東京国立近代美術館で開催中の「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」が非常に面白かった。(2月2日まで。)日本では欧米の有名画家や「○○美術館展」をいっぱいやっている。しかし「窓展」のようにテーマに沿って作品を集めるのは珍しい。特に「窓」という着眼が素晴らしい。昔から絵の中には多くの窓が描かれてきた。フェルメールの絵では大体窓近くに人物がいる。電気以前は窓からしか採光できないし、そこから背景の景色が見える。窓は建築としては「採光」と「通風」の目的があった。
チラシに使われているのは、マティス「待つ」(愛知県美術館蔵)という作品だが、僕はむしろ昨年に見たデュフィ展に出ていた「ニースの窓辺」(島根県立美術館蔵)を思い出した。どちらの絵でも、窓の向こうに見える海の風景が心に響く。しかし、今回の展覧会では、そのような有名画家の作品より、現代アートの作品やアニメなどが面白かった。もう「窓」は採光や通風、つまり向こうの風景が見える機能だけの存在ではないんだろう。
(マティス「待つ」とデュフィ「ニースの窓辺」)
大体、展覧会の最初に繰り返し上映されているのは、「キートンの蒸気船」の窓が倒れてくる映像である。家の前面が倒れてくると、ちょうど窓のところにバスター・キートンがいて無事である。有名なシーンだが、ここでは窓は「建物に空いた穴」である。それを強調するのが、リプチンスキーのアニメ作品「タンゴ」だ。ボールが入ってしまい少年が窓を乗り越えて部屋に取りに入る。そこから奇妙な人物が相次いで部屋を出入りする様は、何回見ても不思議で何度も見てしまった。リプチンスキーはポーランド出身の映像作家で、後で調べると「タンゴ」は1982年のアカデミー賞短編アニメ賞を受賞していた。
(「タンゴ」)
「窓」そのもの不思議を見せてくれるのは、ローマン・シグネール《よろい戸》(2012)という作品。窓の双方に扇風機があって、時々スイッチが切り替わる。「よろい戸」に風が当たると窓が開くが、扇風機が切り替わると今度は逆方向に窓が開く。「窓」は建物の穴ではあるが、穴は「世界」に通じている。「風」によって、どっち側にも開く様子は「窓」について様々なことを考えさせてくれる。風がどっちにも吹かなければ、この窓は閉まったままだ。しかし、今では部屋の中にある「テレビ」や「パソコン」を通じて世界を見ることが出来る。その意味では「スマホ」も「小さな窓」になるだろう。
(「よろい戸」)
ところでこの展覧会の途中に「関所」がある。それも作品で、アーティスト・ユニット、西京人の《第3章:ようこそ西京に―西京入国管理局》である。そこでは、『係員に「あること」をして見せないと先に進めません。ぜひチャレンジしてみてくださいね。』とホームページの案内に書かれている。「西京人」とは、小沢剛、チェン・シャオション、ギムホンソックの日中韓三国のアーティストによるユニットだという。「西京人」と名付けて作品を作っているという。
(「西京入国管理局)
このように「窓」は単なる穴ではなく、そこから「世界」を見る仕掛けでもあった。リプチンスキーだけでなく、有名な演出家タデウシュ・カントールの作品も展示されていて、ポーランドのアートが珍しい。そこから思いをめぐらすと、イエジー・スコリモフスキーの映画「アンナと過ごした4日間」やクシシュトフ・キェシロフスキの「愛に関する短い短いフィルム」を思い出す。前者では執着する女性の家に深夜に窓から忍び込む男が出てくる。後者では団地に住む男が窓から見ている女性に愛を募らせてゆく。
10月に中公文庫から刊行された堀江敏幸「戸惑う窓」は、「窓」をめぐる多様な見方を示してくれる。その本にも出てくるが、窓に関する映画と言えば、ヒッチコックの有名な「裏窓」を思い出す人も多いだろう。原題は「Rear Window」だが、じゃあどこかに「表窓」があるかと言えばそうではない。アメリカの高層住宅で、ドアがあるのが正面、窓が裏手にあるわけだ。日本の感覚では、南に向かって窓があるとそちらが正面、玄関が裏という感覚になる。古厩智之監督のデビュー作「この窓は君のもの」では隣家と接していて窓から板を渡して行き来できる。そんな両家の子ども同士の交際が描かれた。一方で今井正監督の1950年作品「また逢う日まで」では、戦争で引き離される岡田英次と久我美子の恋人たちがガラス窓越しにキスをする。切ない名シーンとして知られるが、窓は人を引き離すものでもあった。
(「裏窓」と「また逢う日まで」)
チラシに使われているのは、マティス「待つ」(愛知県美術館蔵)という作品だが、僕はむしろ昨年に見たデュフィ展に出ていた「ニースの窓辺」(島根県立美術館蔵)を思い出した。どちらの絵でも、窓の向こうに見える海の風景が心に響く。しかし、今回の展覧会では、そのような有名画家の作品より、現代アートの作品やアニメなどが面白かった。もう「窓」は採光や通風、つまり向こうの風景が見える機能だけの存在ではないんだろう。
(マティス「待つ」とデュフィ「ニースの窓辺」)
大体、展覧会の最初に繰り返し上映されているのは、「キートンの蒸気船」の窓が倒れてくる映像である。家の前面が倒れてくると、ちょうど窓のところにバスター・キートンがいて無事である。有名なシーンだが、ここでは窓は「建物に空いた穴」である。それを強調するのが、リプチンスキーのアニメ作品「タンゴ」だ。ボールが入ってしまい少年が窓を乗り越えて部屋に取りに入る。そこから奇妙な人物が相次いで部屋を出入りする様は、何回見ても不思議で何度も見てしまった。リプチンスキーはポーランド出身の映像作家で、後で調べると「タンゴ」は1982年のアカデミー賞短編アニメ賞を受賞していた。
(「タンゴ」)
「窓」そのもの不思議を見せてくれるのは、ローマン・シグネール《よろい戸》(2012)という作品。窓の双方に扇風機があって、時々スイッチが切り替わる。「よろい戸」に風が当たると窓が開くが、扇風機が切り替わると今度は逆方向に窓が開く。「窓」は建物の穴ではあるが、穴は「世界」に通じている。「風」によって、どっち側にも開く様子は「窓」について様々なことを考えさせてくれる。風がどっちにも吹かなければ、この窓は閉まったままだ。しかし、今では部屋の中にある「テレビ」や「パソコン」を通じて世界を見ることが出来る。その意味では「スマホ」も「小さな窓」になるだろう。
(「よろい戸」)
ところでこの展覧会の途中に「関所」がある。それも作品で、アーティスト・ユニット、西京人の《第3章:ようこそ西京に―西京入国管理局》である。そこでは、『係員に「あること」をして見せないと先に進めません。ぜひチャレンジしてみてくださいね。』とホームページの案内に書かれている。「西京人」とは、小沢剛、チェン・シャオション、ギムホンソックの日中韓三国のアーティストによるユニットだという。「西京人」と名付けて作品を作っているという。
(「西京入国管理局)
このように「窓」は単なる穴ではなく、そこから「世界」を見る仕掛けでもあった。リプチンスキーだけでなく、有名な演出家タデウシュ・カントールの作品も展示されていて、ポーランドのアートが珍しい。そこから思いをめぐらすと、イエジー・スコリモフスキーの映画「アンナと過ごした4日間」やクシシュトフ・キェシロフスキの「愛に関する短い短いフィルム」を思い出す。前者では執着する女性の家に深夜に窓から忍び込む男が出てくる。後者では団地に住む男が窓から見ている女性に愛を募らせてゆく。
10月に中公文庫から刊行された堀江敏幸「戸惑う窓」は、「窓」をめぐる多様な見方を示してくれる。その本にも出てくるが、窓に関する映画と言えば、ヒッチコックの有名な「裏窓」を思い出す人も多いだろう。原題は「Rear Window」だが、じゃあどこかに「表窓」があるかと言えばそうではない。アメリカの高層住宅で、ドアがあるのが正面、窓が裏手にあるわけだ。日本の感覚では、南に向かって窓があるとそちらが正面、玄関が裏という感覚になる。古厩智之監督のデビュー作「この窓は君のもの」では隣家と接していて窓から板を渡して行き来できる。そんな両家の子ども同士の交際が描かれた。一方で今井正監督の1950年作品「また逢う日まで」では、戦争で引き離される岡田英次と久我美子の恋人たちがガラス窓越しにキスをする。切ない名シーンとして知られるが、窓は人を引き離すものでもあった。
(「裏窓」と「また逢う日まで」)