大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさすらいます。

大相撲の巧みな演出

2017年01月18日 | 相撲

久しぶりに大相撲に行って、その巧みな舞台演出に大変感心した。

                

 

前に行ったのは、15年くらい前で、パシフィコ横浜の社長の高木文雄さんが席が取れるからと、升席で見たのだが、偉い方と一緒だったのであまりよく見ていなかったのである。

まず、力士の呼び出しがよくできている。まず、呼び出しが東西の力士の名を呼ぶ。両者が土俵に上がると行司が改めて今度は非常によくとおる声で場内に叫ぶ。

さらに場内アナウンスがスピーカーで言う。

河竹黙阿弥は、芝居のセリフで重要なことは3回言え、と書いているが、ここでもきちんと3回四股名を呼んでいるのだ。

さらに、東西に電光掲示板があり、今どこで、今までの勝負の結果はどうだったかが一目でわかるようになっている。

そして仕切り、次第に盛り上がり、緊張してくる対決。

テレビでは、そこに来るとNHKが見せなく、また聞こえなくしてしまう懸賞だが、これも客の注意を高める。

「ああこれは注目の取り組みなのだな」と思わせる。

以前も、折口信夫説を引いて、相撲の本質は演劇だと書いたが、その運営方法も実に演劇的であるなと改めて非常に感心した。

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結局、中小企業の親父 ドナルド・トランプ

2017年01月18日 | 政治

アメリカ次期大統領のドナルド・トランプについて、いろいろ言われているが結局は中小企業の親父だろう。

不動産王というが、ただの大地主である。

一番よく似ているのは、北朝鮮の金日成である。あるいは、私がある局にいたときに付き合ったことのある小企業の社長だった。

そこは市と民間企業で共同で管理しているビルで、社長は民間企業の社長だった。

その方の経理報告では、年間何本の蛍光灯が切れるのかよくご存じで、「今年は2本切れたが、去年1ダース買っておいたので、支出はなかった・・・」等なのであるのには、感心すると同時に呆れた。

社長がそんなことまで把握しているのかと。

                   

 

昔、ポーランドの記録映画で『金日成のパレード』があったが、ここでのキム首領様は、国中の事柄にすべて口を出すおっさんなのであった。

あるホテルの客室で、ベッドの向きがよくないとして方向を変えさせたりして、係員は「首領様のご指導で直しました」と歓喜しているのだ。

今度の大統領就任式での演説も、トランプはスピーチライターは使わず自分で書くそうで、まさに中小企業の親父のセンスであると思う。

 

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稀勢の里、白鳳、鶴竜の3人が敗れる

2017年01月18日 | 相撲

一昨日は、両国の国技館に大相撲を見に行った。

1時過ぎで、幕下上位だった。順調に取組は進み、十両、幕内になり、さらに後半になった。

稀勢の里は、同じ大関琴奨菊で、6敗の相手に楽勝と思えたが、一方的に簡単に負けてしまい、「やはり期待すると駄目だな」と思う。

だが、続く大横綱白鳳も高安に負けてしまう。やはり、どことなく痩せているように見えたが、気のせいだろうか。

                              

 

すると、打ち出しの一番の鶴竜も勢のまさに勢いに簡単に敗れてしまう。

一日で、2横綱、1大関が負けるのは、まずないことに違いない。

大変に特別な日に行ったことになった。

それにしても、館内は外国人が多く、特に欧米系の人が、団体で見に来ていた。

これは非常に良いことだと思う。

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神山繁の出演作品では

2017年01月17日 | 映画

俳優の神山繁が亡くなったそうだ、87歳。

数多くの作品に出ているが、初期のものはかなり不気味な役柄が多かった。

中でも、三島由紀夫主演、増村保造監督の『空っ風野郎』での、三島を射殺する殺し屋は、相当に不気味だった。

三島は、ヤクザから足を洗って若尾文子と平凡な生活を送ろうとした時、東京駅の大丸で神山にピストルで撃たれる。

エスカレーターをひっくりかえって登っていく姿は、三島の最後を予言している凄い作品である。

                     

