まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

オランダ女王 ユリアナ

2009-10-17 08:05:36 | オランダ王妃
庶民派の賢王
オランダ女王 ユリアナ


1909~2004/在位 1948~1980

ユリアナは王女とはいえ宮殿内の教室で同年代の少女たちと一緒に
女性のための一般的な教育を受けて育ちました。

                
               お母様ヴィルヘルミナ女王と一緒に

しかし兄弟が生まれないまま18歳を迎えると王位継承者になることが決まるり
急ピッチで勉強が進められます。
18歳の誕生日には祝典が開かれ国会議員に指名されました。
同年ライデン大学にも入学します。

恥ずかしがりやで内気なユリアナは、国会議員のイメージにはそぐわなかったのですが
しばらくすると国民から慕われるようになっていきました。

同じ頃母ヴィルヘルミナ女王はお相手探しに明け暮れていました。
当時プロテスタントの独身の王子を探すのは至難の業だったそうです。
英国やスウェーデン王子には辞退されてしまいました。

1936年、バヴァリア冬季オリンピックで(女王のはからいがあったみたいですけど)
リッペ=ビーステルフェルト公子ベルナルドと会い婚約へ。
ベルナルドは丁寧な物腰の紳士で、真面目そうな都会人でした。

ユリアナはベルナルドを深く愛するようになります。
ふたりには戦争による別居や、ベルナルドの庶子問題などがありましたが
ユリアナの愛情は終生変わりませんでした。

結婚はヒトラーのナチス=ドイツの誕生で危ぶまれましたが無事行われます。
しかし、ベルナルドがオランダの国籍をとり名前を改めたのに
ヒトラーはふたりの結婚をドイツとオランダの同盟の証だとにおわせました。
これには激しい気性の母ヴィルヘルミナ女王が大激怒で
微妙な時期にも関わらず公式に非難しました。

いずれにしてもドイツはオランダへ侵攻してきます。
ユリアナ一家は英国へ渡った後カナダへ移りました。

カナダでは子供たちは普通の学校に通い、ユリアナはウルワースへ買い物に、
隣人に子供が生まれた時にはベビーシッターもかってでています。
庶民派のオランダ王室一家はカナダで人気者になりますが
子供たちのマナーは乱れてしまって、国に帰ってから夫婦の意見が食い違うことに…

ユリアナは君主制はいずれ廃れると考えていて、子供たちの暮らしを
できるだけ市民生活に近いものにしようと考えていました。

ユリアナはオランダに戻ると戦前におこった飢饉に対する北部への救済策を
冬が来る前に実施しようと、赤十字等にアクティブに働きかけました。
国民のために動き回る彼女の姿に国民は尊敬の念を抱き愛されるようになります。
ヴィルヘルミナ女王は退いて娘に国を託すことにしました。

ユリアナは女王になってからもちゃりんこで市内を走り回っていたそうですよ!
すごく素敵 でも現代の方が難しいかもしれませんね。
テロなんかもあるし、危なくて勝手に出歩けないかもしれない。

1980年に王位を現女王ベアトリクス女王に譲ったユリアナ女王は
1990年頃から体調が衰え公式の場には一切出なくなりました。

その後は24時間体制で看護下におかれていましたが
2004年、眠っている間に亡くなりました。
夫ベルナルド公は8ヶ月後に亡くなり、ユリアナ女王の側に眠っています。

ユリアナ女王からベアトリクス女王一家まで。
娘さんやお孫さんたちの結婚にもいろいろとあったようですが…
        

オランダか北欧だか忘れてしまいましたが、王族がちゃりんこで会社に通ってるって
以前聞いたことがありますよ。
オランダだったかなぁ…? だとしたらユリアナ女王時代に培われた
自由で庶民的な王室のスタイルが守られているのかもしれませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (7)
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オランダ女王 ヴィルヘルミナ

2009-10-16 01:09:56 | オランダ王妃
2回の大戦をサバイブした
オランダ女王 ヴィルヘルミナ


1880~1962/在位 1890~1948

ヴィルへルミナ女王は1890年に即位して1948年に退位、在位58年。
オランダ王室で最長です。
しかも正式に王位を王女ユリアナに譲ったのは亡くなった時なので
在位72年、ヴィクトリア女王より長くなってしまうんじゃなくて?
      
ヴィルヘルミナはウィレム3世の63歳の時の子供で、ものすごく可愛がられ
たいへんなパパッ子だったそうですが、10歳で父王を亡くし女王に即位します。
その時に訪問を受けたヴィクトリア女王は
“ とても優雅で可愛らしい。賢くて英語も上手に話すし、振る舞いもチャーミング ” と
書き記しています。絶賛ですな!

21歳の時にメクレンブルク=シュヴェリーン公ヘンドリクと結婚しました。
この結婚に愛はないと言われていたものの、ヴィルヘルミナは常に夫を気遣い
ふたりはお互いを思いやっているように見えたということです。

ただ、ヴィルヘルミナはヘンドリクに、オランダの政治について口を出させず
女王の夫にはつきものの “ 妻の後ろに従う夫の立場 ” を守らせました。

さらにふたりにはユリアナ以外の子供ができないのに
ヘンドリクが他所でお子様をこしらえたことが、度々夫婦に争いをもたらします。

例によって、政治的なことは学者の方々におまかせするとして…
なにしろふたつの大戦を、強国ドイツとイギリスの間で生き延びた女王です。
激しい気性の持ち主だったと言われるのもむべなるかな…

ヴィルヘルミナはボーア戦争を起こして植民地を奪ったイギリスのことが
大っっっ嫌いだったそうです 親戚なんだけどね…
20歳の時には大統領ポール・クリューガーを援護するため
オランダ艦隊をトランスヴァールに差し向け、尊敬と賞賛を浴びました。

第一次世界大戦も、良好だったドイツとの貿易維持のため中立を貫き
戦後には共産主義の台頭をおさえたものの
第二次大戦ではナチスに侵攻されて亡命することになりました。

この時女王一家に救いの手を差し伸べたのが大嫌いなイギリス…
けれどもイギリスに落ち着きBBC放送でオランダ国民に語りかけたヴィルヘルミナは
少しイギリスを見直したようです。

その後従姉妹アリスが住むカナダに疎開しましたが、従者なしでオタワの街を歩いたり
一般人と同じ汽車に乗ってアメリカを訪ねる姿が見られたそうです。

1948年には王権を放棄して人気者だった娘ユリアナに譲り
国中を旅して国民に勇気と意欲を与えて歩き、1962年に亡くなりました。

在位72年はヨーロッパではルイ14世についで2番目、世界では7番目
女性では世界一の在位期間を誇ります。

             
                  晩年の女王
              激動の時代を乗り越えてホッとなさっているのかしら?


ナポレオンの台頭と第二次世界大戦で各国の王制のあり方は大きく様変わりをしています。
日本も例外ではありませんが、王制が残っている国と廃止された国、
その経緯にはおおいに興味がありますね。
今後の課題にしてみたいと思います。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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オランダ王ウィレム3世妃 エンマ

2009-10-14 01:04:19 | オランダ王妃
老道楽者の驚きの再婚
ウィレム3世妃 エンマ・ファン・ヴァルデック=ピルモント


1858~1934/在位 1879~1890

エンマの実家はドイツの小さな公国ですが、様々な名家と縁組みをしています。
エンマの姉妹ヘレナはヴィクトリア女王の王子オールバニー公レオポルトへ、
マリーはヴュルテンブルク王ヴィルヘルム2世へ嫁いでいます。

     

そしてエンマも王妃ソフィアを亡くしたオランダ王ウィレム3世の後妻になりました。

しかしですねぇ、ふたりの年の差41歳!
その上ウィレム3世は “ 当代随一の道楽者 ” と言われた浮気な王です。
エンマの前にも姉のパウリーネやデンマーク王女ティーラに求婚してました。
60歳すぎて… お元気ですね。

再婚の翌年、ふたりには王女ヴィルヘルミナが生まれます。
ウィレム3世にはソフィアとの間に3人の子がいましたが
1890年にウィレム3世が亡くなった時、生存していた子供はヴィルヘルミナだけでした。

10歳のヴィルヘルミナが女王として即位したためエンマは摂政に就きます。
女王が18歳になるとその座を退き、王太后として晩年を送りました。
1934年、気管支炎の合併症で亡くなりました。

その後オランダはドイツの侵攻など存亡の危機に立たされます。
危機に立ち向かう娘の側にいて助けたかったでしょうね。
それともそんな悪夢を見ずにすんで良かったのかしら?

