まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ポーランド王スタニスワフ1世妃 カタジーナ

2015-10-08 20:47:36 | ポーランド王妃
ルイ15世が娘婿で良かった?
スタニスワフ1世妃 カタジーナ・オペリニャシスカ


1680~1747/在位 1705~1708、1733~1736

アウグスト2世が廃位された間に一瞬王座につき
復位したアウグスト2世の死後再度一瞬王になったスタニスワフ1世の妃は
ポーランドの高官ヤン・カロル・オペリンスキの娘カタジーナです。
          
カタジーナが18歳の時に、21歳のスタニスワフと結婚しました。

結婚から6年後にスタニスワフがポーランド王になりますが
これはスウェーデン王カール12世のおかげでした。
カール12世は自分の思い通りに動く王を求めていたんだと思われます。

4年で退位させられた後は、ポーランドを逃れツヴァイブリュッケンで暮らしていましたが
1725年に次女のマリアがフランス王ルイ15世に嫁ぎます。
その後はフランスで王様の義父として暮らしていました。
このまま安穏と余生が送れればよかったのですが…

アウグスト2世が亡くなると、今度は娘婿ルイ15世の野望のせいでポーランド王になります。
しかしポーランドにはアウグスト2世の王子アウグスト(3世)を支持する貴族が多く
結局は3年でフランスへ逃げ帰ることになりました。

その後はルイ15世にロレーヌ公領を与えられ、そこで余生を送りました。

どうなんでしょうね?
他国の王様にいいように使われちゃってる夫を見ている心境というのは…

カタジーナのパーソナリティはさっぱりわからないのですが
王様たちと一緒になって「王になっちゃいなさいよ!」とけしかけていたのか
「もうおやめになったら…」と止めていたのか、知りたいところですね。
肖像画からは「おやめになって」の印象を受けますがいかがでしょう?

1747年にカタジーナが亡くなると、ルイ15世はノートルダムで盛大な追悼式典を催します。
この当時、ルイ15世はポンパドゥール夫人を愛妾にして2年目ぐらいで
王妃そっちのけ時代だったと思われます。
悪評を一掃するためだったのか、王妃への贖罪のつもりだったのか
カタジーナのことを “ 元ポーランド王妃 ” としてかなり持ち上げた式典だったようです。

前王妃クリスティーナのような寂しいお葬式よりはよいのかもしれないが… どうなんだろ?

ここで終わろうかと思ったのですが、ポーランド王妃シリーズはあと二人で終わるんで
サクサクと終わらせちゃうね。

次の王は、アウグスト2世の王子アウグスト3世です。
王妃はハプスブルク家のマリア・ヨーゼファです。


               
愛妾とよばれ続けた王妃
スタニスワフ2世妃 エルジェピタ・グラボヴスカ


1749~1810/在位せず

さー! 最後の王妃ですよ!! みなさん
長かった~…って、怠け者(私だ)がたまにしかアップしないからなんですけどね…

この方の素性はよくわかりません。
最初にヤン・イェルジー・グラボヴスキという貴族と結婚したらしいのですが
1789年に死別し、その後こっそりスタニスワフと再婚しました。
      
なんでもグラボブスキとの間に生まれていた4人の子供たちも
スタニスワフの子供だと宮廷中の噂になっていたらしいです。

スタニスワフの子供を生んでいる女性は他にもいましたが、結婚はしていません。

エルジェピタは王妃のタイトルはなく、愛妾としての扱いを受けていましたが
スタニスワフに対してすごく影響力があって、それも不人気の原因になっていました。

1796年、スタニスワフは廃位され、ポーランドは、ドイツ・オーストリア・ロシアに
三分割されてしまいます。

その後スタニスワフは、サンクトペテルブルクで年金をもらいながら暮らしたのですが
エルジェピタは夫について行き、最後まで連れ添ったそうです。
不倫 → 結婚パターンですが、政略結婚と違って本当に愛し合っていたのかもしれないね。

スタニスワフの死後はポーランドに戻って、活人画というパフォーマンスみたいな芸術の
パトロンなどしながら過ごし、スタニスワフの死から4年後の1810年に亡くなりました。

ちなみに、スタニスワフにはエカチェリーナ2世の愛人説があります。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと予告コーナー
やっとポーランドが終わりました~! 次はどこにしようかなと考え中です
候補は三つあるのですが、どれもぜんぜん準備してない状態… 次にお目にかかるのはいつになるんでしょうか
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ポーランド王アウグスト2世妃 クリスティーナ

2015-10-06 21:52:48 | ポーランド王妃
Exile バンザイ!な王妃
アウグスト2世妃 クリスティーナ・エベランディーナ・ホーエンツォレヴナ


1671~1727/在位 1697~1706、1709~1727

ヤン3世ソビエスキが推した王子ヤクブ・ルドヴィクと、王妃マリア・カジミュラが推した
娘婿バイエルン選帝侯マクシミリアン2世を破って王になったアウグスト2世。

私はこの人がなぜ選ばれたかとか政治的な功績はどうでもよくて、女好きに注目!
なにしろ庶子が350人以上いたっていうんだから、いったい何人の愛妾がいたんだろうか?

以前有名どころのマリア・アウローラファティマウルスラ・カタリーナ
アンナ・コンスタンシアは取り上げてみましたが
一夜限りから深いお付き合いまで、ウジャウジャいたはず…

そんな王様の妃はいったいどんな方なんでしょうね?

アウグスト2世の妃クリスティーナは
ブランデンブルク-バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストの娘さんです。
母親はゾフィー・ルイーゼ・ビュルテンブルク、どちらも名家ですね。
        
そんな名家出身の両親は、ものすごく贅沢に暮らしていたそうです。
おかげで領地の財政はアップアップ状態でした。

クリスティーナは、22歳の時にザクセン公フリードリヒ・アウグストと結婚しました。
嫁ぎ先もヴェッティン家で、良いお家柄だと思うのですが
贅沢な実家が忘れ難かったのか、頻繁に里帰りしています。
ドイツ国内ですからね、 外国に嫁いだ妃よりは里帰りがしやすかったと思いますが…

もともと政略結婚で愛が無いのはわかりますが、さらにアウグストの浮気三昧で
この結婚はものすごく不幸なものでした。

結婚から4年後、アウグストがポーランド王に選出されます。
この時アウグストはカトリックに改宗しましたが、クリスティーナは拒否したので
王妃としての戴冠はしていません。
アウグストはプロテスタントでもいいからさ、とクリスティーナをポーランドに呼びますが
クリスティーナはなかなか聞き入れませんでした。

アウグストの女好きは、夫婦の不仲の大きな原因かもしれませんが
クリスティーナもけっこう頑な性格だったみたいですね。

アウグストがポーランド王になってからは完全に別居状態になります。
王になったアウグストはポーランドとザクセンを行ったり来たり。
一方クリスティーナは、冬はのトルガウ、夏はプレッチェの自分のお城で暮らしてました。
どちらもザクセンですが、アウグストがポーランドからザクセンに帰ってきて
公的な場に出る時、たま~に顔を出すぐらいで、夫とはほとんど顔を合わせませんでした。

夫どころか、クリスティーナは宮廷にも社交的な行事にもほとんど顔を出さず
ドレスデンのお祭りでだけ姿を見ることができたそうです。

どうやら “ 宮廷からの追放生活 ” というのを楽しんでいたみたい。
隠居状態というか、自ら軟禁生活を送っているような感じでした。
そうは言っても、芸術が大好きで、身寄りのない子供たちの援助をするなど
王妃らしい一面もありました。

結婚から3年後に息子のフリードリヒ・アウグストが生まれますが、息子を育てたのは
義母にあたるアンナ・ゾフィア・オルデンブルク(デンマーク王フレデリク3世王女)でした。
これは、よくある義母が意地悪で子供を取り上げるというのとは違ったみたいです。
アンナ・ゾフィーとクリスティーナは仲良くやっていたみたいで
クリスティーナはちょくちょく息子の元へ訪れたそうです。 同居ではないのね…

たぶん父親は争いと女性に明け暮れて家におらず、母親も引きこもり…ってことで
祖母が「こりゃいかん!」と引き受けたんでしょうね。

半分ぐらいは自業自得とはいえ、寂しい人生を送ったクリスティーナは
55歳で亡くなります。
夫のアウグスト2世ばかりか、一人息子のフリードリヒ・アウグストも
葬儀に参列しませんでした。

ヨハン・セバスチャン・バッハが、クリスティーナの死を受けて
カンタータ Lab, Furstin, lab noch einen Strahl, BWV 198, を作曲したということで
ちょっとした救いになりますね。

自分の世界の中だけで生きていくのって、幸福な人生のように思えなくもないが
敵はつくるかもしれないし、世間に忘れられるかもしれないし、いざという時頼れないし
なかなか勇気のいる生き方かもしれないですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
2PMのテギョンと少女時代のサニーとヒョヨンが一緒に訪れた小さい居酒屋ってどこなんでしょーねー?
飲んでてひょっこりKポスターが入って来たらあたふたしてお皿とかグラスとか割っちゃいそう…  
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ポーランド王ヤン3世ソビエスキ妃 マリア

2015-10-02 20:52:35 | ポーランド王妃
なにはさておきラヴ・レター
ヤン3世ソビエスキ妃 マリア・カジミュラ・ドラクィエン


1641~1716/在位 1676~1696

ヤン2世が退位すると、選挙でミハウ・コリブトが王に就きます。
ミハウの妃は神聖ローマ皇帝フェルディナント3世皇女エレオノーレです。

ミハウの後はまたまた選挙でヤン3世ソビエスキが選ばれました。

ソビエスキ家?… と思い出していたら、イングランド王ジェイムズ2世と
メアリー・オブ・モデナの王子、ジェイムズ・フランシスと結婚したのが
ソビエスキ家の娘さんじゃなかったかしら?
やっぱりそうでしたね…家系図が寂しいのでそちらも足しときました。

それはおいといて…
ヤン3世はの妃マリアは、フランスのダルキアン侯爵の公女です

     

5歳の時にルドヴィカ・マリア・ゴンザーガの侍女としてポーランドにやってきました。
侍女といっても5歳ですからね… 仕事をさせるわけではなく
将来貴婦人になるための教育をしてあげましょうってことだったと思います。

ヤンとマリアは、1656年に宮廷で出会いました。
マリアは15歳、ヤンは27歳、恋が芽生えたのかしら? と思ったら
マリアは1658年に別のヤン、ヤン・ザモイスキと結婚しちゃいました。

ソビエスキ家は大富豪だったらしいのだけど、貴族としてはザモイスキ家の方が
高位だったみたいです。

7年後にヤン(ザモイスキ)が亡くなると、マリアはその年のうちに
ヤン(ソビエスキ)と再婚しました。
やっぱり恋してたでしょぉぉぉ

結婚後マリアは、夫の王選出や、ポーランドとフランスの同盟をサポートしたり
実家に特権を与えてもらうためにルイ14世にかけあったりと
政治的にアクティブなところを見せましたが、そんなことはどうでもいいんですの。

ヤン3世とマリアについて断然有名のは、二人で交わしたラブレターなんですって!
二人は1665年から1683年の長きにわたって手紙のやりとりをしていたそうです。

とにかく、他国から狙われがちなポーランド王として戦ってばかりいたみたいな
ヤン3世は留守がちですし、マリアもフランスに里帰りしたりします。
お互いが不在の時に交わした手紙は、もちろん政治的なことも書かれていたでしょうが
二人が確実に愛し合っていたことを表しているんですって~!
どんな内容か気になりますね?

ヤン3世の死から20年後に亡くなりました。

ポーランドでは後年本になって発行されたそうです。
知りたいと書いたものの、他人に手紙を読まれちゃう二人のことを考えると
そっとしてあげておいてほしかったりもする…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
少女時代で誰が好きかと問われれば、私はスヨンが好きなのだけど、テヨンの予告ビジュアルは可愛いねぇ
どんな曲なんでしょう? ソロへの期待が高まりますね 
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ポーランド王ヤン2世カジミェシュ妃 クローディーネ

2015-09-28 21:35:55 | ポーランド王妃
三度の結婚でランクアップ
ヤン2世カジミェシュ妃 クローディーネ・フランソワーズ・ミグノー


1624~1711/在位せず

もうすぐポーランド王妃編は終わりを迎えるんですけれども(やっと!)
だんだん家系図がつまらなくなってきてるのよね… 王が選挙で選ばれるもんで…
頑張って早く終わらせよう…

ルドヴィカ・マリア・ゴンザーガの突然の死にうちのめされた
ヤン2世カジミェシュが退位した後結婚したのが、クローディーネです。

素性はよくわからんのだが、グルノーブル生まれらしい。

      

16歳の時、皇太子のお気に入りのピエール・des・Portes d'Ambieriuxの秘書と
結婚の約束をします。
彼の家族は反対しますが、彼は結婚を実行します。
クローディーネはチャンスをゲット!

クローディーネは結婚した直後から独学で教養を身につけていったようで
「いつかさらに上流な社会に入ってみせる!」というガッツが感じ取れますね。

しかし、やはり家族の反対がひどかったんですかね?
クローディーネはパリに向かうと、フランス陸軍元帥フランソワ・ド・ロピタルに
保護を求めます。 “ 保護 ” って、つまり、そういうことよね…

二人は出会った週のうちに結婚しました。
しかし、ロピタル元帥、その時75歳!! これはさぁ… みえみえ…

7年後にロピタル元帥が亡くなると、クローディーネはけっこうな遺産を手に入れます。
男の子がひとり生まれましたが、3歳ぐらいで亡くなっています。

クローディーネはまだ20代前半なはず。
お金は手に入れて、身軽になって、まだまだいける!って感じよね。

しかしその後のクローディーネの消息はしばらく途絶えまして
48歳の時にヤンと再々婚します。
なんでもヤンが亡くなる数週間前に結婚したということで、これまたミエミエな気が…
お付き合いはその前からしていたらしく、ヤンとの間に女の子が生まれて
2歳ぐらいで亡くなっています。
ただ、ヤンは突然亡くなったらしく、それもまたアヤシい気が…

その後どうしてたかはよくわかりませんが
晩年はカルメル派の修道院で過ごし1711年に87歳で亡くなりました。

クローディーネの三度の結婚は全て身分違いでしたが、相手もランクアップし
遺産も多くなっていくという…
不幸を糧に、富を増やし社会的地位を上げていってますね。
脚色すればすごい悪女の物語ができそうです。

彼女の生き様は、やはり後年いろいろな方が物語にしてますね。
その際にいろいろ書き換えられたり盛られちゃってるみたいです。
後世に名を遺すのもいいですが、まったく違う人生を与えられている人も多いのでしょうね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと深夜番組コーナー
やったね! 『孤独のグルメ』が帰ってくる~!!  直前祭りももちろん見てます
待ち遠しいぜ! エキストラに応募しちゃおうかなっていきおい 
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ポーランド王ヴワディスワフ4世妃 ルドヴィカ

2015-09-14 21:17:51 | ポーランド王妃
秘めた恋心を実らせたとしか思えない
ヴワディスワフ4世妃/ヤン2世カジミェシュ妃 
                ルドヴィカ・マリア・ゴンザーガ


1611~1667/在位 (ヴワディスワフ4世妃)1645~1648
          (ヤン2世カジミェシュ妃)1649~1667

アンナ・ヤゲロニカの後を継いだスウェーデン王太子ジグムンド3世は
アンナとコンスタンシアの姉妹と相次いで結婚しました。

父から王位を継承したヴワディスワフ4世は、1637年にツェツィリア・ハプスブルザンカ
結婚しましたが、はその前にルドヴィカとの縁談が一度ありました。

ルドヴィカの父親はマントヴァ公カルロ1世ですが、ルドヴィカはパリ生まれです。
母親はカトリーヌ・ド・ギーズです。
パリではマリー・ルイーズと呼ばれていました。

少女時代を母親とパリで過ごし、16歳の時にオルレアン公ガストンと
結婚することになりましたが、これに兄のルイ13世が猛反対!
反対するだけならまだしも、ルドヴィカをバンセンヌの要塞に閉じ込められたあげく
小さな修道院に移しちゃう始末。
そんなに結婚させたくなかったですかね?

