コンラッドの「闇の奥」にインスパイアされた辻原登「闇の奥」(2010、文藝春秋、現在は文春文庫)という面白い本に、社会党所属の前和歌山県議会議員、村上三六という人物が登場する。村上の旧制中学の同級生に「三上隆」という人類学者がいて、戦時中にボルネオで行方不明になったという。三上が生きているという噂を信じて、村上らは捜索隊としてボルネオに乗り込む。そういう筋立てで進む話だけど、その村上三六という人物は「作者の父」であると作品中に書いてある。
一方、「父、断章」(2012、新潮社)には、父の名前が「村上六三」(ろくぞう)だと出ている。一体、どっちだ。「父、断章」でも父は和歌山県議会議員だったと出ているが、一回参議院選挙に出馬して敗れたと記述されている。これが事実なら、容易にインターネットで確認することができる。そうすると、父の名は「父、断章」の通り、村上六三だと確認できるのである。
ここでちょっと和歌山県の選挙事情に触れておきたい。参議院選挙は「選挙区」(以前は地方区)と「比例区」(以前は全国区)に分かれている。「選挙区」は1人区から5人区まであるけど、人口の少ない和歌山県はずっと「1人区」である。たった一人しか当選しないのだから、もちろんほとんどは自民党候補が当選する。しかし、時には自民党に逆風が吹いた時がある。例えば、1989年のリクルート・消費税選挙の時である。全国の1人区は、自民党の3勝23敗だった。また、2007年の第一次安倍内閣の時の参院選では、6勝23敗だった。(1人区の数が増えているので、合計数は合わない。)しかし、そんな逆風下にあっても、和歌山県では自民党が勝利するのである。自民党が負けたのはただ一回、1998年の金融恐慌後の選挙だけで、当選したのは自由党(当時)の鶴保庸介である。しかし、鶴保はやがて保守党を経て自民党に合流して、今も自民党参議院議員をしている。
そんな地方だから、社会党から1968年の参議院選挙に出た村上六三が勝てるはずがない。
前田佳都男 57 自由民主党 現 258,276票 57.0%
村上六三 51 日本社会党 新 155,315票 34.3%
岡野茂郎 43 日本共産党 新 39,695票 8.7%
というのがその時の選挙結果である。だが、この時の15万5千票という結果は、それまでに次点となった候補の最高得票である。そして、1989年の選挙で東山昭久が20万票を取る時まで、この社会党候補最高得票記録は破られていない。それを慰めとしていたと書いてあるが、確かにそれだけ取るだけの地盤と人気もあったのだろう。
ところで、「父、断章」によれば、村上六三は社会党の最左派だった。党内における彼のライバルは、社会党中間派(勝間田派)に所属し、和歌山2区から8回衆議院議員に当選した辻原弘市(つじはら・こういち)だったという。村上六三と辻原弘市は、和歌山師範の同期で、戦後県教組の活動で頭角を表わす。1952年の衆院選に、辻原は左派社会党(社会党は講和条約をめぐり左右に分裂していた)から出馬して29歳で当選している。一度落選するものの、1972年まで計8回当選した。(ちなみに、衆院選和歌山2区は3人区だったので、一人ぐらい社会党から当選したのである。)辻原は和教組の書記長から一挙に日教組の書記長に抜てきされ、続いて20代で国会議員になったのである。一方、和歌山で一番若い小学校長だった村上は、52年当時は和歌山県教組の専従の書記長だった。その後、勤評闘争を指揮し、県議会議員に当選する。同じ社会党ながら、思想的違いもあり村上は辻原に対し複雑な思いを抱いていたとある。確かにそうだろう。(ところで、20代で校長となり、管理職が組合に加入し、書記長にもなるということが当時はありえたのである。)
さて、村上六三の息、村上博(1945.12.15~)は作家デビューにあたり、ペンネームに父の最大のライバル、辻原弘市の姓を借りている。この皮肉というか、複雑な思いに何があるのか。「父、断章」を読んでも、判ったようで判らない。この「父と子」には非常に複雑な葛藤があっただろうと察するだけである。「突然、ある考えがわきおこった。父親には息子を殺す権利がある」とまで書かれているのである。ある日、家中のカギを締め閉じこもった息子は、帰ってきた父を締め出していしまうことになる。実際に父が怒って二階の子どもの部屋に包丁を持って乗り込んできたとあるのである。それは1970年11月25日であるという。この日付で判るだろうか。三島由紀夫事件の日である。
ところで、父との葛藤を別にして、もうしばらく、本名の村上では新人賞に応募できないだろうと思われる。1976年に「限りなく透明に近いブルー」で衝撃的デビューを飾った村上龍(1952.2.19~、本名龍之助)、1979年に「風の歌を聴け」でデビューした村上春樹(1949.1.12~、本名)の二人の重要な現代日本文学の旗手が存在する。1985年に最初の作品が「文学界」に掲載された村上博は、もう少し凝った本名まらまだしも、これではペンネームをつけざるを得ないだろう。こうして「辻原登」という複雑な思いを込められたペンネームが誕生する。しかし、僕には戦争終結後7年間という時間の間に、いずれも教師をしていた親から生まれたこの3人の作家には、共通するものが多いのではないかとも思うのである。だから、僕は「辻原登は、第三のムラカミなのだ」と思ってしまう。
この3人に共通するものは、「コミューン主義とその挫折」を受けて豊かな物語を紡いでいるということであると思う。村上龍が、「69」から「映画小説集」を経て「ブルー」に続き、やがて「希望の国のエクソダス」に至る道筋。村上春樹が「羊をめぐる冒険」から「ノルウェイの森」を経て、オウム真理教を深く取材し、「1Q84」へ至る道筋。それと同じように、辻原登が「村の名前」から「許されざる者」「寂しい丘で狩りをする」に至る道筋。それらは、われらの時代に「コミューン主義」がいかにして不可能であり、またいかにして「コミューン主義」ではない形の連帯が可能かの思想的冒険のように思うのである。
それを思う時、「父、断章」に若くして亡くなる父が参院選落選後に、ヤマギシ会で総務を務めたという記述があることが気になる。「1Q84」はヤマギシ会がモデルだという人がいるようだが、直接の関係は別にして、重大な示唆を与えているということはありうる。僕らの世代はヤマギシの特講には一度は行くのも良しと思われていたところがあり、実際僕も参加したことがある。「日本的共同体」のある種の典型、「サイフのいらない楽しい村」は、同時にある種の「収容所」でもあると僕には思われる。それでも「楽しい村」を夢想した意味はなくなったわけではない。「許されざる者」の森宮は一種のコミューンだが、大日本帝国の権力により崩壊する。この思想的意味の深さをいかにして受け継いでいくか。
「コミューン主義」と書くのは、コミュニズム=共産主義=レーニン主義という短絡的な理解をしないためである。ウィリアム・モリスのような美しい生活から構想する社会主義は、日本では柳宗悦らの民芸運動を通してむしろ保守の側の底流にあるのかもしれない。「許されざる者」に出てくる若林勉という人物は西村伊作を思わせるが、建築家であり、文化学院を作った西村のような試みこそが、近代日本で根付いた、ある種のコミューン主義運動だったのではないか。そんなこんなの思想史的な流れを辻原登から考えてしまうのである。
一方、「父、断章」(2012、新潮社)には、父の名前が「村上六三」(ろくぞう)だと出ている。一体、どっちだ。「父、断章」でも父は和歌山県議会議員だったと出ているが、一回参議院選挙に出馬して敗れたと記述されている。これが事実なら、容易にインターネットで確認することができる。そうすると、父の名は「父、断章」の通り、村上六三だと確認できるのである。
ここでちょっと和歌山県の選挙事情に触れておきたい。参議院選挙は「選挙区」(以前は地方区)と「比例区」(以前は全国区)に分かれている。「選挙区」は1人区から5人区まであるけど、人口の少ない和歌山県はずっと「1人区」である。たった一人しか当選しないのだから、もちろんほとんどは自民党候補が当選する。しかし、時には自民党に逆風が吹いた時がある。例えば、1989年のリクルート・消費税選挙の時である。全国の1人区は、自民党の3勝23敗だった。また、2007年の第一次安倍内閣の時の参院選では、6勝23敗だった。(1人区の数が増えているので、合計数は合わない。)しかし、そんな逆風下にあっても、和歌山県では自民党が勝利するのである。自民党が負けたのはただ一回、1998年の金融恐慌後の選挙だけで、当選したのは自由党(当時)の鶴保庸介である。しかし、鶴保はやがて保守党を経て自民党に合流して、今も自民党参議院議員をしている。
そんな地方だから、社会党から1968年の参議院選挙に出た村上六三が勝てるはずがない。
前田佳都男 57 自由民主党 現 258,276票 57.0%
村上六三 51 日本社会党 新 155,315票 34.3%
岡野茂郎 43 日本共産党 新 39,695票 8.7%
というのがその時の選挙結果である。だが、この時の15万5千票という結果は、それまでに次点となった候補の最高得票である。そして、1989年の選挙で東山昭久が20万票を取る時まで、この社会党候補最高得票記録は破られていない。それを慰めとしていたと書いてあるが、確かにそれだけ取るだけの地盤と人気もあったのだろう。
ところで、「父、断章」によれば、村上六三は社会党の最左派だった。党内における彼のライバルは、社会党中間派(勝間田派)に所属し、和歌山2区から8回衆議院議員に当選した辻原弘市(つじはら・こういち)だったという。村上六三と辻原弘市は、和歌山師範の同期で、戦後県教組の活動で頭角を表わす。1952年の衆院選に、辻原は左派社会党(社会党は講和条約をめぐり左右に分裂していた)から出馬して29歳で当選している。一度落選するものの、1972年まで計8回当選した。(ちなみに、衆院選和歌山2区は3人区だったので、一人ぐらい社会党から当選したのである。)辻原は和教組の書記長から一挙に日教組の書記長に抜てきされ、続いて20代で国会議員になったのである。一方、和歌山で一番若い小学校長だった村上は、52年当時は和歌山県教組の専従の書記長だった。その後、勤評闘争を指揮し、県議会議員に当選する。同じ社会党ながら、思想的違いもあり村上は辻原に対し複雑な思いを抱いていたとある。確かにそうだろう。(ところで、20代で校長となり、管理職が組合に加入し、書記長にもなるということが当時はありえたのである。)
さて、村上六三の息、村上博(1945.12.15~)は作家デビューにあたり、ペンネームに父の最大のライバル、辻原弘市の姓を借りている。この皮肉というか、複雑な思いに何があるのか。「父、断章」を読んでも、判ったようで判らない。この「父と子」には非常に複雑な葛藤があっただろうと察するだけである。「突然、ある考えがわきおこった。父親には息子を殺す権利がある」とまで書かれているのである。ある日、家中のカギを締め閉じこもった息子は、帰ってきた父を締め出していしまうことになる。実際に父が怒って二階の子どもの部屋に包丁を持って乗り込んできたとあるのである。それは1970年11月25日であるという。この日付で判るだろうか。三島由紀夫事件の日である。
ところで、父との葛藤を別にして、もうしばらく、本名の村上では新人賞に応募できないだろうと思われる。1976年に「限りなく透明に近いブルー」で衝撃的デビューを飾った村上龍(1952.2.19~、本名龍之助)、1979年に「風の歌を聴け」でデビューした村上春樹(1949.1.12~、本名)の二人の重要な現代日本文学の旗手が存在する。1985年に最初の作品が「文学界」に掲載された村上博は、もう少し凝った本名まらまだしも、これではペンネームをつけざるを得ないだろう。こうして「辻原登」という複雑な思いを込められたペンネームが誕生する。しかし、僕には戦争終結後7年間という時間の間に、いずれも教師をしていた親から生まれたこの3人の作家には、共通するものが多いのではないかとも思うのである。だから、僕は「辻原登は、第三のムラカミなのだ」と思ってしまう。
この3人に共通するものは、「コミューン主義とその挫折」を受けて豊かな物語を紡いでいるということであると思う。村上龍が、「69」から「映画小説集」を経て「ブルー」に続き、やがて「希望の国のエクソダス」に至る道筋。村上春樹が「羊をめぐる冒険」から「ノルウェイの森」を経て、オウム真理教を深く取材し、「1Q84」へ至る道筋。それと同じように、辻原登が「村の名前」から「許されざる者」「寂しい丘で狩りをする」に至る道筋。それらは、われらの時代に「コミューン主義」がいかにして不可能であり、またいかにして「コミューン主義」ではない形の連帯が可能かの思想的冒険のように思うのである。
それを思う時、「父、断章」に若くして亡くなる父が参院選落選後に、ヤマギシ会で総務を務めたという記述があることが気になる。「1Q84」はヤマギシ会がモデルだという人がいるようだが、直接の関係は別にして、重大な示唆を与えているということはありうる。僕らの世代はヤマギシの特講には一度は行くのも良しと思われていたところがあり、実際僕も参加したことがある。「日本的共同体」のある種の典型、「サイフのいらない楽しい村」は、同時にある種の「収容所」でもあると僕には思われる。それでも「楽しい村」を夢想した意味はなくなったわけではない。「許されざる者」の森宮は一種のコミューンだが、大日本帝国の権力により崩壊する。この思想的意味の深さをいかにして受け継いでいくか。
「コミューン主義」と書くのは、コミュニズム=共産主義=レーニン主義という短絡的な理解をしないためである。ウィリアム・モリスのような美しい生活から構想する社会主義は、日本では柳宗悦らの民芸運動を通してむしろ保守の側の底流にあるのかもしれない。「許されざる者」に出てくる若林勉という人物は西村伊作を思わせるが、建築家であり、文化学院を作った西村のような試みこそが、近代日本で根付いた、ある種のコミューン主義運動だったのではないか。そんなこんなの思想史的な流れを辻原登から考えてしまうのである。
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