まりっぺのお気楽読書

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スウェーデン王フレデリク1世妃 ウルリーカ・エレオノーラ

2011-08-29 08:09:51 | スウェーデン王妃
夫の望みを叶えるため・・・女王の座を捨てて王妃に
フレデリク1世妃 ウルリーカ・エレオノーラ


1668~1741/在位 (女王)1718~1720 (王妃)1720~1741

ウルリーカ・エレオノーラは、カール11世と王妃ウルリーカの王女です。
幼い頃は、王太子の兄と美貌の姉の影でひっそり成長いたしました。

      
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世との縁談がありましたが実現せず…
良かったね… 王妃ゾフィアは可哀想でしたもの。

地味目に育ってきたウルリーカの人生が1708年に一変します。
姉のホルシュタイン=ゴットルプ公フリードリヒ4世妃ヘドヴィクが亡くなったのです。

若くして即位した兄カール12世は戦争でほとんどスウェーデンにいませんでした。
勇敢な戦士で、常に最前線で戦っていたカール12世は結婚を拒んでいました。
嫡子が生まれる見込みはないですよね…

議会と祖母ヘドヴィクから摂政にされたウルリーカですが
国内はカール12世亡き後の権力の座をめぐって入り乱れていました。
控えめに生きてきた20歳の女性に務まるのかしら? ま、実権は祖母が握ってたんだけど…

権力者だった祖母へドヴィクが1715年に亡くなると、ウルリーカは真の摂政になります。
その年にヘッセン=カッセル伯フリードリヒと結婚しました。

フリードリヒは従妹のプロイセン王フリードリヒ1世王女ロヴィーザと結婚していましたが
1705年に死別していました。

ウルリーカは愛ある結婚だと思っていましたが、フリードリヒは愛だけなわけなくて
女王になるであろうウルリーカを政治的に操り、上手くいけば王座も…と考えました。
結婚早々からアクティブに動き始め、ホルシュタイン=ゴットルプ家と激しくぶつかります。

1718年、1700年から一度も宮殿に帰らず戦っていたカール12世が
デンマークのフレデリクハルドで急死しました。
頭を撃たれたのですが、戦闘中ではありませんでした。

これは、ウルリーカを女王に、ひいてはフリードリヒを王にしたいという
ヘッセン家支持派がおこした暗殺だと言われたりしていますが解決していません。

フリードリヒはイングランドのウィリアム3世とメアリー2世のように
共同統治王になりたいと考えましたが、スウェーデンでは15世紀から共同統治が
禁止されていて議会に聞き入れてもらえませんでした。

そこでウルリーカは戴冠はしたものの退位を決意します。
夫のフリードリヒは晴れてフレデリク1世として即位しました。

このフレデリク1世、スウェーデンで初めて公妾を持った王様でございます。
妻のおかげで王になったくせに~
1730年にフレデリク1世がヘドヴィク・トーヴェを公妾にした時
ウルリーカは何も語らず宮廷から退いたそうです。

すごくおとなしい人だったんじゃないかしら?
王位だけじゃなくて、宮廷の主役の座を愛妾に渡すなんて…
と思いきや、王族としてのプライドは高くて、決して譲らない部分もあったそうです。
どんな部分なんでしょね? たいがい譲っちゃってると思うが…

フレデリク1世とウルリーカの時代は“ 自由の時代 ” と呼ばれています。
絶対王政が廃止され、議会が権限を大きくして君主が権威を失いました。
聞こえはいいけど、実は政治腐敗があり国内は混乱しました。
これが後にグスタフ(3世)のクーデターを成功に導きます。

ウルリーカが幼い頃から女王となるべく育てられていて王位を譲らなかったら
スウェーデンの状況も違っていたかもしれませんね。
夫に政治的な口出しをさせなかった女王もけっこういますからね。

お子様は生まれませんでした。
結局王位はホルシュタイン=ゴットルプ家にいっちゃうわけなのね…

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
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