まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ロシア皇帝ニコライ2世妃 アレクサンドラ

2009-07-24 00:26:54 | ロシア皇妃
さようなら、ロシア皇室
ニコライ2世妃 アレクサンドラ(アリックス)・フョードロヴナ


1872~1918/在位 1894~1917

改名前の名はヴィクトリア・アリックスで、ドイツのヘッセン大公の公女ですが
母親が大英帝国女王ヴィクトリアの王女アリスで、イギリスで教育を受けていました。
    
ニコライの叔父セルゲイとアリックスの姉エリザベスが結婚することになり
ふたりは初めて顔を合わせます。
16歳のニコライと12歳のアリックスはお互いを憎からず思い
その5年後にモスクワで再会してから愛し合うようになったと言われています。

けれどもアリックスを気に入っていたヴィクトリア女王は、彼女と、同じく孫の
(切り裂きジャック説がある)クラランス公アルバートと結婚させたがっていました。
ロシアでもアンチ・ドイツのアレクサンドル3世夫妻がアリックスとの結婚には反対で
次々に他の王女との縁談を考えますが、いずれも改宗がネックになって上手く運ばず
また、ニコライも女優などと遊びまわり同棲までするようになります。

その後アレクサンドル3世は目に見えて衰え、根負けしてアリックスとの結婚を認めました。
婚約した年にアレクサンドル3世が崩御しましたが式は延期されませんでした。
ふたりはかなり嬉しかったらしく大はしゃぎでした。
が、ヴィクトリア女王はロシアの先行きにかなり不安を覚えていたご様子で
「何事もなければ良いが…」と書き残していらっしゃいます。 さすが

ロシア宮廷はアリックスに対してかなり冷ややかでした。
アリックスは地味だし、無口だし、なによりも横柄そうに見えました。
また、不幸なことには姑マリーヤがめちゃくちゃ人気者で何かと比べられてしまうし…
マリーヤの絶大な影響力には宮廷もニコライ2世も言いなりでした。

アリックスもロシア宮廷をふしだらで軽薄だと見なして、なるべく公の場には出ず
お気に入り以外とは付き合うのを避けようとします。
けれどこんな頑な姿勢がさらに不人気に拍車をかけていきます。

後年は待望の皇太子アレクセイが血友病だとわかり
治療を頼んだラスプーチンに心酔してしまうことになりました。
ラスプーチンは皇帝夫妻に多大な影響力を持ち政治にも口を出し始めます。

ところでニコライ2世は大の日本嫌いって知ってました?
(この説には異論もあります。たぶんそちらが正しいみたい)
独身時代に大津事件があったからなんですけれど
その影響でアリックスも日本大嫌い! だったそうでございます。

思えばロシアは君主国になってからも権力闘争と反乱に明け暮れて
ニコライ2世だから革命がおきたというわけじゃないと思うのですが
満州をめぐる日露戦争の敗戦があり、第一次世界大戦へも参加したもので
国内の疲弊は並大抵なものではありませんでした。
また飢饉などもあったので、今まで燻っていたものが大爆発してしまったようです。

2月革命の後、退位したニコライと一家はツァールスコエ・セローへ送られ
臨時政府は従兄弟にあたる大英帝国王ジョージ5世に引き取りを要請しますが
ジョージ5世は自国内の労働運動の激化を怖れて拒否したそうです…ひっど~い
(ニコライ2世の方が復位を楽観視していて断ったという説もあります)

そうこうしているうちに革命政府が樹立され、ニコライ一家の扱いはひどくなり
とうとうエカチェリンブルクの農家の地下室で殺害されることになりました。

アナスタシア皇女については生存説も根強くありましたが、真相は謎のままです。

       
              ニコライ2世一家です
                 右端がアナスタシア皇女です


ニコライ2世は内気で気が優しく家族思いでした。
アリックスの教育は庶民的で部屋の掃除は自分たちでやらせたり
目上の人への挨拶にうるさかったという普通の良きお母さんでした。
贅沢はできなくても一家仲良く我慢できたと思うんだけど…
せめてイギリスに渡っていたらなぁ… 一般人の甘い考えでしょうか?

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』
      三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』 Wikipedia英語版)
コメント (13)
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ロシア皇帝アレクサンドル3世妃 マリーヤ

2009-07-23 00:44:38 | ロシア皇妃
たおやかに見える肝っ玉母さん
アレクサンドル3世妃 マリーヤ・フョードロヴナ


1847~1928/在位 1881~1894

アレクサンドル2世の皇太子ニコライは1864年にデンマーク王女マリイと婚約しました。
ところが改名したマリーヤもモスクワに入りいざ結婚という時にニコライが亡くなります。
ニコライはマリーヤに弟のアレクサンドルと結婚してほしいと言い遺して逝きましたが
彼女は一度故国に帰りました。

1666年、傷心のマリーヤのもとをアレクサンドルが自ら訪れ婚約となりましたが…
兄の言いつけに忠実だったのかしら? それとも兄の許嫁に恋していたんでしょうか?

マリーヤの姉アレグザンドラは大英帝国の皇太子エドワード(後の7世)妃になるし
兄はギリシャ王になりますので、ロシアはようやくヨーロッパ各王室と
深い繋がりを持つようになったのですが…時すでに遅し、かも。

       
あのアンデルセンにも見送られてコペンハーゲンを発ったマリーヤは
モスクワでもとても温かく迎えられました。
美しいマリーヤは人気者でしたが、でしゃばらず政治にも口を出さず
ロシア語の習得と慈善や社交など、皇室のサポートに専念していました。

1881年にアレクサンドル2世が暗殺されアレクサンドル3世が即位しますが
首都での革命運動は激しくなる一方で皇帝一家は厳しい警護下におかれていました。
一家は難を逃れるために郊外の宮殿を利用していたそうです。

皇帝は首都より田園の方がお好みだったようでのびのびと暮らしていましたが
マリーヤはかなり厳しい母親で、子供たちはのびのびできなかったようです。

            
                こちらお写真です
                 優しそうな方とお見受けしますが…


1888年、皇帝一家が列車で移動中、老朽化した列車の屋根が落ちて
アレクサンドル3世が肩で屋根を支えて家族を守るという事故がおきます。
皇帝が乗る列車だというのに…信じられない
幸い皆無事ででしたがアレクサンドル3世は腰を痛め、その上酒好きがたたって
肝臓の具合も悪くなる一方で体調を崩していきます。

1894年アレクサンドル3世は肝臓疾患で亡くなりました。
マリーヤはもちろん悲しみましたが「皇帝の安らかな顔を見ていたら勇気が湧いてきた」
ということで、今まで以上に家族を厳しく見守り
遺されたロマノフ一家に多大な影響をもたらすようになりました。

革命がおこった時マリーヤは赤十字の仕事でキエフにいました。
身の危険を感じてクリミアに向かっている最中ニコライ2世一家殺害の報せが入りますが
その後エカテリンブルクに収容されているという使いを受けました。
このことから彼女は死ぬまで、息子の一家はどこかで生きていると
知人に言い聞かせていたそうです。

あまり重要視されていなかったのか、マリーヤは革命政府から
デンマークへの帰国を許されました。
彼女のもとへは皇妃と慕うロシアの亡命貴族たちが集まるようになりました。
後継者指名の要請もありましたが、政治的な動きに関わりたくなかったようで
「誰もニキが殺されたところを見ていないでしょう」と辞退したそうです。
これには誰も面と向かって反論しなかったらしい…

異国人でありながらロシア貴族たちの拠り所となっていたマリーヤは
80歳でコペンハーゲンで亡くなりました。

もし彼女が人望や人脈を総動員して貴族たちを集結させていたら
今日のロシアはどうなっていたかしら?

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)
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ロシア皇帝アレクサンドル2世妃 エカチェリーナ

2009-07-22 00:47:17 | ロシア皇妃
ロマノフ家を怯えさせたリベラリスト
アレクサンドル2世妃 エカチェリーナ(カーチャ)・ドルゴルスカヤ


1847~1922/在位せず

前皇妃マリーヤの生前から別宅で夫婦同然の暮らしをしていたアレクサンドル2世と
エカチェリーナ(以下カーチャ)は、マリーヤが亡くなると数ヶ月後に結婚しました。

貴賤結婚で皇妃の称号は与えられなかったようですが
皇帝にはかなり影響力があったようだし、自由思想の持ち主だったらしいので
称号なんてあってもなくても関係なかったんじゃないかしら?

カーチャは没落貴族の娘で、小さな頃一度アレクサンドルに会っています。
父親の死後は宮廷の援助で良家のための女学校に通いました。
     
カーチャが16歳の時、アレクサンドル2世が女学校に視察にやって来て
早速彼女を気に入りました、 とは言っても、皇帝は彼女と語り合うのが好きで
その後も度々女学校を訪れては自由主義などについて議論したということです。
でも、そう見せかけて実は下心があったのかもしれませんね

女学校の卒業後は皇妃マリーヤの侍女にして呼び寄せているし
彼女が19歳になった時にちゃっかり愛妾にしちゃってますから。
ちなみにアレクサンドルが48歳の時でした。

カーチャは宮殿のすぐ近くに館を与えられました。
アレクサンドルは週3~4回ほど通い子供も3人生まれてまさに二重生活です。
カーチャの影響力は次第に大きくなり看過しておけなくなります。
皇妃マリーヤとの間に生まれた皇子たちとアレクサンドル2世の間には
深~い溝ができてしまったらしいよ…

アレクサンドル2世は農奴解放令などを発したり、資本主義化に着手したりと
自由主義的な傾向がありましたが、これはカーチャに出会う前からでした。
もしかするとカーチャの影響でさらに専制君主制を脅かす行動に
出ようとしていたのかしら?

いずれにしてもアレクサンドル2世の自由化は貴族や領主の利権を守りつつ行われたので
中途半端なものになり、不満を抱えた急進派たちから命を狙われることになります。

1880年に結婚したアレクサンドル2世とカーチャでしたが
ロマノフ家はもちろんこれを認めませんでした。
結婚の翌年アレクサンドル2世が暗殺されると、カーチャはロシアから出ていくことを条件に
400万リーブルの年金を手に入れてフランスへ渡りました。

パリやリヴィエラでは粋な女主人という評判を得ていたらしいのですが
ロマノフ家は彼女のことを警戒していました。
外国から革命を指揮するとでも思ったのでしょうか? スパイまでつけていたそうですよ。

1917年にロシア革命がおこりロマノフ家と専制君主体制が崩壊します。
カーチャは追放されていて、かえってラッキーだったかもしれませんが
頼みの年金が止まり次第に困窮するようになります。
財産を使い果たした後、1922年に亡くなりました。

本当の改革派だったら革命中に活躍の場はあったと思うのですけれど…
没落したとはいえやはり貴族、貧困とはほど遠い生活を送ってきていますので
真の革命家にはなれなかったんでしょうかね?

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)
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ロシア皇帝アレクサンドル2世妃 マリーヤ

2009-07-18 09:30:26 | ロシア皇妃
からだ弱すぎ…でも子だくさん
アレクサンドル2世妃 マリーヤ・アレクサンドロヴナ


1824~1880/在位 1855~1880

マリーヤの母親はアレクサンドル1世妃エリザヴェータの妹ヴェルヘルミーナです。
ヘッセン=ダルムシュタット公女ということになっているのですが
本当はグランシー男爵の娘だと言われています。
       
1838年に花嫁探しの旅に出た皇太子アレクサンドル(後の2世)は
14歳のマリーヤに恋をしまして、出生の秘密も承知した上で求婚しました。
母后アレクサンドラは反対しましたが聞き入れず、マリーヤが17歳になるのを待って
結婚しました…熱烈な感じがしますね

ところが! アレクサンドルは晩年まで奥様ひとすじの父ニコライ1世に似ず
ものすごくたくさんの愛妾をつくったのよねぇ… なぜならば…

マリーヤははにかみやで堅苦しい印象がありました。
ドレスの着こなしにセンスが無く地味で、会話も愉快じゃなかったそうです。

その上じめじめしたサンクト・ペテルブルクの気候がからだに合わなかったらしく
嫁いでくるなり病気になり、その後も病がちになってしまいました。
しかも8人もお子を生んでまして、病気と妊娠の繰り返しで寝つくことが多く
なかなか宮中のイベントに出席することができなかったそうです。
ひとりで行事に参加するアレクサンドルには誘惑が多かったらしいんだけど…
だからって浮気の言い訳にはならないと思うがね

1855年、ニコライ1世が崩御しアレクサンドル2世が即位すると
マリーヤは体調など関係なく式典や宮中行事に出席しなければなりませんでした。
果たしてこのことがマリーヤの寿命を縮めたのかどうかは神のみぞ知る…ですが
ドレスは重そうだし、エアコンもないし、ダンスもしなきゃいけなかろうし…
つらかったろう…きっと休みたい日もあったでしょうね?

