まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王ルイ8世王女 聖イザベル

2011-11-30 23:04:46 | フランス王妃・王女
俗世の男性より神を選ぶ
ルイ8世王女 イザベル・ド・フランス


1225~1270

ルイ8世とブランシュ・ド・カスティーヨには13人のお子さんがいまして
そのうち王女は3人ですが、長女ブランシェと次女アニェスはすぐ亡くなってしまいました。
長女ブランシェの誕生から20年後、12番目の子として生まれたのがイザベルです。
            
父王ルイ8世はイザベルが1歳の時に亡くなると、母ブランシュがルイ9世の摂政に就き
幼い子供たちの教育を一手に引き受けることになりました。
どうやらブランシュの教育方針が敬虔だったみたいですね。
兄のルイ9世は聖王と呼ばれていますし、イザベルも幼い頃から信心深い子供でした。

イザベルは王家の言いつけよりもフランシスコ派の聖職者たちの教えを尊重していました。

唯一のフランス王女ってわけで、イザベルにも各国からの縁談が舞い込みます。
けれどもイザベルはいくつかの婚約を破棄しました。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と皇后イザベラの皇子コンラートとの縁談は
ローマ教皇インノケンティウス4世も承認していたものでしたが、これも固辞しました。

インノケンティウス4世は神聖ローマ側に圧されてしぶしぶ結婚を承認してたのかしら?
すぐに「神に身を捧げ処女として生きることを決心するとは!」と賞讃を与えました。
だって、ものすごい広告塔になるものねぇ…

しかし一人しかいない王女を政治に利用しないとは…当時では考えられないことですね。
母ブランシュが敬虔な娘を後押ししたんでしょうかね?
だとしたら、母親の言いなりだったルイ9世も黙認するしかありませんな。

教皇のお言葉に気をよくしたのか、イザベルはクレア派の修道院を建てたいと考えます。
優しい兄ちゃんルイ9世は妹のために、ルブレの土地を手に入れてあげました。

イザベルは修道院長になることは拒み修道院で暮らすこともありませんでしたが
聖職者は自ら厳選し、わざわざ修道院の近所に移ってます。
なんかさぁ、オーナーとして、近くで雇われ社長(修道院長)に睨みを効かす感じですか?
だったらいっそのこと社長(修道院長)になってくれた方がまわりも気が楽なんじゃない?
オーナーの “ 鶴の一声 ” で騒動になる会社(球団か…)もあるんだからさぁ…

そんなことを一介の信者がやっていいのかね? と甚だ疑問なんですけど
イザベルは教義の改訂なんかもやっちゃってます。
そんなこと勝手にしたら教皇が怒り心頭で破門するんじゃないの? と思いきや
フランスやイタリアの修道院で取り入れられたそうですよ。
カトリックの教義に則った改訂だったんでしょうね。

影のオーナーなんて言っちゃったけど、イザベルはその後も信仰篤く
病人や貧しい人々に手を差しのべ続けて人生を送りました。

1270年にロンシャンで亡くなりました。
で、ここからが聖人伝説なんですけど、教会の墓地に埋葬されたイザベラを
9日後に掘り出してみると(なぜに掘り出す?)まったくもって腐食がなかったらしい…
そして墓石にはたくさんの奇跡の跡が残っていたらしい…

イザベルは列聖されてはいないようなんですけれども
1521年にローマ教皇10世がロンシャン修道院でイザベルを讃えることを許可しました。

そんなエピソードが残るロンシャン修道院ですが、フランス革命の際に閉ざされ
売りに出されましたが購入者が見つからず取り壊されたそうです。
もったいないですね フランス革命軍は見境なしだからさぁ…
由緒あるものは遺しとけばいいじゃない?
修道院があった場所は1857年以降、ブローニュの森になっております。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『生きる歓び』天使のような心が仇となる

2011-11-24 22:03:35 | フランスの作家
LA JOIE DE VIVRE 
1884年 エミール・ゾラ

ゾラが描くルーゴン・マッカール叢書の登場人物の壮絶な人生は
ハラハラさせられ、心苦しくなりながらも嫌いになれないのですが
この物語のポリーヌの生き様はどうも納得いかないですねぇ。
(とはいえ、まだ読んでない物語も多いのですけどね… )

