台湾のツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督の引退作という「郊遊(ピクニック)」を見た。素晴らしい映像の中に驚くべき現代人の孤独が描かれている。ツァイ監督はまだ50代で、「引退」と言っても劇場向け長編映画から「ビデオアート」(今はビデオじゃないけど)のようなアート活動に移っていくということらしい。今までの「愛情萬歳」「河」「Hole」など有名映画祭で受賞しながらも、劇映画というよりも現代人の孤独を突き詰める「詩的表現」のような趣があった。今回の「郊遊」になると、もはやストーリイはほとんどなく、ひたすら孤独な人々を見つめることで時が過ぎていく。驚くべき長回しと印象的な映像で、映画ファンなら一度は見ていいと思うけど、まあ全然一般向けではない。
その後に、クリント・イーストウッド監督の「ジャージー・ボーイズ」を見た。やはり、こっちの方が一般的だ。イーストウッド監督作の中でも珍しいミュージカル映画で、軽快な面白さでは抜群の作品ではないか。その面白さの理由を少し考えてみたい。まず、この映画はアメリカで60年代に大ヒット曲を連発したフォー・シーズンズという4人組グループをモデルにしている。「シェリー」とか「君の瞳に恋している」とか、誰でも一度はどこかで耳にした曲だと思う。そのグループの歴史が「ジャージー・ボーイズ」というブロードウェイ・ミュージカルになり、大ヒット。トニー賞を受賞したというけど、日本での公演はなく僕は知らなかった。大体、フォー・シーズンズに関しても全然知らない。
面白さの理由の最大のものは、原作ミュージカルがよく出来ていて、50年代~60年代アメリカンポップスの底抜けに懐かしい陽気さに浸れることにあるだろう。でもそれだけなら、「マンマ・ミーア」のように曲を聞いてる分にはいいけど、話が面白くないことになる。黒人女性グループを題材にした「ドリーム・ガールズ」ならドラマはいっぱいあるだろうと予測できるが。(実際、ビヨンセが主演した「ドリーム・ガールズ」の方が僕は好きだし、面白いと思う。)一方、白人男性のフォー・シーズンズでは大してドラマもないだろうと思うと、実はイタリア系の貧困少年が音楽界でのし上がっていくのにどれほど苦労があったか。大体先輩たちは地元の不良でもあって、刑務所に出たり入ったりしていたのである。そして、才能と努力と運、ヒットすると仲間割れ、借金、家族の争い…その辺りは大衆映画の定番のように展開し、判っているけど飽きさせない。マフィアとのかかわりなど、イタリア系に不可欠の問題もきちんと出てくる。
だから、映画化に当たりイーストウッドは実際の舞台版に出ていた俳優を主に使っている。映画的には無名だけど、本番の歌唱場面をそのまま録音するという珍しい撮り方をしたと言うし、その選択は不可欠だっただろう。(メンバー4人のうち、一人だけ舞台と違う俳優になっている。)しかし、それだけでなく、映画版には映画ならではの工夫がある。それは「画面から観客に語りかける手法」である。ドラマが進行しているときに登場人物が語りかけてくるわけで、これはまた昔っぽい手法だけど、これが50年代、60年代には向いている。何だか懐かしいのである。主人公たちの心情に入り込む、「昔のハリウッド」みたいな感じがある。
クリント・イーストウッドは、何でこの映画の監督を引き受けたのだろうか。もう何でも撮れるのは判っているので、元気なら依頼はいっぱいあるだろう。実は音楽ファンで、音楽映画もある。でも一番の理由は、「自分の青春と重なる」からではないだろうか。映画内にちょっと昔のイーストウッドの姿がテレビに出てくる遊びがあるけど、フォー・シーズンズが上に向かって駆け上がっていく頃に、イーストウッドも「ローハイド」からマカロニ・ウェスタンで苦労しながらスターになっていった。イーストウッドは軍隊に行き、長く端役を務め決して恵まれた青春ではなかった。そういう思いがこもっているのではないか。まあ、そういうこともあるだろうけど、イーストウッドは「センチメンタル・アドベンチャー」とか「バード」とか、音楽映画に向いてるんじゃないか。好きで撮ってる感じが見ていてうれしい。
それにしても、「あのころ」のアメリカのヒット曲はどうしてあんなに軽快で陽気に恋をうたいあげ、今も懐かしいのだろうか。いちいち名前は挙げないけど、大好きな曲がいっぱいある。アメリカが「本気で世界の警察官だった時代」で、後のベトナム戦争の頃の「自分たちは間違ったのではないか」という内省はまだほとんどない。一部ですでにビートニク世代が登場していたわけだけど、大衆文化の主流はただひたすら能天気だったように思える。だから、当時それを聞いていれば、「なんといい気な」と反発していたのではないか。でも、時間が経ってみれば、その能天気さこそが懐かしく、人が皆持っていた「幼年期」のように思えるのかもしれない。その伝で言えば、日本の60年代、70年代の音楽シーンにも今ドラマ化すれば素晴らしく面白い話がいっぱいあるだろう。是非誰かどんどん挑戦して欲しいと思う。
その後に、クリント・イーストウッド監督の「ジャージー・ボーイズ」を見た。やはり、こっちの方が一般的だ。イーストウッド監督作の中でも珍しいミュージカル映画で、軽快な面白さでは抜群の作品ではないか。その面白さの理由を少し考えてみたい。まず、この映画はアメリカで60年代に大ヒット曲を連発したフォー・シーズンズという4人組グループをモデルにしている。「シェリー」とか「君の瞳に恋している」とか、誰でも一度はどこかで耳にした曲だと思う。そのグループの歴史が「ジャージー・ボーイズ」というブロードウェイ・ミュージカルになり、大ヒット。トニー賞を受賞したというけど、日本での公演はなく僕は知らなかった。大体、フォー・シーズンズに関しても全然知らない。
面白さの理由の最大のものは、原作ミュージカルがよく出来ていて、50年代~60年代アメリカンポップスの底抜けに懐かしい陽気さに浸れることにあるだろう。でもそれだけなら、「マンマ・ミーア」のように曲を聞いてる分にはいいけど、話が面白くないことになる。黒人女性グループを題材にした「ドリーム・ガールズ」ならドラマはいっぱいあるだろうと予測できるが。(実際、ビヨンセが主演した「ドリーム・ガールズ」の方が僕は好きだし、面白いと思う。)一方、白人男性のフォー・シーズンズでは大してドラマもないだろうと思うと、実はイタリア系の貧困少年が音楽界でのし上がっていくのにどれほど苦労があったか。大体先輩たちは地元の不良でもあって、刑務所に出たり入ったりしていたのである。そして、才能と努力と運、ヒットすると仲間割れ、借金、家族の争い…その辺りは大衆映画の定番のように展開し、判っているけど飽きさせない。マフィアとのかかわりなど、イタリア系に不可欠の問題もきちんと出てくる。
だから、映画化に当たりイーストウッドは実際の舞台版に出ていた俳優を主に使っている。映画的には無名だけど、本番の歌唱場面をそのまま録音するという珍しい撮り方をしたと言うし、その選択は不可欠だっただろう。(メンバー4人のうち、一人だけ舞台と違う俳優になっている。)しかし、それだけでなく、映画版には映画ならではの工夫がある。それは「画面から観客に語りかける手法」である。ドラマが進行しているときに登場人物が語りかけてくるわけで、これはまた昔っぽい手法だけど、これが50年代、60年代には向いている。何だか懐かしいのである。主人公たちの心情に入り込む、「昔のハリウッド」みたいな感じがある。
クリント・イーストウッドは、何でこの映画の監督を引き受けたのだろうか。もう何でも撮れるのは判っているので、元気なら依頼はいっぱいあるだろう。実は音楽ファンで、音楽映画もある。でも一番の理由は、「自分の青春と重なる」からではないだろうか。映画内にちょっと昔のイーストウッドの姿がテレビに出てくる遊びがあるけど、フォー・シーズンズが上に向かって駆け上がっていく頃に、イーストウッドも「ローハイド」からマカロニ・ウェスタンで苦労しながらスターになっていった。イーストウッドは軍隊に行き、長く端役を務め決して恵まれた青春ではなかった。そういう思いがこもっているのではないか。まあ、そういうこともあるだろうけど、イーストウッドは「センチメンタル・アドベンチャー」とか「バード」とか、音楽映画に向いてるんじゃないか。好きで撮ってる感じが見ていてうれしい。
それにしても、「あのころ」のアメリカのヒット曲はどうしてあんなに軽快で陽気に恋をうたいあげ、今も懐かしいのだろうか。いちいち名前は挙げないけど、大好きな曲がいっぱいある。アメリカが「本気で世界の警察官だった時代」で、後のベトナム戦争の頃の「自分たちは間違ったのではないか」という内省はまだほとんどない。一部ですでにビートニク世代が登場していたわけだけど、大衆文化の主流はただひたすら能天気だったように思える。だから、当時それを聞いていれば、「なんといい気な」と反発していたのではないか。でも、時間が経ってみれば、その能天気さこそが懐かしく、人が皆持っていた「幼年期」のように思えるのかもしれない。その伝で言えば、日本の60年代、70年代の音楽シーンにも今ドラマ化すれば素晴らしく面白い話がいっぱいあるだろう。是非誰かどんどん挑戦して欲しいと思う。
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