まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王フランソワ1世愛妾 アンヌ

2009-08-29 01:36:55 | 王の寵姫・愛妾
熾烈な争いに勝ったり負けたり
エタンプ公爵夫人 アンヌ・ド・ピスルー・デイリー


1508~1580?/愛妾 1526~1547

アンヌはプロヴァンスの貴族の娘で、1522年頃王太后ルイーズ・ド・サヴォワの
侍女として出仕しました。
14歳から働くの? 貴族なのに? でもレディの教育もしてもらえるし
いい結婚相手も見つけられそうなのでよいお仕事ですよね。

        

フランソワ1世は囚われていたスペインから帰国するとアンヌに心奪われて
8年来の愛妾フランソワーズ・ド・フォワ をお役御免にしました。
でもフランソワーズも2年ぐらい頑張って居座ったんですけどね。

アンヌは快活でお茶目で可愛らしく学識もありました。
“ 美しい人の中で一番賢く、賢い人の中では一番美しい ” などと言われていました。
アンヌはフランソワ1世が崩御するまで愛を受け続けていました。

でも茶目っ気も高慢になってくると意地悪になるからね。
フランソワ1世が再婚して新しい王妃アリエノールがパリにやってくると
すでに周知の愛妾だったアンヌは王の隣で迎えたらしい … ちょっと悪趣味よね。

1533年、フランソワ1世はアンヌをパンティエーブル伯ジャン4世と結婚させました。
これは完全に偽装のためなので、もちろんご褒美があります。
ジャンはエタンプ公爵に叙位されました。

アンヌは王の晩年影響力を発揮し始めます。
今のうちに家族をいい身分にしちゃおうと、叔父アントワーヌをオルレアン司教、枢機卿と
出世させ、3人の兄弟も司教に、2人の姉妹を女子修道院長にし、妹を良縁に嫁がせました。
またライバルの王太子愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエに対抗して
自分が押すフィリップ・ド・シャボーを提督につけました。

フランソワ1世の死後のことも考えて王の姉マルグリット・ダングレームを
抱え込もうなどと画策したものの、1547年にフランソワ1世が崩御し
アンリ2世が即位すると、ディアーヌの反撃開始です。
アンヌはありとあらゆる屈辱を受け宮廷を追われます。
夫のジャンも宮廷から長官になっていたブルターニュへ帰されました。

1559年にアンリ2世が亡くなると、夫の方はまた宮廷で力を取り戻しましたが
翌年に亡くなりました。
アンヌがどうしていたかははっきりしません。
亡くなったのも多分アンリ3世の治世の頃で1580年ぐらいらしいです。

厳しい世界ですよね、後ろ楯が無くなると転がり落ちてしまうなんて。
ディアーヌだって結局カトリーヌ・ド・メディシスに追い出されるわけだし。
いつまでも栄華を保ちたかったら、長生きしそうな相手を選ぶか
思いっきり年下をゲットするしかありませんな。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王フランソワ1世愛妾 フランソワーズ

2009-08-28 00:59:25 | 王の寵姫・愛妾
贈り物攻撃に降参
シャトーブリアン伯夫人 フランソワーズ・ド・フォワ


1495~1537/愛妾 1518~1526

フランソワーズはルイ12世妃アンヌ・ド・ブルターニュのまたいとこにあたり
アンヌのもとで教育されていてジャン・ド・ラヴァルと出会いました。
10歳で婚約して14歳で結婚したのですが、実はその前年に娘を生んでいます。
ちょっと~! 教育してたんじゃないの? さすがフランス宮廷、教えることが…

       

ふたりの結婚生活は、フランソワ1世に呼び出される1516年まで平和なものでした。
フランソワーズは教養高く、ラテン語やイタリア語を話し、詩も書いたそうです。
すごく気が強い女性だったという説もあります。

最初に招待状が届いた時、王の下心に気付いた夫はフランソワーズの内気を理由にして
招待を断り、2回目は自分だけで出かけて行ったそうです。
でも相手は王様だし…防衛むなしくフランソワーズは宮廷に呼び出されました。

一方呼ばれたフランソワーズは次々贈られるプレゼントにうっとり。
その上、下心満々のフランソワ1世にも心がときめきます。
フランソワ1世は彼女だけではなくて家族にも贈り物攻撃をしかけます。
夫のシャトーブリアン伯は軍の指揮官に、兄のロートレック子爵はミラノ総督に
その他の兄弟も軍の上官へ出世させました。

家族がやいのやいの言ったのか、フランソワーズが抵抗しきれなくなったのか
1518年頃についに愛妾になったようです。
お決まりのコースで、フランソワーズは王妃クロードの侍女になりました。

フランソワーズはフランソワ1世の初めての公式愛妾でした。
フォワ家が大嫌いなフランソワ1世の王太后ルイーズ・ド・サヴォワは大激怒したそうで
これがもしかして後にフランソワーズを失脚させることに…?

1519年、夫のシャトーブリアンは公用でブルターニュに差し向けられましたが
彼はフランソワ1世に感謝したらしいですよ。
宮廷で “ 妻の不貞に気付かぬ夫 ” のふりを続けるのも苦しいでしょうからね

フランソワーズは政治的なことには口をだしませんでしたが
ただ一度だけ、ビコッカの戦いで失敗した兄弟たちを失脚させないよう説得しました。

1525年、パヴィアの戦いで捕えられたフランソワ1世はフランスに帰国すると
アンヌ・ド・ピスルーに心を奪われるようになります。
彼女は実は王太后ルイーズの侍女 … さてはルイーズ、息子好みの侍女を用意したか?
フランソワーズは2年にわたる女の争いに敗れて宮廷を去りました。

夫はブルターニュ長官になっていました。
フランソワーズはブルターニュからフランソワ1世に手紙を書き続け
王も度々ブルターニュを訪れました。
訪れたと言うことは滞在したと言うことで、夫はもうどうでもよかったのかしらね?

1537年にフランソワーズが亡くなると、夫が彼女を暗い部屋に閉じ込めて
殺したという噂がたちましたが、病死だったようです。

1573年に夫シャトーブリアン伯が亡くなると、ブルターニュ長官の後任には
ジャン・ド・ブロッセが就きました。
何を隠そうアンヌ・ド・ピスルーのご主人でございます。

無理矢理呼び出しておいて捨てるってひどくない?
一方が圧倒的に有利な恋愛って、やはり健全じゃない気がするな…

(参考文献 ドーン・B・ソーヴァ『愛人百科』 Wikipedia英語版)

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バヴァリア王ルートヴィヒ1世愛妾 ジェーン

2009-08-27 01:41:16 | 王の寵姫・愛妾
これぞ “ 恋多き女 ”
レディ・エレンバラ ジェーン・ディグビー


1807~1881/愛妾 1831

ジェーン・ディグビーの場合は愛妾というのとはちょっと違うのですが
どうしても書きたくてルートヴィヒ1世の名を借りてみました。

ジェーンの父はネルソン提督のもとでトラファルガー海戦を戦った英雄
ヘンリー・ディグビー司令官です。
父方も母方(コーク家)もかなり由緒がある旧家でした。
母もかなり美しかったそうですが、ジェーンも透けるような肌、輝くブロンドヘア
大きな青い瞳、長い睫毛が印象的な美しい少女でした。

あまりにも美しい娘は早くかたずけるに限ると思った両親は
16歳でジェーンを社交界へ出し、33歳のエレンバラ男爵からの求婚を受けました。
17歳で最初の結婚をしましたが、2年目には最初の浮気が…
彼女は従兄弟アンソンやサー・フレデリイク・マドンと情事があり
オーストリアの外交官シュヴァルツェンベルクとの不倫で6年後に離婚しました。

このスキャンダルにジェーンの父親大激怒
ジェーンはシュヴァルツェンブルクとパリに移り子供も生まれましたがその後破局します。

続いてパリでバルザックとの恋が終わった後、ミュンヘンに向かった彼女は
まんまと美女愛好家ルートヴィヒ1世の愛人になったわけですが
一方でフェニンゲン男爵の恋人になり妊娠しました。
1832年に結婚したふたりは、バヴァリアに居づらかったのかシシリーへ。
息子も生まれて落ち着くかと思いきや… ギリシャのテオドキー伯爵登場です。
ジェーンの不貞に気付いたフェニンゲン男爵はテオドキーと決闘し
敗北して身を引きます。 子供は彼が引きとりました。

1841年にテオドキーと結婚してギリシャで暮らすことになったジェーンは
ギリシャ王オソン1世に気に入られ愛妾になりました。
これがまた、オソン1世はルートヴィヒ1世の息子なんですよ! 父子そろって…
王妃アマリアの嫉妬もすごかったが、テオドキーもそうとう不機嫌になります。
夫婦の間にもすきま風、そんな時6歳の息子がバルコニーから転落死する事故があり
ふたりは離婚しました。

ジェーンはバルカン半島を南へ移動、アルバニアで総督でもあり
山賊の隊長でもあるハジ・ペドロスと恋をします。
山賊ってあんた… メイドとか従僕とかついてたはずよね?
その人たちは山賊といっしょくたにされていやじゃなかったのかしら?
ともあれジェーンは洞穴で寝て、馬で駆け巡り、狩りをして、とワイルドな生活を満喫。
けれどこの恋も相手の不誠実が原因で破局しました。