物語をかいつまんでご紹介しますと…

主人公ポリーヌは『パリの胃袋』でフロランがお世話になった
弟クニュと妻リザの娘です。

『パリの胃袋』では勝利を得たクニュ夫妻は、ほどなくして亡くなってしまったようで
ポリーヌは10歳でこの世に遺されてしまいました。

そこで北フランスの海沿いの村に住む父のいとこシャントーに引き取られます。
シャントーは商売から引退し、痛風に苦しみながら毎日を送っています。
シャントー夫人は目減りする年金を嘆き、息子ラザールに期待をかけています。
ラザールはというと、好人物なんだけど夢見がちで飽きっぽい青年でした。

お互いに本当の兄妹のような愛情を抱いていたポリーヌとラザールでしたが
何年も一緒にいるうちに、ポリーヌにはだんだん別の感情が芽生えます。

ラザールは音楽家になると言ったり、医者を目指したりするんですが結局ものにならず
知人と事業を興そうと考えます。

そこで初めてポリーヌの遺産に手が付けられます。
その後はなし崩し… シャントー夫人は家計のたしに、ラザールは事業の追加資金に…
どんどん膨らむ借金にシャントー夫人はラザールとポリーヌを結婚させようと考えます。

でも、自分たちがどんどん借りるわけだからポリーヌの遺産は減るじゃない?
そこへ登場するのが銀行家の娘ルイズで、彼女の持参金はすごいもんだと聞かされます。

シャントー夫人には別の野望が浮かび、ポリーヌを恨むようになります。
結局すったもんだの末ラザールはルイズと結婚します。
それも、もう遺産でラザールを助けられなくなったからというポリーヌの説得で…

長年シャントーのかかりつけで、幼い頃からポリーヌを知っている医者カズノーヴは
言われるままに遺産を出し、学校にも行けず女中や看護婦のように働かされた挙げ句
他の女性にラザールを譲ったポリーヌが不憫で、何度か出て行くチャンスを与えました。
あぁ それなのに~、その度に事件が起こってしまって…

とにかく、ポリーヌの10歳からの人生は、まるで人のための人生のようです。

痛風がひどくなるとあたるくせに、出て行かないでくれと泣くシャントーでしょ
家事をさせといて文句たらたらで、最後は毒を入れたなんて疑うシャントー夫人でしょ
まったく生活力が無いくせに夢ばかりみてポリーヌを巻き込むラザールでしょ
家事が一切できず、ポリーヌに任せきりのルイズでしょ… 書いててうんざりしちゃう。

そればかりか、貧しい村の若者たちまで働かずにポリーヌがくれる施しに頼り切ってます。

ラストでは、代々シャントー一家に尽くしていくんじゃなかろうか? とも思えて
カズノーヴならずとも止めたくなるところ… 自分の人生を生きて欲しい。

憐れみと慈愛の心のみで人と接すること、優しさと愛情だけを美徳として生きることが
果たして正解なのかちょっとわからなくなってきます。
シャントー一家も村の若者たちも、つい楽な方を選んじゃった… ていう気がします。
世の中自分に厳しい人ばかりじゃないものね。

ゾラは見事に我が身を顧みない女性を描き切ったわけですけれども、共感はできない…
私の辞書には “ 献身 ” とか “ 身を捧げる ” っていう言葉が無いのでね

ちなみに、ポリーヌは『ナナ』の同い年の従姉妹だそうです。
たぶん会ったことはないんじゃないかと思うけど
血が繋がっていながら、こうも両極端の女性がいるとはね。
あ! 物語だったんだ
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フランス王フィリプ2世王女 マリー

2011-11-21 23:32:26 | フランス王妃・王女
                肖像画が無いので母アニェス像

父王の横暴で身分が定まらず
フィリプ2世王女 マリー・ド・フランス
ナミュール公フィリプ1世妃/ブラバント公ハインリヒ1世妃


1198~1238

以前わたくしがさんざんぱら悪口を書いたフィリプ2世は3度結婚しています。
王女はマリーだけで、三人目の妃アニェス・ド・メラニーの子です。

フィリプ2世は二人目の妃インゲボルグと強制的に離婚しアニェスと結婚しましたが
この結婚をローマ教皇インノケンティウス3世は認めませんでした。
フィリプの要請でなんとかマリーと弟のフィリプは嫡子となることができました。

しかし、1213年、幽閉されていたインゲボルグの復帰で
マリーとフィリプは庶子になりました。

         

マリーは2歳の時にスコットランド王子アレグザンダー(2世)と婚約していました。
この婚約は4歳の時に破棄されます。
なんでしょね? インゲボルグの実家デンマークからのクレームでしょうか?