マリーヤへの優しい態度や気遣いは変わらないものの
アレクサンドル2世は相変わらず浮気を繰り返していました。
特に寵姫エカチェリーナとは別宅まで設け子供も生まれて二重生活を送っていました。

こんなこともからだに響いたのかもしれませんね?
マリーヤは56歳で亡くなりました。

熱烈に愛されて結婚したはずなのに…
男性がプロポーズの時に言う言葉なんて信じちゃいかんね!
あ… 私見が混ざりすぎていますか?

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)
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ロシア皇帝ニコライ1世妃 アレクサンドラ

2009-07-16 00:22:58 | ロシア皇妃
祝!初のドイツ王女
ニコライ1世妃 アレクサンドラ・フョードロヴナ


1798~1860/在位 1825~1855

これまで、紹介はしてくれても自分の娘は嫁にくれなかったプロシア王も
とうとうロシア皇室に王女を嫁がせることにしたみたいです。

プロシア王ヴィルヘルム3世王女で改名前はシャルロッテという名前でした。
少女時代はベルリンをナポレオンに侵攻されてドイツ西部で暮らしていました。
ナポレオンから王国を救ってくれたのがロシアってことで断れない縁談ですね。

      

ニコライ(後の1世)がベルリンへ出向き自ら縁談をまとめました。
ふたりは会うなりお互いを気に入ったようでラブラブな手紙が残っています。
婚約から2年後の1817年に結婚しました。

ニコライには次兄コンスタンチンがいたので少し気楽な立場でした。
ふたりは静かな生活を好み、公の場にあまり顔を出さず
お気に入りの人たちに囲まれて過ごすのが好きだったようです。

1825年、ふたりがベルリンに滞在していた時のことです。
コンスタンチンが貴賤結婚のため皇位を放棄したので
ニコライとアレクサンドラは長兄アレクサンドル1世からへ呼び戻されました。
ニコライは後継者になるのがいやで倒れ込んで泣いたそうですよ。

アレクサンドラは美しいだけでなく威厳があって優雅な女性でした。
宝石大好き、舞踏会大好き、国民に興味無しと、まさに “ The 王侯貴族 ” ですね。
結婚から20年たって子供が7人生まれてもお互いの愛は揺るがず
1837年に冬宮殿が火事にあった時、ニコライ1世は宮殿の焼失より
「婚約時代にもらったアレクサンドラの手紙が焼けてしまった」と嘆いたそう…

ニコライ1世は、子供の頃から勉強そっちのけで軍事に熱中していたそうで
厳格で堅苦しいところがありまわりの人たちからは少し煙たがられて
嫌われ者だったそうですが、良き家庭人だったみたいですね?

結婚してから25年、アレクサンドラは医者から健康上の理由でセックスを禁じられたのね。
するって~とニコライ1世はここにきて浮気を始めます。
相手はアレクサンドラの侍女バルバラ・ネリドヴァです。
アレクサンドラの嫉妬爆発! と思うでしょ? ところが最初はジェラシーを感じたものの
同じ男性を知っている者同士の気安さからか、二人の女性は友人になり
ニコライ1世の死後はふたりで暮らすほど気心の知れた間柄になったんですって
不思議だわぁ、貴族の男女関係…

1852年にはナイチンゲールで有名なクリミア戦争が勃発します。
ロシアは完全な孤立状態に陥ってしまい敗戦ムードが色濃く漂いました。
ニコライ1世は兵士たちを鼓舞しようと極寒の中軍事パレードを行ったせいで
インフルエンザを患って1855年に崩御しました。

              
                 晩年のアレクアンドラです
                       貴族!って感じだぁ


病気がちだったアレクサンドラは暖かい地方への転地を勧められましたが
思いで深いサンクト・ペテルブルクに残り5年後に亡くなりました。
最後の言葉は「ニキ、今行くわ」でした。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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ロシア皇帝アレクサンドル1世妃 エリザヴェータ

2009-07-15 01:10:29 | ロシア皇妃
とっってもお姫様体質に見える…
アレクサンドル1世妃 エリザヴェータ・アレクセーエヴナ


1779~1826/在位 1801~1825

なんだか肖像画が、芸能人が描いた二科展入選の絵みたいなんですけど…

18~20世紀初頭の小説を読んでいると、よく貴婦人が失神するんですけどね
この方はそんなタイプなんじゃないかと思うのは肖像画のせいかしら?

              
                 こんな感じが…喉痛そう

バーデン公女でパーヴェルの最初の妃ナタリヤの姪にあたります。
改名前はルイーゼという名前でした。

         
可愛い孫の嫁探しをしていたエカチェリーナ2世に招かれてロシアを訪問し
その美しさが気に入られて結婚することになりました。
ルイーゼもアレクサンドルに(ハンサムだったんだって)ひと目惚れでした。

              
              あまりにも可愛いのでもう1枚のせちゃう

エリザヴェータに改名して結婚したのは15歳の時です。
元気はつらつなお年頃のはずなのですが、彼女はすぐに病にかかってしまいます。
まずは宮殿の寒さ…居間や舞踏室以外の見えないスペースはかなり手抜きだったらしい。
それからホームシック…とても仲のよい家族で母親が恋しくなっちゃったんだって。

そしてロシア宮廷…たいした娯楽がなく
(フランスには負けると思うが)淫らな雰囲気に溢れていた
宮廷の毒気にやられちゃったみたいです。
なにしろエカチェリーナ2世の若~い愛人ズーボフにも言い寄られたらしいですからね。

それに息子アレクサンドルを自分の皇位をおびやかす存在として嫌っていたパーヴェルは
エリザヴェータのことも警戒していたようです。
彼女もパーヴェルが嫌いで在位中は宮廷を避けていました。

エリザヴェータの拠り所は愛するアレクサンドルだけで
“ 彼がいなければ死んでしまう ” と記しています。

あぁそれなのに、アレクサンドルは権力者だしハンサムだからもてるじゃない?
女性たちがほっておかないじゃない? ということで愛妾を持ち始めます。
特にポーランド貴族の人妻マリーヤ・ナルイシキナとの関係は15年以上も続きます。

寂しいから…というのは言い訳になるかどうか分かりませんが
エリザヴェータも夫の友人チャルトリスキーや士官オフシニコフなどと
愛人関係になってしまいました。

あんなに怯えていた愛欲の世界に足を踏み入れてしまったわけですね。
オフシニコフは1807年に死亡していまして
アレクサンドルか王弟コンスタンチンの命令で殺害されたと噂になりました。

しかし、やはり貴族の出。
公の場やナポレオンとの戦時中はしっかり皇帝を支えたらしいですよ。

1825年、エリザヴェータは体調を崩します。
女遊びにも飽きたか妻に優しい気持ちを起こしたアレクサンドル1世は
一緒にアゾフへ療養の旅に出ることにしました。
しかしその途上でアレクサンドルが熱病で急死してしまいます。
5ヶ月後に埋葬を終えてエリザヴェータも亡くなりました。

ちなみに…
アレクサンドル1世は破竹の勢いのナポレオンを打ち破って
全ヨーロッパの王室にロシアの存在を認めさせた英雄でした。
死後1度も柩を開けることなく埋葬されたので根強く生存説が残ったそうですよ。
義経とかチンギス・ハンみたいな感じかしら?

決して幸福だとはいえない結婚生活だったかもしれないけど
最後にふたりきりの楽しい時間が持ててよかったですね。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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ロシア皇帝パーヴェル妃 マリーヤ

2009-07-11 02:31:29 | ロシア皇妃
深い愛を捧げた皇妃
パーヴェル妃 マリーヤ・フョードロヴナ


1759~1828/在位 1796~1801

醜いというレッテルを貼られ前妻ナタリヤにはすぐに愛想をつかされてしまった
パーヴェルなんですけれども、見る人によってはぜんぜん違ったようで
再婚したマリーヤは終生彼にメロメロでした。

改名前はゾフィー・ドロテアといって、ヴェルテンブルク公の娘です。
パーヴェルがナタリヤと結婚した時お妃候補にあがっていたのですが
13歳という若さだったので外されていました。
      

ナタリヤが亡くなってからパーヴェルは嘆き悲しんでばかりいたのですが
エカチェリーナ2世がさっさと再婚相手を選び結婚させてしまいました。

ゾフィーは背が高くぽっちゃりしていて、ホッペタの赤い健康そのものの少女でした。
かなり高い教育を受けていて4カ国語が操れ、芸術にも造詣が深かったそうです。

パーヴェルは第一印象で「でっかいけど、まあまあかな」などと生意気なことを
言っていますが、ゾフィーはものすごく気に入ったらしく
友人への手紙で“ 満足なんてものじゃない ” “ こんなに幸せなことはない
“ 狂おしいほど愛している ” と喜びををあらわにしています。
1788年に結婚した後も家族や友人に “ 完璧な夫だ ” とか
“ これ以上優しい夫があるだろうか” とおノロけ三昧の手紙を送っています

パーヴェルはちょっと気に入らないことがあると烈火の如く怒りだすという
扱いづらい人だったらしいのですが
マリーヤはそんな夫を敬い夫婦仲はかなりうまくいっていました。
ただそんなラヴラヴなふたりの結婚生活にも問題が…

祖母エリザヴェータに育てられたパーヴェルとエカチェリーナ2世とはあまり
会うことがなく、愛情深い母子ではありませんでした。
また、息子の方が正統な継承者だということを重々承知していたエカチェリーナ2世は
パーヴェルへの警戒を怠らず、手ずから教育していた孫のアレクサンドルを
継承者に指名しようか…などと考えるようになっていました。

パーヴェルは次第に母エカチェリーナ2世を憎むようになり
マリーヤはふたりの板挟みになってしまうような格好に…やっかいですよね。
その上、こんなに熱愛してくれる妻を持ちながらパーヴェルが浮気を始めました。
アンナ・プローヒナを愛妾にしたパーヴェルはマリーヤを遠ざけるようになります。

1796年にエカチェリーナ2世が崩御しパーヴェルが即位すると
新皇帝はことごとく前女帝の政策を転換しようとします。
自分たちの特権が危うくなった貴族たちは反感を強めていきます。
パーヴェルは神経質になり濠を廻らした館を建てて身の安全を図りましたが
1801年、クーデターがおこり殺害されてしまいました。

マリーヤはエカチェリーナ2世のように自分が煽動したわけではないのですが
パーヴェルを継いで女帝になってみようかな…などと考えます。
しかしこれは息子アレクサンドルの反対にあい実現しませんでした。

アレクサンドル1世が即位した後も、マリーヤは宮廷で最も高貴な女性として
振る舞うことを望み、皇妃エリザヴェータよりしゃしゃり出ることがあったようです。
多額の年金をもらって豪奢な生活も維持することができました。
いつまでも若々しく見えたそうですよ。 65歳で亡くなりました。

              
                貫禄が出てきた頃でしょうか?

政略結婚で好きでもない男性に嫁がされて失意の一生を送る貴婦人が多い中
相手をひと目みるなり恋に落ちることができたなんて、とても幸せなことですね。
しかも一生その気持ちが変わらないなんて…なかなかできることじゃない!
恋愛結婚でもそうはいかないものよ

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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ロシア皇帝パーヴェル妃 ナタリヤ

2009-07-10 00:14:07 | ロシア皇妃
失意の新妻
パーヴェル妃 ナタリヤ・アレクセエーヴナ


1755~1776/在位せず

ナタリヤは改名前の名をヴェルヘルミーナといい
プロシアの中堅どころの貴族ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世の娘でした。

エカチェリーナ2世が息子の嫁を探しましょうと思い
プロシアのフリードリヒ2世に相談を持ちかけたところ紹介されたのが未婚の3人姉妹でした。
エカチェリーナ2世は誰がよいのか決めかねたもので3人ともをロシアに招待し
パーヴェルが気にいったヴェルヘルミーナと結婚させることにしました。
ヴェルヘルミーナは陽気で華やかで美しくパーヴェルは狂喜したそうです。

一方パーヴェルは “ 稀に見る醜男 ” “ 目以外は醜い ” など という人もいまして
あまり容姿は良くなかったみたいです。
普段は上品で貴公子然としていましたがキレ易く、怒ると醜さ倍増だったそうです。

     

改名、改宗を経て18歳の時に結婚したナタリヤは最初の数ヶ月は
のびのびと無邪気に宮廷生活を満喫していましたが、みるみるふさぎ込むようになりました。
彼女は夫パーヴェルに失望するとともに女の幸せも得られないと絶望して
ロシア語も覚えようとしなくなり、パーヴェルのことも拒むようになって
ついにはパーヴェルの親友アンドレイ・ラズモフスキーと愛し合うようになります。
ラズモフスキーはナタリヤがロシアにやって来る時に迎えに行った人物なのですが
その時からナタリヤに惹かれていたということです。

ふたりの不倫は宮廷中に知れ渡り、ラズモフスキーは追放されそうになるのですが
ナタリヤにぞっこんLOVEのパーヴェルは不貞に気がつかず
親友を追放から守ろうと奔走する始末…お人好し

結婚から3年後、ナタリヤは身ごもりました。
エカチェリーナ2世はもちろん嫁の不貞を知っていましたが
「もう誰の子でもいいや、後継ぎさえできれば」と思っていたふしがあります。
パーヴェルだってピョートル3世の子じゃないかもしれないんだしね…

結局ナタリヤは女の子を死産した後しばらくして亡くなりました。
21年の短い人生でした。

この時期ドイツ方面との縁談が増えていますが、どうやらロシアに比べて
家庭的な雰囲気の中育ってきた娘さんが多いみたいでホームシックにかかる人続出。
それにロシアの宮殿は見た目は派手でも防寒がずさんでたいそう寒かったと
アンリ・トロワイヤは『女帝エカテリーナ』の中で書いています。
ロシア宮廷という華やかな印象とは大違いで戸惑うことも多かったんじゃないかしら?

ナタリヤはドイツにいれば、もちろん王侯妃など
トップクラスの貴婦人にはなれなかったかもしれませんが
見せかけだけの豪華さと陰謀渦巻くロシア宮廷でファーストレディになるよりは
幸せな人生が送れたかもしれないですね。

さてさて、ナタリヤには早々に失望されてしまったパーヴェルなんでしたが
次の奥様は少し事情が違ったみたい…つづく

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)

ロシアとソ連邦 講談社


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ロシア女帝 エカチェリーナ2世

2009-07-09 01:45:05 | ロシア皇妃
政治も恋も男顔負け!!
ピョートル3世妃 エカチェリーナ2世


1729~1796/在位 (皇妃)1761~1762 (女帝)1762~1796

エカチェリーナ2世に関する本はかなりあるんです。
だいたいは愛人がたくさんいたというエピソードなんですけどね。
ポーランド王スタニスワフ・アウグストやポチョムキンなどの有名どころをはじめ
少なくとも12人はいたそうです。 すごいね

改名前はゾフィー・アウグステと言ってプロシアの下っ端貴族の娘でしたが
母ヨハンナが名門ホルシュタイン・ゴットルプ家の出でロシア皇室と繋がりがありました。
かなりの野心家だった母はゾフィーを社交界に大プッシュしていまして
プロシアで教育を受けていたピョートル(後の3世)とも顔を会わせたことがありました。
母娘はロシア皇妃の座を夢見るようになります。

1744年に女帝エリザヴェータの招きを受けたゾフィーはロシアへ出向き
エカチェリーナに改名して1745年に結婚しました。

     
しばらく見ないうちに天然痘を患って醜くなっていたピョートルのことを
エカチェリーナは好きになれず、またひ弱で幼稚なピョートルも
新妻のことが苦手だったらしく、なかなか夫婦関係が結べなかったそうです。

5年ほどするとエカチェリーナはサルティコフを最初の愛人にしています。
1754年に生まれた皇太子パーヴェルはサルティコフの子だとも言われています。

ピョートルはプロイセンのフリードリヒ2世を尊敬していて、ロシア正教に改宗せず
ロシアをバカにしていました。 これが貴族や軍部の反感を招きます。

女帝エリザヴェータはいつでも離婚させてやるという姿勢を崩さないし
子供もすぐに取り上げられてしまって(6年間会っていません)
つらい毎日を送るエカチェリーナでしたが、夫が嫌われていくのを尻目に
ロシア語や習慣を身につけ着々と崇拝者を増やしていきました。

エリザヴェータが崩御して即位したピョートル3世は
エカチェリーナと離婚して愛人エリザヴェータ・ボロンツォーヴァと
再婚する気配を見せます。
身の危険を感じたエカチェリーナは、ピョートル3世がプロイセンと和平を結んで
占領地を放棄したことで貴族の怒りが高まったのを機にクーデターに踏み切りました。

ピョートルは廃位から8日後( “ 痔 ” のせいで亡くなったことになっていますが )
エカチェリーナの愛人オルロフに殺害されました。

              
            後年はゆったりしたドレスがお好みだったようです

エカチェリーナの政治的な功罪については学者の方々におまかせしてはしょります。
なにしろ賛否両論の分かれる君主なので、政治素人は黙ってます

ザックリ言うとやはり贅をつくした宮殿を建てたり文化面に莫大な国費を使っています。
ロシアが文化的・経済的に躍進して他の西欧諸国に認められるようになった反面
農民は重税がかけられ、農奴はさらに苦しい状況におかれることになりました。
またフランス革命以降はかなり警戒し、検閲を強化するなど自由主義を弾圧しています。

後年はかなり太って動くのも苦しいようでしたが最後まで若い恋人がいたのがスゴい
自分の時と同じように孫を引き取り教育するなどして過ごしていましたが
次第に健康状態が悪化し、1796年に卒中で亡くなりました。

皇妃時代も女帝になってからも自分の立場の危うさは実感していたようで
とにかく貴族や軍部の機嫌を損ねないように苦心していた印象が残ります。
手にした権力を守るということは、いつの世も並大抵なものではないようです。
とっかえひっかえの若くハンサムな愛人たちが唯一の気晴らしだったのかもしれません。

ハプスブルク家のマリア・テレジアと比較されることが多いようですけれど
政治思想やバックボーンにはかなりの隔たりがあるような気がします。
マリア・テレジアが政治面中心に語られるのに比べ
エカチェリーナは愛人とか艶話の部分がクローズアップされてしまいますよね。
かくいう私も政治的な部分には無関心だったりするんだが…

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 アンリ・トロワイヤ『女帝エカテリーナ』)

女帝エカテリーナ 上 中央公論新社


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表紙が変わっている…改訂版だそうです
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ロシア女帝 エリザヴェータ

2009-07-07 01:15:06 | ロシア皇妃
打倒ヴェルサイユ!のおしゃれ番長
エリザヴェータ


1709~1761/在位 1741~1761

エリザヴェータが生まれた時には、父ピョートル1世と母エカチェリーナ1世
結婚を公表していなかったので、正統な後継者から外されていました。
イヴァン6世の母で摂政アンナ・レオポルドヴナから疑いをかけられて
身の危険を感じたので軍部にクーデターを起こさせ即位しました。

美しい女性だったそうで、ピョートル1世も生前諸国の王侯と結婚させようとしたのですが
庶子だということが響いて縁談がまとまりませんでした。
そこでコサック兵あるいは聖歌隊員といわれるアレクセイ・ラズモフスキーという男性と
大恋愛をして、結婚したと言われています。

      

即位したエリザヴェータは、肩身が狭い時期を過ごした反動か大浪費を始めます。
彼女はヴェルサイユにメラメラと闘志を燃やしていたらしく
文化もファッションもロシアから発信してやる!と躍起になりました。

文化面ではモスクワ大学や芸術アカデミーを創設しています。
これは良しとして…

問題なのはファッションの方です。
迷惑なのは他の貴婦人たちで、おしゃれはしなきゃいけないがやりすぎはNGってこと。
ドレスを15000着持っていたというエリザヴェータは自分が1番でなくては許せず
自分より容姿が良かったり素敵なドレスを着ている女性は罰せられたらしいよ
すごく困りますよね。 命がけの舞踏会ですよ

しかしVOGUEもELLEもパリコレも無い時代。
どうやっておしゃれ情報を仕入れていたんだろう?

冬宮(現エルミタージュ美術館)など宮殿の建設にも着手しているのですが
これがまたご存知の通り贅を尽くしているわけです。
その上ダンス、グルメ、アートと湯水のようにお金を使ったエリザヴェータは
とうとうフランスの銀行から「もう金は貸せん!」と言われたりしています。

            
             エリザヴェータ、お買い物に行くの図

国政の方は任せっきりで、税制や農奴制が改定されたりして国庫や貴族は潤っていましたが
その分下層の国民の貧しさはとんでもないことになっていたらしい…
よく革命がおきなかったものです。

晩年はかなり肥満してしまったそうです。
後継者には甥のピョートルを指名し妃も選んで結婚させ孫の教育も引き受けていましたが
度々卒中の発作に襲われるようになり、1762年に亡くなりました。

しかしエリザヴェータの贅沢に驚いてちゃいけないんですよ。
ピョートルの嫁というのが後のエカチェリーナ2世です。 彼女はもっとスゴい!
アンリ・トロワイヤの『女帝エカテリーナ』によるとエリザヴェータとエカチェリーナは
あまりうまくいっていなかったようですが、さてさて…つづく

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)

ロシア皇帝歴代誌 創元社


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ロシア女帝 アンナ

2009-07-06 00:16:57 | ロシア皇妃
Uターンしてきた女帝
アンナ・イヴァノヴナ


1693~1740/在位 1730~1740

歴史にはありがちなことですが、アンナの治世の記録は
後に女帝となったエリザヴェータの時代に悪し様に書かれていることが多いということで
見直されている部分が多いようです。
激しい弾圧を行ったとされる恐怖政治も “ ビロン時代 ” という呼び名も
エリザヴェータ時代に語られたもので、おおいに脚色されているおそれがあります。

エカチェリーナ1世を継いで即位したピョートル2世は、メンシコフの娘マリーヤや
その後権力を握ったアレクセイ・ドルゴルスキーの娘エカチェリーナと婚約しましたが
結婚することなく天然痘で崩御しました。

アンナは1710年にクールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚しましたが
なんと! 新婚旅行の最中に旦那様が急死して未亡人になってしまいました。
その後はロシアへ戻らずクールラントで愛人などを持ちながら過ごしていました。
1730年にピョートル2世が未婚のまま崩御するとロシアに呼び戻されることになります。

       

エカチェリーナ1世、ピョートル2世の治世中権力を握っていた最高枢密院は
もちろん利権を手放したくないですよね?
そこで取り巻きを持つエリザヴェータやピョートル(後の3世)などは庶子扱いして排除し
アンナにもなんら権限を与えないために数々の署名をさせ女帝として即位させました。

ところがどっこい愛人ビロンとロシアに帰国したアンナは一枚上手でしたよ。
おとなしく枢密院に従っていたアンナは戴冠を済ませると “ 貴族たちの嘆願によって ”
枢密院を解散し、重鎮たちは追放などの処罰を受けました。
一手に権力を握っていた枢密院には敵が多いことはドイツで調査済みだったのです。
けれど結局政治を動かしたのは新しく組織された守旧派の内閣でした…いつか来た道です。

アンナたちを悩ませたもの、それはエリザヴェータの存在でした。
とかく移り気な貴族や軍部は、権力者やその側近たちに反感を抱くと
その対抗馬のまわりに集まるようになります。
エリザヴェータの館にも不満を抱えた貴族たちが顔を揃えるようになりました。
ビロンは秘密警察を組織して疑わしい人物を片っ端から弾圧していきました。

政治は内閣に、治安はビロンに任せていたアンナはやっぱり暇を持て余しちゃったのね。
芸術などに力を注いだのは良しとして、凍てつくサンクト=ペテルブルクの地に
氷の宮殿なるものを造っています。
莫大な費用をつぎ込んで本物の宮殿さながらに建てたんだけど、溶けました…やはり。
アンナの命令で新婚初夜を過ごした貴族もいたんですよ! 寒かったろぉ…

優しかったり残酷だったり、かなりムラ気な女性だったといわれていますが
これは当時の君主には割と多いタイプなんじゃないかしら?
今だってそういうワンマン社長とかいますよね? 権力者にありがちな傾向かと…

アンナは姪の息子にあたるイヴァンを後継者に指名しました。
この時エリザヴェータに忠誠を誓わせています。
1740年に腎臓の潰瘍で亡くなりました。

イヴァン6世は生後2ヶ月で即位しましたが近衛兵のクーデターで廃位され
リュッセンブルクの要塞に投獄されてしまいます。
エリザヴェータ、エカチェリーナ2世の治世中23年に渡って日の目を見ることはなく
最後は看守に刺されて死亡しました。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)

ロシアとソ連邦 講談社


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ロシア女帝 エカチェリーナ1世

2009-07-04 02:48:13 | ロシア皇妃
北の大地に女の時代到来!
ピョートル1世妃 エカチェリーナ1世


1684~1727/在位 (皇妃)1707~1725 (女帝)1725~1727

他のヨーロッパ諸国では皆無に等しいのではないかと思うのですが
王家と血の繋がりがあるわけでない、それも家柄もない皇帝の嫁が
帝国ロシアに君臨することになってしまいました。

エカチェリーナは本名をマルファ・スカヴロンスカヤといって
リトアニアでロシア軍の捕虜になった農民の娘でした。
17歳でスウェーデン人の兵士と結婚しています。
捕虜になった時改宗してエカチェリーナに改名しました。
       
まずは占領軍の洗濯室で働くことになったのですが
彼女は陸軍大臣に自分の下着 を差し出すという手を使って愛人の座につきます。
その後アレクサンドル・メンシコフの邸宅の小間使いになるわけですが
この人物がピョートル1世の大親友で相談役だったことが彼女の運命を大きく変えます。

メンシコフはエカチェリーナを愛人にしたもの、結婚が決まり幸せ一杯なので
ピョートルに彼女を献上した…というわけです。
ふたりは合うやいなや恋に落ちたということです。

学問より戦争が好きだったと言われるピョートル1世はこの時期
各地を転戦して野営暮らしをしていました。
エカチェリーナは彼に付いて戦地をまわり場を明るく盛り上げていたそうです。
ここまでは嫁の鏡ってかんじですね。

1707年、ふたりは密かに結婚しましたが公表されたのは1712年でした。
なにしろ元気な人だったみたいで12人の子を生んでます。(10人は夭逝)
そりゃあ容姿も崩れてきましょうよ! 贅沢と深酒が衰えに拍車をかけました。
というわけで皇帝もちょこちょこ愛妾を持つようになります。
その中でもアンナ・カンテミールとは真剣に結婚を考えたらしいのです。

エカチェリーナとの離婚を思いとどまらせたのは、若い日にふたりで戦場をまわって
苦労した日々の思い出だったそうですよ ちょっといいエピソードですね。

1725年にピョートル1世が崩御した時、宮廷には孫のピョートル派もいましたが
上級士官がこぞってエカチェリーナ派についたため女帝として即位することになりました。

ただ即位したと言っても実際はメンシコフたちが創設した最高枢密院が実権を握っていて
エカチェリーナは完全にお飾りでした。
お手すきな女帝は飽食とラヴ・アフェアに明け暮れたということになっております。

それでもピョートル1世の遺志をついでサンクト=ペテルブルクの都市整備には尽力し
ロシア科学アカデミーの創立などを果たしました。

エカチェリーナは、本当は自分の娘エリザヴェータを指名したらしかったのですが
世論に押されてピョートルを後継者に指名し、即位から2年後に43歳で亡くなりました。

活動的で陽気で少し怒りっぽいという、肝っ玉母さんタイプの女性ですよね。
勝手な意見だけど、彼女自身は権力欲はなかったのじゃないかしら?
ただ少し贅沢ができて楽に暮らせればいいという、極めて庶民的な女性だった気がします。
やるべき仕事があって動き回っていたらもっと長生きできたのかもしれません。
適材適所というのは、社会だけでなく個人にも恩恵をもたらすものかもしれませんね。

ロシアはこの後女帝が続きます。
華やかそうではあるけれど、ドロドロ~としそうな予感

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)

ロシア皇帝歴代誌 創元社


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ロシア皇帝ピョートル1世妃 エウドキヤ

2009-07-04 00:08:38 | ロシア皇妃
              他に描きようはなかったのでしょうか?
                  もう少し美しいドレスを着るとかさ…


地味だけど波瀾万丈
ピョートル1世妃 エウドキア・フョードロヴナ・ロプーヒナ


1669~1739/在位 1689~1698

ソルジェニーツィン曰く「まったく凡庸な頭脳の持ち主」というピョートル1世は
国政よりも軍の強化に人生をかけちゃったようなところもありましたが
それが幸いしたのか国は拡大し、大帝の称号まで与えられました。
ご陽気で遊び仲間が多かったらしく愛妾もけっこういたご様子です。

不毛の凍土と言われていたサンクト=ペテルブルクに首都を移転したのも
北欧に狙いを定めたという軍事的な要因があるのかもしれません。

ピョートル大帝は17歳の時に摂政ソフィアを打倒して皇帝の座に返り咲くと
3歳年上のエウドキアと結婚することになりました。

エウドキアは、これまたたいした家柄の出じゃなかったのですが
彼女を選んだのは大帝の母ナタリア・ナルイシキナでした。
なんでも権力者の高官に頼み込まれちゃったらしいです。
     
エウドキアは保守的で信心深くて、享楽好みの大帝とは見るからに水と油で
最初っから上手くいきそうもなかったんですけど、やはり大帝は我慢ができなくなり
1696年に西ヨーロッパ外遊に出ると、高官ナルイシキンに手紙を送り
“ エウドキアを説き伏せて修道院に入れちゃってよ ” と申し付けています。

エウドキアはなかなか首を縦に振らず2年ほど頑張ったのですが
最終的には離婚されスズダリに追放されてしまいました。
でも修道院には入らなかったらしくて
彼の地でステファン・グレボフという愛人までできたみたいです。
離婚できてラッキーだったんじゃ…

エウドキアはアレクセイという皇太子を生んでいます。
大帝はもちろん帝王学を学ばせて立派な後継ぎにしようと考えましたが
アレクセイは母親に似ちゃったらしく保守派でバリバリの正教徒でした。
その上、反ピョートル派の貴族たちとスズダリのエウドキアの屋敷に集まって
皇太子派を形成していました。

結局皇太子派は打倒されて、アレクセイは継承権を放棄させられ司教たちは処刑、
エウドキアも今度こそ修道院に入れられてしまいました。
さらに大帝の死後後妻エカチェリーナが女帝になると
密かにシュリッセルブルクの要塞の独房に移されてしまいました。
とても不潔で陰気な監獄だったそうです。

耐えること2年、孫のピョートル2世が即位するとまたまたモスクワに呼び戻されました。
あくまでもステータスのためにだけ呼び戻されたエウドキアは
宮廷内では役立たずで余所に自分の宮殿を持つことを許されました。
そこでノヴォデヴィチに修道院を建て、1698年に亡くなるまで暮らしました。

前には摂政ソフィア、後ろにエカチェリーナ、エリザヴェータなど強力なキャラの
女性たちがいるものですから、かなり印象が地味ですけど、どう? 波瀾万丈よね?
決して自分から動いているわけではないんですけど、巻き込まれっぷりがハンパじゃない。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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ロシア皇帝フョードル3世妃 アガフィヤ

2009-07-03 02:36:06 | ロシア皇妃
             こちらはイヴァン5世妃プラスコヴィヤです

ポーランド・スタイル流行る!
フョードル3世妃 アガフィヤ・グルシェフスカヤ


?~1681/在位 1680~1681

当時のロシアって他の欧州諸国より、専制君主国としては2、300年遅れてますよね?
貴族制もわりといいかげんだし、他国がある程度国を整えて領土拡大を狙っている時に
内紛続きでモスクワひとつ治められないとはね…高貴な家柄の他国の妃も迎えられないし。
他の欧州諸国は「ロシアってでかいけどどうなん?」と不可解なところがあったかもね。

そんなわけでアガフィヤはポーランド貴族の娘らしいということしか分かりません。
彼女のおかげで宮廷ではポーランドスタイルが流行したそうです。
結婚の翌年、出産で母子ともに亡くなりました。


おまけ
フョードル3世妃 マルファ・アプラクシナ


?~1716/在位 1682

側近にせかされてマルファと結婚したフョードル3世なんですけれども
その年のうちに亡くなってしまいました。
マルファのその後は不明です。

      


未亡人になってから大活躍
イヴァン5世妃 プラスコヴィヤ・フョードロヴナ・サルティコヴァ


1664~1723/在位 1684~1696

イヴァン5世は母方の一族のおかげで皇帝になったわけですが
共同統治者であるピョートル1世の方が人望はあったし
政治は完全に姉の摂政ソフィヤに握られていて
たぶんやることなかったんじゃないかと…

              
             こちらイヴァン5世の姉、摂政ソフィヤです
                  貫禄充分というか…見た目怖いっすね


プラスコヴィヤが32歳の時夫イヴァン5世が亡くなりました。
義弟ピョートル1世は別居中で賓客を招く時の正式な女主人がいなかったため
プラスコヴィアは宮廷に残って自分のサロンを開放していました。
大帝の結婚後もエリザヴェータ(後の女帝)やアンナ(ピョートル3世の母)など
娘たちの教育を引き受けています。

イヴァン5世の死後、高官ヴァシーリー・ユスコフと愛人関係になります。
ユスコフはピョートルが彼女のために雇い入れた人物でした。
男をあてがってやるとは…ピョートルって気配り上手な人ですね。

プラスコヴィヤは切り盛り上手だったみたいですね。
イヴァン5世の存命中にはあまり力が発揮できなかったとみえてエピソードがないんです。

              
               こちらは後年のプラスコヴィアです
                      なんていうか…おっさ…


そういえば旦那さんが亡くなった後やけに輝きだしちゃう未亡人っていますよね。
耐えに耐え忍んだ奥さんの場合が多いようだけど、彼女はどうだったんでしょうね?

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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ロシア皇帝アレクセイ妃 ナタリヤ

2009-07-01 01:04:13 | ロシア皇妃
ロシア演劇の母かもしれない
アレクセイ妃 ナタリヤ・ナルイシキナ


1651~1694/在位 1671~1676

マリーヤの死後長男アレクセイが亡くなってしまい、残ったふたりの皇子も虚弱で
後継者に不安を覚えた皇帝アレクセイは再婚相手を探しナタリヤを選びました。

ナタリヤは取りたてていうほどの家柄の娘ではなかったかれど
皇帝の親友マトヴェーエフが後見人になっていました。
この再婚にミラスロフスキー家は大反対でしたがアレクセイは再婚し
以後ミラスロフスキー家とナルイシキン家は反目し合うことになります。
         
ナタリヤは初めてモスクワに公立劇場を設立した皇妃でした。
しかも自分で脚本を書いて何本か上演したらしい…初代女流シナリオライターですね。

結婚から5年後にアレクセイが亡くなり、前妻の子フョードル3世が即位しましたが
子供たちはナタリヤになついていたようで
特にからだの弱いイヴァンは彼女を「ママ」と呼んでつきまとっていました。
親子関係は悪くなかったみたい…ただまわりの家族たちが黙っちゃいないんですよ

からだの弱かったフョードル3世が亡くなると、議会はさらに虚弱な弟イヴァンではなく
ナタリヤが生んだピョートルを皇帝に選びました。
後には大帝とよばれるピョートル1世もまだ10歳ですのでナタリヤが摂政になりました。

しかし、これにはミラスロフスキー家とイヴァンの姉ソフィヤが大反発!!
彼らはナルイシキン家がイヴァンを暗殺したという噂をたてて市民の反感を煽りました。
イヴァンはしっかり生きていてナタリヤが育てていたんだけれども
のせられた市民は反乱を起こし、ナルイシキン家の高官やマトヴェーエフは惨殺されます。

ピョートル1世は共同統治者に格下げされて、イヴァン5世が即位し姉ソフィヤが摂政に。
ソフィヤが権勢をふるっている間、ナタリヤは教会の援助を受け
身の危険を感じたピョートルとともにモスクワ郊外で侘びしく過ごしていました。

ピョートルがソフィヤ政権を打倒すると、ナタリヤはモスクワの宮廷へ戻りました。
イヴァン5世は共同統治者となって残っていたので、久々の親子対面ができたわけです。

せっかく家族が仲良くやってるのに、親戚がガタガタ言うんじゃないわよ!!
という、犬神家ばりの骨肉の争いはどの王家にもありますねぇ。
手に入る物が大きければ大きいほど、なりふり構わずになれるものなのでしょうか。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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