まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『父と子』いったいどの親子の話か?

2012-06-29 23:16:56 | ロシアの作家
ОТНЫ И ЛЕТИ 
1862年 ツルゲーネフ

「今の若いもんは…」っていう言葉は、枕草子だか徒然草だかに書かれてるって
聞いたことがあるし、古代の遺跡にも書いてあったってぐらいだから
どの時代でも世代交代の時の大人は苦々しい思いをしてきたってことですね?

『父と子』の中でも「今の若いもんは…」的な言葉が登場します。
主に、貴族主義の中・老年層が反貴族主義の若年層を嘆く時に用いられています。

私は無責任に「王様万歳!」派なので、消えゆこうとするロシアの貴族社会に
おおいに同情はするわけですが…
『貴族の巣』の時にも思ったけど
貴族っていわれてもさぁ…という感じで、別に消えても惜しくなさそうな貴族社会なのよね。

200人の農奴を持つ領主ニコライ・キルサーコフの愛する息子アルカーヂィが
学業を終えてペテルブルクから帰ってきます。

自ら街までいそいそと迎えに行き、涙を流さんばかりに喜ぶ父親に
息子は尊敬する友人エヴゲーニィ・バザーロフを紹介しました。

バザーロフという人は “ ニヒリスト ” だそうで、とにかく
ありとあらゆるものごとを否定して生きているわけです。
そしてアルカーヂィはそんな主義を実践しているバザーロフに傾倒しているのね。

父のニコライはバザーロフや息子の変わりように不安を覚えながらも
帰来の気の優しさから穏やかに接するわけなんですけど
ニコライの兄で同居しているパーヴェル伯父は真っ向対決!
ことあるごとにバザーロフとぶつかります。

それでね、物語はこの親子の小さな亀裂がどうなるのかしら…って方向で
進むのかと思ったわよ。
親子のぶつかり合いにハラハラドキドキできるものと、ものすごく期待してました。

しかし、焦点はもう一組の親子に移っていきます。

バザーロフの父で元軍医のヴァシーリィと母アリーナは息子を崇めんばかりに愛しています。
気に入らないことはしないよう努めるし、口答えしないし、問わず責めず
「怒らないかしら?」と顔色ばかり伺っています。

この二組の親子に共通していえるのは、父親が諦めきっちゃってるってことでしょうか?
息子たちが抱く、自分たち世代を否定し嘲笑する考えを知っても
敢えて反論せず頷くことに終始しています。

二人の若者に果敢に挑むのは伯父のパーヴェルのみ…
題名を『伯父と甥』にしてはどうか?

二組の親子を描く間に女性をめぐるドラマがいくつかあるんですけど省くね。

ひとつだけ書かせてもらうと、バザーロフはある女性を愛してしまったことに気づきます。
そして恋愛なんかをする自分を否定するわけです、ニヒリストだから。

私はニヒリスト(虚無主義)というのがどういうものかはよく解りませんが
他人の考えも思いも、金も仕事も愛も、何もかも否定して生きていられるものでしょうか?
いつ死んでもいいの? 死にたいの?

それはさておき、主義はどうでもいいからさぁ
学業を終えて帰って来たのなら働こうか? 若者よ…って、読後に強く思いましたとさ。
まったく文学的でも学術的でもない感想ですみませんけど…
コメント (2)
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フランス王ルイ15世王女 ルイーズ・マリー

2012-06-18 00:36:03 | フランス王妃・王女
一家の贖罪を一身に引き受ける
ルイ15世王女 ルイーズ・マリー・ド・フランス


1737~1787

ルイ15世王妃マリー・レクザンスカはまたまた王女を生みました。
八女ルイーズ・マリーです。

ルイ15世はルイーズをヴィクトワールソフィー同様フォントブローの修道院に預けました。

           
二人の姉がどうだったかは知りませんが、ルイーズはまるで修道女のように暮らし
「私は王の娘です」とは言わず「神の娘です」と言っていました。

11歳の時に、イングランドからフランスに逃れて来ていた
スチュアート家のチャールズ・エドワードとの縁談が持ち上がります。

イングランドはプロテスタントであるハノーヴァー家のジョージ2世の治世でした。
カトリックのフランスはスチュアート家のカトリック派を推していました。

ちなみにジェームズ2世の後を治めたのは、同じスチュアート家でも
チャールズ・エドワードの祖父ジェームズ2世が最初に妃にしたアン・ハイドが生んだ
プロテスタントのメアリー2世、続いてアンです。

話をルイーズに戻しますと…
ルイーズは「神以上に愛せないのに夫を持つなど…」と取り合いませんでした。

そんなルイーズも15歳になってヴェルサイユに戻りました。

ルイーズはヴェルサイユで、王女たちの中では一番端の部屋をあてがわれました。
脚が悪く、朝の挨拶のためにアデライードの部屋にやって来るルイ15世に会うため
一生懸命走っていったのに間に合わなかったりしたそうです。
ルイ15世ったら、全員の部屋をまわってあげればいいじゃないの…

しかし、謙虚に育ったルイーズは、なぜか綺麗なドレスが大好きだったらしい…
修道院で質素にしすぎた反動でしょうか?

ヴェルサイユでは姉たちの影にかくれ、(たぶん)アデライードにはアゴで使われ
兄王太子ルイは亡くなり、続いて母マリー・レクザンスカが亡くなり
デュ・バリー夫人は登場するし…ってことで居心地悪くなってしまったんでしょうか?
1770年にカルメル派の修道女になりたいと申し出ました。
自分が修道女になれば、宮廷を堕落させたルイ15世の罪が償えると考えたみたいです。
大好きな美しいドレスが二度と着れなくなってしまうのに、頭が下がる決心ですね。
ルイ15世は…娘にこんな思いをさせて  ちゃんと反省しなさい!!

王太子ルイ(16世)とマリー・アントワネットの結婚を見届け
サン=ドニの修道院に入りました。

サン=ドニは旧式の厳しい秩序が守られている修道院でした。
ルイーズは炊事洗濯も厭わず、他の修道女たちと姉妹のように接して
敬虔な毎日を送りました。
脚が悪いルイーズが祈る時に助けを申し出ようとすると、これを断り跪きました。

サン=ドニでは何度か修道院長を務めています。
父王にかけあって、ヨーゼフ2世の迫害にあったオーストリアのカルメル派を受け入れました。
やるべきことを見つけて、宮廷時代よりアクティブに過ごせたようですね。

ルイーズは1787年に胃の病気で亡くなりました。
最後の言葉は「早く天国へ! 駆け足でね」でした。

ルイーズは列聖はされていないみたいなんですけど
1873年にローマ教皇ピウス9世から聖人の称号のひとつを与えられています。

一番地味な王女ではありますが、一番人間らしい人生を送ったような印象を受けます。
お城で暮らすことが「めでたし、めでたし」ではないということを体現しているようですね。

              
            ルイ15世がルイーズ・マリーを修道院に訪ねる、の図
                   実際にあったのかどうかは甚だ疑問ですが…


(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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フランス王ルイ15世王女 ソフィー

2012-06-09 09:18:34 | フランス王妃・王女
万事控えめな王女
ルイ15世王女 ソフィー・ド・フランス


1734~1782

王妃マリー・レクザンスカがまたまた王女を出産しました。
ルイ15世は「もう王女はうんざり!!」というわけで
六女ソフィーは姉のヴィクトワール同様フォントブローの修道院に送られます。

          
ソフィーは一応 “ 未婚シスターズ ” を構成していた王女ではありますけれども
アデライードやヴィクトワールたちほどエピソードがありません。

あまり美しくなくて魅力がない王女と言われています。
そのせいか極度な恥ずかしがりやで、性格は内気で、大声恐怖症でした。

ルイ15世はソフィーをグラーユ(カラス)と呼んでいました。
ちなみにヴィクトワールはコッシュ(雌豚)、アデライードはロック(ボロきれ)
末娘ルイーズ・マリーはシッフ(ボロ布)だったそうです。 口が悪いわね…

教育を終えてヴェルサイユへ戻ったものの、宮廷ではなんの影響力ももたらさず
アデライードの言いなりで、二人の姉たちにくっついて行動していました。

姉たちがマリー・アントワネットにいろいろ吹き込んでいる時にも
後方で頷き、「そうよ、そうよ」と相づちを打つような役柄だったのでしょうね。

ソフィーは幸か不幸かフランス革命の7年前に亡くなりまして
姉たちのような苦労はしないですんだようです。

でもこの王女様、根っからの金魚のフン体質だったような気もするので
革命後まで生き延びていても「お姉様にくっついてれば大丈夫!」ってな感じで
あんまり不安は感じずに呑気に過ごしてたかもしれないね。

ソフィーの下には七女テレーズ・ド・フランス(1736~1744)がいます。
やはりルイ15世に疎まれて2歳でフォントブローに送られました。
テレーズは病気がちでした。
家庭教師はフォントブローの環境が合っていないのではないかと思っていたようです。
しかしヴェルサイユに呼び戻されることはなく、二度と両親に会うことも無く
8歳で亡くなりました。
王女様だというのに、儚く可哀想な人生でしたね。

ルイ15世はともかく、母親であるマリー・レクザンスカはなんとかできなかったんですかね?
愛妾にうつつを抜かす夫の言いなりなんて…
国事はさておき、せめて家事で主導権を握れなかったのかしら?
娘を呼び戻すことぐらいは、ルイ15世に逆らってでもしていただきたかった気がします。

ルイ15世の王女終わり! と思うでしょ?
いえいえ、もう一人いらっしゃいます。
てなわけで、つづく・・・

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ15世王女 ヴィクトワール

2012-06-01 23:11:36 | フランス王妃・王女
マリー・アントワネットにとんだとばっちりを与えた王女
ルイ15世王女 ヴィクトワール・ド・フランス


1733~1799

ルイ15世の王妃マリー・レクザンスカは王子二人を生んでいたものの
次男フィリプは1733年に2歳で亡くなりました。
その1ヶ月後に生まれたのが五女ヴィクトワールです。

ルイ15世は「また女かっ!」ってことで怒り心頭です。
疎まれたヴィクトワールはフォントヴローの修道院に預けられ
15歳までヴェルサイユには戻れませんでした。

修道院では地下墓所に閉じ込められたり…という苦行で怖い思いをしたようで
一生トラウマに悩まされたとも言われています。
         
20歳の時にスペイン王フェルナンド6世との縁談が持ち上がりました。
でもね、この時フェルナンド6世妃バルバラ・デ・ポルトゥガルは病気だったけど
まだ存命中だったわけなのよ。
ひどくない? まだ生きてるのに結婚相手を探すなんてっ
仲が良い夫婦だったらしいんですけどね…

しかし、かなり深刻な状態だと思われてバルバラ王妃はそれから5年生き延びまして
ヴィクトワールとの縁談も立ち消えに…

1765年に兄の王太子ルイが亡くなり、1768年に王妃マリー・レクザンスカが亡くなります。
姉妹たちは深く喪に服すと同時に結束を強めていきました。

新たに登場したデュ・バリー夫人を許すまじ!てなわけで
アデライードとともに甥の王太子ルイ(16世)妃マリー・アントワネットをけしかけました。

父王ルイ15世が亡くなると、即位したルイ16世は愛妾たちをヴェルサイユから一掃しました。
これで憎たらしい女たちが居なくなって安心… と思いきや…

未婚シスターズは先王の王女としてヴェルサイユで暮らすことは許されましたが
すっかり若返った宮廷ではマリー・アントワネットの影に隠れ
過去の人…忘れ去られた存在になりました。

宮廷に居づらくなったシスターズは、地方へ旅行をするようになりました。
旅行っていっても、こじんまりした女三人旅っていうわけではなく、贅沢三昧の旅でした。
度重なるシスターズの旅は国庫にまで影響を及ぼしてフランス革命の一因にもなりました。

マリー・アントワネットがドレスや宝石、舞踏会やパーティーで
フランス王家のお金を使い果たしたような印象がありますが
シスターズをはじめ、国のお金を浪費する王族はゴロゴロいたわけですね。

革命後も姉のアデライードと行動を共にし、1799年にトリエステで亡くなりました。
乳癌だったそうです。
後にアデライードと一緒にフランスへ送られ、サン=ドニに埋葬されました。

とにかく、ヴェルサイユに帰ってからは常にアデライードと一緒、
アデライードが亡くなる8ヶ月前に亡くなり、死後も一緒。
完全なおねえちゃん子ですね。 自分の意志ってあったんでしょうかね?

ヴィクトワールはルイ15世の王女の中で一番美しかったと言われていますが
一番おばかさんだったとも言われています。

マリー・アントワネットが言ったとされる「パンが買えないならお菓子を買えばいいのに」は
ヴィクトワールが言ったらしい… お菓子ではなくてミートパイだそうです。

マリー・アントワネットのばか丸出しエピソードみたいに語りつがれ
現在に至るまでとんでもない濡れ衣を着せられてるのね
少しでも名誉回復のお役にたてれば良いのだが…

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
コメント (3)
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