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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ポン・ジュノ監督「パラサイト 半地下の家族」

2020年01月12日 21時13分44秒 |  〃  (新作外国映画)
 2019年のカンヌ映画祭で韓国映画初のパルムドールを受賞したポン・ジュノ監督の「パラサイト 半地下の家族」を見た。とにかく面白いと大宣伝していて、確かに「面白すぎて受賞できないのでは」とまで言われただけのことはある。韓国を初め全世界で大評判になっていて、特にアメリカで好評である。アカデミー賞の前哨戦と言われるゴールデングローブ賞では外国語映画賞を受賞した。ゴールデングローブ賞では外国語映画が作品賞の対象外だが、日本時間13日に発表されるアカデミー賞では作品賞にもノミネートされるのではないかと取り沙汰されている。監督賞、脚本賞のノミネートも有力だ。

 原題は「パラサイト」(寄生虫)だが、日本では「半地下の家族」という副題が付いた。キム・ギテク(ソン・ガンホ)一家は、まさに「半地下」の家で暮らしている。一家揃って失業中で、父親はタクシー運転手や「台湾カステラ」屋をやったが失敗、二人の子どもも大学受験に失敗している。「半地下」の家というのは、日本では住居としてはほとんど利用されないが、アメリカ映画なんかではよく出てくる。韓国映画でも見た気がするし、トリュフォー監督の遺作「日曜日が待ち遠しい!」では主人公が外を歩く女性の靴を眺めていた。この映画では「地上」と「地下」の中間という象徴性が生きている。

 何事もうまく行かない一家にある日偶然の幸運が舞い込む。長男ギウ(チェ・ウシク)の友人の大学生がアメリカに留学することになり、富豪の女子高生パク・ダヘの家庭教師の引き継ぎを頼んできたのである。なんで大学の友人に頼まないのか。それはダヘに気があって、大学に合格できたら付き合いたいと思っているからだ。大学生じゃないギウなら、横取りの心配もないだろうし、何度も受験してるから、高校生に英語を教えられるだろう…。高台にある富豪邸に乗りこむと、そこは有名建築家が自宅用に立てたあきれるほどにステキな家だった。
(家庭教師先の豪邸)
 豪邸にはパク・ヨンギョ(チョ・ヨギョン)という美人妻がいて、下の子の養育に悩んでいる。うまく取り入ることに成功したギウは、今度は下の子の家庭教師に姉のギジョンを(アメリカ帰りの画家と偽って)推薦する。そして、続いて父を運転手に、母を家政婦にと陰謀をめぐらしていくのである。2018年度のカンヌ映画祭は「万引き家族」だったが、2019年は口八丁手八丁の「詐欺師家族」だ。そこまでは予測可能だが、面白くて一気に見ていると、そこからが予測不可能の後半戦が待っている。
(カンヌで受賞したポン・ジュノ監督)
 ストーリーはここまでしか書けない。いくら何でも、「戯画」と判っていても、ここまでうまく行くだろうかと思っていると、後半になって複雑な階層性が際立ってくる。世界は「高台」と「半地下」だけではないのである。そして、「格差」は服装や会話だけではごまかせない。「半地下」には「半地下の臭い」が染みついている。一見すると「努力」や「幸運」で交換可能のように見えた「高台世界」は、嗅覚で差別されて近づけない。ポン・ジュノ監督が外国で撮ったSF映画「スノーピアサー」では、列車の車両が先頭から水平に階層化されていたが、「パラサイト」はそれを現実世界の中で垂直に置き換えて見せた。

 紛れもなく面白くて、徹夜明けで見ても寝ないで見られるんじゃないかという「ジェットコースター」映画だ。ヴェネツィア映画祭金獅子賞の「ジョーカー」と合わせ、2019年は「格差」をエンタメで描いた年だった。それは一つの描き方だと思うけれど、変な言い方になるが「ここまで面白くていいのか」と思わないでもない。立ち止まって考え込む時間をくれないのである。僕はどっちかというと、こういう映画より時間が少し停滞してもいいから、もう少し世界を眺めたいと思う方だ。

 ポン・ジュノ(1969~)は、「殺人の追憶」(2003)や「母なる証明」(2009)などで日本でも高く評価された。デビュー作の「ほえる犬は噛まない」(2000)もとぼけた感じが好きだった。2006年の「グエムルー漢江の怪物」も迫力があるホラーだった。そのようなエンタメ色が強い映画と社会性が前面に出た映画あるが、今回の「パラサイト」は双方の資質が共に生かされた傑作だ。主演のソン・ガンホが素晴らしいのは当然だが、今回は他の役者が皆素晴らしいのに驚いた。特に美人妻チョン・ヨジョンがうまい上に美人だから見とれてしまう。女子高生ダヘよりずっと魅力的。
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ゴーン事件考③日本の司法制度編

