読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

いっぴきの虫 高峰秀子 文春文庫

2011-11-06 15:03:33 | 読んだ
文庫本の帯には

高峰秀子が描く 一流の人間像

名著、復刊!


とある。

もしかしたらもう読んでいたものなのかなあ、と思いつつも購入した。

調査の結果、まだ読んでいないものであったが、読んでいたものであったとしても、買ってよかった、読んでよかった、と思った。

基本的には対談集なのであるが、それに著者の「ひとこと」というか「観察」が入っている。

1978年7月7日付で、著者本人の「まえがき」がある。
それは「いっぴきの虫」の説明である。

「男の中には、いつもいっぴきの虫がいて、その虫があらゆる意欲をかき立てるのだという。」
として、
「この本に登場する方たちは、それぞれお腹に立派な虫を持ち、ひとすじの道を倦まずたゆまず歩き続けてきた優秀人間ばかりである。」
と述べている。

高峰秀子の本をずいぶんと読んでいるのであるが、いつも思うのは直接お目にかかって話すことができたらいいだろうなあ、ということである。

本人は、著作の中でいつも自分は無学だ無学だというが、無学を自覚しているくらい無学でないものはないと思う。
彼女は、超一流の人たちと小さい時からすごしてきた。でも本人の努力と自覚がなければ本人も一流とはなれない。
そう思うのである。

さて、この本では20人の人と1組(?)が紹介されている。
1組というのは、映画「二十四の瞳」に出演した子役たちとのことである。
私は、一番最初にこの項を読んだ。

どの部分を読んでも、素晴らしくハッとするようなコトバに出会うのであるが、そのうちから

映画は、ベルトコンベアで缶詰を作るのとはちがう。大勢の人間が集まって、お互いにその人間の能力を尊敬しあい、足りないところはおぎないあって、暗黙のうちに、より優れた作品を創り出してゆこうとする血の通った、情の要る仕事なのだ。

日本で日本のものを作り出すは、いちばんむずかしいですよね。


(松下幸之助氏について)
彼の中にはドライとウェットが仲良く同居しているらしい。「松下商法」なるものは、たぶん、そのドライとウェットを、掛けたり足したり割ったりして、できあがった松下氏独特の経営法なのだろう。商売の鬼といわれ、肉親には冷たい人だという声も聞くが「なまはんかな愛情や思いやりは、かえって人間や仕事をダメにする」という深い思慮は、豊富な人生経験を積んで、なお自分自身に厳しい人間しか生まれてこない。松下氏のようなマジメ人間に、洒脱さ、甘さ、色っぽさを求めるのは、どだいないものねだりというものだろう。松下氏の冗談は木に竹をついだごとくギコチなく、いっこうにおもしろくない。おもしとくないからといって、それが、すぐ冷たさやドライに通じるというわけではない。

(森繁久彌氏の言葉)
人間だからね、そりゃ若いうちは欲望でいっぱいなのはいいですよ。またそれでなきゃいけない。でも、それはだんだん整理してゆく段階がすてきでね。それに気のつく段階がないとつまらない。そして、その欲望を集約してゆくところに作業があるんじゃないかしら。

(團伊玖磨氏の言葉)
強制され、規制されるということは、その中でやはり自分を確立してゆくことだから。野放図じゃダメですよ。悪い意味の自由はダメですよ。

こういう言葉を引き出せるというのも、著者が一流だからではないだろうか。
そして、高峰秀子の基本ともいうべき考え方ではないかと私が思うのは次の言葉である。

絵でも、写真でも、役者でも、芸術と職人の分かれめは、たった一つ「品性」しかないと私はおもう。その品性は、その作家の持って生まれた天分なのだろうか?それとも執念と努力によって「品性」をうることができるのだろうか?白バックの写真一枚に冷や汗を出した、ぐうたらべえの役者の私にはわからない。

やっぱり一度でいいから実物を見てみたかったなあ。
もっとも会えば一言も発せないと思うのであるが・・・・

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