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遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



  今日は“ラストフレンズ”の最終回です。このテレビドラマをご存知ない方のために….

  美知留(長澤まさみ)瑠可(上野樹里)は高校時代同級生だった。美知留は恋人の宗佑(錦戸亮)と暮らしはじめるが、ドメスティックバイオレンスに遭う。暴力をもってしか愛せない宗佑にはなにか過去があるらしい。瑠可は身をもって宗佑の暴力から美知留を救うが、実は性同一性障害で美知留を深く愛していたのだ。

  そのことを知ってしまった瑠可は事実を受け入れることができなくなって逃げ出してしまう。もうひとりこのふたりと深く関る登場人物水島タケルがいる。タケルは瑠可を愛していた。そして瑠可が性同一障害と知っても瑠可を理解し見守ろうとする。一方美知留はタケルを愛しはじめていた。

  美知留は宗佑のマンションに荷物を取りに行く。美知留は再び宗佑の暴力に遭う。そこで美知留が知ったことは?視たものは!?一方瑠可は優勝を期しモトクロス選手権に臨もうとしていた…..さて続きはいかに……..。


   主役は美知留のようですが、回を追うごとに娘たちとわたしは瑠可目線になってゆきました。現在の恋は不倫も身分差も(不治の病も!)障害にはなりませんが、同性への恋というものは、同性の婚姻届が認められたカリフォルニアとは違って日本ではまだ充分禁忌といえるからでしょう。瑠可の震える心に見ているわたしたちも同化してしまうのです。

   瑠可の恋は身もこころもひとつになることを求めたのでしょうか?それを求めたとき 恋の苦しみがはじまります。ひとつになりたい…それは愛する者のあるがままを愛でる….とは別のもの……わがものとしたいという我執を含んでいるからです。……恋の必然は愛の堕落なのでしょうか。

   恋…….運命の糸にひかれるように邂逅し、求め合いあるいは奪い合う恋………そのまえにもっと透明なものに向かってなげかけられたエチュードのようなほのかな想いがあるような気がします。……聲を聴くだけで胸の奥がときめく……..その聲をもっと聴きたい……気配を感じていたい……その視線のさきにあるものに向かってともに歩きたい……せめてみつめつづけたいという想い……。

   女子高校だったせいもあるのでしょう、わたしのエチュードも同性に向けたものでした。ガールスカウトのいつも笑顔で黙々といちばん重い荷を運んでいたリーダー、パーソナルストーリー「ふらんす窓から」で語ったD、「立ってゐる木」で語った夏樹、そして昨夜15年ぶりでであったM…….彼女たちのまっすぐなまなざしや潔さが好きでした。人間としての格といったらおこがましいかな…..ひとに対して媚ることなく、奢ることなく、木のように堂々としているところが好きでした。

   のちのち ひとなみに恋もしましたが、恋人になってしまうと残念ながらあこがれる…..夢みる、渇仰するという、ひとの理想や天上の高きにつながるような想いは失せてしまうのです。身体というものに縛られるからかもしれません。恋するとは肉に埋もれながら天を希求するという二律背反を宿命とします。歴史上には身を滅ぼした恋人たちもいれば、燃え上がる想いと逆境によって浄化された恋人たちもおりました。


   さて、美知留は自分の枠を越えて成長できるのでしょうか。瑠可はしあわせを掴むことができるのでしょうか。タケルはふたりを見守りつづけるのでしょうか。宗佑の闇はなんだったのでしょう.....さぁ家に帰って見ることにしましょう。


   ものがたりの最大のテーマ.....恋。ものがたりを震えるような感受性で理解し、自ら恋するごとく聲と魂をひとつにして伝えられたら……語り手に最もひつようなこことのひとつはみずみずしい恋する心を忘れないことかも知れません。





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あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る
...........額田王

うらうらに 照れる 春日に 雲雀あがり 情悲しも 独りしおもへば
...........大伴家持

ひさかたの 光のどけき 春の日に しず心なく 花の散るらむ
............紀友則

願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃
............西行

心から 心にものを思はせて 身を苦しむる わが身なりけり
............西行

春風の 花を散らすと 見る夢は さめても 胸のさわぐなりけり
............西行

いざ行かむ 行きてまだ見ぬ 山を見む この寂しさに 君は耐ゆるや
............若山牧水

かがやける ひとすぢの道 遥けくて かうかうと風は 吹きゆきにけり
.............斉藤茂吉

あかあかと 一本の道 とほりたり たまきはる我が 命なりけり
.............斉藤茂吉

朝なれば さやらさやらに 君が帯 むすぶひびきの かなしかりけり.
..............古泉千樫

チューリップの 花咲くような 明るさで あなた 私を 拉致せよ二月
.............俵万智

目の前を 堕ちてゆく葉も 私も むかしは一度 幸せでした
..............岡しのぶ

観覧車 回れよ 回れ 想ひ出は 君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)
...............栗木京子


....万葉集から平成までの和歌をならべてみました。よかったら声に出してみてください。額田王の歌 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや....野をかさねてゆく、想いもかさなってゆく...とても心地よい歌ですね。大伴家持 に に ひ り り し しのイ行の韻、ラ行の韻  紀友則 の、の韻。西行の和歌は近代の自我につうじるものがあります。自然への憧憬がありながら自分の意識と溶け合う至福のなかにはいない。若山牧水のむ、ぬ、む、ゆるの韻 意志と叙情、雪崩落ちそうにいながら踏みとどまる...うつくしい歌ですね。斉藤茂吉のカ行の韻 硬質の悲しみを秘めた耀きのある歌...古泉千樫のさやらさやらに むすぶ響きの に後朝の別れ 障子に透ける朝のひかり、畳の翳まで見えるようです。俵万智の14重ねたア行の韻、岡しのぶのマ行オ行の韻、栗木京子の回れ、回れよの反復のリズム、ひとひ、ひとよの対比と韻....


  和歌も詩もかつて声にして読むことを前提に詠われました。ですから韻や繰り返しによる心地よいリズムがあったのです。文字面だけでつくる観念的な短歌や詩とはちがう、生き生きとした発動があります。声に出す語りもそうあるべきなのですが翻訳した文章はよほどの訳者でないとそこまで考えられてはいません。谷川俊太郎さんの書くものはさすが詩人です、いつも韻を踏んでいますが、文学が必すべてそうであるとは限りません。


  わたしは永実子さんに指摘されるまで自分の語りのテキストが韻を踏んでいるとは思ってもみませんでした。書いたもののなかから少し抜粋してみましょう。



夏樹とはじめて逢ったのは8月だったかもしれない。「11月のギムナジウム」の声優のオーディションであったかもしれない。
「立ってゐる木」より

母はこぼれ落ちた花びらをひとひら、ひとひらひろいあつめて針にさし糸にとおして、くびかざりをつくってくれた。
「母 雪 櫻」より

それからわたしは授業時間も休み時間も耳を澄ましてただひとつの聲を追った。その聲を聞くと灼けつくような痛みに似た、渇きに似たなにかが癒される気がした。
「フランス窓から」より

魔女は目をパチパチしました。惚れ薬がきいてきて 胸が苦しくなったのです。
「......知ってるよ」魔女はささやくようにいいました。
「おまえのおかあさんは芸人だった。きれいな声で歌っていたよ」
「おまえがおなかにいるとき行き倒れて道端で死んだのさ」
「おかあさんは…ぼくの名を呼びましたか」
「...呼んだともさ…可愛い子 わたしの大事な子って抱きしめてほおずりしていたよ」
魔女はもっとちいさな声でいいました。ほんとうは聞いてなんかいなかったのですが カリャックのことが好きで好きでたまらなくなっていたので カリャックが喜ぶことを言ってやりたかったのです。
「…可愛い子…、大事な子」カリャックはそのことばを胸のなかで味わうようにつぶやきました。
それは牡鹿亭のだんながたったいちどだけくれた さくらんぼのパイより甘いことばでした。

「マルメロの森の魔女」...ぶりさんのアイデアから生まれたものがたり

ピーターはほのかに温かいどんぐりを灰色の地面に埋めた。
するとほどなく透明な緑色の芽がぽっちりと出てきた。
ピーターはうれしくなって、もっと大きくもっと大きくと祈った。
ところが緑の芽は灰色に枯れ始めた。
無理もない、水がないのだもの。
「ピーター・マクニールの世界」から

....一年前、市場で道にまよって北の色街にさまよいこんだとき、ティンガは暗い路地で小屋から急にいなくなった年上の友達ファルーダとであったのだ。ファルーダは濃い化粧をしベールをかむって目つきの鋭い男に手をひかれていた。ファルーダはティンガを見るなり、首を振って向こうへ行けというそぶりをした。ティンガは見てはならないものを見たような気がして一目散に逃げた。今でもそのときのことを思い出すと胸のなかがもやもやした黒い煙でいっぱいになる。大きくなるということはティンガにとって、暗い恐怖の闇に近づくことだった。
「ティンガの青い石」から


「立ってゐる木」ナ ハ ワ ハ カ ナ ア行の韻

「母 雪 櫻」ハハ ハナ ヒトヒラ ヒトヒラ ハ行の韻
 
「フランス窓から」時間 聲 の繰り返し、痛みに似た 渇きに似たの並列の繰り返し

マルメロとピーターは語りを前提として書いたものですが、聴き手の前で語ったことはありません。あ、ピーターは紙芝居のようににしてカタリカタリで語ったことがありますね。ティンガは語るために書いたのではなく楽しみのために書いたのですが、萌芽はあります。第二の手紙まで執筆、すっかり忘れていました。つづきが書きたいです。ところが、王子の名を忘れてしまいました....


  さて、韻や繰り返しを意識して語るとそこにリズムが生まれます。ことばを選択するとき、同じような意味のことばのなかからうつくしい音感や響きのあるものを選ぶことは語りやすく聞きやすくすると同時に語りをうつくしくします。

....語りは右脳と左脳の緻密な連携によるものです。右脳は直感、イメージ、インスピレーションを司り左脳は文字や論理的思考を司りします。女性は男性にくらべて右脳と左脳をつなぐ脳幹が発達している、ですから語りに向くのではないでしょうか。昔話にこだわらず無尽蔵の源泉からどうぞあたらしい物語をくみ出してください。創造してください。




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   きのう、シャルマンに行く前にアラン・ガーナーの四冊の本を読みかえしました。「ブリジンガメンの魔法の宝石」「ゴムラスの月」「エリダー」「ふくろう模様の皿」を執筆順とは逆に「ふくろう模様の皿」から読んでみたのです。

   アラン・ガーナーはマビノーギオンやウェールズの豊かな民間伝承から想を得て神話的世界と現代をかさねあわせました。民間伝承の研究家でもある彼は、「オリジナルのエピソードをつくろうとしたが、調べていくうちにオリジナルでつくったものとおなじものがたりが必ず伝承のなかにあるのを発見した」と最初のころ語っています。

   「ブリジンガメンの魔法の石」とは英国が危機に陥ったときに最後の砦となり救いとなる140人の心清らかな眠れる騎士を守るまじないを封印した宝石です。この宝石が闇の手に渡れば世界は来るべき破滅を逃れられないのです。白き魔法使いキャデリンをはじめ、湖の姫黄金のアンガラッド、善きこびとデュラスロー、フェノディリーなどの善の勢力に対して闇の王ナストロンド、堕落した賢人グリムニア 魔女モリガン スヴァートなどの悪の勢力が、少女スーザンの持つ「なみだ」という石をめぐって戦います。実は芯に青い炎を持つ「なみだ」はふとしたことで失われた、眠れる騎士たちを守る強大な力を持つ宝石だったのです。

   光と闇の戦いを描いた典型的なハイ・ファンタジーといえますね。また手に汗握る出色の冒険譚でもあります。これらの作は1960年代に書かれました。余談ですが、ハリーポッターの作者は登場人物においてこの作品からインスピレーションを受けたのではないかと私的には感じました。

   ところが、アラン・ガーナーは神話的世界からすこしずつ現代に比重を移してゆきます。「ふくろう模様の皿」ではマビノーギオンの「魔法使いがフリュウという若殿のために花々から作った花嫁が、夫を 裏切り そのあがないに恋人はゴロヌーの岩でやりに刺し貫かれ、花嫁はフクロウにされたという伝説が発端になっています。

   谷間に避暑のため少女アリスンがやってきます。アリスンの部屋の屋根裏から妙な音がするようになりました。屋根裏を覗いてみると 金と緑で縁取られた花模様の皿が埃にまみれ積んでありました。アリスンはお皿の花の模様を組み合わせるとふくろうになることに気づき、皿から模様を写し取りふくろうをつくります。すると皿は白くなり、写し取られ折られた紙のふくろうは飛び去るように消えてしまいます。アリスンは憑かれたように皿から模様を写しとり続けます。

   やがて土地にこもるエナジーはいや増し、ふたりの少年グウィンとロジャー、そして少女アリスンの三角関係、階級的な葛藤、男女の心理的な違いを緻密に描写しながら、緊張は高まってゆきます。その背後には幾世代にもわたリ繰り返された悲劇がありました。悲劇を繰り返さないために死を回避するため呪縛を解くためになにが必要だったのでしょう...


   彼女はもとから花、だった 花でいたかった...ふくろうではなくて....
この一節に泣きたくなりました。女というものはそういうものではないでしょうか。なりたくて闘うふくろうになりたいわけではない 花のようにいたいのです。

 
  ユングは神話の中に人間性の根源的原型をみました。アランガーナーはこの作品をマビノーギオンからの単なる再話に終わらせませんでした。神話の中の人間の不条理をどうやって克服するかというあらたな再話を試みたのです。現代の人間に通じる救いを求めたのではないでしょうか。日本の神話、古事記の三段にもそのような人間性の根源の悲劇のものがたりが多くみられます。またケルトにおいても同じですね。そのようなものがたりをどのように再話するか、あらたなものがたりに甦らせるか、ふくろう模様の皿の果敢な再話を読むと考えさせられますね。


   アラン・ガーナーのファンタジーでは理性の魔法より心の魔法..心のというか無意識界に属する太古の魔法が上位に書かれています。また作家的手法にはいくつかの特徴があります。演劇に興味を抱いていたことから台詞が多く、風景の描写があざやかで美しいことなどです。ものがたりが唐突に終わり読者はファンタジーの壮大な海から突然現実の岸辺に打ち上げられて、それがほんのすこしさびしい気持ちがしますが、子ども心を失わないおとなに、おとなへの過程をたどる若い人にふさわしいファンタジーです。


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  デヴィッド・アーモンドの「肩甲骨は翼のなごり」を読みました。正統を継ぐファンタジーのように思われました。わたしは良きファンタジーを神話の嫡出子のように考えています。表面に書かれるできごとはさまざまですが、根底に流れるのが生と死、甦り....愛による救済...であるからです。 これからお読みになる方のために詳しく書くことは避けますが、個の救いが世界の救いにつながってゆく同じ作者の「火を喰う男」はそのようなものがたりでした。

  心を打つものがたり(ドラマや映画を含めて)の底にはある普遍のテーマが流れていることが多いように思います。「薔薇のない花屋」は最近ではおもしろいドラマでしたが、主人公のふたりの青年、見捨てられお互い同士しか頼むものもない「名も無き戦士」である、陽と陰といってもいいふたりが「涙」を取り戻すシーンが印象的でした。凍り付いていた涙の「雫」は溢れる愛情を受けとめたとき、流れたのです。それも「甦り」にほかなりません。

  父と子、魂の遍歴、男と女のありよう、(日本などでは滅びもまたテーマのひとつです) 神話にはさまざまなテーマが含まれていて、その最も大きなテーマが光と闇のたたかいであり、生と死であるわけですが、テレビや映画だけでなく、アニメ、漫画、ゲームなどのサブカルチャーにもいわば本家取りというほど、色濃く反映しているのは、それらのテーマがひとの琴線に触れるからではないでしょうか?ひとの奥底に埋もれている忘れてはならないたいせつなものを揺さぶるのでしょう。

  さて、今日はハタモトヒロというシンガーの歌をはじめて聞きました。不思議な声でした。風が木の枝をきしらせるような声 体がリラックスするような心地よい声、五官にひびく、骨を震わせるような声...歌詞はいらない メロディラインだけでいい声 倍音が多く含まれていると思いました。



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   水戸茂雄先生門下生の発表会の開かれる近江楽堂に行きました。ルネサンスリュート、バロックリュートを弾かれる方々は不思議と痩せ気味の背の高いストイックな雰囲気の方が多いのでした。けれどもそれぞれの楽器の音色、艶、倍音の量と質は驚くほど違っていました。楽器の持ち方、足の組み方も...水戸先生はそうした瑣末のことにこだわらないで生徒の個性をたいせつにして育てているのだと思いました。


   女性の演奏家によるRobinというルネサンスリュートの曲がはじまったとき、緑の鎧戸が目に浮かびました。そしてつぎつぎと場面がかわりわたしは眼前に浮かぶものがたりを追っておりました。透きとおった悲しみのような感情がわたしを捉え涙が溢れていました。...旋律というより倍音の力なのかもしれません。緻密な倍音特有のバイブレーションは心地よいばかりでなく身体のDNAレベル、心や感情の無意識レベルに作用するのだそうです。水戸先生の演奏を聴いて見えたのは古びた..金の塗布された木片でした...工芸品の一部なのか家具の一部なのか...やがて紫とピンクと黄金の絢爛たる夕焼けが...地中海...とわたしは思いました。リュートの響きがわたしの奥のたぶん今世でない記憶を揺さぶったのかもしれません。近江楽堂の音響は古楽に相応しいのでしょう。

   倍音は自然界の音に含まれていることを以前にお話しました。水のせせらぎ、木の葉のそよぎ、わたしたちが自然のなかでほっとするのは音の環境もあるのでしょう。そして、ひとの肉声にも倍音は多く含まれています。あいうえおの母音のなかに含まれるので おかあさん方はそれと知らず赤ちゃんに「いぃこねぇ..よぉし よぉし...」と母音を多くして語りかけるのです。わたしたち語り手にも母音の発声はとてもたいせつです。倍音は聴くひとを安心させ、そのうえに無意識界にいざなうからです。

   ニックが語ったとき あんなに広く感じられた近江楽堂が今日はとてもこじんまりと感じられます。語れる...ような気がしてきました。わたしは響きの溢れる演奏より余分なものの無い演奏に惹かれます。  そのような語りができたらと思います。先生が今日印刷したちらしをくばってくださいました。...これからの二ヶ月は余分なものを捨ててゆく時間なのだという予感がします。

   会のなかにあっては構築してゆくときです。今日はオランダの語り手ウィムさんのパートナーかりんさんとメールで打ち合わせをしました。育成のスタッフも揃いました。着々と準備は進んでいます。


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   テレビ朝日開局50周年企画のドラマ「点と線」を見ました。舞台は昭和32年、日本テレビ開局55周年の「華麗なる一族」が1960年代でしたが期せずしてふたつの局がその時代を選んだのにはわけがあるのでしょうか。昭和をあらためて考える、戦後を考えるということでしょうか。振り返ってみますと当時は気づくよしもなかったのですが東京オリンピックこそ日本の戦後の終わりだったのでしょう。

   わたしはその頃中学生でした。ドラマの画面...東京駅や地方の駅、アパートの一室や居間の佇まいから当時のことが甦ってきます。茶箪笥 ちゃぶ台 鏡のはまった洋服箪笥はどこの家にもありました....。駅名は紺色のほうろうの板に白抜きで書かれ駅舎の柱にうちつけてあり、電車の中は木製でどこでも煙草が吸えました。背もたれは座席と直角で緑の粗いビロードみたいな生地が張られていました。日本中まだ貧しく、けれども戦争への罪の意識も消えかけ 戦後のある種原始共和制のようなやさしさから過酷な経済戦争へと突き進む時期でもあったのではと思います。教育も変わりはじめていました。

   さて 思い出はそのくらいにしてまずはあらすじ.....
昭和32年、福岡市の香椎駅近くのさみしい海岸で男女の死体が発見された。亡くなった男の方は官僚、女は料亭の女中。地元警察はこの2人を服毒による心中と断定し、事件は解決したかに思えたが、一人の老刑事 鳥飼重太郎はこの男女の死に疑問を持った。それは死んだ男の所持品の中に”お一人様”と、書かれた列車車内食堂の領収書があったことからだ。「東京から2人できたはずなのになぜ”二人”ではなく”お一人様”なのか。この男女は本当に心中なのか?」ちょうどそのころ政界では一大疑獄があかるみに出ようとしていた。死んだ官僚佐々木は疑獄のカギを握る男だったのだ。

.....ドラマは実におもしろかったです。ビートたけしという役者を名優とは思いませんが、彼に嵌った役のとき狂気という閃光を放つのです。そしてその狂気がまわりの俳優にも伝播するのでしょうか。ビートたけし演じる鳥飼刑事出没するところビリビリとエナジーが高まるのがテレビの画面からも見てとれました。そういう意味では尋常な役者ではないですね。....緊張感漲るいいドラマでした。また、ワキが凄かった。これは?!というひとが端役で出演していましたね。

   そのなかで夏川結衣さん演じる犯人安田の妻....そして柳葉敏郎演じる安田がおもしろかった。鳥飼刑事と対峙する安田の妻こそ真の主役であったかもしれません。夏川さんは夫を守ろうとして鳥飼に立ち向かい嘘をつきとおす安田の妻(けれども別に隠された動機お時への復讐があります)を演じていて、追い詰められるにつれ瞳は耀き背筋はきりりと伸びてゆくのです。一度は崩おれながら、最後の力を振り絞り自分が精緻に組んだトリックに一縷の望みを賭けて追求の手をすりぬける.......。惜しむらくはその身体が豊満に過ぎ夫と夜をともにすることができない妻の苦渋が薄められてしまったことですが、それはよしとしましょう。また、事件の鍵をとくきっかけになったのが 安田の妻が同人誌に書いた随筆であり、その同人誌が謀られ殺されたお時の部屋にあったことを考えたときドラマとは人間の愛や苦しみ 欲や希望のうえに移り気な運命のまなざしが投げかけられたとき起きるのだ...としみじみ思いました。

   もうひとり影の主役がいました。それは鳥飼刑事を支える亡き妻でありました。最後のほうに写真が出てきます。つまりこれは幽明を超えた女たちの戦いでもあったのです。ドラマっておもしろいですね。....語りでこんな女の戦いが語れないでしょうか? この三日膝がいたくてあるくのが億劫だったこともあったのですがわたしとしてはのんびりふつうの暮らしをしました。本を二冊読み 買い物に行きカラオケも楽しみました。ぽっぽちゃんのお見舞いに二回行きました。テレビを見てあとははやばやと寝みました。.....でも、つまらない...生きている感じがしないのです。ほんとうに生きること いのちの充実とはどんなことなのでしょうね。わたしは欲が深いのでしょうか...。






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   師事している水戸茂雄先生のコンサートに行きました。風邪をひいていて辛かったのですが 不肖の弟子としても師のコンサートに行かないわけにはいきません。会場のルーテル教会は新大久保にあります。道中いくつかの心に残るできごとがありました。池袋で目の不自由な婦人が盲導犬と電車に乗り込む際に降りてきた青年と激しくぶつかりました。青年はなにか言いたげにホームのドアの前にたたずんでいたので 思わず「あの方は目がご不自由なのですよ」と教えてさしあげました。青年は「そうだったのですか」と頷いて去ってゆきました。

   その後わたしは婦人と盲導犬が気になってなりません。車内はたいそう混みあっていたからです。ベージュがかった白い大きな犬でした。飼い主のこころづくしか木綿の黄のプリントの胴着を身につけていて、高齢で辛抱つよい目をしていました。婦人が座ると犬は座席の下の婦人ととなりの紳士の足の向こう側に潜り込み前足を前に出して首をその上に乗せました。わたしは長い前足が乗客に踏まれはしないかと心配でなりません。足を怪我したら主人を導くのも辛いでしょう。目の見えない主人はパートナーの怪我に気づくでしょうか。新大久保についたのでどうぞ無事でと祈りをこめて犬を見ると彼はちらっとこちらを振り向きました。

   新大久保のガードをくぐり狭い歩道を急いでいるときダークな眼鏡をかけた中年の紳士に肩が触れました。シャープな背中でした。後ろから「おい その女 待て」とドスの利いた声が追いかけてきます。どうやらわたしはヤクザさんにぶつかったようです。後ろを振り向くと面倒なことになる、ことばも発しないほうがいいと直感したので 無言のまま振り返らず急ぎました。

   ルーテル教会に着くとホールはほぼ満員でした。ネモさんご夫妻と櫻井先生が見えていました。やがて予鈴が鳴り 本鈴とともに水戸先生がリュートを抱えて出て見えました。たいそう生真面目なお顔ですこし緊張した様子で.....わたしは好ましく先生の様子を見ていました。演奏がはじまりました.....

   ....目を瞑り一音一音に耳を傾けているうちに わたしは涙が溢れるのを抑えることができませんでした。なんという精緻さ 完璧さでしょう 音のつらなり 倍音のひびきはまるで調和のとれた寺院のようでした...尖塔 内陣のレリーフ 飾りをほどこした柱が見ている前で顕われ連なり消えてゆく それなのにどの瞬間もこよなく美しい....奇跡のようでした。隣からはやすらかな寝息が聞こえます。眠ってしまうのは心地よいからです。

   昨年10月18日 水戸先生のコンサートがおなじ場所であったとき わたしはすこし眠ってしまい すこし泣きました。いったいどうしたというのだろう.....わたしはしとどに流れる涙を指で拭いながら思いました。こんなに一音一音がはっきり聴こえるのは ビウエラをまがりなりにも弾いてきたせいだろうか....感覚が鋭くなったのだろうか リュートの響きが光のシャワーのように降り注ぎました。

   帰り道 道端に座っているホームレスのおばあさんの掌に思ういとまなく硬貨を幾枚か乗せて手を握りました。その掌のやはらかさとぬくもりがまだわたしの手に残っています。ひとが生きるのはときにはたいそう辛いけれど苦しいけれど それでもわたしたちは憂きこと辛きことを凌ぐものをたくさん与えられているのでした。音は光そのものです。.....声も音なのだから光となりましょう。....憂きこと辛きことを越えてゆく生きる力を呼び覚ます光となりましょう。....どうすれば、いったいどうすれば。.....心身共に、あらゆる制約で縛られて居る人間の、せめて一歩でも寛ぎたい、一あがきのゆとりでも開きたい、と言ふ解脱に対する憧憬が、芸術の動機の一つだとすれば...という折口信夫の一節が浮かびます。



   ちょうど8ヶ月前 わたしは今日とおなじようにふたりの師とおなじ屋根の下にいました。思えばあの日からあたらしい旅がはじまったのです。喜びとそれにつづく苦痛の日々、そしていよいよ決断のときが迫ったことをわたしは帰りの電車のなかで覚りました。暗い窓にときおり街のあかりがつーと走っては消えました。



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人を愛そう。
一緒に分け合おう。
働こう。助け合おう。笑おう。
遊ぼう。教えあおう。習おう。
楽しく暮らそう。
愛されなくても。遊べなくても。
助けられなくても。
愛そう。守ろう。

憲法前文  14歳女子

これは2003年5月3日 朝日新聞の憲法前文の特集に寄せられた 14歳の少女の”前文”です。池田香代子さんはじめ多くの識者が書かれたなかでこの前文がことにわたしの心に沁みました。

もともとの日本国前文後半部分です。
.....

日本国民は、恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を
深く自覚するのであつて、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、
圧迫と偏狭を地上から永遠に 
除去しようと努めてゐる国際社会において、
名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、全世界の国民が、
ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに 生存する権利を
有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、
自国のことのみに専念して
他国を無視してはならないのであつて、
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、
この法則に従ふことは、
自国の主権を維持し、
他国と対等関係に立たうとする各国の
責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、
全力をあげて
この崇高な理想と
目的を達成することを誓ふ。


  今から62年前戦争は終わりました。井上ひさしさんの本によれば当時の日本人の平均寿命は男性が23.9歳 女性が37.5歳だったそうです。男たちは戦地で戦いましたから寿命がこんなに短かったのですね。しかし死因の2/3は餓死だったそうです。満州に開拓に行ったひとも背後からロシアがせめてきて32万人のうち8万人が亡くなったそうです。やはり死因は餓死が多かったようです。道中 おなかがすいたと泣く子の顔を手ぬぐいで隠し 川に投げ捨てるという悲惨なこともあったようです。

  ヒロシマナガサキでは多くの方々が生きながら焼かれました。沖縄では多くの民間人が亡くなりました。東京大空襲ではひとびとは火に追われ逃げ惑いました。わたしが行っているデイサービスのおばぁちゃまの話では鉛色の死体が何千体も並んでいたそうです。....それだけでなく戦争はひとを鬼畜と化し 近隣の国のひとびとをもまきこみました。

  日本国憲法はあの長い悲惨な太平洋戦争という闇ををくぐりぬけてきた日本人が手にした光であったと思うのです。アメリカから与えられた憲法というひとがいます。....けれどもこの憲法をつくるにあたっては日本人も参画しています。武器を持たないと宣言することを明言した憲法は今までどこにもありませんでした。世界を数十回焼き尽くすことのできる武器が各国に配備されているという今 日本の憲法はひとつの希望ではないでしょうか?なにがあったにしろ憲法(国のきまり)があったからこそ 日本という国は国の名のもとに直接的に他国のひとの生命を奪わずにすんだのでした。

  戦争を体験したひとたちはしだいに年をとってゆきます。今 路上で憲法を守ろうという運動をしている方々がみなお年を召していることにわたしは驚きます。実際に戦争を飢餓を抑制と専制を経験し,たいせつなひとを失くしたりその苦しみを見たひとたちはやむにやまれぬ思いで炎天下また雨のなか路上にいらっしゃるのでしょう。

  日本国憲法を変えようという動きがたかまっています。そしてそれはアメリカの意向でもあるのです。自民党は民主党の分裂を画策するでしょう。こうしたなかで全国で憲法の前文をかたる 憲法9条を語るつどいがひらかれていることは小さな希望のあかしのように思われます。この憲法をうしなうことはおおきな希望をうしなうことになるからです。

  わたしは語り手はカナリアのようなものだとも思うのです。わたしたちの生命やしあわせをゆるがすようなことを察知して 歌声で知らせるカナリアだと.....語り手は神話を語ります。太古の語りとともに繰り返し繰り返す神話のモチーフを語ります。太平洋戦争という闇...その嵐のなかにさえあった あたりを照らすような ひとの心 光をも語ります。そしてわれらの勝ち得た希望日本国憲法を語ります。




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   天城にいったとき 田所雅子さんが天城の森につれていってくれた。...ほんとうは原生林におつれしたかったのだけれど...わたしの足がほんとうでないのを案じて 見せてくれたのは三冊の写真集だった。一冊目 二冊目と見せていただくうちに同じ天城の自然を撮りながら撮影者がむきあうものが 目を瞠るほどに深くなってゆくのに驚いた。

   ただの美しい自然のショットが三冊目に至っては ついに目に見えるものを超えてしまう。 見えざるもの...もしかしたら手を触れたり見たりしてはならぬものがそこにありありと絵画のようにある。この写真家 曽我さんは天城の山から愛され特別の許しをもらっているのに違いない...と思った。

   そのなかの一枚は わたしがときどき観る...幻想に限りなく似ていた。虚空から光降りそそぐイマージュ...説明を読むと滝の裏から見た束の間の光の饗宴だったそうだ。一枚一枚の写真がものがたっている...蒼穹と大地をつなぐ樹...無残にも地に堕ちた緋色の落花の尽きようとするいのちのほのお...わたしは息を呑んで凝視める。

   写真家の憑かれたまなざし、カシャとシャッター音がひびく...撮られるものと撮るもののいのちがゆらめき拮抗した一瞬....そこにあって無い世界が...思念...エナジーそのものが留め置かれる。....こういう語りがしたい...純粋な思念...光そのものを手渡す語り.......見果てぬ夢だ。

    

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    名残惜しくもあったが 講座が終わって早々にわたしは白金高輪に急いだ。その活動に心服している今さんとミヤベさんの集まりに参加する予定になっていたのだ。 若い人たちが6割年配者4割の集まりだった。

    最初にクリスタルボールの演奏があった。そして武満徹に師事していた今さんの曲「幽」がヴァイオリンで演奏された。西洋楽器のヴァイオリンに...長い一音...そして間...という和の作法で作曲された曲を奏させたのである。目の前で若いが力のあるヴァイオリニストが奏でる高音とかすれ...和の音でいうさわり...を聴く。震える。思わず自分の身体を自分で抱きしめる。それは鶴城さんのならいで言えば 透徹した悲の曲だった。

    今さんは「音によって変性した空間を感じてください」という。響きが凝縮している空間は密度が濃く結晶化しそうである。きらきらと尖った結晶がきしりながら犇めきあっている。こうしてことばに代えてはいるが 音とは響きとはことばに代えがたいものだ。感じるものだ。....鶴城さんのあたたかな光と力にみちた空間、今さんの透いて冷たい硬質の空間、......では、語りで空間を変性できるだろうか。

    つぎにホーメイを聴いた。ホーメィとは 口腔の構造を変える 頭蓋骨に響かせることで倍音を発生させる。ホーメィ..だみ声..浪花節の声 スグット 笛のような高音 カルグラ..低い音の三つがある。本来低音は腰で聞く..高音は高いところで聴くのだそうだが ホーメィの低音は聴き手の腰にグヮンとくる。

    響きには霊性をひきだす力がある。語る奏する聴くひとの意識を変え 一音で見えない世界を引き寄せる力がある。13日 ふたつのコンサートから得たものがシンクロする。まったくちがう状況からおなじこと 一音の韻き..の力を伝えようとしている。...



...若干 改稿しましたので 一音の韻き その1をもう一度読んでいただけたら うれしいです。

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  昨夜(13日) 埼芸の芝居を観た。埼芸の演出家である川村さんとは久喜座で芝居をしたとき出会い 幾度か話をさせていただく機会があった。打ち上げで「どこでもいいから芝居を続けなさい」とわたしにとっては身に余ることばをいただき、しかし夫が倒れたことから 役をいただいたときには日常生活とかけ離れた感覚を持ち続けなくてはならず 現実においても時間の多くを捧げなくてはならない芝居をつづけることは到底不可能となり えにしも途切れてしまっていたのだ。

  それが つい先日 ちょうど川村さんとの約束が果たせなくなったことを考えていたそのときにメールがきた。「夏の盛りの蝉のように」という芝居を上尾でするから・・というたよりだった。観たらつらいだろうと思いながら行かないわけには行かなかった。作 吉永仁郎 「夏の盛りの蝉のように」は巨星葛飾北斎のめぐりのひとびとのものがたりである。・・天才はめぐりのひとびとの人生をいやおうなく自分の磁場にまきこんでゆく。登場人物は北斎の娘おえい 歌川国芳 渡辺崋山 北斎の弟子 北馬 そして国芳のモデルであったおきょうという女性の7人。おきょうをのぞき 浮世絵にとり憑かれたひとびとの群像であった。


  いつものようにアマチュアだからという甘えの全くない締まった舞台だった。ことに二幕目には息をつかせないものがあった。「絵は絵だ! ただの絵に過ぎない!」と言ったのは北斎だったのか 崋山だったのか 「・・だが絵はひとびとを社会をほんのすこし揺るがすことができるのだ」 この台詞にわたしは胸を突かれた。たぶんこの戯曲を書いた作者も「絵」を「芝居」の置き換えて書かれたのではなかろうか。わたしは語り手だから ・・語りは語りに過ぎない・・・それでいい・・・それでもと思う。「語り」はひとのこころに響く。多くの語り手たちがもっと多くのひとびとの心に響かせることができるなら・・・社会にむかって世界に向かってうねる波 とよもす響きとなって 重なり合い 流れを変えてゆく一助になるのではなかろうか?

  芝居でも歌でも語りでもアートというものはそうした力を持っているのではなかろうか。


  友人から一冊の本を贈られた。それはマーガレット・リード・マクドナルドさんが書かれ 語り手たちの会の末吉正子さんが訳したストーリーテリング入門という本である。マーガレットさんは民族学博士でありまた長年図書館司書をつとめられた。子どもたちを愛しストーリーテリングの松明を引き継ぐひとたちのために書かれたこの本は、語りを包括的にとらえた入門書であり、初心者に踏み出す勇気を まだあるきはじめたばかりの語り手に自信をあたえ 中堅に自分の語りを見直すきっかけとなる好著と思う。お話編には魅力的なものがたりがならび 一方多くの索引からより深く学びたいひとへのしるべともなるだろう。

  わたしがもっとも共感するのは第十二章、「語り手としての役割を受け入れる」である。その1「おはなしを聞いている」段階からはじまってその4をマクドナルドさんはこう定義する。「おはなし(ものがたり)はそのひとの信念を反映し、ひとの経験や価値観をあらわしていることに気づく」・・・わたし自身もその過程を経てきた、そして今読んでいらっしゃるあなたが語り手であるなら 良い耳を持った聴き手であるならおなじように思われるだろう。それを知ったとき語り手はより強く「語り手になりたい」と願うのだ。自分を磨きつづけなくてはならない長い旅のはじまりである。 

  そして第十六章でマクドナルドさんは・・おそらく一番重要なことは、お話(ものがたり)はわたしたちの絆をつくり、傷を癒してくれることではないでしょうかと語りかけ 全米ストーリーテリング保存育成協会の会長レックス・エリスさんが述べたことばを紹介している。「」わたしはストーリーテリングの力こそが、わたしたちが住むこの社会と愛するひとびとを向上させるための、最高の希望の種ではないかと、こころから信じております・・後略。



  語りは語りに過ぎないかもしれない。だが 志ある語り手がひとりまたひとりふえてゆくなら わたしたちの住む社会を わたしたちが住む地球をよりよいものにかえてゆく力となるとわたしは信じたい。

  


  

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   昨夜 新国立劇場へ「赤い鳥の居る風景」を観に行った。別役さんの芝居だった。そして主役はRADA金沢でいっしょだったアヤさんだった。

   アヤさんはほとんど透明だが薄くミルク色がかったゼリーのようでもあり 硬質のガラスでもあるような不確定な空気をまとっている。不思議な女優さんだ。レリーフのように地からすこし浮いてみえる。役柄は盲目の少女 時に寡黙で時にエキセントリックである。声を出そうとして出している感がさいしょあったのだが どんどんよくなっていった。間が最初ほんの少し早かったのが小気味よかった。それが終盤になって少女が成長してゆくにつれ 間 がほんのすこしだが物足りなくなった。たぶん アヤさんはおなじように演じているのだが 少女の変貌とともに間も変わってゆくのだろう。ものがたりはわたしには難解だったが締まったいい舞台だった。最初の傘の場面 最後の壁の場面が美しかった。

   終演後 大阪からかけつけたますみちゃん カンパニーを率いる蝶子さん 女優のサヤさんとアヤさん 5人で再会を祝した。そしてミクシィにRADA金沢でコミュニティを立ち上げよう レッスンの場 交流の場をつくろうと話した。たった一週間ともにしただけのなかまだが 他人とは思えない絆がある。

   一方 LTTA関連でも大きなうねりがおこりつつある。アート(ビジュアルアート ムーブメント ストーリーテリングを含むドラマ 音楽など)をとおしてひとの持つ本来の力をまず親から回復させようというプロジェクトがかたちをとろうとしている。こうした動きのなかで語り・ストーリーテリングをつきつめてゆくとは思いもしなかった。しかしわたしはこれはたしかに求めていたもの、模索してきたものであり かたちを換えて今このとき目の前にあるということに感慨を覚える。

   ドラマ(演劇)のつながり LTTAのつながりがミクシィで結ばれてゆく。語りでも5人の方が参加された。おいでになりませんか。発見があります。つながりがあります。もしかしたら自分でも知らない自分にであう きっかけになるかもしれません。




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    朝 おはなし会 午後から板倉打ち合わせ 加須によってお誕生日のルイと対面 だっこして 夜宝塚へ行く。和央ようかさんと相手役の花総さんのお別れ公演なので 披露宴なみの盛装でいったら駅の階段で何度もスカートの裾を踏んでしまった。

    スペイン内戦、報道カメラマンが内戦の真実を伝えようとする。彼は「あなたと同じものを見たい」といってくれた女性劇作家とスペインで戀に落ちる。 自らを根無し草(デラシネ)と自嘲していた彼だが スペイン人におまえたちは外からきて写真をうつしまた帰ってゆく人間だと詰られ 最後は銃をとってともに闘い 死んでしまうというおはなし。

