まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スペイン王アルフォンソ13世妃 ビクトリア・エウヘニア

2009-05-30 11:13:44 | スペイン王妃・王女
王国の終焉を見た王妃
アルフォンソ13世妃 ビクトリア・エウヘニア・デ・バッテンベルク


1887~1969/在位 1906~1931

ビクトリア・エウヘニア(以下エナ)の父ヘンリーは貴賤結婚で生まれた子で
バッテンベルク爵位は母ベアトリスヴィクトリア女王王女だったことで得た称号でした。
1896年のアフリカ遠征の際に父親が死亡したので
母とともにヴィクトリア女王のもとに身を寄せて少女時代を送っていました。

      

1905年にアルフォンソ13世が英国を訪問した際
伯父エドワード7世主催の晩餐会が開かれまして、若きスペイン王がエナに目を留めます。
晩餐会の会席者は、アルフォンソ13世がコンノート公女パトリシアに求婚していたのを
知っていましたが、あきらかに彼の心がエナに移ったことに気がつきました。
アルフォンソ13世は即エナに求婚しはじめましたが
スペインに帰ってからも熱烈な手紙を送り続けました。 素早い変わり身…

しかし王太后マリア・クリスティネは息子が選んだ相手が気に入りませんでした。
まずは家柄、王太后はバッテンベルク一族は王侯貴族ではないと見なしていました。
それから宗教、スペイン王家は代々カトリックですがエナはアングリカンでした。
またエナの兄が血友病でエナの体調や遺伝のことが心配されました。

1年かけて説得しましたがアルフォンソはあきらめません。
とうとう根負けした王太后は自らペンを取り、エドワード7世とエナの母ベアトリスに
息子の気持ちを伝える手紙を送りました。
エナがカトリックに改宗したり英国の王位継承権を放棄したりという取り決めがあり
1906年、晴れてアルフォンソ13世とエナは結婚することになりました。

アルフォンソ13世はダンディで人当りもよく、人気はあったらしいのですが
スペインは急速な都市化によって貧富の差が広がり、不満分子を多く抱えていました。
結婚式から宮殿に帰る馬車に爆弾が投げ込まれ、王と王妃は無事でしたが
警護兵が亡くなり、エナのドレスにも血の跡が残ったそうです。

手荒い歓迎で始まったエナの王妃生活ですが、人々にあまり人気がなく孤立しがちで
王子が生まれるまでは好転しませんでした。
しかし翌年生まれた長男は危惧されたように血友病で、その後生まれた6人の子女のうち
末子が血友病を、次男が障害を抱えていました。

アルフォンソ13世は結婚前の熱烈ぶりが嘘のように冷たくなり浮気を繰り返します。
相手の中にはエナのいとこのベアトリーチェもいたらしいですよ …
エナは慈善活動に打ち込むようになっていきました。

1931年、左派の躍進によって共和制が始まりアルフォンソは廃位されます。
追放された王一家はフランス、イタリアなどで過ごしていましたが
ほどなくエナとアルフォンソは別居するようになり、エナはイギリスへ向かいました。

ところが1939年に第二次世界大戦が始まるとエナは英国から出ていくよう言われます。
スペインは参戦はしていなかったのですが、国内でファシズムが台頭していて
ナチス・ドイツ寄りだと見られていたのです。
エナはスイスのローザンヌに移りました。

エナはスペインへは一度だけ一時帰国しただけで、1969年に亡くなりました。
エルコリアルの夫や子供たちの側に埋葬してほしいと望んでしましたが叶わず
ローザンヌの教会に埋葬されました。

              
                 こちらがお写真です

スペインに嫁にいかなければねぇ… 英国で平穏な人生が送れたかもしれないのに。
でも渦中の人から熱烈な求愛をされるというのは若い女性にとっては嬉しいものです。
あとさき考えずにほだされちゃうってのは分からないでもありませんね。

スペインは、エナの死から6年後の1975年、孫にあたるファン・カルロス現王が即位して
王政が復活し、1978年から立憲君主国になりました。

(参考文献 ピエール・ミケル『ヨーロッパ最後の王たち』 Wikipedia英語版)

六つの国の王家の終焉を描いた一冊
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



             
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『ソフィーの選択』愛と狂気のカタストロフィ

2009-05-30 00:27:02 | アメリカの作家
SOPHIE'S CHICE 
1979年 ウィリアム・スタイロン

トラウマ、パラノイア、サイコパス…メンタルな病のことはよく分かりませんが
なんだかそんな言葉が頭の中をかけめぐる1冊でございました。

舞台は第二次世界大戦後のニューヨーク、ブルックリン。
作家を夢見る青年スティンゴとひと組の恋人たちの、ある夏の交流を描いたものです。
スティンゴは同じ下宿で暮らすポーランド人女性のソフィーに惹かれてしまうのですが
彼女の恋人ネイサンの人柄にも魅せられて、友達として付き合っていこうと決めます。
三角関係のおはなし?

ネイサンは本当に魅力的で頭脳明晰、その上並外れた記憶力を供えているのですが
同時に狂気を抱えていて、自分が偉大な科学者であるという妄想に支配されています。

ソフィーは幼いころから誰かに支配されて生きて来た記憶を消し去ろうとしながらも
逃れられることができずにいます。
少女時代は大学教授の父親に、戦時中はナチスに圧さえつけられてきました。
新天地アメリカではネイサンの愛と狂気に、自らがんじがらめになっています。

スティンゴは22歳の健全な青年ならではの「早く童貞をなくしたい」という思いに
捉えられて妄想の虜になっています。
ネイサンやソフィーとはくらべものには…でも男性には深刻なことなんでしょうね?

お上品ぶるわけではないのですけれど、露骨な性描写はあんまり好きじゃないですよ。
『ソフィーの選択』では(日本語訳ですけど)あまりにストレートな(というか口汚い)
表現が数多く登場して少々面食らいましたが、読み終えてから考えると
必要な表現だったのかな、と思い直しました。

ネイサンの唐突な暴言や暴力も、ただ泣いて付き従うだけのソフィーも
スティンゴの無邪気な思い込みも、なにかというと出てくる激しい性描写も
全てが悲劇的な終焉へのアプローチに思えてきます。

後半はアウシュビッツの描写が多くなっていきます。
たしかに酷い、非道です。 心に刻んでおかなければならない部分だと思います。
でも内容がアウシュビッツのレポートにとどまっていたら
私はたぶんこの本を最後まで読もうという気にはならなかったんじゃないかなぁ?
脚色があるから余計胸にせまる部分があるような気がします。

作中にありましたが、戦時中アメリカの当面の敵は日本だったそうですよ。
だからアウシュビッツのことは戦後に知って怒りがこみ上げてきたんですって。

スタイロンは実際にアウシュビッツを生き延びてきたポーランド人女性と
ブルックリンの同じアパートで暮らしたことがあったのですが
物語のように親しくはならなかったそうです。
でも彼女からなんらかの強烈な印象を受けたのかもしれませんね。
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スペイン王アルフォンソ12世妃 マリア・クリスティネ

2009-05-29 00:34:22 | スペイン王妃・王女
前妻の影を乗り越えて・・・
アルフォンソ12世妃 マリア・クリスティネ・デ・アウストリア


1858~1929/在位 1879~1885

アルフォンソ12世はメルセデスの死後、一時は死に直面するほど打ちのめされたのですが
なんとか持ち直したということで、首相は「そろそろ新しい妃を…」と言いだしました。

首相が推したのはメルセデスの8歳年上の姉マリア・クリスティネで
なんでもメルセデスに酷似しているところが多いということでした。
そこで彼女との婚約が調ったのですが
なんてこと 彼女も婚約中に結核で亡くなってしまいました。

そんなわけで、傷心のアルフォンソ12世は遠縁のマリア・クリスティネとの縁談が
持ち上がった時には「もうどうでもいいよ」という感じでそっけなく承諾したそうです。
ふたりはアルフォンソの亡命中にウィーンで出会っていたかもしれませんが不明です。

      
アルフォンソ12世は母親イサベル2世と違って人望もあつく、難しい時期にあった国政も
上手く舵をとった名君でしたが、27歳で、やはり結核で亡くなってしまいました。
遺されたのは王女ふたりとマリア・クリスティネのお腹の中にいた子だけでした。

王位の継承は保留になって、マリア・クリスティネが摂政につきました。
生まれる子が王子なら王になり、王女ならば長女のマリア・メルセデスが女王につきます。
(しかし長女に前妻の名をつけられちゃうあたり、ムッとしたりしなかったのかしら?
 貴族の世界はけっこう忍耐がいりますね)
半年後王子が生まれてアルフォンソ13世として即位し、マリア・クリスティネも
引き続き摂政として表舞台に留まりました。

これといってエピソードがないところを見ると、若くして未亡人になった王妃にありがちな
寵臣との色恋沙汰や権力の濫用みたいなことはなかったのかもしれないですね。

1902年に摂政を退きましたが、息子アルフォンソ13世はちょっと頼りない王だったらしく
ヤキモキしたんじゃないかしら?
1929年に71歳で亡くなり、アルフォンソ12世の眠る王家の墓所に葬られました。
2年後の息子の退位や共和制への転換を見ずにすんで幸せだったかもしれません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『バベットの晩餐会』セピアカラーが似合う

2009-05-29 00:34:05 | その他の国の作家
BABETTE'S FEAST 
イサク・ディネーセン(カレン・ブリクセン)

アカデミー賞とったってことですが、どんなふうに映画化したんだろうか?
かなり地味目な仕上がりになりそうな気がするんですけど…
モノクロームというかセピアカラーの映像が目に浮かぶ…今度観てみましょう。

『アフリカの日々』は持っているのですが覚えてないんです。
ヘミングウェイの『移動祝祭日』でディネーセンのことを読んだら気になったので
とりあえずこちらを手に取ってみました。
表題の他1篇が収められています。

『バベットの晩餐会(Babette's Feast)/1958年』
ノルウェーの小さな町の山麓にマチーヌとフィリッパという老姉妹が暮らしています。
ふたりは厳格な宗教指導者である父の教えに遵って世俗の快楽に背を向けてきました。
姉妹のもとで長年勤めてきたバベットはフランスからの亡命者でしたが
ある日宝くじで1万フランという大金を手にします。
バベットの願いを聞き入れた姉妹は、亡き父の生誕百年祝いの料理を
彼女に任せることにしましたが、キッチンに海亀などが運ばれて来たので
たいそう不安になり、バベットが魔女ではないかと思い始めます。

読む前には『美味しんぼ』みたいに料理の説明が多いのかと思いましたが違いました。
あらすじをさらっと書いちゃったけど、本当はすごく情感豊かな物語です。
料理は芸術なのか些末な家事にすぎないのか? バベットと姉妹の対比が興味深いですね。
言わんとすることは “ 贅沢と浪費は違うのだ ” ということになりますでしょうか?

『エーレンガード(Ehrengard)/1963年』
120年前にドイツのある公国でおこった出来事を老貴婦人が語ります。
孫が早く生まれてしまうことを取り繕うとした大公妃は、息子と気が合う画家のカゾッテに
相談をもちかけ、太子妃を人里離れた城に匿い出産をさせることにしました。
子供が無事生まれた後は3ヶ月間、誰の目にも触れさせないようにしなければなりません。
カゾッテは妃の侍女に将軍の娘エーレンガードを推薦しました。
閉ざされた城で過ごすうち、カゾッテは指一本触れずに
エーレンガードを誘惑したいと思うようになりました。

早いはなし、公子が結婚まで待ちきれなかったもんで、子供が早く生まれちゃう!という
醜聞をどうくい止めようかということから始まる物語なんですけどね。
語り手は物語を3つに分けて聞かせているんだけれども、読み手にしてみたら
なんだか物語のテーマが徐々にずれていってるような気がしないでもない…
カゾッテとエーレンガードの関係が骨子だということは分かりますが
他に目を奪われる要素が多すぎると思うのよね、短篇にしては。
恋愛小説としてもお家騒動を題材にした小説にしても物足りない気がします。
舞台やキャスティングはいい感じなんだけどなぁ…

落ち着いた文体でとても好感が持てる文章だと思いました。
沸き上がるものはありませんけど心穏やかに読めたと思います。

バベットの晩餐会 筑摩書房


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『林檎の樹』掃いて捨てるほどある…

2009-05-28 00:36:04 | イギリス・アイルランドの作家
THE APPLE TREE 
1916年 ジョン・ゴールズワージー

裕福な都会の青年と純朴な田舎の娘の恋物語は何百とあるんじゃないかしら?
結末は違うにしても始まりはだいたい同じような気がするんですけど…
どれだけ風景を美しく、そして男性を善良に描けるかがポイントです。

旅の青年がいるでしょ、(美しい)娘に会うでしょ、純情さに惹かれて
恋を打ち明けて、結婚しようとか言って深入りするんだけど
やはり住む世界が違うななんて思って立ち去ってしまうわけよ。

この間ほとんど男の思考で物語は進んでいくんだけど、かなり自分に都合がいいよね!
どんなに話しをきれいにまとめても絶対的に男が悪い

だって女性の方は都会からやって来た、洗練されて賢そうで裕福な若い紳士に
恋を囁かれてその気になるなって言う方が無理じゃないですか?
それでなくても純真無垢に育ってきたことになっているというのに。
頭ではどんなに「都会の男に気をつけろ!」と分かっていても心はそうはいかないのよね。

この物語でも主人公フランクは農場の娘ミーガンに恋して相思相愛になるのですが
きっと都会に連れて行っても会話についていけず “ 彼女が ” 不幸になるから…と
勝手に結論を出してしまいます。
本当は友人の妹ステラに心奪われていってるんですけどね。

捨てられた女性の方が恋に破れて哀しい人生を送るのか
やけくそになって世間的に堕落した女性になっていくかは物語によって違いますけど
いずれにしてもその種を蒔いたのは世間知らずの坊ちゃんたち、いい気なもんだ。
男と一緒に歩いたってだけでキズもの扱いされる田舎に置いていかれても
この先どうやって生きていけというのかね?

さて、ミーガンはどんな道を進んだのでしょうか?

正直言ってキスだけですんで良かったじゃない…
フランスの話なら子供できちゃってますから、と言いたいところですが
たった百年前のことですけど、女性の操って大切なものだったんですねぇ…

林檎の樹 新潮社


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スペイン王アルフォンソ12世妃 マリア・デ・ラス・メルセデス

2009-05-27 01:54:13 | スペイン王妃・王女
初恋を実らせた王妃
アルフォンソ12世妃 マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・オルレアンス


1860~1878/在位 1878

この方、名づけ親はイサベル2世なんですが、すっっっごく長い名前がついてます!
本当はアルファベットで350~400字ぐらいあるんです。 ジュゲム状態…

それはさておき、マリア・メルセデス(以下メルセデス)はフランス公女ですが
マドリッドで生まれてセビリアで幼少時代を送りました。
父のモンパンシェ公アントワーヌがイサベル2世の妹ルイサと結婚してから
スペインで暮らしていたためです。 マスオさん?
イサベル2世の時にも書きましたが、アントワーヌは王座を狙っていたので
スペインで暮らしていたものと思われます。

しかしその物欲しさがミエミエだったのか王宮に招かれることはめったになく
メルセデスもセビリアから出ることはなかったようです。

      

1868年にイサベル2世が失脚するとモンパンシェ公一家もパリに移りましたが
その時にいとこ同士のアルフォンソ(15歳)とメルセデス(12歳)は
初めてちゃんと会ったらしく、いきなり恋におちちゃいました

イサベルは本当はマドリッド公女ビアンカと結婚させたかったのですが
アルフォンソは「好きでもない女と結婚するぐらいなら一生結婚しないぜ!」という
さすが十代!な熱い言葉をのこしてスペインへ発ってしまったため
メルセデスとの結婚を許しました。

1878年、ふたりは晴れて結婚しました。
メルセデスは “ アンダルシアの闇夜のような漆黒の瞳と黒髪を持つ美しい貴婦人 ” と
大絶賛されたそうです。

             
             こちらがお写真です。ちょっと地味ですね

そんな幸せいっぱいのふたりでしたが、ハネムーンから帰ってしばらくすると
メルセデスが結核にかかります。
6ヶ月後に流産をしますが、それが命取りになってしまいました。
(なんだか…スペイン王妃の死因、結核が多くない?
 スペインて暖かそうで結核なんて無縁な病の気がしますが…)
アルフォンソ12世は死にものぐるいで医師団を鼓舞したそうですが
メルセデスを救うことはできず、あと2日で18歳の誕生日という日に亡くなりました。

アルフォンソ12世は悲嘆のあまり命が危なくなったそうですよ。
メルセデスは嫡子を生まなかったため王家の墓所に葬られなかったんですけど
アルフォンソは王様なんだからさぁ、そういうのなんとかできなかったのかしらね。
そんなに愛していたのなら…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『シスター・キャリー』中流的欲望の行方

2009-05-27 01:51:05 | アメリカの作家
SISTER CARRIE 
1900年 セオドア・ドライサー

おもしろかったですよ
田舎から都会へやってきた若い女性の、ありがちなサクセスストーリーともいえるし
浅はかなことをしでかした中年男性の転落という、よくある話ともいえます。

キャリーは憧れを胸に、大都会シカゴの姉夫婦の家に身を寄せた18歳の女性ですが
抱いていた理想と現実のギャップに戸惑い、とうとう田舎に帰されそうになります。

それで、上京する汽車で出会った羽振りのいいドルーエという男性と再会すると
誘われるままに同棲し、少し不満を覚えたところへドルーエの知人のハーストウッドという
40歳手前の高級酒場の支配人が現れると、みるみる間になびいてしまいました。

いきなり慎重さを欠いたハーストウッドの浮気は妻に知れて離婚訴訟をおこされます。
しかもキャリーにも家庭持ちだということがバレて別れを告げられふんだりけったり
ふとしたことから店の大金を持ち出したハーストウッドはキャリーを嘘で連れ出して
ニューヨークへ逃げ出すのですが、キャリーも結局承諾してしまいます。

ここから紆余曲折の末、キャリーは劇団の女優になって人生の坂を上り始めて
ハーストウッドはあれよあれよと転がり落ちていくのですけど…

キャリーはというと、帝政期に描かれた娼婦のようなタイプの女性ではなくて
流されるまま次々と男性と不適切な暮らしをしてしまって、生活のために女優になったら
人気が出て…という感じでして、サクセスストーリーの主人公にしては
ガッツが感じられないのよね。

じゃあ男を手玉にとった女が落ちぶれて散々な結末を迎えるのか、というとそうではなくて
なんだかキャリーはこの先堅実に生きて行きそうよ

ハーストウッドは、湯水のように女につぎ込んだ末の破滅ではなくて
失職して、事業失敗して、就職難で仕事無くて、というタイミングの不幸さが招いた
成れの果て、という感がありまして「ほ~ら、ごらんなさい」というのも可哀想かな、と…
そりゃキャリーに目がくらんだばっかりにバカな考えをおこしたからなんだけどね。

キャリーとハーストウッド、ふたりの行く末はあまりにもアンバランスなんじゃないかと
思ったりもしますが、その対比がおもしろいのかもしれませんね。

やはり貴族社会のないアメリカ、ロックフェラー家とかヴァンダービルト家みたいに
貴族より金持ちな家はあったでしょうが、同じような内容のフランス小説に比べたら
ゴージャスの焦点が定まっていないという嫌いはあるような気がします。
それともゴージャスのレベルが低いというのかしら?

“ 都会派小説のはしり ” と言われているということで、中流階級の増加にともなう
小市民的なゴージャスの蔓延を反映していると考えればよいのでしょうか?

シスター・キャリー〈上〉岩波書店


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まずは上巻から…
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スペイン王アマデオ妃 マリア・ビクトリア

2009-05-26 01:23:01 | スペイン王妃・王女
一瞬の王座
アマデオ妃 マリア・ビクトリア・デ・ボッツォ


1847~1876/在位 1870~1873

成り行きが良く分からんのですが、イサベル2世が失脚すると反対派は
イサベルの息子アルフォンソではなくて、サヴォイア家からアマデオを迎えました。

なぜかしら? 家系図を辿っていってるんですけど私には繋がりが見いだせません。
アマデオの父ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はイタリア統一を成し遂げていますが
その手腕が買われて息子に白羽の矢がたったのかしら?
それともナポレオンがらみ?

しかし混乱状態のスペイン、1870年に即位したアマデオは
3年でリタイアしてイタリアに去りました。

即位前の1863年にチステルナ公子の公女マリア・ビクトリアと結婚しています。
式にはイタリア中の名だたる人たちが集まったらしいですよ。

スペインからイタリアに戻って3年、29歳で亡くなりました。

      



             
ナポレオン一族というだけで・・・
アマデオ妃 マリア・レティシア・ボナバルテ


1866~1926/在位せず

この方、Wikipediaの英語版がなくてフランス語じゃさっぱり分からないので
書くことがないんですけどナポレオン一族ということは分かりました。

母クロチルダはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の王女で
アメデーオとは伯父と姪の関係になります。 1888年に結婚したらしいです。

ところで、この時期名だたる名家の子女たちがナポレオン家に嫁いでいます。
初婚もいれば再婚の場合もありますが、たぶんヨーロッパを席巻したナポレオンが
我が家にハクをつけるためにいろいろと縁組みしたものだと思います。

選ばれちゃった家はいやだったでしょうねぇ~
あんな成り上がりに! と思いつつ恐ろしくて断れないし…
誰を嫁に出すかでかなりもめたんじゃないかしら?

* その後英語版が登場してました
  今さら、って気もするので機会があればご紹介したいと…(2010.5)

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン女王 イサベル2世

2009-05-26 01:20:38 | スペイン王妃・王女
偉大な名を持つ愚王
スペイン女王 イサベル2世


1830~1904/在位 1833~1868

フェルナンド7世の死によって3歳で即位したイサベル2世ですが
ちびっ子ですので政治は摂政である母マリア・クリスティネが仕切っていました。
しかし、それでなくても女王&母親摂政という権力を確立するには弱いパターンなのに
身分違いの結婚をしたマリア・クリスティネへの風当たりは強くなるし
王弟ドン・カルロスとの継承戦争もあって、スペイン宮廷は伏魔殿となってしまいました。

7年続いたカルリスタ戦争はイサベル2世が勝利し、マリア・クリスティネは国を去り
名将エスパルテロが摂政になって国政は落ち着いたように見えましたが
議会はすでに立憲君主制に向けて動き始めていました。

     

イサベル2世は16歳の時に甥にあたるカディス公フランシスコ・デ・アシスと結婚。

実は、カディス公は同性愛者として名高かったみたいで
きっと子供ができないんじゃなかろうか?
そうすると王位は妹ルイサにまわってくる、ってことで、各国ざわめきます。
フランス王ルイ・フィリプ1世は、息子のアントワーヌとルイサを結婚させました。

ところがイサベル2世はそんな他人の思いをよそに子供を12人も生んだんですよね。
これについてはカディス公の子じゃないと各方面から非難があがりましたが
そんなことは知るかいな! 王太子アルフォンソ(後の12世)という嫡子も得ました。

さてさて、女王としてのイサベル2世ですが、わがままで気紛れで
手に負えない君主だったようです。
先祖にはイサベル1世という名高い女王がいますし、英名にすればエリザベスという
これまた女王として一時代を築いた君主の名を持ちながら、あまり評判がよくないですね。

議会は各派が目まぐるしく主導権争いをしていましたが
女王は保守派の軍人や政治家など自分のお気に入りばかりを引き立てていました。
絶えず不正を働き不埒な行いを繰り返す取り巻きたちは女王の評判を落としていきます。

その上イサベル2世は自分の存在感をアピールしようと議会を無視して
フランスとイギリスが押し進めるメキシコ皇帝擁立に加担することにしました。
ハプスブルク家のメキシコ皇帝が処刑されたこの事件は
フランスのナポレオン3世夫妻の立場を危うくしたのですが
イサベル2世も人ごとではありませんでした。

加えてアメリカ大陸での不毛な戦争、モロッコでの戦争などがかさなり
1868年、とうとうクーデターがおこります。
パリの母親の元へ身を寄せたイサベルは1870年に正式に息子に王位を譲りました。
(実際の即位は4年後)

ところで旦那様は?
カディス公とイサベルはとっくに別居だか離婚だかして一緒にはいませんでした。
でもパリに渡ってからは親交を深め良き友人となったらしいです。

             
                そして晩年のイサベル2世
                   いやはや…亡命中とは思えない貫禄


息子アルフォンソ12世の即位後もスペインへは数回訪れただけで
フランスで余生を過ごし1904年に73歳で亡くなりました。
死後はスペインに葬られています。

世が世ならどんな王様でもたいして文句は出ないもんなんですけどね
タイミングが悪かったんだと思います。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ルーブル展は期待はずれ…で、猫まるカフェへ

2009-05-24 21:17:59 | もろもろ
そぼ降る雨の中行ってきましたルーブル展!
今日は空いていたのか? 40分待ちで入場できましたが・・・
いつも思うけど国立西洋美術館て狭いよね!!
あの広さにあんなに大きな絵を飾られてもちゃんと見れないんですけどね。
人の頭ばっかり 近寄り過ぎると何がなんだか分かんないし。

              
とりあえずどうしても見たかったマリー・ド・メディシスは5回ほど見たけど
やっぱり大きくて迫力ありました。 でも全身が見えたのは一瞬だけでした。
ベラスケスとかラ・トゥールとか好きな絵もあったけど期待はずれでした。
宗教画多すぎ…

ルーブル展を見終わって “ 猫まるカフェ ” へ行ってきました。
ビルの8階にあって気持ちが良かったのですが、訪ねた時間(3時くらい)が
ちょうど猫ちゃんたちのお昼寝タイムにあたり、またお客さんがワラワラいて
なかなか相手にしてもらえぬ状態…
例によって旦那さんが退屈し始めたので30分ほどで退散いたしました。

              
               いちばんさわりたかったんだけど
                       ず~っと寝ていた子

         

         
                 そばでくつろいで下さった子
                   でも頭なでたら「うにゃ」って怒ってました


朝一番がすいているし猫ちゃんも元気でプレイタイムに良いそうです。
今度は早起きして行きましょう。

余談です
別に相撲ファンじゃないんだけど、gooブログのよしみで日馬富士のブログ読んでたら
今日の優勝がやけに嬉しかったという…どちらかといえば白鵬びいきなのだが …
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スペイン王フェルナンド7世妃 マリア・クリスティネ

2009-05-24 09:17:48 | スペイン王妃・王女
再婚が身を滅ぼす
フェルナンド7世妃 マリア・クリスティネ・デ・シシリアス


1806~1878/在位 1829~1833

マリア・クリスティネの母はフェルナンド7世の妹なので
またまたまた伯父と姪の結婚です。
      
45歳で3人目の妃を亡くしたフェルナンド7世には嫡子がいませんでした。
かなり焦ったのか、マリア・ヨーゼファの死から7ヶ月で4度目の結婚です。

マリア・クリスティネは23歳で、若い妃に比べればからだがしっかりしてたんですかね?
すぐに身ごもり立て続けに王女が誕生しました。

長女イサベルが3歳の時、フェルナンド7世が亡くなりました。
イサベル2世が即位して、マリア・クリスティネは摂政になりますが
フェルナンドの弟ドン・カルロス・マリア・イシドロが異議を唱えます。
ブルボン家はフランス王家と同じく女性を王にしないサリカ法を用いていると言うのです。
けれどマリア・クリスティネが、イサベルが生まれた時に王を説得して
サリカ法を破棄させていたことが分かり、イサベル2世の王座は正当なものとされました。

これをうけて、スペインは継承権を争うカルリスタ戦争に突入します。
戦いは7年後にイサベル2世の勝利で終わりますが
ドン・カルロスもスペイン(カルリスタ)王を名乗って、以後何代か続くことになります。

さてマリア・クリスティネですが、フェルナンド7世の死後3ヶ月
警護兵アウグスティン・ムニョスと再婚します。
26歳ですから恋もしましょうが、これはちょっと考え無しの行動ですね。
この早さ、王女たちは本当にフェルナンド7世の子供なの? と疑いたくもなります。

マリア・クリスティネはこの身分違いの再婚をひた隠しにしました。
しかし翌年娘が生まれたことで人々の知るところとなって顰蹙をかいます。
しかもカルリスタ戦争終結後、援護してくれた民主派を手のひら返しで裏切ったことから
議会に見放され、軍部から辞任要求をつきつけられてしまいます。
国外退去を命じられたマリア・クリスティネはフランスに腰を落ち着けました。
1868年にはクーデターにあった娘イサベラ2世も合流します。

美男子ではなかったけれど、優しく好人物だと言われていた夫ムニョスは
1873年にル・アーブルで亡くなりました。

1874年、孫のアルフォンソ12世が即位すると(戴冠式のためか)帰国を許されましたが
スペイン滞在の許可は一時的なもので、またフランスに戻りました。

1878年に夫と同じくル・アーブルで亡くなると、王の未亡人として、また王太后として
スペインのエル・エスコリアルの王家の墓所に葬られましたが
本当はムニョスの隣が良かったのではないかしら?

ムニョスは政治に野心はなかったと言われています。
エクアドルの王冠を蹴って、土地や証券の投機でマリア・クリスティネの国外生活を
支えたそうで、してみると地位ねらいで王の未亡人に近づいたのではなく
純粋に愛し合った上での再婚だったのでしょうか?
マリア・クリスティネは、身分的には落ちぶれたかもしれませんが
生き方の面では最良の選択をしたのかもしれないですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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疑心暗鬼のドクダミ

2009-05-23 13:41:44 | 鉢植え
今テレビで岡本信人さんが食べれると言ったドクダミ、うちの庭でガンガンに咲いてます。
これからラーメン食べに行って、帰って来たら草刈りしようと思ってたんだけど
食べてみるべき? でもお腹壊したらどうしよう? と葛藤しています。 

雑草すごいんだけど他にも食べれる草があるのかしら?
さてはうちの庭は野菜畑ってことですか?

         
              ちなみにこれも天ぷらで食べれるんだって!
                        どう思いますぅ?
コメント (4)
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『ボヴァリー夫人』女性の不満は不滅

2009-05-22 01:21:42 | フランスの作家
MADAME VOVARY 
1857年 ギュスターヴ・フローベール

ハーディの『帰郷』 (1878年)や モームの『クラドック夫人』(1902年)と
比較されることが多いですが、確かに似ているかもね。
いちばん読み応えがあるのは『ボヴァリー夫人』だと思いました。
他にも満たされぬ主婦が主人公になっている物語は多いと思いますけど…
時代や国は異なれど女の不満は変わらず。

ありがちといえばよくある話のような気がするので簡単に説明すると

真面目だけが取り柄のシャルルという田舎医者の再婚相手になった
美しく洗練されたエマという女性がおりました。
エマは裕福な百姓の父親から離れたい一心でシャルルと結婚したのですが
代わりばえしない毎日に空虚さを覚えていきます。

おあつらえむきにロドルフという領主が登場してエマは恋にのめり込み
彼に裏切られた後はレオンという青年と恋に落ちて他のことは見えなくなります。
エマの愛は熱烈でした。そりゃあもう相手がたじろぐほどに…

この間エマは嘘に嘘を重ね、シャルルに内緒で借金を繰り返します。
ルウルーという商人を相手にした借金のくだりが少々バルザック的に入り組んでいて
めんどくさいのだが、とにかくすごい借金を作っちゃったわけです。

とうとう差し押さえにあってしまったエマは、ロドルフやレオンなどに救いの手を
求めましたが、ふたりは助けてくれませんでした。
助けを申し出てくれたのはルウルーと組んでいるいやらしい爺さまだけ…
彼女は悲観して薬屋の戸棚からヒ素を取り出すとその場でムシャムシャ食べはじめて…

シャルル、好い人なんでしょうが気付かないってどーよ?
村中の人が疑っているというのに妻に愛されてると思いこんで幸福に浸っちゃって
挙げ句の果てにエマに浮気を促すようなことまでしてしまうとは。
ラストでエマの浮気に気付くのですが、その時のショックはすごいものがありますよ。

思えば『帰郷』のユーステシアも『クラドック夫人』のバーサも
夫に失望すると他の男性に心惹かれてます。
(お国柄の違いか関係を持つまでには至りませんでしたけどね)

「退屈だわ~」→「不倫しちゃおっかな」って女ばかりだと考えてほしくはないのだが
閉塞感に襲われると「ここから誰かに連れ出してほしい(できたら素敵なお方に…)」と
考える気持ちは分からぬでもありません。お金持ちならなお良し。
現代の先進国なら「自分で人生を切り開いて行くわ!!」と考える人も
かなり存在するでしょうけれどね。

良い夫では退屈だけど腰の軽い夫では不安…女のジレンマです。
一番いいのはハンサムで知的で都会的なナイスガイ、人生を楽しむ術も心得ていて
モテモテなんだけど妻一筋って人ですが、そんな男がいるもんなら見せてほしいわね

ボヴァリー夫人 河出書房新社


このアイテムの詳細を見る

私のは新潮文庫ですが、河出文庫の表紙はかわいいですね

余談です ←これ可愛い~ね
いよいよ川崎市でもインフルンザが見つかったってことでマスク買いに行ったけど
どこにもなかったですわ…やはり
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スペイン王フェルナンド7世妃 マリア・イサベル

2009-05-21 00:59:54 | スペイン王妃・王女
あまりといえばあまりな死に方…
フェルナンド7世妃 マリア・イサベル・デ・ポルトゥガル


1798~1818/在位 1816~1818

マリア・アントニアを亡くした時、フェルナンドは22歳だったのですが
この後スペイン国内はカルロス4世への反乱やナポレオンの侵攻などがあり
再婚どころじゃなかったみたいです。
1808年には退位したカルロス4世に変わって一瞬即位しましたが
3ヶ月足らずでナポレオンの兄ホセに王位を奪われてしまいました。

ホセの失脚によって再度即位したフェルナンド7世は
1816年に姪にあたる18歳のマリア・イサベルと再婚しました。

       
マリア・イサベルは20歳の時ふたり目の子供を身ごもりましたが
その出産で命を落とすことになります。(長女マリア・ルイサは5ヶ月で夭逝)
こ、これは今なら間違いなく医療裁判でしょ!

出産はひどい難産で、どうやら子供は死産のようでした。
マリア・イサベルの呼吸も止まり、医師団は王妃は死亡したという判断をく下して
子供を取り出すためか防腐処理のためだか、すぐに腹を切り裂き始めました。
しかし医師の判断は間違いで、彼女は突然大声で叫ぶと痛さのあまりうずくまりました。
結局これがもとで数日後亡くなりました。
(肖像画は老けてますが)20歳ですよ! こんな風に死んでしまうなんてひどい!!

中世の医療は王侯貴族の担当医といえどもひどいものだったようです。
簡単な手術の失敗で死亡している王や王妃もいますし、薬もかなりいいかげん。
フランス王ルイ13世は医師団に「貴様らがいなければ長生きできたものを!」と言って
亡くなっています。

出産時の死亡や子供の夭逝は膨大な数にのぼります。
なんでもベッドや器具自体が使い回しで不潔だったらしいんですよね。 おそろしい…
医学の進歩以前に、病気や出産に対する姿勢がなってなかったみたいですね。




              
書くことなにもない・・・
フェルナンド7世妃 マリア・ヨーゼファ・デ・サホニア


1803~1829/在位 1819~1829

フェルナンド7世はマリア・イサベルの死の翌年、姪の子にあたる
マリア・ヨーゼファと3度目の結婚をしました。
やはり嫡子がいないことに焦っていたのでしょう。
         

新しい王妃はなんたって16歳!
若いしうぶだし純粋だし、フェルナンド7世はぞっこんだったようです。
が、不幸なことに子供は生まれないまま26歳の時に亡くなりました。

(参考文献 エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wkipedia英語版)
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スペイン王フェルナンド7世妃 マリア・アントニア

2009-05-20 00:34:12 | スペイン王妃・王女
女の争い勃発!!
フェルナンド7世妃 マリア・アントニア・デ・シシリアス


1784~1806/在位せず

マリア・アントニアの母シチリア王フェルディナンド1世妃マリア・カロリーネは
ルイ16世妃マリー・アントワネットの姉で、彼女はその叔母の名をもらいました。

可愛らしく繊細な上に賢くて17歳で数カ国語が堪能だったそうです。
祖母である女帝マリア・テレジアの血を受け継いでいるともっぱらの評判でした。
      
あいかわらずスペインを取り巻く状況は厳しくて
フランスのブルボン家も信用ならないしっ! ということか
カルロス4世は王子フェルナンドと姪のマリア・アントニアを結婚させることにしました。
同時に王女マリア・イサベルとシチリア王太子フランチェスコの縁談もまとまりました。

1802年、18歳のマリア・アントニアはスペインに嫁ぐやいなや母に宛てて
“ フェルナンドは醜男で下品なの ” という失望の手紙を書き送っています。
(後年ふたりはとても仲睦まじかったと言う人が現れますけど…)

マリア・カロリーネがよしゃあいいのに友人に宛てて書いた手紙には
“ フェルナンドってすごく醜いうえにずんぐりむっくりらしいわ。
それからひどく退屈で鈍くてバカなの。妹(息子の嫁のことか?)とおんなじよ 。
娘を一時もひとりにしておいてくれないんですってさ ” てなことが書かれていました。

広そうで狭いヨーロッパ貴族の世界、この悪口が耳に入ったのか、
あるいは過去に男の取り合いでもしたのか、フェルナンドの母マリア・ルイサ
“ とにかく性悪な女よ!死にかけのカエルみたいで邪悪な蛇みたいなんだから!” と
愛人ゴドイへの手紙でマリア・カロリーネをコキおろしてます。

もちろん、マリア・アントニアだって黙っていません。
母から疎まれて寂しい少年時代を過ごしたフェルナンドを言いくるめて
マリア・ルイサとゴドイに敵対するグループをつくり勢力争いを行います。

フェルナンドはもともと母を嫌っていたようですが
かなり優柔不断で人の影響を受けやすかったみたいです。
ナポレオンが侵攻してきた時も彼についたり裏切ったりしているし
王になってからも “ ひとり自民党 ” 的に政策を覆したりしました。

スペイン宮廷内の嫁姑戦争はそんなに激しかったのか
母マリア・カロリーネも心配になったようです。
マリア・アントニアに“ シチリアに帰ってくる?” と手紙を出しています。

そんな勇ましいマリア・アントニアだったのですが、22歳の若さで結核で亡くなりました。
マリア・ルイサとゴドイが毒殺したのだという噂が広く流布されましたが真相は闇の中です。
マリア・カロリーネはこれを信じ、シチリア王フェルディナンド1世は
スペインの支配下にあったナポリを併合しました。

もう少し大人の嫁だったらうまく立ち回ったのかもしれないですね。
18歳の生意気盛りで、まわりの大人たちに利用されてしまったのかもしれません。
よく考えたら叔母のマリー・アントワネットもヴェルサイユで同じようなことを
やってるわけで…祖母マリア・テレジアより彼女の血をひいていたのかもしれません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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