すぐにイングランド王ジョンと敵対していたブルターニュ公アルチュールとの
婚約が決まりましたが、翌年アルチュールが行方知れずになったため消滅しました。

ちなみに、スコットランド王アレグザンダー2世は後に
ジョン王の王女ジョアンと結婚しました。

        

結局マリーはナミュール公フィリプ1世と結婚しました。
フィリプの姉イザベルはフィリプ2世の最初の妃です。

フランドル家は当時フランスと戦争中で、フィリプは投獄されていました。
許されぬ恋かしら? だとしたらロマンティックですね。
実際はたぶんフランドル家を懐柔する狙いがあったと思われますが
ともあれ、フィリプはマリーとの結婚で自由を得ることができました。
でもフランドルとエノーの貴族は大激怒!そりゃそうだわね。

子供ができないまま、フィリプは1212年に亡くなりました。

マリーは翌年、ブラバント公ハインリヒ1世と再婚しました。
ハインリヒの前妃はイングランド王スティーヴン王女マリーの娘マチルダです。
女の子が二人生まれていますが、妹の方は若くして亡くなっています。
ハインリヒ1世と最初の妃マチルダの長女マリーは神聖ローマ皇后になったりしてるんですけど
マリーの娘はそんなにいい縁談がこなかったみたいです。

40歳で亡くなりアーフリゲム(ベルギー)の修道院に葬られました。

フィリプ2世とマリーの母アニェスの結婚が認められていたらどうだったでしょう?
なんたって唯一のフランス王女ですから、人生が違っていたかもしれませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ7世王女 アニェス

2011-11-16 23:48:46 | フランス王妃・王女
             肖像画が無いので義母マリア・アンティオキア像

異国の地でたらい回し
ルイ7世王女 アニェス・ド・フランス
ビザンツ皇帝アレクシオス2世皇后/ビザンツ皇帝アンドロニコス1世皇后
テオドール・ブラナス夫人


1171~1204/在位 (アレクシオス2世皇后)1180
          (アンドロニコス1世皇后)1183~1185

ルイ7世の末娘アニェスの母親は3人目の妃アデール・ド・シャンパーニュです。

         
アニェスは、ビザンツ皇帝マヌエルの皇太子アレクシオス(2世)に嫁ぐため
7歳の時にフランスを出て、8歳の時にコンスタンティノープルに到着しました。
幼い娘を送り出すルイ7世の親心からものすごく飾りたてられていたそうです。

同じ頃、異母姉のアデールもイングランドに送り出されました。
二人はその後顔を合わせることが無かったと考えられています。

マヌエル1世はイタリア奪回・古代ローマ帝国再興という夢を抱いていて
“ 神聖ローマ帝国 ” なんてぇ帝国があることが許せませんでした。
そこで神聖ローマへの対抗策としてフランスと手を結ぶことに…
ルイ7世もビザンツ帝国の華やかさは、十字軍の際に訪れて知っていたので
アニェスを嫁がせることに決めました。

アニェスの歓迎式典は豪華絢爛でビザンツ帝国史上最も華やかなものだったそうです。

 ひとくち情報
当時の結婚事情では、本当は8歳で結婚しちゃいけなかったそうです。 でも10歳からは良かったらしい…
姉のアデールは教育のために海を渡ってますが、アニェスは到着して半年ぐらいで結婚式をあげたばかりか
“ 完全に ” 結婚を成し遂げたっていうことです。 床入りをしたということか? 10歳と8歳で… 


アニェスはコンスタンティノープルの美しさときらびやかさに歓び
幸せなスタートをきりました。
名前はアンナに改名されました。

しかし、幸福は長くは続きませんでした。
結婚式の半年後、ビザンツ帝国最後の栄華を担ったマヌエル1世が亡くなりました。
アニェスの夫アレクシオスが即位しますが10歳ですものね。
実権は摂政であるマヌエル1世皇后マリア・アンティオキアが握っていました。
ま、それはいいんだけどさ… 幼い王を抱えたお母様摂政は政敵に狙われ易いものです。

まずは、摂政の座を狙って、アレクシオス2世の異母姉マリアが暗躍しました。
これは事なきを得たんですが、続いてマヌエル1世の従兄弟アンドロニコスが
「待ってました!」と反乱をおこしました。

1182年、アンドロニコスは皇太后マリアを失脚させて摂政につきます。
そして異母姉マリア夫婦を殺害、その後皇太后マリアを処刑しました。
もうアレクシオス2世の運命は決まったようなものです。
アンドロニコスは、1183年に共同皇帝になるとすぐにアレクシオスを殺害して
単独で皇帝の座に就きました。

古代ローマでもあったような気がするんですけど、ビザンツ帝国でも
無理くり皇帝になった人が、前皇帝の皇后と結婚して地位をかためることがあったようです。

しかしアニェスは12歳、アンドロニコスは65歳ぐらい… さすがに躊躇したようで
息子のマヌエルと結婚させようとしました。
ここらへんは少し見直した… ルイ15世だったら躊躇しないわね。

この縁談を息子マヌエルが拒否したため、アンドロニコスは “ しかたなく ”
アニェスと結婚することにしたようです。
ちなみに、アンドロニコス1世は二人の姪や皇太后マリアの姉妹などを愛妾にしてました。

こんな再婚、ひどすぎる!
短い間とはいえ夫婦として過ごし、少し愛も感じていた夫を殺した(しかも自ら手を下した)
相手(しかもすげぇ年上)と結婚しなきゃならないなんて

この結婚は内外から非難されましたし、アニェスも泣き暮らしたようなんですが
実家のフランスはなんら抗議しなかったらしい… フィリプ2世は実の兄なのに…
フィリプ2世は十字軍に参加したときもコンスタンティノープル素通りで
アニェスを訪ねることはありませんでした。
ハンガリー王妃になっていたマルグリットも巡礼の時にビザンツを通りましたが
アニェスには会わなかった様子… こちらは異母姉だからなぁ… でもせっかく来たのにさぁ…

1185年、アンドロニコス1世は市民の暴動に遭って失脚します。
なんでもアニェスだけでなく愛妾も連れて逃げたそうで、すぐに捕らえられ
市民のリンチを受けて殺されました。

フランス王女のアニェスはリンチから免れ、アンドロニコスの財産が少し与えられましたが
その後の消息ははっきりしていません。

1193年にはテオドシウス・ブラナスの恋人になっていました。
どうやらそれまでブラナス家で養ってもらっていたみたいです。
その後のアニェスはブラナス夫人として扱われていましたが
財産の件があって正式な結婚はしないまま時が過ぎていきました。

1204年、十字軍によるコンスタンティノープル陥落の後
アニェスは元ビザンツ皇后として、再びヨーロッパ貴族から注目を集める存在になりました。
けれどもアニェスはフランス語を忘れてしまっていて通訳を介してしか話せず
次第に評判を落としていきました。
でもこの年にやっと、アニェスとブラナスは正式に結婚しています。

遠い記憶にしかないヨーロッパの貴族たちの評判なんかより、
愛する人とちゃんと結婚できて、アニェスは幸せだったんじゃないでしょうかね?

ビザンツ帝国は各国から覇権を争われ、いろいろな民族の皇帝が現れてわやくちゃになり
テオドシウスは国内で一時期裏切り者よばわりされたりするんですけど
1219年以降の消息は不明です。
アニェスについても1204年まったく記録が無いのですが1219年以降まで
生存していたようです。

すごく波瀾万丈な一生だったわりに最期がはっきりしないとは…
ブラナス家は軍人としては名門で、父親も英雄となった人らしいのですが
やはり皇后じゃないと記録に残らないか…
せめて立派な墓所に葬られていることを願います。

(参考文献 井上浩一氏『ビザンツ皇妃列伝』 Wikipedia英語版)
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『片隅の人生』孤独な男がいっぱい・・・

2011-11-09 23:07:17 | イギリス・アイルランドの作家
THE NARROW CORNER 
1932年 サマセット・モーム

モームが60歳ぐらいで書いた長編なんですけど、読み終わって真っ先に感じたのは
“ 結局人は独り ” 的な孤独感と、なんか女に手厳しい…という理不尽さでしょうか。

福州で開業している英国人の医師サンダースが、診察のためマレー群島の孤島タカナ島に
はるばる出かけたことから物語が始まります。

サンダースはその島で、調子が良くて胡散臭いが腕はいいニコルズという船長と
謎が多い美青年のフレッド・ブレイクに出会います。

ニコルズは正規の船では働けない理由があるようです。
フレッドは偽名を使い、身分を隠しているようです。
二人は気が合わないらしく、楽しい航海をしているようには見えません。

