まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『魔術の殺人』ミス・マープル、幼なじみの依頼を受ける

2010-02-28 01:05:09 | アガサ・クリスティ
THEY DO IT WITH MIRRORS 
1952年 アガサ・クリスティ

毎度思うけれども、なぜ誰もがミス・マープルには打ち明け話をしたくなるのかしら?
やはり物腰の優しそうなたたずまいからでしょうか?
それともすぐに忘れちゃうだろうとか思って…

とにかく、いつにも増して登場人物が多い物語で、家族関係も複雑ですから
途中で ? とならないようご注意下さい。
家系図なんか書きながら読むと分かりやすいと思います。

ミス・マープルは幼なじみのルースに頼まれて、彼女の妹キャリィを訪ねます。
キャリイは昔から夢見がちで、熱い理想を持った男性に弱かったのね。
その時も夫ルイスが運営している少年更生施設をサポートしていました。

キャリイは3度結婚していて、屋敷には前の夫の連れ子や
2度の結婚でできた子供と孫が一緒に暮らしています。
大家族で和気あいあいかと思いきや…
ミス・マープルの見るところ、なんかギクシャクしてますよ。

キャリイと最初の夫との娘ミルドレッドは不器量な未亡人で、拗ねているみたい。

キャリイの養女の娘ジーナはとても綺麗な娘ですが、夫とうまくいっていない様子。
ジーナの夫は家族に馴染めなくて陰気になっています。

キャリイのふたり目の夫の連れ子アレックスとスティーヴンはジーナが好きらしい…
特にスティーヴンはかなりまいっているみたいです。

それから一緒に暮らしている更生施設の医師や少年がいます。
中でもエドガーという少年は、自分を重要人物だと思っているようで
一家の住人たちから見下されるのが我慢できません。

そんな中、キャリイの最初の夫の連れ子で、更生施設の理事もしているクリスチャンが
いきなり訪ねて来たかと思ったら書斎で殺されてしまいました。

ちょうどその頃、エドガーがルイスと書斎に立てこもり、中からピストルの音が…
皆は隣の居間で息をのんでいました。

その後キャリィに送られてきたチョコレートが毒入りだとわかり
講堂でアレックスとひとりの少年が落ちてきた鐘の下敷きになって死亡します。

いったい誰が狙いなのかはっきりしませんね?

よくあるトリックで、犯人は早めに判っちゃうと思いますよ。
でもそこに行きつくまでの人間模様を読んでいるだけで楽しめます

それから、犯行後の犯人の偽装工作が手が込んでいるんですよ。
犯人にとってクリスチャンを殺すことは短時間の判断だったと思うのですが
居合わせたミス・マープルまでまんまと利用されています。

でも、ミス・マープルが利用されたまま終わるもんですか!
あることに気がついたミス・マープルはずんずん真相に迫りますよ。
それは “ キャリィがただの夢見る奥さまじゃない ” ってことなんだけどね…

それにしても「なんか心配だから」と、事件が起こる前にミス・マープルを送り込んだ
ルースの勘もスゴい
やっぱり経験を積んだ女性の目は誤摩化されないものなのよ。

ミス・マープルの本領発揮!
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デンマーク王ヴァルデマー2世妃 ベレンガリア

2010-02-28 00:56:32 | デンマーク王妃
                “ 美しい花 ” の肖像画がないなんて…
                こちらベレンがリアのお母様ドゥルセ・デ・バルセロナ


人気者の後はつらいよ・・・
ヴァルデマ-2世妃 ベレンがリア・アフ・ポルチュガル


1195頃~1221/在位 1214~1221

ヴァルデマー2世の前妃ダグマーに「災いをもたらす」と予言されたベレンガリアは
ポルトガル王サンショ1世の王女で、“ 美しい花 ” と讃えられておりました。

とっても可哀想なフランス王フィリプ2世妃インゲボルグ・ド・デンマークから
お兄様のヴァルデマー2世に紹介されました。

ドイツ方面から睨みをきかされているヴァルデマーは
フランドルとの関係を良好なものしたいと、わずかなツテをたどって
フランドル伯ジャンヌの義理の妹ベレンガリアに行き着いたわけですね。
      

1214年にデンマークにやって来たベレンガリアですけど…とにかく不人気

前妃ダグマーはブロンドで北欧っぽい顔をしていたらしいのね。
ベレンガリアは美しいことにかわりはなかったんだが、濡羽色の髪、ブラウンの瞳で
ちょっと(当時の)デンマークの皆さんのお気に召さなかったみたいです。

ヴェルデマーの重税のとりたても王妃のせいにしたり(本当は軍資金でした)
情が無いって唄までできてしまう始末。

国民はいつまでもいつまでも、優しい前妃ダグマーの死を嘆いて
ベレンガリアを慕おうとはしませんでした。

バラッドや叙事詩ではハッキリふたりの性格の違いが描かれていて
ダグマーは穏やかで敬虔で理想的な女性として
ベレンガリアは美しいけど傲慢な女性として、登場しているそうです。

本当のところはどうだったのかしら?

ベレンガリアは1221年、出産の時に亡くなりました。

彼女の死後ですが、ヴェルデマーが捕らえられてドイツに監禁されたり
領土が減ったり、お決まりの内紛が兄弟の間でおこったりと
デンマークは一時の勢いを失っていきます。

ダグマーの「災いをもたらす」という予言は当たっていたってことでしょうか?
もちろん、後で叙事詩作家が書いたんだろうけど…

ところで、ベレンガリアは聖Bendt's教会に葬られたのですが
隣にはヴァルデマー2世、さらにその隣にダグマーが眠っているのです。
ヴァルデマーが亡くなるまでの20年あまり
ふたり並んで待っていたなんて…こわい

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王ヴァルデマー2世妃 ダグマー

2010-02-28 00:55:12 | デンマーク王妃
王の再婚相手を指名した王妃
ヴェルデマー2世勝利王妃 ダグマー・アフ・ベーメン


1186頃~1213/在位 1205~1213

ヴァルデマ-2世は、ダーネブロー(デンマーク国旗)を生み出したり
ユトランド法典をつくった王で、バルト海進出などを果たして
勝利王とよばれています。

ダグマーはデンマークで改名した名前で、本名はマルガレータといいます。

父のオタカル1世は1192年にボヘミア王になりましたが、翌年廃されました。
その時、母のアーデルハイドが、オタカルと息子のブラティスラフに
「どこかの王の傭兵になったら」と薦めたことから両親の間に亀裂が…

家計をあずかる主婦としたら「働いてちょうだいよ」と言いたくなるわよね。
夫にしてみれば「今さら人の下で働けるか!」ってことかしら。

1197年に父が再び王になった時、母アーデルハイドは離婚されてしまいました。
でもアーデルハイドは頑固に居座り続けたもようです。

        
オタカル1世は新しい妃との間に王子が生まれた1205年
デンマーク王ヴァルデマ-2世とマルガレータの結婚を決心します。

ヴァルデマー2世は着々とドイツ方面に手を伸ばしていました。
ドイツでは名を上げていたのではないでしょうか?

母娘は一緒にデンマークへ旅立っていきました。 実はこれがねらいですか?

美しいダグマーはすぐにデンマークの人たちの心をつかみます。
1209年に王妃になり男の子も生まれました。
たくましい王と美しい王妃、まるで物語のようですね。
しかし1213年、ふたり目の子供の出産の時に、ダグマーは亡くなります。

古いバラッドによると、ダグマーはヴァルデマー2世に
「ポルトガルのベレンガリアはデンマークに災いをもたらします」と予言して
カール・フォン・ライスの娘キルステンと再婚するように薦めました。

でもね…ヴァルデマー2世はベレンガリアと再婚しちゃったの
フランダース方面との関係を強化するため、というのが理由ですけど
ベレンガリアは “ 美しい花 ” とよばれていましたのでね…

さてさて、ダグマーの予言はあたったのでしょうか? つづく…

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王クヌート6世妃 ゲルトルード

2010-02-27 10:07:29 | デンマーク王妃
                アヴェ・マリアなんですけどね…
                      聖女っぽいイメージで


聖女のような王妃
クヌート6世妃 ゲルトルード・アフ・バイエルン


1152~1197/在位 1182~1197

ゲルトルードは列聖されたわけではないので聖ゲルトルードとは別人なのです。

ザクセン公女ゲルトルードは、14歳の時に7歳年上の
スワビア公フリードリヒ4世と結婚しましたが、翌年死別してしましました。
で、19歳でクヌートと婚約したのですが、クヌートは11歳年下の8歳!
6年後にやっと結婚いたしました。

         
なぜにそこまでして?

デンマークは古くからドイツ方面と熾烈な争いを繰り返して
領土を獲ったり獲られたりしていたわけですが
ゲルトルードの父ハインリヒ3世は、当時ドイツで捨て置けない存在だったのよね。
後に失脚しちゃうけど…

弟のヴェルデマー2世もゲルトルードの妹リチェンツァと婚約しましたし
妹ベアトリクスはゲルトルードの弟リューネブルク公に嫁ぎました。

結婚したと言ってもクヌートは14歳ですから、最初は形式的なものだったようです。
でもクヌートも大人の男になってくるわけよね。

ところが彼女はクヌートに、清く敬虔な生活をしたいと望みました。
うーん、つまり、何もしないってことかしらね?
そしてクヌートも彼女の希望を尊重したんですって。

当時ふたりを興味津々で見ていた年代記作家のリューベックは
「貞節な妻と暮らしている夫の方が、妻よりも慎み深い人物だろう」と記しています。
確かに

もちろん子供はいませんで…王室的には清純すぎるのも困りものですな。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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デンマーク王ヴァルデマー1世妃 ソフィア

