まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

マリーアントワネット展に行って来ました

2012-11-16 21:33:56 | フランス王妃・王女
横浜そごうで開催中のマリーアントワネット物語展が終わっちゃう!ってことで
かけこみで見に行ってまいりました。

仕事を終えてからダッシュで行ったのですが、30分ぐらいしか見れなかった
でも会場も小ぶりでしたし、閉館間近で空いていましたので
けっこうじっくりゆっくり見ることができました。

入口から出口に向かって、マリー・アントワネットの輿入れから新婚時代、母親時代
革命、投獄から処刑までみたいな流れになっておりました。

展示してあったのはマリー・アントワネットやルイ16世を中心に関係のあった人々の肖像画と
当時のヴェルサイユ付近の風景画、マリー・アントワネットが使用していた小物
寝室や椅子の絹織物の一部(複製)などなど…
絹織物に施された刺繍は現在のヴェルサイユの展示でも使われているそうで見事でしたよ~

一区画だけ写真撮影OKのスポットがありました。
それがこちら

  

マリー・アントワネットのドレス(複製)がいくつか展示されていました。
左から普段着、宮廷内のドレス、公の場での正装って感じです。
普段着といってもゴロゴロ寝転がれるラクチンな服じゃないですよね、もちろん。
一度は着てみたいけど、毎日着るのはしんどそうですな。

             

本当は船が乗っかったカツラ(複製)もあったんですけど、上手く撮れなかったので
当時のヘアスタイル画を… 重そう…
でもこれは小ぶりなスタイルみたいです。
船が乗っかったのは目の前で見ると迫力でしたよ。
しかも笑える… ファッションを追求するって大変よね。

首飾り事件のネックレス(複製)もありました。
キレイでしたけどね…
誰も買い手がいないほど高価なネックレスを作っちゃう職人もどうかと思うよ。

最後に処刑場に向かうマリー・アントワネットの画がありました。
派手なドレスで微笑んでいる肖像画より、真っ白いさっぱりしたドレスで上を向いている姿が
凛として美しかったけど、年齢より老けてしまっているのが涙をさそいます。

複製が多かったけど、美しくて高価なものに囲まれたおかげで仕事中のバタバタも忘れ
良い気分になれました。
大々的な展示もいいけど、こじんまりした小規模な展示も落ち着けますね。

1月にはエリーザベト展があるようです。
そちらも行かねば!!

ひとことK-POPコーナー
こないだ新大久保に行ったら、2PMが着たお衣装の展示がしてあって撮影OKでした、ってことを
ドレスの部屋で思い出しちゃった…
コメント (5)
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フランス王ルイ・フィリプ1世王女 クレマンティーヌ

2012-09-16 20:48:04 | フランス王妃・王女
王妃が無理なら王の母!
ルイ・フィリプ1世王女 クレマンティーヌ・ドルレアン
サクス=コバーク=ゴータ公子オーガスタス妃


1817~1907

終わったと思ったら一人残ってました…
ルイ・フィリプとマリー・アマーリエの四女クレマンティーヌ。
三女フランソワーズは2歳で亡くなっています。
13歳の時に父ルイ・フィリプが王に即位したため王女になりました。

当時クレマンティーヌに歴史を教えていたのがジュール・ミシュレという人なのですが
彼は急進的な思想の持ち主で、フランス革命を美化していました。
王女に対して王家を倒した革命を讃美する授業…いいのかね?
後にミシュレはルイ・フィリプの保守傾向を非難しています。

クレマンティーヌは美しくて、将来が期待されていました。
ヨーロッパ各国は彼女の縁談を見守っていましたが
19歳の時に両シチリア王フェルディナンド2世との結婚がささやかれました。
クレマンティーヌとは従兄弟にあたりますね。
       
ルイーズの嫁ぎ先ベルギーではレオポルト1世が
クレマンティーヌとサクス=コバーク=ゴータ家のオーガスタスとの縁談を根回し中でした。
ベルギー王家はできたばかり…フランスとの婚姻でベルギー王家を
強固なものにしようとでも考えていたんでしょうか?
        
オーガスタス自身は王位継承権は無いようなものでしたが
ベルギーのみならず、ポルトガル、スペイン、ブラジル帝国、メキシコ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国と繋がりがあるという華やかさ!
書ききれないから書かないけどね…

オーガスタスとクレマンティーヌは1843年に結婚しました。
二人は当初オーストリアで暮らすつもりでした。
しかし、オーストリアは、クレマンティーヌはフランス王女として迎えるが
オーガスタスはロイヤルファミリーとして認めないということだったので
フランスで暮らすことにしました。

たしなみがあると言われていたクレマンティーヌでしたが実は野心家。
その上夫より交渉手腕が優れていたらしく、完全にオーガスタスを尻に敷き
子供たちを支配しました。

1848年の2月革命の時には、子供たちは避難させたものの
コンコルドへ取って返し居座って頑張りました。
結局2月24日に王宮を市民に占拠され、ルイ・フィリプは退位しました。

フランス王家はロンドンへ亡命します。
クレマンティーヌはそこで父ルイ・フィリプと再会しました。

敗者の悲しさ… この後のクレマンティーヌの人生は争いの連続でした。

端折ってくけど、まずはオルレアン家が奪われた金銀財宝を取り戻そうと
ナポレオン(3世)と争います。
遺産のかわりに20万フランを要求しましたがあっけなく拒否されました。

とにかく息子を王にしたいと願っていたクレマンティーヌは
お気に入りの三男フェルディナンドをベルギー王にしようと画策しました。
この時クレマンティーヌは戴冠式でかぶせる王冠までデザインしていたらしい…
だけど残念… レオポルド2世の甥アルベール1世に敗れます。
       
省いたけど、家系図から見れば兄フィリップとレオポルト2世王女ルイーゼの
王子レオポルドの方が王の座に近かったかですよね。

そこで目をつけたのが王が退位したブルガリア。
フェルディナンドを同行してブルガリアに入ると、その富にものを言わせて
ヨーロッパへと繋がる鉄道の建設に400万フランの寄進、学校・病院の建設、
ブルガリア赤十字への莫大な寄付と大枚はたきます。

その甲斐あって、どっちかっていうとフェルディナンドより
クレマンティーヌの方が人気者になってしまったわけなのですが
オーストリアの後押しでフェルディナンドはブルガリア王の座につくことになりました。

だけど…神様の意地悪…
クレマンティーヌは、あんなに夢見ていた息子の即位前年に
インフルエンザで亡くなってしまいました。 90歳でした。
戴冠式、見たかったろう… 再び王冠のデザインもしたかもね。

ルイ・フィリップの後再び帝政で皇帝に就いたナポレオン3世と皇后ウージェニーの間には
皇女はいなかったので、フランス王女編は今回でおしまいです。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ・フィリプ1世王女 マリー

2012-08-02 22:17:56 | フランス王妃・王女
“ 美人薄命 ” な王女
ルイ・フィリプ1世王女 マリー・ドルレアン
ビュルテンベルク公アレクサンドル妃


1813~1839

ルイ・フィリプ1世とマリー・アマーリエの次女マリーは
父親であるルイ・フィリプの意向で堅実に育てられました。
芸術的な才能があったようで、彫刻や絵画に勤しんでいました。

1830年、7月革命の後ルイ・フィリプが王に即位してマリーは王女になりました。

マリーが21歳の時、王妃マリー・アマーリエは甥の両シチリア王フェルディナンド2世に
弟のレオポルドとマリーの結婚をもちかけました。
      
ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントの問題もあり
権力の弱体化や名家の衰退と、新興の資産家
所謂ブルジョワジーの台頭とかで
王家同士の縁談がなかなかに難しくなっていたわけですね。

一応王制復古で落ち着いたように見えるフランスの王女との縁談はありがたい…
さらに大枚22万フランを費やして往年の贅沢な暮らしを保っている
オルレアン家の財力はものすごーく魅力的でした。
てなわけで、フェルディナンド2世は縁談に同意します。

しかし、ルイ・フィリプは決して市民に大歓迎で迎えられた王ではなかったのですね。
7月革命でクーデターを起こした側の、共和制の国にしたいという意向に反して
議会でブルジョワ議員たちに選ばれた王です。
昔ながらの王党派ではなく、立憲主義を目指す自由派に押されて王になっています。
ですので、王座は安泰というわけでなく、各地でちょこちょこ暴動が起きています。

マリーとレオポルドの結婚が決められた年にも暴動は起きました。

フェルディナンド2世は、フランス王家の財産が、またまた革命で無くなる前に…と
焦りまして、一刻も早くマリーをイタリアに送るよう要求しました。

持ちかけたのはフランス側でしたが、ルイ・フィリプは「無分別すぎ!」と怒り
この縁談は破談になります。

24歳の時、ビュルテンベルク公子アレクサンドルと結婚しました。
アレクサンドルの家系は傍系でたいした家柄ではなかったのですけれども
下記の家系図を見ていただくとおわかり頂けますように
英国王家、ベルギー王家と繋がりがあります。
    
省略したけど、ポルトガル王フェルナンド2世や
ロシア皇帝アレクサンドル1世やニコライ1世とも繋がりがあるという
「◯◯の親戚」でかなりポイントが稼げる花婿候補でした。

姉のルイーズが、2年前にベルギー王レオポルド1世と結婚していまして
そこから持ち上がった縁談のようです。

結婚から4年後、結核が悪化して療養のためピサに向かいました。

けれども体調は回復しなかったようです。
弟のヌムール公ルイは、両親の指示で付き添うためにマリーの後を追いましたが
到着した時にはマリーは瀕死の状態でした。
それでも間に合ってよかった… 家族に看取られ25歳で亡くなりました。

美術が好きで自らも絵画を描いていたというマリーの作品は
ドルトレヒト美術館(オランダ)に残っているそうです。

肖像画を載せるにあたり画像検索して何枚か肖像画を見ましたが、どれもお美しい…
けっこうリアルですし、本当に綺麗な方だったのではないかと思われます。
ただ、お美しいわりにはエピソードが少ないですね。
若くして亡くなっているからでしょうか?

落ち着いた雰囲気を漂わせていて “ フランス王家 ” という言葉から連想される
華美で浮ついたイメージとはかけ離れています。
お母様のマリー・アマーリエの肖像画と見比べると、同時代? って思っちゃうわ。

そんなわけで、現代にの女性と言っても違和感の無い肖像画をもう1枚載せときます。

              

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ・フィリプ1世王女 ルイーズ

2012-07-11 21:29:13 | フランス王妃・王女
時代が一気に飛びますが・・・
フランス王ルイ・フィリプ1世王女 ルイーズ・ドルレアン
ベルギー王レオポルド1世妃


1812~1850/在位 1832~1850

ルイ15世にはうんざりするほど王女がいましたが、その後ちょっと飛びます。
王様の流れは以下の家系図のようになります。(ナポレオン一家は省いてます)
          
ルイ15世を継いだルイ16世とマリー・アントワネットはなかなか後継ぎが生まれず
悩みましたが、マリー・アントワネットのお兄様レオポルト2世のアドバイスもあって
二男二女が生まれました。
長女マリー・テレーズはルイ19世妃として一瞬王妃になっています。
次女ソフィーは生まれた時から虚弱体質で、最初の歯が生えた時にひきつけをおこし
1歳を目前にして亡くなっています。

ルイ16世王子で名ばかりの王になったルイ17世は10歳で非業の死を遂げたたため
もちろん嫡子はありません。

亡命下のイギリスで即位したルイ18世とマリー・ジョゼフィーヌ
不仲カップルも嫡子無しでした。

第一帝政をたちあげた皇帝ナポレオン1世の妃ジョセフィーヌには連れ子がいましたが
ナポレオンのお子はおりませんでした。
二人目の皇后マリー・ルイーズ・ドートリッシュは皇子ナポレオン(2世)を生んだ後
ナポレオンの遠征→敗戦→島流し、ってことで別居に突入しました。

ルイ18世を一瞬退けて即位したナポレオン2世は未婚で嫡子無しです。

ルイ18世の後を継いだ弟シャルル10世マリー・テレーズには王女が二人生まれましたが
長女ソフィーは7歳で、次女マリー・テレーズは生まれてすぐ亡くなりました。

つなぎ王ルイ19世とマリー・テレーズにもお子様はおらず…

ふうぅ、やっとルイ・フィリプが登場です。
王位とオルレアン家の繋がりは家系図を参照して下さいね。
           
ルイ・フィリプとマリー・アマーリエは六男四女の子だくさん!

長女ルイーズは亡命先のシチリアで生まれました。
母マリー・アマーリエと叔母のルイーズ・マリー・ドルレアンに教育されましたが
なんたってマリー・アマーリエはバリバリの貴族主義者ですからね!
とても敬虔に、ブルジョア的に育てられました。
        
18歳の時父ルイ・フィリプの即位に伴い王女になり
20歳の時ベルギー王レオポルド1世に後妻として嫁ぎました。
ちなみにレオポルト1世の最初の妃はイギリス王ジョージ4世王女シャーロットです。

フランスはご存知の通りカトリックでしたが、レオポルド1世はプロテスタントでした。
そこで結婚式はカトリックとカルヴァン派の二通りで挙げられたらしい…

ルイーズはとても美しく、性格は寛容ですぐにベルギー宮廷で人気者になったそうです。
妻としては献身的で、母としては愛情にあふれた女性でした。 完璧ですね
なんだけど、ものすごく内気で、公の場へはレオポルド1世に「出なさい!」と
強く言われた場合しか顔を出しませんでした。

お子様は4人で、次男が後のレオポルド2世です。
王女は一人で、悲劇の皇帝となったメキシコ皇帝マクシミリアーノ1世に嫁ぎ
悲しみに打ちのめされて不幸な一生を送ったシャーロットです。
シャーロットについてはまたいつか…

しゃしゃり出ず控えめにしていても、人柄で人気を得るって素敵ですね。
エピソードが少ないけど、よっぽど善い人だったのかしら?
それともベルギー宮廷が大人の宮廷だったのかしら?
ヴェルサイユじゃ見た目とウィット命! 人柄なんて二の次よねぇ…

1850年に結核で亡くなりました。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ15世王女 ルイーズ・マリー

2012-06-18 00:36:03 | フランス王妃・王女
一家の贖罪を一身に引き受ける
ルイ15世王女 ルイーズ・マリー・ド・フランス


1737~1787

ルイ15世王妃マリー・レクザンスカはまたまた王女を生みました。
八女ルイーズ・マリーです。

ルイ15世はルイーズをヴィクトワールソフィー同様フォントブローの修道院に預けました。

           
二人の姉がどうだったかは知りませんが、ルイーズはまるで修道女のように暮らし
「私は王の娘です」とは言わず「神の娘です」と言っていました。

11歳の時に、イングランドからフランスに逃れて来ていた
スチュアート家のチャールズ・エドワードとの縁談が持ち上がります。

イングランドはプロテスタントであるハノーヴァー家のジョージ2世の治世でした。
カトリックのフランスはスチュアート家のカトリック派を推していました。

ちなみにジェームズ2世の後を治めたのは、同じスチュアート家でも
チャールズ・エドワードの祖父ジェームズ2世が最初に妃にしたアン・ハイドが生んだ
プロテスタントのメアリー2世、続いてアンです。

話をルイーズに戻しますと…
ルイーズは「神以上に愛せないのに夫を持つなど…」と取り合いませんでした。

そんなルイーズも15歳になってヴェルサイユに戻りました。

ルイーズはヴェルサイユで、王女たちの中では一番端の部屋をあてがわれました。
脚が悪く、朝の挨拶のためにアデライードの部屋にやって来るルイ15世に会うため
一生懸命走っていったのに間に合わなかったりしたそうです。
ルイ15世ったら、全員の部屋をまわってあげればいいじゃないの…

しかし、謙虚に育ったルイーズは、なぜか綺麗なドレスが大好きだったらしい…
修道院で質素にしすぎた反動でしょうか?

ヴェルサイユでは姉たちの影にかくれ、(たぶん)アデライードにはアゴで使われ
兄王太子ルイは亡くなり、続いて母マリー・レクザンスカが亡くなり
デュ・バリー夫人は登場するし…ってことで居心地悪くなってしまったんでしょうか?
1770年にカルメル派の修道女になりたいと申し出ました。
自分が修道女になれば、宮廷を堕落させたルイ15世の罪が償えると考えたみたいです。
大好きな美しいドレスが二度と着れなくなってしまうのに、頭が下がる決心ですね。
ルイ15世は…娘にこんな思いをさせて  ちゃんと反省しなさい!!

王太子ルイ(16世)とマリー・アントワネットの結婚を見届け
サン=ドニの修道院に入りました。

サン=ドニは旧式の厳しい秩序が守られている修道院でした。
ルイーズは炊事洗濯も厭わず、他の修道女たちと姉妹のように接して
敬虔な毎日を送りました。
脚が悪いルイーズが祈る時に助けを申し出ようとすると、これを断り跪きました。

サン=ドニでは何度か修道院長を務めています。
父王にかけあって、ヨーゼフ2世の迫害にあったオーストリアのカルメル派を受け入れました。
やるべきことを見つけて、宮廷時代よりアクティブに過ごせたようですね。

ルイーズは1787年に胃の病気で亡くなりました。
最後の言葉は「早く天国へ! 駆け足でね」でした。

ルイーズは列聖はされていないみたいなんですけど
1873年にローマ教皇ピウス9世から聖人の称号のひとつを与えられています。

一番地味な王女ではありますが、一番人間らしい人生を送ったような印象を受けます。
お城で暮らすことが「めでたし、めでたし」ではないということを体現しているようですね。

              
            ルイ15世がルイーズ・マリーを修道院に訪ねる、の図
                   実際にあったのかどうかは甚だ疑問ですが…


(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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フランス王ルイ15世王女 ソフィー

2012-06-09 09:18:34 | フランス王妃・王女
万事控えめな王女
ルイ15世王女 ソフィー・ド・フランス


1734~1782

王妃マリー・レクザンスカがまたまた王女を出産しました。
ルイ15世は「もう王女はうんざり!!」というわけで
六女ソフィーは姉のヴィクトワール同様フォントブローの修道院に送られます。

          
ソフィーは一応 “ 未婚シスターズ ” を構成していた王女ではありますけれども
アデライードやヴィクトワールたちほどエピソードがありません。

あまり美しくなくて魅力がない王女と言われています。
そのせいか極度な恥ずかしがりやで、性格は内気で、大声恐怖症でした。

ルイ15世はソフィーをグラーユ(カラス)と呼んでいました。
ちなみにヴィクトワールはコッシュ(雌豚)、アデライードはロック(ボロきれ)
末娘ルイーズ・マリーはシッフ(ボロ布)だったそうです。 口が悪いわね…

教育を終えてヴェルサイユへ戻ったものの、宮廷ではなんの影響力ももたらさず
アデライードの言いなりで、二人の姉たちにくっついて行動していました。

姉たちがマリー・アントワネットにいろいろ吹き込んでいる時にも
後方で頷き、「そうよ、そうよ」と相づちを打つような役柄だったのでしょうね。

ソフィーは幸か不幸かフランス革命の7年前に亡くなりまして
姉たちのような苦労はしないですんだようです。

でもこの王女様、根っからの金魚のフン体質だったような気もするので
革命後まで生き延びていても「お姉様にくっついてれば大丈夫!」ってな感じで
あんまり不安は感じずに呑気に過ごしてたかもしれないね。

ソフィーの下には七女テレーズ・ド・フランス(1736~1744)がいます。
やはりルイ15世に疎まれて2歳でフォントブローに送られました。
テレーズは病気がちでした。
家庭教師はフォントブローの環境が合っていないのではないかと思っていたようです。
しかしヴェルサイユに呼び戻されることはなく、二度と両親に会うことも無く
8歳で亡くなりました。
王女様だというのに、儚く可哀想な人生でしたね。

ルイ15世はともかく、母親であるマリー・レクザンスカはなんとかできなかったんですかね?
愛妾にうつつを抜かす夫の言いなりなんて…
国事はさておき、せめて家事で主導権を握れなかったのかしら?
娘を呼び戻すことぐらいは、ルイ15世に逆らってでもしていただきたかった気がします。

ルイ15世の王女終わり! と思うでしょ?
いえいえ、もう一人いらっしゃいます。
てなわけで、つづく・・・

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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フランス王ルイ15世王女 ヴィクトワール

2012-06-01 23:11:36 | フランス王妃・王女
マリー・アントワネットにとんだとばっちりを与えた王女
ルイ15世王女 ヴィクトワール・ド・フランス


1733~1799

ルイ15世の王妃マリー・レクザンスカは王子二人を生んでいたものの
次男フィリプは1733年に2歳で亡くなりました。
その1ヶ月後に生まれたのが五女ヴィクトワールです。

ルイ15世は「また女かっ!」ってことで怒り心頭です。
疎まれたヴィクトワールはフォントヴローの修道院に預けられ
15歳までヴェルサイユには戻れませんでした。

修道院では地下墓所に閉じ込められたり…という苦行で怖い思いをしたようで
一生トラウマに悩まされたとも言われています。
         
20歳の時にスペイン王フェルナンド6世との縁談が持ち上がりました。
でもね、この時フェルナンド6世妃バルバラ・デ・ポルトゥガルは病気だったけど
まだ存命中だったわけなのよ。
ひどくない? まだ生きてるのに結婚相手を探すなんてっ
仲が良い夫婦だったらしいんですけどね…

しかし、かなり深刻な状態だと思われてバルバラ王妃はそれから5年生き延びまして
ヴィクトワールとの縁談も立ち消えに…

1765年に兄の王太子ルイが亡くなり、1768年に王妃マリー・レクザンスカが亡くなります。
姉妹たちは深く喪に服すと同時に結束を強めていきました。

新たに登場したデュ・バリー夫人を許すまじ!てなわけで
アデライードとともに甥の王太子ルイ(16世)妃マリー・アントワネットをけしかけました。

父王ルイ15世が亡くなると、即位したルイ16世は愛妾たちをヴェルサイユから一掃しました。
これで憎たらしい女たちが居なくなって安心… と思いきや…

未婚シスターズは先王の王女としてヴェルサイユで暮らすことは許されましたが
すっかり若返った宮廷ではマリー・アントワネットの影に隠れ
過去の人…忘れ去られた存在になりました。

宮廷に居づらくなったシスターズは、地方へ旅行をするようになりました。
旅行っていっても、こじんまりした女三人旅っていうわけではなく、贅沢三昧の旅でした。
度重なるシスターズの旅は国庫にまで影響を及ぼしてフランス革命の一因にもなりました。

マリー・アントワネットがドレスや宝石、舞踏会やパーティーで
フランス王家のお金を使い果たしたような印象がありますが
シスターズをはじめ、国のお金を浪費する王族はゴロゴロいたわけですね。

革命後も姉のアデライードと行動を共にし、1799年にトリエステで亡くなりました。
乳癌だったそうです。
後にアデライードと一緒にフランスへ送られ、サン=ドニに埋葬されました。

とにかく、ヴェルサイユに帰ってからは常にアデライードと一緒、
アデライードが亡くなる8ヶ月前に亡くなり、死後も一緒。
完全なおねえちゃん子ですね。 自分の意志ってあったんでしょうかね?

ヴィクトワールはルイ15世の王女の中で一番美しかったと言われていますが
一番おばかさんだったとも言われています。

マリー・アントワネットが言ったとされる「パンが買えないならお菓子を買えばいいのに」は
ヴィクトワールが言ったらしい… お菓子ではなくてミートパイだそうです。

マリー・アントワネットのばか丸出しエピソードみたいに語りつがれ
現在に至るまでとんでもない濡れ衣を着せられてるのね
少しでも名誉回復のお役にたてれば良いのだが…

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
コメント (3)
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フランス王ルイ15世王女 マリー・アデライード

2012-05-31 22:41:36 | フランス王妃・王女
禁断の噂を持つ “ 未婚シスターズ ” のドン
ルイ15世王女 マリー・アデライード・ド・フランス


1732~1800

王妃マリー・レクザンスカがたて続けに3人の王女を生んだもんで
ルイ15世はちょっとふてくされていましたが
1729年に王太子ルイ、1730年に次男フィリプが生まれてご機嫌が直ったようです。

四女マリー・アデライードは、ルイーズ・エリザベートアンリエットとともに
ヴェルサイユで育ちました。
        
アデラードも十代に入ると結婚が取沙汰されました。
しかし「君主じゃない男と結婚するぐらいなら一生独身の方がまし!」と言うアデライードを
ルイ15世が「よしよし」てな感じで許し、結局縁談は決まりませんでした。

どうやらルイ15世は「女ばっかり!」とこぼしていたにもかかわらず
王女たちをお嫁に出すのがいやだったようです。 困ったもんだ
なにせこの後に続く王女たちも皆未婚です。

お気に入りだったアンリエットが亡くなり、ポンパドゥール夫人の健康が衰えはじめると
ルイ15世の愛情は俄然アデライードに向かうようになります。
あ、愛妾は別だからね

しかし、毎朝お茶を飲むためにアデライードの部屋に行ったり遠乗りに連れていったりと
一緒にいる時間が増えた父王と王女はあまりに仲が良く近親相姦の噂がたったほどで
愛妾フランソワーズ・ド・シャリュが生んだとされるルイ・ド・ナルボンヌは
実はアデライードが生んだルイ15世の子だとまで言われました。

アデライードは、ルイ15世の王女たちの中で唯一政治に興味があったと言われています。
まずは兄の王太子ルイ、続いて甥の王太子ルイ(16世)に
自分の考えを吹き込もうとしました。 失敗に終わったようですが…

そしてポンパドゥール夫人をかなり敵視して、父王を通わせないように頑張っていました。
もちろんルイ15世の子供たちは皆ポンパドゥール夫人を嫌ってましたが
アデライードは人一倍激しかったらしい…もし噂が本当だったとすればうなずけますね。

ポンパドゥール夫人が亡くなり、デュ・バリー夫人が登場すると
アデライードの出番もめっきり少なくなります。
アラフォーにさしかかると、アデライード、ヴィクトワール、ソフィーの未婚シスターズは
お互いの部屋に集まり、もっぱら編み物をしながら宮廷の噂話に耽っていました。
めったに正装することはなく、パニエの上にガウンを羽織っただけで過ごしました。
いかんいかん、おしゃれ心を忘れてはダメでないの!

そんなシスターズは王太子ルイの妃マリー・アントワネットの教育係に指名されます。
『ヴェルサイユの薔薇』で、マリー・アントワネットに
デュ・バリー夫人との徹底抗戦を吹き込んでいる三人組がいましたね?
それがこのシスターズだったのでした。

1789年7月、フランス革命勃発!
10月、パリの婦人たちがヴェルサイユ宮殿に向かって行進した日
アデライードは住み慣れた宮殿を後にしました。
ヴェルヴュ城に逃げ込んだ後、何度か拘束される目に遭いながら
1791年にイタリアへ向かいました。

イタリアには姪(兄の王太子ルイの王女)クロチルデや
マリー・アントワネットの姉マリア・カロリーナなどがいましたが
皆革命の余波を恐れていてアデライードはイタリア内を点々とするハメに…
最後に訪れたトリエステで1800年に亡くなりました。

遺体はルイ18世の時代に入ってフランスへ送られサン=ドニに埋葬されました。

各国の王家の権威と安泰に翳りが見え始めた時期とはいえ
「結婚したくない!」というわがままが通って、子分のような妹たちに囲まれ
好き勝手な人生が送れたとは幸せな王女であったといえますね。

晩年はかなり波瀾万丈で、イタリアでは屈辱を味わったかもしれないけど
下々の民の苦しみを踏み台に栄華を誇った58年の人生の後に味わう10年の苦労でしょー?
私はあんまり同情しないわ…

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ15世王女 アンリエット

2012-05-25 22:24:18 | フランス王妃・王女
初恋はかなわず
ルイ15世王女 アンリエット・ド・フランス


1727~1752

ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの最初の子供は
双子の王女ルイーズ・エリザベートとアンリエットでした。
       
まだ浮気に走っていなかったルイ15世は、初めての子供ということもあり
二人の王女をものすごく可愛がりました。

姉エリザベートの結婚の時、アンリエットはとても悲しみましたが
ルイ15世も娘が旅立つ直前まで付き添い、別れを惜しんだそうです。

エリザベートがいなくなると、ルイ15世の愛情はアンリエットに向けられました。
なるべくアンリエットと長い時間を過ごせるように秘書に指名して手伝わせたり
外出に誘ったりしました。

アンリエットはからだが弱かったのですが、父王の愛情を失うまいと
体調不良をおしてルイ15世に従いました。
喀血した時にも「お父様には知らせないように」と口止めしたそうです。

アンリエットは十代半ばでルイ・フィリップ・ドルレアンと愛し合うようになります。
二人は結婚を望みましたが、ルイ15世はこれを即却下しました。
オルレアン家の台頭阻止とか貴族のバランス・オブ・パワーとかの
政治的な考えもあったかもしれないけど
一番の理由は、お気に入りの娘を持ってかれるのが嫌だったんじゃないかしら?

ルイ15世は後にオルレアン家の格式やスペイン王家の継承の可能性などから考え直しますが
結局二人が結婚することはありませんでした。

ちなみに…
ルイ・フィリップはブルボン家の支流コンティ家のルイーズ・アンリエットと結婚しました。
もしかしてアンリエットとは宮廷で顔を合わせていたかもしれませんね。
年ごろも同じぐらいなので、一緒に遊んだり勉強した仲かもしれないのに恋敵に?
愛憎渦巻くヴェルサイユ…今度調べてみようっと!

姉のエリザベートとアンリエットは仲良しでしたが、エリザベートが初の里帰りをした時
二人の愛情にひびが入りました。
だってエリザベートが、家族の敵ポンパドゥール夫人を気に入っちゃうんですもの!
兄弟姉妹たちはポンパドゥール夫人のことを “ パパの売春婦 ” よばわりしていました。
それなのに、そんな女に憧れて親友になろうとするなんて~!!
てなわけで、その後エリザベートとアンリエットは疎遠になってしまいます。

ポンパドゥール夫人に負けまいと無理をしていたアンリエットは
24歳の時に天然痘で亡くなりました(腸チフス説あり)

ルイ15世の悲しみは大変なもので、アンリエットの死後2時間は呆然とし
数週間は愛妾たちにも目を向けないほどのうちひしがれようでした。

ルイ15世といえば次から次へと愛妾をつくっては愛欲に耽り
家族を蔑ろにしていたイメージがありますが、こういうエピソードを知ると
「親としての愛情はあったのね…」と、少しホッとしますね。

けれども、これから生まれてくる王女たちに対するルイ15世の態度は徐々に変化します。

三女ルイーズが生まれた時、ルイ15世は「また女?」とふてくされまして
王子だったら行うはずだった祝典は取り消されてしまいました。
ルイーズにはヴェルサイユ内のチャペルでミサが行われただけです。 ひどいわ
4歳で風邪に罹ったルイーズは、亡くなる前に慌てて洗礼を受けさせられたってことです。

さてさて、四女からはどんなことになっていくのでしょうね?

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ15世王女 ルイーズ・エリザベート

2012-05-16 23:23:08 | フランス王妃・王女
義母と離れてからは幸せだったような気がする・・・
ルイ15世王女 ルイーズ・エリザベート・ド・フランス
パルマ公フィリッポ妃


1727~1759

アンリ4世とルイ14世という艶話の多い王様に挟まれたルイ13世は浮いた噂も無く
地味な印象ではありますが、絶対王政の礎を築いた忘れてはならない君主です。
王妃アンヌ・ドートリッシュは何回かの流産の後
結婚後23年目に驚きの妊娠をしてルイ14世を含む王子が二人生まれましたが王女はいません。

ルイ14世と王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュには3人の王女が生まれましたが
長女アンヌ・エリザベートと次女マリー・アンヌは1歳で亡くなり
熱愛していた三女マリー・テレーズも5歳で亡くなりました。

多産な家柄が買われてルイ15世の妃に選ばれたマリー・レクザンスカ
評判どおりお子様をた~くさん生みましたが、なにせ二男八女と王女ばっかりで
ルイ15世はたいそうご立腹
年長の王女たちと年少の王女たちは完全に扱いが違ってます。

長女ルイーズと次女アンリエットは双子です。
この頃はルイ15世はまだ浮気をしていませんでした。
初の子供が生まれたってことで大喜び!の父王は二人を可愛がりました。
    
12歳の時にカトリック強国同士の繋がりを強固なものにするため
スペイン王フェリペ5世王子フィリッポとの婚約が決まりました。
しかしフィリッポは八男で(既に4人の兄は亡くなっていたものの)
王位を継ぐ可能性が低いということでフランス宮廷は少々意気消沈したようです。

なんだかんだでその年のうちに結婚したルイーズでしたが
19歳年上のフィリッポとの結婚はあまり幸せなものではなかったようです。

ルイーズが嫁いだ時、スペイン宮廷ではフェリペ5世の未亡人
イサベル・デ・ファルネシオが権勢をふるっていました。
作法はヴェルサイユより厳格だし、義母は意地悪だし…ってことで
なかなか馴染めなかったようです。

ルイーズは義母を避けて人形で遊ぶようになり
父王ルイ15世には「不幸です」と手紙を送りました。
12歳ですものね… 遊びたい盛りだと思うんですけど
世継ぎが必要な王家の結婚生活はそんなに甘いもんじゃありません。
14歳で長女マリーア・イザベラを生みました。
マリーア・イザベラは後に神聖ローマ皇太子ヨーゼフ(2世)に嫁ぎます。

1745年オーストリア継承戦争の終結でパルマがスペインに引き渡され
3年後フィリッポがパルマ公になりました。
ルイーズはスペイン(=義母)から離れることができました。
ここからけっこう好き勝手に生きるわよ

パルマに向かう途中でルイーズはヴェルサイユに立ち寄り数ヶ月滞在します。
その時ポンパドゥール夫人に会いすっかりファンになってしまいました。
他の姉妹たちは目の敵にしていたんですけどね…

この帰国の時、18歳のルイーズを目にしたヴェルサイユ宮廷の人々は
「なんてチャーミングなんでしょう」と驚きました。
また、洞察力と知性があり、若いのに母性溢れる女性だと言われたそうです。

ばっちりフランス式の作法を仕込んだルイーズはパルマに渡り
夫フィリッポとともに万事フレンチスタイルで過ごしました。

その3年後に双子の妹アンリエットが亡くなったので
ルイーズは再びフランスに帰国します。
本当は2~3週間の予定だったのですが、実家が楽しかったんですかね?
結局1年近くパルマに戻ろうとしませんでした。

さらに1757年にもフランスに戻り、個人的に連携していた女帝マリア・テレジア
皇子ヨーゼフと娘のマリーア・イザベラの縁談をまとめました。

その後パルマに戻ったのかどうだか定かでないんですけど
1759年にヴェルサイユで天然痘に罹って亡くなっています。
パルマにいたら長生きできたかもしれなかったのにね…

幼い頃に離れたヴェルサイユの楽しく美しい記憶が
彼女を引き止めていたのかもしれませんね。

ルイーズ・エリザベートの次女マリーア・ルイーザ
スペイン王カルロス4世妃です。
娘の不埒な新婚生活を知らずにすんで良かったのかしら?

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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フランス王アンリ4世王女 クリスティーヌ・マリー

2012-05-07 21:29:06 | フランス王妃・王女
父王の(浮気な)血をひく王女
アンリ4世王女 クリスティーヌ・マリー・ド・フランス
サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世妃


1606~1663

子供の影で王権を行使していたと言われるカトリーヌ・ド・メディシスですが
16歳で亡くなったフランソワ3世とメアリー・スチュアートにはお子様がいませんでした。
シャルル9世とエリザベート・ドートリッシュには
マリー・エリザベートという王女が生まれましたファが6歳で亡くなりました。
アンリ3世とルイーズ・ド・ロレーヌにもお子様がいませんでした。

結局王座は王女マルゴの婿アンリ4世の手に渡ります。

アンリ4世はガブリエル・デストレを筆頭に、たくさんの愛妾を持っていたことで有名ですが
行動力・人柄に優れ思慮深い人で、人気が高い王様でした。
一人目の妃マルゴとの間にはお子様ができませんで
二人目の妃マリー・ド・メディシスとの間に三男三女を授かりました。

長男は後のルイ13世です。
長女エリザベートはスペイン王フェリペ4世に、
三女アンリエッタ・マリーはイングランド王チャールズ1世に嫁ぎました。

       
次女クリスティーヌは13歳でサヴォイア公子ヴィットーリオ・アメデーオに嫁ぎました。
しかし彼女はこの結婚に満足できなかったようですね。
姉のエリザベートばかりか妹のアンリエッタまで王妃になるなんて!

クリスティーヌは妹に負けるもんか!とサヴォイア宮廷にフランス式を持ち込み
イングランド宮廷と張り合いました。
そのためには宮殿だって建て直すぜ!

しかし王妃ではなく、公国の妃という現実はどうにもなりませんね…
そこで夫にキプロスとイェルサレムの王様になってちょうだいよ! と
うるさくけしかけておりました。
男性の皆様、「課長になってよ! 次は部長になってよ!その次は専務になってよ!!」なんて
口うるさく言われるのはつらいですよね。

結局ヴィットーリオ・アメデーオ1世は王になることなく1637年に亡くなりまして
クリスティーヌは5歳の息子フランチェスコの摂政になりました。
翌年フランチェスコが亡くなり、続いて4歳のカルロ・エマヌエーレ2世の摂政になります。

クリスティーヌは移り気で軽薄な女性と言われています。
その上浮気性で多数の愛人を持っておりました。
摂政とは名ばかりで政治はそっちのけ… 評判は芳しくなかったようです。

そんな母親が幼王の摂政に就いた国… もちろんもめ事がおこりますってば。
ヴィットーリオ・アメデーオ1世の弟マウリッツォとトンマーゾはスペインの力を借りて、
クリスティーヌはフランスの力を借りて、継承戦争が4年ほど続きました。

この戦いはクリスティーヌの勝利に終わりました。
なんだかんだあっても息子のために領土を守り抜いたことは賞讃に値しますね。
しかもフランス王家の力が領土内で強まることも防いでいました。
やればできる子だったのですね… と思いたいが一方では…

カルロ・エマヌエーレ2世が成人に達するとクリスティーヌは摂政の座を退きましたが
実際は権力を手放しませんでした。
私生活はやりたい放題で、愛人たちが侍っておりました。
その中には継承戦争で敵だった義弟マウリッツォも含まれていた模様…
とにかくハンサムで逞しい男性がお好きだったようです。

息子カルロ・エマヌエーレ2世がクリスティーヌの弟オルレアン公ガストンの
公女フランソワーズと結婚した年に亡くなりました。
生きていたら嫁姑問題が起きかねなかったですよね?
ある意味潔い逝き方と言えましょう。
          
その後はフランス王家とこんな感じで繋がってまいります。
手を抜いてすみません… 見てもらった方が解り易いと思いまして…
         
美男子を侍らせてるあたりエカチェリーナ2世と同じなんですけどね。
エリザベス1世も何人か恋人がいましたよね。
政治をきっちりやるか、絶対的な権力を持って反対勢力を押さえ込んでいたら
悪評ばかりがたつこともなかったでしょうに… きっといいところもあったと思うよ。

いよいよブルボン家末期にさしかかってまいります。
長~い時間かかっていたフランス王女編も終わりが見えてきましたね! ふ~う

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス王アンリ2世王女 クロード

2012-04-16 21:50:52 | フランス王妃・王女
母は… でました! カトリーヌ・ド・メディシス
アンリ2世王女 クロード・ド・フランス
ロレーヌ公シャルル3世妃


1547~1575

アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの間には愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエ
どっしり居座っていたとはいえ、お子様は10人が生まれています。
王子は5人で、3人が王に即位しましたが皆カトリーヌに操られていたような感じですね?

長女エリザベートはスペイン王フェリペ2世妃になりました。

次女クロードは姉のエリザベートと
兄フランソワ(2世)の婚約者スコットランド女王メアリーと一緒に育てられました。

エリザベートはメアリーに従順で大人しい性格に育ったということでしたが
クロードは輪をかけて内気で控えめな性格だったようです。
恐るべし、メアリー・ステュワート…

         

クロードは病弱で、カトリーヌの猫背と内反足を受け継いでいました。
ちなみにこの特徴は、三女のマルグリート以外の兄弟姉妹が皆受け継いでいたらしいです。

クロードは11歳の時に4歳年上のロレーヌ公シャルル3世と結婚しました。
カトリーヌの大のお気に入りだったクロードは結婚後も頻繁に里帰りしましたし
逆にカトリーヌもしばしばロレーヌを訪ねていました。

しかしそんなお気に入りの娘もたまには母親に反抗…
クロードはカトリーヌに黙って妹マルグリートに
サン・バルテルミーの虐殺のことを教えてあげようとしたとか…
三女マルグリート、通称マルゴはブルボン家のアンリ(4世)と結婚したばかりでした。
ちなみにアンリはプロテスタントでございます。

 ひとくち情報
“ サン・バルテルミーの虐殺 ” とは、ザックリいうと
1572年8月24日に、アンリ(4世)とマルゴの結婚式のために集まったプロテスタント貴族たちが
カトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公アンリの指示で多数殺害された事件です
殺害は貴族だけにとどまらず、街中でプロテスタントの市民が殺されました ひとくち情報おわり


大人しかっただけにあんまりエピソードがないですね。
9人のお子様がいまして、28歳の時に末娘クロードの出産で亡くなりました。

長女のクリスティーヌがトスカーナ大公フェルディナンド1世妃になりました。

なにせ、カトリーヌ・ド・メディシス、マルゴ、メアリー・ステュワートと
大物が目白押しのフランス宮廷ですのでね…
他の淑女たちは霞んじゃいますよね

アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの四女ジャンヌと五女ヴィクトアールは双子でしたが
ジャンヌは生まれた翌日、ヴィクトアールは生後2ヶ月で亡くなりました。

この後カトリーヌは「子供生み過ぎ!」ってことでお医者様からストップがかかりました。
アンリ2世は「やった!」って感じでカトリーヌの寝室に近づかなくなり
ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋に通うことが多くなったようです。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス王フランソワ1世王女 マルグリート

2012-04-13 22:19:55 | フランス王妃・王女
瀕死の兄王の指示で挙式
フランソワ1世王女 マルグリート・ド・フランス
サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト妃


1523~1574

フランソワ1世はルイ12世の王女クロードと結婚し
アンリ2世を含む7人のお子様を授かりました。
王女は4人ですが、長女ルイーズは2歳で、次女シャルロットは7歳で亡くなりました。

三女マドレーヌはスコットランド王ジェイムズ5世の妃になります。

      

さて、四女マルグリート。
義理の姉にあたるカトリーヌ・ド・メディシスとはとても仲が良かったそうです。
カトリーヌも中傷や夫とディアーヌ・ド・ポワティエの問題でつらい結婚生活が続く中
宮廷内にお友達ができてとても心強いことだったでしょうね。

15歳の時、フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世の間で
マルグリートとカール5世皇子フィリップ(後のスペイン王フェリペ2世)の
結婚が決められましたが、すぐに破談になりました。

実はフランソワ1世は、カール5世に神聖ローマ皇帝の座をもってかれた経験があります。
フランスと神聖ローマ帝国はイタリアの覇権も争っている最中でした。
スペインの王座奪い合いもこれから激しくなっていくし…
まったく、他所の国で何やってんでしょうね?

ちなみに、フランソワ1世は王妃クロードを亡くしてから6年後
カール5世の姉アリエノールと再婚しました。

その後マルグリートに相応しいランクの相手を探すために時間が費やされ
結婚が決まったのは36歳の時… 費やしすぎではないのか?
相手は5歳年下のサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトでした。

この結婚の祝賀式典の一環で行われた騎馬試合で兄アンリ2世は傷を負い
瀕死の状態に陥ります。
けれども一瞬意識を取り戻すと、マルグリートの結婚式を直ちに執り行うよう指示しました。
これはサヴォイア公側がアンリ2世の死で同盟を拒むのを恐れたためです。

宿敵カール5世の息子フェリペ2世にミラノとナポリを奪われた以上
少しでもイタリアにリンクしておかねば!! というガッツが感じられますね。

アンリ2世はマルグリートの結婚式の最中に亡くなりました。

マルグリートとエマヌエーレ・フィリベルトのお子様で成長したのは
カルロ・エマヌエーレ(1世)だけでした。
後にフェリペ2世の王女カタリーナ・ミカエラと結婚します。

父親と破談になった姑がいる家なんて… 嫁いだらいじめられそうで怖いですね
でもマルグリートは亡くなってたらしい。
ま、当時はそんな個人的な感情なんて関係なかったんでしょうけど…

フランス王家とハプスブルク家の覇権争いが激化しているのはうっすらわかるが
マルグリートのパーソナリティについてはまったくわかりませんでした。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ12世王女 レネー

2012-04-06 17:20:49 | フランス王妃・王女
義理の母がチョー有名!
ルイ12世王女 レネー・ド・フランス
フェラーラ公エルコレ2世妃


1510~1574

イタリア支配を夢見ていたシャルル8世は若くして亡くなりました。
王妃アンヌ・ド・ブルターニュは7回妊娠しましたが、皆死産や流産
あるいは幼くして亡くなりました。
王女は3人ですが、お名前がついたのは末子のアンヌだけです。