46歳のジェーンは中東へ向いキャラバン隊と旅をします。
まずは20歳年下のベドウィンの族長サレと恋に落ち
その後メズラブ大族長の次男で17歳年下のメズラブに心を移しました。

メズラブとの結婚式はイスラム教にのっとって行われました。
ジェーンはダマスカスに建てたヴィラで暮らしましたが、アラブの衣装を纏い
8カ国にもわたるアラブの言葉を習得してメズラブの良き妻であるように努めたそうです。
時には一緒に放牧に出かけてテントで眠ることもありました。
28年の結婚生活はとても幸せだったということです。

              
                アラブの装いのジェーンです

えーっと、書ききれないから結婚相手と愛人を分けてみました。
こちら結婚相手。
        
こちら主な愛人。
        

ジェーンは故郷を出てから2回ほどイギリスに帰っていますが
顔に泥を塗られた家族のもてなしはとてもよそよそしいもので
その後は二度と帰国しませんでした。

1881年に赤痢で亡くなり、ダマスカスのプロテスタント教会に埋葬されました。
ジェーンが建てたヴィラは英国行政官の官邸になったそうです。

かなりの恋愛体質 … 愛以外は目に入らないと言うラヴ・アディクトですね。
夫とか愛人とか関係なく、愛した人と一緒にいただけという人生、
羨ましいようなしんどいような…
しかし、女を忘れずに綺麗にしていれば20歳以下でもOKということか?
もとが違うからダメか

(参考文献 ドーン・B・ソーヴァ『愛人百科』
      M・ニコラス『世界の悪女たち』 Wikipedia英語版)

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文庫ですが読み応えあり!
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『孤児マリー』受け身の強さを知りました

2009-08-26 01:06:32 | フランスの作家
MARIE CLAIRE 
1910年 マルグリット・オードゥー

女性が主人公だと、どうしても立ち向かって行くタイプが良いものだ、と
思っている節があります。 私はね。
それで受け身タイプの女性が登場すると、まるで悪いことのように
言ってしまうことが多々あるのですが、今回おおいに反省です。

母親の死後父親がいなくなって孤児になった7歳のマリーが姉とも離されて
修道院や農園で過ごした12年あまりの物語です。

たとえば『赤毛のアン』『家なき娘』のペリーヌなどはたくましさがありますね。
アンには空想の力と巧みなおしゃべりで人を惹き付ける魅力があり
ペリーヌには子どもらしからぬ思慮分別や計算高さが備わっています。
アンはちょっと不幸な境遇をなんとか明るいものにしようと工夫をこらし
ペリーヌは祖父に受け入れてもらうために最善の方法を得ようと熟考します。

けれどもマリーはまったくの受け身、逆らわず、主張せず、黙々と生きています。
連れて行かれるままに修道院で過ごして、言われるままに農園に移り
優しかった雇い主の死後は有無を言わさず次の雇い主に仕えさせられて
最後は生き別れだった姉が勧めるままにパリ行きの汽車に乗ります。

それなのに、なぜかマリーには強さを感じます。
風が吹き荒れても倒れない柔らかな草のような、柔軟な強さ。
自分の不幸も嘆かないというより気付いていないんじゃないかとさえ思える
飄々としたマリーを、おバカさんだと見てしまう人もいるかもしれませんが
目の前の状況を見つめる目はするどいですよ。

内容を堪能するというよりは、とてもシンプルで美しい文章(訳者は堀口大學氏)が
さらさらと流れていくうちに物語が終わった、という感じでした。

この物語が作者のオードゥーの実話ではないにしても
彼女はマリーととても良く似た人生を送ってきたそうです。
巻頭にミルボーの賛辞が書かれているのですが、その中でも当時のお針子オードゥーの
苦しい生活が書かれています。

悪くなった目で縫い子をしながら書き上げた47歳の女性の処女作。
苦しい47年間を送った後でこんなにあどけなくきれいな物語が書けるなんて…
信じられない。
普通は世間や自分を貶めた人たちへの恨みつらみを書きたくなるでしょう?

出版後に屋根裏から引っ越したアパルトマンには、有名無名の作家たちが集まって
彼女の優しい励ましや慰めの言葉を聞きたがったというから
本当に素直で滋味溢れる女性だったのでしょうね?