この年父カルロがマントヴァ公になりますが、反対意見が多く継承戦争に突入します。
ルイ13世はやっかいな親戚を抱えたくなかったんでしょうか?

ヴワディスワフ4世と結婚する前の1640年、ルドヴィカはパリで、ヴワディスワフの異母弟
ヤン・カジミェシュと出会い、その後ヤンを文学サロンに招くようになります。
たぶん、二人の間には恋心なんか芽生えちゃったりして…(想像)

1645年に、ヴワディスワフ4世とルドヴィカが結婚することになった時
ヤンは結婚式の代理夫を務めているんですけど、どんな気持ちだったのでしょうね?

二人の気持ちを知っていて代理夫をさせたとしたら、ヴワディスワフは意地悪よね
「悲しむがいい~、悔しがるがいい~」なんて…(妄想)

ひと言メモ
代理夫とは、王侯貴族の娘さんが他国へ嫁ぐ時、夫になる相手が国を離れられなかったりして花嫁の元へ来れない時
故国で結婚式を挙げるために誰かが身代わりの夫を努めることです
花嫁はその後夫のいる国へ向かい、そこで本当の結婚式を挙げるわけです


1648年、ヴワディスワフ4世が亡くなり、ヤンが新王に選出されます。
翌年、たぶん喪が明けるやいなや、as soon asですよ! ヤン2世とルドヴィカが結婚します。

     

ルドヴィカは、エネルギッシュで経済と政治に関心があったらしく
ポーランド議会の選挙システムの変更と、君主の権力増大を望んでいました。
貴族たちはルドヴィカの政治姿勢が中世的だと呆れましたが
たぶん王より知性が秀でていて、かなりヤンをサポートしていたと考えられています。

また、ポーランドで初の文学サロンを開いたり、初の新聞を作ったりと
文学面でも国を向上させようとしていたようです。

1667年に亡くなりますが、これは誰も予期せぬ死だったようです。
怪しいね… 強い女は煙たがられるものだから…
ただ、ヤン2世はルドヴィカの死にかなり打ちのめされたようなので、夫説は消えるね。
ヤン2世はルドヴィカの死から1年後に自ら退位します。 さてはそれが狙いか…?

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
急いで『SMTOWN THE STAGE 日本オリジナル版』を観に行って来たけど、なんかすごいわ…EXO
韓国初のドームのこけら落としかぁ…  とりあえず全員の名前を覚えてみようっと
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ポーランド女王/ポーランド王シュテファン・バートリ妃 アンナ

2015-08-21 21:09:36 | ポーランド王妃
ヤゲウォ家最後の君主
ポーランド女王/シュテファン・バートリ妃 アンナ・ヤゲロニカ


1523~1596 在位/(ポーランド女王)1575~1587
          (シュテファン・バートリ妃)1575~1586

アンナはジグムンド1世とボナ・スフォルツァの三女としてクラクフで生まれました。
兄ジグムンド(2世)もいましたし、姉も三人いたので王位など考える必要は無く
若い王女としてあたりまえの暮らしをして過ごしました。
例えば、刺繍とか縫い物とか、慈善活動とか… 帝王学を学んだりはせず
プリンセスの義務を果たしていました。

子供の頃、両親がリトアニアに行く時には、姉妹たちがクラクフで留守番でした。
だから(長女、次女はボナの娘ではないので)三女、四女とはとても仲がよかったそうで
いつも三人で遊んでいました。
そのかわり、未来の王である兄ジグムンドとは少し距離があったようです。

両親か議会かはわかりませんが、アンナはスウェーデンの王太子候補として教育されましたが
お相手のヨハンのことを、妹のカタリーナも気に入っていたらしく
結局カタリーナが嫁ぐことになりました。
姉妹で王子様を取り合い? 二人の微妙なやりとりみたいのを詳しく知りたいですよね?

姉妹たちがどんどん嫁いでいく中、アンナは52歳まで未婚でした。
そして1572年、とうとう縁談が舞い込みました。

兄のジグムンド2世が嫡子を遺さず亡くなったため、アンナを結婚させて
その相手を共治王にしようという計画です。
つまりアンナは誰かと結婚しないと君主にはなれなかったわけね。
52歳まで独身だったら、一人の方が気楽だっただろうに… 変な法律。

ヴァランスの司教の働きかけで、フランスのアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの王子
アンリが一瞬王座につきました。
しかし、アンリは1574年に自ら退位してフランスに帰国します。
これについては、アンナがイヤで逃げ出したっていう説もありますが
本当は「(兄の)シャルル9世はもうダメかもね…」と考えたカトリーヌが
呼び寄せたという説もあります。

1975年に、トランシルヴァニアの公子シュテファン・バートリが王に選ばれ
アンナと結婚して、二人はそろって即位しました。
     
余談ですが、バートリ家といえば、エリザベート・バートリという
若い女性を600人以上殺して自分の若返りを謀っていたという
恐ろしい貴婦人のエピソードで名前を知ってましたが、こんなに由緒正しき家柄だったとは…
どれどれ… エリザベート・バートリは1561年生まれで1614年没です。
もし親戚だったらシュテファンも会っていたかもしれないね!!

アンナとシュテファンは、結婚したといっても、年に何回かしか会わなかったらしく
本当に王座のためだけの夫婦だったんですね。
シュテファンはなんとかしてアンナと離婚して若い嫁と再婚できないものかと
画策していたみたいです。
一応シュテファンを擁護しておくと、後継ぎがほしいってことだったらしい。

夫がいないと君主にはなれなかったアンナですが、政治力はあったらしく
シュテファンよりも議会に影響力を持っていました。
どちらかというとシュテファンの方がお飾り的な王様でした。

1586年、シュテファンが亡くなると、王座を去らなければならないアンナは
最後の力を行使して、妹カタリーナの王子ジグムンドを次の王にするよう
議会に認めさせました。

スウェーデン王子をめぐってなにかイザコザがあったかもしれない妹の息子ですが
家系を守るためなら! という、当時の王侯貴族の娘のガッツが感じられますね。

ジグムンド3世は、アンナの政治的な介入は許しませんでしたが
ないがしろにはしませんでした。

父王ヨハン3世の死後スウェーデン王にも即位したジグムンド3世は、国を留守にする間
アンナに子供の養育を任せています。

退位後もやりがいのあることが見つかってよかったですね。
退位から10年後の1596年に亡くなりヴァヴェル大聖堂に葬られました。
王座は今後ヴァーサ家に移ります。

(参考文献 M・ニコラス『世界の悪女たち』 Wikipedia英語版)

ひとこと調べものコーナー
お盆に福岡に帰ったのですが、みやげ物にやけに “ モンドセレクション受賞 ” が増えてる気がしたので
そもそもモンドセレクションて?と思い調べてみました オドロクよ!