名優のご冥福をお祈りする。

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台湾音楽が注目のようだ

2017年01月16日 | 音楽

台湾音楽が注目のようだ。

土曜日は、音楽評論家の関谷元子さんをお迎えして「アジアポピュラー音楽講座」を行なった。

これは5月にパシフィコ横浜でアジア開発銀行総会が開催されるのを記念して、横浜市の各局、各区では関連事業を行うが、南区の事業として横浜市国際交流協会をへて行うもの。

今回は、「東アジア篇」として、中国語圏音楽の第一人者の関谷元子さんをお願いして話を聴きながら映像を見たが、その前に1991年から横浜市で行われたウォーマッド横浜92の映像を見ながら私が話した。

故中村とうようさんのお話から、インドネシアの大衆的音楽ダンデットの王者ロマ・イラマの歌とグループの演奏、泥臭い大衆的な音楽が魅力的だった。続いてマレーシアのザイナル・アビディンの歌は、スマートで西欧的な響きもあった。

関谷さんからは、韓国の若手グループに始まり、中国、台湾、韓国の最初のレコーディグの曲をご紹介いただいたが、勿論SP時代の作品。

そこから50年飛んで、ジャッキー・チュンのライブ。私も、昔東京国際フーラムでレスリー・チャンのライブを見たことがあるが、中では5回も「お色直し」し、バックダンサーを従えて歌い、踊るものでお腹いっぱいのエンターテインメントだった。

こうした姿が、かつての日本をはじめ、アジアの芸能の本道なのであるが、日本ではニューミュージック以後は、歌手の日常生活を描写するものになってしまった。

昔は、美空ひばり、鶴田浩二、高田浩吉などは、マドロス、ヤクザ、サンドイッチマン等を演じ歌ったのである。要は、それだけの技能があったということであるが。

中国のクリス・リーの少年のようなライブ、台湾のJJ・リン、クラウド・ルー等も非常に良かった。

今、台湾のアーチストは大いに中国に進出しているそうで、それは中国なら一つの省で1億人近くいるのだから、大変魅力的なマーケットであり、さらには欧米にも多くの華人社会があるので、台湾のミュージシャンは世界に出ることができるのだそうだ。

政治的にはいろいろあるが、中国と台湾の民衆レベルでは大いに交流が進行しているとのこと。

それは、ある意味で「帝力、なんぞ我にあらんや」でもあるが、両国民のしたたかさを感じられた。

 

最後は、再び私に戻り、マレーシアの歌手、俳優、監督でもあった大スターの映画『ド・レ・ミ』から彼の歌と妻サローマの歌を聴くが、これがさローマはボサノバ、ラムリーはバイヨンと共にブラジル起源の音楽を使っているのが凄い。

そして、多分日本でアジアの歌として一番知られていると思われるインドネシアの『ブンガワン・ソロ』をワルジーナの歌唱で聴いた。歌のおばさん松田トシさんの歌で知られたこの曲は、新東宝で映画化されている。

昔見たが、市川崑の監督の割りに凡庸な作品と思ったが、彼の本を読むと会社とトラブルがあり、殆どを他の人が撮ったとのことだった。

今回の講座をやってあらためて思ったのは、アジアは一つではなく、多様であるということだった。

来週の21日には、サラーム海上(うながみ)さんをお迎えして、西アジア篇を行いますので、どうぞよろしくお願いします。私も司会を務めます。

 

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勝者の寛容 トランプに欠けているもの

2017年01月15日 | 政治

来週に発足するトランプ政権だが、記者会見等を見ているとこの人には上に立つ者の必要な資質が欠けていると思う。

それは、勝者の寛容ということである。

勝って上に立ったとしても、その者は敗者を傷つけてはいけず、鷹揚に許すべきだということだ。

様々な問題はあったが、太平洋戦争後のアメリカが日本で取った政策、姿勢もかなり寛容なもので、それ故に日本占領は成功したと思う。

                                                  

 

トランプは、そのキンキラキンの成金趣味はまったくの田舎者だが、一番欠けているのは、勝者は敗者を叩かないということである。

さらに、マスコミへの攻撃などは、およそ権力者の取るべき姿勢でないことは当然である。

日本の安倍晋三政権も、かなり近いところがあると見えるのは非常に残念なことである。

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『桜田門外の変』

2017年01月13日 | 映画

安政7年に大老井伊直弼(伊武雅人)が水戸浪士等に襲われて亡くなった事件を描く2010年の佐藤純弥監督作品。

佐藤はいつも期待を裏切られるので見ていなかったが、横浜駅西口のTSUTAYAにあったので借りて来た。

水戸藩の関鉄之助(大沢たかお)は、薩摩藩と結び、攘夷決行を約していたが、薩摩に裏切られ、さらに安政の大獄で自宅蟄居させられる。

密かに家を出て、江戸に行き、同志と結集して桜田門で、3月3日のひな祭りに登城した彦根藩の列を襲って井伊直弼の首を取ることに成功する。

だが、浪士側も死者が出たほか、残党も追われて捕縛される。

関は、指揮者の一人として襲撃そのものには加わらず、各地の攘夷派に好意を寄せる人を頼って逃亡するが、ついに捕まって斬首される。

佐藤純弥にしては、非常に淡々としたリアルな描き方で、作品の完成度が高いのは、やはり吉村昭の原作が良いせいだろう。

結局、権力者同士の無意味な争いに、常に下の者は犠牲とさせられるということがよく分かる作品である。

 

この事件は、幕府の権威を大きく失墜させ、明治維新へと向かわせた「義挙」として、明治以降は称賛されて、直弼は悪の巨魁とされて来たようだ。

だが、戦後は井伊直弼の政治的行為は、やむをえないもので歴史的な意義があり、彼は見直しされて舟橋聖一の小説になり、大河ドラマの第一作の『花の生涯』にもなった。

安政の大獄と言い、井伊直弼の業績の評価はなかなか難しいようだが、水戸藩を義挙とするような一方的なものではないようだ。

『新幹線大爆破』と並び、佐藤純弥の代表作になるだろうと思う。

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文化大革命とは何だったのか

2017年01月12日 | 政治

NHKBSでアメリカにいる文革経験者のインタビューが放送された。

文革は、正確にはプロレタリア文化大革命と言い、中国の人は「プロ文革」とよく言っていた。

横浜市国際室にいたとき、中国担当で横浜市の友好都市上海市との交流もやっていたので、その間に中国へは4回行き、また毎年代表団を受け入れていた。

食事の時など、中国の人が苦々しげに回想して話すのは、プロ文革中のことだった。

私が最初に中国に行ったのは1989年で、この時は市会議長の随行だった。この時代は、文革は終了していたが、まだ鄧小平時代ではなく、華国鋒時代で、町中には毛沢東の肖像と並び、スターリンの像もあった。

この時よく言われたのは、「4人組」の悪口だったが、その後中国に行くと聞かさるようになったのは、自分たちの文革中のことだった。

多分、1990年代のことだと思うが、上海に行き、翌年に行う事業の打ち合わせをした時、上海市の担当者の家に招待された。

そこは戦前の建物だがスペイン風の高級な家だった。要は、上海市の担当者の父親はもともと市の幹部で、元々は法学の教授だったとのことだった。

そして、文革時代はチベットに流されていたとのことだったが、その時は元に戻り、上海市の公安局長をしているとのことだった。

文化大革命が、1950年代末の大躍進政策の失敗で、実権を失った毛沢東の権力回復のための運動であったことは明らかになっている。

だが、問題はなぜ、あのような愚かな運動が実際におきてしまったかである。

                                                    

 