2020年01月11日 23時10分43秒 | 社会(世の中の出来事)
 カルロス・ゴーンはレバノンで「日本の司法制度は不正」と批判を繰り返している。その指摘をどう考えればいいんだろうか。よく裁判のニュースで「不当判決」と書いた紙を持った弁護人が出てくることがある。2019年に最高裁の「大崎事件再審の逆転棄却決定」は、ここでも批判したけれど、間違いなく「不当決定」だと考える。それは「正しくない」ものだから「不正決定」と言ってもいいはずだが、普通は「不当決定」と表現するだろう。「個別事件の判断の誤り」だから、日本の司法制度全体が「不正」であるという判断とは違う。「不正」というと賄賂でも貰って判断を変えたようなイメージになる。

 僕は今まで冤罪事件死刑制度についてたびたび書いてきた。日本は死刑制度を存置しているから、ヨーロッパ諸国は日本には容疑者を引き渡さない。世界では死刑廃止国の方が多いわけだから、そういう日本の司法制度を「不正」と表現することもありうる。しかし、司法制度に限らず、世界には様々なシステムがある。例えばアメリカの連邦最高裁だって、裁判官が終身で務めるというのも日本から見れば変である。でも「不当」とは言わないだろう。一党独裁の中国とは違うんだし、現実に弁護人の主張が通って無罪判決が出ることはそれほど珍しくはない。

 だから、日本の司法制度全体を不正なものだというのは言いすぎというものだ。このように、僕はつい先頃までは判断していた。ところが、よほど頭に血が上ったか、法務省や検察庁のゴーン事件への反応を見ると、どうもおかしなことが多すぎる。特にゴーン会見を受けて、森雅子法務大臣が2回も談話を出して法務省の主張を展開した。それを見て、僕は考えを変えざるを得なかった。日本の司法制度は不正なものだと言われてもやむを得ない

 森法相談話は法務省のホームページですぐ見られるが、一番問題だと思う部分を示しておきたい。
 「有罪率が99%であり,公平な判決を得ることができないとの批判がなされたが,我が国の検察においては,無実の人が訴訟負担の不利益を被ることなどを避けるため,的確な証拠によって有罪判決が得られる高度の見込みのある場合に初めて起訴するという運用が定着している。また,裁判官は,中立公平な立場から判断するものである。高い有罪率であることを根拠に公平な判決を得ることができないとの批判は当たらない。」

 法相の論理(法相のみならず、テレビニュースで解説している弁護士などは大体同じようなことを言ってる)では、「的確な証拠」があるもののみを起訴しているから、高い有罪率なんだという。ところで、カルロス・ゴーンはまさに起訴されている。よって論理的に、ゴーン被告に関する証拠は的確なものであり、「有罪判決が得られる高度の見込みがある」わけである。その確率は99%と明示されている。

 起訴されたんだから、カルロス・ゴーンは99%有罪なんだと法務行政のトップが世界に向かって明言しているのである。まさに「推定有罪」である。これが「不正な司法制度」でなくて何なのか。それなのに野党もマスコミも、この森談話を批判しない。国家主義的思考に染まっているんだろうし、もともと論理力が不足しているのかもしれない。お前は有罪だ、なぜなら起訴されているから、と明言する法務大臣がいる国では、誰だって裁判を受けたくないだろう。

 他にもおかしなことがいろいろあるが、逮捕するには令状主義が徹底されているなどと自賛している。別に当たり前のことで、どこか独裁国などと比べれば「人権保障」が出来ていると自慢しているんだから始末が悪い。そして、あろうことかキャロル夫人に対する逮捕状まで取ってしまった。「令状主義」は生きているが、こんな逮捕状を認める裁判官もいるのである。公判が始まる前の段階で「偽証罪」って、どうなってるんだろう。
(キャロル夫人に逮捕状)
 確かに「公判前の証人尋問」は例外的に可能である。(刑訴法226条)宣誓しているんだろうから、偽証は罪になるが、今回は「記憶にない」という証言だという。実は知ってたとしても、夫をかばっただけである。捜査に大きな影響を与えるものではなく、実際に何の不都合も起きなかった。だから誰も今までそんな証言がされていたことも知らないだろう。訴追するまでもなく「起訴猶予」レベルのものだ。今後キャロル夫人が夫の代弁者として振る舞うことを防ぐためなんだろうけど、「嫌がらせ」もここまで来ると、どうも焦りや腹いせという感じだ。
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ゴーン事件考②有価証券報告書編

2020年01月10日 22時30分27秒 | 社会(世の中の出来事)
 ゴーン元日産会長は、2018年11月19日に金融商品取引法違反容疑で東京地検特捜部に逮捕された。直接の容疑は「有価証券報告書の虚偽記載」である。自らの報酬を少なく見せかけるために、有価証券報告書に虚偽記載をさせた容疑である。同じ容疑で対象年度を変えて2回逮捕され、起訴された。過小記載は8年間で約91億円とされている。起訴内容に沿って、日産は有価証券報告書を訂正した。
(今までの虚偽記載事件)
 金融商品取引法違反は「懲役10年以下か、罰金一千万円以下」であり、それをもって重罪だとする人があるが、そんな重罰は極めて悪質なインサイダー取引とか長年の粉飾決算の場合だけだろう。今までの例に照らせば、確実に執行猶予が付く案件である。普通は会社トップが直接虚偽記載の実務を行うはずがなく、下からの捜査を積み上げてトップに迫るのが通常の方法だ。いきなりトップを逮捕したのは、言うまでもなく事前に日産と「司法取引」を行っていたからである。

