NHKが放送した「1週間で資本論」を日本共産党の政策とのかかわりで考察したいと思います。
ルールある経済社会の原点は「資本論」のどこにあるか?
不破哲三ー「激動の世界はどこに向かうか」から引用したいと思います。
「ルールある経済社会」がどう形成されてきたかを、マルクスから出発してもう一度研究しなおしました。
ヨーロッパの現状を見るときには、「資本論」で展開しているマルクスの「労働日」論が非常に重要なのです。資本主義的搾取の横暴さ、残酷さがいちばん最初に出てくるのが、労働日(一日の労働時間)の延長でした。労働時間を増やせば、それ以上の倍率で剰余価値が増えるわけですから、資本は時間延長に熱中したのです。
イギリスの労働者たちは、この非人間的な資本の攻撃にたいし「半世紀にわたる」闘争をやりぬいて、1848~50年についに10時間労働法を勝ち取りました。マルクスは、『資本論』のなかで、この闘争の経過とその意義を詳しく解明しました。そこに実は、今日の「ルールある経済社会」を分析する大事なカギがかくされているのです。
マルクスの「労働日」論には、分析の重要な角度がいくつも提供されています。
利潤第一主義の害悪を語るときによく引かれる「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」という言葉も、そこに出てくるものです。
資本というものは、善意であれ悪意であれ、互いの競争で労働者を極限までしぼりとるところへ駆り立てられる、労働日をどこまでも延長したら、労働者の健康と寿命をすりつぶして、労働者の存続まで危なくなってくる、それでもこの過酷な搾取を自分ではやめられないものだ、こう分析して、資本のその魂を「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」の言葉(日本の諺なら「後は野となれ山となれ」)で表わしたのです。
そこからマルクスが引き出したのは、資本のその横暴をおさえ、労働者の健康と寿命、人類の存続をまもる道は、「社会の強制」で資本をしばる以外にない、こういう結論でした。イギリスの労働者階級は、「内乱」の言葉もあてはまるようなはげしい長期の闘争をへて、まさに労働日を制限する「社会の強制」・工場法をかちとったのです。
* 「社会の強制」。マルクスの言葉は、次のとおりです。
「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!これがすべての資本家およびすべての資本家国家のスローガンである。それゆえ、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」(『資本論』②464ページ)。
ここで冒頭にあげられているスローガンは、フランス革命に先立つ時期に、国王ルイ15世の愛人だったポンパドゥール侯爵夫人がいった言葉だとされています。こんな贅沢三昧をやっていると財政破綻をきたすと忠告されたのにたいし、この言葉で言い返したというのです。
「労働日」論には、もう一つ、工場法の意味を表現する言葉として「社会的バリケード」という言葉も出てきます。この大闘争から出てきた労働者は、階級的に成長し、それ以前の労働者とは姿が変わっている、ことを指摘した文章です。労働者たちは結集して、階級となり、労働者とその種族を「死と奴隷状態」におちいることを阻止する「強力な社会的バリケード」〔*〕を奪取した、というのです(同前525ページ)。
* 「社会的バリケード」。これまでの訳書では、「社会的防止手段」あるいは「社会的障害物」という訳語があてられていますが、マルクスの真意に近い訳語として、この言葉を選びました。
マルクスは、資本主義の搾取をなくすために、社会革命が必要なことをもっとも明確に主張した革命家でしたが、革命の日まで労働者が資本の横暴をだまってがまんすべきだと説く待機主義者ではありませんでした。
彼は、『資本論』のなかで、資本主義の枠内でも「社会の強制」によって資本の横暴を制限することは可能であり、闘争によって「社会的バリケード」をかちとることが、労働者階級の存続と発展のための重大な任務であることを、明らかにしたのです。 私は、ここに今日の「ルールある経済社会」の原点がある、と位置づけています。