たおやかな強さを教えてくれる『孤児マリー』は、ちょっと世を拗ねて攻撃的な私に
いろいろな反省材料を与えてくれました。
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イタリア王ウンベルト2世妃 マリーア・ジョゼ

2009-08-25 01:38:53 | イタリア王・公妃
ヒトラー大嫌い! イタリア最後の王妃
ウンベルト2世妃 マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ


1906~2001/在位 1946

マリーアはベルギー王アルベール1世王女で、1930年にウンベルトと結婚しました。
この結婚は幸福ではなかったと彼女自身が語っていますが
政治的な理由で離婚はせず、長年別居する結果になりました。
       
大戦中、ムッソリーニ内閣の中に親しい閣僚がいて
連合国側のベルギーと繋がりが深いマリーアはイタリア、ドイツ側と
他のヨーロッパ諸国との外交の数少ない窓口でした。
イギリスの外交官は彼女を「イタリア王室で唯一政治的決断を下せる人物」だと
書き記しています。

同盟国ではありましたが、マリーアはヒトラーが大嫌い! でした。
マリーアの兄ベルギー王レオポルド3世はヒトラーのせいで退位になり
その上、ドイツに監禁されていました。

ヒトラーはイタリアを訪れた時、冷淡な扱いを受けたと怒ってますが
マリーアも(もし会ったとしたら)かなり冷たく接したんじゃないかしら?

敗戦後ウンベルトは王位を譲られたものの、国内の世論は No more King !! だったのね。
1ヶ月後に国民投票によって廃位されましたが、それまでウンベルトとマリーアは
自ら王室存続のデモに参加したりキャンペーンをはったりと夫婦で頑張りました。

結局敗れた後は一家でポルトガルへ脱出し、その後別居を決意します。
マリーアは4人の子供たちとスイスへ移りました。
離婚をしなかったのは、まだイタリア王復位を望んでいたウンベルトが
イメージダウンを恐れたからです。

ウンベルトは帰国を許されないまま1983年に亡くなり
マリーアはその後イタリアに帰りました。
2001年にジェノヴァで肺がんで亡くなりました。

彼女は気骨のある人だったみたいで、ムッソリーニが国民の名をイタリア名に
改名させようとした時、マリーア・ジョゼッペへの改名を拒否しています。
スイスではパルチザンに武器や食糧の援助を行い、彼らのシンボルになりました。
お美しいし、今ならダイアナ妃のようにカリスマ王妃として注目され
ファッション誌に特集されたりパパラッチされたりしちゃうかしら?

イタリアでは王政復古運動もあるみたいなんですが、まず息子のヴィットーリオが
王位継承権を放棄しているから(この方、かなり怪しい経歴を持っていらっしゃる)
孫のエマヌエーレ・フィリベルトもどうなんでしょう? 継承権はないのかしら?
奥様は女優のクロチルド・クローよ! 素敵ね。

私としては王国がたくさん復古してくれると楽しいんだけど(無責任発言 )

             
                小さな頃のマリー・ジョゼ
                    なんて可愛いのでしょう!!


(参考文献 ピエール・ミケル『ヨーロッパ最後の王たち』 Wikipedia英語版)

ヨーロッパ最後の王たち 創元社


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イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世妃 エレーナ

2009-08-24 00:15:19 | イタリア王・公妃
ムッソリーニを信じた王妃
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世妃 エレーナ・デル・モンテネグロ


1873~1952/在位 1900~1946

いきなりのモンテネグロ…モンテネグロは1878年に王国になって
第一次世界大戦後はオーストリア=ハンガリー帝国に占領され
後にユーゴスラヴィア王国に組み込まれてしまったという短命な王国です。

エレーナは1869年にヴィットーリオと結婚しました。
一時はエチオピア王妃とアルバニア王妃になりましたが、ヴィットーリオが早々に
王位を放棄したため短い間のことでした。

        

第一次世界大戦では連合国側について戦勝国になったんだけど
あまり働きが評価されなかったようなのね…
たいしたご褒美も無く、国はどんどん貧しくなって共産主義が台頭します。

そこへ現れたのがファシズムを提唱するムッソリーニでございます。
エレーナは王にムッソリーニに紹介し、彼の運動を後押ししました。
ヴィットーリオも、手の施し用が無くなった共産主義や自由主義封じ込めに
ムッソリーニが役立つと、むしろ好意的に接していました。

君主制を存続させたいためにムッソリーニと結託したところまでは思惑どおりですが
そこからが計算違い、ムッソリーニはファシスト党を結成し
勢力を拡大していき1922年に首相になりました。
その後の王家はお飾りに過ぎなくなっていきます。

ヴィットーリオは「ドイツが負ける」と考えていて
枢軸国側での第二次世界大戦参戦は反対したと言われていますが
結局ムッソリーニと軍部に押し切られ(いずこも同じか?)参戦しました。

エレーナの願いだったのでしょうか?
一時期ユーゴスラヴィアへ侵攻しモンテネグロ王国を復活させましたが
3年で手放すことになりました。

大戦の結果は…ご存知の通り我が国同様敗戦ですね。
ヴィットーリオと議会はムッソリーニを解任すると新政府を樹立して降伏しました。
その後、ヴィットーリオは退位してエジプトへ出国し、翌年スペインで亡くなりました。

大戦中エレーナはモンテネグロ王国が復活したり、甥のミカエル王子が釈放されたりと
いい夢を見れたようですが、戦後は亡命生活を余儀なくされました。
夫の死から5年、フランスで亡くなりました。

(参考文献 ピエール・ミケル『ヨーロッパ最後の王たち』 Wikipedia英語版)
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『大使たち』自己分析もほどほどに・・・

2009-08-23 01:37:06 | アメリカの作家
THE AMBASSADORS 
1903年 ヘンリー・ジェイムズ

ストーリーだけを見ると結構面白いので書いてみますね。

ニューサム夫人から息子をアメリカへ連れ帰るようにと依頼されたストレザーは
気難しい友人ウェイマーシとパリへやって来ます。

ニューサム夫人はウレットを代表する上流婦人、大企業創業者の未亡人で
ストレザーは彼女の恩恵を受けて編集長として雑誌を発行しています。
首尾よく息子を連れて帰れば夫人と結婚することになっています。

いよいよ悪名高かった息子チャドウィックに再会した時
ストレザーは彼のあまりの変わりように衝撃を受けました。
洗練され、趣味が良く、非の打ち所がない好男子になっていたからです、

ストレザーはチャドをこんなにも変えた女性の存在を知ります。
ヴィオネ伯爵夫人…ストレザーは彼女に会ううちに
“ チャドは彼女を置いてアメリカへ帰るべきではない ” と思うようになります。

しかしアメリカに帰ればこれから築く莫大な富と尊敬が手に入ると知ったチャドは
帰ってもいいようなことを言っています。

一方、ウェイマーシによって行状を報告されていたらしいストレザーは
とうとう見限られ、チャドの姉ポコック夫人がパリに乗り込んできます。

さあ、チャドはどうするんでしょうね?

とにかくストレザーと言う人は、自分でも言うように生真面目で、理詰めで
自分を分析し自分の言葉を分析し、さらに他人を分析し他人の言葉を分析し
自分と他人を非難し、自分を反省し、他人を賞賛し… そんなことに明け暮れて
しかもいちいち理屈がつくもんだから、話しが進まないったらない

彼がなんだかんだと考えながら会話する場面は、思慮深いという範疇を越えて
ただの会話ナルシストに思えてきます。

他の登場人物もインテリジェ~ンスでソフィスティケ~トな感じでの言葉を発し
やけに傍点多し、そして先回り発言多し。
その上「今は言えない」ことや「ご自分でご覧になった方がいい」ことが目白押し。

チャドがどうするか、ニューサム夫人に見放されたストレザーがどうなるのか
やけに知りたくて我慢して読みましたが、中盤以降は早く終わらないかしら?
と考えながらページを繰っていました。

さてストレザーですが、作中登場する女性陣に「好きにならずにいられない」とか
「鋭い目を持っている」とか「考えがご立派だ」などと褒め上げられていたけれど
想像を逞しくしすぎて、はたまた手を広げすぎて収拾がつかなくなったように思え…
彼が悩みに悩んでいる間に、まわりはどんどん先に進んでいたみたい。
ただのお人好しなんじゃないですかね?

長々とくねくねと書かれていた割には「あ、やっぱりそう?」という結末でした。

内容はさておき、進行している物語に隠された側面や裏腹を読み取る努力を
必要以上に要求された気がします。
頭の良い方には面白いのではないでしょうか?
私はもう、いっぱいいっぱいです

大使たち〈上〉岩波書店


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上巻でございます。興味があったら…
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イタリア王ウンベルト1世妃 マルゲリータ

2009-08-22 01:37:15 | イタリア王・公妃
ピッツァで有名ですね
ウンベルト1世妃 マルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ


1851~1926/在位 1878~1900

マルゲリータとウンベルト1世はいとこにあたります。
        
マルゲリータは画家や作曲家など芸術家の庇護者で、芸術協会もいくつか設立しています。
慈善にも多く携わっていて、特に赤十字に力を入れていました。

ウンベルトの人柄はともかく、統一されて日も浅いイタリア国内は混乱の極みで
デモや暴動などは絶えませんでした。
ウンベルトも何度か暗殺未遂に遭い、幸い未遂におわっていたものの
1900年にはとうとう銃弾に倒れることになりました。

デイジーという意味を持つマルゲリータはピッツァの由来になっています。
王妃がナポリを訪問した時に献上されたらしいのね。
それからアフリカのスタンレー山のマルゲリータ・ピークも彼女が由来らしいです。

そんな愛らしい名を持つ王妃は、夫とは反対に人気があったらしいのですが
政治的にはちょっとファシズム寄りだったそうでございます。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『聖母の贈り物』信心、懐古、老いること