帰りの船を待ちくたびれたドクター・サンダースは二人の船に乗せてもらうことにします。

三人が乗った立派とは言い難い船は大海で大風に遭いますが
難破の危険を切り抜けオランダ領カンダ・メイラに到着しました。

カンダ・メイラのホテルで、エリックという正直で純粋なデンマーク人と知り合いました。
それまであまり明るい顔を見せなかったフレッドはエリックと意気投合して
若々しさと無邪気さを見せるようになります。

三人はエリックの紹介で島に住むフリスという英国人の一家を訪ねることになりました。
フリスは誰も喜びそうもない東洋哲学や詩に没頭している好人物でした。
元船乗りでわがまま放題の義理の父親と、とても美しく落ち着いた娘のルイズと
三人で暮らしています。
フレッドとルイズはお互いに惹かれたようでした。

で、ここからはお茶を濁すけど、ルイズはエリックの婚約者なんですね。
エリックはルイズが大人になるのを心待ちにしているんだけれども
フレッドが夜中にルイズの寝室から出てくるところを目撃してしまい… おぉぉ

そしてルイズがエリックと婚約していたことを知り
大好きな友人を裏切ってしまったことに苦しむフレッドは… むむぅ

そして涙ながらにドクター・サンダースに語った過去とは… うぅぅ

ドクター・サンダースは二人と別れて別の船で島を発ちます。
1ヶ月後、シンガポールでばったりニコルズに出会ったサンダースは
フレッドの衝撃的なその後を聞かされます。

内容はというと、モームお得意の植民地が舞台で、海や空の描写もふんだんにあり
冒険もあり恋もありと、それなりに面白い話ではあったのですが
なんていうの… いつものモームと違って、なんだか女性を悪者に仕立ててる気がするの。

モームはもともと女性のことを優しく描写してくれる人ではないけれど
あまり誰かの非を責めるような書き方はしない気がしてたんですけどね。

今回は、もう何が悪いって女が悪い! と決めつけてる感じ。
こっちにすれば、男の方だってどうなのさ と言いたくなるんですけどね。

それから、男性陣の独ぼっち感というか独り好き感が滲み出てます。
多くの人と関わらず、煩わしい付き合いは避け、
独りの時間を愛するっていう人ばかりが登場してるみたい。

でも、気楽で自由なように書かれているけど、なぜか寂しさが感じられるんですよ。
好き好んで自由なわけではない、やむを得ない気ままな暮らし、とでも申しましょうか。
独りぼっちの負け惜しみと言ってもよいかもしれません。

実は女性より男性の方が寂しがり屋で孤独に弱いと踏んでるんですけどいかがでしょう?
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フランス王ルイ7世王女 アデール

2011-11-08 23:20:37 | フランス王妃・王女
              肖像画が無いので母君コンスタンス像を…

イングランドで人生台無し・・・
ルイ7世王女 アデール・ド・フランス
ポンチュー伯ギョーム4世夫人


1160~1220

ルイ7世の三女マルグリットと四女アデールの母親は
二人目の妃コンスタンス・ド・カスティーヨです。

一人目の妃アリエノール・ダキーテーヌが、イングランド王ヘンリー2世と再婚したことで
領土をめぐるイングランドのプランタジネットとフランスのカペー両王家の
押したり引いたりは激しさを増してまいりました。

コンスタンス・ド・カスティーヨの死後、ルイ7世がアデール・ド・シャンパーニュと結婚し
アリエノールの王女二人がアデルの兄たちと婚約すると、イングランドサイドは
いてもたってもいられず、次男ヘンリーとマルグリット(なんと2歳 )の結婚を急ぎます。

また、1162年には三男リチャード(3世)と、アデールを婚約させました。

         

2歳で婚約したアデールは、8歳の時にイングランドに渡りました。
イングランドで未来の王妃教育を受けるとは言っても、早い話人質ですよね。

それから何年かたちまして、リチャードとアデールがお互い適齢期に達したのですが
ヘンリー2世はいっこうに二人を結婚させようとしませんでした。
婚約から8年後にはローマ教皇アレクサンデル3世が禁令までちらつかせて
結婚をせまりましたが、それでも渋っていました。

アデールはヘンリー2世の愛妾で、子供まで生んでいるという噂が広まっていました。
実際はどうだったのか不明です。
でも、1189年にヘンリー2世が亡くなるとリチャードが婚約者のアデールではなくて
ベレンガリア・オブ・ナヴァールと結婚したりとか
父王ヘンリー2世に激しく反抗して廃人同然になるまで打ちのめしちゃったことを考えると
やはり事実に近いんでしょうかねぇ…

婚約者のまま29歳になり、別の女性と結婚されちゃったアデールはいったい… ?
アデールの異母弟フィリプ2世は、リチャードの弟のジョンとの結婚をもちかけましたが
これはアリエノールが断固拒否!!