お写真から想像するに心が広そうで、包容力がありそうで、頼りになりそう。
政治的なことでなく、恋愛のことや今夜のおかずの相談にのってほしい感じですよね。

             
           若い頃も、なんて言うか…庶民的なお顔ですね

(参考文献 Wikipedia英語版)
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オランダ王ウィレム3世妃 ソフィア

2009-10-11 00:06:04 | オランダ王妃
死装束に思いを込めた王妃
ウィレム3世妃 ソフィア・ファン・ヴュルテンブルク


1818~1877/在位 1849~1877

ソフィアにはギリシャ王オットー1世との縁談があったのですが
父のヴュルテンブルク公が「できたばっかりの王国は信頼できない」と
考えて破談になりました。

1839年、シュトゥットガルトでウィレムと結婚しました。

ソフィアの母カタリーナは、ウィレム2世妃アンナの姉ですので
ウィレム3世とは従兄弟、義理の母は伯母にあたります。

       

この結婚はソフィアにとって大変不幸なものになりました。

まずは義理の母アンナ… やっぱりね
アンナはなぜか姪のソフィアとの結婚に大反対だったんですね。
そこでソフィアのことを完全無視、見向きもしません。
そんな母親にウィレムが全幅の信頼を寄せているというのも腹立たしいですね。

ソフィアはウィレム3世より、知性の面ではるかに勝れていました。
そしてそのことを隠そうとせずウィレムを見下していました。
現にウィレム3世は権威主義者で国民にも不人気だったそうよ。
ソフィアがウィレムのことを王に相応しくないと考えていることは
誰が見ても丸見えスケスケだったということです。

ソフィアは離婚を試みるも拒否され、なんとか1855年に別居にもちこみました。
その後はできるだけ故郷で過ごしていましたが亡くなったのはハーグでした。

ソフィアのたっての望みで、彼女は花嫁衣装で葬られました。
これはね…ロマンティックな理由からじゃないの。
彼女がこのドレスに込めた思いはね…
「私の人生は、結婚した日に終わった」という意味なのです。
幸せの絶頂で着るはずの花嫁衣装を、こんな形で着なければならないなんて…

            
                若い頃の肖像画
               こんなにふっくらした顔が…やはり気苦労か?


(参考文献 Wikipedia英語版)
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オランダ王ウィレム2世妃 アンナ

2009-10-09 01:33:17 | オランダ王妃
小さな王室に驚いた
ウィレム2世妃 アンナ・パウローナ


1795~1865/在位 1840~1849

アンナはナポレオンがジョゼフィーヌと離婚した後
高貴な家柄の公女と結婚したいと望んで最初に求婚した女性です。
兄のロシア皇帝アレクサンドル1世が断ったのでハプスブルク家にとばっちりが…

        

アンナは1816年にウィレム2世と結婚しました。
式をサンクトペテルブルクで挙げて1年ほどロシアで過ごした後
オランダに向かったアンナは、ロシア皇室とオランダ王室の
あまりのギャップにショックを受けました。

「え? これって王宮? 門番小屋じゃなくて? 」てな感じでしょうか。
なにしろロシアの宮殿は、寒いかもしれないけどでっかいしゴージャス。
それに比べてオランダは… 素朴でコンパクトだったんでしょうね。

それから貴族社会が小さくて、王室と民衆の距離が小さいことにも驚きました。
昔から気さくだったんですね、オランダ王室。

アンナはなかなか慣れることが難しかったようです。
慣れる気がなかったんじゃないか? とも思われます。
最後まで民衆との距離は縮まらなかったようですよ。

だいたいアンナはロシア正教からプロテスタントに改宗もしていません。
逆にロシアに嫁ぐ女性ほとんど改宗させられていたんですけどね。

ウィレム2世は浮気癖があったようで、喧嘩が絶えることがなく
結婚生活は大荒れでした。

1829年にアンナの宝石がいくつか盗まれる事件がおきると
彼女は夫に疑惑の目を向けたほどです。
ロシア皇帝一家の宝石ってすごそうじゃない?
愛人にあげたらさぞ喜ぶことでしょう… 真偽のほどは分かりませんが。

1840年に父王が退位し、ウィレム2世が即位しました。
アンナは王妃になったわけですが、その3年後にはふたりは別居します。

1849年、ウィレム2世が亡くなると息子ウィレム3世が即位します。
風格と威厳たっぷりで堂々としていたアンナは、未亡人になっても
前王妃に相応しい晩年を送ったとされています。
てことは、偉そうだったってことかしら? 次の王妃へ…つづく

(参考文献 Wikipedia英語版)
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オランダ王ウィレム1世妃 ヴィルへルミナ

2009-10-07 02:28:15 | オランダ王妃
ほとんど存在感がなかったらしい
ウィレム1世妃 ヴィルヘルミナ・ファン・プロイセン


1774~1837/在位 1815~1837

若い頃のことがさっぱり分かりませんが… 幼少期には大伯父のフリードリヒ大王に
厳しく教育されたらしいのですけれどもね。

17歳の時に従兄のウィレムとベルリンで結婚しました。
義理の母は叔母にあたるヴィルヘルミナ… けっこうパワフルです。

        

1795年、フランスの侵攻にあい、夫とともにイギリスへ逃れました。
なんとかフランスから領土を取り戻そうと試みたもののうまくいかず
1814年、やっとフランス軍が撤退してオランダに戻ることができました。

ウィーン会議の後、ウィレムは晴れてオランダ(ネーデルラント)の
初代王になり、ヴィルへルミナも初代王妃になりました。
(* ボナパルト家の王もオランダ王なんですけど
   ネーデルラント連合王国になって初めての王ということで…)

ヴィルヘルミナは極度に内気でほとんど表に出なかったそうです。
ドイツ風の装いも酷評されたそうで、ちょっと不人気な王妃でした。

              
                 若い頃のヴィルへルミナ
                   素朴で領民の娘みたいな感じですね


1820年頃から体調を崩し、もはや公の場にもめったに姿を見せなくなりました。

肖像画で判断するのはいかん!と思いつつ、アクティブでご陽気には見えないものね。
初代王妃ですから期待も大きくてプレッシャーだったでしょうが
もう少し華やかさが欲しい…

ウィレム1世の晩年には暴動はおこるし、ベルギーは独立しちゃうしで
退位することになるのですが、王妃が人気者だったら少しは違ったかもしれない…
男性の地位が高くなればなるほど、妻の力ってけっこう大きいと思うよ。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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オランダ王ローデウェイク2世妃 シャルロッテ

2009-10-06 02:09:35 | オランダ王妃
“ もと王 ” に嫁いだ王女
ローデウェイク2世妃 シャルロッテ・レオポルディーネ・ボナパルテ


1802~1839/在位せず

シャルロッテは王妃ではないのでどうしようか迷ったのですけれど
とりあえず流れで入れてみた。

ローデウェイク1世はオランダのためを考えて兄ナポレオンに逆らったために
退位させられるのですが、父の退位から伯父ナポレオンのフランス軍侵攻まで
10日間王の座についたのが6歳の息子ナポレオン・ルイ(ローデウェイク2世)でした。
シャルロッテがルイと結婚したのはもちろんもっと後なので王妃にはなっていません。

シャルロッテの父はナポレオンの兄ジョセフで、ナポリ王、スペイン王になった人物。
ジュリー・クラリーは、ナポレオンの恋人で後のスウェーデン王妃デジレの姉です。

         

父ジョセフは(私はひどい男だと思うんだけれども)スペイン王を退位すると
アメリカに広大な土地を買ってさっさと移住してしまいました。 妻子は残してね!
しかもスペイン王室から名画を持ち出していて
アメリカではたいしたコレクターと見られていました。

シャルロッテがルイと結婚したのはワーテルローの後だと思うのですが
はっきり分かりません。
直後だと13歳だからなぁ… もう少し後でしょうけど
ボナパルト家結束&再興のための結婚だったようです。

1821年から1824年まで、アメリカの父のもとに滞在しています。
その間ニュー・ジャージー近郊の風景画を多く描いています。
結婚はその後かしらね?

シャルロッテがパリで彫金やリトグラフの勉強をしていた時には
芸術家のルイ・レオポール・ロベールと愛し合っていると噂になっていました。
これが結婚前か結婚後かが不明。

36歳の時に出産で死亡したことになっているのですが
夫ルイはその8年前に亡くなっていまして…
(ちなみにルイ・レオポール・ロベールも4年前に亡くなってます)
いったい誰の子か?

