週刊朝日を毎週購入するようになったのは、司馬遼太郎の『街道を行く』で「濃尾参州記」が始まることからだった。
だから1995年(平成7年)ではないかと思う。
始まってすぐに(1996年2月)司馬さんが亡くなってしまって、すごくガッカリしたことがある。
その後、椎名誠の「本の雑誌血風録」などが始まり、まあ継続して読み続けようかと思い今まで続いている。
しかし、近年は面白い読物が減り、記事も「なんだかなあ」というものが多くなってきた。
ちなみに、この「なんだかなあ」は週刊朝日に連載されていたナンシー関のエッセイで頻繁に出ていたもので、面白い言葉遣いだと感心していたものであり、いわば「パクリ」である。
この「なんだかなあ」という気持ちは、週刊朝日の記事は「大人」というイメージで落ち着いたものという印象があったのに、近頃は幼くヒステリックというものが多くなってきたように思う、というものである。
それは、どのような記事をさしているのか?
という、問いに対しては、ノーコメントである。
何しろ、誤解、反論、批判、炎上、いじめ、が怖いので・・・
ということで、週刊朝日も『これまで』という気持ちが強くなっていたころに、始まったのが、この「降霊会の夜」と海堂尊の「極北ラプソディ」の二つの小説である。
で、まあ、この小説と東海林さだおと内館牧子のエッセイに免じて、今のところ読み続けようと思っているのである。
非常に前置きが長くなってしまったが、表題の小説である。
浅田次郎については、これまでも、くどいくらいに言い続けてきたのであるが「あざとい」と。
小説の筋も作りも非常に計算されていて、読む側の気持ちをグリグリと揺さぶる。それにのってしまう自分がイヤなのである。
といいつつ読んでしまうのが、またイヤなのである。
で、「降霊会の夜」である。
これは、主人公が霊を呼び出すことのできる『ミセス・ジョーンズ』の家で、霊と出会い、子供時代の気になっていた出来事を知る、というのがこれまでのあらすじである。
ミセス・ジョーンズのもとに連れて行ってくれた『梓』という女性も気になるのだが、降りてきた霊たちの話がやっぱり本筋なのだろう。
主人公が小学生時代に仲良くしていた同級生(山野井清)は、主人公の目のまで車に飛び込んだ。
清とその父は「あたり屋」だったようだ。(父が清に当たり屋をさせていたようだ)
その出来事について、主人公と清と仲良かった警察官、子供の父、そして清の霊が降りてきて、事件の真相を話す。
芥川龍之介の「藪の中」を連想させるが、それぞれの立場でそれぞれの主張をしている。
これが最後にどのようになるのかはこれからである。
私の予想では、これからも霊が降りてくるとすれば、主人公の祖父ではないかと・・・
と言うわけで、降りてくる霊たちが話す内容は、ジーンとくるような内容である。
これでもか、これでもか、というように、自分を責める。
それほど責めなくてもいいのに、と思うくらいである。
結末はどうなるのか、ワクワクしている。
毎週楽しみに読んでいこう。
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だから1995年(平成7年)ではないかと思う。
始まってすぐに(1996年2月)司馬さんが亡くなってしまって、すごくガッカリしたことがある。
その後、椎名誠の「本の雑誌血風録」などが始まり、まあ継続して読み続けようかと思い今まで続いている。
しかし、近年は面白い読物が減り、記事も「なんだかなあ」というものが多くなってきた。
ちなみに、この「なんだかなあ」は週刊朝日に連載されていたナンシー関のエッセイで頻繁に出ていたもので、面白い言葉遣いだと感心していたものであり、いわば「パクリ」である。
この「なんだかなあ」という気持ちは、週刊朝日の記事は「大人」というイメージで落ち着いたものという印象があったのに、近頃は幼くヒステリックというものが多くなってきたように思う、というものである。
それは、どのような記事をさしているのか?
という、問いに対しては、ノーコメントである。
何しろ、誤解、反論、批判、炎上、いじめ、が怖いので・・・
ということで、週刊朝日も『これまで』という気持ちが強くなっていたころに、始まったのが、この「降霊会の夜」と海堂尊の「極北ラプソディ」の二つの小説である。
で、まあ、この小説と東海林さだおと内館牧子のエッセイに免じて、今のところ読み続けようと思っているのである。
非常に前置きが長くなってしまったが、表題の小説である。
浅田次郎については、これまでも、くどいくらいに言い続けてきたのであるが「あざとい」と。
小説の筋も作りも非常に計算されていて、読む側の気持ちをグリグリと揺さぶる。それにのってしまう自分がイヤなのである。
といいつつ読んでしまうのが、またイヤなのである。
で、「降霊会の夜」である。
これは、主人公が霊を呼び出すことのできる『ミセス・ジョーンズ』の家で、霊と出会い、子供時代の気になっていた出来事を知る、というのがこれまでのあらすじである。
ミセス・ジョーンズのもとに連れて行ってくれた『梓』という女性も気になるのだが、降りてきた霊たちの話がやっぱり本筋なのだろう。
主人公が小学生時代に仲良くしていた同級生(山野井清)は、主人公の目のまで車に飛び込んだ。
清とその父は「あたり屋」だったようだ。(父が清に当たり屋をさせていたようだ)
その出来事について、主人公と清と仲良かった警察官、子供の父、そして清の霊が降りてきて、事件の真相を話す。
芥川龍之介の「藪の中」を連想させるが、それぞれの立場でそれぞれの主張をしている。
これが最後にどのようになるのかはこれからである。
私の予想では、これからも霊が降りてくるとすれば、主人公の祖父ではないかと・・・
と言うわけで、降りてくる霊たちが話す内容は、ジーンとくるような内容である。
これでもか、これでもか、というように、自分を責める。
それほど責めなくてもいいのに、と思うくらいである。
結末はどうなるのか、ワクワクしている。
毎週楽しみに読んでいこう。
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