まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スウェーデン王カール8世妃 カタリーナ

2011-07-31 10:07:05 | スウェーデン王妃
              久々の神話シリーズ、ドールマン作ノルン

選出王の強~い味方、もてなし上手な王妃
カール8世妃 カタリーナ・カールスドッテル


1400頃~1450/在位 1448~1450

カール8世は王様の子っていうわけではなく、反カルマル派の枢密議員で
エンゲルブレクトの後を継いで内戦を続けて王に選出され
1448~1457年、1464~1465年、1467~1470年と三回も廃位・復位を繰り返したという
とってもあわただしい王様でございます。

王になる前にビィエルケ家のビリギッタと結婚していますが彼女の詳細は不明…

1438年にスウェーデン貴族家のカール・オルムッセン・アヴ・Gumsehuvudの娘で
ビリギッタの親戚にあたるカタリーナと再婚しました。

内戦続きで廃位・復位と忙しい日々ではありましたが
二人の結婚生活はとても幸せなものだったそうで、お子様も9人生まれました。
お子様たちで王侯貴族や王妃になった人はいませんけどね…

カタリーナはすごく美しく魅力的で、とても愛想が良い女性でした。
彼女が王妃だった時の宮廷は、居心地よくリラックスすることができたそうです。

1450年にカタリーナが出産で亡くなった時、カールは深く喪に服しました。

実力だけではどうにもならない中世時代の王位…とにかく味方が必要です。
お妃になる女性は家柄も大事ですが人柄も重要だったかもしれませんね。

        


物語みたい…死の床での結婚式
カール8世妃 クリスティーナ・アブラハムスドッテル


1432~1492/在位 1470

カタリーナを亡くしたカール8世はずっと独身だったみたいですけど
1470年にラーセポリ(フィンランド)の知事の娘と思われるクリスティーナと再婚しました。

カールはデンマーク王クリスチャン1世に廃位されて、1457~1464年の間
フィンランドに追放されていました。

カールは1464年にスウェーデンに戻って再び王を宣言しました。
クリスティーナはその時には愛妾としてカールについて来ました。

言い伝えによれば、カールとクリスティーナは、カールの死の床で挙式したそうです。
クリスティーナは王妃になり、既に生まれていた男の子カール・カールッセンは
嫡子として認められました。
しかしなにしろ5歳という幼さで、しかもクリスティーナに政治的な後ろ盾はありません。

カール・カールッセンは王位を譲られましたが
実際は摂政ステン・スチューレが王のようなものでした。

水を差すようですが、死の床の挙式のエピソードは臭いですね…
ステン・スチューレが幼いカールを王に仕立てて操るために
うまいことつくり出した話しかもしれません。
でも、嘘でもロマンティックではありますね。

息子のカール・ッカールッセンは23歳で亡くなります。
その後クリスティーナはひっそりと人生を送り60歳で亡くなりました。

その後もスウェーデンではカルマル同盟の支持派と反対派が戦っておりまして
王様にはデンマーク王ハンス(妃はクリスティーネ・アヴ・サッシェン)、続いて
クリスティアン2世(妃はエリザベス・アヴ・エストリク)が即位しました。

そして、やっと、グスタフ・ヴァーサによって独立を果たします。
つづく…

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王エリク12世妃 ベアトリックス

2011-07-28 21:55:22 | スウェーデン王妃
              こちらはアルベール妃リヒャルディス

ここからは駆け足です
エリク12世妃 ベアトリックス・アヴ・バイエルン


1344~1359/在位 1356~1359

エリク12世はマグヌス4世の次男で、兄がホーコンがノルウェー王に即位した後
「自分も!」と反乱をおこしてスウェーデンの共治王になったわけですが
即位してわずか3年ほどで亡くなりました。

12歳でマグヌスと結婚していたベアトリックスは、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と
ホラント伯マルガレーテ1世の皇女です。

        
ベアトリックスはエリクの死から半年ほどして、クリスマスに亡くなっています。
マグヌス4世妃ブランカによる毒殺だという噂がありますが根拠はありません。

その後反デンマーク派の貴族によって王に選出されたアルベールの
最初の妃リヒャルディスはシュヴェリーン伯オットー1世の娘です。

        
5歳の時にアルベールと婚約し、18歳で結婚し30歳で亡くなりました。

リヒャルディスの死後、アルベールはブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の
アグネスと再婚してますが、アグネスの詳細は不明です。

次にホーコン6世が即位し、次いでホーコン6世妃でデンマーク王ヴァルデマー4世王女
マルグレーテが事実上の女王になりました。

ここからエリク13世(妃はフィリッパ・アヴ・イングランド)と
クリストファ、クリスティアン1世(共に妃はドロテア・アヴ・ブランデンブリ)が
デンマーク王とスウェーデン王を兼ねます。

ドロテアはデンマーク篇でも紹介していますが、ちょいと補足を…

クリスティアン1世と再婚した時、ドロテアはノルウェーとデンマークの領地は放棄しましたが
スウェーデン内の領地は手放しませんでした。

しかしスウェーデンはカルマル同盟の中でいち早く反乱を始めた国で
エンゲルブレクトという人物が地方で王に選ばれたりしています。
デンマークの意向そっちのけで1448年にはカール8世が王の宣言をしました。

ドロテアの領地でも反乱がおこり、ネルケやヴェルムランドを失いました。

ドロテアは1455年からローマ教皇(カリストゥス3世、ピウス2世と思われる)に
援護を求めて、実権を握っていた摂政ステン・スチューレを破門にさせたりします。
このことが数年間スウェーデン政府を二分して独立を遅らせることになりました。

ただ、ドロテア自身の息子ハンスも破門されてしまいました。
ドロテアの死後破門は解かれて、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの王になります。

まだまだ北欧三国ののごたごたは続きます

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王マグヌス4世妃 ブランカ

2011-07-26 12:20:12 | スウェーデン王妃
息子殺しと言われた王妃
マグヌス4世妃 ブランカ・アヴ・ナミュール


1320~1363/在位 (スウェーデン王妃)1335~1363 (ノルウェー王妃)1335~1343

ビリイェル失脚後王に選出されたマグヌス4世はマグヌス3世の孫にあたります。
ノルウェーでもマグヌス7世として即位していました。

ブランカはナミュール候ヨハン1世の娘です。
             
マグヌス4世が直々にナミュールまで出向いて求婚したんですが
なんでそこまでしてブランカと結婚したかったのかが不明です。
美しかったんでしょうかね?

結婚にあたってブランカはノルウェーのトンスベルグ、スウェーデンのレデーゼを
領地として与えられています。

ブランカは政治でも社交の場でも精力的で、一目置かれた存在でした。

マグヌス4世はその後4世紀に渡ってスウェーデンで施行された憲法のような
地方法と都市法を制定した人物で、在位した期間も44年と比較的長い王でした。
けっこう有能な王だったのかもしれませんね。
ただ男性が好きな方でして、フィンランド公ベングト・アルゴットソンが
大のお気に入りでした。

でも、ブランカは王子も二人生んで地位も固め、夫にも影響力を及ぼしていたので
愛人が男でもあんまり気にしなかったのかもしれません。
夫婦の仲は悪く見えませんでした。

王子のうち長男のホーコンは1343年にノルウェーの王位を譲られました。
次男エリクは「兄ちゃんばっかり!」と父王に反抗しまして
1356年にスウェーデンの共治王になりました。

しかし、エリクはわずか3年後に妃のベアトリックスとともに亡くなってしまいました。
この時、瀕死のエリクが「私に人生を与えてくれた人が人生を奪うなんて…」てなことを
言ったとかで、ブランカが毒殺したと追求されてしまいました。

              
                こんなに睦まじい母子なのに…

この噂に根拠はなくて、現代の歴史学者の方々はペストが原因だと考えているようです。

1350年代はペストが北欧を襲い、スウェーデンは3分の2、
ノルウェーとデンマークは半分の人口になってしまいました。

マグヌス4世は聖ビルギッタに寄付をして修道院を充実させたことが知られていて
もちろん妻のブランカも多大な寄付をしていたのですが
聖ビルギッタは「王夫妻は二人してフィンランド公ベングトと浮気している!」と
告発していました。
恩人なのにね… 聖職者にとって、大事なのは恩だろうか? それとも倫理だろうか?

息子殺しの噂が響いたのか、ブランカは1359年以降はテンスバル城で過ごし
ノルウェー南東部を治めていました。
暮らし向きはあまり良くなかったみたいです。

ブランカは、1363年、息子ホーコン6世がデンマーク王女マルグレーテ
結婚した後すぐに病に陥り亡くなりました。
詳しい死因はともかく、葬られた場所も不明です。
よほど噂が後をひいていたと思われます。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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『死人の鏡』ポアロの活躍はとどまるところ知らず

2011-07-24 18:10:31 | アガサ・クリスティ
MURDER IN THE MEWS 
1937年 アガサ・クリスティ

1920年の『スタイルズ荘の怪事件』で登場したポアロの長篇シリーズは
2~3年おきに発表されていました。
しかし1932年からは年1冊、あるいは2冊のペースで発表されて
その間に短篇を集めたものも出版されています。
なんて精力的…

そんなわけで、いくつかの短篇はトリックが似通っていたり
長篇で扱ったテーマそっくり、というものもあるのですが
何度読んでも面白いから気にしません。
推理そのものよりも文章を楽しみながらクリスティを読んでいるという感じです。

比較的長い短篇が4篇収められています。

『厩舎街の殺人(Murder in the Mews)』
ジャップに呼び出されたポアロが厩舎街(ミューズ)へ行ってみると
若い未亡人アレン夫人が自殺していました。
しかし、医者は不自然な点が多いと言うし、同居人で発見者のプレンダーリースも
心当たりがないと言います。

この “ 自殺のようで、他殺のようで… ” は他にもいくつかありましたよね?
たいがい怪しい人物がそばにいます。
誰かを庇うためなのか、誰かを陥れるためなのか?
危うく犯人にされちゃいそうな時、ポアロみたいな人がいると助かりますね。

『謎の盗難事件(The Incredible Theft)』
客を招いた晩餐の後、メイフィールド卿の屋敷で爆撃機の設計図が盗まれました。
一番怪しいのはスパイと噂されているヴァンダリン夫人です。
しかしポアロの調査で、宿泊客全員が一度客室から出たことが判りました。

これは『教会で死んだ男』という短篇集の『潜水艦の設計図』とほぼ同じです。
後に書かれた『潜水艦~』はぐっとコンパクトで縮小版という感じ。
もちろん、まるきり同じではないです。

『死人の鏡(Dead Man's Mirror)』
準男爵ゴアに呼び出されたポアロが訪ねて行くと居合わせた人がうろたえています。
その後書斎で死んでいるゴアが見つかりました。
自殺と思われましたが、ポアロが調べるうちに家族、客のほとんどが
ゴアと遺産や金銭をめぐってトラブルを抱えていました。

こちらは『黄色いアイリス』の中の『二度目のゴング』とかなり似ています。
こちらの方が発表が早いのですが『二度目~』が原型だろうと解説に書いてました。
私はこちらの方が好きです。

『砂にかかれた三角形(Triangle at Rhodes)』
ポアロが滞在しているロードス島のホテルに、美貌のチャントリー夫人と獣のような夫
ハンサムなダグラスと地味な妻マージョリーが到着しました。
みるみる親しくなるチャントリー夫人とダグラスに、周囲は気まずい雰囲気に…
ポアロがマージョリーに島を出るよう忠告した後、チャントリー夫人が毒殺されます。

これは長篇『白昼の悪魔』と同じテーマを扱っているようです。
登場人物の顔ぶれやストーリーの展開の仕方は違いますが
なぜ男性を虜にする美貌の高慢な女性が死ななければならなかったのか…
興味津々の内容です。

たぶん「ポアロの新作はまだかいな?」とせっつかれたと思うんですよね。
似てるけど…いっか!と考えたとしても仕方ありません(冗談ですってば)
発表した後に「あ!こうしときゃ良かった!!」ってこともあったかもしれませんね。
でも大丈夫  同じものを何度読んでも面白いぐらいなんだから。

サスペンス劇場の原作になっているシリーズの作家の方々も
いろいろご苦労が絶えないでしょうね?
「あの作品と似てるけど…」なんて指摘されたりして。

ミステリーはかなり出尽くしている感がありますものね、って
他の作家のは読んでないからわかりませんが…出過ぎたことを言ってしまいました。

短編集でも満足の一冊
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね


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スウェーデン王ビリイェル妃 マルタ

2011-07-23 17:39:04 | スウェーデン王妃
              北欧神話シリーズ、Doeoler作フレイヤ

謀略家と言われている王妃
ビリイェル妃 マルタ・アヴ・ダンマルク


1277~1341/在位 1298~1318

マルタはデンマーク王エーリク5世とアギネス・アフ・ブランデンブルクの王女です。
ビュリイェルとは幼い頃から結婚が約束されていて、7歳で婚約し
スウェーデンで大きくなりました。
     
義理の母親になるはずのヘルヴィクはとてもマルタを可愛がり
マルタは充分な教育と贅沢を与えられました。
姑にいじめられる妃も多い中、なんて幸せなことでしょうね。

マルタが21歳の時に正式に結婚しました。
式は壮大で、マルタはファルチェピングに広大な領土を与えられました。
とってもお気に入りの嫁だったんですね。

結婚前から常に一緒にいましたから、新婚…て感じでもなかっでしょうけど
仲は良かったみたいです。

ていうか、ビリイェルはマルタの言いなりだったみたいで
当時スウェーデン宮廷でおこった陰謀の多くにマルタが関わっていたと言われています。

結婚の翌年には王子も生まれて一安心…だったのですが
1306年に王の弟セーデルマン公エリクとフィンランド公ヴァルでマーにいきなり捕らえられ
事実上権力を奪い取られてしまいました。
幸い王子マグヌスは廷臣が助け出して、マルタの兄デンマーク王エーリク6世のもとへ
避難させました。

結局ビリイェルは1318年に廃位されてしまいます。
エリクとヴァルデマーは同年大祝典に招かれ、そこで捕らえられて殺されるんですが
その祝典の最中マルタがいっこうに楽しそうじゃなかったってことで
この企みを知っていたのでは?…と言われています。
マルタ首謀者説もある始末…

マルタとビリイェルはデンマークに逃れました。
翌年兄エーリク6世と次男エリクが亡くなり、その翌年には長男マグヌスが殺害され
そのまた翌年に夫ビリイェルが亡くなりました。
つらいこと続きの4年間ですね。

しばらくドイツで暮らした後、1329年からネストベズの修道院の修道女になりまして
1341年に亡くなっています。
権力をめぐる争いに疲れ果てちゃったんでしょうかね?

葬られたのはリングステズのSt. Bendt's教会でした。

どうなんでしょう?
マルタ謀略家説は言い伝えが多いみたいで、ビリイェルの後に王になった
マグヌス4世(セーデルマン公エリクの息子)あたりの脚色も入っているかもしれません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王マグヌス3世妃 ヘルヴィク

2011-07-20 20:50:25 | スウェーデン王妃
心優しき王妃、息子の喧嘩に悩む
マグヌス3世妃 ヘルヴィク・アヴ・ホルシュタイン


1260~1324/在位 1276~1290

兄王ヴァルデマーを敗って王座についたマグヌス3世は
即位前に他の女性と結婚していたと言われていますが、詳細はわかりません。

即位した後に再婚した相手がヘルヴィクです。
ヘルヴィクの父のホルシュタイン伯ゲルハルトはおいといて…
母エリーザベトがスヴェルケル2世の王女と言われるクリスティーナの
子孫にあたる…らしいです。
          
1278年、ヘルヴィクの父ゲルハルトは、フォルクンガ家内の反対派が起こした
スカーラの反乱の時に捕らえられました。
ヘルヴィクも標的になっていて、市内の修道院に避難しなければなりませんでした。

ヘルヴィクが王妃になってから5年後に戴冠式がありました。
これは確認できている限りでは、スウェーデン王妃初の戴冠式だそうです。

ヘルヴィクは政治的なことに首をつっこみませんでした。
高貴な雰囲気漂う淑女で、平和主義者で、母性に溢れた女性でした。
王子ビュリイェルの妃になる予定のマルタは、幼い頃からスウェーデンで育ちましたが
ヘルヴィクはまるで我が子のように愛情を注ぎました。

とにかく敬虔な人で、いくつもの修道院や教会の設立に関係し
司教の就任式・聖人の日のミサや式典などに桁違いの寄付をしていました。

しかし、当時スウェーデンでは、マグヌス3世が導入した貴族制度のおかげで
大きな階級差ができて、農民たちが重税に苦しんでましたのでね…
強会への寄付もいいけど貧しい人たちのために使ってあげても良かったのでは?

マグヌス3世が亡くなった翌年の1291年、ヘルヴィクはヴェストマンランドにある
ダボスの領地に退いて過ごし、64歳で亡くなりました。
マグヌス3世が眠る、ストックホルムのリッダーホルム教会に葬られました。

ただですね~、こんなに愛情深く争いを嫌う母親を持った3人の王子は
やはり権力を奪おうと争うんですよね… どうしてそうなっちゃうかな?
ヘルヴィクも晩年は息子たちの確執に胸を痛めていたみたいです。

王女のインゲボリはデンマーク王エーリク7世妃になりました。
こちらも悲劇的な一生でして…
結局ヘルヴィクは、5人の子供のうち次女のサンタクララ修道院長リキサ以外
自分より早く亡くしてしまいました。

事故や病気だったら仕方がないけど、家族の争いで親より先に逝くなんて
親不孝極まりないですな!

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王ヴァルデマー1世妃 ソフィア

2011-07-19 09:59:35 | スウェーデン王妃
大ショック!な夫の仕打ちに愚痴こぼす
ヴァルデマー1世妃 ソフィア・エリクスドッテル・アブ・ダンマルク


1241~1286/在位 1261~1275

(事実上王だった父ビュリイェルはおいといて…)フォルクンガ家初代王になった
ヴァルデマーの妃ソフィアは、デンマーク王エーリク4世とユッタの王女でした。
エーリク4世はソフィアが幼い頃に(たぶん弟アーベルの差し金で)殺されました。
        
スウェーデンの実権を握っていたヤール(摂政)ビュリイェルが
スカンジナビアの王国間の和平を…という政策をかかげまして
息子ヴァルデマーとソフィアを結婚させることになりました。

縁談の話を聞かされた時、ソフィアは部屋に閉じこもり…さては抗議でしょうか?
いえいえ、「どうか幸せになれますように」と祈ったらしいです。
なんなんでしょうね? このエピソード…
さて、1261年に結婚した二人は幸せになれたんでしょうか?

ソフィアは才気にあふれ、おしゃべりも上手で、政治向きの女性でした。
王子はエリクひとりですけど、王女が5人生まれてます。

しかし、結婚から11年目、ちょっと飽きがきた頃にとんでもない出来事が…

ロスキレ修道院(デンマーク)に入っていました妹のユッタとアグネスが
姉のソフィアを訪ねてまいりました。
そしてユッタはヴァルデマーの愛妾になっちゃったのね。
翌年には子供も生まれてます。

ユッタは姉に申し訳ないと思ったのか、はたまた姉の視線が痛かったのか
2年後にはロスキレに戻りました。
ヴァルデマーは赦免を求めるためにローマに巡礼に行かなければなりませんでした。

ソフィアは「こんな悲しみは乗り越えられない。妹がいる間は地獄だったわ」と
もらしていたとか…

夫の浮気が一段落したと思ったら、また一難。
1275年、ヴァルデマーは弟のマグヌス(3世)に敗れて王座を追われました。

ソフィアはその後むっつりし、口を開けば文句たらたらだったそうです。

廃位から2年後にデンマークに戻りました。
ヴァルデマーはと言うと、投獄されたとはいえニーシェピン城の居心地のいい監獄で
けっこう愉快に暮らしてました。
おそばには愛妾も侍っていたらしいです。

「夫婦ふたりが幸せに…」という祈りは聞き入れてもらえなかったのですね。
廃位のことはともかく、夫の浮気性は神様の手にはおえないか…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王エリク11世妃 カタリーナ

2011-07-17 09:42:05 | スウェーデン王妃
強力な家柄出身、でも政治に興味無し
エリク11世妃 カタリーナ・アヴ・イェムスボリ


1215頃~1252/在位 1244~1250

6歳で即位しておきながら、クヌート2世に王座を奪われたエリク11世は
1234年に復位いたしました。

父親はビェルボ家の血をひくイェムセボリ領主スゥネ・フォルカセン、
母はスヴェルケル2世とベネディクタの王女へレナです。
      
カタリーナは一人っ子で、エリクは(というかエリクの黒幕は)
彼女の家柄を使って継承権をいっそう強化しようと考えました。

エリクが復位して10年後の1243年か1244年に結婚しています。
カタリーナは “ ちょっとした王国 ” と言われるほど広大な領地を手に入れました。

けれども、カタリーナは早速別居生活に入ります。
表舞台に出ることもなく、ひたすら信仰に打ち込んだ毎日を送りました。

言い伝えによればエリクは体が悪く、上手く喋ることができず
ものすごく子供っぽい気質の人だったみたいです。

完全に政略結婚だったわけですね。
たぶんエリクの黒幕から「形だけ…」みたいに説得されたんでしょう。

そうは言ってもエリク11世の在位は長いです。
1250年まで続きます。
実際のところ、1248年からはヤール(摂政)ビュリイェルが実権を握ってたけど…

エリク11世が亡くなると、カタリーナは全財産を親戚や教会に寄付して
さっさとGudhem修道院に入ってしまいました。
すぐに女子修道院長になったそうで、2年後に亡くなりました。
よほど敬虔な方だったとお見受けします。

もちろんお子様はいませんでしたので、王座はエリク11世の甥にあたる
ビェルボ(フォルクンガ)家のヴァルデマーに渡ります。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『ジョイ・ラック・クラブ』母娘のギャップと愛はどちらが深い?

2011-07-16 15:05:39 | アメリカの作家
THE JOY LUCK CLUB 
1989年 エイミ・タン

中国からアメリカに渡った女性たちとその娘たちのことを
エピソード形式で語っている物語です。

読む前は、祖国の習慣やしきたりを大事にしようとする母親世代と
アメリカで生まれて、かなり自由な雰囲気の中で育った娘世代の隔たりを
書いている物語だと思っていましたが、そんなに単純なものではありませんでした。

ジンメイ・ウーというコピーライターの女性が、急死した母親の代わりに
ジョイ・ラックという女性四人が麻雀卓を囲んで語り合うクラブに参加するところから
物語が始まります。

長編とはいえ、8人の女性たちのエピソードが交互に書かれているので
あらすじを書くのはむずかしいのですが、簡単に内容を書いてみます。

大きく四つの章に分かれていて
“ 千里を越えてきた母 ” は、スーユアン・ウー、アンメイ・シュー、リンド・ジョン、
インイン・セント・クレアという母親世代四人の、若い頃や幼い頃のエピソードです。
舞台はもちろん中国で、家族の掟や昔からの言い伝えなどが色濃く反映されています。

“ つまずいた子どもたち ” は、ジンメイ・ウー、ウェヴァリー・ジョン、
リーナ・セント・クレア、ローズ・シュー・ジョーダンという娘世代四人の
子供時代のエピソードです。
アメリカで生まれて中国語があまり理解できず、母親たちが守ろうとするしきたりや風習を
少し煙ったく感じています。

“ アメリカ人となった娘たち ” では、大人になった娘たちが
母親の言葉に苛ついたり不安を覚えながらも、言ったとおりになることはわかっていて
信頼せずにはいられない様子が書かれています。
感じ方は違っても「やっぱりマー(母)は正しかったのかも…」という結論に至ってます。

“ 中国の母たちの物語 ” には、やはり母親たちの中国時代の出来事が書かれています。
娘たちに知ってほしい、教訓にしてほしい…という内容ではないかと思えます。
ジンメイ・ウーのみは、母親が桂林に残してきた、父親の違う双子の姉に会いに行く話です。

四千年の歴史を持つ中国の教えや考え方が、建国300年足らずの国の暮らしで
いとも簡単に失われていくというのは、母親には理解し難いだろうし
娘たちにしてみれば、アメリカでアメリカ人として暮らしているんだから
いちいち中国のことを持ち出さなくてもさぁ…という思いもあるでしょう。

たぶん中国の人たちに限ったことではなくて、日本から移住した人たちも
ヨーロッパ各地、アジアの各地から海を渡った皆さんも同じではないでしょうか?

はたまた、移住を経験していなくても、なんだか母と娘には独特の思いがありますよね。
「私はお母さんみたいな人生は絶対送りたくない!」と若い頃はほとんどの娘が思うもの…
でもいざ結婚して旦那と暮らしてると、驚くほど母と同じことしてたりするのよね
妙なおまじないみたなことまで信じてたりして…愕然としちゃう。

この物語では異国ということでよりクローズアップされていますが
成長するにつれて、母娘間には越えられない考え方の違いが生まれてきますよね。
でも、それ以上にお互いを引き離せない何かがあるんだと思います。

父親じゃなくてすまん… ま、父親には別の思いがあるはずなんで
そういう本に出会ったら考えてみます。
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スウェーデン王クヌート2世妃 ヘレナ

2011-07-14 22:07:14 | スウェーデン王妃
               北欧神話シリーズ、Gehrts作ノルン

たぶん王を尻に敷いてた…っていう噂
クヌート2世妃 ヘレナ・ペデルスドッテル・ストランゲ


1200頃~1255/在位 1229~1234

エリク10世の死後、選出されて王座を継いだスヴェルケル2世の息子ヨハン1世は
20歳前後で未婚で亡くなりました。

そこで1222年、6歳のエリク11世が即位しました。

ちょっと順番が前後しますが、エリク11世妃カタリーナは
クヌート2世妃の後にしますね。
エリク11世が復位した後結婚していますのでね…

幼いエリク11世の摂政のような立場で国を治めていたのがクヌートでした。

クヌート2世はエリク9世の曾孫にあたりますけど、家系図から見て
もはや王位も来ないかなってポジションに見えません?

でも自分だって王族の出だし、政治を行ってるのは自分なんだからさ…と
欲がでちゃったかしらね?
1229年にOlustraの戦いでエリクを敗り王に即位しました。

そんなクヌートの妃でエリン王妃と呼ばれていたヘレナは
実のところそんなにいい家柄の出ではありません。
父親はデンマークの騎士ペデル・ストランゲッソンで
クヌートが王に即位する前、摂政をしていた頃に結婚していました。
          
実家のパックアップなのか本人が戦略家だったのか、理由がわからないんですが
クヌートはエリンのおかげで王になれたとも言われていて
陰ではエリン女王なんて呼ばれていました。

エリンは公式文書などにクヌートと連名でサインする時、
王様である夫と同じ紋章を使用していました。
これはものすごく奇妙なことで、エリンの、クヌートに及ぼす政治的な力が
どれほど大きかったかを表しています。

しかしそんなエリンの有頂天な時期は長く続きませんでした。
1234年、クヌート2世は亡くなってしまい、エリク11世が返り咲きました。

エリンは貴族フィリップ・ローレッセンと再婚しました。
でもあきらめきれないわ! ってわけで、クヌートとの間に生まれたHolmgerに
反乱をおこすようにけしかけました。
この試みは失敗し、Holmgerは1247年に処刑されてしまうんですけどね…
次男フリップも1251年に処刑されてますけど、これもエリンが反乱をおこさせた?
ちょいと不明です。

そんな息子よりは長生きし、1255年頃に亡くりました。

一度味わった王妃の座が忘れられなかったんですね。
そんな母親の野望のために若くして亡くなった息子たちが哀れです。
ま、自分の意志かもしれないけど…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王エリク10世妃 リキサ

2011-07-13 18:47:47 | スウェーデン王妃
嫁ぎ先の習慣にびっくり
エリク10世妃 リキサ・アヴ・ダンマルク


1190~1220/在位 1210~1216

エリク10世の妃リキサは、デンマーク王ヴァルデマー1世と
ソフィア・アフ・ミンスクの王女です。
姉にフランス王フィリプ2世からひどい仕打ちをうけた王妃インゲボルグがいます。

          
スヴェルケル家とエリク家の争いは、デンマークにとって対岸の火事ではありません。
デンマークは当時ノルウェーよりのエリクを嫌い、スヴェルケル2世を援護していました。

スヴェルケル2世を敗って王についたエリクは、デンマークと信頼感を築きたいと考え
リキサと結婚することにしました。

1210年、結婚のためにスウェーデンにやってきたリキサは
移動が乗り物(駕篭か馬車か不明)ではなくて馬だってことにビックリ!

たぶん、いちいち「デンマークではこうじゃなかった…」ってもらしてたんでしょうね?
スウェーデンの貴婦人や女官たちは、リキサに実家の常識は忘れて
早くスウェーデンの習慣に慣れるように言ったそうですよ。

嫁ぎ先の習慣に慣れるのって、それでなくてもなかなか大変だし
実のところ納得できないこともあるのよね
でもまわりを固められちゃあ太刀打ちできませんものね… 異国へ嫁ぐのも大変です。

1216年、エリク10世が36歳という若さで亡くなりました。
珍しく戦死とか暗殺ではなくて急な発熱だったみたいです。
リキサは妊娠していてエリクの死後王子(エリク11世)を生みましたが
一家は王に即位したスヴェルケル家のヨハン1世から追放されてデンマークへ逃れました。

スウェーデンへは戻ることなく、王子エリクの即位も
王女たちの結婚も見届けることができないまま4年後に亡くなりました。
たぶん30歳ぐらいです。

王女のインゲボルグが、王様と言っても過言ではないヤール(摂政)ビュリイエルに
嫁ぎまして、息子ヴァルデマーが王になり、フォルクンガ王家の始祖になりました。

今しばらく王座をめぐる争いは続きます。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王スヴェルケル2世妃 ベネディクタ

2011-07-11 11:15:58 | スウェーデン王妃
               北欧神話シリーズ、ルンド作ノルン

信心深いことだけ・・・
スヴェルケル2世妃 ベネディクタ・エッベスドッテル


1165頃~1200頃/在位 1196~1199

スヴェルケル2世の妃ベネディクタはデンマークのシェラン島生まれで
デンマーク貴族エッベ・スネッソン・アヴ・へヴィーデの娘です。
スヴェルケルの母クリスティーナと同じ一族の出なのですが関係が不明。
父親の母方でクリスティーナの父親と繋がっていたみたいです。
            
スヴェルケルはクヌートが王に就いている間、母親の故郷に連れていかれ
へヴィーデ一族の中で成長しました。

ベネディクタとスヴェルケルが青春時代から愛を育んでいたのか
親同士の思惑なのかは判りませんが、ベネディクタが20歳ぐらいの時
スヴェルケルと結婚したと考えられています。

1196年にクヌート1世が亡くなった時、彼の王子たちはまだ子供で
スヴェルケルが王に選出されて即位しました。

ベネディクタは王妃になった頃から、フランス帰りで聖職者中心の政治を主導していた
アンドレアス・スネッセンと親しく交際するようになりました。

ベネディクタは敬虔で、何ごとも教会や大司教オーロフの希望に沿うよう尽力しました。

お子様は3人います。
長女クリスティーナの娘クリスティーナは、スウェーデン王エリク11世妃になります。

1200年頃に亡くなっていますが、死因ははっきりしません。
出産が原因だと言われています… でーもー、スヴェルケルはすぐ再婚してるのよね。
最近何でも勘ぐるようになってしまったわ…いかんいかん



実家と権力争い
スヴェルケル2世妃 インゲゲルド・ビュリイェルスドッテル


1180頃~1210以降/在位 1200~1208

スヴェルケル2世の再婚相手インゲゲルドはビェルボ(フォルクンガ)家の
ヤール(摂政)ビュリイェルと、マグヌス2世未亡人ブリギッタの娘です。
        
スウェーデン最強の家柄をバックに夫スヴェルケルの治世をバックアップしました。

1202年に父ビュリイェルが亡くなった時、インゲゲルドとスヴェルケルは
王子ヨハンをビェルボ家の首長にしようと考えて、ビェルボ家との争いが勃発します。

1205年、オールガレースの戦いでクヌート1世の王子が亡くなると
ビェルボ家はインゲゲルドと手を切りました。

ただの家族の内輪もめじゃありません。
当時の国家権力を大きく分ける家同士の争いです。
インゲゲルドは実家と夫の関係を修復しようと頑張りましたが上手くいきませんでした。

1208年には兄クヌートがレーナの戦いで亡くなっていますし
1210年には兄フォルケがGestilrenの戦いで亡くなりました。
この戦いでスヴェルケルも廃位されてしまいました。

その後のインゲゲルドについてははっきりしていないのですが
たぶん弟のマグヌスとスコーネ地方で暮らしたんじゃないかと…追放されましたかね?
1230年頃に亡くなったと考えられています。

ここらへん、スヴェルケル家とエリク家が王位を奪い合ってます。
そこに絡んで来るのがビェルボ(フォルクンガ)家…
家系図を作ってても王家が行ったり来たりで、誰の子だかわからなくなってきてます。

王妃になったからって “ 人生上がり! ” といわけではなかったんですね。
なってからの方が厳しかったりして…

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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『黒衣の花嫁』脱力のエンディング

2011-07-10 19:12:39 | アメリカの作家
THE BRIDE WORE BLACK 
1940年 コーネル・ウールリッチ

仕事を辞めてから流行りの断捨離でも、と思ったらよけい家が汚くなった今日この頃…
気を取り直して本棚をやってみたら100冊ほどBook-offに送ることができました。

そんな中見つけたこの本、覚えがないんだけど…ということで読んでみました。

最初から犯人はわかっていて、犯行の一部始終が書かれています。

犯人はジュリーという美しい謎の女です。
事前に殺す相手の下調べをし、犯行現場に堂々と現れては堂々と去って行く…
しかし、たくさんの目撃者がいながら彼女のことは誰も知りません。

殺されたのは男ばかり4人。

株の仲買人のケン・ブリスは自分の婚約式の晩に転落死、
しがないホテル暮らしの老人ミッチェルは毒殺、
フランク・モランは自宅で窒息死、画家のファーガスンは矢で射抜かれました。

ずっとこの事件を追っていた刑事のウォンガーは目撃者の証言から
4人のつながりを発見して、犯人の動機らしきものも掴み
さらに次に命を狙われるホームズという作家を探し出しました。

ホームズの家には同じ日に二人の女が現れて、数日間滞在することになりました。

あとはウォンガーが犯人を捕まえて、動機をはっきりさせれば話は終わりです。

なにもかもわかりきったことが書いてあるわりには、ものすごく面白かったんだよねぇ。
本当に最後の最後まで、すごいスピードで読んでいたんですけど…

ラストでがっくし

これはひどいよぉ…
ミステリーやサスペンスには、読者を裏切るどんでん返しが必要だってことはわかる!
わかるけど、あまりにも脈絡がないじゃんよ!!

大好きなアガサ・クリスティを読んでいても、たまに「え? その証拠はどこから?」と
唐突な推理に驚くことがありますが、この物語にはとことん驚かされました。

犯人はわかっているから、他の部分にとんでもない間違いが潜んでいるんですよ。
書いちゃうと読みたくなくなるかもしれないので書かないけど…
「いきなりそんなこと言われてもさぁ」って感じです。
せめて何か伏線が欲しかったですよ。

映画化されてますよね。
読んでいてとてもフォトジェニックというか映画向きの話だな、とは思いました。
黒い服の美しい女性が、髪の色や印象を変えて次々と非情な殺人を犯す反面
ターゲット以外には絶対に手を下さないで巻き込まれないように気を配るフェアさ、
すごくスマートでクールです。

だけど、そのフェアさが仇となるという、かなり皮肉なラストでした。
あ、言っちゃった
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スウェーデン王カール7世妃 クリスティーナ

2011-07-07 21:14:05 | スウェーデン王妃
               北欧神話シリーズ、Sagen作ノルン

3年間の記録しかない王妃
カール7世妃 クリスティーナ・スティグスドッテル・ヘヴィーデ


1145頃~1200/在位 1164~1167

在位6年で殺害されてしまったカール7世の妃クリスティーナは
当時デンマーク領だったスコーネ地方の貴族スティグ・トークソンと
デンマークの王族マルガレータの娘でした。
          
この次期、めでたいことにウプサラに大司教がおかれることになりまして
シュテファン大司教の就任式の後の1164年に結婚したと考えられています。

しかし3年後カール7世は、次の王になるクヌートの支援者に殺されてしまって
クリスティーナは王子スヴェルケル(2世)とともにデンマークに避難しました。

クリスティーナに関して残っているのは、カールと結婚していた、この3年分だけ…
デンマークに帰ってから、いったいどうしてたのかしらね?

息子スヴェルケルが王に即位した1196年には生きていらっしゃったようです。
晴れ舞台が見れて良かったですね。



神様との約束をバッくれようとして・・・
クヌート1世妃 セシリア・ヨーハンスドッテル


生年不詳~1193年以降/在位 1167~1190

そんなわけで、カール7世を倒して王になったクヌート1世はけっこう在位が長く
セシリアも20年以上王妃だったんですが、あまり知られていません。
生年月日から家族構成、名前さえはっきりしてないという…

スヴェルケル1世の王子ヨハンが父親だという説が有力なようです。
             
1160年頃にクヌートと結婚しました。

かように影が薄いセシリアに、語り継がれているエピソードがひとつあります。

1190年頃、セシリアはかなり思い病に罹ってしまいました。
死んでしまうかも…と誰もが思っていた時、セシリアは神に祈り
「もし命を救ってくだされば、修道院に入り一生感謝を捧げます」と誓いました。

するとどうでしょう セシリアは病から回復したではありませんか!

さ、修道院に…と思いきや、セシリアは行きたくなかったのね。
クヌートも行かせたくなかったのね…そこで二人は教皇クレメンス3世に使者を送り
「もちろん感謝は捧げるんだけども、修道院入りはやめて夫婦二人で尽くします」と
願い入れたんですね。

クレメンス3世は「約束を果たしなさい!」とセシリアに王妃の座を放棄させて
修道院に入れてしまいましたとさ。
1193年頃のことだそうです。
その後のセシリアについては不明…どうなっちゃったんでしょう?

(無知故に)何度も書いてるけど、昔のキリスト教って少々狭量じゃないかい?
せっかく治ったんだから一緒にいさせてあげればよかったんではないでしょうか。
奇跡をおこしていただいても、これではありがたさ半減ね

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スウェーデン王エリク9世妃 クリスティーナ

2011-07-06 15:07:42 | スウェーデン王妃
               北欧神話シリーズ、ブルガー作ノルン

修道院に嫌がらせ? バチがあたらなければよいが…
エリク9世妃 クリスティーナ・ビョルンスドッテル


1120頃~1170頃/在位 1156~1160

エリク9世の妃クリスティーナは、デンマーク王子ハーラルの息子ビョルンと
スウェーデン王インゲ1世の王女カタリーナの娘で、まさに北欧のプリンセス。

けれども、国内においても権力争いの激しい中世の北欧…
クリスティーナの父は彼女が十代の時に、叔父(ハーラル王子の弟)にあたる
エーリク2世に敵対して処刑されました。
             
1149年か1150年にいとこにあたるエリクと結婚してます。
29歳ぐらい…ロイヤルファミリーにしては晩婚ですね。

エリク9世と言えば、フィンランドへの初の十字軍遠征を率いたりして
聖王などと呼ばれている方ですが、その奥様はいざこざをおこしてます。

相手はヴェステルイェートランドのヴァルンヘム修道院です。
クリスティーナはこの修道院を自分が親戚から譲り受けたものだと考えていて
所有権を主張していましたが、修道院は認めませんでした。

クリスティーナは腹いせに女性を修道院に送り込んで
修道僧たちの前で裸で踊らせる…などの嫌がらせをしたそうです。

とうとう修道僧たちは追い出されて、デンマークに保護を求めました。
クリスティーナに追い出された修道僧たちがデンマークに建てたのがヴィツコル修道院です。
ローマ教皇(たぶんハドリアヌス4世)はクリスティーナを破門にしようと考えたほどでした。

1160年にエリク9世が暗殺されると、クリスティーナは家族や従者たちと
デンマークに逃げ帰りましたが、その際、スウェーデン王冠を持ってっちゃったらしい…

母の執念がものを言ったか、1167年に息子クヌートがスウェーデン王に即位しました。
その頃に亡くなっているらしいのですが、いつだかはっきりしません。
息子の晴れの舞台が見れていたらラッキーですね。
でも、修道僧にひどいことしてるからなぁ…どうだろ?

王女マルガレータはノルウェー王スヴェッレ1世妃になりました。



娘に反旗を翻されちゃった
マグヌス2世妃 ブリギッタ・ハーラルスドッテル


1131頃~1208/在位 1160~1161

エリク聖王を殺してたった1年だけ王位についたマグヌス2世の妃は
ノルウェー王ハーラル4世の庶子でした。
母親は不明ですが、たぶん長い間ハーラルの愛妾で、シグル2世の母でもある
トーラ・ゴットルムスダターではないかと思われます。

母イングリッドがインゲ1世の孫娘なのでマグヌスも継承権を主張していました。
ノルウェーがのっかったんじゃないでしょうかね?
         
マグヌスの死後、ブリギッタは、当時勢力があったビェルボ家の
ヤール(摂政)ビュリイェル・ボルサと再婚しました。

ブリギッタとビュリイェルの娘インゲゲルドはスヴェルケル2世の後妻になりました。

ビェルボ家は後々王と匹敵する、というか、まさに王としか言えないヤール(摂政)
ビュリイェルを生むんですけど、当時も権力が王並みにあったと思われます。
1205年にはインゲゲルドと実家である王家の間で争いが勃発してます。

ブリギッタは夫が亡くなった1202年以降はRiseberga修道院で
静かに余生を送っていて、死後もそのまま葬られました。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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