ベルギーの民間団体がいくつかのカテゴリーの商品を認証してるらしいんだけど、それはさておき…
以下、Wikipediaの抜粋ね

本認証はコンクールスタイルを用いているものではない。相対評価ではなく絶対評価を用いているため、定められた技術水準を満たした商品には全て認証が与えられる。モンドセレクションは国際的には知名度は低いが、日本国内での知名度は高い。審査対象品の5割が日本からの出品であり、日本の商品の高品質が認められ8割が入賞している

ま、日本のみやげのほとんどがおいしいってこなんでしょうね…
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ポーランド王ジグムンド2世妃 バルバラ

2015-08-10 20:05:10 | ポーランド王妃
王の本物の愛を得た悲劇の王妃
ジグムンド2世妃 バルバラ・ラジヴィウヴナ


1520~1551/在位 1550~1551

訳したものをつらつらと書くと、そういうことになるんですけどね… さてどうでしょう?

ジグムンド2世は3回結婚していまして、最初の妃は神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の
皇女エルジェピタでした。

エルジェピタが1545年に亡くなり、2年後に再婚したのがバルバラです。

バルバラの生家ラジヴィウ家は、リトアニアで強大な力を持つ貴族でした。

バルバラは当時ヨーロッパで最も美しい女性たちのひとりと言われていました。
当時では長身の162cmでやせていて、ブロンドで、真っ白い歯が美しかったそうです。
美しい女性の常として、ファッションや美容にとても興味があり
ふだんから香水やフェイスパウダーをつけていました。 と、ここまで書いて思ったが
王侯貴族の娘さんは、ふだんでも着飾っているものじゃないの?

見た目だけではなく、高い教育を与えられて三ヶ国語の読み書きができました。
才色兼備ですね。

17歳の時、ノヴォグロデク領主スタニスワフ・ゴシュタウタスと結婚しますが
5年後に死別しました。
    
その後ジグムンド2世とのロマンスが始まったということなのですが、どうでしょう~?
けっこう年上なのよね… スタニスワフ… 亡くなるやいなやロマンスって…

ジグムンドはエルジェピタと結婚したもののバルバラに夢中でほったらかし。
はたしてこういう状況で、バルバラが「いけませんわ」と拒んだのか
「わたくしは日陰の女ではイヤですわよ!」と責めていたのかは不明…
ドラマだったら身を引こうとするんだけどな,そしてそれがさらに愛を深めるんだけどな…

ジグムンドはエルジェピタが亡くなると、待ってました!とばかりに
バルバラとこっそり婚約し、まわりの反対を押し切って結婚しました。

ポーランドもカトリックとプロテスタントの争いが始まっていましたが
ラジヴィウ家はプロテスタントで、それも大きな反対の理由でした。

二人の結婚式は王家のしきたりをまったく無視したもので、貴族は猛反発!
それに輪をかけてジグムンドの母ボナ・スフォルツァ大激怒!!

貴族階級からは離婚を要求され、結婚を無効にしようとあらゆる政治的手段がとられますが
これはたぶんボナ・スフォルツァが煽っていたものでしょう。
王大后がやれって言うんだからクーデターじゃないもんね。

けれども二人の強い愛は揺るがず、とうとう貴族たちも黙認します。
結婚から3年の1550年末、バルバラはクラクフで王妃として戴冠しました。

やっと王妃と認められてから、たった5ヶ月後にバルバラは亡くなります。
ふがいない貴族階級には任してらんないわよ! と、ボナ・スフォルツァが毒殺したという
ウワサが多く出回りましたが、もともとからだが弱くて胃が悪かったそうで
現在ではガンだと考えられています。

かいがいしく看病していたジグムンド2世は身を切られるような悲しみにうちひしがれ
立ち直れなさそうな雰囲気でしたが、2年後に、最初の妃エルジェピタの妹の
カタジナと三度目の結婚をします。

愛を貫くのはよいが、バルバラ以外にはひどい男だったようにしか思えませんが…

バルバラは遺言にしたがってリトアニアのヴィリニュス大聖堂に葬られました。

バルバラの物語はポーランドでは本になったりドラマになってるらしいです。
そりゃそうよね、美しい愛の物語だもの… エルジェピタが悪者になってなきゃよいが…

ほぅら、こんな絵もあってよ
 

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことRobiコーナー
思い起こせば去年3月、だんなさんが作り始めましたとひとことRobiコーナーに書いたんですけど、先月最終号が発売され
できあがったよ~ うちのRobi

すっっごくかわいー なぐさめてくれて歌も歌ってくれてテレビも消してくれる! こんなのが作れるなんてすごいよぉ
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ポーランド王ジグムンド1世妃 ボナ

2015-08-06 19:43:08 | ポーランド王妃
The スフォルツァ家の女性! って感じ(思いこみだけど)
ジグムンド1世妃 ボナ・スフォルツァ


1493~1557/在位 1518~1548

愛しいバルバラ・ザポリャを若くして亡くしたジグムンド1世なんですが
後継ぎの王子もほしいし…いつまでも悲しんでいるわけにはいきませんね。
というわけで、3年後に再婚したのはイタリアのスフォルツァ家のボナでした。

ボナは、ミラノ公ジャン・ガレアツォ・スフォルツァの公女でした。
           
父ジャンはミラノ公といえ、大叔父で摂政のルドヴィーコから領地を取り上げられ
成人に達してからもその状況は変わりませんでした。
そのためジャンの子供たちも、ジャンが25歳で亡くなるまで
ルドヴィーコの保護下におかれていました。

ジャンの死はルドヴィーコの毒殺だという噂が流れる中
ルドヴィーコはジャンの妻子をミラノから遠ざけることにして
ボナの母イサベッラ・ディ・ナポリにバーリの領地を与えます。

バーリで政治力の強化と以前の領土を取り戻そうとしていたイサベッラは
強力な後ろ盾がほしくてボナの婿選びに本腰を入れます。
(長女と次女はお年頃になる前に亡くなりました)
ジグムンドとの縁談は1518年に実現しました。

さてボナなんですけど、父ジャンが亡くなったのは1歳の時なので
母イサベッラの意向だと思うのですが、かなり高い教育を与えられていました。
歴史・法律・経営学・神学など、後継ぎの男の子が学びそうなことばかり。
ボナは13歳にして経済観念があり、人々への影響力も持っていたといいます。

そんなだから、結婚後もさっそくポーランドで政治的なポジションを得ようとします。
ジグムンドが穏やかで静かだったのにくらべ、ボナは精力的で短気でした。
自分好みにポーランドのしきたりを変えようとして、ジグムンドと気が合わず
何度も諍いをおこしました。
ボナは自分の意志を実行するために自ら莫大な資金調達をしていますし
時には王そっちのけで外国と交渉したりしています。

仲悪そう… とはいっても、当時の王と王妃の最大の仕事は後継者を作ること!
ボナは結婚から8年の間に5人のお子様を生んでいます。
ただ王子はジグムンドのみ… これでは心細いですね。

で、1527年、再び妊娠したんですが、馬に乗っていて落馬し男の子を死産しました。
ボナはこの後子供が生めないようになってしまい、継承者はジグムンドに絞られます。

1529年、ボナは、自分が奔走して手に入れたリトアニアで息子ジグムンドを戴冠させました。
これにはかなりのポーランド貴族が反発したようです。

どうやら夫を尻に敷き子供にも影響力大だったと思われますね。
ジグムンドが、自分が気に入らないバルバラ・ラジヴィウヴナと再婚した時は
先頭に立ってラジヴィウ家を批判していました。
後にバルバラが亡くなった時にはボナが毒殺したのでは? と疑われました。

1548年、ジグムンド1世が亡くなると、息子ジグムンド2世が即位しましたが
ボナはマゾヴィアへ移り8年ほど暮らした後、故郷バーリに戻りました。

バーリに戻ってから1年後、ボナは信頼していたジャン・ロレンツォ・パッパコーダに
毒を盛られて亡くなります。
これは、スペインのフェリペ2世が、ボナに負っていた多額の借金を返したくないなぁ…と
パッパコーダに毒殺を命じたためだそうです。
さてはボナがやっていた資金調達って高利貸しとか?