シャルロッテは何点か肖像画も描いています。
腕前がいかのほどのものか作品をさがしてみたのですが発見できませんでした。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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オランダ王ローデウェイク1世妃 オルタンス

2009-10-05 01:04:28 | オランダ王妃
ナポレオンに愛された義理の娘
ローデウェイク1世妃 オルタンス・ド・ボーアルネ


1783~1837/在位 1806~1810

オルタンスはナポレオンの最愛の人、ジョゼフィーヌ の連れ子です。
ジョゼフィーヌの再婚のいきさつは省くとして
ナポレオンは彼女の子供たちを実の子のようにかわいがっていました。

      

オルタンスはナポレオンの妹カロリーネとともに教育されました。
背が高くスレンダーで、顔立ちが美しい少女でした。
音楽好きでアマチュア作曲家だったオルタンスは
ナポレオン軍のためにいくつか行進曲も作曲しました。

ナポレオンはお年頃になったオルタンスを、弟のルイと結婚させることにします。
義理の娘可愛さからか、一族の結束を強化したのか、はたまた
娘をナポレオンの弟に嫁がせれば安心と考えたジョゼフィーヌの影響によるものかは
分かりませんが、この結婚はあまり幸福ではなかったみたい

オルタンスはお美しい上に母親に似て社交的だったのね。
その上19歳という遊び盛りです。
一方ルイは精神的に弱いところがあり沈みがちで
一時はホモセクシャルにもはしったということで、夫婦生活は愛のないものでした。

               
                   肖像画をもう一枚
                   やはりお美しいという噂は本当だったみたい


1806年、ナポレオンにオランダ(ホラント)王に指名されたルイは
ローデウェイク1世としてハーグに赴きオルタンスも従いましたが
1810年に退位するとルイはドイツへ、オルタンスはフランスへ向かい
ふたりは別居、事実上の離婚ということになりました。

自由の身になったオルタンスは、かねてから想いを寄せていた
フラオー伯シャルル・ジョセフの愛にこたえることにします。
1811年にはジュネーブでシャルル・オーギュストを極秘の内に生みました。
シャルルは後にルイとの息子フランス皇帝ナポレオン3世によって
モルニー公に叙位されています。

1814年のブルボン家再興の時には、オルタンスはロシア皇帝アレクサンドル1世の
保護を受けて、その口添えでルイ18世からサン・ルー公爵にも叙位されました。
それなのに! ナポレオンが俗に言う百日天下でパリに戻って来ると
オルタンスは全面的に義理の父をサポートする側にまわりました。

アレクサンドル1世といえば、ナポレオンを打倒したことで
ヨーロッパで一目おかれる存在になった皇帝です。
ルイ18世はナポレオンの宿敵以外の何者でもありません。
そんなふたりを手玉にとるなんて、大人しそうな顔してやり手だね!

もちろん、ナポレオンの失脚後はフランスから追放されちゃいました。
ドイツやイタリアを渡り歩いた後スイスのアレネンベルク城に落ち着き
亡くなるまで過ごしましたが、ボナパルト家再興の夢は捨てなかったらしいですよ。

義理の父親だし、母親は離婚されてるんだし、夫とも縁は切れてるのだし
大人しくしていたらフランスで安泰に暮らせたかもしれなかったのにね。
何が彼女をそうさせた? ナポレオンとの思い出だろうか?
義理深い女性だったんですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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オラニエ公ウィレム5世妃 ヴィルヘルミナ

2009-10-03 10:38:20 | オランダ王妃
野心満々の兄を助けた公妃
ウィレム5世妃 ヴィルヘルミナ・ファン・プロイセン


1751~1820/在位 1767~1802

ヴィルヘルミナはウィレム5世のまた従妹にあたります。
16歳の時に結婚しました。

    

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の孫ヴィルヘルミナは
気位が高く政治的野心が旺盛な女性でした。
それに、プロイセン王になって間もないホーエンツォレルン家は
領土拡大を狙っていたに違いありません。

1787年には兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が革命鎮圧の名目で侵攻してきます。
ヴィルヘルミナは兄王とともに力を持つことになりました。

革命派の多くはフランスへ逃れますが、1795年のフランス革命後に
共和党政府の援助を得てオランダに舞い戻ってきました。

ネーデルラントはフランス軍によって崩壊し
ウィレム5世は従兄弟にあたる大英帝国王ジョージ3世を頼ってイギリスへ逃れ
その後は領地であるナッソウとブルンスウィックを転々とする生活。
革命の時には、グエルダースに移した宮廷をハーグに戻そうと頑張って
家臣たちから引き止められたこともある彼女です。
こんな亡命生活をどう思っていたでしょうね?

1806年にウィレム5世が亡くなると、同じく未亡人になっていた娘フレデリカと
一緒に過ごすようになります。

そんな地味目な生活におさらばの時が!
1814年、父親と亡命していたウィレムが戻ってきてオランダ王になったのです。

ナポレオン・ボナパルトの失脚がもたらしたラッキーな結果だとはいえ
再びオランダに君臨することになった息子… 嬉しかったでしょうね?
その後はネーデルラントにに戻って1820年に亡くなりました。

息子の嫁ヴィルヘルミナは姪にあたるし、かなり大人しい性格…
宮廷では存分に親分風を吹かしたんじゃないかしらねぇ。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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オラニエ公ウィレム4世妃 アンナ

2009-10-01 01:56:16 | オランダ王妃
ヘンデルの愛弟子
ウィレム4世妃 アンナ・ファン・ハノーファー


1709~1759/在位 1734~1751

アンナは大英帝国王ジョージ2世の王女で、ハノーヴァー家(ドイツ系)だから
どこかで繋がってると思うんですが、ちょっと見つけられませんでした。
      
17歳の時にセント・ジェームズ宮殿で式を挙げました。
その時音楽を奏でたのはヘンデルです。
アンナはヘンデルから声楽やハープシコードを習っていたことがあり
ヘンデルのお気に入りでした。

アンナはその後もヘンデルの庇護者で、彼のオペラには足を運び寄付もしていました。
ヘンデルはアンナが流産した時にオペラの上演をとり止めたこともあります。

ウィレム4世が1751年に亡くなると、3歳の息子が後を継ぎアンナが摂政になります。
彼女は決断力があって良いリーダーの資質を供えていましたが
権力は人を変えてしまうものなのかしら? 次第に気紛れな暴君になっていきました。

アンナは8年後に亡くなるまで摂政の座にとどまりました。

この頃には、フランスに併合されたオランジュ(オラニエ公領)の領主としてよりも
オランダ総督としての戦いや政治が大きな割合を占めていたと思われます。

ヨーロッパはそろそろ激動の時代を迎えようかという時期です。
11歳の息子ををおいて逝くのは心配でもあり、無念だったでしょうね?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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オラニエ公ヤン・ウィレム・フリーゾ妃 マリーア・ルイーゼ

2009-09-30 01:21:50 | オランダ王妃
家系図しかありませんけど・・・
ヤン・ウィレム・フリーゾ妃 マリーア・ルイーゼ
               ファン・ヘッセン=カッセル


1688~1765/在位 1709~1711

王妃メアリ-2世との間に子供がいなかったウィレム3世は
後継者に甥のヤン・ウィレム・フリーゾを指名しました。

この継承にはプロイセン王フリードリヒ1世が異議を唱えます。
なぜならばフリードリヒ1世にも母方からオラニエ公フレデリク・ヘンドリクの
血が流れているからです。 家系図をどうぞ。

      

結局継承問題は長引き、息子の代まで持ち越されます。
この時にオラニエ公の力はぐんと弱まったものと思われます。

マリーア・ルイーゼについては、夫の死後6週間でウィレム4世を生んだ意外に
なにも書くことがないのです。
夫が急死したためマリーア・ルイーゼの在位も短いものでした。
エピソードがないところみると、可もなくなく不可もなく… という
平凡な公妃だったのでしょうね。

夫と敵対するプロイセンと実家が婚姻関係で繋がりを強化しているのが興味深いので
家系図をのせておきますね。
        

(参考文献 Wikipedia英語版)
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オラニエ公ウィレム3世妃 メアリー2世

2009-09-27 01:32:10 | オランダ王妃
イングランド女王でもありました
ウィレム3世(イングランド王ウィリアム3世)妃 メアリー2世


1662~1964/在位 (イングランド女王)1689~1694
          (オラニエ公妃)1677~1694

イングランド女王メアリ-2世のところで紹介したので簡単に…

父王ジェームズ2世はカトリックだったために国を追われることになったのですが
メアリーは妹アン(後の女王)とともにプロテスタントとして育てられました。

伯父のチャールズ2世は、メアリーとフランス王太子ルイを結婚させようとしましたが
フランスはカトリックだったので議会の反対にあい破談に。
オランダ方面と関係を強化したかったチャールズ2世が次に選んだのが
オレンジ公ウィレム2世の公子ウィレムだったわけですね。

      

その後はイングランド女王のところに書いてありますが
私はひとつ勝手な想像をしてました。

それは、ウィレム3世が亭主関白でメアリーは弱々しかったんじゃないかしらね~
付き従っているだけの女王じゃないかのか? と思っていたのですが
どうやら違ったみたいです。

夫に従順ではあったみたいですけど、統治者にも相応しい人物だったらしく
戦争で留守がちだった夫にかわってイングランドを守りました。

ウィレム3世はなかなかの名君だったようで、イングランドでも政治改革をし
フランスの侵攻も阻止して、ネーデルラントの勢力維持に努めました。

夫唱婦随で会社を大きくしていく社長夫妻みたいね。
鳩山&幸も今のところはそんな感じに見えますが…

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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オラニエ公ウィレム2世妃 マリーア・ヘンリエッテ

2009-09-25 01:55:21 | オランダ王妃
故国を捨てられなかった公妃
ウィレム2世妃 マリーア・ヘンリエッテ・スチュアート


1631~1660/在位 1647~1650

マリーアはイングランド王チャールズ1世の王女なのですが
イングランドで初めて“ プリンセス・ロイヤル ” の称号を与えられています。
母であるフランス王アンリ4世王女アンリエッタ・マリア
「フランスの “ マダム・ロイヤル ” みたいのがほしいわ~」と言ったそうです。

チャールズ1世はマリーアをスペイン王フェリペ4世と結婚させたかったのです。
それから従兄弟のプファルツ選帝候カール・ルドヴィクからも
しつこく求婚されていました。

母后アマリエの押しの強さに負けたのか、結局オラニエ公子ウィレム(後の2世)と
9歳の時に結婚しました。 9さいって!
実際にお嫁に行ったのは10歳になってからです。
でも小学校5年生でしょぉ?10歳って… お母様と一緒に海を渡りました。

      

1647年に、夫ウィレムが若くして父の後を継いだのですが
3年後に天然痘で亡くなり、その後を継いだのはマリーアのお腹の中にいた
ウィレム3世、父の死から数日後に生まれました。

マリーアは母親ですから後見人になったのですが、19歳という若さだったので
同時に義母アマリエも後見人になりました。
たぶんアマリエに仕切られてたと思うよ…

マリーアは実家に対する愛情が深いってことでオランダで不人気でした。
イングランドではピューリタン革命から王党派と議会派の争いがおこり
チャールズ1世が処刑されてしまいます。

兄のチャールズ2世やヨーク公ジェームズ(後の2世)たちが亡命して来たので
マリーアは、そりゃあ受け入れますよね? 兄弟姉妹ですもの。
でもその歓待ぶりが国民の怒りを招き、ついには家族との関わりを禁じられてしまいました。
さてはチャールズったら豪遊しちゃった? たくさんの女に手を出したとか?

マリーアは1654年から3年間、オランダを離れてすごしました。
1657年、国に戻ってウィレム3世の摂政に就きましたが
アンリ4世がオラニエ公国をフランスの直轄領にしようとやいのやいの言ってきて
幼い領主を抱えたマリーアの立場は厳しいものになりました。

1660年、イングランドが王政復古になり兄のチャールズ2世が即位すると
マリーアの立場は俄然高まりましたが、そんな思いも束の間
イングランドに帰ったマリーアは天然痘で亡くなりました。

              
                 お輿入れした当時のマリーア
                       The 王女って感じですか


幼い頃に家族と離れて…どんな理由であれ家族が訪ねて来るというのは嬉しくて
おもてなししたい気持ちは分かりますよね。
ただ、当時は些細なことが戦争の口実になってしまうから
巻き込まれたくないという気持ちも分かる…
フランスなんか手ぐすねひいて待ってたでしょうからね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (3)
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オラニエ公フレデリク・ヘンドリク妃 アマリエ

2009-09-24 00:34:28 | オランダ王妃
義兄の意志を継いだ公妃
フレデリク・ヘンドリク妃 アマリエ・ファン
                  ソルムス=ブラウンフェルス


1602~1675/在位 1625~1647

フレデリク・ヘンドリクの前には、それぞれ母親の違う兄がオラニエ公を継いでいました。
フィリップス・ウィレムはコンデ公女エレオノールと結婚しましたが嫡子無し
マウリッツは生涯独身で庶子はいたのですが嫡子はいませんでした。

ソルムス=ブラウンフェルス伯の娘だったアマリエは、ブラウンフェルス城で育ち
ボヘミア王フリードリヒ5世妃エリーザベトの侍女になります。

      

フリードリヒ5世が皇帝争いに敗れてプファルツが攻められると
アマリエは妊娠中のエリーザベトと一緒に逃げることになりました。
けれどもハプスブルク家のフェルディナント2世からお達しが出ていたため
どこもフリードリヒ5世一家を受け入れようとしません。

やっと受け入れてくれたのがオラニエ公マウリッツです。
マウリッツの保護を受け度々宮廷を訪れている間に
弟のフレデリクがアマリエを見初めました。
侍女ですから愛人になっちゃうのが普通なのですが、アマリエは拒み続け
あくまで結婚を主張しました。

そんなふたりを端で見ていたマウリッツは、亡くなる時に結婚を約束させます。
というわけで1625年、フレデリクとアマリエは結婚しました。

マウリッツは着々と領土を拡大し、軍部を強化してスペインと争っていました。
この意志を継いだのはどちらかというとフレデリクよりアマリエで
ふたりは引き続き公国を拡大していきました。
ハウステンボスを含むいくつかの宮殿もこの時期に建設されています。

それからアマリエは縁談にとても熱心で、娘たちをドイツの王族たちに嫁がせ
息子のウィレムとイングランド王女メアリーとの結婚をまとめました。
もしかすると、仕えていたエリーザベト(イギリス王室出身)の口添えが
あったかもしれませんね。

フレデリクが1647年に亡くなリ、後を継いだ息子ウィレム2世が若くして亡くなると
アマリエは孫であるウィレム3世の後見人を務めています。

スペイン王フェリペ4世は、80年戦争終結後の1649年に
トゥルンホルト一帯をアマリエに譲渡しました。 領土はさらに拡大です。

マウリッツはアマリエの能力を見抜いていたのかもしれないですね。
愛人にはおしい!! と思って義弟に結婚を踏み切らせたのかもしれません。
アマリエもよくその期待に応えましたよね。

ちなみに、日本とオランダの交易はマウリッツの時代に始まっています。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (1)
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オラニエ公ウィレム1世妃 シャルロッテ

2009-09-20 11:24:21 | オランダ王妃
看病疲れで命を落とす
ウィレム1世妃 シャルロッテ・ド・ブルボン


1546~1582/在位 1575~1582

シャルロッテは少女の頃、サン・バルテルミーの大虐殺を経験しています。
宮廷にも、サン・バルテルミーに賛成した父モンパンシェ公にもショックを受けて
1572年にカルヴァン派に改宗しました。
そして、両親の手が及ばないプファルツ領に行くと宣言したそうです。
         

だからネーデルラント方面に嫁に来たのかしら?
ウィレムもプロテスタントだし、当時ネーデルラントではスペインを追われた
プロテスタントの移民を大量に受け入れておりました。

シャルロッテは1582年に亡くなったのですが、どうやら暗殺未遂にあった
ウィレム1世の看病疲れが原因のようです。




              
夫の死を予期していた?
ウィレム1世妃 ルイーズ・ド・コリニー


1555~1620/在位 1583~1584

ウィレム1世は4度目の結婚をしますが、ルイーズは初婚でなく再婚でした。
ルイーズは17歳でシャルル・ド・テリニーと結婚したのですが
彼女の父親とともにサン・バルテルミーで殺されてしまいました。
         

1583年に結婚したルイーズは、バルタザール・ジェラールに注意するよう
再三ウィレムに警告していたと言います。
彼女には、バルタザールが邪悪な人間に思えたのです。
1584年、ウィレム1世はそのバルタザールに暗殺されました。

ルイーズは自分の息子と、シャルロッテが遺した6人の子供を教育し
プロテスタントの擁護者として人生を送りました。

奇しくもサン・バルテルミーで人生が変わってしまったふたりの女性が
ウィレム1世の公妃になっています。
片や虐殺者の娘、一方は犠牲者の娘で妻、まるでドラマのよう…
カトリックとプロテスタント、お互い違う立場で経験したのですが
いずれにしても心に深い傷を負ったにちがいありませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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