尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

寂しい丘で狩りをする-辻原登を読む③

2014年05月14日 00時29分33秒 | 本 (日本文学)
 辻原登「寂しい丘で狩りをする」(“Hunting on a lonely hill"、講談社、2014.3.28刊、英文題名は表紙にあるもの)は、辻原登最新の本だけど、またまたすごい作品である。傑作だし、例によって文章的にはどこにも引っかかるところがなく、非常にスリリングな本。だけど、スラスラ読めるかというと、多分多くの人は途中で怖くなると思う。いろいろ考えてしまったり、もう止めようかと思う。それでもストーリイ的にはページターナー(先が知りたくて止められない本)だから、恐々と読み進む。そんな本。
 
 主筋の合間にサブストーリイがあり、僕はそちらも非常に興味深かった。それは昔の日本映画の話になるわけだが、そのことは最後の方で書きたい。この小説は、非常にとんでもない犯罪者の物語で、いくら犯罪者と言えども、ここまで非道極まりない人間がいるのだろうかと思うぐらいである。これが実話に基づく物語だと知って読まなかったら、とても信じられないような話である。その実話を先に書いておけば、「逆恨み殺人事件」と言われた事件である。1997年4月に起きた。東京都江東区である40代の女性が殺されたのである。

 この事件が特異なのは、その犯人が1989年に同じ女性をレイプし、しかも、事件を黙っていて欲しかったらカネを出せと恐喝した過去があったことである。女性が警察に通報し、犯人は逮捕されたが、女性が通報したことを「約束を破った」と逆恨みして、懲役7年の刑期中も「出所したら報復する」と思い続けていた。これだけでも許しがたく、また信じがたい。しかも、この犯人は1976年に16歳の少女を殺していたという過去があったのである。そして、1997年に出所した後、女性の住所を突き止め、実際に殺人を行った。この犯人は東京地裁で無期懲役、東京高裁で死刑の判決を受け、2004年10月に最高裁で死刑が確定した。2008年2月、死刑が執行されている。執行時の年齢、65歳。

 世の中には許しがたい犯罪というのは山のように存在する。幼児の営利誘拐とか、無差別の通り魔殺人などは中でも非道の度合いが高いわけだけど、われわれが知った時にはすでに事件は終わっている。被害者にとっても、もう否応なく事件に組み込まれてしまうので、一般論(危なそうなところには行かないとか、子どもから目を離さないとか)は別として、防ぎようもない。そういう事件は今でもあるけど、最近は「ストーカー殺人」のような、防げた可能性があるのではないかという事件が多くなった気がする。それらの場合、犯人本人の主観においては、自分も被害者であるというか、「裏切られた」などと思い込んでいることが多い。実際に付き合っていた過去があったり、暴力をかわすため「今度ゆっくり話そう」などと言ったりすることもある。だから相手の方が約束違反なのだとあくまでも主張するのである。

 この事件、実際の事件も本の中の事件も、付き合っていた過去などない、単なるレイプ事件だから、普通の意味でのストーカー事件ではない。でも、この執拗さは異常で、それは何なのだろうと考え込まないわけにはいかない。犯人側の生活状況はじっくり描写されるが、内面描写は「冬の旅」と同じくほとんどないので、読んで判るということはない。というか、判るように叙述することは誰にもできないのかもしれないが。単なる「性欲」ではない。性欲は「フーゾク」で発散しているし、その相手にも暴力をふるう。「粗暴犯」には違いないんだけど、住所を突き止める手口などきちんと手順を踏んで進めることもできる。「支配欲」とでも言えばいいのか。別に名づける必要もないのかもしれないが、読んでる僕の「内なる近代人」が、これは一体なんなのだろうと考え込ませるのである。このような人間を理解できるか、またどのように対処するべきなのか。

 こういう人間は極めて例外的かというと、そうでもないと思う。確かに殺人まで行くのは稀かもしれないが、周りで起こった出来事を全部相手が悪いとみなして「理解可能」にしている人は、世の中にいっぱいいるのではないか。僕も今まで何人か、そういう生徒が絡んだトラブルを経験したことがあるけど、解決は非常に難しい。この種の人物は、「ある種の魅力」を持っていることも多く、「周りを巻き込むトラブル」に発展する場合も多い。この本には、「逆恨み殺人」とは別にもう一人のストーカーが登場する。こちらの人物などは、明らかにそう言う人物に造形されている。最近のヘイトスピーチなどをみても、どうも「自分は被害者」と思い込むタイプは増殖しているのではないか。世界的にそうなのかもしれない。

 では、どうするか。この本では、刑務所内で報復を公言していたという話が主人公に伝わり、主人公は女性探偵に監視を依頼するという筋立てになっている。その女性探偵にもストーカー的人物がいて、都合男女4人の「狩り」の物語となっている。「狩るものが狩られる」というのは、スパイ小説の定番で、スパイしている方が二重スパイや裏切りにより逆に追われる方になる…というのはよくある。この小説も誰が誰を監視してるんだか、ラスト近くの追いつ追われつは非常によく出来ていて、スリラーというか、犯罪小説としての出来も素晴らしい。だけど、「群像」に連載されたように、基本的には「純文学」の枠組みで書かれている。エンターテインメントとしても読めないことはないけど、犯罪がいくら出てきても、それは楽しめない。「人間とは何か」をそれぞれがじっくり考えてしまう物語なのである。怖いですよ。

 ところで、この本を読んでて、実に「嫌な思い」というか、逆恨みをする犯人に対して許しがたいという思いが沸騰してきて困ってしまった。というのも、追われる方の女性がある映像会社に勤めていて、そこが倒産した後に「国立近代美術館フィルムセンター」の職員募集に応じて、何十倍もの倍率を通って採用されたという設定になっているのである。フィルムセンターと言えば、この前「日本橋から京橋へ」の散歩で写真を載せておいた。高校生の頃から行っていて、最近もよく行く。でも小説の中で出てきた経験はない。さらに、この犯人は東京に戻った後で、池袋で偽名刺を作るという場面がある。その時の待ち時間に、なんと立教大学を散歩している。「蔦のからまるチャペル」に入って讃美歌を聞いている。ここで思わず、お前、ふざけんなと、まあ電車内だったから実際の声は出さなかったと思うけど、心の中で叫んでしまった。では、他の大学ならいいのかと言えば、まあその通りで、何もフィルムセンター職員をねらうだけでなく、僕の母校にまで出入りしなくてもいいではないかということである。僕の大事なところを二つも汚すな。まあ、小説に文句言っても仕方ないんだけど、珍しい経験である。

 ところで、この職員はやがて企画にも携わるようになり、川喜多長政、かしこ夫妻と東和映画を振り返る企画などを立てる。エピソードもよく出来ていて、相当昔の映画に詳しくないと書けない。さらにすごいのは、戦前に日中戦争で戦病死した「天才監督」山中貞雄の失われたフィルムが発見されたという「架空のエピソード」である。たった3本しか残されていない山中貞雄、そのデビュー作として有名な「磯の源太・抱寝の長脇差」(いそのげんた・だきねのながどす)のフィルムが発見されたというのである。そして、復元作業が開始される。相当に傷んでいて、20分程度しか復元できなかったという話になっている。この映画のエピソードが延々と語られるのだが、最後に至って本筋とリンクする。見事。この映画は、実際にどこかに不完全フィルムがあるとかないとか、話題になることがある映画である。出てきてもおかしくない。でも復元は難しい。どうして難しいかはここで詳しく描かれている。これは非常に珍しい、映画の復元小説でもあった。

 小説の結末の方は、これでいいのか悪いのか、いろんな議論ができると思うが、これから読む楽しみを味わう人のために書かないことにする。実話とは違っているので、是非最後まで読み通してください。展開が怖い人も、昔の映画に関心が持てない人も。本体1600円の価値は十分あるから、図書館で借りたり、文庫化や電子化まで待つのもいいけど、ハードカバーを買うのもおススメだと思う。
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