというのはかなりの一大事だったと思うので
妻の宗教に合わせた君主っていうのは宣伝効果大ですよね! そりゃ使わねば!!

そんなドゥブワヴァの墓所は、1888年に出版された書物によると
グニェズノ大聖堂にあってシンプルな石の十字架が掲げられているだけとなっていましたが
現在ではどこにあるか不明だそうです。
キリスト教のために尽力したのに… ミェシュコは手厚く葬ってあげなかったんでしょうかね?
次の嫁がわりと強そうだからなぁ…

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (5)
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『ワシントン・スクエア』親の反対を押し切らないで!

2012-09-17 02:22:17 | アメリカの作家
WASHINGTON SQUARE 
1880年 ヘンリー・ジェイムズ

このブログを読んでくださっている方はご存知かと思いますが、私は韓流好きです。
で、韓流ドラマの中で恋の邪魔になる三大要素と言えば
“ 身分違い ” “ 出生・生立ちの秘密 ” “ 親の大反対 ” ということになります。
もちろん、そんなもの全てに打ち勝って恋を成就させて~! と思いながら見ているわけです。

この『ワシントン・スクエア』は、若い女性が初めての恋をしたところ
父親に反対されるというお話しなのね。
いつもなら「親の反対なんかに負けないで~!」と応援するところですが
この物語では、反対する親を応援してしまった私…なぜなんでしょう?

将来有望な医師スローパーは、美しく優雅なキャサリンを妻に迎え
申し分の無い日々を送っていましたが、理想の妻キャサリンは
娘のキャサリンを生んでしばらくして亡くなってしましました。

キャサリンは同名の母親とは違って凡庸で見栄えのしない娘さんに成長します。
しかし心は優しくとても純粋でした。
そして何より、裕福な母親の遺産を持ち、今後は父親の多額の遺産も入るという…
とにかく大金持ちになる見込み大の女性でした。

21歳の時、キャサリンは従妹の婚約パーティーで
モリス・タウンゼントというハンサムで誰にでも好かれそうな青年と出会います。

モリスは最初からキャサリンに興味津々でした。
キャサリンの教育係でもある夢見がちな叔母ペニマン夫人に気に入られ
戸惑うキャサリンに猛アタックしてきます。
このあたり、恋心に気付いたら一直線な韓流の主人公みたい…

けれども、キャサリンの父スローパーは最初からモリスが気に入らず
財産目当てだと決めつけて二人の交際に反対します。
スローパーは知的で理性があり、二人が何を言っても決して取り乱さないんだけど
穏やかに、しかし徹底的に、そして冷酷に反対の意思を伝え続けます。

キャサリンは財産を放棄してもいいと言うし、モリスは財産目当てでは無いと主張しますが…

はてさて、二人の恋の行方は? そして、その結末で良かったのか?
なかなかに考えさせられる一冊でした。

ヘンリー・ジェイムズと言えば、なんだか観念的で回りくどい文章を書き連ね
話をわざと難解にしているという印象が拭えない私ですが
この一冊はかなり解り易くて、どちらかというと “ 端折られている ” 気さえします。
けれどもそれがかえってこの物語を面白く読ませてくれたような気がします。

人の本当の気持はよくわからない…という概念を覆す書きっぷり。
最初からみえみえのモリスの気持と、解り易すぎる展開ですが、あまりに明白すぎて
途中で「もしかして、私が抱いている印象が間違っているのかも…」という
疑問を抱かずにはいられなくなりました。

「やっぱり…」とも「おぉ、そうなるか…」とも思えるラスト。
キャサリンとモリスが選んだ道が二人にとってどうだったのかは想像するしかないのですが
今後は韓流ドラマの見方を少し変えなければならんかも… とまで思えた一冊でした。

ヘンリー・ジェイムズって、読めば読むほど面白くなってくるわ。
長編より長めの中篇が読み易く楽しめるような気がします。
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フランス王ルイ・フィリプ1世王女 クレマンティーヌ

