まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スウェーデン王グスタフ6世妃 マルガレーテ

2011-10-19 22:49:24 | スウェーデン王妃
旅先の恋が実を結ぶ
グスタフ6世妃 マルガレーテ・アヴ・コンノート


1882~1920/在位せず

グスタフ5世が92歳という高齢で亡くなったため、即位した時には67歳だったという
長~い王太子時代を送ったグスタフ5世は2回結婚しておられます。

一人目の妃はヴィクトリア女王の三男コンノート公アーサーの王女
マーガレット(マルガレーテ)です。
         
お年頃になったマルガレーテは、妹のパトリシアと並んで、ヨーロッパで最も美しく
プリンセスに相応しい女性だと言われていました。

伯父にあたるイギリス王エドワード7世は、二人を王太子=ゆくゆくは王クラスの
男性と結婚させたがっていました。

マルガレーテ23歳、パトリシア18歳の時、コンノート公一家はポルトガルを訪問しました。
この時、ポルトガル王太子マヌエル(後の2世)は姉妹のどちらかと結婚したがっていました。

スペインではアルフォンソ13世とパトリシアの結婚話がおおいに盛り上がりましたが
結局アルフォンソはヴィクトリア・デ・バッテンブルクと結婚しました。
どうも上手くまとまりませんな…

その後も旅は続き、エジプトのカイロでグスタフと出会いました。
二人はお互いにひと目ぼれしたそうでして、グスタフはイギリス領事館の晩餐の席で
マルガレーテに求婚、半年後には結婚しました。
中世の戦利品的な結婚は別として、けっこう異例の早さですよね。

マルガレーテが王太子妃になってから7年後の1914年、第一次世界大戦が開戦しました。
スウェーデンは中立を謳っておりましたが、やはり余波はありますよね。

マルガレーテは赤十字をサポートするために裁縫サークルを開催したり
パラフィン不足の折りにはコレクションのキャンドルを差し出しています。
現在ではお目にかかれないような綺麗なキャンドルもあったでしょうに…

他にも訓練を受けた少女たちに仕事を与える計画を発案したり
囚人たちの社会復帰にも尽力しました。
さすがヴィクトリア女王の孫… 堅実なプリンセスですね。

1920年、マルガレーテは6人目の子供を身ごもっていて、妊娠8ヶ月でしたが
胸の手術を受けました。
その後感染症にかかり、すぐに亡くなってしまいました。

長女イングリッドはデンマーク王フレデリク6世妃で
現女王マルグレーテ2世の母君にあたります。



              
偽名を使った王妃
グスタフ6世妃 ルイーゼ・アヴ・マウントバッテン


1889~1965/在位 1950~1965

で、しっかり者と思われる前妃マルガレーテを亡くしたグスタフ6世が
3年後に再婚したのが、変わり者と言われているルイーゼです。

マウントバッテンの名でおわかりの通り、イギリスのプリンセスです。
母ヴィクトリアはヴィクトリア女王の次女アリスの長女です。

前妃マルガレーテとも親戚にあたります。
       

常々「ぜっっったいに王とか男やもめとは結婚しない!」と主張していたそうですが
34歳の時に、王で男やもめのグスタフと結婚しました。

子供っぽく激し易い性格だったみたいです。
ポメラニアンを何匹か飼っていて、いつも連れ歩いていました。
旅行にはグリップスホルム伯夫人とかオルセン夫人という偽名を使っていました。
歓迎の式典とか挨拶なんかが煩わしかったのかしらね?

ロンドンでバスにぶつかった時には “ 私はスウェーデン王妃 ” というカードを
携帯していたと言われています。
何年頃の話かわかりませんが、スケールのでかい徘徊でもしていたんでしょうか?

1964年のノーベル賞授賞式以降公の場に出ることがないまま
翌年大病の手術の後亡くなりました。

現在なら違った意味で人気者になるかもね…
ブリちゃんとかパリスと並んでお騒がせセレブのコーナーの常連になるかもしれませんな。

スウェーデン王妃は今回が最終回です。
このところあまりブログができず、草稿のストックが無いので焦ってます
一応予定はあるんですけどね… 次回シリーズまで今しばらくお待ち下さい。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedai英語版)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王グスタフ5世妃 ヴィクトリア

2011-10-12 23:31:03 | スウェーデン王妃
寒さに弱い北国の王妃
グスタフ5世妃 ヴィクトリア・アヴ・バーデン


1862~1930/在位 1907~1930

日本にもいらっしゃったことがあるというグスタフ5世は
各国で王公家廃止論の嵐が吹き荒れる中、とても国民に人気がある王でした。
果たしてヴィクトリアはその国王に相応しい王妃だったのでしょうか?

ヴィクトリアはバーデン大公フリードリヒ1世の公女です。
グスタフ4世とフレデリカ・アヴ・バーデンの曾孫にあたります。

         
小さな頃から結婚の約束ができていたのか、グスタフと一緒に育てられました。
だけど、1881年に結婚した二人の仲はあまり上手くいかなかったようです。

ヴィクトリアは健康状態がとても悪かったんですね。
気管支炎か結核を患っていたと言われていますが
虐待や子供時代にドイツで受けた厳しすぎる教育の後遺症、などの説もあります。

それで度々療養の旅に出ていたのですが
1892年に主治医になったアクセル・ムンセがとんでもないことを~!
ムンセはヴィクトリアに「冬の間イタリアで過ごしなさい」と薦めました。

そこで1901年、ヴィクトリアはカプリへ出かけます。
大歓迎とスウェーデンにはない暖かな気候が気に入ってしまったヴィクトリアは
(第一次世界大戦中を除いて)毎年数ヶ月をカプリで過ごすようになりました。
しまいにゃあ城まで購入する始末…
眺望良好な田舎風の城で、Casa Caprile といいまして、今ではホテルになっております。

で、カプリにはもちろん主治医のムンセも同行してました。
ヴィクトリアは毎朝ムンセの宿泊先を訪れて島を散歩したり
二人でミニコンサートを開いたりしておりました。
また、二人して動物大好き!というわけで、ムンセが鳥の楽園バルバロッサ山を
購入する時には、積極的にサポートしてあげました。

スウェーデンではグスタフ5世が、請願デモを行った農民の前で演説したり
王権復活を阻む政府のデモに対抗して学生デモを支援したり
第一次大戦を前に、ノルウェーやデンマークと中立を貫こうとネゴってみたり
第二次大戦を前にヒトラーに手紙を書いて評判を落としたり…と
なんだか大変な毎日を送っているというのに… のんきですな
二人が恋人だったかどうかは、今のところ謎でございます。

ヴィクトリアは夫グスタフが中立を堅持しようと奮闘する中
第一次大戦中も親ドイツの姿勢をとっていまして、人気を落としていました。

1930年、例によってカプリにいたヴィクトリアは、健康状態が悪化しました。
ムンセはスウェーデンに帰国することを薦めましたが
ローマの別宅に移り、そこで亡くなりました。
1928年にグスタフ5世の70歳のバースデーに出たきり、スウェーデンには帰っておりません。
寒いからって、王妃が南国へ逃げ出してどうする? 王家存続も危うい時に…

なんだか悪いことばっかり書いちゃったけど、ものすご~く女性らしい人で
そこは賞讃されていたらしいです。

それから、芸術面に関しては、歴代のスウェーデン王妃の中で
最も才能があったのではないかと言われています。
写真家、画家としての評価は高く、ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は
楽譜無しで、完璧にピアノで弾けたらしいです。

ヴェルサイユ時代のフランスや、ハプスブルク帝国全盛期みたいな王家に嫁いでいたら
きっともてはやされて、宮廷で人気者の王妃になったことでしょう。
登場するのが200年ぐらい遅かったかもね…

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王オスカル2世妃 ソフィア

2011-10-07 23:13:56 | スウェーデン王妃
新しいスウェーデン王妃像へ一歩踏み出した王妃
オスカル2世妃 ソフィア・アヴ・ナッソウ


1836~1913/在位 (スウェーデン王妃)1872~1907 (ノルウェー王妃)1836~1905

(すったもんだの末)ノーベル賞を発足した君主として名を遺すオスカル2世は
プロイセン好きで国内外から批判され、ノルウェーにも悲願の独立を果たされて
良いところ無し… のようですが、スウェーデン国民には人気があったようです。
オスカル2世がどうのというより、社会の構図が目まぐるしく変化していた時代ですものね。

そんなオスカル2世の妃はナッソウ公ヴィルヘルム公女ソフィアです。
義兄カール15世妃の妃ロヴィーナは遠い親戚にあたるのかしらね?

      
オスカルとソフィアはお互い自ら相手のとの結婚を承諾して結婚したそうです。
当時の王家の結婚にしては、親や議会任せでないところが珍しいですね。

1857年に結婚した時、王太子だったカールと王太子妃ロヴィーナには
まだ嫡子が生まれていなくて、オスカル夫婦に期待がかかりました。

二人の結婚生活はとても幸せなものだったと考えられています。
ソフィアは義兄カールの浮ついた雰囲気とフランス趣味とカトリックの風潮が嫌いでした。
教養があって思慮深く、高貴で穏やか、と王妃になるにはもってこいの性格に思えますが
宮廷の中心になる王妃になるには退屈な女性と考えられていました。
オスカル夫妻は、王太子になるまではArvfurstens宮殿で静かに暮らしていました。

オスカル2世も兄カール15世同様ちょこちょこ浮気をしたみたいですが
ソフィアは浮気をかぎつけると田舎の領地にこもって抗議したそうです。
オスカルは謝りに行ったんでしょうね… 可愛いね

王妃になってからはリベラルで民主主義的な考えを持つようになりまして
対照的な考えを持つ息子グスタフ(5世)の妃ヴィクトリアとは全く気が合いませんでした。

ソフィアは王子たちをパブリックスクールに入れています。
これには夫のオスカルもビックリ!
また、次男オスカルが長男グスタフの妃ヴィクトリアの侍女エヴァ・ムンクと
結婚したいと言った時も、四男ユーハンがパリで芸術を学びたがった時も後押ししました。

ソフィアは表立って政治に参加をしていませんが
そこはかとなくオスカル2世に影響力を持っていたようです。
王太子グスタフ(5世)は、ノルウェーに無条件独立をさせるよう
ずっと父王を説得していましたが、ソフィアの後ろ盾があったのかもね。

信心深く慈善心に富んでいたソフィアは、ヘルスケアと薬に興味を持ち
ナイチンゲールの影響を受けて、スウェーデン初の看護学校も設立しました。

ソフィアは、薬などの高い知識を持つ看護婦を育て
看護の仕事が ” 聖なる勤め ” と見なされて、医者からも尊敬されるようになり
上流家庭からも看護婦を目指す女性が出てくることを望んでいました。
ソフィアの頑張りの甲斐あって、看護学校には貴族出身の娘さんもいたそうです。
なんでも庶民の娘さんと同じく床磨きまでやらされたそうで… 卒業までもったんでしょうか?

1887年頃から健康が衰えたソフィアは、卵巣の手術をして一応成功したのですが
歩行が困難になって車いすを使うようになり、頻繁に温泉療養に出かけました。
それでも積極的に重要な事業には参加し、乗馬も!こなしていました。

1913年に77歳で亡くなりました。
孫の一人が “ 古い時代はおばあさまとともに葬られた ” と記しています。

でも、けっこう時代を見据えた王妃様だったんじゃないかしら?
ソフィア自身はヴィクトリア女王的な生活を営んでいましたが
新しい流れも掴んでいたようです、というか
世の移り変りを冷静に受け止めていたんじゃないですかね?
なかなか受け容れようとしなかった(主にブルボン家あたり)の王侯妃が多かった時代
たとえ歩幅は小さくても、新しい一歩を踏み出した勇敢な王妃だったと思います。

               
               晩年のソフィア妃、信頼できそうな方ですね

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王カール15世妃 ロヴィーナ

2011-10-01 20:58:11 | スウェーデン王妃
夫に振り向いてもらいたいのに・・・
カール15世妃 ロヴィーナ・アヴ・ネーデルナ


1828~1871/在位 (スウェーデン・ノルウェー王妃)1859~1871

カール15世は国民には人気があった王でした。
しかし、汎スカンジナヴィア主義は立ち行かず、議会は王に反対するようになり
王権の力が徐々に衰退するのを止めることはできませんでした。

ヨゼフィナは “ ナポレオーネ ” というミドルネームを取り去って嫁いだというほど
ナポレオン嫌いがスウェーデン宮廷に蔓延していたというのに
なぜかナポレオンが好きだったらしくポーズを真似ていたというカール15世の妃は
オランダ王ウィレム1世王子フレデリックの王女ロヴィーナです。
           
ロヴィーナはベルナドッテ家に継承者と莫大な持参金をもたらすために選ばれた相手でしたが
実際はたいした持参金無く、22歳の時にスウェーデンに嫁ぎました。

だから…というわけでもないでしょうが、カールはロヴィーナに興味を示さず
すぐに浮気にはしりました。
反対にロヴィーナがすぐにカールを好きになってしまったことは悲劇ですよね。

カールが父王オスカル1世の病に伴い摂政に就くと
ロヴィーザは “ 才能溢れ、心地よさをもたらし、カールによい影響を与える女性 ” と
賞讃されました。
でもカールにはロヴィーナの良さがわからなかったみたい…

カールはロヴィーナの侍女だったヨゼフィナ・シュパラーを愛妾にします。
ヨゼフィナは横柄な女性だったようで、宮廷内でもカールにべったりはりつき
まるでカールの妃みたいに振る舞いました。
内気なロヴィーナは何もできず、王太子妃と侍女が逆転したみたいになっていたそうです。
カールは浮気性だったみたいで、他にも女優やジャーナリストなどと浮気を繰り返します。

1859年に夫がカール15世として即位します。
前王妃ヨゼフィナが宗教上できなかったノルウェーでも戴冠したロヴィーナは
一瞬人気者になりましたが、なにしろ引っ込み思案で大人しくて無口…
カール15世とは正反対の性格で、どうにもこうにも華がなかったのね。

ロヴィーナはなんとか夫に気に入られようとしていました。
義母ヨゼフィナの発言力をカールが嫌っていると知って寡黙な女性に徹したようですが
カールは振り向いてくれませんでした。

ロヴィーナは結婚後1年目に王女で後のデンマーク王フレデリク8世妃ルイーセを生み
翌年に王子カール・オスカルを生んだのですが、この出産で不妊になってしまっていました。
ロヴィーナは離婚を考えたみたいですが、カールは離婚しませんでした。
カールはこの件をいつまでも恩に着せていたみたいです。

放ったらかしにされたロヴィーナは寂しさのあまり体調を崩しました。
さらに追い打ちをかけるようにカール・オスカルが2歳で亡くなってしまいます。

ある日、ピクニックに出かけたロヴィーナはひきつけをおこしました。
癲癇らしいのですが「夫に無視されてヒステリーをおこしたのだ」と言われました。
ひきつけはしばしばおこるようになります。

その後は病気を理由に式典を欠席しがちになりましたが
独りで式典に出るのが嫌いなカールは、時々無理矢理ロヴィーナを連れて行きました。
あまりの顔色の悪さに出席者がビックリしたこともあったそうです。
妻として扱っていないくせに、自分に必要な時だけ妻の役目を果たさせようなんて…
勝手ですよね! 普段から妻として敬い、優しくしろっつーの!

ロヴィーナは宮廷に出ず静かな暮らしを好んで送っていましたが
ファッションには凝っていて、ものすごく優美なドレスを身につけていました。
誰も見ていないところでオシャレ… 想像するとなんか哀しい

1870年から病に罹っていたカールを看病していたロヴィーナは
1871年の3月、散歩中に肺炎にかかり亡くなりました。
夫カールも生存中だった義母ヨゼフィナも病気で葬儀には参列しませんでした。
這ってでも出ないかっ! カール!! って言いたいわ

ちなみに、カール15世は翌年の9月に亡くなりました。
妻のお葬式ぐらい、無理すれば出られたんじゃないかしらね… なんて勘ぐってみました。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王オスカル1世妃 ヨゼフィナ

2011-09-28 22:39:16 | スウェーデン王妃
立派に仮面夫婦を演じた王妃
オスカル1世妃 ヨゼフィナ・アヴ・レウシュテンベリ


1807~1876/在位 (スウェーデン・ノルウェー王妃)1844~1859

“ 汎スカンジナヴィア主義 ” を擁護し、ナイチンゲールで有名なクリミア戦争や
シュレスヴィヒ戦争を戦ったオスカル1世の妃ヨゼフィナは
レウシュテンベルク公ウージェーヌ・ボーアルネの公女です。

父方の祖母はナポレオン皇后ジョゼフィーヌ
叔母はオランダ王ローデウェイク1世妃オルタンスです。
妹にブラジル皇帝ペドロ1世妃アメリアがいます。

       

ヨゼフィナは16歳の時、ナポレオンの敵として戦ったことがあるスウェーデンに
“ ナポレオーネ ” というミドルネームを取り去って嫁ぎました。
美しくて魅力的で気品がある妃で、人気も上々でした。

よく似た性格で共通の趣味も持っていたオスカルとヨゼフィナの新婚生活は幸福で
お子様も5人生まれました。

すぐにアドルフ・フレデリクとロヴィーサ・アヴ・プルッセンの王女で
クヴェトリンブルクの修道院長を務めたこともあるソフィアと親しくなり
いくつかの慈善事業に参加したり、宮殿の改装に熱中したり
芸術を奨励し、ガーデニングを楽しみ…と充実した毎日を送ったようです。

義父カール14世と夫のオスカルの見解の相違を調停するために政治にも関わっていました。
義母デジレ・クラリーはパリにいて何もしないんだしね…

ヨゼフィナは子供たちがルター派(プロテスタント)で教育することを容認しましたが
自分はとても敬虔なカトリック信者で、おかかえの聖職者を連れて来ていまして
ミサや告解にも必ず参加していました。
異教徒の妃が嫁いで来るともめることが多いものだけど
ヨゼフィナの場合はあまり問題視されなかったみたいですね。
ルター派の牧師たちはおおいに反抗したそうですけど…

しかし、幸せだったヨゼフィナの暮らしにも徐々に暗雲が…
オスカルはしばしば浮気をしていましたが、うまいこと隠していたようなのね。
けれどもとうとう有名な女優のエミリー・Hogquistとのお付き合いが発覚しまして
深く傷ついた28歳のヨゼフィナはオスカルとの別居に踏み切りました。

結局この別居は9年間続いたのですけれども公にはされず
公式な席には、いつも二人揃って姿を現していました。
えらーい ふつう「知るかいな!」ってことで欠席しそうなものですが
責任感が強いというか、ロイヤルに向いていたんですかね?

1844年に王に即位したオスカルは、心を入れ換えたのか誠実になりまして
夫婦の仲は修復されて別居も終わりを告げました。

政治面ではオスカル1世のよきアドバイザーで… 大きな影響力もあったようです。
ざっとあげると、宗教の自由に関する法律・男女同等の継承・監獄の改修
ギルドの廃止などは、ヨゼフィナがオスカルにけしかけたとされています。

また、ロシアに睨まれつつ汎スカンジナヴィア主義を突っ走りそうなオスカルを横目に
第一次シュレスヴィヒ戦争を妨ごうとしていたことなどですかね。

1857年、オスカル1世が病に罹りました。
けっこう重かったようで議会は王子カール(15世)を摂政にたてようとしましたが
ヨゼフィナは王の病気を隠そうとして断固反対!
どうやらカールは母親の政治的影響を嫌っていたようです。

オスカルは病気になってからもヨゼフィナと馬車で市中に現れたりしていますが
なんと! 横からヨゼフィナがオスカルの腕を持って振らせていたんですって…
オスカル1世は2年後の1859年に亡くなるのですが、連れ出されないで大人しく療養していたら
もう少し長生きできたかもしれなかったかも… しっかり者の嫁も善し悪しですな

根っから王妃に向いていたのかもしれないですね。
慈善活動に打ち込んでいたというけれど、王家のこととなると冷酷にもなれたのかも…

カトリック信者への戴冠がノルウェーで反対されたり…と宗教がらみの問題はありましたが
それでも宮廷からも民衆からもとても人気があった王妃だそうです。
さしあたって、前妃デジレ・クラリーよりはるかに人気者でした。

1875年にローマ教皇にお目にかかるためにローマを訪れています。
69歳で亡くなり、本人の希望でカトリックの葬儀が挙げられました。
最後の言葉は「今帰ります。とても幸福な気持です」だそうです。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王カール14世妃 デジデリア

2011-09-22 23:15:59 | スウェーデン王妃
玉の輿の哀しい真相
カール14世妃 デジデリア “ デジレ ” クラリー


1777~1860/在位 (スウェーデン・ノルウェー王妃)1818~1844

私は今までカール14世ヨハンをナポレオンの傀儡だと思っていましたが
どうやら思い違いだったみたいです。

たしかにジャン・バプティスト・ベルナドッテ(カール14世)はナポレオン軍の元帥で
フランス軍で功績をあげていましたが(かいつまんで言うと)王になるにあたっては
ナポレオンに北欧連合を組織しようとしているという誤解をうけないように派遣された
メルナー中尉が先走って、軍人受けのよかったジャンと会談しちゃったことが発端で
ナポレオンが無理に推したわけではないみたいです。

しかも王になるにあたってナポレオンからフランスに敵対しないように言われ
「スウェーデン王になったらスウェーデンの国益のために戦う」と答えています。
男気がある方ね!

そんなカール14世の妃は、絹商人フランソワ・クラリーの娘デジレです。
姉のジュリーはナポレオンの兄のスペイン王ホセ(ジョゼフ)妃です。
どっちかというと、カール14世妃としてより、ナポレオンの元カノとして有名ですよね。
        
長くなるのではしょるけど、デジレの兄が革命政府に逮捕された時
デジレがジョセフに頼んで釈放してもらったのね。
ジョセフがジュリーと結婚した後、デジレはナポレオンに紹介されて婚約したんだけど
ジョゼフィーヌの登場で破棄されちゃったと…
その3年後にフランスでジャン・バプティストと出会い結婚いたしました。

婚約は破棄されましたけど、デジレはナポレオン一家と良好な関係を結んでいて
自分のポジションを奪われたジョゼフィーヌとも仲良くしていたそうです。
ナポレオン一家の女性陣はジョゼフィーヌが嫌いでデジレを仲間に引き入れようとしましたが
デジレは中立でいたいと断りました。

こんなエピソードがあります。
ナポレオンの戴冠式の日、ナポレオンの姉妹がジョゼフィーヌのトレーンを持つ役で
引っ張って転ばせようとしたのですが、デジレはそれを防いで助けたそうです。
いい人ね、 私なら一緒になって転ばせると思うが…

さてさて結婚後、ナポレオン軍の元帥だったジャンは留守がちでした。
裕福とはいえ商人の娘だったデジレは、ジュリーのおかげでロイヤルになれて
舞い上がったみたいですね。
社交界や宮廷訪問なんかでセレブな毎日を満喫し、どうやら浮気もしてたみたいです。

だからきっとデジレは「パリこそ自分の居るべき場所」と思っちゃったんじゃないかしら?
その後のデジレの行動をざっくり書きますね。
ジャン・バプティストは1804年にハノーヴァー総督に就任しましたが
デジレはハンブルクへ移るやいなやパリが恋しくなってすぐ帰ってしまいました。

ジャンが1806年にポンテコルヴォ公になった時には「行きたくないなぁ…」と思っていたら
「来なくていい」と言われて胸をなでおろしました。

そして、ジャンが1810年にスウェーデンの王太子に選ばれた時には
さすがに行かねばね!ってわけで出向いたのですが、スウェーデン宮廷に馴染めず
それになにより寒いのがキライ、ということで冬になるとパリに帰ってしまいました。

デジレは別にスウェーデンの王妃になんてなりたくなかったし、家族の側にいたかったし…
ということでその後12年、夫と息子と離れてパリに居続けました。
ジャンもその方が好都合と考えてまして、無理に呼び寄せませんでした。

スウェーデンでは前王妃へドヴィクをはじめとする貴族たちが、デジレのことを
俗物で軽薄だと見なして相手にしていませんでしたし
デジレの方も「スウェーデン貴族は氷みたいに冷たい」といって嫌っていました。

ナポレオン失脚後に姉ジュリーのもとへ身を寄せた以外はパリに留まっていたデジレでしたが
大好きなパリも変わってしまいました。
ルイ18世の宮廷では、デジレは成り上がり者とあざ笑われてしまいました。
デジレも「スウェーデンに行っちゃおっかな」と考えましたが
夫のジャンはナポレオン・ファミリーと思われているデジレを来させませんでした。
マリアナ・コスクルっていう愛妾もいたしね…

1818年にジャンがカール14世として即位してからもスウェーデンには来ませんで
パリでリシュリュー公と恋に落ちておりました。

すごく長くなったので、ここから突っ走りますね

1822年、リシュリュー公が亡くなります。
1823年、息子オスカル(1世)の結婚式のためスウェーデンに短期滞在、
1829年に戴冠式を行ってスウェーデンで暮らし始めました。
すぐに飽きてパリに帰ろうとしましたが、この時はカール14世が許しませんでした。
パーティーや舞踏会で女主人役の王妃が必要だったのね。
けれども、カールとデジレは食事の時間も別々で、公の場でしか顔を会わせませんでした。

結局デジレの人気は下がる一方になったのですが、その理由をあげると
スウェーデン語を覚えようとしないで、使用人はフランス人をとりそろえ、
寝るのも起きるのも遅く、ナイトガウンで宮廷内を歩くという不品行、などなど…
パリでは当たり前のことがスウェーデンでは受け入れられなかったんですね。

1844年にカールが亡くなった後もなぜか海を恐れてスウェーデンに留まったデジレですが
帰りたいけど帰れないストレスのせいでしょうか? 行動が軌道を逸していきます。
昼夜が逆転して夜中に食事をし、真っ暗な城内を徘徊するようになりました。
奇妙な行いは、真夜中に正装してバルコニーにたたずんだり
街の通りから子供を連れて帰ったりとだんだんエスカレートしていきました。

夜中に宮殿のまわりを馬車で何周もしたりという、なんだか哀れを誘う晩年を送り
1860年に83歳で亡くなりました。
最後の日も、オペラが終わってから劇場を訪れたりしています。

スウェーデンサイドから見れば、いつまでもパリ、パリって… と怒りたくもなりましょう。
でも、人気者の旦那様から完全に “ ダメな嫁 ” の役をおしつけられた感はありますね。
パーフェクトに近い夫と愚かな妻… カール14世は一身に世間の同情を受けたことでしょう。

愛も信頼もない人から利用される人生…
本来なら羨まれる王妃でありながら、本当に哀れに思えてなりません。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王カール13世妃 ヘドヴィク

2011-09-14 22:55:35 | スウェーデン王妃
感情優先で継承者問題に首をつっこんだ王妃
カール13世妃 ヘドヴィク・エリザベット・アヴ・オルデンブール


1759~1818/在位 (スウェーデン王妃)1809~1818 (ノルウェー王妃)1814~1818

戦争と外交の失敗でロシア公使から瀕死よばわりされたスウェーデンを引き継いだのは
グスタフ3世の弟でグスタフ4世の叔父にあたるカール13世です。
即位した時には61歳… 野心はあったんだろうが遅すぎませんかね?

そんなカール13世の妃は、オルデンブルク公フリードリヒ・アウグストの公女へドヴィクで
グスタフ3世が王妃ソフィアとの嫡子を諦めた時に縁談をアレンジしました。

15歳の時に嫁いで来たヘドヴィクの美しさはおおいに賞讃されました。
ウエストは48㎝!!と記録されています… 折れそう…

    
しかし、アウグスタ・フォン・フェルセンという愛妾がいたカールは
結婚1年ぐらいでヘドヴィクの容姿に飽きちゃったみたいであまり興味を示さなくなります。

一方、王妃のソフィアとは正反対の朗らかなヘドヴィクはすぐに宮廷の人気者になりまして
男性関係も華やかだった様子…
噂になった男性の中にはマリー・アントワネットの恋人として有名な
ハンス・アクセル・フォン・フェルセンがいます。
フェルセンはカール13世の愛妾アウグスタのいとこにあたります。
また、フェルセンの妹でバイセクシャルだったらしいソフィーとも親密でした。

甥のグスタフ4世の摂政を務めたカールは、グスタフ4世の失脚にともない即位しました。
即位したまではよかったが、カールとヘドヴィクには成人した嫡子がいませんでした。
スウェーデンには再び継承問題がおこります。

ヘドヴィクは前王妃フレデリカ・アヴ・バーデンに同情たっぷりで
彼女の息子グスタフを次の王にしたいと考えて積極的に動き回りました。
スウェーデン王候補は他に数人おりましたが、その中の一人だった
アウグステンブルク家のカール・アウグストがスウェーデン到着後亡くなると
反対派はヘドヴィクに殺されたと噂したそうです。
この件でフェルセンは王位を狙う者としてリンチにあい亡くなります。
ヘドヴィクはフェルセンの葬儀を取り仕切ったりしています… 火に油じゃないの?

(端折るけど)なんだかんだあって、オットー・メルナー中尉という人の先走りで
フランスでナポレオンの配下だったジャン・ベルナドッテが継承者に選ばれてしまいました。

ヘドヴィクはロイヤルじゃないベルナドッテが継承者に選ばれたと聞いて失望しましたが
初めて会った時にすっかり魅了されちゃいまして、その後は支持派にまわりました。
ベルナドッテも(作戦なのか)ヘドヴィクに助言を仰いだりしちゃって
気分が良くなったのか、ヘドヴィクはベルナドッテを摂政にするよう議会に働きかける始末。

一国の行く末がかかっているというのに、かなり感情に左右されてますね。
グスタフだって政治的にというより同情心から支持してきたみたいだし…
これだから「女は…」なんて言われちゃうんじゃなくて?

一方ベルナドッテの妻デジレ・クラリーとは一悶着あったようです。
「良い性格かもしれないけど… 愚か者ね」と見なしていました。
デジレが徹頭徹尾フランス式から抜け出せなかったことが原因だと言われていますが
やきもちかもしれないね。

カール13世の死から4ヶ月後、カール14世となったベルナドッテとの晩餐中
胃痛とめまいで部屋に引き下がったヘドヴィクはその夜のうちに亡くなってしまいました。

カール13世の死後二人の間になにか争いごとが持ち上がったといわれてるんですけど…
くさいわね ←あくまで私のかんぐりです。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王グスタフ4世アドルフ妃 フレデリカ

2011-09-12 22:04:11 | スウェーデン王妃
美人好きの王が選んだ王妃
グスタフ4世アドルフ妃 フレデリカ・アヴ・バーデン


1781~1826/在位 1797~1809

父王グスタフ3世の暗殺により急遽14歳で即位したグスタフ4世アドルフは
ロシアと同盟を結びたくて、自ら縁談をアレンジしていました。
パーヴェル1世公女アレクサンドラに求婚しましたが断られ
アレクサンドル1世妃エリザヴェータを姉に持つフレデリカと
19歳の時に結婚しました。
       
グスタフは気が弱く暗い少年でしたが、なぜかお妃選びには積極的。
なんでも美しい奥さんがほしかったんですって。
17歳の時にメクレンブルク=シュヴェリーン公女ルイーゼと縁談があって断られてますが
彼女は美しくなかったということで、ほっと胸をなでおろしたのではないでしょうか?

フレデリカは公子の公女で、王妃になるなんて考えていなかったのかも…
最低限の教育しか受けていません。

スウェーデンでは義母ソフィアに愛情深く接してもらうことができましたが
厳しい宮廷作法にも、侍女たちとの付き合い方にも馴染めませんでした。

グスタフ4世とフレデリカの仲は良くも悪くもなかったようですが…
なんて言うの…
グスタフは母親に似て内向的でよそよそしいタイプだったんだけれども
性的には積極的だったのね…
むっつりスケベですか? 妻が好きというより妻とのセックスが好き、という人で
朝になっても王妃の寝室係が入室できないことがしばしばありました。
議会(!)が妃の健康を考えるように止めようとしたこともありましたし
フレデリカも「疲れるわ~」とこぼしていました。

しかし疲れる一方でフレデリカはスウェーデンの自由なセックス事情に興味津々で
宮廷で見聞きしたあんなこと、こんなことを家族に書き送っていました。
送られた親はなんて返事を書いていたんでしょうね? そっちの方が興味あるわ。

さて、スウェーデンもこの後ナポレオン旋風に巻き込まれます。
ロシアからの脅威がせまりつつあったスウェーデンは、ロシアと手を組むか
フランスと手を組んでロシアと対抗するかの二者択一をせまられます。
ナポレオン大嫌い! なグスタフはロシアと協力関係を結ぶ方を選びました、が
いろいろあって、結局ロシアがフランスと密約を結んで和解してしまって
スウェーデンにもフランスと和平を結ぶように強制してきました。

この時フレデリカは姉の皇后エリザヴェータに言われてグスタフを説得しましたが
これによって夫婦仲が悪化しました。
グスタフはブルボン家の復活を願っていて、ナポレオンを皇帝と認めていなかったのね。

その後フランスにポンメルンを奪われ、ロシアにフィンランドを奪われと
次々に外交で失敗したグスタフは、1809年に廃位されました。
グスタフはグリプスホルム城に、フレデリカと子供たちはハーガ宮殿にと軟禁されました。

新王カール13世妃ヘドヴィクはものすごくフレデリカに同情して
カールの後の王はフレデリカの王子にして、フレデリカを摂政にしようと尽力しました。
けれどもフレデリカは一家揃って追放されることを望みました。

釈放後、グスタフ一家はフレデリカの故郷バーデンに落ち着きました。
でも妻の実家で居心地がわるかったのかしら? グスタフは出て行きたがりました。
フレデリカは「追放の身なんだから!」と子供をつくらないためにセックスを拒みまして
二人は翌年別居、その2年後に離婚しました。
ま、それだけが理由ではないと思うが…

離婚当時31歳のフレデリカは、妹のマリアと死別していた
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フリードリヒ・ヴィルヘルムや
王妃ルイーゼと死別していたプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に求婚されましたが
断って子供たちとバーデンで一生を送りました。

ちなみに、娘ソフィアの孫ヴィクトリアはベルナドッテ家のグスタフ5世妃になります。
          
義母ソフィアやカール13世妃ヘドヴィクとは生涯文通をしていたそうです。
渦巻く権力闘争の犠牲になりがちな女性同士で友情が芽生えるなんて素敵なことですね。

もう少し覇気があって「ついてこい!」というタイプの夫とだったら上手くいったかしら?
あるいはグスタフ4世に父王のような政治一筋で仕事に没頭する一面があればね…
セックスだけが夫婦円満の秘訣ではないってことで… とまとめてみました。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王グスタフ3世妃 ソフィア

2011-09-09 23:08:30 | スウェーデン王妃
宮廷に多くのゴシップをもたらした王妃
グスタフ3世妃 ソフィア・マグダレーナ・アヴ・ダンマルク


1746~1813/在位 1771~1792

グスタフ3世といえば、王に即位してから自分でクーデターをおこして
王権を取り戻し “ グスタフ3世時代 ” という一時代を築いた王ですが
結婚生活は失敗に終わってしまったようです。

ソフィアはデンマーク王フレデリク5世とイギリス王女ルイーセの王女です。
      
5歳の時にグスタフと婚約し、未来のスウェーデン王妃として教育されました。
この結婚はスウェーデンの王家ではなく議会が決めたもので
グスタフの母ロヴィーザはずっと抵抗していました。

だ、か、ら… 1766年に結婚した後も、王グスタフ・アドルフには親切にされましたが
ロヴィーザには冷たい扱いをうけてしまいます。
パーティーの席でも、有益な話を聞こうと美しく若い女性そっちのけで
年配の女性と会話したという政治大好き!なグスタフはソフィアを完全に無視しました。
母后ロヴィーザはさらに二人の仲が悪化するよう助長していました。

美しくて、持参金もたっぷりあって、王妃に相応しい女性に育てあげられていたのに
なぜかスウェーデンでは不人気でした。 ロヴィーザの呪いか…

ソフィアも「とにかく将来は王妃」ってな感じで育てられていたので尊大さがあって
宮廷の人たちとは打ち解けなかったようです。
真面目でよそよそしい性格はグスタフとは正反対で歩み寄れなかったし
グスタフの取り巻きとも気が合いませんでした。

グスタフはソフィアが式典要員になってくれればそれでよかったのですが
ソフィアは賑やかで華々しい席が嫌いときています。
カール(13世)の妃ヘドヴィクによれば、ソフィアが公務をこなしている時は
嫌々人に会っているのがまる見えスケスケだったそうです。

ソフィアは極力自分の邸宅であるウルリクスダール宮殿に籠って
2週間に1度サロンを開き、たまに大好きな劇を観に行く以外は孤独を愛していました。
フランス式のドレスはこれ見よがしだから嫌いということで、英国式ドレスを好みました。

大人しく優雅で礼儀正しかったということですが、一方堅苦しく横柄で
グスタフは “ 氷みたいに冷たい ” と言っていたとか…

この夫婦、噂によると、結婚から9年後の1775年まで夫婦関係が無かったとかで
ヨーロッパ中の宮廷で物笑いの種になっていたそうです。
1774年にグスタフの弟カール(13世)が結婚したんですよね。
早速カールの嫡子が期待されましたが、グスタフも自分の嫡子を! と目覚めたようです。

噂って尾ひれがつくじゃない? この噂にも様々なおまけがついてまわりました。
グスタフが不能、グスタフがホモ、二人とも欠陥がある… といった具合です。

1778年にソフィアは待望の王子グスタフ(4世)を生みました。
1782年にはカール・グスタフが生まれましたが1年で亡くなりました。

でも、だからって安泰ではありませんの… もうおわかりですよね?
グスタフの父はグスタフ3世ではないっていう噂が大々的に広がりました。
父親はフルキラ伯アドルフ・フレデリクと言われています。

でも事実はちょっと違うようで… そっちもちょっと可笑しいのですけどね…
フルキラ伯はグスタフの教育係だった人で、なんと! 童貞と処女の二人に
正しいセックスの仕方を指南したということでございます。

グスタフも未経験~? かなり魅力的な人だったということですが?
それに若い頃から各国の宮廷に出入りしてますよ。
マリー・アントワネットには夜会まで開いてもらってますよ…
それなのに29歳まで何もなかったというのかい?
政治一筋ね、ある意味尊敬しちゃう。

なんでも呼び出されてどうやったらいいか実演して見せたらしいです。
これも噂としてかけめぐったのですが、人々はそっちを想像してまた大笑い!
どっちにしても、せっかくの王子誕生がいいようには受け取られなかったわけですね。

グスタフの母后ロヴィーザは「待ってました!」とばかりに
王子は庶子だと宣言し、二度とソフィアと口をきかないと決意して実行したそうです。
この件でグスタフ3世は、ロヴィーザに公式な宴会の場で謝罪させました。
これでさらに親子の絆が壊れることに…

ソフィアは変な噂にもロヴィーザの態度にも大きなショックを受けましたが
グスタフが庇ってくれたし、夫婦の中はしばし改善して幸せな時期を過ごしたようです。

1792年、グスタフ3世は仮面舞踏会の会場で暗殺されてしまいました。
貴族の権力を奪ったグスタフ3世には敵も多く、不満も膨らんでいました。
ポケットには暗殺予告の手紙が入っていたそうです。

ソフィアは隠遁して慈善活動に精を出し始めますが、なぜか喪服を着るのを拒み
これがまたまたスキャンダルになります。

14歳の息子グスタフ4世の摂政は義弟カール(13世)に任せて政治には関わりませんでしたが
グスタフはソフィアの要求はなんでも聞き入れました。

1809年にグスタフ4世はカール(13世)に追放されてしまうのですが
ソフィアはずっとスウェーデンにとどまり、その後ナポレオン時代にとってかわってからも
スウェーデンの自分の領地で暮らしました。
カール14世妃デジレ・クラリーに親切にした数少ない人々のうちの一人でした。
きっと異国で冷たくされることの悲しみがわかっていたからでしょうね。

ソフィアはスウェーデン王室史上最も悲劇的で孤独な人物と言われております。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王アドルフ・フレデリク妃 ロヴィーザ

2011-09-08 21:16:17 | スウェーデン王妃
野心満々で “ 大王 ” の兄から心配された王妃
アドルフ・フレデリク妃 ロヴィーザ・ウルリーカ・アヴ・プルッセン


1720~1782/在位 1751~1771

前王フレデリク1世とウルリーカ・エレオノーラに嫡子がいなかったため
すったもんだの末(詳細ははしょるけど)ロシア女帝エリザヴェータに推されて
王になったのがホルシュタイン=ゴットルプ家のアドルフ・フレデリクです。
         
妃のロヴィーザは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と
王妃ゾフィア・ドロテアの王女で、これまたエリザヴェータのご推薦でした。
兄に “ 大王 ” と呼ばれたフリードリヒ2世がいます。

         
兄のフリードリヒ2世はこの結婚に難色を示しました。
フリードリヒは妹のことを “ 傲慢で気まぐれで陰謀家 ” と思っていて
敵が多く王権が弱いスウェーデン王家を支える王妃になるには
あまりにも野心がありすぎると考えたようです。
かわりに「妹のアンナ・アマーリエはどうかしら?」と言ってみましたが
スウェーデン側はロヴィーザを希望しまして1744年に結婚しました。

ロヴィーザは美しくて教養溢れる女性で、嫁いだ当初は人気者でした。
中でもテッシン伯などは “ 天使の心を持つ女性 ” として崇めていたようで
若い夫婦のために仮面舞踏会だ、ピクニックだ、芝居だと余興を用意しました。

テッシン伯は式部長官に任命され、彼の妻も女官長になりました。
ロヴィーザとの恋愛も囁かれましたが、これは噂にすぎないようです。
ちなみにテッシン伯は1754年に王子グスタフ(3世)とデンマーク王女の結婚を
王と王妃に説得したことで失脚してしまったんですけどね…

ロヴィーザはかなりアカデミックな女性で、プレゼントされたドロットニングホルム宮殿に
科学者や芸術家を集めたりギャラリーを造り、学者に講義をさせたりしました。

善良で凡庸なアドルフの方はといいますと散歩や大工仕事なんかに勤しんでいまして
ロヴィーザから馬鹿にされていました。

そんなわけでロヴィーザは徐々に実権を握り始めます。
ロヴィーザは弱まってしまって議会に牛耳られる王権に我慢がなりませんでした。
本当はアドルフに啓蒙君主になってほしかったのですが「無理ね… 」と気づき
自分で王権を強化しようと保守革命を企てました。

1756年、このクーデターは処刑者をだして失敗し
王と王妃が直々に議会から警告を受けるという恥ずかしい結果に終わりました。

長くなったからちょいとはしょってまいります…

ロヴィーザは政治的な力を失っていき、夫のグスタフにも廃位の影が近づきつつあって
1766年からは王子グスタフに希望をかけるわけですが、息子との間にも亀裂が…

ロヴィーザはお気に入りの姪(姉ゾフィア・ドロテアの娘)フィリッピーネを
グスタフの妃に…と考えていたのですが、グスタフは意に反してスウェーデン議会が推す
デンマーク王女ソフィアとの縁談に同意しました。

ロヴィーザはこの決定に大激怒し、軽蔑を隠そうとしませんでした。
やってきた代表団の馬車を門の前で1時間待たせ、部屋に入るととても低い椅子に座らせて
文字通り上から目線で謁見したそうです。

ちなみにロヴィーザはグスタフがダメなら…と、弟のカール(13世)とフィリッピーネを
結婚させようとしましたが、これもダメだったみたいです。

1771年にグスタフが亡くなった時、王子グスタフは金策のためフランスにいましたが
すっかり不人気なロヴィーザのことを案じて
「すぐに母を保護してほしい」とスウェーデンに使いを出したそうです。

グスタフ3世の即位後、ロヴィーザは王の母后として権力を振るう気満々でしたが
すでに母親の干渉にうんざりしていたグスタフは口を出させませんでした。
他の宮殿に移るよう強いられてドロットニングホルム宮殿も手放すことになりました。

フィリッピーネとの縁談を拒んだ息子たちの嫁とは絶対付き合おうとせず
グスタフの妃ソフィアを “ 小心者 ” 、カールの妃を “ 浮気者 ” と呼んでいました。
王妃に関する母子喧嘩は生涯続いたということです。

でもロヴィーザだってスウェーデンのためになることをしているのよ… たとえば
スウェーデンは七年戦争でプロイセンと争っていましたが負けがこんでいました。
そこで政府はロヴィーザを頼ります。
ロヴィーザは兄のフリードリヒ2世に和議を申し入れて領土移譲無しで戦争を終わらせました。
これは当時としてはかなりのお手柄ですよね! 領土が奪われなかったなんて!!
しかも相手は戦争で領土を拡大するのが大好きというフリードリヒなのに… さすが妹。

確かにフリードリヒ2世が危惧したとおり、王権がしっかりしている強国に嫁いでいたら
貫禄充分で高貴な名王妃なんて呼ばれていたかもしれません。

君主の嫁の評判て、本人の性格より状況で大きく変わるものですね。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王フレデリク1世妃 ウルリーカ・エレオノーラ

2011-08-29 08:09:51 | スウェーデン王妃
夫の望みを叶えるため・・・女王の座を捨てて王妃に
フレデリク1世妃 ウルリーカ・エレオノーラ


1668~1741/在位 (女王)1718~1720 (王妃)1720~1741

ウルリーカ・エレオノーラは、カール11世と王妃ウルリーカの王女です。
幼い頃は、王太子の兄と美貌の姉の影でひっそり成長いたしました。

      
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世との縁談がありましたが実現せず…
良かったね… 王妃ゾフィアは可哀想でしたもの。

地味目に育ってきたウルリーカの人生が1708年に一変します。
姉のホルシュタイン=ゴットルプ公フリードリヒ4世妃ヘドヴィクが亡くなったのです。

若くして即位した兄カール12世は戦争でほとんどスウェーデンにいませんでした。
勇敢な戦士で、常に最前線で戦っていたカール12世は結婚を拒んでいました。
嫡子が生まれる見込みはないですよね…

議会と祖母ヘドヴィクから摂政にされたウルリーカですが
国内はカール12世亡き後の権力の座をめぐって入り乱れていました。
控えめに生きてきた20歳の女性に務まるのかしら? ま、実権は祖母が握ってたんだけど…

権力者だった祖母へドヴィクが1715年に亡くなると、ウルリーカは真の摂政になります。
その年にヘッセン=カッセル伯フリードリヒと結婚しました。

フリードリヒは従妹のプロイセン王フリードリヒ1世王女ロヴィーザと結婚していましたが
1705年に死別していました。

ウルリーカは愛ある結婚だと思っていましたが、フリードリヒは愛だけなわけなくて
女王になるであろうウルリーカを政治的に操り、上手くいけば王座も…と考えました。
結婚早々からアクティブに動き始め、ホルシュタイン=ゴットルプ家と激しくぶつかります。

1718年、1700年から一度も宮殿に帰らず戦っていたカール12世が
デンマークのフレデリクハルドで急死しました。
頭を撃たれたのですが、戦闘中ではありませんでした。

これは、ウルリーカを女王に、ひいてはフリードリヒを王にしたいという
ヘッセン家支持派がおこした暗殺だと言われたりしていますが解決していません。

フリードリヒはイングランドのウィリアム3世とメアリー2世のように
共同統治王になりたいと考えましたが、スウェーデンでは15世紀から共同統治が
禁止されていて議会に聞き入れてもらえませんでした。

そこでウルリーカは戴冠はしたものの退位を決意します。
夫のフリードリヒは晴れてフレデリク1世として即位しました。

このフレデリク1世、スウェーデンで初めて公妾を持った王様でございます。
妻のおかげで王になったくせに~
1730年にフレデリク1世がヘドヴィク・トーヴェを公妾にした時
ウルリーカは何も語らず宮廷から退いたそうです。

すごくおとなしい人だったんじゃないかしら?
王位だけじゃなくて、宮廷の主役の座を愛妾に渡すなんて…
と思いきや、王族としてのプライドは高くて、決して譲らない部分もあったそうです。
どんな部分なんでしょね? たいがい譲っちゃってると思うが…

フレデリク1世とウルリーカの時代は“ 自由の時代 ” と呼ばれています。
絶対王政が廃止され、議会が権限を大きくして君主が権威を失いました。
聞こえはいいけど、実は政治腐敗があり国内は混乱しました。
これが後にグスタフ(3世)のクーデターを成功に導きます。

ウルリーカが幼い頃から女王となるべく育てられていて王位を譲らなかったら
スウェーデンの状況も違っていたかもしれませんね。
夫に政治的な口出しをさせなかった女王もけっこういますからね。

お子様は生まれませんでした。
結局王位はホルシュタイン=ゴットルプ家にいっちゃうわけなのね…

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王カール11世妃 ウルリーカ

2011-08-26 09:20:53 | スウェーデン王妃
婚家に忠誠を尽くした王妃
カール11世妃 ウルリーカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク


1656~1693/在位 1680~1693

公正で行動派な熱い心の持ち主カール11世の妃ウルリーカは
デンマーク王フレデリク3世とアマーリエ・アフ・ブラウンシュヴァイクの王女です。

19歳でカールと婚約したものの、スコーネ戦争の時には婚約を破棄して
神聖ローマ皇帝レオポルト1世に嫁がせようかという案が浮上しました。

しかしウルリーカはこれを拒みます。
すでに未来の嫁ぎ先に忠義を尽くす覚悟のウルリーカは
スウェーデンの捕虜たちにも優しく接していました。

しかし、スウェーデンといえば、長々とデンマークと争っていて
お互い多数の死者を出す激しい戦闘をしている宿敵ですよ…
和平の一環とは言え、よく嫁ぐ気になったものですよね。
          
実はカール11世はその前に婚約者がいまして、スウェーデン宮廷で育てられていたのですが
いきなり(カールのではない)子供を産み落としちゃいまして破談になってました。

ウルリーカは美しくて優しい女性で、カールも彼女を愛したと思われます。
亡くなる時に母后ヘドヴィクに「王妃が亡くなってからはずっと不幸だった」と
打ち明けたと言われているし、浮気をした形跡がありません。

でもカールはよそよそしくて人見知りな性格で、上手く愛情表現ができなかったのね。
読み書きが満足にできなかったのでラブレターや詩を捧げるなんてこともできなかったかも…

それになんたって母后ヘドヴィクの支配下から抜け出せずにいました。
反デンマーク派を公言していたヘドヴィクは、相手が誰であれ
息子がデンマーク王女と結婚するということそのものが気に食わなかったわけですね。
ウルリーカが嫁いで来た後も、宮廷での権力は引き渡さず
貴族たちもヘドヴィクの顔色をうかがって、ヘドヴィクを王妃と呼び続けていました。

ですので、ウルリーカは宮廷ではあまりハッピーじゃなかったみたいですが
家庭の方はとても幸せだったようです。
カールベリ城というちょっと小ぶりな城で宮廷のことなんか忘れて過ごすのが楽しみでした。

ダンスや芝居が好きで、女性だけの素人芝居を主催していました。
劇団にはマリア・ケニヒスマルクなんかも参加していました。

政治的なことには口をはさみませんでしたが、一度だけカール11世に
政府に財産を没収された人たちを助けてほしいと頼みました。
しかしカールが聞く耳を持たなかったので口をつぐみ、自分の財産でこっそり援助しました。

他にも孤児院・貧民院・保養施設・未亡人のための施設・貧しい人のための労働施設や学校、
援助基金など多数の施設を設立しました。
それ以外にも自分の財産から、病気の兵士とその妻への援助も行っています。
宮廷では母后ヘドヴィクに牛耳られていたウルリーカは、庶民の間では偉大な王妃でした。

カールは1960年に「自分が亡くなった場合の幼王の摂政はウルリーカに」と宣言しています。
長年反抗できなかったヘドヴィクを差し置いて… Good Job! カール11世。

しかしウルリーカはその3年後、出産の時に亡くなってしまいました。
なんでも、こんな言い伝えが…
ウルリーカの遺体はカールベリ宮殿に安置されました。
そこへウルリーカが大好きなマリア・ステンボック伯夫人が訪ねてきました。
ところがステンボック伯夫人自身も重病で臥せっているはずでした。
カールベリの役人が不審に思って鍵穴からのぞくと…
なんと! 亡くなったはずの王妃と会話してるっていうじゃない
翌日、役人はステンボック夫人がストックホルムを離れていないことを聞くと
ショックのあまり亡くなってしまいました。
でも、恐ろしいけど友情が感じられる美しい話よね 。

カールはその4年後に亡くなりました。
またまたヘドヴィクが摂政を務めます…  つづく

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王カール10世妃 ヘドヴィク

2011-08-24 20:53:42 | スウェーデン王妃
“ 肩書き ” 大好き王妃
カール10世妃 ヘドヴィク・エレオノーラ
              アヴ・ホルステイン=ゴットルプ


1636~1715/在位 1654~1660

カール10世は、いとこのクリスティーナがいきなり退位しちゃいまして
王位を譲られたのですが、なかなか教養豊かで軍事経験もあり
相次ぐデンマーク、ロシアなどとの戦いに耐え抜いた君主でありました。

カール10世が即位した年に政略結婚したヘドヴィクは
ホルシュタイン=ゴットルプ公フリードリヒ3世の公女で
ほとんどスウェーデンにいないカール10世に代わって留守を守った王妃でした。
っていうと聞こえはいいんだけど、ちょっと違うみたい…

      
へドヴィクはとても意志が強く支配的な性格の女性でした。
ここまでは王に代わって政治を取り仕切る摂政にはもってこいですね。

でも実は政治はあまり好きでなかったみたいです。
ヘドヴィクは王妃という地位と国家のシンボルであるという状態が気に入っていたらしく
宮廷を統括して、議会のセンターに座れれば満足でした。

一方各国大使との謁見や政治的な話は退屈で仕方がなくて
飽きてくると返事もせず笑顔だけ浮かべていることもありました。

1660年にカール10世が病死すると、キャサリン・オブ・ブラガンザと結婚する前の
イングランド王チャールズ2世から求婚されました。

ヘドヴィクは(公式には)亡き夫への貞節を守るため、と断りました。
“ 王国の未亡人” という称号と国民の尊敬を得ることが快感で
自分の美徳が知れ渡るように振る舞うことも忘れませんでした。

でも、ヘドヴィクに、カール・ユレンシェーナという
(13歳も年下の)恋人がいることは周知のことでした。
彼はまずヘドヴィクの侍従になって、その後へドヴィクの領地の長官になって
戦時中は特使になって、とうとう伯爵に叙位されました。
その後城まで送られてます。 見事な成り上がり方ですね。

後継者カール11世はもともとママっ子で、即位後も母親の支配下にありました。
初めて議会に参上した時にはヘドヴィクが寄り添っていて、カールがこそこそっと囁くと
ヘドヴィクが大きな声で発表するという…つぶやき女将っていましたが逆ですね。

かようにヘドヴィクの力は絶大で、孫の代まで宮廷を支配しますが
晩年はスキャンダルに巻き込まれてしまいます。

ヘドヴィクには、アンナ・フォン・Barfeltというお気に入りの侍女がいたんですけど
彼女はヘドヴィクへの口利きの見返りに賄賂をとったり、毒の取引をしているとか
宮廷の物を盗み出しているなどという噂のある女性でした。

彼女は街で襲われいろいろな噂が明るみに出てしまうのですが
その時、ヘドヴィクの愛人ユレンシェーナ伯が犯罪に関わっていると告白したことから
ユレンシェーナ伯は「自分をとるか彼女をとるか」とヘドヴィクに迫るようになるし
宮廷は調査を始めようとしました。

貴婦人たちがユレンシェーナ伯と徒党を組んでBarfeltを追い出すよう迫ったため
とうとう彼女は追放されることになったのですが、ヘドヴィクは取り調べをさせず
彼女が持ち出す荷物を調べることも禁止しました。
いったい何を握られていたんでしょうね?

ヘドヴィクは絵画と建築に興味がありまして、現在もロイヤルファミリーが利用している
ドロットニングホルム宮殿は、ヘドヴィクが熱意を注いで建てた宮殿です。
結局、大きな権力を持っている人が散財して建てた物ほど美しい…ってことになりますね。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン女王 クリスティーナ

2011-08-22 01:18:26 | スウェーデン王妃
名君と言われつつ…謎が多い女王
スウェーデン女王 クリスティーナ


1626~1689/在位 1632~1654

たぶんスウェーデン王室の中で最も名高い女性の一人であるクリスティーナについては
たくさんの本が出ているし、研究者もたくさんいます。
なにもかも書いていたらとんでもないことになりますんで
謎とされているあたりをかいつまんで紹介します。 詳しくは伝記を読んで下さいな。

        
クリスティーナは、30年戦争の英雄グスタフ2世アドルフの唯一の子供です。
生まれた時は毛深くて、てっきり王子が生まれたと大喜びされました。
王女が生まれたと聞いた王妃マリア・エレオノーラは落胆しましたが
グスタフは「我々皆を騙したのだから賢い子になるだろう」と歓んだそうです。

なんでも赤ちゃんの時に目の前で大砲を打たれても泣かなかったとか
グスタフの最後の出兵の時、滅多に泣かないのに3日間泣き止まなかったとか
「さすが!」なエピソードが多数残ってますが割愛します。

グスタフは王妃マリアにうんざりしてまして、もう子供はつくる気が無かったみたい…
早々にクリスティーナを後継者に指名し、古典や神学に加え帝王学を学ばせて
騎馬・剣術・狩猟をさせるなど、まるで王子のように育てました。
また、王妃マリアがクリスティーナに悪影響を及ぼしては大変!と
なるべく遠ざけるようにしていました。

クリスティーナもきれいなドレスやおリボンなど女の子っぽいものに全く興味はなくて
誰かが止めるまで勉強に没頭したそうです。
洋服にインクがついていたりほつれていたりして注意されると
「そういうことは他にすることが無い人に言えばいい」と頓着しませんでした。

グスタフが戦死して、女王に即位した6歳のクリスティーナは
男装で堂々と議会に現れ、議員たちから喝采を浴びました。

5人の元老で構成された摂政たちが幼いクリスティーナを補佐することになります。
中でも有名なのは、グスタフから絶大な信頼を得ていたオクセンシェルナです。
オクセンシェルナはクリスティーナが18歳になるまで側でサポートしましたが
女王にも反抗期は訪れたようで、彼のことをうるさく思い始めました。

クリスティーナといえば30年戦争を終わらせた君主として有名ですが
実はオクセンシェルナが止めるのも聞かず、敵国にかなり譲歩して
有利に運んでいた戦争を打ち切ったようです。
国の財政や庶民たちの暮らしを思ってのことでしょうが
一部では戦争を続ける限り、軍事に長けたオクセンシェルナが自分より目立つので
それを嫌って無理矢理終わらせた、という意見もあります。

クリスティーナは、突然冷酷になったりする面はありましたが
知的で快活で話術に優れていて評価の高い女性でした。
スウェーデンを文化的に向上させようとフランスから芸術家や文学者を招いたり
学校制度を充実させました。
女王自身の生活は質素なものでしたが、宮廷作法にはフランス式を取り入れました。

大国の仲間入りを果たした重要拠点の女王とくれば縁談もいくつかありましたが
従兄弟にあたるカール・グスタフ以外の縁談には関心を示しませんでした。
エバ・スパーレという女性に熱を上げたというエピソードもありますけど
男性との噂もいくつかありました。

そんなクリスティーナは、即位から24年目の1650年に戴冠式を行ったのですが
翌年退位したいと言い出しました。
スウェーデン議会はびっくり  さらに驚いたことには
いつのまにかカトリック信者になっていました。

説得を重ね思いとどまらせていた女王の退位でしたが、1654年、
クリスティーナが27歳の時、とうとう退位することになりました。

理由は不明です。
前年に罹った病のせい、財政問題、宗教問題、倦怠感、ただの虚栄心などなど
いろいろな説はあるんですけど、どれも決定打ではないみたいです。

その後ローマに渡ったクリスティーナは、教会での態度が悪すぎて叱られたり
枢機卿と恋愛問題を起こしたりといろいろ問題を起こします。

しばらくはヨーロッパ各国になんだかんだと首をつっこんでいましたが
そのうち変わり者の元女王にどの国もうんざりして相手にしなくなりました。

1660年には急に女王に復位したいと言い出していますが無視されて
とうとう(やんわりと)国外退去させられてしまいました。
ローマに戻ったものの時の流れとともに忘れられ
お金も心許なくなってひっそり晩年を送ったみたいです。

62歳で亡くなり、サン=ピエトロ寺院に葬られました。

(当時の君主なら)多少性格に問題があっても、真面目に政治をしていたら
マリア・テレジアエカチェリーナ2世並に賢女王と言われたかもしれないですよね。
もちろん、賛否両論はありましょうが…

とにかく、謎が多くて興味深い… 新たな研究結果を待ちたいですね。

(参考文献 下村寅太郎氏『スウェーデン女王クリスチナ』 M.ニコラス『世界の悪女たち』
      武田龍夫氏『物語北欧の歴史』『物語スウェーデン史』
      三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』 Wikipedia英語版)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデン王グスタフ2世アドルフ妃 マリア・エレオノーラ

2011-08-20 19:32:52 | スウェーデン王妃
狂おしいほど愛してる! な王妃
グスタフ2世アドルフ妃 マリア・エレオノーラ・アヴ・ブランデンブリ


1599~1655/在位 1620~1632

スウェーデンを大国の仲間入りさせ、30年戦争でプロテスタント国の先頭に立って戦った
“ 北方の獅子 ” グスタフ2世妃マリア・エレオノーラ(以下マリア)は
謎多き女王クリスティーナの母親でもあり、エピソードはてんこもりなので
愛が深すぎたあたりの話題を中心に、かなり端折って紹介していきます。

マリアはブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントの王女でした。
ヨーハンという方は大酒飲みで大食いの怠惰な男性でとっても太った人でした。
王様の風刺画にもってこいのタイプ。
母のプロシア公女アンナは高飛車で、両親の喧嘩は絶えませんでした。
         
22歳のグスタフは、母后クリスティーナの反対で愛するエバ・ブラーエを泣く泣く諦めて
マリアにアタックを開始します。

マリアの婿候補にはオレンジ公子ウィレム、ポーランド王太子ヴワディスワフ(4世)
イングランド王太子チャールズ(1世)などなど、錚々たる顔ぶれがいたのですが
マリアはあきらかにグスタフに夢中

結婚を決めた若い二人は、最初はマリアの母アンナの妨害をかいくぐり、
次にマリアの兄ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムの言いがかりなどの障害を
(考えを変えた母アンナのおかげで)乗り越え、1920年にめでたく結婚しました。

グスタフとマリアは趣味も似ていて仲が良かったようです、っていうか
マリアはグスタフに身も心も捧げて、何もかも合わせていたわけね。

多少贅沢なところはありましたが、美しくて慈悲深く高貴なマリアは
ある時を境に変貌しました。

結婚から半年ぐらいして、グスタフは戦いのために城を発ちました。
マリアはその時妊娠していました。
しかしグスタフのいないスウェーデンは暗くて陰気にしか思えず
ひたすら夫のことばかり考える毎日…
ドイツから連れて来た侍女以外には会わなくなり、とうとう流産します。

マリアは病に陥った後、狂気の片鱗を見せ始めます。
神経質になり、凶暴で嫉妬深く、すぐに人を罵倒するようになりました。

マリアは戻って来たグスタフに、人目も憚らず愛情を振りまきましたが
グスタフは結婚を後悔し始めます。
エバ・ブラーエと再婚しちゃおっかな…と考えたりもしたみたいです。
でもマリアの目がギラギラ光っていたので押し隠しました。

グスタフは、自分がもし、今後生まれる幼い跡取りを残して死んだ時には
決してマリアに摂政をさせるまい! と心に決めました。

マリアはグスタフと離れようとしなかったせいで(軍艦に乗ったりして)その後2回流産し
1627年、とうとう王女を生みました。
ひとくち情報
実はマリアは、その時もヒステリーをおこして戦場までついて行ってたそうですが
産気づいたので、グスタフはしかたなくマリアを連れて戦場を離れ帰国したそうです… やれやれ


いかん… すでに長い…

王女誕生を聞かされたマリアは、王子でなかったことを嘆き
「こんな怪物見たくない!」と殺そうとしたそうです。

しかし、クリスティーナと名付けられた王女は賢く利発でグスタフのお気に入りになり
早々に後継者に指名されて、グスタフが選び抜いた家庭教師たちから
王子のような教育を受けました。

グスタフはマリアにうんざりして距離を置くようになり
クリスティーナにも近づかせないよう気を配りました。

マリアはというと、実家がグスタフの敵方に加わり
宮廷では完全に孤立状態になっていて、精神的な病が重くなる一方でした。
あえて娘にかまおうとはしなかったみたいです。

ところが! 転機が訪れます。

1632年、ドイツを進軍中のグスタフが戦死しました。
その時もマリアはドイツまで行っていて、別の場所に待機していました。
翌年グスタフの遺体と戻って来たマリアは、部屋の壁を真っ黒にして
ロウソクを立てて引き蘢ります。
グスタフの心臓を手元に置いて離そうとはしませんでした。

まぁ、彼女だけがそういう風に過ごすんだったら、ほっとけばよかったんだけど…
マリアは寂しくなったのかクリスティーナも側に置くようになりました。
見苦しい姿のままの新王を片時も離さないでずーっと泣いているマリアに
クリスティーナを託された宰相オクセンシェルナを始め、議会はほとほと弱ります。
引き離そうとするとマリアが絶叫するので簡単にはいきませんでした。

結局1636年に王妃の称号を剥奪されてグリプスホルム城に移されました。
マリアは何度も脱出を試み、デンマーク(敵軍)の船に乗り込むことに成功します。
しばらくはデンマークで過ごし、(引き取りを拒んでいた)兄の死後
故郷ブランデンブルクに帰りました。

その後はスウェーデンの年金で暮らしたそうです。
娘クリスティーナの戴冠式には大人しく参列したそうなので
精神疾患というより感情の起伏が激しすぎるという感じだったのかしらね?

グスタフ2世という偉大な王と、クリスティーナという話題性がある女王に囲まれ
マリア・エレオノーラのキャラクターが歪められてしまった可能性はおおいにあって
書き手によってはかなり同情的なものもあります。

(当たり前のことですけど)誰も生き証人がいないだけに
歴史上の人物の本当の姿を捉えるのは難しいですね。

(参考文献 下村寅太郎氏『スウェーデン女王クリスチナ』
      三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』
      M.ニコラス『世界の悪女たち』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする