大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさすらいます。

日本人が本を買って読むようになったのはつい最近のことだ   映画の中の貸本屋

2017年03月28日 | 図書館

先日、神奈川の県立図書館を考える会の定例会が終わり、いつもの懇親会で林秀明さんと福富洋一郎さんと飲んだ。その時、福富さんが、以前ある自民党の幹部議員に図書館のことについて説明されたそうだ。すると彼は、

「本は買って読むものだ」と言われたそうだ。

だが、日本人が本を買って読むようになったのは、実はつい最近のことなのである。

そもそも、江戸時代に『源氏物語』や『古今集』が本として売られていただろうか。

古代から、紙が貴重で非常に高価だった当時、本は持っている方からお借りして全文を写すものだった。

中には大名のお姫様のように、絵入りの写本を嫁入り道具として持って婚家に行くという例のあったようだが、ごく一部の最上層の人々のことである。

『源氏物語』などは、性教育的な意味もあり、ごく上層の階級では娘の嫁入り道具としたこともあったようだ。

では、普通の都市の庶民はどのようにして文字に接し、本を読んでいたのだろうか。

貸本である。

1959年の川島雄三監督の日活映画『幕末太陽伝』に出てくる。品川遊郭の女郎左幸子のおそめと心中させられてしまう小沢昭一の金蔵は、貸本屋で、様々な本を背負って相模屋にやってくる。滝沢馬琴から柳亭種彦に至る江戸文学は、すべて貸本によって庶民にまで普及したのである。

さて、明治になり、近代化で西洋の製糸業と印刷術が入ってくるが、すぐに貸本が廃れたわけではない。それは、戦後もずっと残っていたことは、1955年の今井正監督の映画『ここに泉あり』にはっきりと出てくる。

高崎の市民オーケストラ(現在の群馬交響楽団)の小林桂樹が名演技を見せるのがマネージャーの井田亀夫である。その非常な貧乏所帯の中で、妻千石規子は、貸本屋をやっているらしく、玄関に「貸本」のお札が掛けてある。

内部は見えないが、たぶんこうした零細な貸本屋は、古本屋と兼業だったはずで、横浜でも磯子の浜マーケットには10年位前までは、貸本と古本の兼業の店があった。

これはみな経済の高度成長以前のことではないかといわれるかもしれないが、1964年の岡本喜八監督の『江分利満氏の優雅な生活』では、東京郊外の団地の住む江分利の息子は、貸本屋でマンガを借りて読んでいる。

さらに、1970年の増村保造監督の大傑作『やくざ絶唱』では、勝新太郎の妹の大谷直子は、文学少女で、学校では図書館から本を借り、先生の川津祐介にも本を借りに行って川津の部屋でセックスしてわざと処女を捨てる。そうすれば異常に執着する勝新も諦めるからだという。さらに、彼女は町の貸本屋でも小説を借りている。

このように、普通の日本人は本を貸本屋や図書館で借りて読んでいたのであり、本は買って読むものなどというのは、真っ赤なウソなのである。

その後、経済の高度成長からバブル経済の中で、多くの日本人も本を買って読むようになった。その結果、1950年代には全国で3,000軒と、現在のコンビニの数くらいにあった貸本屋は、さらに公立図書館の整備などで急速に減り、私が横浜市図書館の担当部長になった2002年ごろには、300軒くらいになっていた。当時、公立図書館、マンガ喫茶、新古書店が、本が売れない三悪、図書館は無料貸本屋だという愚論が蔓延っていた。林望、猪瀬直樹、楡周平らである。

そこで、私は雑誌『出版ニュース』の2002年11月に「貸与権を整備してレンタル・ブックを」を書き、貸与権を本や雑誌も適用させることで、貸本屋の復活を促し、本が売れるようにと提言したのである。

その通り、著作権法が改正されて本や雑誌にも貸与権が適用されて、作者にも利益が行き、利用者にも便益があるようになった。今、TSUTAYAでやっている「レンタル・コミック」はその成果なのである。

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やはり、政権交代が必要なのだ

2017年03月26日 | 図書館

今回の「森友学園の問題」で、野党、特に民進党議員が、財務省の高級官僚に質問しているのを見ていると、非常に虚しい気分になってくる。

「キャリアたちを嘘つきにしているのは、民主党政権の失敗なんだよ」と。

「森友学園の問題」の一番の、最初の問題である豊中の国有地の払い下げ問題での扱いは、地方とは言え、役所にいた者としては大変におかしいと思う。

だが、キャリア官僚たちを現政権べったりにしたのは、民主党政権の失敗なのである。

問題はいろいろあったが、一番ひどかったのは、昨日、今日議員になったような連中が、

「政治主導、官から政を・・・」を唱えたことである。

小沢一郎のような日本の政治システムのすべてを熟知しているような人間が、政治主導を言うのは良い。だが、国も地方もろくにご存じないような連中が、「官から政を」言うのは非常に滑稽だった。

要は、どのように官僚を使い、彼らの知識・経験を活用するかが重大だったのに、やったことはまさに正反対で、霞が関の反発を招いたのである。

その後の安倍晋三政権の誕生で、当分民主党政権はありえず、当面の2020年まで安倍自民党は続くに違いないと予想しているのだろう。

だから、安倍晋三政権にゴマをするのは、ある意味でキャリア官僚の性向としては当然であり、仕方がないと私は思う。人の一生は一回だけであり、世の中で出世し偉くなりたいと思っている人間が、権力へ近づこうと思うのも仕方ないことである。

参考人で虚偽と思われる証言をした元財務局長は、見事に国税庁長官にご出世されている。

彼は山口県出身だそうで、安倍首相のお力で、今後山口県知事か衆議院議員にして貰うのかもしれない。

こうした高級官僚の腐敗を防ぐには、政権交代しかないのである。

私は別に民進党政権への交代を主張しているわけではない。

公明党中心の連立政権でも良い。要は、適当な時期で政権交代が行われることなのである。

それが健全な民主主義国家というものである。

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「かくて神風は吹く」だったが

2017年03月25日 | 図書館

昨日、行われた森友学園の前籠池理事長の証人喚問は非常に興味深いものだった。

すぐに思い出したのは、「東京裁判」での元陸軍少将の田中隆吉の証言である。

東京裁判で、元陸軍の田中隆吉に対し、主任検事のジョセフ・キーナンは尋問を行い、田中は、東條英機元首相、武藤章元軍務局長らの戦争への責任を証言したのである。

田中自身も、上海事変の謀略へ関わったことも証言した。

キーナンによれば、これはFBI方式と言い、ギャングの中に協力者を得て真実を話させるものだった。

安倍晋三と自民党にとっては、喚問で籠池を黙らせようとした戦略は完全に狂ってしまったようだ。

籠池は言った、国有地について、定借から売却に変わり、土地代も安価になったなったとき、

「神風が吹いたな・・・」と発言した。

戦時中の大映作品に映画『かくて神風は吹く』があり、これは鎌倉時代の蒙古の元寇の時、北条氏から、日蓮に至る日本側が祈祷して祈った結果、台風が来て元軍は退治されてしまう話だ。