2012-09-16 20:48:04 | フランス王妃・王女
王妃が無理なら王の母!
ルイ・フィリプ1世王女 クレマンティーヌ・ドルレアン
サクス=コバーク=ゴータ公子オーガスタス妃


1817~1907

終わったと思ったら一人残ってました…
ルイ・フィリプとマリー・アマーリエの四女クレマンティーヌ。
三女フランソワーズは2歳で亡くなっています。
13歳の時に父ルイ・フィリプが王に即位したため王女になりました。

当時クレマンティーヌに歴史を教えていたのがジュール・ミシュレという人なのですが
彼は急進的な思想の持ち主で、フランス革命を美化していました。
王女に対して王家を倒した革命を讃美する授業…いいのかね?
後にミシュレはルイ・フィリプの保守傾向を非難しています。

クレマンティーヌは美しくて、将来が期待されていました。
ヨーロッパ各国は彼女の縁談を見守っていましたが
19歳の時に両シチリア王フェルディナンド2世との結婚がささやかれました。
クレマンティーヌとは従兄弟にあたりますね。
       
ルイーズの嫁ぎ先ベルギーではレオポルト1世が
クレマンティーヌとサクス=コバーク=ゴータ家のオーガスタスとの縁談を根回し中でした。
ベルギー王家はできたばかり…フランスとの婚姻でベルギー王家を
強固なものにしようとでも考えていたんでしょうか?
        
オーガスタス自身は王位継承権は無いようなものでしたが
ベルギーのみならず、ポルトガル、スペイン、ブラジル帝国、メキシコ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国と繋がりがあるという華やかさ!
書ききれないから書かないけどね…

オーガスタスとクレマンティーヌは1843年に結婚しました。
二人は当初オーストリアで暮らすつもりでした。
しかし、オーストリアは、クレマンティーヌはフランス王女として迎えるが
オーガスタスはロイヤルファミリーとして認めないということだったので
フランスで暮らすことにしました。

たしなみがあると言われていたクレマンティーヌでしたが実は野心家。
その上夫より交渉手腕が優れていたらしく、完全にオーガスタスを尻に敷き
子供たちを支配しました。

1848年の2月革命の時には、子供たちは避難させたものの
コンコルドへ取って返し居座って頑張りました。
結局2月24日に王宮を市民に占拠され、ルイ・フィリプは退位しました。

フランス王家はロンドンへ亡命します。
クレマンティーヌはそこで父ルイ・フィリプと再会しました。

敗者の悲しさ… この後のクレマンティーヌの人生は争いの連続でした。

端折ってくけど、まずはオルレアン家が奪われた金銀財宝を取り戻そうと
ナポレオン(3世)と争います。
遺産のかわりに20万フランを要求しましたがあっけなく拒否されました。

とにかく息子を王にしたいと願っていたクレマンティーヌは
お気に入りの三男フェルディナンドをベルギー王にしようと画策しました。
この時クレマンティーヌは戴冠式でかぶせる王冠までデザインしていたらしい…
だけど残念… レオポルド2世の甥アルベール1世に敗れます。
       
省いたけど、家系図から見れば兄フィリップとレオポルト2世王女ルイーゼの
王子レオポルドの方が王の座に近かったかですよね。

そこで目をつけたのが王が退位したブルガリア。
フェルディナンドを同行してブルガリアに入ると、その富にものを言わせて
ヨーロッパへと繋がる鉄道の建設に400万フランの寄進、学校・病院の建設、
ブルガリア赤十字への莫大な寄付と大枚はたきます。

その甲斐あって、どっちかっていうとフェルディナンドより
クレマンティーヌの方が人気者になってしまったわけなのですが
オーストリアの後押しでフェルディナンドはブルガリア王の座につくことになりました。

だけど…神様の意地悪…
クレマンティーヌは、あんなに夢見ていた息子の即位前年に
インフルエンザで亡くなってしまいました。 90歳でした。
戴冠式、見たかったろう… 再び王冠のデザインもしたかもね。

ルイ・フィリップの後再び帝政で皇帝に就いたナポレオン3世と皇后ウージェニーの間には
皇女はいなかったので、フランス王女編は今回でおしまいです。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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