ポーランドではなく、バーリの聖ニコラス教会に葬られました。

ちなみに、ボナの長女イザベラ
ハンガリー対立王サポヤイ・ヤノーシュ妃になっています。
            
四女カタジナは、スウェーデン王ヨハン3世妃です。

             
            美しい乙女だったボナも、激しい政争のせいか…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことクラフトコーナー
いとこ二人に相次いで女の子が誕生したので、お祝いにじんべいを作ってみました
小さいからちょちょいっとできちゃうかと思ったら、パーツが多くて裁断から時間かかった… でも小さいものって可愛いね
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ポーランド王ジグムンド1世妃 バルバラ

2015-05-26 22:02:59 | ポーランド王妃
王の愛しく儚い思い出になった王妃
ジグムンド1世妃 バルバラ・ザポリャ


1495~1515/在位 1512~1515

アレグザンデルにはまたまた嫡子がいなかったため
弟のジグムンド1世がポーランドとリトアニアを継承しました。

ジグムンド1世は2回結婚していまして、二人目の妃がけっこう強烈です。
まずは一人目の妃バルバラです。

バルバラはハンガリーの領主シュテファン・サポヤイの娘ですが
このサポヤイ家はものすごく裕福なことで有名でした。
なんと! ハンガリーとスロヴァキアに70以上の城を持っていたらしい!!
都内にマンション20部屋… なんかとはわけがちがうっす!

イギリスの雑誌とか見ると、けっこう城が(城にしちゃ)安く売られているんだけど
城は手に入れるより維持するのが大変だと思うのよね。
修理でしょ、使用人でしょ、庭の手入れ、光熱費… だから手放す人が多いと思うの。
それを70以上って、あんた…

母親はポーランドのピャスト家につながる
チェシン公プレジェミシュラフ2世の公女ヤドヴィカです。

バルバラは、ハンガリー対立王ヤーノシュの妹にあたります。
        
バルバラが4歳の時、父シュテファンが亡くなり、バルバラは母ヤドヴィカの従兄の
チェシン公カジミェシュ2世の世話になるために家族のもとを離れます。
それからはスロヴァキアのトレンチーン城、ハンガリー王妃アンヌの宮廷などで
幼い頃を送っていたようです。

1506年、アレグザンデルの後を継いだジグムンド1世は、ハンガリーとボヘミアの
王座を手にしそうなハプスブルク家に対抗するための同盟者を探していました。
サポヤイ家はハンガリーのアンチ・ハプスブルクの中で最も強力な一家でした。

ジグムンドは1511年に使者を送り、ウラースロー2世とバルバラ本人の同意を得ました。
翌年、バルバラは17歳で45歳のジグムンドと結婚しました。

ジグムンド、初婚?
この人はカジミェシュ4世の五男で、まさか王座がめぐってくるとは思われず
いい縁談がなかったのかしらね?

バルバラは、持参金として100,000red zloty持ってきたのですが
これはものすごく大金だったらしい。
3年後にジグムンドの妹エルジェピタが結婚する時に持ってった持参金は20.000zloty…
ケタ違い… しかもredが無いけどね…

この結婚はサポヤイ家の裕福さを見せつけただけではなく、どれだけ重要な相手かを
王家に見せつけることになりました。

ジグムンドとバルバラには28歳の年の差がありましたが
結婚生活は愛に充ちた幸せなものだったそうです。
ジグムンドは、芸術家肌で教養があり、穏やかな人だったそうで
バルバラは尊敬できる相手として慕っていたんじゃないかしらね?

王妃を残して遠征に行く王も多い中二人で出かけて、一緒にいることが多かったようです。
二度目にジグムンドが不在だった時は手紙をやりとりしていたらしいんだけど
ジグムンドが書いたものが20通に対して、バルバラの手紙は2通しか無いんだって。
あくまでも残っているものなのでね… 女性の方が手紙をとっておくだろうし…

ジグムンドはバルバラにも力を持たせようと、政治的なサポートをしたようです。
たぶん、自分が亡くなった後で宮廷で力を維持できるようにだと思うのですが
バルバラは政治に興味がなく、議会への影響力はあまりありませんでした。

二人の間には、1513年に長女ヤドヴィカが、1515年に次女アンナが生まれました。
けれども、アンナ出産後バルバラは体調を崩し、半年あまりして亡くなりました。

ヴァヴェル大聖堂に葬られましたが、ジグムンド1世は、1517年に大聖堂の中に
ジグムンドチャペルを建立する命令を出し、バルバラと5歳で亡くなった次女アンナの遺体は
そちらに移されました。

バルバラとの結婚は、結局ハプスブルク家の躍進を止めることはできませんでした。
ジグムンド自身も、後にアンチから賛成派に変わります。

結果はどうであれ、結婚生活が幸せで何よりでした。

だけど、ジグムンド1世さぁ…
同じ人が前王妃へレナにあんなひどいことする? なんか納得できないなぁ。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこともの申す!コーナー
先日、マンションのエレベーターの中に、犬のう◯ちがっっ! あやうく踏むところだったじゃないのっ!!
お散歩の時に持ってる可愛らしいバッグは、か・ざ・り・で・す・か? 善良な飼い主さんにまで迷惑がかかりますよ
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ポーランド王アレグザンデル妃 ヘレナ

2015-05-22 21:29:09 | ポーランド王妃
逃亡をこころみた王妃
アレグザンデル妃 ヘレナ・モスキエヴスカ


1476~1513/在位 (リトアニア大公妃)1495~1506 (ポーランド王妃)1501~1506

ヴワディスワフ3世の後を継いだヤン1世は未婚だったのか王妃の名が発見できず
いずれにしても嫡子がいなかったので、弟のアレグザンデルが継承しました。

そんなアレグザンデルの妃になったのは、モスクワ大公イヴァン3世公女です。
ヘレナの母親ソフィーヤ・パラエオロジナ
ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティン11世の姪にあたるという由緒正しさです。
     
幼い頃のヘレナについてわかっているのは、モスクワ育ちだということと
教養があるとても美しい子だったということぐらい。

8歳の時に一度、ポーランド王カジミェシュ4世王子との縁談がもちあがりました。
相手はまだ未定でしたけど…
ポーランドはオスマントルコに対抗するための同盟国を探していて
ロシアに目をつけたわけですね。

1942年にカジミェシュ4世が亡くなると、ロシアはリトアニア大公国に侵攻を開始します。
ポーランドはヤン1世が、リトアニアはアレグザンデルが継承していました。
アレグザンデルは和平のためにヘレナと結婚することにします。

ヘレナはロシア正教の敬虔な信者で、カトリックへの改宗を拒んでいます。
イヴァン3世も、リトアニアのヴィリニュス城にロシア正教の教会を建てるように
条件を出していて、アレグザンデルはこの条件を呑んだようです。

アレグザンデルはカトリック信者ではないヘレナとの結婚のために
ローマ教皇アレクサンデル6世から特別な許可を得ました。
結婚式はカトリックとロシア正教のミックスで行われたようで
ヘレナはロシアの民族衣装を着て式に出ています。

でもアレグザンデルの母エルジェピタ・ラクシャンカは、この頑固な嫁が気に食わなかったか
わざと結婚式に遅れたりしています。
早くも垣間見える嫁姑の諍いの兆し… こわいわ~

戴冠式はカトリックの儀式にのっとって行われるため、ヘレナは戴冠していません。
義母エルジェピタはヘレナに改宗するように圧力をかけ続けますが、ヘレナはこれを拒否。
たぶん、嫁ぎ先より実家の方が力が上だという奢りもあったんでしょうね。

