まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『ボズのスケッチ』可笑しくも哀しい上流への憧れ

2010-11-28 17:12:59 | イギリス・アイルランドの作家
SKETCHES BY BOZ 
チャールズ・ディケンズ

これぞ大衆娯楽小説!といえる短篇が上下巻で12話、面白いですよ。
デビュー当時に新聞・雑誌に掲載された短篇が収められています。

上巻は、上流ぶって暮らそう、少しでも上流にくい込もうと奮闘する人たちの悲喜劇、
下巻は、皮肉がきいた喜劇的な情景…をまとめた感じでしょうか?
どちらかといえば上巻が好きでした。

意地悪に作られた物語の中から、フフフと笑える3篇を紹介しますね。

『ボーディングハウス盛衰記(The Boarding House)/1834年』
妻に遺産が入ったのでボーディングハウス(下宿屋)を始めたチブス夫妻。
チブス夫人は高級下宿にしようとして、下宿人の人選に余念がありません。
その甲斐あって、紳士3人が暮らすことになりました。
続いて立派な未亡人とその娘たちもやってきます。

この物語は二話に分かれていて、ラストでチブス夫妻はけっこう痛い目にあいます。
これは、単に下宿屋の物語が好き! という理由で選びました。
本当に、将来下宿屋をやりたいと思うのよね。
昔の下宿屋の風刺小説はためになります、なんてね。

『ラムズゲートのタッグス一家(The Tuggses at Ramsgate)/1836年』
食料品店を営む堅実なタッグス一家に、長年争っていた遺産が入ります。
一家は店をやめ、金持ちたちが暮らす土地へ引っ越さなければと考えます。
ラムズゲートへ向かう船の上で、長男のサイモン改めシモンは
美しい大佐夫人のベリンダに、ひと目で魅了されてしまいました。

笑えるながらも少し哀しいお話し…所詮庶民は庶民なのね。
Simon という名は、上流社会ではCimon とフランス式に変わるんですってさ!
この一家、上流の仲間入りをしようと頑張ってますが
いかんせん身に付いた中流の振る舞いが邪魔をします。
シモンは若いだけにソツなくこなしていたんですけどね…恋の魔法には勝てず。

『蒸気船でテームズ下れば(The Stream Excrusion)/1834年』
誰が相手でも気に入られる術を持ち、遊びを仕切らせたら右に出る者がいないノアケスは
擁護者であるミセス・トーントンのリクエストで船遊びを計画します。
準備万端整えた川下りでしたが、トーントン母娘の天敵ブリッジス母娘も乗船していました。
ことごとく張り合う二組の母娘、どうやらトーントン母娘の方が分が悪いようです。

“ 取り入ること ” が仕事といってもおかしくない人は、前世紀の物語によく登場します。
脇役であることが多いんだけど、この物語では主役級。
それで生きていけるなら、それもまた人生…嫌われないよう頑張ってほしい。

上下巻ともに、ラスト一篇は笑いのない少し重苦しい物語が選ばれています。
『黒いヴェールの婦人』という、貧民街の死をテーマにしたものと
『大酒飲みの死』という、酒に魅入られた人の不幸を書いたものです。
私としてはそちらの方が好きなタイプの物語でした。

自分で新聞に寄稿していたというから、没になったものもあったんでしょうね?
次から次へと書くエネルギー、すごいです。
新聞に載せたい、読んでもらいたい!という情熱を感じさせます。
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神聖ローマ皇帝ベレンゲル1世妃 ベルティラ

2010-11-25 23:28:00 | ドイツ系王妃
               こちらはオットー1世妃 エドギタ

苦節35年、やっと皇后になれたのに…
ベレンゲル1世妃 ベルティラ・フォン・スポレート


860~915/在位 (神聖ローマ皇后)915
         (イタリア王妃)888~889、905~915

アルヌルフの後は、野心満々のカール2世妃リヒャルディスの甥にあたる
ルートヴィヒ3世が皇帝になりました。
ルートヴィヒにはヴィエンヌ伯シャルル・コンスタンチンという息子がいて
ビザンツ皇帝レオン6世の皇女アンナが母親といわれていますが皇后の記録がありません。

ルートヴィヒ3世の後を継いだのはルートヴィヒ1世を母方の祖父に持つベレンガリオです。
888年にベレンガリオ1世としてイタリア王につきましたが、グィードに奪われ
返り咲いたと思ったら貴族がルートヴィヒ3世を推したりして
なかなか王の権力を手にできない王様でありました。

実家の力が欲しくてスポレート公スッポ2世の娘ベルティラを選んだようです。
880年に結婚しました。
        

ベレンガリオ1世は、イタリア王としての権力を905年に取り戻し
915年には神聖ローマ皇帝になりましたが、ベルティラは間もなくして亡くなりました。

当時ベルティラは “ 不信心 ” で告発されていました。
死因は毒によるものだということです(夫の手に余っちゃいましたかね?)

ベレンゲルはその年のうちにアンナという女性と再婚しています。
詳細は不明ですがプロヴァンス伯ルイの娘だという説が濃厚みたいです。


拡げよう、サクソンの輪
オットー1世大帝妃 エドギタ


910~946/(神聖ローマ皇后)在位せず (ドイツ王妃)936~946

ここから神聖ローマ皇帝の座はザクセン家に移ります。
ものすごくかいつまんで言うと、西フランク王国は継承争いに明け暮れていて
東フランク王国は放ったらかし状態、というわけで、東フランクは勝手に
フランケン家のコンラートを王に選びました。

コンラート1世は王とはいっても各公爵家の力をおさえることはできず
特に東フランクから独立しようとするザクセン家を繋ぎとめるために
自分の後継者にザクセン公ハインリヒ1世を指名します。

ハインリヒ1世は東フランク改めドイツ王になり、その後継者オットーが
自分を陥れようとしたローマ教皇ヨハネス12世を廃位してレオ8世を選び
ついでにベレンガリオも失脚させてイタリアを手に入れ、962年に皇帝に即位しました。

そんなオットー大帝の妃はアルフレッド大王を祖父に持つエドギタ(エディス)で
サクソン系の王国同盟の証しとして929年に結婚しました。
姉のエドギヴァはフランス(西フランク)王シャルル3世に嫁いでいます。

         

エドギタは兄のイングランド王エセルスタン同様聖オズワルド崇拝に身を捧げていて
結婚後はその信仰をドイツに吹き込もうとしていました。

彼女の影響はザクセン領の修道院や教会まで及んだそうです。

オットーが皇帝に即位する前に亡くなりました。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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『終着駅』文豪を悩ます愛の綱引き

2010-11-24 01:22:22 | アメリカの作家
THE LAST STATION 
1990年 ジェイ・パリーニ

副題は『トルストイ最後の旅』です。

何度も書いているように、私は作家の私生活にはあまり興味がないのですが
トルストイの奥様が悪妻だったという話しを聞いたことがあったので
ちょいと真相が知りたくなって読んでみました。

トルストイ本人と、奥様ソーニャ、弟子のチェルトコフ、三女サーシャ
主治医マコヴィーツキー、秘書ブルガーゴフの手記と日記、手紙で
最晩年である1910年にトルストイを取り巻いていた環境と
トルストイが82歳で家を出て、田舎の駅で亡くなった経緯を紹介しています。

手記などの内容は本物でしょうが、ノンフィクション、記録と考えず
物語として読んだ方が断然面白いと思います。

とにかく、ソーニャの手記はトルストイや彼を取り巻く人たちへの憎悪が滲み出ているし
ソーニャ以外の人たちはソーニャの行動を激しく非難しています。

ソーニャはチェルトコフからトルストイを守らなければいけないと
常に行動に目を光らせて、何から何まで知らずにはいられません。
チェルトコフ、マコヴィーツキー、サーシャは、
ソーニャがトルストイを窮地に陥れると考えて彼を自分で保護しようと躍起です。

誰も彼もが自分が一番トルストイを理解していると思っているし
自分が一番信頼を得ている、あるいは愛されていると考えています。

皆から愛されるというのは幸せなことでしょうが、こうも愛されると窮屈そう…
どいつもこいつもほっといてくれやしないという毎日はしんどくないですか?

皆の手記をほぼ平等に取り上げ、両者の言い分が書かれていますが
とりあえず、一番の悪者はソーニャに見える…というのが読み終わった感想です。

でも…トルストイファンの皆さん、怒らないで下さいね
ここからソーニャに譲歩して、ものすごく味方になって深読みしてみます。

トルストイは自分が贅沢な暮らしをしていることを恥じていて抜け出したいと書いています。
でもソーニャを愛していて彼女の言い分も尊重しなければ、と考えて耐えていました。

トルストイは貴族(伯爵)らしからぬ服装をして下級の人々とも気さくに接して
時には貧民街にまで出かけて行って語り合うなど、階級を捨てたような行動もしています。

でもさ…結局は捨ててないわけよね。
例えばソーニャがものわかりのいい妻で、トルストイの言いなりだったら?
「私も子供たちも、遺産や階級はいりませんよ」と彼の意志に従っていたら
トルストイは身分を捨てて貧しい人たちの中で暮らしたでしょうか?

『幼年時代』『少年時代』を読めばわかるように根っからの上流育ちのトルストイ。
きっと思い切れなかったと思うわ、それに捨てる必要もないと思うし…

ソーニャはそんなトルストイの、恰好の言い訳になったんじゃないかと思うんですよね。
そしてトルストイが命の残り少なさに気がついた時、ソーニャを捨てることで
自分の主張を正当化してみせた…っていうのはどうでしょう?

本当に本当に、ソーニャに百歩譲った感想です。
でも50年我慢して連れ添った女性を捨てるにはあまりにも唐突な行動なんですもの。
それまでにソーニャと別れても、誰も非難しなかったと思うのに…それほど強烈な妻です。

ともあれ、文豪とよばれたトルストイを取り巻く人間劇、
実話だろうがフィクションだろうがかまわないほど入り込めますよ。

映画化されるそうですが愛の部分が強調されてたら雰囲気台無しだと思います。
本の方がドロドロしてて面白いんじゃないかと思いますが…
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神聖ローマ皇帝グイード妃 アゲルトリュード

2010-11-23 10:33:26 | ドイツ系王妃
              こちらはアルヌルフの皇子ルートヴィヒ

けっこう執念深い
グイード妃 アゲルトリュード


生年不詳~923/在位 (神聖ローマ皇后)891~894 (イタリア王妃)889~894

カール3世にも嫡子がいなかったものだから、さあどうしましょう?
というわけで、フランク、イタリアなどなど王位をめぐる争いは続くのですが
イタリア王になったグィードが教皇の後押しを受けて皇帝の座につきます。

家系図で見る通り、もはや遠い親戚なんですけどね…

ベネヴェント公アデルキスの娘アゲルトリュードは
皇帝になる10年ほど前にグィードと結婚していました。

            

894年にグィードが亡くなるとアゲルトリュードは、グィードと共同で皇帝に就いていた
息子のランベルトを伴いローマへ向かいました。
ランベルトに教皇フォルモススから皇帝の承認を受けるためです。
しかし、教皇はライバルであるカロリング家のアルヌルフを支持していました。

896年、アルヌルフはローマに侵攻しましたが失敗します。
教皇フォルモススも失脚、その上殺害されました。

アゲルトリュードはすぐに皇帝の母后の権威を発揮します。
まずは、お気に入りのステファヌスが教皇に就けるよう画策しました。

それから、自分の息子を認めなかったフォルモスス許すまじ!というわけで
アギルトリュードはフォルモススの遺体を掘り出させて審問にかけさせ有罪にします。
哀れフォルモススはテヴェレ川に投げ込まれてしまいました。
亡くなった人はそっとしておいてあげましょうよ。

また、アゲルトリュードは、未成年だった息子ランベルトの摂政になり
カロリング家打倒をけしかけていたと言われています。

けれども頼みの息子ランベルトは898年に18歳ぐらいで亡くなっています。
未婚だったみたいです。



珍しい…不貞の告発を退けた王妃
アルヌルフ妃 オータ


874~903/在位 (神聖ローマ皇后)896~899
         (西フランク王妃)888~899 (イタリア王妃)896~899

ルートヴィヒ1世がひいお祖父さんだし、カロリング家だし、ということで
イタリア王位や神聖ローマ皇帝の座を激しく要求していたアルヌルフも
ランベルトの死でやっと皇帝の座につくことができました。

アルヌルフの妃オータは、名門コンラッディン家の出ですが
彼女のことはアルヌルフが王座についてから亡くなるまでの間しか記録がないそうです。

アルヌルフは、王座奪取のために、バイエルンとロートリンゲンを支配していた
コンラッディン家の後ろ盾が必要だと考えて、888年頃オータと結婚したようです。

          
899年、オータは不貞で告発されます。
不貞の罪を被せられる王妃はとっても多いわけなんですけど
ほとんどは申し開きできないまま、離婚とか、処刑とかの処分を受けています。

でもオータは違いました。
潔白を誓い、しかも72人の貴族たちが彼女の無実を宣誓しました。
アルヌルフの目論みは失敗です。

とはいえアルヌルフはすでに病に冒されていて、その年のうちに亡くなりました。
ここでオータの記録は途絶えます。

息子のルートヴィヒが東フランク王に即位したというのに、母后の記録がないなんて…
どうやら故郷に帰されて、903年に亡くなったという説があります。
息子さんとうまくいっていなかったのかしらね?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝カール3世妃 聖リヒャルディス

2010-11-21 20:33:38 | ドイツ系王妃
身を呈して潔白を証明
カール3世妃 聖リヒャルディス


840~896/在位 (神聖ローマ皇后)881~888
         (東フランク王妃)882~888 (西フランク王妃)884~888

南フランクに次いで嫡子を遺せなかった西フランクの王には
東フランクのルートヴィヒが継いで、フランク王国は一瞬統合したようになります。
その後を継ぐカール3世が神聖ローマ皇帝に即位しました。

リヒャルディスは、ノルドガウ伯Erchangerの娘で862年にカールと結婚しました。

         

887年、強力な力を持って嫌われていた大臣リウトワルドを失脚させようという動きがあり
リヒャルディスは、王や貴族たちに彼との不貞を告発されました。

そこでリヒャルディスは試罪法の裁判を受けることにします。

ここで試罪法の説明ね! 驚きますよ
これは例えば、試しに火あぶりの刑を受けてみて、焼け死んじゃったら有罪で
焼けなかったら無罪という、むちゃくちゃな裁判です。
潔白なら神が助けてくれるという信仰心から出だものでしょうけど…焼けるよね。

他にもお互いに罪をなすりつけ合っている者同士を決闘させて
勝った方が無罪で負けた方が有罪、とかね… 説明終わります。

下の画はリヒャルディスが火あぶりの刑にあっているところです。

            
              こんな裁判はおかしいですよね

結局リヒャルディスは無事に生還して無罪が証明されました。
しかし、だからといって自分を告発したカール3世とよりがもどる訳でなく
これを機にアンドー修道院に身を落ち着けました。

実はカール3世、愛妾と結婚したかったらしいですよ
無罪になったら離婚はできないし、がっかりしたでしょうね! いい気味。

アンドー修道院はリヒャルディスが880年頃に先祖代々の土地に建てたもので
修道院長には姪のRotrod が就いていました。
リヒャルディスはそこで生涯を過ごし、896年に亡くなると
王家の墓所ではなくそのままその地に葬られました。

1049年に列聖されています。
この列聖というのは詳しくわからんけれども、とても敬虔な人生を送った人で
カトリックの布教に尽力した方が聖人に加えられることを言うようです。
中世時代に列聖された方々は何かしら奇跡をおこしたエピソードがついてきます。
病気に触れたら直ったとか、地面に手を触れたら水が湧き出たとか
亡くなった時に空が暗くなったとか…いろいろです。

リヒャルディスの列聖の理由はよくわかりませんが
火あぶりにあっても無事だったことが奇跡とされたのだとしたら皮肉なことですよね?
疑われて受けた裁判で聖人にされるなんて。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)

火にまつわる…余談です
このあいだ炒め物をしていたら大きめのトレーナーの袖に火がついて
キャーキャー騒いでいるうちに胸元まで火がまわってました。
幸い髪の毛が少し焦げたぐらいですみましたが、火だるまになるところでした。
からだに火がつくって恐ろしいですよ…皆さんも気をつけて。
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神聖ローマ皇帝カール2世妃 イルメントルード

2010-11-19 02:40:49 | ドイツ系王妃
兄のおかげで人生暗転
カール2世妃 イルミントルード


823~869/在位 (神聖ローマ皇后)せず (西フランク王妃)843~869

三兄弟に分割されてしまったフランク王国を再び統合させようと奮闘していた
カール2世(西フランク王シャルル禿頭王)の一人目の妃はオルレアン伯オードの娘
イルミントルードです。

       

刺繍に天賦の才能があったといいます。
当時の貴婦人にとって刺繍が上手いというのは、すごいプラス要因だと思われます。

それから宗教的な建築物に興味があって、カール2世などは
ノートルダムのシェル修道院をプレゼントしてあげたほど…贈り物のスケールが違うわね!

お子様も9人生まれ、順風満帆の王妃生活を送っていたように見えますが
866年にイルミントルードの兄ヴィルヘルムが反逆罪で処刑されてから人生が一変します。

カール2世とは別居することになり、尼僧として修道院に隠遁することになりました。
修道院長ではないのですよ、尼僧です。
そこには大きな隔たりがあるに違いない…

しかし3年後に亡くなると、王家の廟所があるサン=ドニ大聖堂に葬られました。
もう少し長生きしていたら、カール2世と和解できたんじゃないかしらね?

あと、娘ユディスが複雑な結婚をしていますので、家系図を見てみてください。



                 
先妻の子より実の兄
カール2世妃 リヒャルディス・フォン・ダー・プロヴァンス


845~910/在位 (神聖ローマ皇后)875~877 (西フランク王妃)870~877

前妃イルミントルードが亡くなった翌年の870年
カール2世は、アルデンヌ伯ビヴァンの娘リヒャルディスと再婚します。

リヒャルディスの伯母テウデベルガはロタリンギア王ロタール2世妃でした。
カール2世はリヒャルディスの実家を通じてロタリンギア支配を狙っていました。

      

リヒャルディスは政治的手腕も持っていたようで、カールの遠征中は
王に代わって国を治めていました。

877年、カール2世が亡くなります。
イルミントルーデとリヒャルディスは、併せて14人の子供を生んでいましたが
カール2世が亡くなったとき成長していたのは3人だけでした。(しかも2人は王女)

31歳の長男ルートヴィヒがいましたが病弱な男性だったみたいです。
リヒャルディスは自分の兄ボゾを王にしようと考えました。
ちなみにボゾはロタール1世皇女エルメンガルデを誘拐して結婚した人ね!

貴族たちが嫌うのはいつの世でも、王妃(愛妾)の家族の台頭ですよね。
自分の家ならいいんだろうけど…
リヒャルディスは兄ボゾとの近親相姦を糾弾されて、服従を拒まれてしまいます。

しかたないなぁ…と西フランク王はあきらめたリヒャルディスですが
せめてプロヴァンス王にしようと頑張り、ボゾは王に即位することができました。

結局西フランク王位はルートヴィヒ2世が継ぎましたが879年に亡くなります。
その後はその息子ルートヴィヒ3世が継ぎましたが882年に亡くなりました。
共治王だったルートヴィヒ3世の弟カルロマン2世までも884年に亡くなります。

リヒャルディスは王様が替わる度に権力の座に返り咲こうと画策しますが
どうにも上手くいきませんでした。
貴族たちはリヒャルディスを、プロヴァンスへ追いやってしまいました。

兄ボゾは亡くなっていましたが、その息子ルイがプロヴァンス王になっていました。
たぶん甥っ子に口うるさく指示してたんじゃないかと思うわ
権力大好き!って感じですものね。

ちなみに、ルイの母親は、ルートヴィヒ2世とエンゲルベルガの王女エルメンガルデで
カール2世の甥の息子ってことになります。 ややこし~

居心地が良かったのかその後はずっとプロヴァンスで暮らし、910年に亡くなりました。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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『クレアモントホテル』想像するだけで涙が…

2010-11-18 01:34:59 | イギリス・アイルランドの作家
MRS.PALFREY AT THE CLAREMONT 
1971年 エリザベス・テイラー

エリザベス・テイラーは以前『20世紀イギリス短篇選』
『ハエ取紙』というちょっと恐ろしい短篇を読んだことしかなくて
てっきりデュ・モーリアみたいな怪奇方面の作家かと思っておりましたら違うのですね。
心に響くいいお話しでした。

舞台はロンドンのクレアモントホテル。
主人公はパルフリー夫人という未亡人で、脚に少し痛みを抱えていますが
まだまだ元気な老婦人です。

クレアモントホテルには、他にも4人の老いた長期滞在客がいました。
杖を手放せない、少し尊大で人を傷つけることが好きなアーバスノット夫人、
いつも編み物ばかりして、あまり人の話しに興味がないポスト夫人、
酒好きで派手な装いのバートン夫人、
そして女性たちのおしゃべりは嫌いだけど誰かと会話したいオズモンド氏。

ホテルで余生を過ごせるなんて素敵な気がしません? と思いますよね。
しかし現実はなかなか大変なようです。

毎日意味もなく同じ顔を突き合わせて過ごさなければならない長い午後、
何度も出されてすっかり食べ飽きた美味しくもない食事、
ホテルの従業員からは邪魔者あつかいされ、くだらない詮索が気になります。
親類や友人が訪ねてこなければ肩身の狭い思いをしなければなりません。

大都会のホテルに決めたのは、毎日が賑やかで楽しいだろうと思ったからなのに
出かけて行く術も元気もなくて、無為に日々が過ぎていきます。

それにホテルを終の住処にすることはできません。
動けなくなったら養老院へ行くしかないので、なんとか従業員たちに悟られまいと
大丈夫なふりをする人もいます。

そんな毎日の中、パルフリー夫人はルドという作家志望の青年に出会い
親しくなって小さな幸福を手に入れます。
ふたりでホテルの客たちにちょっとした悪戯を仕掛けたりもしました。

パルフリー夫人の心に芽生えたのは恋心のようなものでした。
母親とうまくいかず、好きな女性にも冷たくあしらわれるルドも
パルフリー夫人に温かい気持ちを抱くようになります。
たとえ彼女と会うのが老人をモデルにした小説を書くためだったとしても…

物語は老人たちのエピソードを中心にゆるりゆるりと流れていきます。
滞在客たちの顔ぶれも変わります。
そして、パルフリー夫人がホテルを去る日がやってきます、それも突然に…

映画化されてます。
パルフリー夫人とルドの恋物語みたいになっちゃってたらいやだなぁ…
いくつになっても恋するって素敵だと思うよ、健康にいいかもしれない。
でも映像で見せられたくない気がする…

それに、決して “ 恋せよ女性!” というお話しじゃないと思うんです。
若いうちはわからない老いてからの哀しさがものすごく感じられる物語で
自分の2、30年後ぐらいを想像すると泣けてくるし、すごく怖くなってきます。
うちは子供もいないし、お金もないし、どうなっちゃうんでしょう?
しかも、物語の登場人物たちには子供がいるっていうのに…

作者のエリザベス・テイラーが、父親と友人を相次いで亡くした時に
目にした苦悩をテーマに書いた物語だそうです。
作者自身も57歳と老境に近づきつつある年代ですので
いろいろと身につまされるところがあったのかもしれません。

私はどんな老後を迎えるのか…否、哀しくない老後のためにはどうすればいいのか
今から真剣に考えなくては!と思った一冊でした。
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神聖ローマ皇帝ロタール1世妃 イルミンガルド

2010-11-17 00:13:27 | ドイツ系王妃
              画はエドワード・バーン=ジョーンズが描く
                       『女子修道院長の物語』


メロヴィング家との統合なるか?
ロタール1世妃 イルミンガルド・フォン・トゥール


生年不詳~851/在位 (神聖ローマ皇后)840~851 (イタリア王妃)821~851

継承戦争の末南フランク(イタリア&ロートリンゲン)を手に入れたロタール1世の妃は
トゥール伯ヒューの娘イルミンガルドです。
ヒューはロタールのみならず、イタリアに大きな影響力を持つ人物でした。

821年にイタリア王だったロタール1世と結婚しました。

イルミンガルドが属するエチコネン家はメロヴィング家に繋がる家系と言われていました。
メロヴィング家といえば最初にフランク王国を建国したのに、ごたごたしている間に
カロリング家に王位を持っていかれちゃった家系です。

          

自分たちの方が王として正当な家系だと主張していましたので
西フランク(フランス)でもメロヴィング家と縁談を結ぼうという試みがありました。
ただエチコネン家の方は自分で主張していたみたいで、真偽は定かではありません。

イルミンガルドにはたいしたエピソードがありませんが
三女のイルミンガルデは十代後半で誘拐されています。
マースガウ伯と結婚していますが、この人に誘拐されたということだろうか?

イルミンガルドは851年に亡くなりました。
死の2年前に自ら寄付をしたエルシュタン修道院に葬られたということです。



王妃 兼 女子修道院長
ルートヴィヒ2世妃 エンゲルベルガ


生年不詳~896/在位 (神聖ローマ皇后)855~875 (イタリア王妃)851~875

ロタール1世の後を継いだ王子ルートヴィヒ2世の妃は、パルマ伯アデルキス1世の娘
エンゲルベルガでした。

エンゲルベルガはルートヴィヒに多大な影響力を持っていたそうで
彼女の実家Supponidi家はこの当時ものすごく繁栄したそうです。

        

しかしながらエンゲルベルガの痛いとこ…お子様ができなかったんですね。
872年には貴族たちがルートヴィヒとエンゲルベルガを離婚させようとしたほどです。

エンゲルベルガは、なにか自分が必要とされるポジションを得たかったのかもしれません。
868年、王家の修道院とされるブレシアのサン=サルヴァトーレの修道院長になり
896年には自分で設立したピアチェンツァのサン・シストの修道院長になりました。

修道院長や司教というのは、中世では憧れの職業だったようですよ。
特に大きかったり王家と繋がりがある教会や修道院のトップの座は
激しい奪い合いがあったそうです。
でも、王女が女子修道院長になるケースは多いですけど
王妃自らその座に就くというのは珍しいんじゃないですかね?

さて、嫡子が生まれなかった南フランクの今後が気になるところ…
ロタール1世は叔父にあたる東フランクのルートヴィヒを推していましたが
貴族たちは西フランクのカール(シャルル)を選出しました。

ルートヴィヒ2世が亡くなると、カールの忠臣ロタリンギア公ボゾ5世が
王女エルメンガルデを誘拐し結婚してしまいました。
エンゲルベルガも一緒に連れ去られ失脚してしまいます。

その後はシュヴァーベンに追放になりましたが
カールに許されて882年にイタリアの領地に戻りました。
たぶんそこで亡くなったんじゃないですかね?

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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『世界短編名作選 ロシア編』徹頭徹尾階級社会、の中で

2010-11-15 23:23:19 | ロシアの作家


イギリス版アメリカ版に続いてロシア版も買ってみました。

すごいよ、ロシア!
この階級制度の徹底ぶり、「国民は皆平等、富は公平に分配」と説く人がでてきたら
誰もがついて行きたくなる気持ちがよくわかります。

ロシアの小説を読んでいると、よく5等官とか14等官という言葉がでてきます。
これは帝政時代の官位で、役人や官僚はこれがなにより大事だったようです。
自分より上の人には平身低頭、一つでも下なら横柄で尊大に振る舞ってたみたい。
同等の人には? なるべく自分が秀でた人物に見えるように努力していた様子です。

もちろん小説ですから、そういう役人心理を面白おかしく大げさに書いているのでしょう。
それにしても職業+等官で、最初からつき合い方が決まるという世界はすごすぎる。

この一冊にもそんな物語が目白押しで、可笑しかったり哀しかったりするのですが
15篇の中から、役人の話しとは関係ない、美しいお話しを4篇ご紹介します。

『老いたる鐘つき/ウラジーミル・コロレンコ』
復活祭の日、教会の鐘楼で鐘をついたミヘイチは祈りの時間の間もそこを動かず
遠い昔の記憶に浸っていました。
今までに去ってしまった人々を思い出しながら幸福な気分でいると
いつの間にか祈りの時間が終わっていました。

『転轍手/アレクサンドル・セラフィモーヴィチ』
2日間の祭日を前にして、宿直のイワンは目が回るほど忙しいというのに
駅長が飼っている牛の世話や、上司の家の薪割りまで言いつけられます。
やっと線路の見回りを終えたイワンは、転轍機を移し忘れていたことに気づきます。
すでに前の貨物列車は通過し、その後ろを郵便列車が走っています。

上の2篇は階級なんて関係ない世界で毎日を一生懸命生きている人の最期を書いたものです。
等官も大金も知らず、日々の生活を送るだけの賃金を稼いでいる人たちですが
国家を、国民を動かしているとふんぞり返っている役人たちより
国にとっては時に重要な人たちかもしれませんね。

『ある秋のこと/マクシム・ゴーリキー』
無一文になって町を彷徨っている時、雑貨店から盗みを働こうとする女に出会いました。
ナターシャと名乗るその女は、恋人にひどい目にあわされ全ての男に悪態をつきました。
しかし、気分が悪くなった私を慰めて励まし、しっかり抱きしめてくれました。

『人間誕生/マクシム・ゴーリキー』
次の建設現場を目指して移動している時、海辺へ歩いて行くと女が産気づいていました。
いやがる女を押さえ、赤ん坊を取り上げると男の子でした。
へその緒を噛み切り海の水で洗ってやると、赤ん坊は元気に叫び声をあげました。

2篇ともゴーリキーですが、実は今まで読んだことがないのよね(と思う)
そしてぜひ他の作品も読まねば!と思いましたよ、心から。
どちらも、国も世間も関係ない、人間の本性の美しさがひしひしと伝わる力強い物語です。
こんな人たちがいるのであれば、いつかきっと国は良くなる!と信じられます。

当時の作家たちは、家柄や役職を振りかざす貴族や役人と
何もわからずそういう人たちに卑屈に接する労働者の構図に
少なからず不条理を感じていたのでしょうね。
作家自身もたぶん上流の家の出であることが多かったでしょうが
その歪んだ構図を(体験談も含めて)辛辣に書いている物語も多いようです。

だけど自分がその世界に決別するかどうかは、また別の話しだけどね…
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神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ1世妃 イルミンガルデ

2010-11-13 20:59:15 | ドイツ系王妃
                こちらは二人目の妃ユディス

間接的だけど…フランク王国崩壊へ
ルートヴィヒ1世妃 イルミンガルデ


773~818/在位 (神聖ローマ皇后)814~818 (フランク王妃)814~818

カペー家へと繋がっていくハスペンハウ伯の娘で、20歳頃ルートヴィヒと結婚しました。

彼女自身にはなんのエピソードもないんだが、彼女が生んだ3人の王子が
血で血を洗う領土奪取の争いをおこしフランク王国を分裂させたことで
西ヨーロッパの原型のようなものができ上がります。

ものすごくザックリ書いちゃうけど、せっかく祖父カール大帝が拡大した領土を
3人の王子&後妻の王子は自分の物にしたい! と激しい奪い合いに明け暮れ
結局843年に条約を結んで3人で分割することになりました。

長男ロタールが南フランク王国(イタリア&ロートリンゲン地方)
三男ルートヴィヒは東フランク王国(ライン河東側…ドイツの原型)を譲り受けました。
次男ピピンも争っていましたが、決着がつく前に亡くなりました。

後述の四男シャルルは西フランク王国(ライン河西側…フランスの原型)を
手にしています。

イルミンガルデがせめて3兄弟仲良く育てていれば
EU並にでっかい王国がもうしばらく続いたかもしれないね。


       


さらに継承戦争を煽る
ルートヴィヒ1世妃 ユディス


795~843/在位 (神聖ローマ皇后)819~840 (フランク王妃)819~840

ユディスはイルミンガルデが亡くなった翌年の819年にルートヴィヒと結婚しました。
ユディスの妹エンマも先王妃の王子で後の東フランク王ルートヴィヒ(2世)と
827年に結婚しています。

ユディスの政治的影響力がいかほどかは定かでありませんが
ルートヴィヒ1世と結婚した後、彼女の実家(ヴェルフェン家)は
帝国の要職を手にしています。

823年に王子カール(シャルル)が生まれたのですが
先王妃イルミンガルドがすでに3人の王子を遺していましたので
ユディスは我が子に王国が分け与えられるか気が気ではありませんでした。

結局、ユディスがルートヴィヒに「うちの子にもちゃんと領土をちょうだいよ」と
約束をせまったことで、先王妃の王子たちを巻き込んだ継承戦争がおこります。

こんなに広いんだから少しぐらいくれたって…という謙虚な気持ちで要求したのか
うちの子だって王子なんだから平等にくれ! と大きく出たのかによって
他の王子たちの対応も違っていたかもしれませんね。
どれぐらい要求したんでしょう?

ユディスは830年に不貞を告発されてポワティエの修道院に3年間投獄され
その後トルトーナに追放されました。
1年後には和解して戻って来たみたいです。

投獄後は大人しくしていたんでしょうか?
特にエピソードはありませんけど…あ! 息子を煽っていたんですね。

ルートヴィヒ1世の死から3年後の843年に亡くなり
トゥールのサン=マルタン聖堂に葬られました。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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神聖ローマ皇帝カール1世大帝妃 ヒルデガルド

2010-11-13 20:56:10 | ドイツ系王妃
子供はたくさん生みました
カール1世大帝妃 ヒルデガルド


758~783/ (神聖ローマ皇后)在位せず (フランク王妃)771~783

クライヒガウ伯ゲオルドの娘で、デジデレータと離婚後すぐに結婚したみたいです。
特に書くことないんですけど…肖像画があったのでね。
お子様9人生まれています。

       


敵国の王妃になった
カール1世大帝妃 ファストラダ


765~794/(神聖ローマ皇后)在位せず (フランク王妃)784~794

ファストラダはカール大帝の敵国の貴族の娘だったみたいです。
捕まったのか投降したのか、あるいは敗戦国からの分捕り品なのわかりませんが
3番目の妃に選ばれ784年に結婚しました。

ファストラダは794年に亡くなりましたが、代々のフランク君主とその家族が眠る
サン=ドニ大聖堂にも聖アルヌルフ修道院にも葬られませんでした。
マインツの聖アルバン修道院に葬られたのですが
これはマインツ大司教Richulfの希望だったようです。
修道院は786年に建ったばかりでしたので、王妃を葬ってハクをつけようかなぁ…
なんて思ったのかしら?

ファストラダの墓標は、今でもマインツ大聖堂の南の聖堂で見られるそうですよ。

この後カール大帝はアレマンネン族の伯爵の娘ルイトガルドと再婚しましたが
彼女は800年に亡くなっています。

それ以外に子供を生んでいる愛妾が少なくとも5人はいまして
その中のゲルスヴィンダを妃とするむきもあります。
でも子供が生まれた774年頃にはヒルデガルドが存命中です。
いくら結婚制度がゆるいとはいえ神聖な帝国の皇帝が重婚するかしら?

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント (1)
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神聖ローマ皇帝カール1世大帝妃 ヒミルトルーデ

2010-11-11 00:03:48 | ドイツ系王妃
                こちらは8世紀のドイツの貴族

まだ結婚制度がうるさくなかったらしい・・・
カール1世大帝妃 ヒミルトルーデ


742頃~780頃/在位せず

以前ハプスブルク家になってからの神聖ローマ皇后をご紹介したのですが
神聖ローマ帝国はもっと前からありました。
そこで帝国誕生からの皇后を紹介したいと思います。

そもそも神聖ローマとは…長くなるからものすごくはしょりますけど
395年に古代ローマ帝国分裂後、旧帝国は東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂します。
後々ビザンツ帝国となる東ローマはおいといて、西ローマ帝国は覇権争いの末476年に滅亡、
メロヴィング家が樹立したフランク王国が次第に勢力を増していきましたが
751年にカロリング家のピピンがフランク王となり、さらに勢力を拡大、
息子カール(シャルルマーニュ)の頃に西ヨーロッパのほぼ全てを掌握します。

当時のローマ教皇レオ3世は教皇の権力復活をかけて西ローマ帝国復活を思いつき
カールを皇帝に推挙、カールは800年に西ローマ皇帝として戴冠しました。
だから厳密にいうとまだ神聖ローマ帝国ではないのですが
キリスト教の最高峰である教皇がお墨付きを与える皇帝の神聖な国なわけだから…

で、カール大帝ですが3~6回結婚しています。
なぜに曖昧な数かというと、文献によって相手の女性の扱いが違うからです。

まずヒミルトルーデ、彼女も正式に結婚したかどうか不明です。
どちらかというと “ 内縁の妻 ” 的な要素が多いように思われます。

第一にアルザスの貴族らしいということ以外素性がほとんどわからないことですね。
彼女の名はほとんど文書に登場していないということです。

第二に、カールのフランク王即位の時にはすでに側にいたとされるのに
妃としての記録が一切無いことです。
カールの母ベルトラダは、ちゃんと王妃としての記載がありました。

第三に、同盟の証しとしてカールがランゴバルト王女デジデレータと
結婚することになった時も生存中で、しかも結婚式の時も側にいたらしいこと。
うーん…やはり正式な妻ではなかったくさいですね。

しかし、やはりカールとデジデレータの結婚後は宮廷から退けられたようで
一切の記録がなくなります。

ニヴェルの修道院で見つかった40代女性の遺体がヒミルトルーデとされているそうで
調査の結果770年以降までは生きていたようです。

お子さんもふたり生まれているのですけどね…
こんなに昔から家柄で正式な妃になれる女性となれない女性が分けられていたなんて…

ともあれあまり結婚に関してうるさくなかったみたいですね。
ローマ教皇レオ3世からして自堕落な生活を送っていたらしいからしかたないかも。

      

1年で里に帰されるとは・・・
カール1世大帝妃 デジデレータ


生没年不詳/ (神聖ローマ皇后)在位せず (フランク王妃)770~771

そんなわけで、カール大帝はヒミルトルーデがいるにもかかわらず
ランゴバルドとの同盟のためデジデリウス王の王女デジデレータと結婚しました。
が、両国の関係は良くなるどころか悪化し、翌年結婚が無効になりました。

フランク王国とランゴバルド王国はその3年後、本格的に戦争に突入します。

ちなみに、デジデレータの妹ゲルペルガはカール大帝の弟で共治王のカールマンと
結婚してまして、カールマンが亡くなった771年に、やはり故郷に逃げ帰ってます。

二人の娘が出戻りになってしまうなんて…ランゴバルド王のご立腹も致し方無し、
という気がします。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 堀越孝一氏『中世ヨーロッパの歴史』
      Wikipedia英語版)
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デンマーク王フレデリク6世愛妾 フレデリッケ

2010-11-09 22:35:19 | 王の寵姫・愛妾
王妃(しぶしぶ)容認の愛妾
ダネマンド夫人 フレデリッケ


1790~1862/愛妾 1805~1839

素性がわかりません… 一説によると窃盗で逮捕されている父親の釈放を願い出て
摂政だったフレデリクに会うために宮殿を訪れた際、見初められたと言われています。

フレデリクの妃マリー・ソフィーは毎年のように妊娠していてヘトヘトでした。
フレデリクはフレデリッケに妻の代わりをするように…と申し付け愛妾にしました。

         

父親は釈放され、フレデリッケはダネマンド夫人という名をいただいて
フレデリク6世が用意した屋敷で暮らすようになりました。

ダメもとでやってみるものね!
釈放を願い出て屋敷の女夫人、明日の暮らしを心配してたのに贅沢三昧、
何ごともあたって砕けろの気持ちで臨まなければ!! という教訓になりました。
(もしかしたら作戦だったかもしれませんけど…)

フレデリクは毎日のようにフレデリッケのもとを訪れました。
妃マリー・ソフィーには「妊娠してるから相手ができないだろ~が!」と言って
フレデリッケとの関係を容認するようにせまりました。

しかし王の愛を受けていたはずのフレデリッケがミステイクを犯します。
フレデリク6世が1814年にウィーンを訪問し翌年帰国すると
なんと! フレデリッケが妊娠してました。 父親は不明です。
「俺の子じゃない!」と思ったフレデリク6世はフレデリッケを遠ざけました。

でも忘れられなかったんですねぇ…
結局1818年にふたりはヨリを戻し、フレデリッケは大佐夫人と同等の位まで与えられました。
仲直りのプレゼントでしょうか?
生まれた子供たちはみな爵位を与えられたり貴族のもとへと継ぎました。

1839年にフレデリク6世は亡くなります。
フレデリッケは王の未亡人マリー・ソフィーとともに柩に付き添いました。

               
                  こちら晩年のお写真

フレデリク6世は難局のデンマークにあって人気の高い王でした。
公妾ではないにしても長年王に連れ添ったフレデリッケが亡くなると
軍隊式の葬儀が行われ提督並みの敬意が払われたそうです。

フレデリク6世は、政治的に信頼がおけて子供もたくさん生んでくれた王妃といい
思ったより無欲で愛情を注げる愛妾といい、バランスよい女性環境だったんですね
しかもそのふたりが(仲良くはなくても)いがみ合わなかったなんて…果報者ですな。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの歴史をわかりやすく
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね


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『夜の姉妹団』やりすぎ創作料理っぽい一冊

2010-11-07 19:28:10 | アメリカの作家
THE SISTERHOOD OF NIGHT 

副題が “ とびきりの現代英米小説14篇 ” となっているのですが
12篇中8篇がアメリカの作家のものなのでアメリカのカテゴリーに入れてしまいました。

“ 現代 ” というのが現在(2001年当時)活躍中の作家という意味なのか
はたまたコンテンポラリーな作家という意味なのか…
ニュアンスとしては後者だと思います。
つまり、根っから現実的な私には苦手なジャンルでした

普通に書いて下されば面白いものもあると思うんだけど
随所に新しい試みがあるものだから、何が言いたいのか
よくわからなくなってしまうんですよね。

『お願いランキング』という番組でレストランの没メニューを紹介するコーナーがあって
「あ~、そんなことしなきゃ美味しそうなのに」という料理が登場します。
この本の物語にはそんな残念さが漂っている気がします。
文学を学んでいる方や、探究心旺盛な方には興味深い内容かもしれませよ。

比較的理解しやすかった物語をいくつかご紹介します。

『夜の姉妹団(The Sisterfood of Night)/1994年 S・ミルハウザー)』
町の少女たちが夜な夜な集まって何をしているのか? 大人たちは知りません。
裸で踊るとか、動物の血を飲むとか、おぞましい噂が飛び交います。
そんな中、雑誌に掲載されたある少女の投稿がセンセーションをおこします。

何をしているかわからない、というのは周りに恐怖感を与えるものですよね。
よくニュースでとりあげられる、所謂 “ カルト ” と呼ばれる集団が怪しまれるのも
秘密主義が原因のひとつになっている気がします。
少女たちの行動は、自分が十代の頃を思い返せばそんに不思議では無い気がしますけど…

『シャボン玉の幾何学と叶わぬ恋(The Geometry of Soap Bubbles and Impossible Love)
                      /1993年 R・ゴールドスタイン』
浮かれたことが好きな祖母サーシャと、生真面目な古典の教師の母クローイと暮らしている
26歳のフィービーは、シャボン玉の幾何構造に魅せられ研究に熱中しています。
彼女は8歳のとき、80代のペノワイエ氏に叶わぬ恋をしました。

祖母、母、娘の三代が暮らすって理想的じゃないですか? 実の母娘に限りますけどね。
世代も性格もまったく違う女性たちが醸し出す雰囲気がクールな物語です。
大姑、姑、嫁の三代にわたる寡婦だったら恐ろしいことになりそう…

『ラベル(Labels)/1993年 ルイ・ド・ベルニエール』
なにか趣味を持たねば…と探していた時、キャットフードのラベルに惹かれました。
その後はラベルを集めスクラップをする毎日です。
とうとう妻も出ていき、仕事もクビになり、食料を買う金も底をつきました。

食料は買えないけどキャットフードは買うのよ…コレクターのカガミよね。
想像がつくと思うけど、主人公はキャットフードに手を出します。
でもただ食べるだけじゃないというところがミソ! ある意味やり手です。

私がどこらへんに戸惑うかというと、急に場面や話しが変わったりして
起承転結もなにもあったものじゃないところですかね?

ハネムーンに行ったら知人が大勢押しかけて来て長い間夫にたどり着けなくなったり
劇作家ジョン・フォードの戯曲を映画監督ジョン・フォード(別人)がシナリオ化したり
ボルヘスの短篇『南部』のその後を知りたくて “ 物語 ” を訪ねてみたりとか…
まさに「創作」という言葉がぴったりの作品。

あまりにも現実離れしすぎていて、登場人物に共感することもできないし
自分に置き換えて涙したり喜んだりすることもできない小説というのは
楽しめないし、読みがいがないんですよね。
フィクション、ファンタジーとはいっても、入り込める物語が好きでございます。

いや、所詮想像の世界なんだから現実を遠く離れてありそうも無い話しを読みたい!
という読者には面白い一冊なのではないでしょうか?

ところで最後にひとつ! D・バーセルミのすごく短い小説
『ドナルド・バーセルミの美味しいホームメードスープ』というお話しは
もはやクノールの広告にしか思えないんだけどタイアップ?
クノールはこれをもとにCFを1本作ってみてはいかがでしょう?
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デンマーク王クリスチャン7世愛妾 アンヌ

2010-11-06 21:57:53 | 王の寵姫・愛妾
国家を揺るがす女遊び
“ スタブレット ” アンヌ・カトリーネ・ベンターゲン


1745~1805/愛妾 1767~1768

アンヌは兵士ヨハン・エルネスト・ベンターゲンの妻アンヌ・マリーの私生児です。
父親は名付け親のブラウンシュヴァイク=ベーヴァン公ゲオルク・ルートヴィヒだと
言われていました。

母の嫁ぎ先である将校の家で育てられていましたが、8歳の時に母親が働いている
ブーツ工場に逃げ込み “ スタヴレット(ブーツ)” というニックネームがつきました。

      

アンヌは美しくて背が高く魅惑的な容姿をしていたようです。
肌が褐色で、人々は彼女の母親がアフリカの生まれだと信じていました。

アンヌは、貧しいけれど美しく、気位の高い少女が選びがちな道に進みます。
女優と名乗ってはおりましたがそれは表向きで、高級娼婦になりました。
英国やオーストリアの大使に囲われていました。

クリスチャン7世は若い頃から取り巻きたちと遊び歩いていましたので
その頃にアンヌと出会ったのだと思われます。
王なのに彼女を訪ねて売春宿に出入りしていました。
アンヌは1767年から愛妾になりました。

クリスチャン7世はその前の年にカロリーネ・マチルデと結婚していましたが
アンヌと連れ立って王立劇場の舞踏会に現れたりして王妃は放ったらかしでした。

アンヌったら、ただの遊び相手として栄華を謳歌していればよかったものを
クリスチャン7世を焚き付けて時の内閣を倒そうなどとしたものだから
危険人物と見なされるようになってしまいます。

しかもクリスチャン7世がアンヌを王宮にまで連れてきたものだから宮廷大騒ぎ!
ふたりのことはスキャンダルになり、アンヌを排除しようという考えが膨らみました。
追放にはフレデリク5世未亡人ユリアーネ・マリーも加わって
1768年、とうとうアンヌは逮捕されました。

出生云々で差別するわけではありませんが、やはり庶民の家の出の娘です。
なんら政治的後ろ盾も知識もないまま、好き嫌いだけで内閣を倒そうとしても
上手くいくわけがありませんよね。
クリスチャン7世からして宮廷内では見限られていたような状態なのに…
急に宮廷なんかに出入りするようになって浮かれてしまったのでしょうか?
大勢の人にへーこらされて、自分に力があると錯覚してしまったのかもしれません。

ホルシュタインのノイミュンスターに投獄されたアンヌでしたが
丁重に扱われ2年後からは年金も支給されました。
ただクリスチャン7世に会われては困るので王家の監視下に置かれていました。

クリスチャン7世も1768~1769年の欧州旅行の際にアンヌに会おうとしましたが
失敗に終わりました。
以後ふたりは会うことはなかったようです。

アンヌはさっさと割り切ったようで、1670年には弁護士メイズと結婚し15年後に離婚、
その年に15歳年下の音楽家シュエーダーと再婚しています。

その後はわかりませんが、たぶん押し出しの強い貫禄充分のパトロンとして
一生を送ったんじゃないかなぁ…なんて考えられます。
相手の音楽家も有名じゃないみたいだし、尻にしいていたんじゃないかしら?

1805年にホルシュタインで亡くなりました。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの歴史をわかりやすく
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