アンヌ・ド・ブルターニュが再婚したのがルイ12世です。

ルイ12世は、ルイ11世王女ジャンヌと結婚していましたが、無理くり離婚して再婚しました。
ジャンヌとの間にお子様はいません。

アンヌ・ド・ブルターニュはまたまた9回妊娠しましたが、成長したのは王女二人でした。
長女クロードはフランソワ1世妃になります。

アンヌ・ド・ブルターニュは自分の領地であるブルターニュの自治を守るため
日々戦っていまして、ブルターニュをレネーに譲ろうと考えていましたが
ルイ12世が承諾しませんでした。
結局ブルターニュはクロードに譲られ、その後フランス王家に持ってかれます。
       
当時フランス宮廷の侍女の中にはアン・ブリーンがいまして
レネーは彼女がお気に入りだったようです。

18歳の時エステ家のフェラーラ公エルコレ2世と結婚しました。
エルコレ2世の母は “ あの ” ルクレツィア・ボルジアでございます。
レネーが嫁いだ時には既に亡くなってますので直接は会ってませんけど。

フェラーラの宮殿はルクレツィアによって芸術が盛んになたていました。
レネーはさらに芸術を奨励し、科学に力を注いだりしました。
最初はそんな宮廷生活を楽しみ、5人のお子様に恵まれたりと幸せだったみたいですが
後年はそんなにハッピーではなかった様子…

なぜかっていうと…
ルクレツィア・ボルジアの父はローマ教皇アレクサンデル6世で
いわばエルコレ2世はカトリックの長の孫にあたるわけなんですが
レネーは後にカルヴァン派(プロテスタント)の支持者になって後押ししたからです。

ローマ教皇庁が新教の貴族たちをフランスから追い出しにかかった時に
ジャン・カルヴァンがレネーの宮廷を訪れて数週間過ごしました。

レネーは多数のプロテスタント信者たちと連絡を取り合ったり
プロテスタントの正餐を受けたりとプロテスタントに傾倒していきました。

しかしローマでは反宗教改革が始まり、フェラーラで審問が始まりました。
エルコレ2世はレネーの甥アンリ2世に告訴し、レネーの財産を全て剥奪して捕らえました。
レネーはこの仕打ちに屈し、懺悔を行ってカトリックの聖体拝領を受けました。
しかし今までのように好き勝手なことは当然できませんね。

息子たち、特に末子で司教のルイージとは当然意見が合いません。
レネーはフランスに帰ることを熱望しましたが実現せず
1559年にエルコレ2世が亡くなってからやっと帰ることができました。

フランスでは長女のギーズ公妃アンヌのもとに身を寄せましたが
ギーズ公はカトリック派の筆頭貴族です。
ここでも小さくなっていなければね…

ギーズ公の甥にあたるフランソワ2世が亡くなってギーズ公のパワーが少し衰えると
やっと領地の中でプロテスタントの礼拝を受けることができるようになりました。
良かったね
そればかりかカルヴァン派の牧師まで呼ぶことができるようになり
レネーの城はプロテスタント貴族の避難所みたいになっていきました。

けれども安泰な時期は10年ほどでした。
1572年、サン・バルテルミーの虐殺がおこります。
レネーはかろうじて何人かのプロテスタント信者を救うことができましたが
大多数の信者を守れませんでした。

さすがにカトリーヌ・ド・メディシスも王女であるレネーには手を出さなかったようですが
その後もカトリックへの改宗をしつこく迫りました。
レネーは無視してたみたいですけどね。

サン・バルテルミから2年後、娘アンヌの領地モンタルジで亡くなりました。

エルコレ2世は教皇パウルス3世に忠誠を宣誓しています。
パウルス3世はカトリックとプロテスタントの対話を計った教皇だったようです。
そんな人に忠誠を誓った人がなぜ自分の妻にそんなことを?
ちなみにパウルス3世の後任ユリウス3世もプロテスタント理解者だったらしい…

二つの宗教(派?)のどちらかが主張を和らげていたら
たくさんの人の人生が変わっていた時代のような気がしますよ。

世界の転機みたいな方面から見ればレネーはもっと知られていても良い気がするが
“ 女の歴史 ” の中では、美貌の持ち主でスキャンダルいっぱいのルクレツィアの方が
どうしても目立っちゃいますよね。

(参考文献 澁澤龍彦氏『世界悪女物語』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ11世王女 アンヌ

2012-03-19 23:04:11 | フランス王妃・王女
えーっとね… たぶんお局体質じゃないかと…
シャルル11世王女 アンヌ・ド・フランス
ブルボン公ピエール2世妃


1461~1522

みなさんお待ちかねのアンヌは、ルイ11世とシャルロット・ド・サヴォワの次女です。
長女ルイーズは生まれてすぐ亡くなりました。
三女ジャンヌはルイ12世妃になりました。
           
幼い頃にロレーヌ公ニコラと婚約しましたがこれを破棄して
12歳の時にブルボン公ピエール2世と結婚しました。

ピエールは実はオルレアン公女マリーと婚約していたのですけれど
これをルイ11世が阻止しています。
ちなみにマリーの弟が後のルイ12世でございます。

ちなみにちなみに、ピエールの姉マルグリートの孫がフランソワ1世です。
皆が王位を狙える位置にいるだけに… 結婚も一大事ですわね。
       
アンヌは肖像画から見て取れるように知的、かつエネルギッシュで
とても手強い女性だったということです。

弟シャルル8世が未成年の間は夫とともに摂政を務めましたが
職を辞した後も王様ばりの力を持っていたようです。

やり手さんだったアンヌには政治的な功績も多々あって… たとえば
ルイ11世時代の圧政を正したりとか、イングランドのチューダー家を援護したりとか
百年戦争終結を計ったりとか…

しかしそれはおいといて、私がとても気になったのは
数々の娘さんたちを監督・教育したことでしょうか。
ディアーヌ・ド・ポワティエ、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世皇女マルグリートなども
含まれております。

また娘のシュザンヌに宛てて『娘の練習帳(直訳)』という本を書き与え
庶民の暮らしや貴族としてのこころがけを説いたそうです。
どうやらハンカチを日常的に使うことを広めたのもアンヌらしい。

夫のピエール2世が1503年に亡くなって娘のシュザンヌがブルボン公領を継いだわけですが
アンヌは王家の干渉を防ぐため支配の手を緩めませんでした。

とっても頼りにはなりそうだが隅々まで口うるさそうでもありますね。
公領を継いだのが娘のシュザンヌで良かったよ…
娘なら口うるさい母親とも上手くやっていけそうだものね。
姑だったら大変かもしれない…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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