2010-02-26 23:13:17 | デンマーク王妃
氷の微笑が似合う王妃
ヴァルデマー1世大王妃 ソフィア・アフ・ミンスク


1140頃~1198頃/在位 1157~1182

ヴァルデマー1世は騎士制度の導入や防壁の強化で国力を強めたり
貿易を奨励して港町コペンハーゲンを開いたりした王で、大王とよばれています。

大王といわれる人の王妃ですからね。
さぞや敬虔で才気あふれる人だったに違いない…肖像画も神々しいですね。
でも、ちょっと違ったみたいです

ソフィアのお母様はポーランド王女でスウェーデン王の未亡人リキサでした。
とは言っても、夫だったマグヌス・エーリクソンはデンマーク王家出身で
1年間在位しただけだし、統治したのもスウェーデン南部だけです。

父親については諸説ありますが、リューリク家の流れを汲んでいて
ミンスク一帯を治めていたフォロダルだろう…という説が有力です。

        

母親リキサがスウェーデン王スヴェルケル1世と再婚したので
スウェーデンで大きくなりました。

1154年、ソフィアは、デンマークとスウェーデンの同盟を強化するため
ヴァルデマーと婚約をします。

しかしデンマークに到着すると「若すぎるんじゃ…?」ということになりました。
(14歳かぁ、当時の政略結婚だったらべつに若すぎることないんじゃない?)
そこでブーディルという女性の手にあずけられ、17歳になってから結婚しました。

お母様も美しい人でしたが、ソフィアも非常に美しかったそうです。
でも、とても専横で残酷な性格だったと言われています。
あくまでも噂ね、 ヴァルデマーの愛人トーファを殺しちゃったらしい…
それから義理の妹キルステンをボコボコにしてしまったとも…

1182年に未亡人になったソフィアは、チューリンゲン方伯ルートヴィヒ3世から
プロポーズされて再婚することにしました。
国境まで、息子をはじめ大勢の人たちに見送らて嫁いだそうよ。
見送った人たち、寂しかったのか、いなくなるのが嬉しかったのか?

大々的に送り出されたソフィアなんですけど
8年後に離婚されてデンマークに帰って来ちゃった…
息子が王になってますから、老後は安心ですね!

でも息子の嫁はいやだったでしょうねぇ… 帰って来られても

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

物語 北欧の歴史 中央公論社


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デンマーク王エーリク3世妃 ルートガルド

2010-02-26 23:10:25 | デンマーク王妃
                 中世初期の貴婦人です

可哀想なんだかどうだか・・・
エーリク3世妃 ルートガルド・アフ・ザルツヴェデルス


生年不詳~1152頃/在位 1144~1146

ルートガルドはザルツヴェーデル辺境伯ロドルフの娘で
おじにあたるあたるフリードリヒ・フォン・ゾマーシュベルクと結婚しました。
一男一女が生まれたんですけど、なぜか離婚を強いられてしまいました。

          
その後、お兄様がルートガルドをエーリク3世に嫁がせたってことは…
ひっどーい! 王様に取り入るために離婚させたってことですか?

可哀想… と思いきや、ルートガルドは気まぐれで浪費家だったのね。
しかも夫のエーリクまで彼女の影響で無駄遣いをするようになってしまいました。

ついには浮気がバレてドイツへ追放… じゃあ最初の離婚ももしかして…

1146年にエーリク3世が亡くなると、フィンゼンブルク伯へルマンと再婚しました。
娘さんが3人生まれたそうです。
よいお母さんになっていればいいのだが…


悪評しか残ってないという・・・
スヴェン3世妃 アディール・アフ・マイセン


生年不詳~1181/在位 1152~1157

スヴェン3世は共治王で、クヌート5世、ヴァルデマー1世も
同時期に王になっていました。
中世の北欧では、この “何人も王様状態 ” がけっこう多いんですけど
争いを防ぐためらしいですよ。
でも争いは絶えないのよね… 権力を独り占めしたくなるのでしょうね。

スヴェン3世もそう考えて、1157年にふたりの共治王を謀殺しようとします。
クヌート5世は殺されましたがヴァルデマーは逃げ出しました。
その後グラーテ・ヘーデの戦いで、スヴェン3世はヴェルデマーに敗けて亡くなりました。

親類なのに…仲良くやれんものですかね

アディールは1152年にスヴェンと結婚しています。
ほとんど知られていない王妃ですが、スヴェンをドイツかぶれにして
スウェーデンの古き良き伝統を捨てさせたということで批判されました。

夫の死後バレンシュタット伯アダルベール3世と再婚しました。
ドイツに戻れて良かったね。
       


デンジャラス・ウーマンの娘とは思えない
クヌート5世妃 エリン・アフ・スヴェリエ


1130頃~没年不詳/1156~1157

スウェーデン王スヴェルケル1世王女エリンは
上記のように、夫クヌートを殺されてしまって国に帰りました。
結婚後1年目の出来事ででした。
         
その後はヴレタ修道院に入っちゃったそうでございます。
悪女のレッテルを貼られたウルフヒルドの娘(異説あり)とは思えない敬虔さね。
とはいっても、この修道院は貴族の溜まり場だったらしい…

最近よく聞くエリン夫人…あの奥さまも北欧出身じゃなかったかしら?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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デンマーク王エーリク2世妃 マームフレド

2010-02-25 23:34:57 | デンマーク王妃
             こちら、キエフの11世紀のフレスコ画らしいです
                  こんなお衣装を着ていらしたみたいですね

家系図は込み入るばかり・・・
エーリク2世妃 マームフレド・アフ・キエフ


1105頃~没年不詳/在位 (ノルウェー王妃)1116~1130
             (デンマーク王妃)1134~1137

マームフレドの父はキエフ大公ムスチスラフ1世です。
キエフ大公家は北欧、東欧、イングランドなど、幅広く婚姻を結んでいました。
母はスウェーデン王女クリスティーナ、妹インゲボルグはデンマーク王子妃だし
5代前からスウェーデンやノルウェーとは繋がりがありました。

      
マームフレドも1116年から1120年の間にノルウェー王シグル1世と結婚しました。
1130年に未亡人になって、愛人ボーギルドが生んだマグヌス4世が即位すると
やっぱり居づらくなっちゃったのかしらね? ノルウェーを後にしました。

はっきりしていませんが、まっすぐデンマークへ向かったということは
すぐに再婚したってことかしら?
売り込みに行ったの? それとも話しが決まっていたの?
いずれにしてもエーリクが王になる(1134年)前に結婚しています。

さっきノルウェーに居づらくなったとか書いちゃったんだけど
継子のマグヌス4世と姪っ子クリスティーナの結婚を仲介しているので
笑顔で別れて来たのかもしれないですね。

エーリク2世は不人気な王様でした。
1137年に地方貴族に殴り殺されちゃってます。

その後のマームフレドのことがわからないんだけど…
娘もいたことだし、孫マグヌスはノルウェー王にもなってますから
幸せな老後を送ったと思いたいですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『最終目的地』それぞれの楽園を求めて

2010-02-25 23:20:52 | アメリカの作家
THE CITY OF YOUR FINAL DESTINATION 
2002年 ピーター・キャメロン

未知の人物が突然現れたことで、それまで平穏に暮らしていた人々の本心が表れて
人生が変わる…というのは、すごくありがちな物語です。

『最終目的地』はそんな小説です。そしてものすごく面白い!!

あらすじは書きませんけど登場人物を書いときますね。
それで彼らの人生がどう変わったか想像してみて

ユルス・グントは3年前にピストル自殺した作家です。
出版した本は20年前に書いた『ゴンドラ』1冊だけでした。

アーデン・ラングトンは、ユルス・グントの愛人だった人です。
穏やかで謙虚で母性に溢れ、家事や農園の世話をしています。

キャロライン・グントはユルスの妻、辛辣でマイペースな女性です。
画家をあきらめ、部屋にこもって模写ばかりしています。

ポーシャはユルスとアーデンの8歳になる娘で
修道院付属の学校に通っていてお祈りと聖人が大好きです。

三人はウルグアイの人里離れたオチョス・リオスで暮らしています。
そこは、ナチスを逃れたユルスの両親たちが手に入れた土地でした。

近所の製粉所にはユルスの兄アダムが暮らしています。
ダンディでお洒落で、人を傷つけることしか言わないインテリ老人です。

アダムと一緒に暮らしているのは恋人のピートで
バンコク生まれの美しい青年です。

ユルスの遺言執行人である、アダム、キャロライン、アーデンに
彼の伝記が書きたいと手紙をよこしたのがオマー・ラザキという大学の研究生。
優しげで誠実そうな、少し気の弱い青年です。

伝記の執筆に承認を与えなかったキャロラインとアーデンでしたが
奨学金のために、どうしても伝記を書かなければならなかった彼は
恋人の叱責を受けてはるばるカンザスからやってきました。

もう オマーの登場で何かが変わりそうでしょ?
それは女三人が暮らす家の方? 男ふたりが暮らす製粉所かしら?

ある日ピートの手伝いをしていたオマーは蜂に刺されてアレルギーを発症し
意識不明に陥りました。

やって来たのはオマーの恋人ディアドラ・マッカーサー。
彼女は実際的で有能な教師で、オマーに厳しい言葉と指示ばかり与えています。
でもオマーを本気で愛しているんです。

この人の登場も捨て置けないですよねっ。

とにかく、ディアドラ以外は行動しない人ばかりの物語で
南国の気だるさの中、ゆるゆる~と日々が過ぎて行ってます。

アクティブなディアドラは嫌われ者に思えるかも…
でも彼女が一番の功労者かもしれません。

停滞していたウルグアイの人々には、確実に変化がおこります。
語られなかった秘密が打ち明けられて、見せていなかった感情を露にして
皆の中に小さな波風が立ち始めます。
誰がどうしてどうなるの? そして伝記は?

ウルグアイという国の希薄なイメージからくる神秘性に加えて
イヤみの無い文章、イヤみだらけの巧みなセリフが心地よく
最後までダレること無しに読めた気がします。
あらすじは… 途中でほんとに想像ついちゃいますから

最終目的地  新潮社


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デンマーク王ニルス妃 ウルフヒルド

2010-02-24 23:23:19 | デンマーク王妃
              ウォーターハウスのキルケですけどね…
                    こんなイメージがありまして


スウェーデンでは “ 危険な女 ”
ニルス妃 ウルフヒルド・ホーコンスダター


1095~1148/在位 (スウェーデン王インゲ2世妃)1117~1125
          (デンマーク王妃)1130~1134
          (スウェーデン王スヴェルケル1世妃)1134~1138

スウェーデン王妃 → デンマーク王妃 → スウェーデン王妃という
華々しい経歴を持つウルフヒルドですが、言い伝えどおりならデンジャラスな女性です。

彼女には、ニルスの前妃マルグレーテの娘だと言う説がありますが
父親はノルウェーの有力者Thjotta家のホーコン・フィンソンと言われていて
必然的にマルグレーテの子じゃないでしょう…ってことになります。         

         
1117年頃に結婚したスウェーデン王インゲ2世と1125年に死別して
デンマークへやって来たのですが、これにはわけがありまして…
詳しくはスウェーデン編で でも逃げて来たということは言っときましょう。

ニルスとの結婚生活は4年でしたが、ほとんどノルウェーにいなかったと思われます。
彼女、ニルスが亡くなった後、スウェーデン王スヴェルケル1世と再婚するのですが
実は彼、インゲ2世が生きていた頃からウルフヒルドの愛人だと噂されていました。

ウルフヒルドは、1132年にはスウェーデンに帰ってしまいました。
それどころか、1130年(スヴェルケルが即位した年)には彼と結婚をしていた、
なんて説もあります。

この説は、ニルスとウルフヒルドの結婚が正当でないということで
後々彼女が生んだ子供が王位を要求しないように…という
デンマーク側の思惑からでたお話しみたいですね。
多くの歴史家は、ニルスとウルフヒルドは結婚しただろうと考えています。

              
               見つけちゃったよ、ウルフヒルド
                    イメージとちがってますけど…


いずれにしても、ニルス、ダシにされちゃった感が漂います。

でも、長~い王家の歴史の中には、こんなパワフルな女性が時々登場してくれなくちゃ
美しく敬虔な淑女ばかりじゃ飽きちゃうものね

(参考文献 Wikipedia英語版)
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デンマーク王ニルス妃 マルグレーテ

2010-02-22 00:28:44 | デンマーク王妃
                  久々の挿絵シリーズ
                     船出のイメージで選んでみました


平和の使者
ニルス妃 マルグレーテ ・フレドクラ・アフ・スヴェリエ


1080頃~1130/在位 (ノルウェー王妃)1101~1103
           (デンマーク王妃)1105~1130

デンマーク…王家の歴史が長いだけに、急いでアップしないと
1年ぐらい続きそうな気がしてきましたよ…

マルグレーテはスウェーデン王インゲ1世の王女でした。
1101年、平和条約のためにノルウェー王マグヌス3世と結婚して
この時から “ フレドクラ(平和の乙女) ” と呼ばれるようになります。
    
たった2年でマグヌス3世と死別したマルグレーテは、1105年、ニルスと再婚します。
スヴェン2世の五男ニルスは1104年に即位していたんですけど
五男までまわるなんてすごいですね。
いかに君主の入れ替わりが激しかったかが伺えます。

ニルスは優しい人だったようですが消極的で、所謂 “ 鳩派 ” です。
そして(鳩派だからっていうわけではありませんからね)統治能力が欠けていたのね。
それでマルグレーテに統治も政治もお任せしてしまいました。
普通は未成年の子供が王になったり、夫が不在の時に王妃が摂政になるものなのに
彼女は常時夫の摂政になりました。

マルグレーテは賢明に国を統治したみたいです。
そのため「デンマークはひとりの女性の手にかかっている」と言われました。
また、彼女が統治している間は、デンマークとスウェーデンの間に争いはなくて
まさにフレドクラ!!だったわけですね。

実はマグヌス3世と死別して彼女がノルウェーを去る時、人々はすごく失望したそうです。
こんなにやり手の王妃だったら、確かに残ってほしかったでしょうね?

マルグレーテは1130年に亡くなりました。
残されたニルス王で国は大丈夫だったのかしら? つづく…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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デンマーク王エーリク1世妃 ブーディル

2010-02-22 00:22:11 | デンマーク王妃
               こちらはブーディルじゃありませんで…
                    中世の巡礼者の女性でございます


至福の死を迎えたかもしれない
エーリク1世妃 ブーディル・サーゴッツダター


生年不詳~1103/在位 1095~1103

ブーディルはデンマークの伯爵Thrugotの娘さんです。
祖父はかなり有名なサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者で
ガリシアウルフとして叙情詩にも登場している方です。

        
1086年にはエーリクと結婚していました。
オーロフ1世の治世中は、夫婦共々スウェーデン宮廷に追放されていたらしいのだが
なんで兄弟仲がこう悪いかね?
やはり王位や命を狙われる危険を避けるためでしょうか?

ブーディルは美しいとともに人柄が大変善い人でした。
エーリク1世は浮気を繰り返していたのですが、ブーディルはとても寛大で
愛人の子供たちの教育まで引き受けたっていうんだから…ちょっとお人好しでは?

1100年頃、ふたりは皇帝に招かれてコンスタンティノープルに出かけ
イェレサレムまで巡礼をすることにしました。

しかしキプロスでエーリクが病にかかって亡くなります。
ブーディルは、たぶん自分も病にかかっていましたが王を葬ると旅を続けて
1103年、オリーブ山までたどり着き、そこで息絶えました。

王と聖地へ向かい、聖地で夫の後を追う…敬虔な信者にとっては
ありがたい最期だったんじゃないかしらね?

エーリクとブーディルの結婚は教会から祝福を受けていません。
法的には正式な妃ではないのです。
そのため長い間歴史に登場しなかったそうです。

孫のヴァルデマー1世は王になった時に
「ブーディルはエーリク1世の唯一の正妻だった」と宣言しましたけど
ま、孫はそう言うよね…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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デンマーク王ハーラル3世妃 マルグレーテ

2010-02-22 00:21:54 | デンマーク王妃
兄弟まとめていっちゃうわね、まずは長男の嫁
ハーラル3世妃 マルグレーテ・ハスビョルンスダター


生没年不詳/在位 1076~1080

上の絵は誰でもないの…ノルマン系の貴婦人の当時のお衣装らしいです。
肖像画が何もないんでね…

ハーラル3世はスヴェン2世の長男(庶子)です。
マルグレーテはハーラル3世の叔父アスビョルン伯の娘、ってことは従妹ですね。
            


次は次男の嫁
聖クヌート4世妃 アディール・アフ・フランデルン


1064頃~1115/在位 1080~1086

次男(庶子)クヌート4世は1101年に教皇パスカリス2世によって聖人になってます。
アディラはクヌートが即位した後に結婚しました。
クヌート4世は、デンマークで王権を強めた王で、最期のヴァイキング王と呼ばれています。

1086年、クヌート4世がオーデンセで暗殺されてしまうと
アディラは息子のカルルとフランドルへ避難し、再婚まで留まりました。

1092年、アプリア公ルッジェーロ・ボルサと再婚するためにイタリアへ趣きました。
アプリア(プーリア)では何年か息子グリエルモの摂政となっています。
            


そして三男の嫁
オーロフ1世妃 インゲゲルド・ハーラルスダター


1046~1120以降/在位 (デンマーク王妃 1086~1095)
            (スウェーデン王妃 1105~1120)

インゲゲルドはノルウェー王ハーラル3世の王女です。
デンマーク王子オーロフとの結婚は完全に政略結婚ですね。
            
オーロフと兄のクヌート4世はあんまり仲が良くなかったご様子で
クヌートが亡くなった時にはフランドルに追放中でした。
王の宣言はしたもののフランダルからは出れず…ということで五男ニルスと交換されて
デンマークへ帰国しました。

1095年にオーロフ1世が亡くなりました。
奇妙な死に方だったので、自殺とも言われています。
オーロフ1世は、唯一どこに埋葬されたか判っていないデンマーク王です。

インゲゲルドは王の死後スウェーデン王子フィリップと再婚しました。
1105年フィリップの即位にともない王妃になっています。

夫よりは長生きしたようです。

スヴェン2世には王になった四男、五男もいるのです。 つづく…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『六号病棟・退屈な話』医者も人也・・・

2010-02-22 00:20:13 | ロシアの作家

アントン・パブロヴィチ・チェーホフ

もちろんチェーホフがポップでご陽気な作家でないことは重々承知していますが
やけに暗い気がします。
やはりその世界を知りすぎているだけに、リアルな暗部が滲み出ているのでしょうか?

チェーホフはお医者さんで、医者を題材にした短篇が多々ありますが
いったい旧体制のロシアにおけるお医者さんの地位ってどうだったの?という
謎が深まる一冊でした。

『脱走者/1887年』
肘を痛めて手術をすることになり、ひとり病院に残された7歳のパーシカ。
病院の食事、入院患者の死などを目にするうちに「母ちゃん」と叫んで病室を飛び出し
陽気な医者に会いたくなって窓の灯りをたよりに走っていきます。

なんだかパーシカの腕の病は深刻そうなんですが、それはおいといて…
7歳の子供の入院に母親が付き添えない病院なんて、考えられないですよね。
この物語のお医者さんは、子供には優しい人だったみたいで、それが救いでした。

『アニェータ/1886年』
医大生のステパンは、一緒に暮らしている女アニェータの肋骨を見ながら勉強します。
アニェータは今まで5人もの学生と暮らし、卒業と同時に捨てられていました。
もちろんステパンもそうするつもりです。

私はこのタイプの女の人が出てくる物語に弱いのよね。
捨てられるって分かっているのに尽くすのは何故なんだろうか?
年をとって学生たちに相手にされなかったらどうなるの? 想像が尽きません。

『敵/1887年』
医師のキリーロフの息子が死んだ直後、妻を助けてほしいと言って男がやってきます。
キリーロフは断りますが男は食い下がり、1時間の約束で出かけて行きます。
すると、男の妻の病気は嘘で、他の男と駆け落ちした後でした。

この後キリーロフはすごく怒りを覚えるんだけど、それは騙されたからじゃないの。
アボーギンていう男に対して怒るんですが、その気持ちは分かる。
この物語によると、医者は仕事に値する尊敬と報酬を得ていなかったような感じです。

上の3篇以外もすべて病院やお医者様が題材になっています。
表題の『六号病棟』は精神科をテーマにしたちょっと寒気を感じる物語。
精神科医に睨まれたら、もう人生終わりなのかしら?
『退屈な話し』は自分の死を悟った老教授の、晩年の嘆きを描いた物語です。
どんなに高潔な思想や信念を持った人も、死を前にして「ま、いいか」の
境地に陥ってしまう切なさが悲しい一篇でした。

ソ連では医者にも勲章や官位があったみたいです。
出世のみが目標の人がいますし、制度自体をあきらめてなげやりになった人も登場します。
どうやら報酬は充分でないようですが、上手くやって貯め込んでいる人もいます。

患者のために寝る間を惜しむ医者、研究命の学術肌な医者、地位や出世に血眼な医者、
いずこも同じか…

チェーホフは、何か医者の世界に疑問を感じてこれらの小説を書いたのでしょうか?
自分への戒めだったのでしょうか?
いつかチェーホフの人と也を読んでみようと思います。

チェーホフ全集〈5〉 筑摩書房


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文庫で全集があったとは… 探さなきゃ
コメント (2)
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デンマーク王スヴェン2世妃 ガイダ

2010-02-20 12:40:03 | デンマーク王妃
            肖像画がないのでいろんなところから拾ってきてます。
           上の絵はヴァイキング物語の挿絵みたいですが可愛らしいので拝借しました。


なんだかすごいことになった母娘
スヴェン2世妃 ガイダ・アフ・スヴェリエ


生年不詳~1048/在位 1047~1048

スヴェン2世は、スヴェン1世の王女エストリドが摂政ウルフ伯と結婚して生まれた王子です。
クヌート1世が亡くなるとノルウェー王マグヌス1世がデンマーク王に即位しましたが
マグヌス1世の遺言で指名されて即位しました。
ここから王家がスキョル家からウルフ家に変わります。

スヴェン2世にはお子様が18人いてですね、名前がわかってる奥様は3人です。
そのうちひとりは99.9%子供を生んでいないので、他にもたくさんの妃がいたと思います。
とりあえずわかっている最初の妃を…

ガイダはスウェーデン王アーヌンド・ヤーコブの王女で
スヴェンがスウェーデンに追放されている時に結婚したとみられています。
結婚の翌年に亡くなりました。
言い伝えではスヴェンの恋人トーラに毒殺されたことになってます。

       

この後、スヴェン2世は驚きの再婚をっっ!!


で、娘の後に嫁いできたお母様
スヴェン2世妃 グンヒルド・スヴェンスダター


生年不詳~1061/在位 (スウェーデン王妃)1022~1050
            (デンマーク王妃)せず
       
グンヒルドは、アーヌンド・ヤーコブ、すなわちガイダのお父様の妃、ってえことは
ガイダのお母様です(異説あり)

アーヌンド王が亡くなった1050年、スヴェン2世と再婚したっていうじゃないの
しかしスヴェンには恋人もいたことだし、これは完全に政略結婚でしょうねっ?
スウェーデン王の親族に誰か年ごろの娘はいなかったのかしら?