 そこがゴーン側から「クーデター」と言われるところである。その詳細な内情は知らないけれど、当時の報道によれば、日産内部では捜査当局が金融取引取引法で逮捕したのは驚きだったと書かれていたと思う。つまり、これは「一種の形式犯」であり、本来は「特別背任」が本命だったはずだということだろう。結局、後に特別背任容疑で再々逮捕、再々々逮捕と繰り返された。僕は当時、この容疑が事実なら「投資家に影響を与える可能性」は大きいと思った。元々ゴーン会長の報酬が多すぎるという議論は度々あった。そして実際は倍も貰っていたのかと思ったわけである。

 ところで不思議なことに日産は有価証券報告書の中で、取締役の報酬部分だけを訂正して、財務諸表を訂正していない。それはこの「隠された報酬」は実は支払われていなかったからである。つまりゴーン側に不明朗な報酬が渡り、その支出を隠すために決算を粉飾するという悪質なものではなかったのである。その未払い部分は退任後に支払うという決まりだったという。なんだ、貰っていたのに隠していたのではなかったのである。退任後の追加報酬がどこまで正式に決定されていたか現時点では判らないが、仮に細かく取り決めてあったとしても、実際には支払われてない以上「報告書に書くべきかどうか」は法的に議論の余地があると思う。

 それ以上に問題だと思うのは、日産は自ら解任したゴーン元会長にこの約束した報酬を支払うんだろうか。もちろん支払わないだろう。今では会社側と対立関係にある人物に巨額の追加報酬を支払うというのは、到底株主の理解を得られない。しかし、有価証券報告書を訂正してしまった以上、届け出た通りの報酬額を支払う義務があるのではないか。結局は払わないと言うんだったら、前の報告書の報酬が正しかったことになり、再訂正をしないとおかしい。しかしながら、再訂正をして元通りにしてしまったら、「有価証券報告書の虚偽記載」というもの自体が存在しなくなる。

 僕にはどうも、そのような「背理」問題があると思うんだが、誰も何も言わないのはどうしてだろう。日産が「泥棒に追い銭」しない限り、形式的に犯罪が存在しなくなるような気がする。司法取引をして日産の内部資料を見られたはずの検察側が、このような「まだ貰ってない報酬」をもって「虚偽記載」として長期に拘束したわけである。ということは「本丸」であるはずの「特別背任」に関しても、弁護側の反証をよく聞かない限り検察側の主張を鵜呑みにするのは危険だということを示しているんじゃないだろうか。(なお「特別背任」事件の方は、関係証拠が完全に示されない限り、有罪無罪の判断は僕には無理だ。もしかしたら証拠を見ても無理かもしれない。)
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ゴーン事件考①日本脱出編

2020年01月09日 22時55分06秒 | 社会(世の中の出来事)
 日本で訴追され保釈中だったカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn、1954.3.9~)元日産会長が、2019年末に日本から密かに出国していた。レバノンで声明を発表し、それが大晦日に突然報道されたわけである。このニュースにはさすがに驚いた。今までゴーン事件は一回も書いてない。真相は僕にはよく判らないし、あまり「現在進行形」の事件は書かないことにしている。(何十年もたった再審事件などは別。判決の論理がおかしいなと思った今市事件は例外である。)
(レバノンで会見を開いたゴーン氏)
 しかし、今回の展開で2020年春に始まるとされた裁判は通常の予定では進行しないことがはっきりした。だから僕の感じたことを忘れないうちに書き留めておきたいと思う。まず正直に言ってしまえば、「やるなあ」とでもいう感想。「無実なら裁判で訴えよ」なんてタテマエをいう人が多いが、さっさと逃げ出すという選択肢があったのか。まあお金があったからこそ出来ることで、そんなことは普通の人には出来ない。そうなんだけど、お金があればここまで日本政府をコケに出来るのか。ここまで日本政府をコケにした事件と言えば、1978年の成田空港管制塔占拠事件以来かもしれない。 

 アメリカのミステリー風に言うなら、「日本国対カルロス・ゴーン事件」となる。今回の出来事で判ったのは、思いがけなく「日本国」の立場にしか立てない人が多いことだ。カルロス・ゴーンは日本に来た時から、傲慢なやり方で好きではなかったが、刑事事件になった以上は「一市民」として公正な人権保障が認められなければならない。「保釈した裁判官が悪い」などと八つ当たりする人がいるが、この程度の事件でずっと保釈しないことはあり得ない。もし今まで勾留を続けていたとしたら、諸外国からの批判は今のようなレベルでは済まない。もっともっととんでもない大騒ぎになっていただろう。