2009-08-22 01:35:12 | イギリス・アイルランドの作家
THE VIRGIN'S GIFT 
ウィリアム・トレヴァー

やっぱり好きですねぇ、ウィリアム・トレヴァー
内容にも文章にもある種の潔さが感じられます。
後悔もあきらめも叶わなかった願いも、全て受け入れようとするスタンス、
老後には見習いたい。

ベースには、アイルランド的カトリックへの信仰心と
現代を描いていてもなぜか懐かしく感じられる情景、
老いていくこと、老いてしまったことを冷静に見つめる姿勢があるように思います。

初めて知りましたが、トレヴァーの短篇集は全て12篇で構成されているそうです。
そんなわけで、こちらの短篇集も収められているのは12篇です。
印象的な作品をいくつか…

『イエスタデイの恋人たち(Lovers of Their Time)』
旅行代理店に勤めるノーマンと、薬局のマリーの恋物語です。
ふたりは満足に時間を持つことができません。
なぜならノーマンには妻がいるから…
けれどもふたりは離れられないと思い、小さなフラットに移り住みました。

うぅぅ…せつない。でも、たいていの不倫の結末はこんなものではないかしら?
このケースはまだ幸せだった方じゃないかと思います。
少なくともお互いが真剣だったんだもの。

『マティルダのイングランド-テニスコート(Matilda's England-Tennis Court)』
マティルダと兄のディック、姉のベティーは、ミセス・アッシュバートンに
荒れ果てたチャラコム屋敷のテニスコートをきれいにするよう依頼されます。
そして綺麗になったテニスコートでパーティーが開かれ、昔のような輝きを放ちます。
けれど平和な村にも、第二次世界大戦がせまってきていました。

最後の輝きって美しいものですが、この物語のパーティーのシーンは
風景、人物、小道具、何から何まで美しく、本当に胸が熱くなります。
これみよがしの描写などはないのですが…素敵で不思議です。

『丘を耕す独り身の男たち(The Hill Bachelors)』
父が死んだので母が暮らす農場へ帰って来たポーリーは、結婚はしたいのに
なかなか相手が… 見わたすとまわりの農場にはそんな男性ばかりです。
丘の上のハーティガンは「農場を買ってやるから都会に帰りな」と忠告します。

日本だけじゃないんだ! 嫁不足問題。
大変な仕事ですものね 、鉢植えガーデニングだけでも力尽きそうなのに…
何年か前富良野に旅行に行った時、ガイドさんに「2ヘクタール買わない?」と
言われましたが、買ってどうしろと…?

暗い話しもそうでない話しも(たいがい暗いんですが)吟味されて選び抜かれた言葉で
大げさにならないように伝えてくれる、そんな感じです。
だからスラスラ読めるわりに、後からジーンときたり考えさせられたりします。

でも、やはり若い人向けじゃないのかな?
ノスタルジックすぎるきらいはありますね。
そろそろ人生をあきらめ始めた年頃にいいんじゃないでしょうか?
そんなに頑張らなくていいんだよ…っていう意味で。

自分を見つめ直すヒントがほしい時にぜひ!
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イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世妃 マリーア・アデライデ

2009-08-21 00:59:02 | イタリア王・公妃
やっとイタリアらしい王様登場
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世妃 マリーア・アデライデ
                      ダスブルゴ=ロレーナ


1822~1855/在位 1849~1855

待ってました! ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世。
今までの王様はなんだか物足りない気がしてたのよね…愛人がいな~い。
いたかもしれないけど少な~い。
イタリアよ! 首相はベルルスコーニなのよ!! 愛人スキャンダルが無くてどうする?
ヴィットーリオ王には少なくとも6人は愛人がいたもようです。

そんな王様の王妃は大変ですね。
マリーア・アデライデはヴィットーリオの従姉妹にあたります。
       
8人めの子供を出産して2日後になくなりました。



              
長きにわたって王の心をとらえ続けた
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世妃 ローザ・ヴェルセラーナ


1833~1885/在位せず

ローザの父親はもともとナポレオン軍の兵士だったのですが
失脚後はサルディーニャ王国軍に入隊し、猟場の守衛になりました。
一家で暮らしていた猟場をヴィットーリオが訪れた時ローザは14歳。
でも年齢なんておかまいなし!とっとと愛人になったらしく翌年子供を生んでます。

1849年にヴィットーリオがサルディーニャ王に即位した時、ふたりの関係は
大スキャンダルとして取り沙汰されたのですが、1855年に王妃が亡くなると
ヴィットーリオはローザに爵位を与えたりして優遇します。
他にも愛人がいたので差別化するためだったのかもしれませんね。

1861年、イタリアがひとつの王国になりヴィットーリオが即位します。
イタリア統一をものすっっっごく簡単に説明すると
ナポレオンがやって来て他の名家を駆逐してくれて
ナポレオン失脚後にオーストリアのおかげで失地も回復、
ナポレオン3世の援助を受けてオーストリアを敗り半島統一、てな感じです。

ヴィットーリオは、統一運動を組織したりクリミア戦争に出兵したりと
果敢に戦った方ではないかしら?