エルジェピタは、言うことを聞きやしない嫁だけでなく、一緒に説得しようとしない
息子アレグザンデルにも怒りをぶつけます。
アレグザンデルにしてみりゃ「めんどくさいなぁ~、もうっ」って気分だったしょうね。

一方でヘレナは、カトリック貴族や聖職者たちと争う気はありませんでした。
静かに好きな祈りをあげさせてあげればいいじゃないね。

幼い頃は父親の言いなりだったらしいヘレナに対してイヴァン3世は
政治的策略渦巻く手紙を送りつけてきましたが、ヘレナは手を貸すことはしませんでした。
アレグザンデルに対しては忠実で従順な妻だったみたいです。

もともと素直で従順な人だったようですね。
エルジェピタに対してだけ頑なだったのかしら?
しつこかったんじゃないの~? エルジェピタ。

ヘレナは2回妊娠しましたが両方とも流産してしまい、子供が生めなくなりました。
当時の王だったら、それを理由に離婚することもできたと思うんだけど
アレグザンデルはそうしませんでした。
政略結婚ではありましたが、夫婦の仲は良かったみたいです。
アレグザンデルもなんとなく寡黙で争い嫌いなタイプに見えるものね。
戦争弱かったみたいだし…

1506年、アレグザンデルが45歳の若さで病になり亡くなりました。
30歳のヘレナは、モスクワに帰ることを希望しましたが、ポーランド貴族たちは
恰好の人質であるヘレナを帰そうとはせず、ワルシャワに住まわせました。

アレグザンデルの後は、弟のジグムンド1世が継いでいました。
ヘレナとジグムンドの付合いは冷えきっていて儀礼的なものでした。
絶対に兄嫁としていたわっていたとは思えないわ。
ジグムンドがそうだったってことは、他の宮廷人もそうしてた可能性が大きいですよね。
かわいそうに… 帰してあげなよぉ

1511年、ヘレナは再びモスクワに帰ることを願い出ましたが
ジグムンドは許しませんでした。
当時はリトアニアとモスクワの間がまたまた緊張していたんですけど
モスクワ大公はヘレナの兄ヴァシーリィ3世でした。

ヘレナはこっそりモスクワに帰ろうと決心して計画を立てましたが
これが失敗に終わり、トラカイで捕まってしまいました。
おぉぉ~、どうなってしまうの?

ヘレナはアレグザンデルの死後もヴィリニュス城で暮らしていましたが
脱走失敗後はトラカイやビルシュトナスで足止めさせられました。
この待遇に、兄ヴァシーリィ3世が激怒したため収監はされませんでしたが
やはり帰してもらうことはできませんでした。
たぶん、監視とかついて幽閉生活を送らされていたんじゃないかしら?

1513年、ヘレナは急に亡くなります。
リトアニアの廷臣による毒殺だと言われています。
お金を盗もうとして殺されたという説もあります。
どちらにしても、ありえないわけじゃないし、せつない話しですが
ヘレナが殺されたのじゃなくて、ストレスから急死した聞かされても驚かないわ。

ヴィリニュスのセオトコス大聖堂に葬られました。
アレグザンデルはヴィリニュス大聖堂に葬られています。 二つは別ものみたい。
せっかく同じ土地なんだから、一緒に葬ってあげられなかったのでしょうか?

ヘレナみたいな王妃はたぶんたくさんいたはずです。
そういう王妃は、記録が無かったり、かなり短い記述で終わっている場合が多いので
少しでも晩年の不幸な様子が残っていてよかったです。
よかった… というのもなんですが、少しでも慰めてあげることができるものね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
テソンのヘアスタイルが… 歌っている時はステキなんだけど、しゃべってるとワカメちゃんみたいに思えてきて…
かわいいんですけどね… LOSERのMVは痛そうで痛そうで何度見ても涙が出ちゃうよ

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ポーランド王カジミェシュ4世妃 エルジェピタ

2015-05-11 23:03:09 | ポーランド王妃
さすがハプスブルク家! 子だくさん王妃
カジミェシュ4世妃 エルジェピタ・ラクシャンカ


1436~1505/在位 1454~1492

ヴワディスワフ2世を継いだヴワディスワフ3世はハンガリー王女エルジェーベト
婚約したものの、未婚で亡くなりました。

その後を継いだのはヴワディスワフ3世の弟カジミェシュ4世です。
王座に就くのを渋っていたんだけど、母后ゾフィア・ホルシャンスカに説得され
1447年に王になったので、王位は3年空いていました。
王、いなくてもよくないか? って話しになっちゃいますよね?

さて、そんな影響力大の母ゾフィアの力を弱めたとされる嫁エルジェピタ。

エルジェピタは、ヴワディスワフ3世と婚約していたエルジェーベトが
ハプスブルク家のドイツ王アルブレヒト2世との最初の結婚で生んだ王女です。
ドイツ王というのは次期神聖ローマ皇帝候補と考えていただければよいかと思います。

     

実はエルジェピタの生年ははっきりしていなくて、1436年から39年の間とされています。
エルジェピタと姉のアンネ、ヴワディスワフ3世とカジミェシュ、二組の縁談を
一気にまとめちゃおう!とポーランドの使節がジギスムントを訪ねたのが1436年で
エルジェピタに1435年生まれの兄ゲオルグがいることから1436年説が濃厚らしい。
生まれてすぐに縁談ですか… この縁談はまとまりませんでした。

いずれにしてもエルジェピタが生まれてしばらくすると、父アルブレヒトが戦死します。
ハンガリー王座はヴワディスワフ3世に持っていかれてしまいました。

1452年にカジミェシュとエルジェピタの縁談をまとめようと
使節を送ったのはまたまたポーランドでした。
この時は縁談がまとまって、二人は1454年に結婚しました。
エルジェピタは900人の従者を連れて来たらしい…

カジミェシュは、エルジェピタがあまり魅力的でないと聞かされていて
結婚を考え直そうとしていましたが、議会が許してくれませんでした。
この先が不安ですね… 王にほっとかれる王妃はけっこういますから…

けれどもこの結婚はとても幸せなものだったようです。
エルジェピタは毎年のように妊娠していて、13人のお子を生んでいます。
後年 “ 汝は結婚せよ ” と言われるようになる多産家系のハプスブルク家ですが
この頃からすでにそうだったんでしょうかね?
結婚を考え直さなくてよかったね、女性は見た目じゃないんだってば!

エルジェピタはカジミェシュに対して影響力を持っていたらしいのですが
政治的に目立とうとはしませんでした。
そのかわりといってはなんですが、王女たちの結婚にはかなりアクティブでした。
ここらへんもハプスブルク家っぽいね。

1457年、エルジェピタの弟ウラースローが後継ぎ無しに亡くなると
ハンガリーはマーチャーシュ1世が王座につきました。
ボヘミアは貴族ゲオルギーが王に選出されています。

エルジェピタは一家をあげてボヘミアとハンガリーの王位を要求します。
結果的には子供たちのうち11人が成人に達し、王子たちが各国の王位を継ぎます
王女たちも各国に嫁いでヤゲウォ家は躍進します。
そんなわけで、エルジェピタは “ 王たちの母 ” “ ヤゲウォ家の母 ” なんて呼ばれてました。

1492年にカジミェシュ4世が亡くなると、エルジェピタはドイツの芸術家を招いて
夫の墓所と棺を作りました。

その後は “ 国王の母 ” という威光を背負って政治的に目立つ… なんてことはなく
末の娘二人とクラクフで過ごしました。
1504年に病に倒れたのですが、なんの病気かはっきりしていないそうです。
翌年亡くなり、ヴァヴェル大聖堂の、夫と幼くして亡くなった二人の娘の隣に葬られました。