 もう一つ、プライベートジェット機が出国するときの検査が甘かったのではないかと入国管理当局(法務省である)を非難する向きも多い。これは全くおかしい。飛行機に乗るときに厳しい検査があるのは何故だろうか。まずは「テロ、ハイジャック防止」である。それはプライベートジェットの場合、ほとんど関係ない。もともと雇い先の命じるまま、どこでも行ける飛行機なんだから。また日本への入国に際し、違法薬物、コピー商品などの持ち込みを禁じるのも検査の大きな目的だ。プライベートジェットを使うような大物でも、薬物を持ち込む人はいそうだから入国審査はそれなりに見てるんだろう。しかし、日本から持ち出す方はあまり検査する必要がないと考えても無理はない。

 なぜなら、プライベートジェットを優遇するというのが国策だったからである。東京新聞1月8日付の記事(こちら特報部)によれば、関空、成田、羽田、中部など主要な空港でプラーベート機専用ターミナルを設けたり、優先的に駐機できる場所を増やしてきたという。そのため、2018年には5719回の発着があり、2012年と比べて倍増した。国土交通省も「企業の経営者にとっても時間が有効活用され、わが国の国際競争力強化に資する」と推進してきた。(以上、東京新聞記事による。)

 検索してみると、経団連が2014年1月に発表した「日本経済の発展の道筋を確立する」という提言に以下の項目があるのが見つかった。別表5に「◦国際空港の容量拡大・稼働率向上等(発着枠の拡大、空港使用料の引き下げ、プライベートジェットへの対応強化等)」と明記されている。つまり、「日本を世界で一番企業が活躍できる国にする」という政権があって、それを後押しする財界の要望があった。そのような「アベノミクス」の一翼を担ったのが「プライベートジェット」優遇だったのである。

 その中で関空は首都圏に比べて、プライベートジェットの発着は少なかったという。従って、公務員削減策のもと、人手不足だっただろうことは推察できる。出国したとされる12月29日は、日本人にとっては年末の出国ラッシュだし、クリスマスから新年にかけては外国人観光客も多いだろう。折しも関西では山口組分裂に伴う抗争が激しくなりつつある。それに絡む出入国の監視の方が重要だろう。手薄なところを狙われたんだろうが、もとは国策で優遇していた以上、現場を責めるのは酷じゃないか。

 日産事件は無実を主張できるが、この「密出国」は間違いなく「有罪」に違いない。出入国管理及び難民認定法の25条違反で、71条によると「1年以下の懲役若しくは禁錮若しくは30万円以下の罰金」だから、それほど重くはない。しかし、僕が疑問なのは保釈後の検察の対応だ。検察側は「逃亡または証拠隠滅の恐れ」を理由に保釈に反対していた。それなら保釈後も「行動確認」を続けるだろう。人権上問題もあるかもしれないが、やるはずだ。数年前のパソコン遠隔操作事件では、保釈後も行動確認(尾行)を続け、まさに証拠隠滅しているところを逮捕した。

 今回はどうしていたんだろうか。してないはずはないと思うけど。警察官も公務員だから、年末には少し態勢が緩くなったのか。防犯カメラで追えるから、それに任せていたのか。それにしても関係者が何度も来日して、各空港を調べるなどしていたという。どうして事前につかめなかったのか。もしロシア関係者と接触し北海道から密出国するといったプランだったら、多分事前に判明したんじゃないだろうか。今回は協力者が元米軍関係者だったらしいから、日本警察にはアンタッチャブルな領域だったのかもしれない。そんな想像もしてしまう。僕は裁判所や入管ではなく検察の失敗だと思っている。
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石橋政嗣、梅宮辰夫、シド・ミード等ー2019年12月の訃報

2020年01月07日 22時57分42秒 | 追悼
 2019年12月の訃報と言えば、まず忘れられないのは中村哲のことである。時間が経っても忘れることは出来ない。そのときに書いたので今回はパス。またフランスの女優アンナ・カリーナの訃報記事も書いた。直後にゴダールの「気狂いピエロ」を見たけど、相変わらず素晴らしかった。もう一人、浅草の木馬亭の席亭だった根岸京子も浪曲師玉川奈々福の会の記事で触れたのでパス。

 元日本社会党委員長石橋政嗣(まさし)が12月9日に死去、95歳。長命だったが、90年の政界引退後は表に出なかったので、名前を知らない人もいるだろう。長崎県佐世保市出身で、1955年に日本社会党から衆議院議員に当選して、12回連続当選、60年安保では岸内閣を追求して知られ、1970年に書記長(成田知巳委員長)となった。1977年に辞任するが、1983年に飛鳥田一雄が辞任した後に委員長に就任した。1986年に辞任し、後継に土井たか子が就任した。

 石橋と言えば「非武装中立」である。社会党を象徴する政策のように言われるが、実は60年代以後に石橋が提唱したものである。「非武装中立」という著書もあり、83年に中曽根首相と国会で交わした防衛論争は国会史に残るものとされる。石橋の基本的路線は「社公民」の野党共闘にあったが、党内対立に足を取られることが多かった。僕はこの人のマジメな感じに好感を持ってきた。最後まで勲章を拒否し続けたのも立派だと思う。

 俳優の梅宮辰夫が12月12日に死去、81歳。テレビが「また一人、昭和の大スターが亡くなりました」と報じていた。ま、それはそれでいいんだけど、「大スター」は言い過ぎだろう。東映で主演映画はあるけれど、「不良番長」とか「ダニ」とかいう題名だから、高倉健や鶴田浩二のような「大スター」とは違う。ただ任侠映画全盛時代はそれを「東映京都」で撮ってたから、梅宮が「東映東京」の主だったという。「仁義なき戦い」を代表作と新聞に書いてあったが、第一作途中で殺されてしまう。大ヒットして続編が作られ、第三部で別の人物で出てくるからまとめて見るとアレレと思う。

 90年代以後は観光地に行くと漬物屋に看板が立ってたのと、週刊誌で娘の梅宮アンナ関連で騒がれた印象が強くなる。シネマヴェーラ渋谷で数年前に行われた東映実録映画特集で、トークショーを聞いたことがある。とにかく陽性で、話が面白かった。昔はメチャクチャ、毎日山口組と飲んでた。役者がおとなしくなったらオシマイ。当時亡くなったばかりの松方弘樹との豪快な釣りの思い出など、痛快至極のトークだった。2月末に池袋の新文芸座で追悼特集が予定されている。

速水融(はやみ・とおる)が4日に死去、90歳。慶応大学名誉教授。「歴史人口学」を日本で主導した人で、文化勲章受章。宗門改帳をもとに研究する手法を確立した。「歴史人口学で見た日本」(文春新書)が簡潔でまとまっている。
柴田駿が11日死去、78歳。フランス映画社創業者で、アンゲロプロスやヴェンダースの映画を我々が見ることが出来たのは、この人のおかげだ。妻が川喜多和子で、ともに日本映画の世界進出にも力を尽くした。ゴダールとは個人的に親交があった。フランス映画社が数年前に破産してしまったのは、本当に無念なことだった。
小島慶四郎、23日死去、88歳。松竹新喜劇の俳優。
村岡兼造、25日死去、88歳。旧竹下派の有力政治家で、橋本龍太郎内閣では官房長官を務めた。2004年に日歯連事件で政治資金法違反に問われ、一審無罪ながら逆転で有罪が確定した。郵政相、運輸相も務めていて、僕は父の葬儀後にこの人にやむを得ない理由で会いに行ったことがある。
北村肇、23日死去、67歳。サンデー毎日編集長、週刊金曜日編集長を務めた。

ポール・ボルカー、12月8日没、92歳。元米国連邦s準備制度理事会(FRB)理事長。79年から87年まで務めた。
エマニュエル・ウンガロ、21日死去、86歳。フランスの服飾デザイナー。
ペーター・シュライヤー、25日死去、84歳。ドイツの世界的テノール歌手。
シド・ミード、30日死去、86歳。元々は工業デザイナーで、自動車や航空宇宙産業で近未来的なデザインが注目された。その才能が映画界に注目され、多くのSF映画映画で作品世界の設計を担当した。特に有名なのが「ブレードランナー」で、他にもスタートレックなど多くの作品に参加した。日本でも人気があり、ガンダム宇宙戦艦ヤマトで一部のデザインを担当している。
(シュライヤー)(2019年のシド・ミード展ポスター)
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若竹七海の「葉村晶シリーズ」

2020年01月06日 22時39分29秒 | 〃 (ミステリー)
 若竹七海の「世界で一番不運な女探偵」、葉村晶シリーズは時々出るたびに楽しんで読んできた。12月に文春文庫新刊「不穏な眠り」を読んだけど、本屋で見たら葉村シリーズも入ってる短編集「暗い越流」(光文社文庫)があった。表題作は日本推理作家協会賞(短編部門)受賞作である。本屋にズラッと並んでたから、何か理由があるのかと思ったら帯に出てた。1月24日から金曜夜にNHKドラマで放送されるという。主演はシシド・カフカで、若くて魅力的過ぎるかなと思うけど…。

 「葉村」って何かありそうな名前だけど、一発で変換できなかったからないのかもしれない。若竹七海は1991年の「ぼくのミステリな日常」でデビュー以来、様々なジャンルのミステリーを書いてきた。「プレゼント」「依頼人は死んだ」「悪いうさぎ」は、それぞれ1996、2000、2001年の作品だから、初期の葉村晶はまだ若かった。ちゃんと(?)探偵事務所に勤めてたし。僕が読んでたのは「依頼人は死んだ」だけだったから、ほとんど印象はなかった。その後ずっと長く書かれなくて、2014年に突然「さよならの手口」(2016)で戻ってきたときには、ずいぶん年齢を重ねていたが相変わらず独身で「不運」だった。

 今回読んだ「暗い越流」の中に「道楽者の金庫」には「昭和の頃はどこの家にも武者小路実篤の印刷色紙とこけしがあったような気がする」とある。作者は1963年生まれだから、かろうじて「昭和最末期」の香りを知ってるのである。この短編は「こけし」コレクターが関係するミステリーなので、そういう叙述が出てくる。武者小路とこけしという取り合わせに膝を打って納得する世代がある。ぼくはまさにそれである。葉村晶は「国籍日本、性別女」だが、いろいろあって女がレアな探偵業を続けている。

 今、文庫本には社を越えて「葉村晶シリーズガイド」が入っている。そこに「女探偵が歩く街」という作者によるエッセイが入っている。ミステリーファンには見逃せない文章で、欧米の主な女性探偵が紹介されている。日本では殺人事件も少ないし、戸籍制度などもあって、人捜しだけなら圧倒的に警察が有利だ。私立探偵を依頼する人などほとんどいないし、ましてや女性で探偵をする人もそんなにいないだろう。まあDVやいじめ事件の調査などには女性の方が有利な場合もあるかと思うが、現実に調査を依頼する人がどれだけいるだろう。

 そういう社会の中で、一人暮らしの女性がどれだけ活躍できるのか。そのためにどういう工夫を作者がしているのか。そこも読みどころだ。葉村晶はどんどん私生活でも「不運」が積み重なって、調布のアパートで共同生活をするも取り壊され、探偵事務所もなくなる。仕方なく吉祥寺のミステリー専門書店でアルバイトして、時々知り合いから依頼される事件調査をしている。住む場所もなくなって、書店に二階に居候するようになり、冗談半分に「白熊探偵社」という看板を掲げるに至っている。

 そのため、ミステリー書店向けの仕事、例えば物故者の遺産整理で本を任せられたりするようになった。そこから事件に発展するケースもある。事件じゃなくても、ミステリー関係のうんちくを自然に入れられるようになった。そして東京西部、吉祥寺を中心にした土地をめぐりながら、人間の心に潜む悪に向き合って行く。短編が多いが、近年書かれた「錆びた滑車」の展開とアイディアにはうならされた。最高傑作だと思う。新刊の「不穏な眠り」は多少出来不出来があると思うが、読んでて楽しいのはいつもと同じ。特に「鉄道ミステリフェア」を企画した中で起きる事件を描く「逃げ出した時刻表」が面白かった。

 人間には裏があるということがよく判るような作品ばかり。でも読んでいて嫌にならないのは、葉村晶が不運を一手に引き受けてくれることもあるが、キビキビした文章による読みやすさも大きい。探偵と共にどんどん事件をくぐり抜けていくことになり、息を継ぐ暇もない。まずはテレビで評判になる前に一冊読んでみてはいかがか。今一番安定していて面白いシリーズだから。
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大傑作「メインテーマは殺人」

2020年01月05日 21時04分22秒 | 〃 (ミステリー)
 アンソニー・ホロヴィッツの「メインテーマは殺人」(2017、山田蘭訳、創元推理文庫)は2019年の「このミステリーがすごい」の1位を獲得した傑作ミステリーだ。2018年に刊行された「カササギ殺人事件」も評判になり、僕も「大傑作『カササギ殺人事件』」を書いた。今回の作品もまた、ものすごくよく出来ていて大満足。しかも、前作と同じぐらい手が込んでいて、実に読み応えがある。

 冒頭でダイアナ・クーパーという老女が葬儀社を訪ねる。自分の葬儀の手配を生前にやっておくためだ。そして、その葬儀社を訪ねた同じ日にダイアナは殺されてしまったのである。まあ、そういう偶然もないとは言えないだろうが、いかにも不自然ではある。自ら殺されると知っていたのだろうか。という風に話が始まるが、すぐに「この書き方は不十分だ」と批判されてしまう。批判するのは警察の顧問をしているホーソーンという男。「わたし」の描写はおかしいと言うのである。

 「わたし」というのは、テレビの脚本や子ども向けのミステリーを書いている「アンソニー・ホロヴィッツ」という人物、つまり自分である。自分の小説に自分が出てきてしまうのだ。ホーソーンは事情あって警察を辞めた後も、顧問として時々難事件の捜査に関わることがある。普段はテレビの警察ドラマのアドバイザーをしている。その関係でホロヴィッツを知っていて、自分が捜査する小説を書いてくれ、利益は半々でどうかと言ってくるのである。なんでそんな本を書かなくちゃいけないのかと思うが、いろいろあって「わたし」はホーソーンについて回ることになってしまう。

 iPhoneで録音しながら捜査過程をまとめていくのが、この小説という体裁である。だから、基本的にホーソーンという付き合いづらい「ホームズ」の捜査を、「わたし」が「ワトソン」となって書き留めたわけである。その描写は実にフェアで、多分一読して犯人当てに成功する人は誰もいないだろう。言われてみれば「伏線」は十分に張りめぐらされてあり、その回収ぶりは見事の一言につきる。いろんな情報が入り組んでいて、違う方向に推理が向かってしまうから、見落としてしまうのである。

 それと「わたし」をめぐるノイズの描写があって、それが楽しいから目くらましになる。「わたし」は脚本家であって、今まさにハリウッドからも依頼が来ている。スピルバーグが「タンタンの冒険」の続編のシナリオを依頼してきて、スティーヴン・スピルバーグピーター・ジャクソンがロンドンに来るのである。その脚本会議があるから聞き込みには付き合えないというのに、その場にホーソーンがやってきてぶち壊し。実際にそういう話があったかどうかは知らないが、何しろ超有名な映画監督が実名で出てくるんだから、笑っちゃうしかない。

 ダイアナ・クーパーというのは、いまや日の出の勢いのイケメンスター、ダミアン・クーパーの母親だった。ダミアンはロイヤル・シェークスピア・シアターで活躍した後、ハリウッドに進出して活躍し、カリフォルニアに豪邸を構えられるぐらい成功している。しかし、ダイアナとダミアンの過去には、思い出したくない過去の「事故」があったのである。10年前に海辺の町でダイアナが起こした交通事故で、双子の子どものうち一人が即死、もう一人は障害が残ってしまった。その「事故」がダイアナ・クーパー殺害に関係しているんだろうか。警察は泥棒の仕業と見ているようだが、ホーソーンは一人独自の聞き込みを続ける。そしてダミアンも帰国して、いよいよ葬儀の日を迎える…。後は書けない。

 基本は「ホームズもの」の構図だが、いろんな現代ミステリーの趣向が入っている。「犯人当て」の真相と同じぐらい、「犯人じゃない当て」が素晴らしい出来映えだ。それに真相と直接関わらないような細部の謎が、ラストで一気に解明されるのも見事。自分の小説に「わたし」が出てきてしまうという「現代前衛小説」風の作りも効果的で、すっかり欺されてしまった。イギリスの演劇界、あるいはテレビや映画、また小説家の内情が折々に語られていることも魅力。そんな細部の楽しみに心奪われてゆったりと読んでいると、真相に迫る鍵が随所にあったのに気づけなくなる。だが、これは作者の勝ちというべきだろう。アンソニー・ホロヴィッツ、やっぱりすごいな。
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戦国大名をどう考えるか

2020年01月04日 22時53分24秒 |  〃 (歴史・地理)
 年末年始になると、テレビの通常番組が終わって「特番」ばかりになる。そんな中でも最近目立って多いのは、「戦国大名」や「お城」のブームだ。僕もずいぶんお城は行ってる。山や温泉が優先だったけど、お城や名水なんかもずいぶん行った。小さいときは自分も戦国時代や戦国大名に関心が強かった。今はゲームなんかでも扱われているから、ファンが多いのも判る気がする。でも…と思うんだけど、僕はどんどん戦国大名が嫌いになってきたのである。それは何故かを書いてみたい。
(1570年頃の戦国大名)
 その前に、なんで戦国大名に愛着を持つ人が多いのかを簡単に。「戦国大名」と言っても、全国ブランドは限られている。でも多くの地域に戦国大名がいた。ほとんどは城跡だけになってルけど、お城もあった。その大名や城は今となっては「町おこし」の観光資源だ。もしかしてNHKの大河ドラマにでもなれば、多くの人が訪れる。金目当てと言うだけでは不当だろう。地域のアイデンティティであり、郷土の英雄である。地域を誇りに思う人にとって、戦国大名が重要な歴史の核となるのも判る気がする。

 その前に考えておくべきなのは、「地方行政」の連続性である。律令制で決められた畿内七道の66ヶ国(壱岐と対馬を入れると、68国)が江戸時代まで続いた。明治になって「道府県」に変わるが、ほぼ昔の国を合わせて県になっている。それも当然で、もともと日本は山がちだから、山や川の自然国境がある。戦国大名もさかのぼれば多くは守護大名や地頭などから発した一族が多い。甲斐国はそのまま山梨県で、四囲を山で囲まれた盆地地帯だから、地方統一権力が作られやすい。それが源氏名門の武田氏で、南北朝時代に守護となってから続いてゆく。
(1581年頃の戦国大名)
 そのように今に続く地理的、政治的な連続性がある地域では、戦国大名が今も郷里の英雄なんだろう。でもちょっと調べていくと、どうも戦国大名が嫌になってくる。もちろん彼らは思想や大義のために戦っているのではなく、自家の生き残りをかけて戦っている。家というか、時には「自分自身の権力」を守るためでもあり、親も子もない非人情の世界を生きていた。典型的なのが武田信玄で、正直嫌になってくる。甲斐だけで見ると、治水もした名君だが、信濃に侵攻すると新たな占領地の方が年貢も重い。立場を変えれば「露骨な侵略軍」だったのである。

 侵攻された信濃の大名が越後の上杉謙信(長尾景虎)を頼った。謙信は「義」のために立ちあがったなどと言う人いるが、果たしてどうなんだろうか。もともと上杉氏は室町幕府の「関東管領」で、上杉の名前を禅譲されたわけだから、関東に出兵する理由はある。しかし、本国が雪に閉ざされた冬に関東に侵攻することが多かった。一時は小田原まで侵攻したんだから、オスマン帝国のウィーン包囲のような感じか。すごいと言えばすごいけど、そこまでする意味があるんだろうか。実際、関東制覇はならずに撤退するしかなかったんだし。

 織田信長を「革命家」ともてはやす人がかつては多かった。今では「楽市楽座」は信長以前からあったし、「長篠の戦い」の鉄砲戦術も見直されている。もう少し生きていたら、朝廷から征夷大将軍に任じられていた可能性があると今では思われている。それにしても信長は「殺し過ぎ」だろう。一方で信長の統一権力に抵抗した「一向一揆」も、かつては「農民戦争」などと革命のロマンを思い入れる人がいた。しかし、今では本願寺も戦国大名のような勢力だったとされる。

 戦国大名は勝った側、続いた側が名前が残って、知名度が高くなる。負けて滅んだ明智光秀石田三成も人気があるじゃないかというかもしれないが、織田豊臣権力内部で上層にあった人だ。織田・豊臣・徳川の統一戦争最終盤に関わる人物だから、知名度が高くなる。真田幸村(信繁)なども同様で、そこまで行くと「敗者のロマン」を感じられるわけだ。そのような「決勝トーナメント敗退」ではなく、一次リーグ敗退組、つまり朝倉や浅井などは評価が低い。あるいは「地方大会」の敗者である九州や四国、東北などの小さな大名もあまり出て来ない。

 日本ではタテマエ上は律令制がずっと続き、天皇と左右大臣などの朝廷機構が明治になるまで続いていた。武家の頂点である「征夷大将軍」は天皇に任じられた軍事官僚のトップにすぎない。だが実質は将軍家力が全国を支配していた。つまり「軍事政権」だったわけだ。明治維新以後も、政権を運営していた人の大部分は「武士階級出身」で、内面は武士精神だった。だからこそ、近代になって日本が軍事国家として「成功」したわけだろう。日本史の主要な時期が「軍事政権」だったことが、現代日本の経済や教育などに多くの影響を与え続けたのではないかと思う。

 イギリス人だったら、自分たちはニュートンシェークスピアを生んだと歴史を誇るだろう。日本人はなんと言えるだろうか。世界文化に貢献した人が誰かいるだろうか。そういう人が故郷から出た方がずっと誇るべきことだと思う。戦国大名などをいつまで誇りにしていていいんだろうか。僕はつい思ってしまうんだけど…。ついでに書いておくと、後北条氏(特に北条氏康)と毛利元就はもっと評価が高くなってもいいと思う。毛利元就など嫌な人物だと思うけど、のし上がる実力は戦国ベスト級だろう。
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映画「リンドグレーン」、凛として生きる

2020年01月03日 21時10分22秒 |  〃  (新作外国映画)
 岩波ホールで上映されている「リンドグレーン」は、スウェーデンの世界的な児童文学作家、アストリッド・リンドグレーン(1907~2002)の若き日を描く伝記映画である。こういう映画は事実通りなので、書けることが制限されるので感想に困ってしまう。映画で描かれる若き日の出来事は、ウィキペディアにも出ていないぐらいだから、案外知らない人も多いと思う。僕は前にリンドグレーンの伝記の書評を読んだことがあって、大体ストーリー展開を知っていたが簡単に紹介しておきたい。

 リンドグレーンと言えば、有名な作品が幾つも思い浮かぶ。「長くつしたのピッピ」「やかまし村の子どもたち」「名探偵カッレくん」「ちいさなロッタちゃん」「山賊のむすめローニャ」…。映画やアニメになってるものも多いし、小さな時に読んだ人も多いだろう。世界中の多くの人が知ってる名前である。しかしリンドグレーンは単なる作家に留まらず、児童虐待や動物虐待を鋭く告発する活動を最晩年まで続けたことでも知られている。そんな活動の背景にあった人生はどんなものだったか。
 (リンドグレーン、若き日と壮年)
 原題は「若きアストリッド」で、「リンドグレーン」じゃない。それも当然で、リンドグレーンは夫の姓で、映画はリンドグレーンを名乗る前しか描かれない。まあ日本じゃ通じないだろうからやむを得ない。アストリッドは農村地帯の農家の娘で、皆がキリスト教会に通っている保守的な風土。スウェーデン東南部のスモーランドという地方で、小さな町のヴィンメルビューに「アストリッド・リンドグレーンズ・ワールド」がある。時代は1920年代、第一次世界大戦後で世界的なジャズブーム。

 そんな中に、農村ながらちょっとお転婆な少女がいる。読み書きが好きで、認められて地方新聞でアルバイトの助手をすることになる。そして仕事も覚え、率直で自由な人生が始まろうとしている。そこで始まった「恋」の行方は? そこから驚くほど時代に先駆けて生き抜いたひとりの女性像がくっきりと浮かび上がる。ストーリーとしては、リンドグレーンの実人生を知らなくても、あまりにも予想通りの進行に驚くかもしれない。こんなに凜として生きた女性が1920年代にいたのか。

 スウェーデンと言えば、いろいろと先進的なイメージがするけれど、実は保守的で家父長制的な社会でもあった。それは多くのミステリー小説や映画などに描かれている。しかし、同時にその保守的な世界観と戦った人々が多くいて、社会が変わっていった。アストリッド・リンドグレーンは「女性の自立」の先駆者だったことがよく判る。アストリッドは自らがピッピちゃんだったのだ。そんな主人公を演じたのは、新星アルバ・アウグスト。この人はデンマークの映画監督ビレ・アウグストの娘だという。生き生きして素晴らしい。監督は女性のペアニレ・フィシャー・クリステンセン
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