これは大映京都作品だったので、当時は特撮はできず、東宝の円谷英二が参加して指揮して製作したもので、大変によくできている。

さて、今回の籠池氏と安倍首相、松井大阪府知事、稲田朋美らとの関係を見ると非常に興味深く、その行動様式を考えると大変に象徴的である。

それは簡単に言えば、政治的日和見主義である。

自民党にしても、日本維新の会についても、日本の保守の政治的行動の基本は、日和見主義であり、つねに調子の良いところに就くということである。

だから、今回の籠池氏も教育勅語の暗唱や安倍晋三万歳を叫んでいた時は大応援していたが、いったんおかしくなると簡単に切り捨て、トカゲの尻尾切りをしてしまうのである。

安倍晋三としては、金はもらっていないのだから(籠池氏は金がなかったので出すどころではなかった)、贈収賄には当たらず問題ないとして、

「もし自分や夫人が国有財産払い下げに関わっていたら、首相どころか、議員も辞める」と大見えを切ってしまったのは大変な計算違いだった。

籠池氏は、大阪の変なおっさんだが、まさに「一寸の虫にも五分の魂」というべきであろう。

首相は偉い人だとしても、末端の人間の心をバカにしてはいけないよ、ということだ。

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『この国の空』

2017年03月23日 | 図書館

それは、荒井晴彦の意図だろうが、それも私は一面的にも思える。

というのも、左翼的立場だった関川秀雄監督の1953年の映画『ひろしま』でも、戦時中の総動員ぶりを挙国一致の民衆の姿として描いていたからである。

父はすでになく、19歳の主人公の二階堂ふみは、母・工藤ゆきと二人暮らしで、町内会事務局に勤めている。そこは当時区役所事務の代行をしていて、疎開地への転出、東京への転入などの事務を扱っている。

隣の家には、銀行員の長谷川博臣がいて、疎開した妻子とは別れ一人で住んでいる。

東京大空襲以後、戦況は次第にひどくなり、5月の横浜空襲の後、焼け出された姉の富田靖子がやってきて同居することになる。この姉と妹との食い物に関する争いが凄くて、時には喜劇的でもある。

戦時下で、どこにも何にも喜びのない二階堂は、次第に長谷川に惹かれていき、母も道徳的には否定しつつ、それが女の幸せと思い、仕方ないかなと思い始めていく。

そして、ついに二人は雨の夜にできてしまう。

その前日、二階堂と長谷川は、大森に買い出しに行った帰り、神社でキスしてしまう。

と、「あんたたちなにやっているの!」の怒声。

「神聖な神社でなんということを!」と言われて二人は離れるが、ここは笑った。

最後、戦争は終わるが、二階堂は呟く、

「戦争は終わったが、ここから私の戦争が始まった」

勿論、疎開していた長谷川の妻子が戻ってきたからである。

本当は、こここそ描いて欲しかったことで、戦後の成瀬巳喜男の作品は、『浮雲』を頂点に戦後の「女性の戦争」を描いている。

私が特に好きなのは、1952年の『稲妻』で、高峰秀子の目で、男にだらしない母の浦辺粂子の子供の三浦光子、村田知英子らを描いた作品で、特に三浦光子の駄目さが凄くて好きである。

「成瀬が描いた戦後の女性に比べれば」と言いたくなるが、現在の日本映画ではこの辺で仕方ないのだろうか。

評価できるのは、二階堂のパンツが下履きと言われた木綿のブカブカなものであることなど、時代考証がきちんとしていること。

田舎に疎開しようとするが、実娘に拒まれて結局東京にいることになる石橋蓮司がさすがに面白い。

日本映画専門チャンネル

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役作りの有無が劇の出来を決めた 劇団俳小アイルランド近代劇

2017年03月22日 | 図書館

日暮里のDー倉庫という場所で、劇団俳小のアイルランド近代劇の公演が行われた。

アイルランドの近代劇は、大正から昭和初期に日本で非常に人気のあったジャンルで、新劇はもとより新歌舞伎などでも多く上演された。戯曲集も出ていたが、戦後は人気が落ちたためかなくて、今回の劇の翻訳も大正時代の松村みね子のものである。

『谷のかげ』は、J・M・シングのもので、田舎の谷に住んでいる夫婦(勝山了介と吉田恭子)の家に、ある雨の降る夜、風来坊の男(斉藤真)が雨宿りを求めてくる。

近代以前には、どこの国にも、こうした風来坊はいたもので、アメリカのニューシネマではよく出てきたホーボーである。

日本でも民俗学者・宮本常一の著作によれば、「世間師」などと言われて全国を放浪して生きていた人が多くいたとのこと。

彼らは、一種のコミュニュケーター的な存在で、地方各地に様ざまな情報や物品を運んだのであり、村では非常に尊敬されたものなのである。

妻のノラは言う、今まさに夫が死んだところで、用があるからと家を出て行ってしまう。

すると、ベットに寝ていた夫が起きだす。ここは一種のブラック・ユーモアである。

いろいろあるが、かなりの年上で、ケチで性格の悪い夫に大人しく従っていた妻のノラは、風来坊と一緒に家を出て行ってしまう。

ここには、イプセンの『人形の家』のノラの名をもらっているように、女性の権利擁護、自立への志向があるだと見えた。

ベテラン俳優の斎藤と勝山は、それぞれ役になっていて、当然のことだが、劇的対立と展開が明確に見えた。

 

2本目は、グレゴリー夫人作の『満月』である。

満月の夜、港町に様ざまな男女が蝟集して起きる劇である。

日本では月は、古代から季節季節の夜を飾る風物だが、西欧では月は不吉なことの象徴である。そのため英語で月はルナだが、狂気の意味のルナテックは、ここから派生した形容詩である。

劇の柱になっているのは、町一番のインテリとされているハルビー(北郷良)だが、最後彼もただの俗物であることが明らかにされることである。

狂気の男女などが入り乱れるが、厳しく言えば、各若手俳優には、それぞれの戯曲に書かれた役に対する「役作り」がないので、群像劇の姿が見えて来ず、結果として何を言いたいのかが、きわめて不明確になっている。

現在の若手俳優は、「自分の個性」なるものを押し出す演技しかできないので、こうした役柄がきちんと書かれている劇では何もできなくなるのである。

こうした近代劇をやってみると、やはり劇が想定した個々の役へのアプローチがないと、劇が成立しないことがよくわかった。

会場のDー倉庫には、初めて行った。

日暮里駅から徒歩10分というのは仕方ないにしても、まず受付へと二階の階段に上がる。

その後、会場へは、また階段で2回も下に降りるという、「反バリアフリー施設」なのには大いに呆れた。

事実、高齢者のみならず若者も、会場内の急階段では何人も躓いていたのだから。

六本木の俳優座劇場が都内一の「最悪劇場」だが、これに次ぐ最悪劇場にちがいない。

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「晩節を汚す」そのもの 石原慎太郎の証言

2017年03月21日 | 図書館

まず、「脳梗塞で平仮名も忘れ、記憶も不十分だ」と言ったが、本当かねと思う。

同じ脳梗塞を患った者として病院で多くの患者を見て来たが、言語障害が残るのは、右麻痺であり、これは女性に多く、男性のほとんどは左マヒで、言語障害は普通起こらず、記憶障害も少ない。

私もそうだが、普通の男性は左麻痺であり、長嶋茂雄のように右麻痺で、言語障害が残るのは実は非常に珍しいのである。

石原慎太郎が、本当に彼が言うように右麻痺だったとすれば、彼も長嶋茂雄のように、やや乱暴に言えば「女性的」な人間であったことを証していることになるだろう。

やたらに武士だとか、戦場に行くとかなどの勇ましいことを言うのも、彼の本性が本当は違うことを示していると思う。

いずれにしても、石原慎太郎の現在の姿、また「記憶にない」とか「忘れた」とか連発する無責任ぶりは、まさに見苦しいことであり、「晩節を汚す」とは、このことである。

戦後、日本をリードしてきた石原慎太郎、そして裕次郎の石原神話は完全に崩壊したと言えるだろう。

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『億万長者』

2017年03月20日 | 図書館

相当に奇妙で誇張された内容になっていて、まず久我美子が、数寄屋橋で「平和のために原爆を持ちましょう」と演説している。久我は、狂人であることが途中でわかる。

主人公は税務署員の木村功で、貧しくて葬儀屋の二階に下宿しているところから物語は始まる。

税務署内部の不条理さが描かれるが、ここは脚本の中心だった安倍公房のセンスが感じられるが、カフカ的な感じである。

所長の加藤嘉は、腐敗していて政治家の伊藤雄之助等から金を受け取っている。料亭の女将の山田五十鈴も、いろいろと絡んでいる。山田には子供が13人いるとのことで驚いてしまう。

ぼろぼろの家に住む貧乏人の信欣三の一家には子供が23人いて、貧困から最後は一家心中になる。心中が、魚屋が廃棄した原爆マグロを食べて死んだというのだから凄い。

木村は、加藤らの悪事を書いたメモを持っていて、それを町で失くすが、拾われ公表されて大騒ぎになる。

彼は、「自分が書いた人間だ」と名乗り出て、国会の委員会の証人に出席し本当だと証言するが、途中で気を失ってしまい、結局狂人とのことにされてしまう。

最後は、本当は久我美子の爆弾が破裂して地球の滅びを暗示させるものだったらしい。

だが、公開時にいろいろと問題があり、それはカットされて何かよくわからない曖昧な結末になっている。

この作品の助監督には、当時青俳とも関係していた野村孝がいて彼は、市川崑が、この作品の後、日活と契約したので、野村も日活に入社する。

野村孝は、『さぶ』、『夜霧のブルース』、『拳銃は俺のパスポート』などを作り出すことになるのだ。

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『宇宙大怪獣ギララ』

2017年03月15日 | 図書館

1960年代後半になぜか松竹が作った怪獣映画で、監督は次の不思議映画の『昆虫大戦争』も作った二本松嘉端である。

富士山の麓に国際研究所があり、そこに濃縮ウランが運ばれて来て、そのエネルギーでロケットが宇宙に発射される。

搭乗員は、和崎俊也、園井啓介、柳沢真一の他、外人女性がいてペギー・ニール。

火星を目指していたらしいが、途中でUFOから物を発射される妨害があり、予定を変えて月の基地に着陸する。容易にできてしまうのが変だが、そう未来のことでもないらしい。また、ロケット推進が原子力と言うのがまことに凄い。原子力ロケットと言うのは北朝鮮でも開発していないと思うが、当時はすべて未来は原子力と信じられていたことがよくわかる。

基地には、和崎と恋仲の研究員原田糸子がいて、ペギー・ニールと三角関係的になるのが松竹らしい。妨害物を調べると何かの卵で、これを地球にもって帰り調べると、未確認の物質で、外人女の説明によれば、超高音の真空中で生まれた物質だという。そんなことがあるのかと思ってはいけない。まあ、百歩譲って生命が誕生した時には、深海など超高温、超圧力で生まれた微生物もあるのだから。

男の研究員など、外人も多数出てくるが、全員日本語を器用にしゃべるのは当時の日本映画の常識。

ともかく、この卵を富士の研究所に持ってくると急きょ孵化して、怪獣になる。

これがギララで、形は完全にニワトリ怪獣だが、なぜギララと言うのかはわからない。

小津映画の老人の北竜二が防衛軍の司令官でまじめに命令をしているのが非常におかしい。ギララは、エネルギーが大好物なので、関東を北上し、福島の発電所から原発も襲って体も増大させる。この辺は、3・11と原発事故を想起させるが、監督の二本松は、福島の二本松氏の末裔なのだそうで、お殿様と言うわけである。

そして、ペギーの説だと、ギラニウムなる卵の欠片から精製した新物質を当てれば対抗できるだろうとのことで、作るには超真空が良いとのことで、宇宙船で精製して地球に持ってくる。宇宙での精製と言うのは本当で、スペース・シャトルでもやっている実験の一つである。

最後、ギラニウムを搭載した自衛隊の戦闘機が富士山に来たギララにギラニウムを発射して退治できる。まるで、石鹸に包まれた巨大ニワトリだが。

研究所所長の岡田英次のいつもの冷静な台詞が、何事も起きていないようで非常におかしい。

チャンネルNECO

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『酔っぱらい天国』

2017年03月15日 | 図書館

1962年の渋谷実監督作品、主演は笠智衆で、小津安二郎映画でとはまったく違う姿を見せて非常に面白い。

1950年代から、渋谷は大変に評価が高く、常に問題作の発表を求められていたので、当時こうした軽い喜劇の評価は高くなかったが、今見ると大変に笑える。

笠智衆は、ある会社の経理課長だが、ソロバン信者で、専務の滝沢修がコンピュータ化を推進し、そこにいた女性職員は全員配転されて、課長と係長の二人にされてしまう。

笠は、一人息子の石浜朗と二人暮らしで、石浜は看護婦の倍賞千恵子と付き合っていて、笠が石浜の結婚を承諾しないので、「子ができたから」と噓をついてしまう。

笠は、普段は大人しいが酒が入ると人が変わり、トップ屋の三井弘治らと大酒を飲み、騒ぐ親父になる。三井の他、姪の岩崎加根子の時計屋の夫・伴淳三郎も大酒飲みで、要は酒飲み連中が醜態をさらす。笠は、三井と悪酔いして警察に保護され、その時の様子がテープレコーダーで再現されるが、警察の廊下での放尿など大いに笑わせてくれる。

銀座のキャバレーに笠と三井は出入りし、そこにはプロ野球の球団東京ファイターズの新進投手の津川雅彦も来ていて、女の有馬稲子をめぐって色悪の佐藤慶と争いになっている。

いろいろあるが、そこで津川が暴れて、たまたまいた石浜の頭をバットで打って負傷させる。

石浜は入院し、笠のところには、専務の滝沢からファイターズの監督山村聰を紹介され、同郷の知り合いだから、金で解決してくれと20万円を渡されて納得するしかない。

その金で三井と飲んだ翌日、朝帰りで家に戻ると「息子さんが危篤よ!」と言われ病院に駆けつけるが、すでに亡くなっている。

そこからも津川が倍賞をものにしてしまう件があり、倍賞の実家の田舎の農家に行き、津川が「俺はファイターズの片岡だ」というが、親父の上田吉二郎が

「お前なんか知らない!」と言われる一幕もあり、渋谷らしい皮肉さである。

津川と倍賞がベッドにいたことを目撃して激怒した笠は三井とも組んで、キャバレーで津川をナイフで襲うが、間違えて他の男を刺してしまい、再び二人は警察の保護へ。

日本ほど酔っ払いに寛容な国はなく、渋谷も酒は飲んだと思うが、その醜態は苦々しく思っていたようだ。

松竹には、小津安二郎、木下惠介という二大酒豪がいて、常に助監督たちに囲まれて飲んでいた。その点、渋谷はどちらかと言えば孤独癖で、仲間や弟子をあまり作らなかったようだ。集団性になじまないと監督と言った作家でも上手く生きられないという例だろう。

衛星劇場

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『人生劇場』

2017年03月09日 | 図書館

10本以上が作られているという『人生劇場』の最初の内田吐夢監督版。1936年の日活多摩川作品のサイレント版だが、全11巻の内4巻分のみ。さらに状態はかなりひどいが、マツダ映画社が努力して収集された結果なので、それに感謝するしかない。

主演は小杉勇で、瓢吉と父親の瓢太郎の両方を演じている。

吉良常は、山本礼三郎である。

私は、早稲田の連中が宴会になると、この『人生劇場』を歌うのが非常に嫌で、いつも「なぜこんなダサい歌を歌うのか」と思っていた。

辰巳屋という名家だったらしいが、日本の近代化の進行の中でで没落したのだろう、そうした没落する層の恨み節的な感情が、この小説のテーマであり、ベストセラーになった理由だと思う。

当時、キネマ旬報2位だったそうだが、それは全く分からない。全体の3分の1では仕方ない。

衛星劇場

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『かあちゃん』

2017年03月08日 | 図書館

前から気になっていたが、見て唖然としたひどい映画である。市川崑の映画では最低だろう。やはり彼は『細雪』が頂点で、その後は惰性だったのだろうか。

美術、撮影、照明等は素晴らしいが、中身が信じられないほどにひどい。

2001年という、小泉構造改革で浮かれていた時に、こんな貧乏話をやっても、リアリティがあるわけもない。

天明の頃、江戸の貧しい人間が住む長屋に、若者(原田龍二)が泥棒に入るが、おかみさん(岸恵子)の気づかいや子供たちとの交流の中で、まじめな人間に再生していくというもの。

バカじゃないか!

ただ一つ良いのは、夜の室内のシーンが非常に暗いこと。最近の時代劇では、夜の室内でも照明で煌々と役者が照らされているが、電気照明がない江戸時代に、そんなことはもちろんなかった。

こうした明るい照明は、NHKの「大河ドラマ」が始めたことだと思うが、まことに困ったことである。

衛星劇場

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『海峡を越えた野球少年』

2017年03月07日 | 図書館

1956年チームには張本勲もいたという。後のことだが、広島の金城、中日の中村、阪神の桧山なども出たことがあるそうだ。

一番驚いたのは、この韓国大会に大会に対抗して、1980年代には北朝鮮でも同じ試みがあり、それに出た在日選手もいたというのだ。

このドキュメンタリーで紹介されるのは、1982年大会に出た主に箕島高校の選手たちで、最初はみな「嘘か、詐欺だ」と思っていたとのこと。

大阪の焼き肉屋での再会から、最後ソウルの蚕室野球場での韓国プロ野球開幕試合での始球式になる。

要は、韓国プロ野球開幕のイベントだが、こうした過去の歴史の人物等を記念するイベントは素晴らしいと思う。韓国は、やはりアメリカ的な文化が残っているなと感じた。

アメリカのメジャー・リーグでもよく行われるが、日本のプロ野球で行われることは非常に少ない。私が見たのは、サンフランシスコ・ジャイアンツが日本人投手の村上を表彰した「マッシー・ムラカミ・デー」だが、こうした過去に活躍した選手を表彰するのは本当に良いことだと私は思う。

日本プロ野球も、すでに歴史的存在なのだから、そうした表彰や記念イベントを試合の前に必ずやるべきだと思える。

ぜひ、やってもらいたいと思う。

シネマ・ジャツク

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『冬の嵐』

2017年03月06日 | 図書館

冒頭でコインロッカーからカバンを出した女性が、車に戻ると後ろの席にいた男に首を絞められ、指を切られる。

そこから全く関係なく、ニューヨークの売れない女優のメアリー・ステインバージェンが女優のオーディションに出かけることの話に飛ぶ。夫は賛成しないが、メアリーは喜んで出ていき、なんと受かってしまう。その相手の男は、『時計仕掛けのオレンジ』等でいつも不気味な役の多いロディ・マクドーウエルであり、この男の細かい演技は凄い。

カナダ近くの非常に寒いエリアで大雪が吹いている中、大きな屋敷に連れて行かれる。

そこには、DR・ルイスという車椅子の精神病理学者がいて、彼のカメラで、演技が撮影される。屋敷は、博士と執事のロディのみで、電話も吹雪で通ぜず、この舞台は、ゴシック・ロマン、ミステリィーの通常の例の閉ざされた部屋での芝居になる。

監督は、アーサー・ペンで、彼は舞台の演出もしているので、3人の芝居は非常に良くできている。

一度、メアリーは恐怖から部屋から逃げ出すが、すぐに捕まり連れ戻されてしまい、そこで二人は真相を話す。

精神病理医だったルイスは、大金持ちの姉妹の妹の相談を受け、遺産を独り占めしようとした姉を脅迫して金を取ったが、殺し屋に殺されてしまった。殺し屋は、本当に殺した証拠に指を切ったというのだ。

そして、ある朝起きると、メアリーの左薬指も落とされている。何とかニューヨークに電話して夫に知らせ、警察も来るが、屋根裏部屋に妹の死体があるとメアリーは警官に言うが、行くとない。

すべてロディーがやっているのだ。夫と弟が車で探すが、証言が少なく、屋根のある橋、金魚をおまけに暮れるガソリンスタンドなどで、なかなか屋敷に来られない。

この辺は、マキノ正博のいう「ダレ場」であり、最後のクライマックスを盛り上げるための作為である。

最後については書かないが、アメリカ映画では主人公は死なないので、その通りになる。

いろいろと驚かせる仕掛けがあり、二度目だがやはりびっくりする。その意味では、ネタばれしても、面白い映画は面白いという証拠である。

イマジカBS

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鈴木清順死去、93歳

2017年03月04日 | 図書館

6年前に私は鈴木清順について次のように書いた。

監督の鈴木清順88歳が、結婚していたことが新聞、テレビ等で大きく報道された。別にどうということもない話だが、おかしいのは、映画『チゴイネルワイゼン』や『歌う狸御殿』の、と書かれていることだ。多分、書いた連中は、そのくらいしか見ていないのだろう。だが、私たちにとって、鈴木清順と言えば、まず『けんかえれじい』であり、『東京流れ者』、そして『野獣の青春』であった。

私が、1966年に早稲田大学映画研究会に入ったとき、誰からだかは忘れたが、すぐに言われたのは「鈴木清順は見ておけよ!」だった。勿論、すでに蒲田パレス座の3本立てで、1960年代初頭の鈴木作品を見ていたので、当時公開中の『東京流れ者』を見て満足したが、次の『殺しの烙印』には参った。はじめ見て、何のことかさっぱり分からなかったからだ。だが、どこか引かれて、当時はまだ沢山あった下番の映画館に行き、全部で9回見た。武蔵新田東映で、鶴田浩二のヤクザ映画と3本立てで見たりもした。この『殺しの烙印』は、筋は簡単だが、シークエンス間の飛躍と、画面のグラフィックな構成が激しい映画で、それに拘っているとわけがわからなくなってしまう。
要は、別角度から表現したのだ、と軽く考えればよいのだが。
「こんなわけの分からない映画を作る監督はいらない」として、日活の堀久作社長が鈴木をクビにしたのも、ある意味で批評としては当っていたわけだ。

昔、黒澤明が大映で映画『羅生門』を撮り、大映で試写が行われたとき、永田雅一社長は、
「高級だが、なんかわけの分からんシャシンやな」と言ったそうだ。
これは、永田の無智を証明するように引用される台詞だが、あの映画のテーマは、人間の、そしてこの世の分からなさを描いているので、永田の感想は大変正しかったのである。
この作品の人間の行動、思考の分からなさには、その直前に黒澤明も一員として活動した「東宝ストライキ」での、裏切り等が反映しているのではないか、というのが私の考え方だが。この分からない映画に対する、永田と堀の差は、根っからの活動屋・永田雅一と、株屋で政商似すぎず、映画にまったく無知だった堀久作との違いである。
鈴木清順には、新妻の内助の功を得て、さらにわけの分からない新作を作ってもらうことを願うものである。

鈴木清順は、今回なくなって非常に大きく報道されたようにマスコミの評価も大変高くなっていると思う。

これは大変に良いことである。大局的に見れば、やはり芸術作品の評価は妥当なところに落ち着くものだと言えるだろう。

彼の死を追悼して、『野獣の青春』を見たが、やはりすごい。カラーでは、『野獣の青春』が最高だと私は思う。

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『ラ・ラ・ランド』

2017年03月01日 | 図書館

横浜美術館で篠山紀信展を見たのち、横浜ブルグ13に行くと、『ラ・ラ・ランド』が初日で上映されている。

昔、J・P・サルトルの脚本で『賭けはなされた』という映画があった。

別々の理由で死んだ男女が死後知り合って愛しあう。

二人は生き方を変えてみるが、やはり元の死に行きつくという映画であり、私はテレビで見ただけだが、なかなか面白い作品だった。

マキノ正博と片岡千恵蔵、沢島忠と中村錦之助の映画にも、同様のものがあったと思う。

『ラ・ラ・ランド』のラストも、そうした趣向である。

ロスで女優を夢見てテキサスから来た女とジャズ・ピアニストの男が出会い、愛し合う。

男は、かのショーン・Kに、女は『アリー・my love』のキャリスター・フロックハートによく似ていて、見ていて非常におかしくなった。

男が、「ジャズが最高で、フュージョンやサンバは駄目」と言っているのが理解できないが、まあアメリカ人の思い込みなので、一応許そう。

ミュージカルなので、冒頭から大群舞があり、その感動は相当なものである。歌は本人が歌っているのかは不明だが、踊りは本人たちのものであり、さすがに凄い。

フランスの『ロッシュフォールの恋人たち』を思い出すだろうが、私には鈴木清順の『野獣の青春』のアクション・シーンの感動を思い出させた。

また、主人公が車で去るシーンで花びらが散るのは、やはり鈴木清順の映画『けんかえれじい』の高橋英樹と浅野順子が、夜桜の下を歩む華麗な場面を想起させた。

ショーン・Kは、ジャズクラブを作るのを、キャリスターは女優になるのを夢見ていて、互いに励まし努力するが・・・という筋書きで、ラストは『賭けはなされた』のようになってしまう。

そこは結構苦い味がある。

アカデミー賞を独占することはできなかったようだが、21世紀のハリウッドのミュージカル作品として歴史に残るものになるだろう。

横浜ブルグ13

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