       

さすがにこの結婚は教会から許されず、破門を言い渡されそうになって離婚しました。
グンヒルドはヴェステルイェートランドの自分の領地に戻り懺悔の日々を送りました。

でも、もともとアクティブな人だったのかしらね?
僧服のための生地や小物を作る工房を設立したそうです。
ロスキレ大聖堂の聖歌隊のガウンの注文も受けたって言うからやり手だね。

もしかしたら、このアクティブさが男性を惹き付ける魅力だったのかも…
政略結婚と考えるよりは素敵ですよね。

と思いきや…
グンヒルドと侍女たちは礼拝服を着て世間から孤立していたので
Gudhem修道院を建てたという噂がたつほどひっそり暮らしていたらしい…
(修道院は実際には100年後に建ってます)

はっきりしませんが1061年に亡くなった説が有力みたいです。

もうひとり名前が分かっている妃トーラについては詳細が分かりません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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デンマーク王クヌート1世妃 エンマ

2010-02-20 12:33:33 | デンマーク王妃
二度イングランド王妃になった
クヌート1世大王妃 エンマ・アフ・ノーマンディエ


985頃~1052/在位 (エセルレッド2世妃)1002~1016
           (クヌート妃)1017~1035

“ ノルマンの宝石 ” と謳われた美女エンマはノルマン公リシャール1世の娘でした。
ノルマンディーももともと北欧のヴァイキングがフランスに進出して築いた土地です。

        

エンマは1002年に、イングランド(サクソン)王エセルレッド2世と結婚しました。
エセルレッドはその年に前妃エルギフ・オブ・ヨークを出産で亡くしていて再婚でした。
イングランドではエルギフの方が尊敬を集めていたそうです。

エンマはこの時にアングロサクソン式の名前エルギフに変えたみたいで
これが後々、クヌートの最初の妃エルギフ・ノーサンプトン
一緒くたになってしまった原因じゃないかと…ややこしいのでエンマでいくね。

エセルレッド2世と王太子エドマンド・アイアンサイドが1016年に亡くなると
クヌートはエンマと結婚します。
エルギフ(ノーサンプトン)のところでも書いたけど、奥さんと離婚したわけではなくて
完全に重婚でございます。

これはイングランド王になったクヌートが、ノルマンディーからの攻撃をそらすための
政略結婚には違いないんですけど、なにしろ “ 宝石 ” だからね

エンマはエセルレッド2世との間に男の子がふたりいました。
これがエドワード(後の1世)とアルフレッド。
クヌート王との間にはハーディカニュート(後の王)が生まれました。
ハーディカニュートが急死しないで、イングランドとスカンジナビア一帯を治めていたら
歴史は大きく変わっただろう、というのが歴史家の見解みたいです。

エルギフ(ノーサンプトン)にもハロルド(後の1世)とスヴェンがいたし
エセルレッド王とエルギフ(ヨーク)の子エドワード・アジリングとエドレッドも
王位を主張していました。

王位継承ぐちゃぐちゃ
結局最後にはノルマン家に持ってかれてしまったじゃないの…

1035年にクヌート大王が亡くなった時、ハーディカニュートはデンマークにいて
ノルウェイのマグヌス1世とスウェーデンのアーヌンド・ヤーコブと戦っていました。
エドワードとアルフレッドは、クヌートに征服された時から
ノルマンディーへ避難していて、頼みの息子はみな不在。

そんなわけでエンマは敵陣にひとり残っていたようなものなのね。
1036年にエドワードとアルフレッドはエンマに会いにイングランドを訪ねました。
母親に会いに里帰り…あたりまえのことですよね?

でもこれは異母兄ハロルド1世に対する挑戦みたいに受け取られてしまって
アルフレッドは捕らえられ、中世的なむごい殺され方をします。
エドワードはノルマンディーへ、エンマはフランドルへ逃げて
再びイングランドの地を踏んだのは、ハロルド1世の死後でした。

しかし、エンマはこの時次の王に息子エドワードでなく
ノルウェー王マグヌス1世を推しています。
最初の結婚でできた息子は嫌いだったみたい… 幸せな結婚じゃなかったのかしら?

妻がいるところへしゃあしゃあと嫁いできたというだけであまり好感を持てないのだが
当時は悪いことじゃなかったんだし、女性が生き抜くのも大変だったでしょうから…
17歳で最初の結婚をして、次の結婚も政治絡みで
恋愛なんか望むべくもなかった人生って可哀相ね…

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

英国王室史話〈上〉 中央公論新社


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