首都がフィレンツェに移って5年後、ヴィットーリオは重病に陥り死にそうになりました。
すると彼は急いでローザと結婚することにして、宗教儀式のみの式を挙げました。
教皇も間に合わないので電報で祝福を求めたほどです。
…でも死にませんでした、ってことで8年後に正式な結婚式が挙げられました。
式は挙げましたが貴賤結婚になり、子供たちには継承権はありません。
         

1878年ヴィットーリオが亡くなり、8年後にローザが亡くなりました。
サヴォイア家は彼女を王家の霊廟に埋葬することを拒み
トリノに良く似たひとまわり小さい霊廟を建ててそこにローザを葬りました。

浮気な王を30年以上自分のものにしておけるなんて…すごいわ!
しかも死に瀕して結婚式をあげなければ! と思わせるなんて。
長い愛人人生を送った末の勝利、女冥利に尽きますな。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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サルディーニャ王カルロ・アルベルト妃 マリーア・テレーザ

2009-08-20 00:31:40 | イタリア王・公妃
豪華な血筋に驚く
カルロ・アルベルト妃 マリーア・テレーザ・ダスブルゴ=トスカーナ


1801~1855/在位 1831~1841

マリーアは、ナポレオンによって両親がウィーンに追放されている時に生まれました。
1817年にカルロ・アルベルトと結婚しました。

カルロ・アルベルトは後継者がいなかったカルロ・フェリーチェに指名されて
王位につきます。

カルロはもともと継承者になる可能性が極めて低い人物だったわけですが
性格的にも王には向いてなかったらしいのね。
当時イタリア半島はナポレオンは駆逐されたものの、オーストリアの支配が高まってきて
反オーストリア派の暴動などが盛んにおこっていました。

優柔不断で好戦的、独断的というわけで、激動のイタリアを治めるには
ちょっと不適当だったようです。

1849年、オーストリアに敗れると退位してポルトガルへ亡命して亡くなりました。
マリーア・テレーザはどうやら残ったみたいですね。
息子が王に即位してますからね。
         
とはいえ、カルロの死後はまったく公の場に姿を見せなくなったようです。
1851年にトスカーナへ帰り4年後に亡くなりました。

強固なカトリック信仰と保守主義の持ち主だったそうで
息子ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に多大な影響をもたらしたと言われています。

さてさて、驚くのは彼女の血筋!
当時イタリア半島をめぐって争っていたブルボン=スペイン家とハプスブルク家の
両方の血を濃い~く引いています。
詳しくは家系図をご覧下さいませ。
       

(参考文献 Wikipedia英語版)
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@東急東横店 本日の収穫

2009-08-20 00:31:27 | もろもろ
渋谷古本市をやっていたなんて! しかも今日が最終日なんて!!
というわけで昼休みに急いで行って来ました。

あまり時間がなくてじっくり見れなかったのですが、何冊か文庫本を買いました。

『私だけの部屋』はヴァージニア・ウルフのエッセイらしい…楽しみ
シュトルムの『みずうみ』は持っているのですが、未読が2篇入っていたので購入。
実はマルグリット・オードゥーという作家は知らないのですが
『孤児マリー』と『マリーの仕事場』の2冊を買いました。
しかし…汚~い コンディションは最悪です。
セロテープでお直ししてから読まなけりゃ。

あとはフィリップスやロレンス、ヘミングウェイ、ジイドなどなど…

今度はじっくり時間をとって厳選しよう。
またDMくださいね!!
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『狭き門』信じる女のエゴイズム

2009-08-19 00:02:29 | フランスの作家
LA PORTE ETROITE 
1909年 アンドレ・ジィド

20世紀初頭の人々がどのような気持ちでこの物語を手にしていたか分かりませんが
宗教をベースにした厳粛な部分にはふれないでおくとして
恋愛をテーマに考えると、アリサという女はちょいとひどい と思う。

例えば心から愛している相手がいるとしますよね?
相手も「愛している」と言ってくれるわけですが、なぜか会わないでいようと言ったり
つれなくなったりを繰り返しているうちに二十年近くの時がたってしまうという
とてもじれったい物語。 待っている男性も偉いんだかなんだか…

アリサはジェロームという恋しい人に、徳の高い人物になってほしいと望んでいます。
ジェロームもただアリサのためだけに高い徳を手に入れようと励んでいます。

でもアリサは、自分がジェロームの勉強や精進の邪魔になるのではないかと
恐れてしまったようなのね。
そこで手紙では「あなたのことばかりを考えて…」と言ってるわりには
会うとかなりつれない態度に出てしまうみたいなのです。

ジェロームも彼女への愛はものすごく強いのに、いざ目の前にでると
気まずさを覚えてあまり上手くしゃべれないという…
だれか第三者にいてもらった方がいいとまで思う始末です。

人の恋ですから、どんなスタイルで愛し合っていようと文句を言う筋合いではないが
手紙の中では正直で雄弁になれるのに語り合うのが苦手って…この先大丈夫?

幼い頃からお互いだけを見てきたふたりなので、美しい理想だけで恋愛しているみたい。
やはり女性であるアリサの方が現実的で、一生強く愛し合うなんて無理なのだから
結婚しない方がいいと考えてしまったようです。
清い…清すぎる! そして手におえない
「ずっと聖らかなままでいたいの」という恋人を前にして
いったいどうしたらいいというのかね?

最初は面白かったんですよね。
アリサの妹ジュリエットがジェロームを愛してしまったあたりから
そうとも知らずジェロームの親友アベルがジュリエットに求婚するところにかけて…
盛り上がるかと思ったらさっさと終わってしまいまして
後は延々とふたりがはにかむところばかりでございます。

“ 自己犠牲 ” という言葉がしっくりくるアリサの人生ですが
はたして相手には善きことになっているのかしら?
多分に自己満足で終わっているような気がしないでもない…

狭き門 新潮社


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横浜で絶頂派美術を見た!

2009-08-17 19:34:36 | もろもろ
横浜美術館にフランス絵画の19世紀展を見に行ってまいりました。

お昼に中華街でたらふく食べてビールもいただいちゃったもので
いい気分で入場、すいてて気持ちよかったわぁ
大きな絵も引いたり寄ったり自由自在に眺められました。

そしたら先日タモリ倶楽部で見た絶頂派美術を1点発見!!

           

これ、『ヴィーナスの誕生』なんですけどね。
誰だか忘れちゃったのですが、タモリ倶楽部に出ていらした大学教授によると
足の指先の異様なそり具合とか、不自然な胸の形とか、とろ~んとした眼なんかが
絶頂派を見分けるポイントなんですと!

昔は裸体を描くことがなかなか受け入れられなかったので
神話や伝説でカモフラージュして描いたんですって。
そう言われればそんな感じの絵がたくさんあったように思えてきました。
はしたなくってすみません… 芸術なのに。

教授いわく、ミレーはものすごく裸体好きだったそうですよ。
奥さんに「こんなエッチな絵ばっかり描いて!」と叱られて(この部分タモリかも)
反省して『晩鐘』や『落ち穂ひろい』などの名作を描くようになったそうな。
有名画家にも隠しておきたい歴史あり。

一方方向から絵をながめるばかりでなくいろいろな角度から見てみるのも
楽しいものですね … とまとめてみました。
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サルディーニャ王カルロ・フェリーチェ妃 マリーア・クリスティーナ

2009-08-16 00:08:44 | イタリア王・公妃
芸術がご趣味
カルロ・フェリーチェ妃 マリーア・クリスティーナ
              ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ


1779~1849/在位 1821~1831

う~、長いんじゃい名字! あやうく3行になるとこだったわ。
シシリーのブルボン家ってことですが、1718年にヴィットーリオ・アメデーオ2世が
ハプスブルク家に引き渡したシシリーはいつの間にやら(1734年からです)
ブルボン家が統治しておりました。

家系図も3家入り乱れた感じになっております。

       

28歳の時にカルロと結婚というから、当時の王女としてはかなり晩婚ですね。
カルロも42歳で初婚のようですけど、それまで女っけがなかったとは思えないなぁ。

カルロは五男でまさか自分に王位がまわってくるとは思っていなかったのですが
兄ふたりが退位し、ふたりは既に亡くなっていたため即位するハメになってしまいました。

どうやらこの兄弟、皆さん政治に興味がないようで、カルロも芸術が大好き!
王夫妻はあまり宮廷にはおらず、お気に入りのレジデンスに芸術家を招いたりして
心地よい毎日を送っておりましたとさ。
王というより一領主みたいな気分だったんじゃないかしら?

マリーアは1825年から考古学者ビオンディ男爵やカニーナなど
ツスクルムの発掘に携わった人物を雇い入れています。
この時期に古代の芸術品がアリエ城に蒐集されたそうです。

1831年にカルロが亡くなりました。
ふたりには子供がいなかったので後継者は分家のカリニャーノ家に移ります。
母后というわけでもないので宮廷にはいずらかったんでしょうか?
ナポリやアリエなどの城を転々として過ごし1849年に亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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