長嶋茂雄は1974年限りをもって引退を決意した。その年の成績を調べると、108安打、15ホームラン、打率.244で、全盛期に比べれ見劣りするもののまだ余力は残していた。そういう時、まだ惜しいと言われるうちに引退したいという美学だと思う。38歳だった。そして最終戦終了後の10月13日、後楽園球場で「引退セレモニー」が行われた。その時に有名な「我が巨人軍は永久に不滅です」というフレーズが述べられた。この時点では「ミスタージャイアンツ」ではあっても、まだ「ミスタープロ野球」ではなかったのである。僕はその日のテレビニュースで聞いたと思うけど、別に巨人ファンじゃないから心に響く言葉じゃなかった。
1974年セリーグは中日が優勝し、巨人は10連覇を逃した。これをもって川上哲治監督は退任し、引退したばかりの長嶋が監督に就任した。ところが1975年の巨人はなんと最下位に沈んだのである。いろいろと長嶋采配が批判されたが、基本的には「長嶋無きジャイアンツ」を率いるという問題を解決出来なかったのである。すでに1965年からドラフト制度が実施されていて、巨人だけに有望な新人が集中する時代ではなく各チームの戦力は平均化しつつあった。それにしても監督が代わった直後に初の最下位という劇的変化も、デビュー戦で金田に対して4連続三振だった長嶋だけのことはある。新鮮な驚きがあったものである。
76年、77年はリーグ優勝したものの日本シリーズでは敗れた。78年(2位)、79年(5位)、80年(3位)と3年連続優勝を逃したことに読売本社内で批判が高まり、「辞任という名の解任」となり読売・報知新聞の解約が相次いだと言われる。後任は元投手の藤田元司で、この年限りで引退した王貞治が助監督になった。81年は優勝して日本一にもなり、82年は2位だったものの83年はまた優勝して、王監督に交代した。王は5年間で優勝一回だったため、89年に再び藤田が監督に戻って2年優勝するも91、92年と優勝を逃した。こうして、「常勝」を義務づけられたジャイアンツでは、1993年から2001年まで二度目の長嶋監督体制となったのである。
巨人の成績を詳しく見たけれど、実はこの経緯こそ長嶋の人生だけでなく日本社会にとっても大きかったのである。「放逐」と「復活」というギリシャ悲劇のような、あるいは源氏物語のような「王権の構造」が長嶋を神話化していくのである。そして、それは大量の長嶋ファンがこの復活を支えたわけである。彼らは単に巨人ファンというだけでなく、やはり長嶋ファンだったのである。そして、関東地区における読売新聞の販売戦略上、読売は長嶋を無視できなかった。朝日、毎日が高校野球を主催しているのに対し、読売新聞はまずジャイアンツの親会社なのである。その時点で、最大の拡販材料は「巨人戦チケット」だったのである。
第二次長嶋監督時代の巨人の成績は3位、1位、3位、1位、4位、3位、2位、1位、2位だった。優勝3回(そのうち日本一2回)でBクラスは一回だけなのだから、二度目の監督は成功というべきだろう。だが順位に止まらない大きなドラマがあった。それが1996年の「メークドラマ」で、広島に最大11.5ゲーム差がありながら7月以降の快進撃で「奇跡の大逆転優勝」を成し遂げた。その時のキャッチフレーズが「メークドラマ」で、こんな英語はないと言われながら(本人も自覚していた)その劇的ドラマを象徴する言葉となり、その年の新語流行語大賞の年間大賞となった。これが「長嶋神話」の決定打となったと思う。
2000年には監督として現役時代の背番号3を付け、並々ならぬ決意を示して優勝した。ダイエー・ホークス(南海ホークスが九州に移転、現ソフトバンク)が王貞治を1995年に監督に招へい、しばらく低迷するものの1999年に34年ぶりに優勝。2000年はただ一回だけの監督としての「ON対決」となり大きな評判となった。(日本シリーズは4勝2敗で巨人が日本一。)そして2001年限りで監督を退任、アテネ五輪優勝を目指す日本代表強化委員長となった。2003年11月のアジア選手権で優勝し五輪出場権を獲得したが、2004年3月4日に脳梗塞で倒れ、結局はアテネで指揮をすることは適わなかった。(結果は3位だった。)
この68歳の病気までが「白秋」で、以後が「玄冬」期となるだろう。そして、この時期こそが実は長嶋が真に長嶋になった時期なのだと思う。それまで一貫して「読売ジャイアンツ」一筋、つまり偉大であっても私企業にしか関わってこなかった長嶋が、初めて「国家的肩書き」を持って成功へ歩み出した途端に病に倒れた。そこで「神話化」から「聖人化」へと進んで行く。聖人と言っても何も完全不可欠な人間という意味ではなく、カトリックの「聖人」に近い。昔なら長嶋神社に祀られたかもしれないような「神格化」と言っても良い。カトリックでは「列聖」運動が行われて、それが認められて聖人に認定される。
長嶋においても、持ち上げようという動きが読売新聞を中心に行われた。例えば東京ドームに野球観戦に訪れ読売グループが独占取材する。2004年11月4日には皇居で天皇・皇后と懇談している。2005年には文化功労者に選ばれた。(川上哲治に続くプロスポーツ界2人目。)そして2013年には松井秀喜とともに国民栄誉賞を受けた。国民栄誉賞というのは、1977年に王貞治のホームラン世界一達成を顕彰するために新たに作られた賞である。プロスポーツ選手に授与する適当な賞が見つからなかったのである。そのため長嶋茂雄に授与する機会がなかったが、松井と合わせ技で授与というのは安倍内閣と読売グループの思惑があったんだろう。
そして2021年の東京五輪で不自由な身体ながら王、松井とともに「聖火ランナー」(走ってないけれど)として登場した。世界的にはマイナー競技の野球だが、日本ではやはりスポーツと言えば長嶋が必須だったのである。そして2021年秋に文化勲章を受章した。こうして長嶋の「聖人化」が完成する。たかだかその程度のレベルではあるがプロスポーツ界初の「名誉」なのであり、やはり長嶋には国民的な人気、存在感があったということだろう。選手、監督時代の実績だけを考えれば、「文化勲章」に値するのかと思うけれど、もはや誰もそういうことは言わないし言えない。それほどの神聖なイメージをまとってしまったのである。
この人生最後の「名誉」は、読売グループや安倍政権の思惑もあったと思うが、それ以上に「リハビリ」の様子が広く伝えられたことが大きいと思う。自分でも頑張ったし、病院や他の患者に対しても「長嶋らしい」陽気な頑張り屋だったらしい。最後まで「長嶋を生きた」のである。だがその「生涯野球選手」という生き方は、必ずしも家族には望ましくはなかったらしく、夫人の苦労は大きかった。亜希子夫人は東京五輪(64年)のコンパニオンだったときに長嶋茂雄が一目惚れしたというエピソードは当時子どもでも知っていた。夫人は2007年に夫に先立って64歳で急逝し、墓所はハワイにある由。だから長嶋一茂はハワイが好きなのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます