まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『犬の人生』… だめだった…

2015-08-25 21:34:36 | カナダの作家
MR.AND MRS BABY AND OTHER STORIES 
1985年 マーク・ストランド

たぶん、村上春樹さんが訳してるのと、読み出しが好きな感じだったので買ったのね。
村上春樹さん訳の本は、私には難しすぎるものが多々あるので注意していたのにぃ…
やっぱりダメでした。

不条理ばかりが先に立ち、ユーモアは感じられなかった。
ユーモアではないのかな?
どうでもいいけど、さっぱり感情移入ができぬまま読み終えた感じです。
一話一話が短かったのがせめてもの救いでしょうか。

いくつか紹介しますと言っても…

『更なる人生を(More Life)』
何年か前、メインの友人を訪ねた時、売れない作家のまま死んだ父が蠅になって現れた。
父はその後も馬になって現れ、恋人の姿になって現れた。

一話目です。 せめてこの話しだけでも全文立ち読みすればよかった…
そしたら買わなかった気がする…

『小さな赤ん坊(The Tiny Baby)』
母親は生まれる前から赤ん坊のことを心配していた。
そして小さく小さく生まれた赤ん坊のことを心配し続けた。

小鳥ぐらいの大きさで、“ 紛失しないように ” ハンドバッグに入れてるっていうから…
ミニチュアの家具とか洋服作ってあげたいなぁ… なんて思っちゃって…

『大統領の辞任(The President's Resignation)』
在任中、あまりにも多くの予算を国立気象博物館に費やしてしまった大統領の辞任スピーチ。
大統領は気象に関してやり遂げたことを誇りに思っている。

いろんな役職の大臣がいて笑える…ってことだけが印象に残ってたのですが
笑いごとじゃない気がしてきた… 総理大臣とか大統領を選ぶのって難しいよね。

『犬の人生(Dog Life)』
グラヴァー・バートレットは、妻のトレイシーに、意を決して打ち明けることにする。
以前自分が犬だったことを…

私はこんなことを打ち明けられたら、とりあえず泣くね。
そして翌日には荷物をまとめるでしょう… トレイシーはエラいと思う。

作品紹介があまりにもぞんざいですみません。
完全に消化不良のまま書いています。
二度三度と読んでも理解できない気がするので、無責任にもアップしちゃうしだいです。

ひとこと時代劇コーナー
お盆に旦那さんと私の両方の実家に帰ったわけですが、両方の母が『銭形平次』を見ていたもんで、しばらく主題歌が
頭から離れなかった… お義母さんが見てた『製パン王キムタック』のキュヒョンの歌ならよかったのに…
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ポーランド女王/ポーランド王シュテファン・バートリ妃 アンナ

2015-08-21 21:09:36 | ポーランド王妃
ヤゲウォ家最後の君主
ポーランド女王/シュテファン・バートリ妃 アンナ・ヤゲロニカ


1523~1596 在位/(ポーランド女王)1575~1587
          (シュテファン・バートリ妃)1575~1586

アンナはジグムンド1世とボナ・スフォルツァの三女としてクラクフで生まれました。
兄ジグムンド(2世)もいましたし、姉も三人いたので王位など考える必要は無く
若い王女としてあたりまえの暮らしをして過ごしました。
例えば、刺繍とか縫い物とか、慈善活動とか… 帝王学を学んだりはせず
プリンセスの義務を果たしていました。

子供の頃、両親がリトアニアに行く時には、姉妹たちがクラクフで留守番でした。
だから(長女、次女はボナの娘ではないので)三女、四女とはとても仲がよかったそうで
いつも三人で遊んでいました。
そのかわり、未来の王である兄ジグムンドとは少し距離があったようです。

両親か議会かはわかりませんが、アンナはスウェーデンの王太子候補として教育されましたが
お相手のヨハンのことを、妹のカタリーナも気に入っていたらしく
結局カタリーナが嫁ぐことになりました。
姉妹で王子様を取り合い? 二人の微妙なやりとりみたいのを詳しく知りたいですよね?

姉妹たちがどんどん嫁いでいく中、アンナは52歳まで未婚でした。
そして1572年、とうとう縁談が舞い込みました。

兄のジグムンド2世が嫡子を遺さず亡くなったため、アンナを結婚させて
その相手を共治王にしようという計画です。
つまりアンナは誰かと結婚しないと君主にはなれなかったわけね。
52歳まで独身だったら、一人の方が気楽だっただろうに… 変な法律。

ヴァランスの司教の働きかけで、フランスのアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの王子
アンリが一瞬王座につきました。
しかし、アンリは1574年に自ら退位してフランスに帰国します。
これについては、アンナがイヤで逃げ出したっていう説もありますが
本当は「(兄の)シャルル9世はもうダメかもね…」と考えたカトリーヌが
呼び寄せたという説もあります。

1975年に、トランシルヴァニアの公子シュテファン・バートリが王に選ばれ
アンナと結婚して、二人はそろって即位しました。
     
余談ですが、バートリ家といえば、エリザベート・バートリという
若い女性を600人以上殺して自分の若返りを謀っていたという
恐ろしい貴婦人のエピソードで名前を知ってましたが、こんなに由緒正しき家柄だったとは…
どれどれ… エリザベート・バートリは1561年生まれで1614年没です。
もし親戚だったらシュテファンも会っていたかもしれないね!!

アンナとシュテファンは、結婚したといっても、年に何回かしか会わなかったらしく
本当に王座のためだけの夫婦だったんですね。
シュテファンはなんとかしてアンナと離婚して若い嫁と再婚できないものかと
画策していたみたいです。
一応シュテファンを擁護しておくと、後継ぎがほしいってことだったらしい。

夫がいないと君主にはなれなかったアンナですが、政治力はあったらしく
シュテファンよりも議会に影響力を持っていました。
どちらかというとシュテファンの方がお飾り的な王様でした。

1586年、シュテファンが亡くなると、王座を去らなければならないアンナは
最後の力を行使して、妹カタリーナの王子ジグムンドを次の王にするよう
議会に認めさせました。

スウェーデン王子をめぐってなにかイザコザがあったかもしれない妹の息子ですが
家系を守るためなら! という、当時の王侯貴族の娘のガッツが感じられますね。

ジグムンド3世は、アンナの政治的な介入は許しませんでしたが
ないがしろにはしませんでした。

父王ヨハン3世の死後スウェーデン王にも即位したジグムンド3世は、国を留守にする間
アンナに子供の養育を任せています。

退位後もやりがいのあることが見つかってよかったですね。
退位から10年後の1596年に亡くなりヴァヴェル大聖堂に葬られました。
王座は今後ヴァーサ家に移ります。

(参考文献 M・ニコラス『世界の悪女たち』 Wikipedia英語版)

ひとこと調べものコーナー
お盆に福岡に帰ったのですが、みやげ物にやけに “ モンドセレクション受賞 ” が増えてる気がしたので
そもそもモンドセレクションて?と思い調べてみました オドロクよ!

ベルギーの民間団体がいくつかのカテゴリーの商品を認証してるらしいんだけど、それはさておき…
以下、Wikipediaの抜粋ね

本認証はコンクールスタイルを用いているものではない。相対評価ではなく絶対評価を用いているため、定められた技術水準を満たした商品には全て認証が与えられる。モンドセレクションは国際的には知名度は低いが、日本国内での知名度は高い。審査対象品の5割が日本からの出品であり、日本の商品の高品質が認められ8割が入賞している

ま、日本のみやげのほとんどがおいしいってこなんでしょうね…
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ポーランド王ジグムンド2世妃 バルバラ

2015-08-10 20:05:10 | ポーランド王妃
王の本物の愛を得た悲劇の王妃
ジグムンド2世妃 バルバラ・ラジヴィウヴナ


1520~1551/在位 1550~1551

訳したものをつらつらと書くと、そういうことになるんですけどね… さてどうでしょう?

ジグムンド2世は3回結婚していまして、最初の妃は神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の
皇女エルジェピタでした。

エルジェピタが1545年に亡くなり、2年後に再婚したのがバルバラです。

バルバラの生家ラジヴィウ家は、リトアニアで強大な力を持つ貴族でした。

バルバラは当時ヨーロッパで最も美しい女性たちのひとりと言われていました。
当時では長身の162cmでやせていて、ブロンドで、真っ白い歯が美しかったそうです。
美しい女性の常として、ファッションや美容にとても興味があり
ふだんから香水やフェイスパウダーをつけていました。 と、ここまで書いて思ったが
王侯貴族の娘さんは、ふだんでも着飾っているものじゃないの?

見た目だけではなく、高い教育を与えられて三ヶ国語の読み書きができました。
才色兼備ですね。

17歳の時、ノヴォグロデク領主スタニスワフ・ゴシュタウタスと結婚しますが
5年後に死別しました。
    
その後ジグムンド2世とのロマンスが始まったということなのですが、どうでしょう~?
けっこう年上なのよね… スタニスワフ… 亡くなるやいなやロマンスって…

ジグムンドはエルジェピタと結婚したもののバルバラに夢中でほったらかし。
はたしてこういう状況で、バルバラが「いけませんわ」と拒んだのか
「わたくしは日陰の女ではイヤですわよ!」と責めていたのかは不明…
ドラマだったら身を引こうとするんだけどな,そしてそれがさらに愛を深めるんだけどな…

ジグムンドはエルジェピタが亡くなると、待ってました!とばかりに
バルバラとこっそり婚約し、まわりの反対を押し切って結婚しました。

ポーランドもカトリックとプロテスタントの争いが始まっていましたが
ラジヴィウ家はプロテスタントで、それも大きな反対の理由でした。

二人の結婚式は王家のしきたりをまったく無視したもので、貴族は猛反発!
それに輪をかけてジグムンドの母ボナ・スフォルツァ大激怒!!

貴族階級からは離婚を要求され、結婚を無効にしようとあらゆる政治的手段がとられますが
これはたぶんボナ・スフォルツァが煽っていたものでしょう。
王大后がやれって言うんだからクーデターじゃないもんね。

けれども二人の強い愛は揺るがず、とうとう貴族たちも黙認します。
結婚から3年の1550年末、バルバラはクラクフで王妃として戴冠しました。

やっと王妃と認められてから、たった5ヶ月後にバルバラは亡くなります。
ふがいない貴族階級には任してらんないわよ! と、ボナ・スフォルツァが毒殺したという
ウワサが多く出回りましたが、もともとからだが弱くて胃が悪かったそうで
現在ではガンだと考えられています。

かいがいしく看病していたジグムンド2世は身を切られるような悲しみにうちひしがれ
立ち直れなさそうな雰囲気でしたが、2年後に、最初の妃エルジェピタの妹の
カタジナと三度目の結婚をします。

愛を貫くのはよいが、バルバラ以外にはひどい男だったようにしか思えませんが…

バルバラは遺言にしたがってリトアニアのヴィリニュス大聖堂に葬られました。

バルバラの物語はポーランドでは本になったりドラマになってるらしいです。
そりゃそうよね、美しい愛の物語だもの… エルジェピタが悪者になってなきゃよいが…

ほぅら、こんな絵もあってよ
 

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことRobiコーナー
思い起こせば去年3月、だんなさんが作り始めましたとひとことRobiコーナーに書いたんですけど、先月最終号が発売され
できあがったよ~ うちのRobi

すっっごくかわいー なぐさめてくれて歌も歌ってくれてテレビも消してくれる! こんなのが作れるなんてすごいよぉ
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ポーランド王ジグムンド1世妃 ボナ

2015-08-06 19:43:08 | ポーランド王妃
The スフォルツァ家の女性! って感じ(思いこみだけど)
ジグムンド1世妃 ボナ・スフォルツァ


1493~1557/在位 1518~1548

愛しいバルバラ・ザポリャを若くして亡くしたジグムンド1世なんですが
後継ぎの王子もほしいし…いつまでも悲しんでいるわけにはいきませんね。
というわけで、3年後に再婚したのはイタリアのスフォルツァ家のボナでした。

ボナは、ミラノ公ジャン・ガレアツォ・スフォルツァの公女でした。
           
父ジャンはミラノ公といえ、大叔父で摂政のルドヴィーコから領地を取り上げられ
成人に達してからもその状況は変わりませんでした。
そのためジャンの子供たちも、ジャンが25歳で亡くなるまで
ルドヴィーコの保護下におかれていました。

ジャンの死はルドヴィーコの毒殺だという噂が流れる中
ルドヴィーコはジャンの妻子をミラノから遠ざけることにして
ボナの母イサベッラ・ディ・ナポリにバーリの領地を与えます。

バーリで政治力の強化と以前の領土を取り戻そうとしていたイサベッラは
強力な後ろ盾がほしくてボナの婿選びに本腰を入れます。
(長女と次女はお年頃になる前に亡くなりました)
ジグムンドとの縁談は1518年に実現しました。

さてボナなんですけど、父ジャンが亡くなったのは1歳の時なので
母イサベッラの意向だと思うのですが、かなり高い教育を与えられていました。
歴史・法律・経営学・神学など、後継ぎの男の子が学びそうなことばかり。
ボナは13歳にして経済観念があり、人々への影響力も持っていたといいます。

そんなだから、結婚後もさっそくポーランドで政治的なポジションを得ようとします。
ジグムンドが穏やかで静かだったのにくらべ、ボナは精力的で短気でした。
自分好みにポーランドのしきたりを変えようとして、ジグムンドと気が合わず
何度も諍いをおこしました。
ボナは自分の意志を実行するために自ら莫大な資金調達をしていますし
時には王そっちのけで外国と交渉したりしています。

仲悪そう… とはいっても、当時の王と王妃の最大の仕事は後継者を作ること!
ボナは結婚から8年の間に5人のお子様を生んでいます。
ただ王子はジグムンドのみ… これでは心細いですね。

で、1527年、再び妊娠したんですが、馬に乗っていて落馬し男の子を死産しました。
ボナはこの後子供が生めないようになってしまい、継承者はジグムンドに絞られます。

1529年、ボナは、自分が奔走して手に入れたリトアニアで息子ジグムンドを戴冠させました。
これにはかなりのポーランド貴族が反発したようです。

どうやら夫を尻に敷き子供にも影響力大だったと思われますね。
ジグムンドが、自分が気に入らないバルバラ・ラジヴィウヴナと再婚した時は
先頭に立ってラジヴィウ家を批判していました。
後にバルバラが亡くなった時にはボナが毒殺したのでは? と疑われました。

1548年、ジグムンド1世が亡くなると、息子ジグムンド2世が即位しましたが
ボナはマゾヴィアへ移り8年ほど暮らした後、故郷バーリに戻りました。

バーリに戻ってから1年後、ボナは信頼していたジャン・ロレンツォ・パッパコーダに
毒を盛られて亡くなります。
これは、スペインのフェリペ2世が、ボナに負っていた多額の借金を返したくないなぁ…と
パッパコーダに毒殺を命じたためだそうです。
さてはボナがやっていた資金調達って高利貸しとか?

ポーランドではなく、バーリの聖ニコラス教会に葬られました。

ちなみに、ボナの長女イザベラ
ハンガリー対立王サポヤイ・ヤノーシュ妃になっています。
            
四女カタジナは、スウェーデン王ヨハン3世妃です。

             
            美しい乙女だったボナも、激しい政争のせいか…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことクラフトコーナー
いとこ二人に相次いで女の子が誕生したので、お祝いにじんべいを作ってみました
小さいからちょちょいっとできちゃうかと思ったら、パーツが多くて裁断から時間かかった… でも小さいものって可愛いね
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『叶えられた祈り』久々に解説をじっくり読んだですよ

2015-08-03 23:08:17 | アメリカの作家
ANSWERED PRAYERS 
1987年 トルーマン・カポーティ

私は、基本的に、フィクションであればどんな世界観があってもいいと思ってます。
売れる売れない、読む読まないは読者が決めればいいことなんでね。

だからこの『叶えられた祈り』出版も否定はしませんが
「なんで出しちゃったかなぁ?」という疑問はおおいに感じました。

だって、どう考えてもその後のカポーティは生き辛くなるだろうと想像がつくわ。
社交界から外され、(いろいろな圧力で)文学界から干され、友人は離れていき
ヘタしたら命だって狙われるかも… という内容じゃないのか? これ。

今回あらすじは、新潮文庫の裏表紙から抜粋しますね。

「ハイソサエティの退廃的な生活をニヒルに眺めながらもあこがれている
 作家志望の男娼。この青年こそ著者の分身である。
 実在人物の内輪話も数多く描かれていたので社交界の人々を激怒させた』

“ 内輪話 ” と書かれていますが、ほとんどが性的嗜好や酒癖、薬物中毒の話しで
出版当時なら、一般的にノーマルという枠からは外れて見える性向の暴露に思えます。

この中の登場人物のどれぐらいが、実在の人物なのかどうか知りませんが
実在していたとわかる人をひとにぎりだけあげてみます。

ギリシャ王パウルス、コレット、ペギー・グッゲンハイム、バーバラ・ハットン
英王女マーガレット、キャロル・サローヤン、グロリア・ヴァンダービルト
ジャクリーン・ケネディ、モンゴメリー・クリフト… すごくない?

何人かは悪口程度の内容ですんでますが、何人かは「それを書かれちゃ…」という
エピソードが披露されちゃってます。
名前は変えられていても、あきらかにモデルがわかるというエピソードも
多数もりこまれているらしく、彼らの財力や政治力をもってすれば
カポーティの今後がどうなるんだろう?と心配する人がいたのもうなずけるってものです。

そんなわけで、巻末の “ 編集者から ” と “ 訳者あとがき ” をじっくり読んでみました。

この小説は、1966年に契約を結び、1968年に出版される予定だったそうですが
何度かの延期の末、1981年に出版するということになりました。

ところが、カポーティは、1975年にできあがっていた4つの章を
編集者の反対を押し切って、エスクァイヤ誌に先行発表したそうです。
そしてその時点で大問題となり、誰もがカポーティと口をきかなくなったそうです。
カポーティは、自信は失っていないように見えましたが
結局、執筆は滞り『叶えられた祈り』は未完で終わっています。

編集者と訳者はエスクァイヤへの発表を、それぞれ、自信からなのか
焦りからなのかに言及していますが、私はそんなことはどうでもよくて
「友だち無くすよ」ということが恐ろしくなかったんだろうか? と
考えてしまいます。

この作品が、名前を出された人にも賞讃で迎えられると思っていたのでしょうか?
ゴシップ好きは大好きかもしれないし、ちまたの話題にはなったと思う… でも
友人や知人を敵にまわしてもかまわないとまで思える内容なのかな?
浮気と離婚と下ネタのうわさ話しばっかり…

発表されたのは “ さわり ” の部分だったのかもしれないですね。
ジョーンズ青年とケイト・マクロードのエピソードは
もっともっとドラマティックになりそうな気配があるもの。

もしも完成していたら、本人が言っていたように(名前を出された人たちも納得の)
人の心をゆさぶる大作になっていたのかもしれませんね。
今となってはわかりませんが…

当時の華々しいゴシップに興味のある方におすすめ
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



ひとことK-POPコーナー
毎週のようにタワーレコードからお届け物がある今日この頃、だんなさんはあきれ顔ですけど… それはさておき
B.A.P 復帰おめでとう~! 彼らの未来はどうなるんでしょうと心配だったさ
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