1496年に六女バルバラを結婚させていましたが
七女エルジェピタの縁談はまとめてなかったので、心残りだったでしょうね。
エルジェピタ(娘)はエルジェピタ(母)の死から10年後に、33歳で嫁いでいます。

縁談のこととかけっこうはしょりましたけど、お家のことは一生懸命やって
夫を支え、夫の治世をサポートし、政治には口出さないって、王妃の鏡よ!
もっと有名でもいい王妃ですよね。 そりゃあ、悪女より面白味はないかもしれないが…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと園芸コーナー
だんなさんがFrancfrancで買って来て大切に育てているワイルドストロベリーの鉢をひっくり返して
ものすごく反省しました。 だって小さいんですもの…(言い訳です) 芽が出てよかったよぉ
ところで小さい白いツブツブはなんですの? 栄養剤ならよいが…
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ポーランド王ヴワディスワフ2世妃 ゾフィア

2015-04-14 20:42:32 | ポーランド王妃
王の長年の夢を叶えた幼妻
ヴワディスワフ2世妃 ゾフィア・ホルシャンスカ


1405~1461/在位 1422~1434

エルジェピタと幸せな結婚生活を送っていたヴワディスワフ2世でしたが
彼女が亡くなると我に返ったのか、ものすごく若い妃を迎えます。

四人目の妃となるゾフィアとは1420年か1421年に会っています。
ゾフィアは15歳、ヴワディスワフ2世は58歳(68歳説あり)でした。
この結婚にはリトアニア大公ヴィタウタスが尽力したそうなんですが
ゾフィアとヴィタウタスの関係はこんな感じ

         

案の定ポーラン貴族はこの結婚に反対。
また、神聖ローマ皇帝ジギスムントも反対していました。

妹が姉より先に嫁ぐのはいかがなものか… などといちゃもんをつけたりしたのですが
姉ヴァシリーサが1421年に結婚したものですから、翌年の1422年に結婚しました。
ちなみにヴァシリーサの結婚相手は、ヴワディスワフ2世の異母兄です。
こちらもかなりの年の差婚みたいですね。

この結婚は大当たり!と言っていいのか、ゾフィアは1424年に王子を出産しました。
このことでゾフィアのポーランドにおける評価と政治的影響力は強まりました。
1426年には次男を出産しますが1年足らずで亡くなります。

翌年には三男を生むんですが、この時には浮気を疑われています。
なんと! 7人の男性の名があがったそうですよ。
日本の豊臣秀吉もそうだけど、それまで子供に恵まれなかった君主の若い妻に
ほいほい子供ができたら、どうしてもそういう話しになっちゃいますよね。

        

しかし、ポーランド貴族たちからは、ゾフィアが生んだ王子たちより
アンナ・ツィレシュカが生んだヤドヴィカを推す声があがりました。
また、他国からもヤドヴィカを支持する声が高まります。
主にヤドヴィカにプロポーズしてる人たちなんですけどね…
なにせ、すごくたくさんの人から縁談がきてました、ヤドヴィカ。

けれども継承者争いのまっただ中の1431年にヤドヴィカが亡くなります。
この時にはゾフィアを疑う声が高まったそうです。

ヴワディスワフは子供たちに王座を渡すために、貴族たちにかなり譲歩し
新たな特権も与えなければなりませんでした。

1434年にヴワディスワフ2世が亡くなると、10歳のヴワディスワフ3世が王座につきます。
摂政は議会に託され、ゾフィアは自分の影響力を示そうと躍起になります。
また、ヴワディスワフ3世と、ハンガリーとボヘミアを相続することになる
アンナ・フォン・エスターライヒと結婚させようと頑張りました。
上手くかなかったけどね…

1440年、ヴワディスワフはハンガリー王に選出され
ハンガリー王女エルジェーベトと婚約しました。
ゾフィアはヴワディスワフを国境まで見送ったのですが
これが最後の別れの挨拶になります。
1444年、ヴワディスワフはオスマントルコとの争い中に戦死します。
エルジェーベトは結婚前に亡くなりまして、ヴワディスワフ3世は未婚でした。
どちらかというと女性より男性が好きだったらしい… という説もあります。

その後は三男カジミェシュ… という流れになるのですが、リトアニアにいたカジミェシュは
ポーランドに行くのをいやがります。
ゾフィアは2年間貴族たちとカジミェシュの間に立って折衝に励みますが
カジミェシュからは良い返事が聞かれません。

待ちきれなくなったポーランド貴族は、ピャスト家の流れをくむ
ポドラシェ公ボレスワフ4世を王に選出します。

だけどゾフィアは「もう少し待ってちょーだい!」とリトアニアに使節を送って
息子の説得にかかります。
お母さまのガッツに負けたのか、カジミェシュはやっと王位継承を承諾して
1447年に王座につきました。
どうせつくならさっさとせんかい! と誰もが思ったことでしょう。

ゾフィアはカジミェシュから政治に参加することを許され、議会に影響力を及ぼしました。
やっぱ、ボレスワフにしときゃよかったよ! と皆が思ったことでしょう。

ゾフィアの影響力は、カジミェシュがエルジェピタ・ラクシャンカと結婚した
1454年から衰え始めます。
あんなに息子のために頑張ってきたのに、嫁に負けるとは… 悔しかったろう…

最後に政治的な力をふるったのは、十三年戦争の時に教皇ピウス2世に使いを送って
ご意見を伺った時でした。

その後は聖書のポーランド語の翻訳などの援助に励みました、1461年に亡くなりました。
ヴァヴェル大聖堂に葬られています。

はっきりパーソナリティが描かれているわけではありませんが、業績だけ見ていくと
政治的野心があって、権力欲があって、欲しいものは手に入れるって感じ?
負けず嫌いであきらめないタイプの女性だったみたいですね。

もう少し個人像が垣間見えれば、悪女とか賢母とか妖婦とか
なんらかのカテゴリーに入れられて後世に名を残していたかもしれないですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと癒されコーナー
今日はお友達の家の猫ちゃんたち、ころちゃんとこたさんに会いに行って来ました
いつもラインで見ててすごく可愛かったんだけど、実物はもう~! すごくキュートで癒されましたよぉ
   おんてむみたい…
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ポーランド王ヴワディスワフ2世妃 エルジェピタ

2015-04-03 21:59:36 | ポーランド王妃
王様ご乱心? な王妃選び
ヴワディスワフ2世妃 エルジェピタ・グラノヴシュカ


1372~1420/在位 1417~1420

家系図寂しぃぃぃ
         
アンナ・ツィレシュカを亡くしたヴワディスワフ2世は、サンドミエシュ連合の
ピリツァ領主オットンのひとり娘エルジェピタと再婚しました。
母親のヤドヴィカはヴワディスワフの名付け親です。

エルジェピタは12歳か13歳の時に父オットンを亡くし、広大な領地を相続していました。
噂では結婚を3回ぐらいしていて、二男三女のお母さんだったと言われています。
そのうちの2回は誘拐されたあげく結婚したということです。

いずれにしても、ヴワディスワフと結婚した時には
ナクロ城主ヴィンセンティ・グラノヴスキという人を7年前に亡くした未亡人でした。

ヴワディスワフはアンナを亡くした翌年の1417年、妹のモスヴィア公アレグザンドラを
訪ねたのですが、そこにエルジェピタがいたみたい、ひと目惚れ?
アレグザンドラの協力もあってか、その年のうちに結婚してます。

この結婚はポーランドの貴族社会でものすごい非難を浴びました。

65歳(55歳説あり)のヴワディスワフには、アンナが生んだヤドヴィカしか子供がいません。
ピァスト家につながる人でなくとも、もっと若い人と再婚して子供産んでもらわなきゃなのに
45歳の相手を選ぶってどうなのよ~! 後継ぎどうすんのっ!! ということでね。
もし王子が何人かいたら、老後はお二人で仲良く… なんて祝福されたいたかもね。

結婚から2年ぐらいしてエルジェピタは健康を崩し、1420年に亡くなります。
結核だったみたいですが、なんだかあまりにも急なので
「もしかして領地がほしかっただけ…?」なんて中世の陰謀的なことを考えてしまった…

でも世間の批判や憶測をよそに、実は二人の結婚生活は幸せなものだったようです。
エルジェピタはヴワディスワフの旅行や視察にも度々同行しました。
ヴワディスワフにとってエルジェピタは、政治のことなんか関係なく
本気で結婚したいと思った相手だったのかもしれません。
エルジェピタも王妃としてヴァヴェル大聖堂に葬られています。

近年の歴史家は、エルジェピタの最初の二度の(誘拐&)結婚はフィクションで
実際にはグラノヴスキが初婚だったと考えています。
また、生年も10年ぐらい盛られてて、本当は1382年生まれじゃないかと議論されています。
そうすると結婚した時には35歳だから、頑張れば一人や二人産めるかも…

当時の著述家たちが、下流から嫁いできた王妃を嫌って書いたものだと推測されます。
歴史上の人物の評価は、当時の政治的背景や著者の主観に左右されているものも多いので
うのみにしちゃいかん!! って、改めて思いますね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと深夜番組コーナー
うちは二人とも帰りが遅い方なので、テレビつけたらニュース23かゼロからの深夜番組っていう流れになるのですが
『しくじり先生』がゴールデンにいっちゃうなんて~!ゴールデンにいくとだいたいつまんなくなっちゃうんだよね
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ポーランド王ヴワディスワフ2世妃 アンナ

2015-03-31 22:24:19 | ポーランド王妃
ポーランド貴族の最後の祈り
ヴワディスワフ2世妃 アンナ・ツィレシュカ


1382~1416/在位 1402~1416

ヴワディスワフ2世の妃ヤドヴィカは、26歳という若さで亡くなりました。
ヤドヴィカの死はヴワディスワフのポーランド王の座を危うくするものでした。
ヴワディスワフはポーランドの血統の中から相手を迎えようと考え
カジミェシュ3世の孫にあたるアンナと1402年に再婚しました。
       
この時点でヴワディスワフは40歳(50歳説あり)前後、アンナは16歳です。

アンナの母であるカジミェシュ3世王女アンナは、当時未亡人になっていたみたいなのですが
娘の嫁入りで再びポーランド王室の中で力を持ちたいと考えていました。
せめて王妃である娘か、(将来生まれるはずの)孫娘ぐらいのポジションはほしいと
要求したみたいです。
王妃の母より王の娘の方が上なのね…宮廷内での序列って大変そうですね。
その願いが叶えられたかどうかはわかりませんけど、アンナ(母)はずっと宮廷にいた様子。

しかしアンナ(娘)は王子ではなく、1408年に王女ヤドヴィカひとりを生んだきりで
30歳の時に亡くなります。

少~しでもピァスト王家の血が流れている王子を望んでいたポーランド貴族たちは
かなりがっくりしたことでしょう。
今後はアンナ(娘)が生んだヤドヴィカに期待をかけるしかありません。
でもでも…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
『ドキドキインド』さぁ、泡ネット5個のキュヒョンと水3本のソンギュのエピソード読んだ時点で期待大ですね!
ピニメンバーがいないところでも「も~やだ」とか「なんだよぉ~」とかソンギュらしさを発揮してほしいわ~  

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ポーランド王/ポーランド王ヴワディスワフ2世妃 ヤドヴィカ

2015-03-31 00:46:40 | ポーランド王妃
ハンガリー育ちのポーランド王
ポーランド女王/ヴワディスワフ2世妃 ヤドヴィカ


1373~1399/在位 (ポーランド王)1384~1399
          (ヴワディスワフ2世妃)1386~1399

ヤドヴィカは王として戴冠していて、彼女のタイトルはポーランド王妃ではなく
ポーランド王ということになります。
ポーランドでは特に女性が君主になってはけないという決まりはなかったのですが
前例がなかったので、女王(QUEEN)ではなく王(KING)という称号が与えられています。

カジミェシュ3世の姉エルジェピタの権利を得て王になったルドヴィクと
二人目の妃エルジェーベトの末娘ヤドヴィカは、幼年時代をハンガリー宮廷で送りました。
5歳の時にハプスブルク家のオーストリア公子ヴィルヘルムと婚約していたことがあって
1年ほどウィーンの宮廷で過ごしていたことがあるようです。

1382年にルドヴィクが亡くなると、次女マリアが10歳でハンガリー女王になりました。
当時マリアはルクセンブルク家のジグモンドと婚約していていました。

       

ポーランド側は、マリアと将来夫になるジグモンドによる二国統治を嫌がり
マリアの妹ヤドヴィカを君主にしたいと考えます。
摂政であるマリアの母エルジェーベトに2年間交渉した末
10歳のヤドヴィカをクラクフに招くことに成功しました。

王になるやいなや、ヤドヴィカの前には求婚者が現れます。
たぶんその前からた~くさん縁談があったとは思うけどね。

中でも婚約していたオーストリア公ヴィルヘルムはクラクフまでやってきて
「もう結婚式をあげちゃおうよ!」という作戦にでますが失敗。
すごすご帰ったヴィルヘルムは、ヤドヴィカの従姉妹(?)でライバルの
ナポリ女王ジョヴァンナ2世と結婚します。

この年、リトアニア大公ヤゲウォがポーランドの貴族とクレヴォ同盟を結びます。
これによってポーランドはリトアニアから土地を返還してもらうことができて
捕虜たちの釈放もしてもらえることになりました。
条件はヤドヴィカとの結婚とポーランドの王冠でした。
ヤゲウォ26歳(36歳説あり)、ヤドヴィカ12歳の1386年に結婚しました。

王になり夫を迎えたとしても、12歳のヤドヴィカには政治的な力は無かったと考えられます。
けれどもヤドヴィカは積極的に政治に参加しようとします。
外交面・文化面に力を入れていたようで、失ったポーランドの領土奪還にも力を注いだり
病院の設立や教会の慈善活動の援助もしてました。
クラクフ・アカデミーは、1817年に王夫婦の名をとってヤゲウォ大学に改名しました。

             
             こちらには王の貫禄がありますね

1399年、ヤドヴィカは王女エルジェピタを出産しましたが
一ヶ月のうちに母娘が相次いで亡くなり、一緒にヴァヴェル大聖堂に葬られました。

26歳かぁ、若いですね…
国民から親近感も尊敬も集めていた王というのは、当時では稀な気がします。
もっと長生きしていたらポーランドの王位継承は違っていたかもしれません。

ヤドヴィカは亡くなった直後からポーランド国内で聖人として尊ばれていたそうで
奇跡の話しもたくさん残っているそうです。
その中でも有名なのは、成り立ちは諸説ありますが “ ヤドヴィカ・クロス ” と
“ ヤドヴィカの足跡 ” のお話しだそうです。

1980年にはポーランド国内の教会で列福され、1997年に列聖されました。
時の教皇はポーランド生まれのヨハネ・パウロ2世です。
教皇にとってヤドヴィカの列聖はぜひとも成し遂げたい仕事だったでしょうね。

奇跡と言えば、ヤドヴィカの墓所は、わかっているだけで17世紀・1887年・1949年と
少なくとも3回発掘されていて、その骨の具合も奇跡的に語られているわけなんだが…
奇跡はいいから、いいかげんそっとしておいてあげましょうよ~

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
東京ドームでオニュが歌ってから頭を離れないRainy Blueなんですが、だんなが熱唱するんだよぉ やめてほしい!!
そんなわけでこのごろ、だんな歌う→YouTube→また歌う→またYouTube… の繰り返しよ… 疲れるわぁ 
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