結局フランスへ戻り、1195年にポンチュー伯ギョーム4世と結婚しました。
このギョーム4世という方、アデールより19歳年下ですし、初婚ですし
何より悪い噂がある女生との結婚でしょー、
穿った見方をすれば、なんかすごい見返りがあったんではないかと…

アデールの次女マリーとシモン・ド・ダムマルタンの娘ジョアンが
カスティーリャ王フェルナンド3世に嫁ぎ、その王女エリナー
ヘンリー2世の曾孫にあたるエドワード1世の妃になります。
なんだかんだで繋がるものね…

1220年頃に亡くなりました。

ヘンリー2世の愛妾といえばロザモンド・クリフォードが有名です。
アデールはフランス王女だから、もっとエピソードフルな資料がないかしら?
と探してみましたが、日本語版では見つけられませんでした。
さすがにイギリスにはいくつかあるようです。

(参考文献 森護氏『英国王と愛人たち』『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ7世王女 マリー

2011-11-04 22:51:19 | フランス王妃・王女
父の再婚で人生ごたつく
ルイ7世王女 マリー・ド・フランス
シャンパーニュ伯アンリ1世夫人


1145~1198

ルイ7世は3回結婚していて、王女が5人います。
欲しくて欲しくてたまらなかった王子はフィリプ(2世)のみでした。

長女マリーと次女アリックスは最初の妃アリエノール・ダキテーヌの娘です。
ルイ7世は三人目の妃アデル・ド・シャンパーニュと結婚する時に
マリーをアデルの長兄シャンパーニュ伯アンリ1世と、
アリックスを次兄のブロワ伯ティボー5世と婚約させました。
二人の姉妹は婚約後アヴネの修道院で、無菌状態(?)で教育されて
1164年に揃って結婚しました。
         
それでなくても広大な領地を持ち、勢力もあったブロワ・ブラザーズは
妹は王妃、妻は王女というビッグな後ろ盾を得てかなり幅を利かせることができました。

ルイ7世の再婚と王女たちの結婚はアリエノールを焦らせます。
これが王子ヘンリーと、ルイ7世王女マルグリットの結婚を急がせる要因になりました。

父王ルイ7世が亡くなり異母弟フィリプ2世が即位すると状況が変わります。
フィリプは、アリエノール・ダキテーヌがマリーやアリックスに譲った領地を没収します。
それから、マリーの長男アンリと婚約していたイザベル・ド・エノーと結婚してしまいます。
       
このことでマリーとフィリプは当然仲違いします。
一方異父弟のイングランド王リチャード1世とは深い愛情で結ばれていたようです。
(解説しておきますと、リチャード1世は、マリーの母アリエノールが
 イングランド王ヘンリー2世と再婚しまして生まれた王子です)

そのアンリは、ヘンリー2世の従姉妹にあたるイェルサレム女王イザベラと結婚しました。
フランスとイングランドの覇権を争うこの二家族、仲が良んだか悪いんだか、
仲良くしたいんだか争いたいんだか、よくわからんよ…
この状況は後々まで続くんですけどね…
        
1181年、巡礼に行っていた夫アンリが帰国してすぐに亡くなりました。
マリーは幼い息子の摂政を務めます。
息子アンリの婚約者だったイザベルの叔父にあたるフランドル伯フィリプ1世と
再婚話が持ち上がりましたが、これは破談になっています。
ちなみにフィリプはポルトガル王アフォンソ1世の王女テレサと結婚しました。

性格とか容姿に関することがわからないんだけど
文学のパトロンで、専用の図書館を持っていて、ラテン語で読み書きができたというから
才媛だったのかもしれませんね。
夫の不在中や息子の不在中に幾度も摂政を務めていますから
政治的にもきれる人だったのかもしれません。

息子アンリが1197年に亡くなると、モーの修道院に入り翌年亡くなりました。

妹のアリックスも同じような経歴なので割愛しますね。

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』 Wikipedia英語版)
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