一番大きな原因は、毛沢東に対し、劉少奇、鄧小平ら実務派が、理論形成を怠っていて、「毛沢東理論」に対する有効な反撃理論を持っていなかったことである。

彼ら実務派は、論より証拠で、社会が良くなっていき、生活が改良されれば民衆は、実務派の正しさを理解すると思っていただろう。

だが、民衆は時として、パンよりも理論を求めることがあるものなのだ。

この紅衛兵による運動は、先日見た劇『るつぼ』に描かれた、近代以前の「魔女狩り」にも類似していたと思う。

それにしてもおかしなのは、毛沢東という中国の最高権力者が、「革命を起こす」という矛盾だった。

それは、日本の安倍晋三首相の「日本を取り戻す」のスローガンのおかしさとの同様のものだと思う。

なぜななら、戦後の日本の大部分の期間は自民党の政権下で、その結果が「日本を取り戻す」としたら、一体自民党の政権はなにをやってきたのかとなるからである。

 

 

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成人の日で

2017年01月10日 | 政治

昨日は、成人の日だった。

横浜市では、その式に市長、議長と共に選挙管理委員会委員長が祝辞を述べる。

                   

 

中で一番憶えているのは、もうとっくの昔に辞められているが、神奈川区から社会党で出ていた議員だった高地敏孝さんという方の挨拶だった。

彼は、「国労議員」で、確か学歴は鉄道講習所卒で、まったく高い経歴ではなかった。

だが、そのあいさつで高地さんは、

「これから皆さんが得られた選挙権は、先人たちの長い戦いの上に得られたものであり、そのこと充分に理解して有効に使ってほしい」と。

今朝の新聞を見ると、ある新成人へのインタビューで、

「選挙は面倒だから行かない」とあった。

この若者の頭の中はどうなっているのか見たくなった。

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BSを作らせたのは小沢一郎?

2017年01月10日 | テレビ

昨年末にCSのJCOMのチューナーの更新が必要とのことで担当者が来て、JCOMのチューナーを交換していった。

それはユーチューブも見られるようになり良いのだが、年明けにBSを見るとなぜか衛星劇場が見られなくなったので、再度JCOMに来てもらい調べてもらう。

その時、「CSとBSは同じケーブルで、NHK等のBSがきちんと見られるのに、CSの衛星劇場だけが見られないのは不思議ですね」と言われる。

故障は、JCOMのチューナーへのケーブルとは別に衛星劇場と契約し登録しているDVDプレーヤーへもケーブルを分岐して接続すると元のように映るようになった。

                                          

 

もともと、JCOMのスカパーとは別に、BSの衛星劇場と契約してしていたためなのだ。

その時、思い出した。CSとBSは本来同じもので、日本で急きょBSを開始させたのは、当時自民党幹事長だった小沢一郎の力だったと。

本当に、小沢一郎の力でBS放送は始まったのだろうか。

事情をご存知の方は教えてください。

 

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なぜひどいものまで、日本映画を見るのか、またなぜ作者たちのことを考えるのか

2017年01月08日 | 映画

昔から、具体的には大学時代の途中から、私はなるべく日本映画を見るようにしてきた。

その理由は簡単で、洋画の場合、いくら内容をはじめテーマなど、自分では良く理解できたと思っても、どこか完全には判っていないのではないかと思うことが多々あったからである。

その監督の、その国での全体的な評価、立場、作者としての系譜などは、十分に理解できるとは思えないからである。

日本の監督なら、どういう人で、今までどんなことをしてきて、どのような考えなのか、大抵は判り、その上で判断できる。

だから、日本映画でも、これはどうかなと思う物でも一応は見て自分で判断してみるというのが私の立場である。

だが、その結果ひどい物ばかり見ていると誤解されることもあるようだが、その理由はここにある。

対して、いわゆる洋画が、優れたものがあるのは当り前である。

なぜなら、洋画は輸入品だからである。箸にも棒にもかからぬもの、日本で受けないとされた作品はもともと輸入されないし、公開もされない。

だから、漫然と洋画を見ていれば、「洋画はなんて素晴らしいのだろう」ということになる。

だが、それは戦前の川喜多夫妻をはじめ、洋画輸入業者らによって、彼らの目によって選択された作品であり、我々の自分の目で選び取られた映画ではない。

川喜多夫妻の悪口を言うわけではないが、彼らは欧州から良質な映画を日本に紹介したが、ナチスドイツ時代には、ドイツとの合作映画『新しき土』を作り、主演の原節子をドイツに送ってナチスに迎合したことも事実である。

今日、『新しき土』を見ると、ほとんど「トンデモ映画」であり、新しき土とは、日本の傀儡政権満州国の農地のことで、その五族協和を謳う日本の国策推進映画であることは明瞭にわかる。

                                                     

さて、もう一つ、映画なんて見て面白ければそれでよく、監督や作者たちのことはどうでも良い、というご意見もある。

まあ、それも一理あるだろう。ただ、それは幼児がお菓子を食べて美味しいと言っているのと同じで、そこには何の判断も想像もない。

映画は、一応文化、芸術であり、大の大人が時には命を賭して製作しているものである。彼らの本心が何であり、どうしてそのような作品を作るに至ったかは、一応は考えてみるのが本当だと思う。

それが、作者たちへの尊敬だと私は思っているのである。

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『殿様ホテル』

2017年01月08日 | 映画

江東区では毎年江東シネマフェステバルをやっていて、今年は『殿様ホテル』が上映されるというので、門前仲町まで行く。

この映画の前の司葉子とのトークもあった小津安二郎の『小早川家の秋』は完売だったそうだが、こちらはほぼ満席程度で、会場に入ると下村健さんの解説が終わるところだった。

話は、元華族の河津清三郎が、自分の大邸宅を民衆のためと「家庭旅館」として、武士の商法で旅館業を始めるが、結局は・・・というもの。

                       

1948年に華族制度がなくなったので、この時期、『安城家の舞踏会』など、華族の崩壊の悲喜劇が多く作られている。

妻は、旅館の女将なんて嫌と出て行ってしまい、執事の藤原釜足、女中頭の吉川満子らでやることになり、なんとか開業するが、来る客は問題のある連中ばかりである。

原節子が、女スリとして出てくる特別出演、この映画を作った芸研プロは、彼女の義兄熊谷久虎の会社で、実兄の会田吉男が撮影、監督は倉田文人と日活系だが、飯田兆子、井川邦子、吉川など松竹系もいる。

スタッフの助手には、津田不二夫、飯村正など、後に東映に入る連中もいて、要は寄せ集めである。

旧華族のお殿様で、「働く人に旅館を提供したい」との河津だが、ヤクザ映画でいつも悪辣な役の多い河津なので、どこで悪くなるのと思ってしまうが、最後まで善人で終わる。

この映画は、東宝の争議の後、会社も組合側もが映画製作できない時にあり、その空きスタジオを使って作られた作品だという。

だが、本当の大邸宅も使っているようで、入り口の門、玄関、さらに廊下等は、どこかの旧華族の邸宅で撮影したように見える。

入り口の感じは、昔高輪にあった高松宮邸に似ているような気がしたが、どこだろうか。終了後、下村さんにお聞きしたが不明とのこと。

このフィルムは行方不明だったが、昔フィルムレンタルの会社で日東というのがあり、その倒産後関係するところで発見されたとのこと。

そうした経緯のフィルムにしては状態は非常に良かった。ただ、出来は大したことはなく、原節子が関係した芸研プロの作品ということしか意味はないようだ。

 

 

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『ある兵士の賭け』

2017年01月07日 | 映画

近所のTSUTAYAに行くと石原裕次郎のところに並んでいたので、借りてくるが、非常につまらない作品だった。

             

 

石原プロでまったく当たらなかった作品の一つと聞いていたが、これでは仕方ない。

ともかく、米軍の兵士が座間から別府まで行き、児童施設に寄付をするという賭けのために歩くのだが、結局この兵士がなぜ、児童養護施設白菊園を援助するのか、理由が分からない。

園長の新珠三千代に惚れたのかと思えば、そうでもない。

半ば遊び半分に一緒に着いて行く若者は、フランク・シナトラ・JRで、さすがに親父によく似ているが、さしてスターにはなれずに亡くなったようだ。

まあ、二人ともご苦労さんというしかない。

当初、日本側の監督として千野晧司が辞めたのも無理はないと思う。

実話だというが、大分の新聞社の三船敏郎が言うように、「2週間で1300キロを歩くのは大変だ、俺は戦争で40キロ行軍をしたが大変で疲労困憊した」という。

本当に、一日100キロ歩くのは大変だと思うが、本当なのだろうか。

ほんとにほんとにご苦労さん!

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兄・黒澤丙午の影武者だったと自分を思いこんだのだろうか

2017年01月06日 | 映画

                  

 

黒澤明は、黒澤勇の4男4女の8人兄弟の末っ子として1910年に生まれた。この兄姉の中で、その経歴等が知られているのは、4歳上の兄丙午と5歳上の姉の百代である。

この丙午は、非常に優秀だったらしいが、東京府立1中(日比谷高校)を受けるがなぜか合格せず、成城中学に行く。

今のお坊ちゃん、お嬢さん学校の成城学園ではない、当時成城中は、陸軍士官学校への予備校だった。

良く知られているように黒澤勇氏は、秋田出身で陸軍戸山学校、今でいえば自衛隊体育学校の教官で、黒澤明が生まれたころは、日本体育会の理事を務めていたので、東大井の日本体育会の傘下の学校の日本体操学校の官舎で生まれたのである。

日本体操学校は、今の日本体育大学だが、この学校を創立したのは日高藤吉郎という人物で、陸軍時代の黒澤勇の上司だった。

この日高藤吉郎という人は、名前からして十分に笑えるが、現在で言えば「軍事オタク」で、茨城から出てきて年齢をごまかして16歳で陸軍に入り、西南戦争に行ったという凄い人物なのである。

多分、西南戦争の経験で日高氏は、農民の体が脆弱であることを痛感したに違いない。西南戦争は政府軍の武器の優秀さで西郷軍を破ることはできたが、日々肉体を鍛錬し、食べ物も大きな差のあった農民の政府軍兵士の肉体の強化のための事業を起こすことになる。

彼は、様々な手段を駆使して資金を集め、体育思想の普及と実践のため、日本体育会と日本体操学校を設立し、黒澤勇氏も日高氏に従って日本体育会の理事になったのである。

だから、当時黒澤家はかなり裕福で、兄丙午、姉百代、そして小学校低学年までは黒澤明も、上流の子弟が通学していた森村学園に入っていた。

だが、大正3年に東京上野で開催された「大正博覧会」に日本体育会も出展し、パビリオンを作ってイベントを行うが、博覧会そのもの不人気もあって、日本体育会の出展は赤字で不渡り手形を出したことで、黒澤勇氏は警視庁刑事の取り調べを受ける。

だが、これは非常に不思議な事件で、結局「私的流用はなかった」とのことで、不起訴になる。この時さらに不思議なのは、日本体育会の名誉総裁だった閑院の宮家の執事も警視庁の取り調べを受けていたことである。いくら総裁とはいえ形だけのはずの宮家の執事が警察の捜査を受けるものだろうか。

私には、この事件は宮家の経理的問題の処理を体育会が背負わされたのではないかと考えている。黒澤プロができての最初の作品の『悪い奴ほどよく眠る』は、社会的意識がまったくない黒澤が、汚職事件で上司の罪を着せられ、濡れ衣で死んだ父親の悲劇がドラマの起点だからである。

そして、大正6年に黒澤勇は、日本体育会の理事を首になってしまい、富裕な黒澤家は一転して一文無しになってしまったのである。

さて、成城中に行った黒澤丙午は、もともと文学青年だったが、次第に映画が大好きにになり、雑誌『キネマ旬報』の投稿するほか、映画館のパンフレットを書くようにまでなり、活動弁士を目指すようになる。

成城中に入り、当然にも陸軍士官学校への進学を望む父の勇氏と丙午は、強く対立する。だが、急に貧困になった黒澤家にあって活動弁士の高給は魅力だったろう。

当時、小石川から恵比寿に黒澤家は移転していたが、近所にいた山野一郎の紹介で、黒澤丙午は須田貞明を芸名の活動弁士になり、洋画の若手弁士として人気を得るようになる。

だが、映画はサイレントからトーキーになり、その松竹系の映画館のストライキにあって、黒澤丙午はストの委員長にまでなり、会社と組合との板挟みになったりする。

そして、27歳の時、愛人の子が死んだ時、その愛人と心中してしまう。当時、神楽坂の兄の家に居候していて、特に定職を持たず、デザイン等のフリーター的な状態だった黒澤明は、真剣に仕事を考えざるを得なくなる。

そして、PCLの助監督試験に合格して映画界に入る。この時期まで、黒澤明、そして黒澤家が大変に貧困であったことは山本嘉次郎が書いている。

「助監督試験の時の黒澤の衣服がボロボロでひどかった」というのだ。

黒澤明は、京華中学を出て、東京美術学校(東京芸大)を受けたが合格せず、プロレタリア美術研究所に行く。これも黒澤家の貧窮を示すものだろう。なぜなら、当時すでに私立の美術学校もあったからである。

このように家の貧窮は、黒澤明に世の中への不満と怒りを生んだはずで、彼はプロレタリア美術連盟の一員となり、左翼運動の末端的活動をするまでになる。

彼の映画の根底には金持ちへの反感と不信があるが、それはこの時期の体験から来ているものだと思われる。

徳川夢声は、もともと活弁だったので、須田貞明をよく知っていて、PCLで黒澤明に会った時、「本当によく似ているな」と言ったそうである。ただし「君は陽性で、兄は陰性だった」と付け加えたそうだが。

さて、黒澤明は、PCL,そして東宝で大監督になっていくが、1965年の『赤ひげ』の製作の問題、結局1年間かかり、その間主演の三船敏郎と加山雄三は1年間他の作品に出られなくなるなど天皇の我儘はひどくなっていた。

そして東宝とは切れることになり、黒澤も『七人の侍』や『用心棒』が外国でリメイクされたことから、自分の作品が世界に通用すると過信し、海外進出を目指す。

だが、最後は『暴走機関車』も『トラ・トラ・トラ』も自分自身では完成できないものに終わる。

 こうして、1965年から1980年まで、『どですかでん』や『デルス・ウザーラ』はあったものの、黒澤明は、不遇な15年間を過ごすことになる。

この時、黒澤明は、自分は兄丙午の後を追い掛けて、本物になろうとして来たが、結局兄のようにはなれず(自殺は同じだったが)、そうした本物になりたい「影武者」的な人間の悲哀を感じていたのだろうか。

そうでも考えないと、映画『影武者』の前半の、小泥坊が武田信玄の影武者になる悲哀というような、一体どこがおもしろいのか不思議な主題を選ぶ理由がないからである。

 

 

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黒澤明は、なぜ「影武者」を作ったのだろうか

2017年01月05日 | 映画

図書館カード更新の必要があったので、横浜市中央図書館に行き、ついでなので、去年死んだ根津甚八が出ている、『影武者』を見る。

4年前に『黒澤明の十字架』を書くときに、何度も見ているが、久しぶりに見ると非常につまらない。

言うまでもなく、勝新太郎への当て書きの脚本なので、「ここは勝新ならば面白いが、仲代では面白くないなあ」と思うシーンばかり。

要は、愛嬌の差であり、これはいかんともしがたい。

小物の泥棒の武田信玄の影武者が、前半は本物になるように努力する筋なので、少しも面白くないのだ。

そして後半の徳川家康や織田信長との合戦になると流石に本物の馬が疾走するので、多少面白くなる。

だが、影武者は愛馬から落ちて、上杉に切られたはずの背中の傷がないことが側室らに見つかり、偽物と武田勢を追われてしまい、その姿には悲しみしかない。

そして、武田騎馬隊は、織田・徳川連合軍の鉄砲隊に全滅する。そこに自らの死を覚悟して影武者は戦場にわざわざ出て行き、銃殺されてしまい、その体は河を流れる。

一体、この作品の意味は何で、なぜ黒澤は、影武者のことを主題にしたのだろうか。

黒澤明は、誰の影武者だったのだろうか。

答えは至極簡単である。27歳で愛人と心中してしまった黒澤明の兄で、優秀な若手の活動弁士だった須田貞明こと黒澤丙午しかいないだろうと思えた。

                   

 

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