    よくできているのだが 内戦のどろどろを宝塚的小綺麗さでやるのは無理がある。宝塚は歌舞伎とおなじ「型」の芸なのだ。男役がどうすれば端正に美しく、女役がどうすればたおやかに美しく見えるか 極限まで考えられている。それはジャニーズのみなさん方の比ではない。 和央さんときたら8等身どころではないし、決めの立ち姿の一瞬一瞬が目を見張るように美しい。しぐさのひとつひとつ髪をかきあげる 視線をそらす 肩をそびやかす...そして手の表情がこよなく美しい。花総さんもこれほどうつくしいひとはそうは出ないだろうと思われる娘役なので、できればこのような中途半端なりアルな話ではなく大ロマンで終ってほしかった。

    宝塚でリアルな芝居をすると嘘っぽく見えるのだが うそにうそをかさねたような大悲恋はぜんぜん嘘には見えない。不思議な空間である。これはテレビやDVDなどの映像ではだめで 実際の舞台でしか起きないのは観客の夢を見たいという強い欲望も介在しているのかもしれない。テレビでは等身大のスターだが 板にあがったときのオーラのすさまじさは後光が射しているといってもいいくらいだ。美の美 なんの役にも立たない美 ただ観る者に日常の憂さや疲れを忘れさせ また歩き出す力を与えてくれるという大衆芸能の原点。語りだって高尚な芸術があってもよいが 見るひとがしあわせになる 猥雑な笑い話だってもっと復活してもいいのだと思う。

    いろいろ書いたがわたしが和央さんを好きなのはじつはその聲にある。男役なのにソプラノ のびやかな澄んだ聲がどこまでもどこまでひろがってゆく。空や風を感じる聲。

    ウソの嘘については また後日 考えてみたい。




    
    

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朝まだき

  夜行バスで早朝高山に着いた。薄もやのなかに咲く桐の花が美しかった。やがて空が明るくなる。快晴だ。初夏の明るい日差し 汗ばむ肌に心地よい緑陰の風。きのうのことを考えていた。いっしょに力をあわせリサイクル社会を築こうという夢を欺かれたような気がして わたしは悔しくてならなかったのだ。そして 夫に対しても なぜもっと機械メーカーにものを言わないのか腹を立てていた。

 木
 
 夢からさめてまどろむ花々


  つきあってみてわかったことだが 大手のメーカーだから小回りはきかないし 情けないくらい上下 系列会社との連携が弱い。上層部は保身のことばかりとわたしには見える。

  しかしたとえどんな無礼な物言いをされたとしても 怒ってしまっては先に進まない。どちらかがばかになるしかあるまい。こちらのいう本質的な問題とあちらのいうマニュアルや契約の問題がかみ合うはずはない。どのように理解しあえるかだ。



  ポイントは能力25K/h それにかかわる補償の問題 許可の問題 H社が本気で販売を継続する意思があるか 担当の営業がこの機械の能力 特徴 他社とのコスト比較など まったく知らない。関東地区のTOPも実はほとんど知らないのでは先行き暗い。値段の面では競合他社と比較にはならない。しかし初号機でやめられてしまいほうりだされては 夢をかけてきたわたしたちは裏切られたも同然だ。

たんぽぽの綿毛が露に濡れていた

  きのう 話し合いが長引いたため 時間がいっぱいで古事記のテキストを持たずにでてきてしまった。セミナーのあいまに テキストを手直ししようと思っていたのだが...なにもかも忘れて ゆっくりして 力を取り戻そう。木曜日はべりットさんの林檎の木と水のおはなし それから もうひとつの予定 今度こそわたしを空にしてものがたりが満ちるように....語りの場にたくさんの目に見えないが輝く糸が結ばれるように。

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  妻も母も振り捨てて 一昼夜 古事記に没頭してしまった。まよわの皇子 軽の皇子と衣通姫の戀など 古事記の下巻は美しくも狂おしい人間もようである。いちばん気になるものがたりのファイルが消えてしまって 焦る。

パソコンのデスクトップのアイコンが208にもなってしまっていたので 整理する。ブルーの空に色とりどりの積み木を散らかしたようだった。これでよくわかるねといわれるが フォルダに格納するよりはすっとわかりやすい。そういうあたまの構造なのだろう。だが おかげで古事記のファイルをみつけることができた。

 リサと息子と三人でデニーズで話しあう。フルーツとアイスクリームと冷凍食品を大量に購入する。わたしとしては学者さんの古事記より 小説家の再話のほうがずっとイメージがわくように思う。テキストを語りやすい自分のことばになおしてみる。それから 語ってみてかわってくる。

  とても美しい古事記を書かれている小説家の方に問い合わせたところ、朗読のときはその都度連絡がほしいとおっしゃるのでとまどっている。語りは朗読ではないことを説明したがわかっていただけただろうか。再話も文学作品には違いなかろうが 古事記をひろめたいと思う気持ちはおなじなのだ。利を得るためにしているのではない。

  それでは 語り手の語りはどうか? 再話でなく まったくのオリジナルを語ったときは知的財産(産業財産.著作権)になるのだろうか?そも 知的財産とはだれのためにあるのかといえば 作者や考案者のためにあるのではないと 倉持氏は言っていた。国民のためにあるのだそうだ。よきものは ひとりじめにしないで 公にしてほしい それが国民のためになる ただし 本物か偽者かわからないと国民が損をする それが本来の中心理念だとのこと。なんとなくわかるようなわからないような...である。剽窃かどうかは 真似をされたと思うほうが 証明しなくてはならない。いつどこでどのように..そして いつ剽窃者?が作品を見たかも証明しなければならないのだそうだ。

  ウィルスバスターも2002のままだったので ダウンロードしたのだが 他社のも古いバージョンのもファイアウォールをアンインストールした後 シリアルナンバーを入れるようにと出た、シリアルナンバーなど 覚えているはずもない。さぁ 困った。



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